Essay エッセイ
2010年01月23日

オランダさん

長崎でこんな歌を耳にしました。

あっかとばい
 かなきんばい
 オランダさんからもろたとばい

なんだか不思議な音の羅列ですが、現代の標準語にすると、こんな歌詞でしょうか。

赤いのよ
 カナキンよ
 オランダさんからもらったのよ

それでも、まだ秘密めいた歌詞ではありますが、ここに出てくる「カナキン」というのは「金巾」とも書き、目を堅く細かく、薄地に織った綿布のことだそうです。
 もともとはポルトガル語の canequim からきているそうなので、きっとポルトガルから日本に伝来したものなのでしょう。綿ではあるけれども、目がとても細かいので、薄地で丈夫な生地。つまり、袖口のような、すり切れやすい場所に重宝するスグレものというわけです。

だから、そのカナキンの真っ赤なやつをオランダ人からもらったのよ、という一種の自慢話が歌になっているのです。

この歌は単純な節回しなので、どうも子供の手まり歌だったようなのですが、果たしてこれに続きがあるのかどうかはよくわかりません。

なんとなく中途半端な内容なので、このあとカナキンをどうしたとか、このオランダ人から別の物をもらったとか、続きがあってもよさそうなのにという印象はありますよね。


それで、どうして「オランダさん」からもらったのが自慢になるのかというと、その昔、オランダさんと日本人は軽々しく接触できるような間柄ではなかったからなのです。

ご存じのとおり、日本には長い鎖国の時代がありまして、その頃、唯一外国人と接触できたのは、長崎の出島(でじま)という所でした。外国人を住まわせるために築いた、小さな人工の島です。

時は、江戸時代。幕府はキリスト教の布教を禁止するために、それまで交易のあったポルトガル人たちをこの出島に押し込めました。彼らがカトリックだったためです。(写真は、幕末の1886年に撮影された長崎港。右半分の海に突き出た部分が出島です。オリジナル写真は長崎大学付属図書館蔵)

そんな出島での暮らしも束の間、続く「鎖国令」(1639年、寛永16年)のおかげで、ポルトガル人は出島からも追い出され、日本へは出入り禁止となってしまいました。

それから2年間、出島は無人島となっていたのですが、長崎県北部の平戸にあったオランダ商館を出島に移転することになって、ここにはオランダ人が住むようになるのです。まあ、オランダ人は布教のためではなく、商売のために日本に来るからいいでしょう、という理由だったのでしょう。

その後、1859年(安政6年)、長崎、横浜、函館を開港して、オランダ商館の制度が廃止されるまでの約220年、出島は、日本で唯一の「外国に開かれた窓」となるのです。

けれども、外国への窓とはいっても、長崎の町人にとっては、オランダ人と身近にお話するような機会もありませんでした。なぜなら、オランダ人が押し込められていた出島に出入りできるのは、通事(通訳)や役人、それから遊女などに限られていたから。人の出入りは、それは厳しくチェックされていたようです。

そんなわけで、オランダ人が貿易船で日本に運んで来たであろう「カナキン」を何かのきっかけでいただいたというのは、庶民にとっては、とても誉れ高い出来事だったのでしょう。だから、それを歌にして残そうと思った。

この歌が江戸時代の作かどうかはわかりませんが、江戸期に作られたものではなくとも、何かしらの伝承が残っていて、それが歌になったことでしょう。

それにしても、最初にカナキンを日本に伝えたポルトガル人が出入り禁止になって、それをオランダさんが受け継いで貿易船で運んで来たというのは、何となく皮肉っぽいことではありますよね。

う~ん、オランダさんは、なかなかの商売上手だったのでしょうか。だって、自分たちだってキリスト教徒には変わりはないでしょうに。


このカナキンの歌は、生粋の長崎の人が子供の頃に歌っていたものです。

この方は、銅座(どうざ)という所に生まれ育ち、街の生きた歴史を熟知する方でした。
銅座とは変な名前ですが、江戸時代の中頃から、銅の精錬と専売をしていた役所のことだそうです。大阪にもあったそうですが、長崎の銅座では、オランダさんとの貿易に使う銅ののべ棒(棹銅)をつくっておりました。

そんな風にオランダさんと縁の深い銅座で育ったこの方は、正調・長崎弁を駆使しながら、いろんな思い出話をなさっていたそうです。

わたしが子供の頃には、住んでいた銅座の辺りから外国人居留地の南山手に遊びに行っては、地面に落ちている赤い椿の花を拾って、糸につなげて首飾りにしていたのよと、かわいらしいお話も漏れ聞いております。

きっとカナキンの歌も、そんな子供時代に好んで歌っていたものなのでしょう。

今はもう思い出話を伺うこともできませんが、もうひとつ興味深いお話も残っているのです。

それは、この方が生まれ育った銅座の辺りには、「おイネさん」がとり上げた人がたくさん住んでいたと。


「えっ、おイネさんって誰?」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、おイネさんとは、日本で初めての西洋医学の女医さんなのです。
 とくに産科の修行を長く積み、東京・築地で開業していたときには、宮内庁に依頼されて皇族の誕生を担当したこともあるような「すご腕」の女医さんだったそうです。

このおイネさんは、長崎の生まれ。1827年に母親の実家のある銅座で生まれたとも、オランダさんのいる出島で生まれたともいわれています。つまり、出島で生まれたのかも? といわれるほどに、出島とは深いつながりがあった。

なぜなら、おイネさんのお父さんは、オランダ商館のお医者さんであるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトだったから。

ドイツ人のシーボルトは、オランダ領東インド陸軍外科少佐として長崎にやって来たのですが、長崎に「鳴滝塾(なるたきじゅく)」という私塾を開いて、近代西洋医学や自然科学を日本の若者に伝えた重要人物なのです。
 そればかりではなく、日本の生態系や暮らしぶりを広くヨーロッパに紹介した文化の功労者でもあります。
 一言でいえば、幕末の動乱期、日本が深くお世話になった人ともいえるでしょうか。(写真は、鳴滝塾のあった国史跡「シーボルト宅跡」。昔と変わらぬ竹林に囲まれています。茶色のレンガ造りの建物はシーボルト記念館)

一方、おイネさんのお母さんは、楠本瀧(くすもと・たき)さん。なんでも、お瀧さんは「今小町」と評判の美人だったそうで、彼女に出会った若きシーボルトは、一目でコロッと心を奪われてしまったようです。そして、ふたりが出会って4年後には、愛娘のおイネさんが生まれました。

けれども、悲しいかな、「シーボルト事件」でスパイの嫌疑をかけられたシーボルトは、間もなく国外追放となってしまうのです。まだ3歳にもならないおイネさんは、それから30年、お父さんに会うこともかなわず、お瀧さんに育てられ大きくなります。

勝ち気でおてんばなおイネさんは、お稽古ごとなんかには目もくれず、父親と同じ医学の道を選びます。そして、伊予の国(今の愛媛県)でシーボルトの愛弟子・二宮敬作に指南したのちに、一人前の産科の開業医となるのです。

そんなおイネさんは、晩年に長崎に戻って、銅座で産婆さんをしていたこともあり、この辺りで生まれた方々の中には、おイネさんにとり上げられた方もたくさんいらっしゃったということなのです。

それは1885年(明治17年)頃のようなので、今はもう、どなたも存命ではないのでしょう。
 おイネさんが亡くなったのは1903年(明治36年)のことなので、それから数えても、もう百年以上も昔のお話ですものね。

けれども、何はともあれ、有名人のおイネさんにとり上げられたというのは、「オランダさんからカナキンをもらった」のと同じように、自慢すべきことだったのでしょう。ですから、銅座の界隈には言い伝えが残っていた。自分はおイネさんには並々ならぬ縁があるのだと。


さて、冒頭のカナキンの歌は、何やら解説が必要だったわけですが、これだけではなくて、長崎には不思議な歌がたくさん残されているようです。

こちらも、そんな不思議な歌のひとつです。

でんでらりゅうば 出て来るばってん
 でんでられんけん 出ーて来んけん
 こんこられんけん 来られられんけん
 こーんこん

なんだか早口言葉みたいな複雑な音ではありますが、こちらはごく単純な内容となっています。

「もし(家を)出られるならば、出て来るけれども、出られないので、出て来ませんよ。来られないから、来られないから、来ーませんよ。」

まあ、中身がどうというよりも、おもしろい呂律(ろれつ)を楽しむような、遊び歌なのでしょうね。

この歌は、地元ではかなりポピュラーな童謡らしく、長崎空港を飛び立つときには、オルゴール調にアレンジしたものがずっと背景に流れていました。

そんなコロコロと流れるようなメロディーを聴いていると、今まで知らなかった街の一面を覗かせていただいたような気がしたのでした。

追記: 27歳で長崎にやって来た若きシーボルトは、愛するお瀧さんのことを「おたくさん」という愛称で呼んでいました。あるとき、おたくさんが持って来た花を見たシーボルトは、その神秘的な東洋の花に心を引かれ、おたくさんの名をもじって Hydrangea otakusa という学名をつけ西洋に紹介しています。

これは紫陽花(あじさい)のことですが、今は長崎市の花となっていて、街のあちらこちらではかわいらしい紫陽花のデザインを見かけるのです。きっとシーボルトと紫陽花には、長崎の人たちは深い愛着を感じていることでしょう。

参考文献: 長崎市発行のシーボルト関連パンフレット「シーボルト記念館」、出島関連パンフレット「よみがえる出島」。
 郷土史研究家・岩田祐作氏のウェブサイト「長崎のおもしろい歴史」。(この方は長崎市の出身で、シーボルトやお瀧さん、おイネさんの研究をライフワークとなさっているようです)
 松山大学・田村譲氏のウェブサイトより「楠本イネ」。(こちらの先生は愛媛県松山市の方で、おイネさんが師事した二宮敬作など、国内外の歴史を広くご研究なさっているようです)


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