Essay エッセイ
2024年09月30日

中秋に海を渡る

<エッセイ その216>

今日は、中秋(ちゅうしゅう)に行われる儀式のお話をいたしましょう。


中秋とは、旧暦8月(現在の9月ごろ)のこと。


空気がキリリと冴え渡り、月がもっとも美しく見えるということで、中秋に見える満月を「中秋の名月」と呼びますね。


一方、毎月、旧暦15日の夜は「十五夜」と呼ばれ、とくに月が美しい旧暦8月15日は「十五夜」とも呼ばれるようになりました。


ですから、旧暦8月15日は「中秋の名月」とも「十五夜」とも呼ばれ、今年は9月17日(火)となりました。


今日は、この日に執り行われた、珍しい儀式のお話です。


(いえ、ほんとは『十五夜に海を渡る』とか『中秋の名月に海を渡る』とカッコイイ題名にしたかったんですが、昼間に行われる儀式なので、『中秋に海を渡る』になりました。)



儀式が行われたのは、香椎浜(かしいはま)。


福岡市東区にある浜で、もともと広い海がどんどん埋め立てられていって、丸い形の海が残り、その丸い海をぐるりと囲んで「香椎北公園」となったところ。


海に浮かぶ人工島「アイランドシティ」にかかる橋を渡ると、一周3キロメートルの健康的なジョギングコースでもあります。


この辺りを通ると、海の中にポツンと鳥居が立っているのが見えます。今日の主役は、この鳥居とちょっと先に置かれる祠(ほこら)です(こちらの写真では、鳥居の右側に石灯籠、左側に祠が見えます)。


毎年、「中秋の名月」の午後、神社の神官と参拝者が潮の引いた干潟(ひがた)を渡り、鳥居をくぐって祠まで歩き、祠の安置される岩の上で儀式を行うのです。


この日は、大潮(おおしお)。大潮とは、満月や新月のころに起きる現象で、潮の満ち引きが一番大きいとき。潮が引くと、浅い海は干潟となり、歩くことが可能となります。


ここに鎮座するのは、御島(みしま)神社。


そう、海の中にある神社で、海の神・綿津見(わたつみ)神をお祀りします。ちょっと内陸にある香椎宮(かしいぐう)の末社となります。


香椎宮は、日本で三番目に古い神社で、天皇の勅使が迎えられる勅祭社(ちょくさいしゃ)十六社のひとつ。


海に鳥居があるのは知っていましたが、これが香椎宮の末社だったとは!


どうして海の中なのか? それは、『日本書紀』に出てくる故事に由来します。


『日本書紀』巻第九「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」紀。


気長足姫尊とは、神功皇后(じんぐうこうごう)のことです。


皇后は、神のお告げにあった財宝の国・新羅(しらぎ)にみずから攻め入ろうと決心します。


橿日浦(かしひのうら)にて、髪をとかれて海に臨み、こうおっしゃいます。


わたしは、「滄海(あおうみ)を渡って、みずから西方を征討しようと思います。そこで、頭を海水にすすぎますが、もし霊験がございますならば、髪が自然に分かれて二つになりますように」と。(現代語訳は井上光貞氏監訳『日本書紀・上』中公文庫 pp367-8より)


そうして、海に髪を入れてすすがれると、髪は自然と二つに分かれたので、それを髻(みずら)に結い分けます。髻とは、男性のように束ねた髪形のことで、男の出で立ちになったことを表します。


「(わたしは女性ではあるけれど)しばらく男の姿をかりて、進んで雄々しい計略を起こそうと思う。(中略) 戦争を起こして高い浪を渡り、船を整えて財土(たからのくに)を求めるのである。もし事が成就すれば、群臣がともに功があったからだ。事が成就しなければ、わたしひとりの罪となろう」と群臣に語り、協議を求めます。


群臣は、みな賛同し、半島へ攻め入ったのち新羅征討が成就する、というお話。


この逸話に出てくる、神功皇后が髪を解いて海にすすいだ橿日浦(かしひのうら)というのが、ここ御島神社の置かれる香椎浜(かしいはま)なのです!


そんなわけで、毎年、旧暦8月15日の大潮になると、干潟を歩いて御島神社の祠まで渡り、例祭が執り行われます。


ここで神官は、日本書紀の神功皇后の一節(上の現代語訳の部分)を唱い上げるのです。


吾、神祗・あまつかみくにつかみの教へをおほせて、皇祖・すめろきのみたまのふゆを頼みて、滄海(あをうなはら)を浮き渡りて、自ら西を征たむとおもほす。是をもちて、頭・御籤(みくじ)をして海水・うしほにて滌すがしめて、若し験し有らば、髪自から分かれて、ふたつに為らむとのたまひ、すなはち海に入りてこれ洗へば、髪自から分かれり。 皇后、すなはち分かれし髮を結ひて髻・もとどりと為す

(例祭の写真は、歴史講座『那国王の教室』を主宰される郷土史研究家、清田進氏よりご提供いただきました)


いえ、この例祭に参列しようとしても、実際に干潟を歩いて御島神社まで行くのは、大変なことなのです。


わたし自身は遠慮させていただきましたが、神官のお二人は腰まである作業用の長靴を履かれて干潟を注意深く進みます。参拝者も、少なくとも膝まである長靴は必須とのことで、みなさま準備万端。


けれども、干潟は思いのほか足を取られます。「昨年は、足を取られて転倒された方もいらっしゃった」と神官がおっしゃるほど、ひとたび足が泥に埋まりはじめると、引っこ抜くのが大変! 無理に引っこ抜こうとすると、バランスを崩して倒れそうです。


それでも、午後3時に歩きはじめた一行は、30分弱で無事に祠まで到達します。


遠くから見ていると、鳥居も石灯籠も祠も、思ったよりも大きいことにも驚きです。


そして、岩の上では儀式の準備が着々と進み、神官のお二人は、狩衣(かりぎぬ)と烏帽子をつけて身を整えます。


儀式が始まると、穢れを祓う「大祓詞(おおはらえのことば)」が唱えられ、上でご紹介した神功皇后の戦勝祈願の誓(うけい)が祝詞(のりと)として唱い上げられます。


そして、儀式が終わると、またえっちらおっちらと干潟を渡って、香椎北公園へと戻って来るのです。


なんでも、昔は、逆側の御島崎に現れる道より海を渡ったそう。海が埋め立てられる前は、そちらの距離が短かったのでしょうけれど、今は埋め立てによって公園からの距離もだいぶ縮まったようです。


今年は転倒などの事故もなく、旧暦8月15日の御島神社例祭も無事に終了です。



ここでふと疑問に思いませんか?


どうして神功皇后が朝鮮半島に渡ることになったのか、しかも、臨月のころで、まさに子(のちの応神天皇)が生まれようとしているのに・・・と。


実は、これには、夫である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の意外な逸話が残されているのです。


そもそも、朝鮮半島に財宝の国・新羅があり、ここに攻め入ることを勧められたのは、仲哀天皇なんです。


『日本書紀』巻第八「足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」紀には、こうあります。


熊襲(くまそ)国を征討しようと筑紫(福岡県)に行幸された仲哀天皇は、橿日宮(かしひのみや)にいらっしゃいました。ここで神功皇后に神がかかって、神託を垂れ、こう述べられます。


西には金・銀・財宝に輝く新羅の国があり、熊襲を撃つよりも価値がある。もしよくわたしを祭ったのならば、少しも刃(やいば)を血で汚さないで、その国はかならず自然と服属してこよう。また、熊襲も服従するに違いない、と。


けれども、丘に登って海を見渡した仲哀天皇は、海の向こうに国があることに疑いを持ち、「どうして大空に国があろうか。いたずらにわたしを欺(あざむ)くのは、どういう神なのか」と述べ、まったく神託を信じようとしません。


そこで強引に熊襲を討とうと出兵するのですが、勝利できずに帰還し、間もなく病に倒れ、翌日あっけなく崩御されます。


『古事記』の方は、もっと劇的な展開です。神功皇后が神がかりになって神託を行う際は、琴を弾いて神の言葉を聴こうとしていた仲哀天皇。


が、大海の向こうに国があるなどと偽りを言う神は信じない! と琴を弾くのを止めたところ、神はさらに激怒なさって「もはやこの天下は、あなたの統治なさるべき国ではない」と言い放ちます。


お側にいた建内宿祢大臣(たけうちのすくねのおおおみ)は「どうか、そのまま御琴をお弾きください」ととりなすのですが、生半可に奏でられた琴の音は、そのうちぱったりと聞こえなくなります。


そこで火をさし挙げて見ると、天皇はもうその場で崩御なさっていた・・・というお話。


このご神託が行われた場所が、橿日宮(今の香椎宮)の奥に鎮座する、訶志比宮跡(かしひのみやあと)。今は古宮跡と呼ばれます。


香椎宮の本殿を過ぎ、どんどん奥に坂を下って行くと、静かな住宅街に囲まれた、こんもりとした森があります。


これこそ昔は古墳だったのだろうと思われるような、ひっそりとした森の階段を上ると、目の前に古宮の御神木である香椎(かしい)が見えてきます。


まさにここが、仲哀天皇が崩御されたとされる場所。ですから、昔は香椎廟(かしいびょう)とも呼ばれていました。


この香椎の名は、「香(かぐわ)しい椎の木」を意味します。仲哀天皇の棺を椎の木に掛けていたら、香りが四方に広がったことから名づけられたとか(18世紀の『筑紫国続風土記』に記される伝承)。


この御神木は、「棺かけの椎」とも呼ばれます。


それで、そもそも仲哀天皇に「西を目指せ」とお告げをした神は、誰なのでしょうか。


神功皇后が問うたところ、「日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのおど)の水底(みなそこ)にいる、水葉稚之出居神(みつはもわか(?)にいでいるかみ)」であると判明(振り仮名は、民俗学者・折口信夫氏『水の女』に準じる)。


その名は、表筒男(うわつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)。つまり、住吉三神です。


そう、黄泉の国(よみのくに)から逃げ帰ったイザナギノミコトが「竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘の小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あはきはら)」で身を浄めたところ、次々と生まれ出た神々のうち三柱。


以前もこんなお話をしておりまして、住吉三神をお祀りする住吉大社とは、一般的には大阪の住吉大社と解釈されているところ、福岡市博多区にある住吉神社は「竺紫」つまり「筑紫(ちくし、今の福岡県)」にあり、大阪よりも古いのでしょう、と。


鎌倉時代の僧、顕昭(けんしょう)が著した『袖中抄(しょうちゅうしょう)』にも、


「住吉神、本(もと)筑前(ちくぜん)小戸(おど)に在り。(住吉大神の)荒御魂(あらみたま)は常に筑紫橘小戸(ちくし・たちばなのおど)に在り。和御魂(にぎみたま)は今、摂津墨江(せっつ・すみのえ)に在り。神功皇后(じんぐうこうごう)初めて摂津墨江に遷す」とあります。


夫亡きあと、神功皇后が、お告げをいただいた住吉三神(の和御魂)を大阪の摂津墨江に遷された、ということのようです。


そんなわけで、香椎宮は、仲哀天皇が遷り住まれ、突然の崩御の地となったところ。こちらの主神は、仲哀天皇と神功皇后です。住吉大神(すみよしおおかみ)とお二人の子・応神天皇(おうじんてんのう)もともに祀られます。


由緒正しい香椎宮ですので、また後日ご紹介することもあるかと思います。



と、いろいろとお話がそれてしまいましたが、旧暦8月15日(十五夜)の御島神社例祭に登場された、神功皇后。


福岡で暮らしていると、いろんなところで神功皇后の言い伝えを耳にします。


たとえば、前回のエッセイ『三苫(みとま)の丘』でご紹介した「三苫」という地名も、神功皇后が対馬(つしま、長崎県対馬市)から新羅へ出帆した際、嵐に見舞われ、苫(とま)を流して神に祈ったことに由来する、ということでした。


三枚の苫が流れ着いた三苫には、神功皇后が海の神・綿津見(わたつみ)神を祀ったとされる綿津見神社があります。


2キロほど西の奈多浜(なたはま)には、志式(ししき)神社があり、ここには「神功皇后が荒ぶる神に戦勝祈願の神楽を奉納し、新羅へ出帆された」という言い伝えが残されます。


一方、福岡県嘉麻(かま)市には、射手引(いでびき)神社があり、この名は「神功皇后が地元の領民を苦しめていた土蜘蛛(つちぐも)を討つ際、天から射手を率いる神が降りて来て、皇后に加勢した」という故事に由来するとか。


そう、福岡は、皇后にまつわる逸話にあふれているのです。


ちなみに、神功皇后の「三韓征伐(さんかんせいばつ)」の伝承。新羅を服属させたと聞きつけた百済(くだら)と高句麗(こうくり)が降伏を願い出た、との伝承です。


こちらは、古代史研究者の間では、8世紀に『日本書紀』が編纂された際の創作である、と認識されています。そもそも神功皇后の時代とされる4世紀には、百済と倭(わ:日本)は軍事同盟を結んでいた、とも。(たとえば、河内春人氏著『倭の五王〜王位継承と五世紀の東アジア』(中公新書、2018年)には、4〜5世紀の日本と大陸との関係が明らかにされます。)


けれども、今日ご紹介した香椎浜の儀式においては、神功皇后はここで戦勝祈願の誓(うけい)をなさり、朝鮮半島へ向かわれた、というお話は真実なのでしょう。


ですから、1600年前の故事を、現代まで大切に語り継ぎ、毎年、潮の引いた浜で寿(ことほ)ぐ。


そして、また来年には儀式が行われ、後世へと引き継がれていくことでしょう。



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