Essay エッセイ
2008年12月22日

列福式

はて、なんだろう? とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、列福式というのは、「れっぷくしき」と読みます。

キリスト教のローマ・カトリック教会の儀式で、「福者(ふくしゃ)」を「列する」、つまり、生前に優れたことを行った信者を、福者の仲間につらねる儀式のことです。
 福者というのは、「聖者」になる一歩手前とされ、とても徳のある信者というわけですね。

どうして藪から棒にカトリックの儀式のお話を書いているのかというと、ごく最近、日本で初めての列福式が開かれたからなのです。

わたし自身はカトリック信者でも、何教の教徒でもありませんが、通常カトリックの総本山ヴァチカン市国で開かれる列福式が、日本で開かれたというのはすごいことだと思うので、ぜひ書かせていただこうと思った次第です。もうすぐ、キリストの誕生を祝うクリスマスということもありますしね。


そもそも、日本で列福式が開かれたということは、日本人の信者が福者となったということなのですが、「聖者」や「福者」、その辺りのお話からいたしましょうか。

キリスト教徒ではない方でも、「聖者(聖人)」という言葉はご存じのことでしょう。英語でセイント(saint)といいますが、「聖者が街にやって来た(Saints Go Marching In)」というアメリカの賛美歌でも歌われているように、信者にとっては、とてもありがたい存在なのですね。

聖人となると、村や町の守り神になったり、教会の名前になったりもいたしますが、それはなにも西洋のことばかりではなく、日本にも、日本の聖人の名をいただく教会があるのですね(そうなんです、日本にも聖人がいるのです!)。長崎県長崎市にある聖フィリッポ・デ・ヘスス教会、通称・日本二十六聖人記念聖堂がそうです。

「日本二十六聖人」というのは、1597年、安土桃山時代の終わりに権力を誇った豊臣秀吉が、長崎・西坂の丘での処刑を命じた二十六人のキリシタン殉教者のことです。この殉教者たちは、1862年に当時のローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人(二十六聖人)となりました。

この二十六人のうち二十人は、イエズス会やフランシスコ会の日本人信者でした(イエズス会、フランシスコ会というのは、カトリック教会の修道会のことです)。そのほとんどは京都と大阪で捕らえられ、極寒の中、長崎まで徒歩で連行されました。このうち、最年少のルドビコ茨木はわずか12歳で、彼の他に13歳と14歳の少年もいました。

そして、残りの六人は、はるばる外国からやって来たフランシスコ会の司祭や修道士でした。教会の名前となった「聖フィリッポ・デ・ヘスス」は、メキシコ人の24歳の若き修道士です。フィリピンで司祭になる勉強をしたあと、帰国途中に日本に立ち寄った際、京都で捕らえられました。

列聖百年記念となった1962年、殉教地である西坂には、メキシコからの寄付で聖堂が建てられたため、この教会は聖フィリッポに捧げられることになりました。そして、西坂の丘は公園として整備され、二十六聖人記念碑と殉教者の資料を納める記念館も建てられています。(西坂から離れ、南山手にある国宝・大浦天主堂も、江戸時代末期に二十六聖人に捧げる教会堂として建てられています。正式名称は、日本二十六聖殉教者聖堂。)

そもそも、秀吉が西坂の地を処刑場所に選んだのは、長崎港を開港したキリシタン大名の大村純忠が、長崎をそっくりとイエズス会に寄進したことがあるのでしょう。
 「これはまずい!」と、外国と結託しそうな新興勢力を弾圧しようとした結果なのかもしれません。

昔はイエズス会の神父という変わった経歴を持つ、わたしの大学院時代の恩師も、アメリカ人ではあるものの、「長崎」とか「二十六聖人」という言葉はよくご存じのようでした。もちろん、恩師が司祭の教育を受けていたこともありますが、一般的に、二十六聖人は、日本国外の人たちに知れ渡っているようではありますね。そして、西坂の丘というのは、カトリック信者にとっては聖地でもあるのです。


さて、日本でのキリシタン殉教者というのは、この西坂の処刑で終わることはありませんでした。秀吉のあと、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布し、三代将軍家光の頃には、キリスト教徒への弾圧はますます激化します。
 迫害は、その後もえんえんと続き、ようやくキリスト教の信仰が許されたのは、明治期に入った1873年(明治6年)のことです。

西坂の処刑から禁教令の撤回までの270余年、日本のキリスト教徒の多くは、禁教令に屈することなく、体制から逃れて信仰を守り続けようとしていました。
けれども、迫害が激化する中、初めのうちは日本全国に散らばっていた信徒たちも、そのうち、長崎県下の村や離島、近隣の天草諸島などに、いわゆる「隠れキリシタン」として潜伏するようになりました。
 ひとつに、西国には外国との接触を持つキリシタン大名が多かったことと、地理的に江戸から遠いため、中央政府の手の届き難い場所だったことがあるのでしょう。

潜伏するキリシタンたちは、「オラショ」と呼ばれる祈りを捧げ、日本古来の年中行事や信仰の形を模しながら自分たちの祭事を行い、ひたすら救い主が現れるのを待ち続けていました。


このキリスト教弾圧の時代に殉教した人たちが、今回、福者となったのです。江戸時代が始まった1603年から1639年の間に、日本全国で処刑された188人の日本人殉教者です。

その多くは、長崎、島原・雲仙、生月、有馬、八代と、今の長崎県や熊本県で殉教していますが、遠く離れて、京都の殉教者が52人、米沢の殉教者が53人も含まれています。

188人のうち、5人はイエズス会と聖アウグスチノ修道会の司祭・修道士ですが、その他は、家族で入信した一般の信者たちです。ですから、生まれたばかりの乳飲み子や、幼年の子供たちも数多く含まれているのです。(カトリック中央協議会編 『日本188殉教者名簿』 を参照)

そして、この188人を福者に列する列福式は、先月の11月24日、長崎市の県営野球場で開かれました。

ちょうどその頃、長崎に行っていたわたしは、準備の様子をちょっとだけ覗かせていただくことができました。(きっと、このとき長崎に行っていなかったら、わたしは列福式の存在すら知らなかったかもしれません。)

それにしても、たくさんの椅子が並んでいること! フィールドには折りたたみ椅子が所狭しと並べられていて、いったいどこから運んで来たのだろうと驚いてしまいました。
 なんでも、当日は、3万人の方たちが国内外から集ったそうですが、教会関係者や信者に混じって、福者となる殉教者の末裔の方たちもいらっしゃったということです。

こちらは、赤い絨毯です。たくさん積まれていますが、教皇ベネディクト16世の代行としていらっしゃる、マルティンス枢機卿が座する壇上に敷かれるのでしょう。

赤というのは、ローマ・カトリック教会の色でもあるようですね。そういえば、先の教皇ヨハネ・パウロ2世のお葬式のときには、たくさんの赤が使われていた記憶があります。結婚式でもないのにと、意外な感じがしたのを覚えています。

こちらは、会場の野球場の前面に張られた幕です。「ペトロ岐部(きべ)かすい」というのは、今回福者となった、大分県国東半島出身の日本人司祭です。日本からマカオに追放されたあと、ローマの教会で司祭となって帰国し、9年間の潜伏生活を経て、江戸で殉教しています。日本人で初めてエルサレムに巡礼したお方でもあるそうです。
 188人の中には、同じく日本人司祭のジュリアン中浦がいます。この方は、13歳の頃、天正遣欧少年使節としてヨーロッパに向かい、3年後の1585年に、日本贔屓(びいき)だった教皇グレゴリオ13世に謁見したという方です。40歳のときにマカオで司祭となり、二十数年の九州各地での潜伏生活ののち、西坂で殉教しています。

そして、こちらは、列福式の前日に、会場に向かうシスターたち。この日はきっと、式典の予行演習が行われていたのでしょう。

わたしが会場を覗いたときにも、騒然とした作業の裏では静かな賛美歌が流れておりましたが、当日の儀式は、さぞかし荘厳な雰囲気に包まれていたことでしょう。


こうやって、日本のキリスト教信仰の歴史を振り返ってみると、ものすごい軌跡だったのだなと実感するわけですが、その一方で、世界の歴史に目をやってみると、カトリック教会が迫害に手を染めていたこともあるのですね。

たとえば、カトリックの教えに対し、改革の新しい動きが出てきたとき、ヨーロッパでは、厳しい異教審理(Inquisition)の時代が続きました。宗教裁判にかけられた中には、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイがいるのはよく知られています。(この行いに対し、先の教皇ヨハネ・パウロ2世は深く謝罪をされています。)

そして、そのキリスト教の教えさえも、誕生した頃は、異端の宗教であると迫害を受けた歴史があるのです。

いつの時代にも、時の為政者は新しい動きを握りつぶそうとするし、そんな中でも、命を賭(と)して信仰を貫こうと殉教していった人たちがたくさんいるのです。

街にきらめくクリスマスのライトを眺めながら、何を信じてもかまわない、自由な世に生きる喜びを、思う存分に味わってみたい。そんな気分になったのでした。

主な参考文献: 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド(長崎文献社編、カトリック長崎大司教区監修、長崎文献社)、日本とヴァチカン~フランシスコ・ザビエルから今日まで(結城了悟氏著、女子パウロ会)、かくれキリシタン~歴史と民俗(片岡弥吉氏著、日本放送出版協会)

著者の結城了悟氏と片岡弥吉氏は、おふた方とも故人ですが、日本のキリシタン研究では第一人者ともいえる方たちです。
 結城神父は、ディエゴ・パチェコとしてスペインに生まれ、30年前に日本に帰化されています。二十六聖人記念館の館長を開設から40年余り務めましたが、列福式が開かれるわずか一週間前に他界されました。日本初の列福式を心待ちにされていた中のおひとりだったことでしょう。

それから、「キリシタン潜伏時代」という厳しい時代を描いた小説に、故・遠藤周作氏の『沈黙』があります。「沈黙」という題名は、想像を絶するほどの迫害を受けた信者や聖職者たちが必死に神に祈りを捧げても、神は固く沈黙を守られたままだったという悲しい事実を表しているのですが、ご自信もカトリック信者だった遠藤氏は、信仰を貫く厳しさを実に見事に描いていらっしゃいます。

この時代の四十万ともいわれる日本の信者には、殉教した方々もいれば、迫害に耐え切れず棄教した方々もいます。棄教した方々であっても、同じ苦しみを味わったのではないかと、『沈黙』を読んで考えさせられたことでした。


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