Essay エッセイ
2014年09月30日

歴史のイマジネーション~蒸気機関車

先日、こんなお話を書く機会がありました。

日本の「鉄道の発祥」といえば、明治時代、東京・新橋(しんばし)と横浜の29キロを結んだ鉄道のこと。が、実は、これよりも先に蒸気機関車が走った場所があるのです、と。

明治5(1872)年の新橋~横浜鉄道開業をさかのぼること、ゆうに7年

慶応元(1865)年には、長崎の大浦海岸通りに600メートルのレールが敷かれ、蒸気機関車が2両の客車を引いて走ったのが、「蒸気機関車の最初」だそうです。

残念ながら、こちらは「試走」に終わり、新橋~横浜間の「鉄道開業」とは意味合いが違いますので、厳密には「鉄道の発祥」には当てはまらないかもしれません。

けれども、多くの日本人が「大浦海岸通りの蒸気機関車」のことを知らない事実に、自分自身の無知も含めて驚いたのでした。


この長崎の蒸気機関車は、大浦地区にある外国人居留地に敷設されたもので、発案者は、スコットランド出身の英国商人トーマス・グラバー(Thomas B. Glover)。

グラバーさんは、江戸時代の安政6(1859)年、21歳の若さで来日した貿易商人で、長崎にグラバー商会を設立して商売を広げ、幕末には、坂本龍馬にも銃や戦艦を調達したことでも有名な方です。

日本語もかなり流暢だったそうで、薩摩、長州、土佐の幕末の志士とも通じ合うところがあったのでしょう。

伊東博文など長州藩士の英国留学や、五代友厚(ごだいともあつ)など薩摩藩士の海外渡航の橋渡し役も務めたそうです(のちに五代さんの紹介で、奥方ツルさんと結ばれたとか!)。

この方が、何を思ったのか、上海博覧会に展示されていたイギリス製の蒸気機関車『アイアンデューク号』を買い取って、長崎の地に取り寄せたのでした。

そして、慶応元(1865)年春、英国領事館や商社、銀行、ホテルが建ち並ぶ外国人居留区の一等地(当時の言葉で『上等地』)のメイン通り、大浦海岸通りに600メートルのレールを敷き、蒸気機関車を走らせたのでした。

2両の無蓋(屋根なし)客車には乗客が乗り合わせたそうですが、なにせ外国人居留地ですから、イギリス人、アメリカ人、フランス人、デンマーク人と外人さんも多かったことでしょう。


噂はすぐに街じゅうに広まり、沿道には蒸気機関車とやらを見てみようと、連日たくさんの見物人が詰めかけ、黒山の人だかりだったそうです。

なにせ、グラバーさんたち外人さんが長崎の居留地にやって来るちょっと前、嘉永6(1853)年には、遠いお江戸にメリケンの蒸気船が現れ、大騒ぎになったと聞いていたら、今度はオランダが長崎に蒸気船を運んできて、みんなで驚いたではありませんか。

その蒸気船がを走るとは、一見の価値があるのです!

ちょうど、唐津城下(佐賀県)から長崎見物に来ていた「茶の湯・俳句の一行」のひとりが、タイミングよく蒸気機関車に出くわしたことを書いています。

唐津材木町の町年寄・平松儀右衛門が記した『道中日記』には、3月17日知人の勧めで大浦まで人をかき分け見物に出かけ、「陸蒸気船(おかじょうきせん)」が黒い煙を吐きながら力強く走ったことが記述されているとのこと。
(「旅する長崎学」シリーズ第9巻『西洋と東洋が出会った長崎居留地』p56)

さすがに儀右衛門は職人気質だったようで、鉄の棒(線路)と(蒸気機関車)の詳細や、鉄の棒に船をからませて走るカラクリを克明に記録しているとか。

近隣住民にも蒸気機関車に乗った方がいらっしゃるようで、海運業・松島長太郎は「短い時間だったが、夢見心地だった」と、機関車初体験を語っています。

古老・吉田義徳は、手記の中で「間近く立寄り居る際 何人(なにびと)か後方より我を抱き乗せたる者あり」と、機関車の停車中に見学していたら、誰かに後ろから抱きかかえられ客車に乗せられた様をつづっているそうです。
(以上、ウェブサイト『長崎年表』、江戸時代(18)1865年の項を参照)

どうやら、最初のうちは外人さん数人と役人2、3人がお行儀よく乗っていたものの、そのうちに、あんまり人が押し寄せるものだから、秩序も乱れ、なんとなく誰でも乗れる雰囲気になっていた、というところでしょう。

いったい何日ほど機関車が走っていたのか定かではありませんが、何回か試運転が行われ、その間、見物人がどっと押し寄せたことは確かなようです。


それで、この「陸蒸気船、長崎に初登場!」の新事実を知って、どうしてグラバーさんは蒸気機関車を走らせたんだろう? と、ひどく不思議に思ったのでした。

今となっては、彼の真意は明らかではありませんが、幕末の動乱期に「西洋の力はスゴいんだぞ!」と見せつけたかったのだろう、とも言われています。なにせ、日本が開国するかどうか、ひどくもめていた時期ですから。

また、当時は日本だけではなく、中国でも鉄道敷設の計画が盛り上がり、グラバーが勤めた英国商会(現在も国際複合企業として名高いジャディーン・マセソン)が熱心に計画に参加した時代でもあったようです。
(長崎史談会だより、井手勝摩氏コラム『大浦で走ったアイアン・デューク号はその後どうなった』を参照。写真もこちらより転載)

そして、個人的には、グラバーさんの祖国イギリスへの「こだわり」もあったのではないか? と感じているのです。

たとえば、陸蒸気船が走った1865年には、長崎ではこんなことがありました。

大浦・南山手の丘にカトリック大浦天主堂が完成し、ほんの2ヶ月前には祝別式(教会を聖なるものとする儀式)が執り行われたばかり。

大浦天主堂は、居留地のフランス人のために建てられたもので、フランス寺とも呼ばれた聖堂。
 祝別式には、カトリック・パリ外国宣教会のジラール日本教区長(日本語が流暢な横浜天主堂の名物神父)が駆けつけ、長崎港に入港していたフランス艦、ロシア艦、オランダ艦、イギリス艦の軍艦長と乗組員、そしてフランス領事デューリらも列席。艦砲による祝砲も、式に一層の華やかさを加えたとか。
(坂井信夫氏著『明治期長崎のキリスト教』p49)

丘の上に建つぴっかぴかの聖堂と、港をうめつく各国の軍艦。華やかな礼装で出席した艦長や乗組員に、次々と軍艦から放たれる祝砲。

この時点で、外国人居留地のお株は、フランスに奪われた感じではありませんか?

いえ、この頃、近くの唐人屋敷周辺の中国人コミュニティーを除くと、外国人で一番多いのがイギリス人でした。

そして、南山手に次いで宅地化された東山手には、だんだんとアメリカ人も入って来て、英語圏の外人さんがとみに増えてきました。

そこで、東山手には、「フランス寺」建立の3年前の文久2(1862)年、日本で最初の新教プロテスタント)の教会となる、イギリス国教会系「聖公会礼拝堂」が建てられています。

もちろん、いまだ幕府の禁教令は布かれたままですから、英語圏の外人さんのためだけの教会です。が、居留地内でそんな新教派の気運が盛り上がる中、日本での布教の歴史の長いカトリック教会が大浦天主堂を建立し、華々しく祝別式を行ったではありませんか!

ふん、こいつはいかん! と発奮したグラバーさんが、上海から蒸気機関車を取り寄せ、これ見よがしに大浦天主堂の真下で走らせてみたのではないでしょうか?

このとき、グラバーさんは26歳の若さではありますが、長崎ではベテランの外人さん。ですから、「英国人の意地」を見せてやろうと英国製蒸気機関車を走らせ、街じゅうを驚かせたのではないか? と。


そして、もうひとつ「こだわり」を彷彿とすることがあるのです。

大浦天主堂に着工したのは、蒸気機関車が走る一年ちょっと前、文久3(1863)年暮れですが、それとほぼ時を同じくして、グラバーさんは自分の屋敷を建てています。

現在は重要文化財『グラバー邸』として、観光名所「グラバー園」の中心的存在となっているお屋敷です。

が、これは、大浦天主堂のすぐ目と鼻の先!

なんでも、大浦天主堂が当時の地番「南山手一番乙」なら、グラバーの屋敷は「南山手三番」だとか!
(上記『西洋と東洋が出会った長崎居留地』pp44~45、石尾和貴氏コラム「古文書から見た外国人と長崎居留地~居留地めぐりのススメ」を参照)

これだって、旧教国フランスに遅れを取りたくない! 居留地でフランス寺だけが目立ってほしくない! という彼のこだわりを彷彿とさせるものではないでしょうか?

ちなみに、『道中日記』を記した唐津の平松儀右衛門は、蒸気機関車を見物したあとは、できたばかりの大浦天主堂とグラバー邸も見学しています。(写真は、現在の国宝『大浦天主堂』)

天主堂/グラバー邸の南山手とアメリカ人邸宅の多い東山手は、さしずめ、ビバリーヒルズのセレブ見学コース!

居留地を往来する「キジの眼」の外人さんや新築の洋館が建ち並ぶ景観を観察したあとは、グラバー商会に立ち寄り、菓子箱を差し出して手形をもらった。
 案内人に手形を示すとグラバー邸内の見学が許され、海を見下ろす立派な庭園には「ビイドロの屋根(ガラスの屋根)」の温室があり、大筒(大砲)が10丁余も備え付けてあった、と記されているとか。

(上記『西洋と東洋が出会った長崎居留地』pp14~15、本馬貞夫氏コラム「平松儀右衛門の居留地見聞記~異国にも 来た詠め也 はるの旅」を参照。本馬氏は、『道中日記』に蒸気機関車の記述を発見された方だそうです)

この庭園の大砲は、幕末の攘夷(外国人排斥)の風潮に備えるものらしく、グラバーさんは、ここでも異国の地で暮らす英国人の意地を見せなければならなかったのでしょう。


というわけで、蒸気機関車のお話がすっかり脱線してしまって、わたしの勝手な想像がひとり歩きしています。

けれども、想像の翼をはばたかせながら資料を読んでいると、「歴史上の人物」も身近に思えてくるし、「史実」だって、すべてがつながっているんだなと実感できるような気もいたします。

そして自身が異国の地に身を置いていると、グラバーさんの「意地」も共感できるような気がしてくるのです。

間もなく、長崎で『がんばらんば国体(第69回国民体育大会)』が開かれるそうですが、もしも現地に行かれることがあったら、グラバーさんになった気分で、お屋敷を散策されてはいかがでしょうか。

参考文献: 文中にも記載していますが、以下が参考文献となります。

「旅する長崎学」シリーズ第9巻『西洋と東洋が出会った長崎居留地』、長崎文献社、2008年: 薄い冊子風のつくりで、コンパクトにまとめた内容が親しみやすいです。居留地拡大を示す地図や当時の様子を伝える古写真、研究者のコラムを掲載するなど、読みごたえのある本でもあります

坂井信夫氏著『明治期長崎のキリスト教~カトリック復活とプロテスタント伝道』、長崎新聞新書、2005年: 坂井氏は九州大学を定年退職されたあと、長崎の活水女子大学に勤務された折り、長崎と九州各地の教会の歴史も研究課題とされています。カトリック発展の歴史が脚光を浴びる中、禁教令が解かれた明治期のプロテスタント伝道については、希有な文献です

長崎史談会・井手勝摩氏コラム『大浦で走ったアイアン・デューク号はその後どうなった』、長崎史談会だより平成25年(2013年)9月号 No.73: PDFファイル一頁にコンパクトにまとめられた『アイアンデューク号』のその後と研究の経緯。大正初期にグラバーの蒸気機関車の存在が発表されて以来、機関車の行方は不明でしたが、井手氏は「中国・北京に運ばれ、4ヶ月後にはかの地の鉄道試運転に使われたのでは?」と仮説を立てられています

ウェブサイト『長崎年表』、江戸時代(17)1860~1863年、江戸時代(18)1864~1867年: こちらの年表は、日本・世界全体をも視野に入れながら、長崎の歴史を時代ごとに克明に列記したものです。18年現地に住まれた写真家・藤城かおる氏が個人で作成されている年表だそうですが、その詳細さには頭の下がる思いがします

写真出典: インターネットから取得した写真は、以下が出典となります(掲載順)。
1872年新橋~横浜間鉄道開業の浮世絵(横浜): ウィキメディア・コモンズ

Thomas Blake Glover (1838-1911): Wikimedia Commons

Replica of “Iron Duke” steam locomotive running in Kensington Gardens, London: Gloucestershire Warwickshire Railway’s Website

甲斐宗平画伯の作品『アイアンデューク号』(グラバー園所蔵): ウェブサイト『長崎Webマガジン・ナガジン』「長崎の歌(27)長崎と鉄道唱歌」の項

中国で最初に試運転されたパイオニア号: 上記・井手勝摩氏コラム『大浦で走ったアイアン・デューク号はその後どうなった』

1865年創建当時の大浦天主堂: ウェブサイト『長崎とキリスト教 歴史と史跡』(岸川聡成氏管理)「浦上」の項

重要文化財『グラバー邸』: Wikimedia Commons

現在の国宝『大浦天主堂』: Wikimedia Commons


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