Essay エッセイ
2012年05月12日

「でんでらりゅうば」と「おろしゃ」の謎

今日は、わらべ歌にまつわる「おろしゃ」の謎に迫ってみたいと思うのです。

2年ほど前に、『オランダさん』と題して、長崎で耳にした不思議な歌をふたつご紹介いたしました。

ひとつは、こちら。

あっかとばい
 かなきんばい
 オランダさんからもろたとばい

現代の標準語にすると、こんな歌詞でした。

赤いのよ
 カナキンよ
 オランダさんからもらったのよ

なにやらヘンテコな歌詞ですが、『オランダさん』のお話では、「赤いカナキンをもらった」というのが、いったいどんな意味なのかと謎解きをさせていただいたのでした。


そのときに、お話の最後にもうひとつ歌が出てきたのでした。それが、こちら。

でんでらりゅうば 出て来るばってん
 でんでられんけん 出ーて来んけん
 こんこられんけん 来られられんけん
 こーんこん

どうやら、子供の遊び歌として歌い継がれたもののようですが、意味はざっとこんな感じでしょうか。

「もし出られるならば、出て来るけれども、出られないので、出て来ませんよ。来られないから、来られないから、来ーませんよ。」

まあ、なんとなく「来ませんよ」と言っていることはわかっても、いったい何のことを歌っているのやら、さっぱりわかりませんよねぇ。


それで、この歌は、ごく最近、全国版の車の宣伝に使われたりして、結構みなさんの注目を集めたようですね。

だって、言葉の羅列が不思議だし、かりに意味がわかったにしても、いったい何の歌なのか理解しがたいから。

そんなわけで、4月の初め、東京のホテルで朝のテレビ番組を観ていたら、このCMソングを解読するコーナーが登場していましたよ(4月5日放送のフジテレビ『とくダネ!』を参照)

なんでも、この歌は、長崎では有名なもののようでして、1980年代には、カステラの文明堂が『わらべ歌シリーズ』として地方版CM に採用なさっていたそうです。

それで、当時のCM制作資料を調べてみると、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争(大日本帝国とロシア帝国の戦い)のときに流行った歌、『長崎節』に由来するということでした。

この戦争では、敗戦国のロシア兵が捕虜となったそうですが、彼らの気持ちになって、長崎の人たちがこう歌にしたそうです。

「ロシヤの軍艦なぜ出んじゃろか 出られんけん 出ん出られりゃ出るばってん…(中略)コサック騎兵は なぜ来んじゃろか 来られんけん 来ん来られりゃ来るばってん…」

そう、「どうして助けに来てくれないのだろう?」と、ロシア兵の嘆きを歌ったもののようですが、それが、「(軍艦が)出られるならば、(助けに)出て来るけれども、来られないので、(助けには)来ませんよ」という意味の『でんでらりゅうば』のわらべ歌に変化した、という説なのです。


なるほど、そう言われてみれば、なんとなく納得はできるのですが、また次の疑問がフツフツとわいてくるのです。

だったら、その『長崎節』には、なんだってロシアの兵隊さんが出てくるの? って。

だって、いくら短い戦争だったとはいえ、「敵国」のロシア兵の気持ちを歌にするなんて、ちょっと不思議ではありませんか?

たとえば、第二次世界大戦のときなどは、アメリカやイギリスの「敵国」のことを「鬼畜米英(きちくべいえい)」と呼び、国民全員で憎んでいたではありませんか。

それから考えると、敵の兵隊さんに同情するような歌が流行るなんて、ちょっと普通じゃないような気がするんですよ。

もしかすると、長崎の人たちとロシアは、なにかしら特別な関係にあったんでしょうか?


それで、ネットで『長崎節』を詳しく調べようと思ったのですが、残念ながら、なかなか見つからないんですよ。

ただ、長崎には、もうひとつ有名な歌『長崎ぶらぶら節』というのがあって、その中に、「ロシア」が出てくるそうなんです。

今年ゃ十三月 肥前さんの番替(ばんがわ)り 四郎が島には見物がたらに おろしゃがぶうらぶら ぶらりぶらりと言うたもんだいちゅう

なんでも、「おろしゃ」というのが「ロシア」のことだそうで、1853年(嘉永6年)の幕末期、アメリカのペリー提督に遅れること1月半、ロシア帝国の使節プチャーチン提督が4隻の軍艦を率いて長崎に入港し、日本に開国を迫った、という史実をさしているそうです(長崎Webマガジン『ナガジン』、歌で巡るながさき「史話『ぶらぶら節』」を参照)

「肥前さん」というのは、第10代佐賀藩主・鍋島直正(なべしま・なおまさ)公のことで、同年、長崎港の入り口にある四郎が島、神の島、伊王島に大砲台場を築いたのだそうです。

そして、「番替わり」というのは、筑前(福岡)の黒田藩と交替でやっていた長崎警備の順番に肥前さんが当たった年という意味で、「その年に、肥前さんがつくった大砲を見物がてらに、ロシアがぶらりぶらりとやって来た」という歌詞になるのでしょう(佐賀新聞・長崎新聞合同企画『県境を超えて』、 004「神ノ島・四郎ケ島台場」を参照)

ふ~ん、だとすると、こういうことなのでしょうか?

幕末期から明治期にかけて、長崎にはロシア人がたくさんやって来て、街の人にとっては、ロシア人は身近な存在だった。だから、日露戦争で捕虜になったロシア兵に対しても、同情的な感情を抱いて、わざわざ歌にした。

たしかに、街とロシア人との縁は深いようでして、長崎で最も古い国際墓地「稲佐悟真寺(いなさ・ごしんじ)国際墓地」には、1858年(安政5年)、ロシア艦隊がまた来航したときに、病死した船員を葬るためのロシア人墓地がつくられたそうですよ(『ナガジン』、発見!長崎の歩き方「長崎に眠る異国の人々」を参照)

なるほど、亡くなった方々を葬る場所ができたということは、地元の人もロシアからの異邦人を受け入れた、ということなのでしょう。


そして、さらに調べてみると、ロシア兵と長崎の深いつながりがわかったのでした。

1857年(安政4年)、ロシア艦アスコルド号が修理のため長崎に一年近く留まったそうですが、そのときに、長崎奉行が稲佐(いなさ)をロシア将兵の居留地とし、遊女の出入りを許したそうなんです。

ロシアは「おろしゃ」、ロシア兵たちは「マタロス」と地元の人に呼ばれたので、ここは「魯西亜マタロス休息所」と呼ばれるようになりました。

そう、居留地となった稲佐というのは、上に出てきた国際墓地の稲佐悟真寺のあるところで、このときの「休息所」がもととなって、明治初年には「稲佐遊郭」ができたそうです。

明治になると、ウラジオストックを拠点とするロシア極東艦隊が、毎年氷結する港を避けて、長崎を越冬の地に選び、艦隊の将兵たちにとっては、冬を過ごす稲佐の地が第二の故郷ともなったのでした。

毎年、暮れから年明けとマタロスたちが越年するので、近隣の子供たちもロシア語をしゃべるようになったというほどロシア色が濃くなり、稲佐の名は「おろしゃ租界(ロシア人の行政地区)」として、ロシアやヨーロッパの都市にも知られるようになったのです(以上、原田伴彦氏著『長崎~歴史の旅への招待』中公新書54、中央公論社、1964年を参照)

そして、運命の1904年(明治37年)、ロシアと日本の間で戦争が勃発し、翌年にはロシアの敗戦で幕を閉じるのですが、このとき捕虜となったステッセル将軍以下、9千名を超えるロシア兵捕虜を、お栄(えい)さんというホテル経営者が中心となって、稲佐全域の80軒の宿泊施設で収容したのでした(長崎商工会議所のウェブサイト『長崎おもてなしの心と人』、長崎女性偉人伝「稲佐お栄」を参照)


きっと、このときのことが『長崎節』となったのでしょうね。

捕らえられて、艦隊に助けに来て欲しいけれども、戦争に負けたんじゃあ、味方は助けに来てくれない。だから、待っててもしょうがない、かわいそうな兵隊さんたち。

そんな街の人たちの同情が、歌に表れているのではないでしょうか。

いくら戦争の相手だったとはいえ、戦いは1年半で集結していますので、敵国として憎しみを抱くほど長くはなかったのかもしれません。

それに、ロシアと深い縁のある長崎の人たちにとっては、憎しみよりも、親近感の方が強かったに違いありません。

そして、もしかすると、この不思議な歌詞の中には、仲良くすべきロシアと戦争を始めた自国の権力者に対する、庶民からの戒(いまし)めが込められているのかもしれません。

国がどうのこうのって言うけれど、自由を奪われれば悲しいし、早く故郷に帰って家族に会いたくもなる。それは、どこの人だって同じでしょ? と。

そう考えてみると、『長崎節』でロシア兵に同情し、それを『でんでらりゅうば』で歌い継いだ長崎の人たちは、「元祖国際人」と言えるのかもしれませんね。

追記: 長崎の写真は、毎年冬に開かれるランタンフェスティバルのものです。


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