Essay エッセイ
2006年02月17日

オリンピック

2年前の夏、アテネオリンピックが開催されたとき、こんなことを書いたことがありました。「“どの言語で夢を見るか”が母国語の指標とも言われますが、“オリンピックでどの国を応援するか”が母国の証なのかもしれません。連日、日本選手のメダルの数を律儀に数えているわたしは、どこに住んでいても日本人です」と。

今、トリノで冬季オリンピックが開かれているわけですが、なかなか日本人選手がメダルを獲得してくれないのが、残念至極です。おまけに、アメリカに住んでいると、メダル圏外の外国人選手の活躍を観ることができないので、なんとなく日本が遠のいてしまっています。
それが高じて、ショートトラックの男子5千メートルリレー予選なんかは、日本とアメリカが一緒に出ているのに、アメリカの方に注目している自分に気付いてしまいました。前回のソルトレークオリンピックで一世を風靡したショートトラックのスター、アポロ・アントン・オーノ選手が出ていたからです。まあ、彼にしても、お父さんは日本人なんですけどね(写真は、ソルトレークオリンピック会場ともなったスキーリゾート、ユタ州パークシティーです)。


スピードスケートでは、男子500メートルの加藤条治選手に、日本中の期待がかかっていましたね。惜しくもメダル獲得は実現しませんでしたが、この種目で優勝したアメリカのジョウイー・チーク選手は、ちょっとした話題になっています。
 勿論、金メダルを取ったという名誉もあるのですが、メダル獲得後の行為が注目を集めました。16歳でノースキャロライナ州の家を出て、カナダ・カルガリーでトレーニングを積んできたチーク選手は、自分は最も豊かな国から参加しているからと、金メダル賞金の2万5千ドルを全額寄付したのです。

チーク選手が賞金を寄付したのは、Right to Playという組織で、スポーツの世界から、各国の恵まれない子供たちを援助していこうという慈善団体です。チーク選手が14歳の頃からお手本としていたノルウェーのスピードスケーター、ヨハン・オラヴ・コス選手が、1992年のリレハンメルオリンピックで名声を博した後、設立した団体だそうです。
 チーク選手曰く、「昨日選手を辞めていたとしても、今までやってきたスケートと、オリンピックに出られたというだけで、世界のすべてのものをもらった気分。そんな僕が金メダルを取れたこと自体、信じられないようなことなんだ。そして、僕がありがとうと言える最善の方法は、誰か他の人を助けることだと思うんだ」。


このチーク選手が、特に寄付を希望したのは、アフリカのスーダンです。もともとこの国では、過去20年ほど、政治を牛耳るアラブ系と地元のアフリカ系住民のいざこざが絶えませんでした。
 しかし、2003年3月、西部の山岳地帯・ダーフール地域で起こったアフリカ系農民の反乱をきっかけに、弾圧に乗り出したアラブ系民兵(ジャンジャウィード)によるアフリカ系住民の大量虐殺が続いており、今も非常に不安定な状態となっているのです。
 「民族浄化(ethnic cleansing)」の名のもと、少なくとも20万人が殺され、2百万人が難民生活を強いられているといわれます。難民キャンプでは、病気と飢えが蔓延します。

もう3年もこういう状態が続いているのに、難民保護のための各国の派兵や、援助体制は充分に整っていません。アメリカは派兵を拒否していますし、ブッシュ政権がアナン国連事務総長に約束した援助組織の派遣にしても、実現はいつになるかわかりません。

それを見兼ねたチーク選手が、少しでもダーフール地域の難民のお役に立てばと、賞金の寄付を申し出たのです。(ユネスコや国境なき医師団も、現地で救援活動を続けています。)


トリノオリンピック後は、スピードスケートを引退し、大学で経済学を勉強しようというチーク選手。こんなことも言っています。「この(金メダルの)ために生涯トレーニングを続けてきたようなものだけど、(メダルは)そんなにたいしたことじゃないよ。でも、僕がうまく滑って、2秒ほどマイクを握ることができたから、少しは世の意識を高めて、お金を調達する役に立って、僕が歩んできた道を何人かの子供たちに歩ませることができるんだよね」と。
 金メダルを取っても、あくまでも自分を貫くチーク選手なのでした。

まあ、メダル、メダルって言うけれど、どの国の選手が勝っても喜ばしいことだし、メダルを逃したとしても、参加するだけで立派なものなのです。
 そして、選手はみな美しい。カーリングの選手なんて、氷上の妖精・フィギュアスケーターに負けないくらい、きりりと美しく見えるではありませんか。だからみんな、オリンピックに釘付けになるのでしょうね。


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