Life in California
ライフ in カリフォルニア/歴史・習慣
Life in California ライフ in カリフォルニア
2020年09月05日

サンフランシスコのレンガ造り〜1906年の震災編

<ライフ in カリフォルニア その164>



こちらの「ライフinカリフォルニア」のコーナーでは、前回、サンフランシスコのダウンタウン地区に残る、レンガ造りの建物のお話をいたしました。



この街のダウンタウンといえば、金融街をはじめとして、なんとなく高層ビルが密集するイメージがあります。



高さを競うようなノッポなビルに加えて、今でもオフィスやマンションと、どんどん新しいビルを建築中。ニョキニョキと高層ビルが建ち並び、毎年のように様変わりするところは、香港などの過密都市を思い浮かべます。



そして、サンフランシスコといえば、パステルカラーのヴィクトリア調の家々も有名ですね。そう、絵はがきでも知られるように、色とりどりの明るい色彩が特徴です。



ダウンタウンのビル群をちょっと離れると、こんな風に美しい住宅街があちらこちらに散らばっています。



こちらは、ミッション(Mission)地区に建っているヴィクトリア調の家々。ミッション地区には、「ミッション・ドロレス(Mission Dolores)」というスペイン人開拓時代の教会が残っていて、付近は落ち着いた雰囲気の住宅地となっています。



ヴィクトリアンハウスに暮らす方々も、いつも家を美しく保ち、「街ゆく人を楽しませたい!」という心意気が感じられます。



そんなわけで、サンフランシスコの建物といえば、ダウンタウンの高層ビルやヴィクトリア調の家々を思い浮かべ、この街に重厚な「レンガ造り」の建物が残っていること自体、ちょっと意外な気がする。前回は、そんなお話でした。



そこで、今回は、前回ご紹介できなかったレンガ造りのお話をいたしましょう。




まずは、こちらのレンガ造り。1889年に建てられた、フランス様式の建物です。



ミッション通り(Mission Street)の東(海側)の起点、湾とベイブリッジを臨む、眺めの良い場所に建っています。ひとつ道(The Embarcadero)を超えたら、そこはもう防波堤という立地です。



このフランス風の建築様式は、「ナポレオン3世」とか「第二帝政期」と呼ばれるそう。19世紀後半にフランスで生まれたバロック復興様式で、パリの建造物やお城にも多く見られるもの。人気を博し、またたく間にヨーロッパからアメリカへと広まりました。



最大の特徴は、「マンサード屋根(mansard roof)」と呼ばれる深い屋根。屋根裏部屋には絶好の形をしています。深い屋根には、鱗(うろこ)型のスレートがピカピカと光って美しいです。



この建物は19世紀末生まれのレディー。ですから、1896〜98年に向かいにフェリービルディング(Ferry Building)が建ったのを眺めていた、唯一の証人でもあります。



フェリービルといえば、今も街のシンボルとして市民に親しまれていますが、こちらのレディーの方が10年ほど先輩なんですね!



この趣のあるレンガ造りは、今はブルヴァード(Boulevard)という名のフレンチレストランになっています。が、もともとのビルの名前は、「オーディフレッド・ビルディング(Audiffred Building)」といいます。メキシコからやって来たフランス人ビジネスマン、ヒッポライト・オーディフレッド氏が建てた瀟洒(しょうしゃ)な建物です。



オーディフレッドさんは、中華街で木炭を売って財を築いた方だそうで、この建物の1階はご自身の店舗かと思いきや、レストランとバー3軒に貸し出されていたとか。



1906年4月18日午前5時、サンフランシスコ近くの海底で大地震が起き、その後街を襲った大火が、西から海際のこの辺りまで迫ってきます。



付近で消火活動を行なっていた消防士の方々も、「これはもうダメだ」とあきらめかけて、他に向かおうとします。が、1階のバー「バルクヘッド」のバーテンダーが、消防士さんたちにこう頼み込むのです。



「この建物を救ってくれたら、ひとり2リットルのウイスキーと、消防署いっぱいのワインを確約するよ。だから、お願いだから救ってくれ!」と。



これが功を奏して、建物は火事をまぬがれ、この辺りで焼け残った唯一の建造物となったとさ、



と言い伝えられています。



この建物の2階はというと、意外にも、船乗り組合の事務所として貸し出されていました。1901年の大規模ストライキでは参加者の連絡事務所として大役を果たし、1930年代に起きた港湾労働者の労働争議では、目の前で二人の労働者が州兵に射殺されるところを目撃した歴史の証人ともなっています。



そういえば、建物にはぐるりと美しい装飾が施されていて、よく見ると、海に関する3つのモチーフが使われています。左は「船を導く灯台」、真ん中は「船を操る舵(かじ)」、そして右は「船を岸に繋ぐ錨(いかり)」と、海運には不可欠のものです。



海運関係のモチーフが使われているのは、船乗り組合に貸し出されていたからか、それとも、オーディフレッドさんご自身が海と船が大好きだったからか? と思っていると、どうやら建築当初には、海のモチーフはなかったようです。



この歴史ある建物には忘れ去られた時期もあり、1970年代にはガス漏れ火災が起きたあと、解体が決まっていました。これに市民が立ち上がって保存運動の気運が盛り上がり、国の内務省にも働きかけて歴史建造物に指定してもらいます。

その際、以前よりももっと美しい姿に改修され、どうやら、海のモチーフもその時に付け加えられたようです。(Photo of the Audiffred Building, circa 1905, from “Audiffred Building Historical Essay” by Libby Ingalls, FoundSF digital archive)



海のモチーフは船乗り組合にふさわしいし、海とともに生きてきたサンフランシスコの街にも似つかわしい。



大地震に大火、労働争議に解体の危機と、いろんな経験をしてきたレンガ造りの古株レディー。美しい姿の中にも凛とした風格があり、前を通るたびに心ときめかせてくれる、そんな存在感があるのです。




お次は、「ホータリング」という変わった名前の登場です。



前回ご紹介していた「ジャクソン・スクエア歴史地区」にも、有名な逸話が残されているのです。



ここは、金融街のモンゴメリー通り(Montgomery Street)を北上し、ジャクソン通り(Jackson Street)を右に曲がって、ふいっと右手(南側)のトランズアメリカ・ピラミッドを見上げた辺り。足元には、ホータリング(Hotaling Place)という名の、オシャレな小道があります。



馬をつなぐ鉄のポールなども立っていて、20世紀のピラミッドの手前は、19世紀の街並みの風情。今はインテリア関係の店などが集まり、オシャレな景観となっていますが、その昔はちょいと「いわくつき」の場所でした。



この角にある瀟洒な建物は、「ホータリング・ビルディング(Hotaling Building)」と呼ばれ、1866年に建てられたもの。



ニューヨークからサンフランシスコに移住してきたビジネスマン、アンソン・ホータリング氏が建てたもので、当初はホテルでしたが、のちに自身の本業に使うようになります。彼の本業とは、ワインや蒸留酒の卸売業。このビルには、たくさんのウイスキーが貯蔵されていたのです。その量は、西海岸最大ともいわれます。



お酒の卸売業や不動産業、海外貿易で大成功したホータリング氏ですが、彼が亡くなって数年後の1906年、サンフランシスコで大地震が起きました。ダウンタウンをはじめとして、街のほとんどは震災後の火災で焼き尽くされることになるのですが、大火はこの辺りにも迫ってきます。



消防士だけでは対処できず消火活動に派遣された軍隊は、火の手を妨げようと、付近の建物をダイナマイトで破壊し、壊れた建物を「防火壁」にしようとします。が、ホータリング地区で爆薬を使われたら、大量に保管してあるウイスキーに引火して炎上するではありませんか!



そこで、付近の住民は、軍隊に懇願します。「自分たちで街を守るから、どうかダイナマイトで爆破しないで」と。



「それも一理あるな」と納得した軍隊は爆破を諦めるのですが、そのうちに風向きが変わり、西風に乗ってホータリング地区に迫りくる大火は、東風によってピタッと停止。そのおかげで、ホータリング地区もウイスキーを保管するホータリングビルも焼け残ったのでした。



まわりの立派な建物がことごとく焼け落ち、人々が茫然とする中、教会の焼け跡では、牧師がこんな声をあげます。「これは、サンフランシスコの街がすっかり堕落してしまったことに対する、神の怒りである」と。



ゴールドラッシュや貿易で街が潤っていくにしたがって、退廃的な影が忍び寄り、人々は堕落した。そのことに神が怒りをあらわしたのだ、というわけです。たしかに、酒やギャンブルというのは、海に出る男たちや一部の住民の日常ともなっていたのでしょう。



そんな牧師の戒めの言葉を聞いて、ひとりがつぶやきます。



だったら、どうして神は教会を焼き切って、ホータリングのウイスキーを救ったんだ? と。



この逸話は、サンフランシスコを語る際に、必ず出てくるくらいに有名になっています。




というわけで、サンフランシスコに残されるレンガ造りの建物には、いろんな逸話が隠されています。



とかく西海岸の街には、東海岸の街に比べて(ヨーロッパ系移民の)歴史が短く、文化的に粗野なイメージがつきまとうもの。



けれども、その代わり、時代ごとにいろんな人々を受け入れ、彼らの文化が流入してきた歴史があります。それは遠い国や地域の文化だったり、新しい考えを表す文化だったり、何かしら新しいものが入ってくるごとに、違った習慣や信条を受け入れてきました。



ですから、街歩きをしてみると、街角ごとに違った趣(おもむき)があるのです。世の中には「花の都」とか「バルト海の真珠」と呼ばれる美しい都市もありますが、この街は、カラフルなアクセサリーが詰まった宝石箱のよう。



そう、蓋を開けて覗いてみたい、どんなものが入っているのか知ってみたい、そんな魅力があるのです。




<ちょっと余談ですが>

実は、最初に出てきたオーディフレッドビルディングにも、ホータリング地区にも、違ったバージョンの逸話が残されています。



一般的には「風向きが変わって建物が救われた」とされるホータリングビルには、「海軍がフィッシャーマンズ・ウォーフ(漁師の埠頭)から丘を越えて引っ張って来た、1マイル(1.6キロメートル)の長い消火ホースが一役買った」というバージョンがあります(こちらの説は、ホータリングビルの外壁に掲げられた記念碑より)。



そして、オーディフレッドビルには、「消防団は、緊急避難に利用されるフェリービルや埠頭を街の大火から救おうと、海際のオーディフレッドビルの辺りをことごとくダイナマイトで爆破して防火壁をつくろうとしたが、バーテンダーがウイスキーをちらつかせて止めさせた、それでこのビルだけ助かったのだ」という一説があります。

これは、文中でご紹介した「ウイスキーをちらつかせて助けてもらった」というバージョンとは真逆の「消防団が何もしなかったから建物が救われたのだ」というバージョンです。「ダイナマイトで爆破しなかったから、自然鎮火で助かった」というホータリングビルに酷似しています。(文中のバージョンは、ビルの前の路上に埋め込まれた碑に刻まれています)



いったい、何が真相なのかはわかりません。が、消火活動ではなく、風向きの変化で救われたとされるホータリング地区と同様、消防団を皮肉っぽく描いた背景には、それほど街が大混乱していたことがあるのでしょう。



その頃から消火活動に定評のあったサンフランシスコ消防署ですが、消防署長は地震で大怪我をして数日後に亡くなったとのこと。指揮をする署長が不在のまま、消火活動には若干の支障が出たのかもしれません。

災害が大規模だったこともあり軍隊が派遣されたわけですが、建物を爆破して防火壁をつくろうとしたおかげで、新たな火事がたくさん起きたとも伝えられています。



ちなみに、この震災と大火ではダウンタウン周辺の被害も甚大でした。前回ご紹介していた歴史地区「2番通り・ハワード通り地区」に残るレンガ造りは、そのほとんどが震災直後の1906年か1907年に建てられたものです。




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