Essay エッセイ
2005年12月29日

ラトヴィアからの友人

以前、ある雑誌でこう書いたことがあります。アメリカにいて大変なことはたくさんあるけれど、世界中から集まった人たちに会えることは、とても嬉しいことですと。

今までアメリカでは、数えきれないくらいの外国出身の人たちに出会いました。学校や職場の友人たちを合わせると、彼らの出身地は、まさにオリンピックのようです。
韓国、中国、台湾、香港、タイ、ヴェトナム、マレーシア、インドネシア、フィリピン、インド。アジアを離れて、イラン、リビア、サウジアラビア、イスラエル、ヴェネズエラ、メキシコ、アルゼンチン。ヨーロッパでは、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、ポルトガル、スウェーデンなどなど。

ヴェトナム、フィリピン、メキシコなど、アメリカへの移住者が多い国もありますし、スウェーデンのように、あまりたくさん見かけない国もあります。でも、そういった様々な地域から来た人たちが、アメリカという新世界で、英語という共通語でしっかりとつながっているのです。


中でも、ラトヴィアから来た友人は、とても親しくしてもらっているひとりです。ラトヴィアって、あまり聞いたことがないと思いますが、どこにあるかご存じでしょうか。
もともとソヴィエト連邦のひとつだったので、現在のロシア連邦に近いのですが、意外とヨーロッパ寄りなのですよ。
ノルウェーやスウェーデンのあるスカンディナヴィア半島がありますよね。その半島の、バルト海を挟んだ反対側といえばわかりやすいでしょうか。リトアニア、ラトヴィア、エストニアの「バルト三国」の一員ですね。2004年春、三国はヨーロッパ連合(EU)への加盟も許されていますので、名実ともに、ヨーロッパというところでしょうか。

友人ナターシャ(仮名)は、ラトヴィアで生まれ育ちました。だから、ラトヴィアが祖国といえます。けれども、どうしてもアメリカに来なければならない理由があったのです。
それは、ソヴィエト連邦の崩壊です。


ラトヴィアの歴史は古く、北海やバルト海を中心に活躍したハンザ同盟の商業で栄えた国です。首都のリガは、バルト海のパリとも称された街だそうです。このため、民族的にも、もともとのラトヴィア人に加え、お隣のリトアニア系やロシア系など、いろんなヨーロッパ民族が入り混じる構成となっていました。

1917年、ロシア革命でロマノフ王朝の専制政治が倒れ、ロシアに強大なソヴィエト政権が樹立しました。しかし、バルト三国は、社会主義に反する立場を貫き、それぞれ独立国家となりました。

1940年、第2次世界大戦が始まるとすぐに、ラトヴィアは、ソヴィエト連邦に支配されることとなりました。ロシア化政策のもと、ロシア人やウクライナ人が労働者として国内にたくさん移入し、ロシア語が公用語とされました。人々の生活にも文化にも、ロシアのものが色濃く影響するようになったのです。50年にわたるソヴィエト連邦の支配下で、首都のリガでは、もともとの住人であるラトヴィア系は、3割にも満たない少数派となっていたようです。

そして、1991年、ソヴィエト連邦の崩壊にともない、ラトヴィアは共和国として独立しました。ラトヴィア人にとっては、今までの半世紀にわたる支配から離れ、自由を満喫できる環境となったのです。ところが、これは、すべてのラトヴィアの人に当てはまることではなかったのです。

独立以降、ラトヴィアでは政策が一変し、このままでは消滅するといわれていたラトヴィア語が公用語とされ、ロシア語やロシア的な文化活動は排除される動きが出てきました。国民の多くがロシア語を話し、ロシア文化を踏襲するにもかかわらず。
そして、ラトヴィア系でない人たちは、この地で生まれても市民権をもらえないという悲劇が起きました。最大の少数民族であるロシア系は、国民の3割にも達しますが、その6割が市民権を得られなかったといいます(ラトヴィアは、スカンディナヴィア半島に近いため、金髪の人が多いなど、身体的特徴も北欧に近いのです。ですから、ロシア系で濃い髪の人の場合、見た目でも区別がつきやすいようです)。


ナターシャは、ロシア語を話すユダヤ系です。そのため、今まではソヴィエト連邦の国籍を持っていたのに、ラトヴィアの誕生とともに、彼女と家族は全員、無国籍となってしまいました。国籍がないので、正規のパスポートも取れません。
そんな仕打ちを受けた人の多くは、外国に移住することを決意しました。ナターシャは、夫とふたりの息子とともに、シリコンバレーに移りました。家族はみんなコンピュータ関連のエンジニアだったからです。両親と姉家族は、イスラエルに移っています。アメリカとイスラエルには、昔のソヴィエト連邦のパスポートで逃げることができたようです。
そして、数年前、ナターシャはめでたくアメリカの市民権とパスポートを手にし、初めて外国に行けるようになりました。もう誰にもはばかることなく、世界中を行き来できるのです。

ラトヴィアの政策に、内外から厳しい非難が向けられていましたが、最近になって、ようやく制度が変わり、無国籍の人もテストを受ければ国籍を獲得できることとなりました。アメリカなんかで市民権を取るのと似ていますね。歴史のテストや公用語での面接などに合格して、新しい祖国への忠誠心を誓うという。
けれども、ラトヴィアの場合は、みんなラトヴィアで生まれているのに、市民として認められていなかったわけです。ですから、中には、怒りに燃え、絶対に市民権のテストなんか受けないぞとがんばっている人もいるそうです。そうすると、市民としての優遇措置を受けられないわけではありますが、そんなことよりも、不快だという意思表示をすることが大切なようです。頑固一徹なご仁は、どの世界にもいるものなのです。

そしてもうひとつ、奇妙なことが起こりました。無国籍化した人が国外へ移住したあと、今になって、ラトヴィアに昔持っていた家やアパートを取り戻すことができるようになったのです。街並みがあまり変わらないヨーロッパの場合、住む場所は何世紀もそのままという所もあります。そこで、ソヴィエト連邦の支配が始まる以前、1930年代の昔に持っていた住み家を、今になって取り戻すことができるようになったのです。
しかし、事はそう単純ではありません。現在、その場所に住んでいる人たちはどうなるのでしょうか。ナターシャのラトヴィア系の親友も、そんな目に遭いました。ある日、ドアを開けたら、見ず知らずの人が立っていて、自分がこれからここに住むから出て行ってくれと通達されたのです。仕方がないので、移転先を必死に探し、間もなく引っ越すことになっています。勿論、いくらかの補償は支払われます。けれども、そんなものはいらないから、今までの平穏な生活を守らせてよというのが本音でしょう。

どうやら、これら一連の制度改革は、どのラトヴィアの人にとっても、憤懣が残る結果となったようです。


このお話は、アメリカに移住して12年、2005年の夏、初めて祖国に戻ってみたナターシャが、問わず語りに話してくれたものです。長い間、母国を訪れることができなかったので、旅に出る前、それはそれは楽しみにしていたものでした。
そして、写真をたくさん撮って戻って来たナターシャは、生まれ故郷である首都リガに一週間しかいられなかったことが、ちょっと残念な様子でした。けれども、大学時代の勉強仲間だったご主人と初めてデートしたカフェだとか、有名な先生の講義を聴いた教室だとか、思い出の場所をいくつも廻ったり、昔からの大切な友達をひとりずつ訪ねたりと、充実した一週間だったようです。往年のプリマバレリーナ、マヤ・プリセツカヤの80歳の誕生祝いで、彼女自身がリガの舞台を踏み、優雅な舞を披露したと、興奮気味に語ってもくれました。


バルト海のパリ・リガは、さすがに首都だけあって、堂々とした古い街並みがそのままの姿で残されているようです。あちらこちらに雰囲気のいいカフェがあったり、噴水や芝生の整備された広々とした公園があったりして、スウェーデンの首都ストックホルムにも似ているなと、写真を見て思いました。やっぱりスカンディナヴィアとは文化圏が近いのかもしれません。
その一方で、新しく開発された区画では、どんどん目新しいビルが立ち並び、昔の面影はほとんど留めていないようです。

リガ郊外には、ナターシャがアメリカに来るまで十数年間住んでいたアパートが、今でも残っているそうです。懐かしいから行ってみたんだけど、あれから誰も外壁を塗り直してないし、補修工事もまったくしていないから、もうがっくりくるほどビルが傷んでいたわ、ともらします。確かに、写真を見せてもらうと、遠くからでも外壁の一部が朽ち落ちているのがわかります。持ち主である市当局がちゃんと管理をしていないのよ、と不服そうです。

そして、その前にナターシャが住んでいたアパートも、そっくりそのまま残っています。戦後間もなく、ナターシャが5歳のときに、ウクライナから来た両親が移り住んだアパートです。ナターシャはここで育ち、大学に通い、そして、ご主人と出会いました。結婚してからも、数年間はここに住んでいたのです。
白い外壁の瀟洒なアパートですが、中はそんなに広くはないといいます。アメリカ式にいうとワンベットルーム、つまり、ベッドルームひとつに居間、それにキッチンが付いているだけです。姉は先に結婚して出て行っていたので、ナターシャと夫がベッドルームを使い、両親が居間を使うという部屋割りだったそうです。ナターシャの息子はふたりとも、このアパートにいたときに生まれました。

それはアメリカの家のように広くはないけれど、父が発電所のエンジニアだったから、こんな中級のアパートに住むことができたのだと、ナターシャはいいます。もっと狭いアパートに住むしか選択がなかった人たちも大勢いたのだそうです。
でも、どんなに余裕のない生活であっても、ギューギュー詰めの暮らしであっても、なぜか楽しい毎日だった。うまくは説明できないけれど、何となく幸せな日々だったのよね。祖国から戻ったナターシャは、ぽつりとこう語ってくれました。

遠い国、ラトヴィア。でも、遠いばかりではありません。あちらでは、ソバの実を好んで食べたりもするそうです。別にお蕎麦にするわけではなくて、お米のように炊いて食べるそうですが、不思議と日本と似ているところもあるのですね。


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