Essay エッセイ
2010年05月28日

一歩前へ

先日、ゴールデンウィークを日本で過ごしましたが、そのときにおもしろいことがありました。

古い友人が後輩に会ってくれと頼むので、アメリカに戻る前日に一時間ほどお会いすることになりました。
 なんでも、わたしがインターネットでごちゃごちゃと書いていることを読み、「お知り合いなら、ぜひ会わせてください」と、友人に頼まれたようなのです。

IT業界に働き始めてもう4年目に入り、その方は何かと思い悩む日々を過ごされていたようです。今のままでいいのかな、もしかしたら別の道もあるのかもしれないと、ちょうどこの頃になると、誰でもためらいが出てくるものですよね。


そんなわけで、しょぼしょぼと小雨の残る晩、夕食前にちょっとだけお会いしたのでした。

時間が限られていたので、思い返すと、大した話はできなかったなと後悔することもあるのですが、たとえば、こんなお話をしたでしょうか。

あちらがペルーの高地でひどい高山病になったことがあるとおっしゃったので、自分はスイスのツェルマットという村で、到着後すぐに小型酸素ボンベを買って、息苦しくなると酸素を吸っていたので、翌日は登山鉄道でいきなり3千メートルを超えても大丈夫でした、とか。

アメリカの学校は厳しいので、「来る者は拒まず」と簡単に入れてもらったにしても、出るのは非常に苦労するものです、とか。

シリコンバレーのスタートアップ会社(起業してすぐの小さな会社)に勤めたのはいいけれど、まわりの人たちがどんどん人員カットされていくのを目の当たりにするのが辛くて、最終的には自分も辞めてしまったんです、とか。

こんな風に、今まで身の上に起こった、わたしにとっては日常的な話をしてさしあげたのでした。

ところが、何が意外だったかって、別れ際に「大変参考になりました」と一オクターブ高い声でお礼を言っていただいただけではなくて、後日「今までにない刺激を受けました」と、丁寧なお礼のメールをいただいたのでした。

何でもない話をしただけなのに、いったい何が刺激的だったのかな?と、ちょっと不思議にも思うのです。日々の生活をほんの少しご披露しただけなのに。

「う~ん、ひょっとすると自分はちょっと変わっているのかもしれないなぁ」と疑念も頭をよぎったのですが、考えてみると、これだけアメリカに住んでいて、ちょっと変でない方がおかしいのかもしれませんね。今月には、初めてアメリカにやって来て30周年を迎えたことでもありますし。


まあ、そんなことは置いておいて、お会いした彼女だって十分におもしろい方でした。

なぜって、チャレンジ精神が旺盛であるとお見受けしたからです。

日頃、自分の生活に慣れてきたら、「ま、こんなものかしら」と、現状維持で行きたいものですよね。何も自ら好んで今の生活を変えることはないじゃないかって。
 でも、この方は、もっと他に何かあるんじゃないか、もっと新しいことを考えるべきなんじゃないかって、現状に満足することなく、前に進もうと策を練っていらっしゃるのです。

まだお若いのに偉いものだとも、お若いからエネルギーに満ちあふれていてとても良いとも、褒めてさしあげるべきなのでしょう。考えあぐねること、思い悩むことは、決して悪いことではないですからね。

そして、そんな彼女を見ていると、そういえば、自分にもそういう時期があったのかもしれないなぁと、日頃すっかりと忘れていた新鮮な気分にもなったのでした。


そんなわけで、その晩のことは「刺激になりました」と言っていただいたのですが、こちらは偉そうなことをぶちまけたつもりなど毛頭ありません。ただ、もしかしたら日頃わたしが心に抱いていることを敏感に察知していただいたのかなとも思うのです。

それは、どんな場面でどんな決断を下そうとも、人生の選択に間違いはない、ということ。

どうしてって、どんな道を選ぼうと、おのずと道は開けるから。

だから、「こうしたい!」と思ったら、その日が吉日なのかもしれません。そんなときには、いろいろと迷わずに、エイッと突き進むのも次の一手ではないでしょうか。

そうやって、エイッと突き進んでみようとする前向きな姿勢のことを、英語では「can-do attitude」と表現いたします。
 「やってやれないことはないさ(I can do whatever I want)」と、腹をくくって、前へと押し進むポジティヴな態度のことです。

そこでうまく行かなかったら、「あ、やっちまった!」と、また別のことを考えればいいでしょう。
 知らない間に時間なんてどんどん過ぎて行きますから、若いうちにトライした様々な経験は、みんな自然と後の栄養剤になっていると思うのです。

もちろん、うまく事が運んだら、それはとっても濃度の高い栄養剤となることでしょう。それをベースに、どんどん伸びて行くことでしょう。


けれども、人にはいろいろと性格がありますので、何が何でも突き進むのが優れていると申し上げているわけではありません。人によっては、考え抜いたあげく、突き進まないことを次の一手とする場合もあるでしょう。

それはそれで、また別の道が開けてくると思うのです。

良いとか悪いではなく、「別の」道が。

ですから、「人生の選択に間違いはない」と書いてみたのでした。

わたしの友人に、心配性の人がいます。たとえば、こんなに仕事やら何やらでストレスがあったら、そのうちに心臓発作を起こすんじゃないかとか、これから先も株式市場は落ち込みそうだから、今年は、自分の投資はいったいどうなってしまうんだろうとか、いつもそんなことが心配になる人なのです。

わたしにしてみれば、株式市場なんて誰にも予測できない世界だから、乱高下を考えるだけで無駄なことだとも思いますし、ストレスで心臓発作になることを心配するんだったら、そんな心配はしない方がよっぽど健康的だとも思うのです。

けれども、そんなことを意見したところで、人の性質がたちどころに変わるわけではありません。人にはそれぞれ本質的に受け継いだものがありますから。
 それに、彼女には、彼女なりの心配性の理由があるのです。それは、「戦争」という深い傷。今の世代の日本人には想像すらできないような、辛い経験があるのです。

ですから、彼女は、「自己保存」の本能が人一倍強いのです。そして、次の一歩を踏み出すにも、たくさん考えなければならないのです。


そんなわけで、世の中にはいろんな人がいるので、一概に何が正しいとか、何が優れているなどと短絡的な結論付けはできないわけではありますが、場合によっては、今の環境におさらばして、エイッと突き進んでみるのが良いこともあるのでしょう。

そんなときでも、ちょっと心配性の方だったら、新しいことがうまく行かないシナリオを考えて、きちんとバックアッププランを作っておくのがいいのでしょうね。
 自分は、ここまでだったら新しいことにチャレンジしてもいいけれど、もしそれ以上に時間(やお金や労力)がかかるようだったら、いさぎよく見切って元に戻ろう、というような綿密な作戦。

もし元に戻れないような大きなチャレンジを思い描いているのだったら、少なくとも、すぐに干上がってしまうことのないように、何かしら方策を考えておくべきなのかもしれませんね。

備えあれば憂えなし、と先人も言っているように、「備え」をしておくことは人生の上では重要なことなのでしょう。

というわけで、たった一回お会いしただけなのに、それだけでこちらもいろんなことを考えさせられたのでした。

「刺激を受けました」と言っていただいたわけですが、どうやら、わたし自身も彼女には十分に刺激を受けていたようですね。

そして、ごちゃごちゃと書いている側としましては、隅々まで読んでいただいていることが、とても嬉しくも思ったのでした。


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