Essay エッセイ
2023年06月19日

九州さんぽ〜長崎の網場天満神社

<エッセイ その200>

たいしたお話ではありません。ちょっとしたドライブのご紹介です。


長崎市に網場という街があります。


「あみば」ではありません。「あば」と読みます。


長崎市といえば、長崎県の県庁所在地ですが、全体的に海に突き出した半島で、おしるし程度に九州本土とつながっています。


街が誕生した頃、長崎といえば、丘の上の6町をさしていました。


ちょっと前まで県庁の建物があった小高い丘のあたり。ここに戦国時代の元亀2年(1571年)、キリシタン大名の大村純忠(おおむらすみただ)が6つの町(大村町、島原町、平戸町、分地町、外浦町、横瀬浦町)を置いたのが始まりです。


その頃、県庁があった場所は海を見下ろす岬になっていて、ローマカトリック・イエズス会のフィゲイレド神父が聖堂を建て、このサンパウロ教会は「岬の教会」と親しまれていました。


こちらの県庁別館から先は上り坂になっていて、そこに岬の教会が建っていました。別館の脇には「南蛮船(なんばんせん)来航の波止場(はとば)跡」という碑があり、ここが南蛮交易の港であったことがわかります。


大村純忠や大友宗麟が名代としてローマ教皇に派遣した少年使節(天正遣欧少年使節)の4人も、この波止場から出航しています。


この頃、長崎は大村純忠によってイエズス会に寄進され、イエズス会の知行地となっていました。


キリスト教の禁教令が出されると、岬の教会は破壊され、ここに長崎奉行所の西役所が置かれます。今は有名な観光地になっている「出島(でじま)」は、交易のため長崎を訪れる南蛮人を閉じ込め、監視する目的で、奉行所の真下に築かれました。


いえ、文字通り、奉行所から直結した場所に出島を築いたようで、よほど厳しく監視したかったのでしょう(写真では、左手が奉行所のあった場所、右手が出島です)。


江戸時代後期には、奉行所内に海軍伝習所も置かれ、オランダ人教師によって航海術や蘭学、西洋技術が伝播されました。残念ながら、今では出島のあたりはすっかり埋め立てられていて、出島の扇形も海軍伝習所から海に下る立派な石段も想像するしかありません。



時が経つにつれ、新しい町もどんどん増え、「大村」「平戸」「島原」といった他都市の名をいただく町名も替わっていきます。


ものづくりの「船大工」「本大工」「出来大工」「新大工」や「鍛冶屋」「桶屋」「紺屋」と、職人の町名もあります。「酒屋」「麹屋」「油屋」「万屋(よろずや)」と、商人の町を思わせる名もあります(現在は消失した町名も多いです)。


そして、近年になると、もともと「〜郡〜村」と呼ばれていた周辺の地も長崎市に編入され、「長崎市〜町」と呼ばれるようになりました。


そのひとつが、今日の話題の網場町(あば・まち)。


もとは西彼杵郡(にしそのぎ・ぐん)日見村(ひみ・むら)の一部でしたが、今では長崎市網場町になっています(長崎市内の町は、「〜ちょう」ではなく、「〜まち」と呼ばれます)。


長崎市東部の海に面していて、網場漁港があります。おそらく、網場という変わった名は、漁を獲る網から生まれたんでしょうね。漁船が戻ってくると、大漁の魚を陸に揚げ、そこらじゅうに網が干される、といった光景を思い浮かべます。


その網場町の「1番地1」にあるのが、網場天満神社(あばてんまんじんじゃ)。


よく「一丁目一番地」という言葉を耳にしますが、最重要な課題・事柄という意味。長崎市に編入した際に「網場町1番地1」という住所にしたのは、昔からここが集落の中心地で、大事な場所だったからでしょう。


村を見下ろす小高い森にあって、人々を守る鎮守さまのいらっしゃるところ。


この天満神社の鎮守の森は、長崎市の天然記念物に指定されていて、楠(くすのき)やヤマモモ、椿と、いろんな高木や低木が混ざりあった、こんもりとした森。とくに巨木や珍種があるわけではないけれど、「丘全体が海沿いの照葉樹林の社叢(しゃそう、鎮守の森)として、大切に保存すべきものである」ということです。


まわりは、郊外のベッドタウンとして宅地開発がとみに進んでいますが、この自然林だけは大切に保存していこう、という自治体の意志が感じられます。


天満神社のひとつ目の鳥居をくぐると、石の階段が本殿へと向かっています。歴史を感じさせる石段で、ひとつひとつの石材を形づくったノミの跡が見て取れます。


この神社の創建は、江戸時代初頭の寛永三年(1626年)。このノミ跡は、江戸時代の集落の方々が残されたものなのでしょう。


あまり長くはないけれど、急峻な石段を上り終わると、ふたつ目の鳥居があって、その向こうに、こぢんまりとした社殿が見えます。


この天満神社の御祭神は、菅原道真公(すがわらみちざねこう)。「学問の神様」として知られ、福岡の太宰府天満宮をはじめとして、日本各地に祀られる神様です。


二番目の鳥居をくぐると、左手に、かわいらしい撫牛(なでうし)が鎮座します。天満宮では牛が聖獣とされ、撫牛の像が置かれるのが一般的です。


こちらの撫牛の奉納は、昭和13年(1938年)。「皇軍」という文字が見えるので、軍隊に入隊する方々を称える目的で奉納されたのでしょうか。


前年夏には日中戦争(支那事変)が勃発し、太平洋戦争へと一気に傾いていく時代。この年の春には「国家総動員法」も公布され、召集令状を受ける出征者も激増します。


この静かな漁港でも、次世代を担う若者が次々と招集されたのでしょう。この碑に刻まれた方々が無事に戻って来られたのか、気になるところです。


撫牛の右角は折れ、左耳は欠け、それが時の流れを感じさせます。


撫牛の隣には、「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)」の碑もあります。


猿田彦神(サルタヒコノカミ)とは、『古事記』『日本書紀』に登場する神で、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天から地に降りたときに道案内をされた神。猿田彦神をお祀りする神社も多いそうですが、この辺りでも信仰の対象になっていたのでしょうか。


そういえば、石段を上っていると、右手に小さな祠(ほこら)がありました。


こちらに祀られるのは、恵比寿(えびす)様。日本各地の漁港では、海の安全と豊漁をもたらす漁業の神として、恵比寿様が祀られます。


天満神社の入り口に恵比寿様が祀られるのは、珍しい感じもしますが、ここは古くからの漁港。集落の中心地にある神社には、学問の神も猿田彦神も恵比寿様も仲良く祀られるのです。


恵比寿様といえば、網場漁港のそばにも石の祠がありました。


どなたかお参りしたばかりなのでしょう、小さな大黒様もいらっしゃる祠は、水で清められた様子です。


海は、穏やかであり、ときには時化(しけ)ることもある。いつ危険な状況に遭遇するかわかりません。技術が進んだ今でも、海の安全と豊漁を願う恵比寿信仰は、しっかりと受け継がれていることを実感したのでした。



さて、お話がそれましたが、小高い鎮守の森の網場天満神社。


社殿はごく小さいものの、宮大工の確かな技巧を感じる立派なものです。


目を引くのは、軒下の彫刻。柱の上で睨みをきかせる龍は、両前足を顔のそばに置き、今にも飛びかかるような勢いがあります。


屋根の真下には、波の彫刻も見えます。勢いよく立ち昇るのは、波頭なのか、それとも海から現れた龍なのか、装飾的に彫られた文様は、かなりの芸術作品かと見受けられます。


そして、本殿に向かう階段の軒下には、また違った彫刻が見えます(写真の右下)。鼻が長く、牙(きば)があって、耳がたれて大きい。目を細めて、優しそうな動物は、まぎれもなく象でしょう。


神社には龍や象の彫物は多いですが、象といえば、長崎に縁のある動物なのです。


江戸時代、南蛮船によって長崎に初めて象やラクダ、インコが運ばれ、珍獣のご一行様は長崎街道をテクテクと歩いて、将軍のいる江戸へと向かったそうです。


実は、網場のある昔の日見村(ひみむら)は、長崎街道を通って江戸に向かう際、最初の難所・日見峠(ひみとうげ)を越えた辺りになります。日見宿という宿場もあり、もしかすると、ノソノソと日見峠を超えた象さんが、「あ〜疲れたぁ」と休んだ場所なのかもしれません。


享保13年(1728年)、舶来の象が二ヶ月以上かけて江戸に向かい、その道中で多くの日本人が象の姿を目にした、との記録もあるそうです。実際に日見宿で象を見た彫り師が、天満神社にリアルに彫り込んだのでは? と、勝手な想像をしてしまうのでした。



天満神社の境内を抜け、森を逆側に下りると、斜面には地域の公民館や民家が肩を寄せ合って建っています。


海沿いのバス道路は、左手に行くと網場漁港。右に上っていくと、クネクネとした道は南下して、いずれは「茂木(もぎ)ビワ」で有名な茂木にたどり着きます。


左手の漁港の方へと向かうと、海沿いに堤防が続き、海を臨んで民家が建ち並んでいます。


天気の良い日は海も青く、さぞかし気持ちの良いことだろうと、うらやましくも感じます。


どこか懐かしい感じがするのは、無造作に置かれた電柱のせいかもしれません。この道は車も通れる、生活道路。でも、電柱の方が占有権を持っているようですね。


そして、目の前の橘湾(たちばなわん)。


海を隔てて見えているのは、牧島(まきしま)という島です。


ここは、お魚を獲るだけではなく、鯛の養殖でも有名なところ。近くには水産センターもあって、長年、養殖の研究を続けてこられたようです。


今は、「戸石ゆうこう真鯛」と「戸石ゆうこうシマアジ」というブランド魚も売り出し中です。


戸石(といし)というのは、牧島から橋を渡った先の町名。そして、「ゆうこう」というのは、長崎市に自生していた珍しい柑橘の名。


ゆうこうの自生地は、外海(そとめ)と土井首(どいのくび)というキリシタンの多い地区だったので、キリスト教とともにヨーロッパから渡来したのではないか? という説もあるとか(写真は、ゆうこうを身近に味わえるようにと、マーマレードにしたもの)。


香り高く、まろやかな酸味のゆうこう。出荷直前の真鯛やシマアジに食べさせると、独特のくさみも消え、美味しいお魚になるのだとか。


まだ食したことはありませんが、海と陸の産物を融合した、新しい地元の味ですね。



というわけで、まったく取りとめもないお話になってしまいましたが、長崎市網場町の天満神社。


日見トンネルを越えて網場に向かったら、偶然に見つけた神社でした。


そんな行き当たりばったりのドライブの中で、なにかしら心惹かれるものがあって、ご紹介してみようと思ったのでした。


土地の人々との強いつながりを感じるところ。それが、訪れる人を魅了する理由なのかもしれません。


そして、境内の砂利に顔を出す、丸い石。


不思議なもので、わたしにとっては、この丸い石が鎮守の森の主(ぬし)であり、なにかしら語りかけているようにも感じられたのでした。



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