Essay エッセイ
2023年09月14日

吉野ヶ里(よしのがり)へいらっしゃい!

<エッセイ その204>

今日の話題は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。


吉野ヶ里(よしのがり)とは、ヘンテコリンな名前ですが、佐賀県神埼(かんざき)市と神崎郡吉野ヶ里町にまたがる、弥生時代の遺跡です。


ちょうど左半分が神埼市、右半分が吉野ヶ里町の『吉野ヶ里歴史公園』として整備されています。


現在、公園の広さは106ヘクタール(計画面積117ヘクタール)。吉野ヶ里遺跡だけでなく、古代植物の森や祭りの広場、弥生の大野などがあり、家族連れで遺跡を見学してもよし、ピクニックを楽しんでもよし、歴史ファンだけではなく、地元の人たちの憩いの場となっています。


ごく最近、吉野ヶ里が話題になっていましたが、それは、今まで調査できなかった「謎のエリア」と呼ばれる一画を発掘できるようになったから。


今日は、この「謎のエリア」についてご紹介いたしましょう。



まずは、地理的な背景をご説明しておきましょう。


そもそも、北部九州では、縄文や弥生の昔からどこに人が住みやすそうかというと、やはり平野部ではないでしょうか。


こちらの地図でいうと、右上の北九州市の海沿いから左下へ、宗像(むなかた)、福岡、糸島(いとしま)、唐津(からつ)へと延びる玄界灘沿岸。そして、福岡から下へ太宰府、鳥栖(とす)を通って、南に広がる筑紫平野(つくしへいや)の辺り。


中でも、今の福岡県と佐賀県にまたがる筑紫平野は、北に脊振(せふり)山系が連なり、玄界灘から吹き付ける風が雨や雪を降らせ、川となって肥沃な平野に注ぎ込む、絶好の立地となっています。


脊振山系を水源とする城原川(じょうばるがわ)や田手川(たでがわ)が、九州最大の筑後川(ちくごがわ)と合流し、最終的には有明海(ありあけかい)に注ぎ込む。川の恵みだけではなく、海の恩恵を得られる地域です。


縄文時代には、温暖化によって有明海の海面は今よりも上昇していたので、筑紫平野にはもっと内陸まで海が食い込み、湿地帯を形成していました。


湿地帯は魚介類を獲るには便利な場所であり、日本最古の湿地性貝塚群となる国史跡・東名遺跡(ひがしみょういせき、佐賀市金立町)も発見されています(参照:九州遺跡研究会著『九州 古墳・古代遺跡探訪ベストガイド』メイツ出版、2018年、p56)。


そして、紀元前5世紀から紀元後3世紀にわたる弥生時代は、稲作が広まり、定住文化が根づいた時期。


稲作は、縄文晩期には北部九州の玄界灘沿岸で行われていて、佐賀県唐津市の国史跡・菜畑(なばたけ)遺跡では、水稲耕作に使われた水田跡が見つかっています(参照:同上 pp58-61)。が、稲作農耕が広く伝播したのは弥生時代になってから。


この新しい時代の定住に好立地となったひとつが、吉野ヶ里のなだらかな丘陵でした(写真は、園内に植えられた陸稲の稲穂)。



そんな昔の人々の暮らしの痕跡を求めて、大正から昭和初期には、玄界灘沿岸の福岡平野や佐賀平野東部の段丘と、周辺地域で発掘調査がなされていました。福岡平野ではおびただしい数の青銅器が、佐賀平野では弥生土器や墓地遺跡が次々と報告されています。


吉野ヶ里遺跡は、昭和初期から認識されていましたが、1986年より、工業団地の開発にともない大規模な発掘調査が行われるようになりました。


この一帯でも甕棺墓(かめかんぼ)群や人骨、縦穴住居跡や高床倉庫跡、青銅器や土器、農具などが次々と見つかります。貴重な弥生時代の遺跡であることが判明し、1989年には、工業団地開発の縮小と遺跡保存が決まり、1991年には、国の特別史跡に指定。国営公園の整備も決まり、10年後には吉野ヶ里歴史公園として開園を迎えます。


この遺跡の何がすごいかって、まずは、近隣の遺跡に比べて、規模が格段に大きいこと。現在、見学可能な集落として整備される区域は40ヘクタールですが、園内のいたるところに、住居跡や墓地跡と生活の痕跡が見つかっています。


そして、遺跡には住居、倉、市場、祭殿や物見櫓(やぐら)と、暮らしや祭り事に必要なものはすべてそろっていること。小さなムラ(村)から大きなクニ(国)へと、およそ700年間の弥生時代の集落の変遷が如実にわかります。


さらには、集落のまわりには何重にも壕(ほり)がめぐらされ、環壕集落(かんごうしゅうらく)となっていること。


米作りが安定して定住生活が進むにつれて、水や土地を奪い合う争いが起きるようになる。とくに吉野ヶ里には、農作物だけではなく、青銅器の製造や、絹織物を織る工房もあり、周辺地域の羨望の的。ですから、集落のまわりには深い壕をめぐらせ、逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる先端の尖った杭でバリケードを築いていました。


これらを鑑みると、吉野ヶ里は弥生時代最大級の環壕集落であり、当時のクニの指導者たちが住んだ中心的な集落(みやこ)だったと考えられるのです。



そんな史跡には、「謎のエリア」と呼ばれる区画があります。


歴史公園の真ん中にある「祭りの広場」の東側、見晴らしの良い丘の上にある、今まで未調査だったエリアです。


ここには日吉神社という神社がありましたが、一昨年に移転したのをきっかけに、昨年(2022年)から発掘調査が始まりました。


これまでに4000平方メートルの区域の半分が発掘終了。


中でも際立っているのが、今年4月に見つかった箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ、SC3039石棺墓)です。


ニュースでも取り沙汰されていましたが、この石棺墓は、弥生後期の邪馬台国時代(紀元後2世紀後半から3世紀中頃)のもの。


被葬者は単独で埋葬されているので、かなりの実力者、もしかして邪馬台国の女王・卑弥呼のもの? と注目を集めました。


そう、石棺墓の大きさ(内寸)は、全長180センチ、幅36センチ。かなり細長く、成人女性の埋葬者を思わせるサイズです。


特別公開日の6月24日、現地で実物を見たわたしも、「自分だったら入れるのかな?」と疑問に思うほど、幅が狭いのです。


そして、石棺の底や側面と、内部に赤い点々が残っていて、どうやら内側は、すべて赤色顔料で塗られていたようです(写真ではわかりにくいですが、一番奥の側面に顕著に見られるとか)。


当時、赤は高貴な色とされ、赤色顔料は貴重なものでした。


弥生時代の赤色顔料には、水銀朱(硫化水銀)とベンガラ(酸化第二鉄)の2種類があるそうで、石棺内部の赤がどちらなのかは、今後の分析によって明らかにされるとのこと。


硫化水銀からなる天然鉱物には辰砂(しんしゃ)というのがあって、これをすりつぶすと、赤い顔料になるそうです。辰砂の採掘遺跡としては、徳島県阿南市の国史跡・若杉山(わかすぎやま)辰砂採掘遺跡が名高いそうですが、顔料の材料がどこから来たのか? というのも、当時の交易の幅を示す重要な鍵なのでしょう。


赤は、海外でも好まれる色。わたしが長年住んでいたカリフォルニア州サンノゼ市でも、その昔、先住民族のオローニ族(the Ohlone)がアルマデン谷で産出する辰砂(cinnabar)を使って、体を赤く塗っていたそう。


貴重な辰砂は、交易の品でもあり、1300キロ離れたワシントン州(カリフォルニア州の上の上)の内陸部からも、オローニ族の赤を求めてやって来た痕跡があるとか。


ちょっとお話がそれましたが、謎のエリアの石棺墓。石棺の上には、平たい石蓋(いしぶた)が4枚置かれていました。


そのうちの3枚は、通常の石棺墓に使われる石蓋よりも厚くて、重いものでした。


蓋は棺よりも大きく(全長230センチ、最大幅75センチ)、頑丈な石で上からしっかりと蓋をした感じ。


興味深いことに、3枚とも「+」や「−」、カタカナの「キ」のような線刻が刻まれていました(一番大きな石蓋には内側に、あとの2枚には外側に刻まれています)。


これらは文字というよりも、なんらかの文様とされていて、被葬者の魂を封じ込める意味があったのではないかと考えられています。



石棺の蓋が外されたのは、6月5日のこと。


先に同じ丘で発掘された甕棺墓(かめかんぼ、SJ2775 石蓋甕棺墓)からは、前漢代の鏡や両腕にたくさんの貝輪をした熟年女性の骨が見つかり、司祭者的な身分の高い女性かと考えられています。


この辺りには、絹布片や碧玉製管玉など副葬品をともなう女性の埋葬者が多いこともあり、こちらの石棺も? と、みなさんの期待はグッと高まります。


が、ご存じのとおり、残念ながら、中からは人骨や副葬品は発見されませんでした。


ですから、埋葬者は女性なのか、大陸とも交わりのあった邪馬台国の人であり、女王ほどの高貴な人なのか、といった重要な疑問に今のところ答えはありません。


今月から行われる発掘調査では、石棺墓の周囲を広げていって、埋葬者の詳細を明らかにする方針とのこと。


ちなみに、甕棺墓というのは、大きな甕の中に遺体の手足を折り曲げて屈葬するお墓のこと。北部九州では、弥生時代の前期から中期にかけて広く行われた埋葬方式で、福岡県から佐賀県にかけてたくさんの甕棺墓遺跡が見つかっています。


こちらの写真は、福岡市の福岡空港近くにある、国史跡・金隈(かねのくま)遺跡。


この遺跡は、弥生時代の600年にわたって、墓地として使われたところ。348基の甕棺墓、2基の石棺墓、119基の土坑墓(どこうぼ)が見つかっていて、136体の人骨も発掘されています(土坑墓は甕棺墓より古く、土を掘りかためて遺体を納める埋葬方式)。


同じように甕を使う埋葬でも、時が流れるにつれ甕の形状が変化するそうで、この遺跡は、埋葬時期を推測する「ものさし」ともなっているそうです(参照:『国史跡 金隈遺跡』パンフレット)。


吉野ヶ里遺跡の謎のエリア近くには、最も神聖な区域とされる「北内郭(きたないかく)」があります。ここには主祭殿が置かれ、田植えや稲刈りの日取りを決めたり、狩りや戦いの祈りを行ったりと、重要な儀式が執り行われていました。


さらに、周辺には、歴代の王たちが埋葬された「北墳丘墓(きたふんきゅうぼ)」や、500基ほどの甕棺墓が並ぶ「甕棺墓列」があります。


南側の集落区域とは対照的に、この遺跡中央部から北部にかけては、クニの祭り事を行うとともに、死者へ祈りを捧げる、神聖で特別な区域だったのでしょう。



謎のエリアの発掘は、あと半分残っています。


ですから、今後の調査によって何が出てくるのか、ワクワク、ドキドキするイベントなのです。


そして、このワクワク、ドキドキのイベントに参加できるそうですよ!


10月1日から11月12日の毎週日曜日(11月5日を除く6日)、「発掘調査体験会」が開かれ、調査団が実際に使っている道具を手に取って、謎のエリアを発掘できるのです。この体験会は昨年も開かれ、大好評だったので、今年もアンコール開催となりました。


希望日の3週間前までに申し込み、希望者多数の場合は抽選に当たった人だけの幸運だそうですが、考古学者の気分を味わえるなんて貴重な体験ですよね。1回40分程度の体験と、それほど長くないので、小さなお子さんでも参加できるそう。


昨年11月の発掘では、貴重な発見もありました。この辺りには奈良時代に役所が置かれていて、税で納められた物品をはかる青銅製のおもり「権(けん)」が見つかったのです。今年もまた、重要なものが見つかるかもしれません!


いや、ちょっと発掘調査は難しそうという方には、9月23日から11月19日に開催される「オープンエアミュージアム」もあります。


普段は見られない謎のエリアの見学ができて、QRコードでスマホアプリをダウンロードすると、石棺墓などの出土品の3D画像を見たり、発掘担当者が画像上で解説したりと、見学プラスアルファーの体験ができるそう。


そして、11月には「バックヤードツアー」もプランされています。11月5日と19日の両日曜日、発掘現場や普段は立ち入れない出土品の収蔵施設をスタッフの解説付きで見学できます。本物の出土品を手にして写真を撮る、なんてこともできるのです。


「発掘調査体験会」「オープンエアミュージアム」「バックヤードツアー」の3つのイベントは、いずれも無料体験ですが、歴史公園への入場料(大人460円、中学生以下無料)が必要となります。


詳細については、こちらの特設ウェブサイト『ナゾホルよしのがり』へどうぞ。



というわけで、魅力満載の吉野ヶ里遺跡。


もう、弥生時代の遺跡というよりも、テーマパークみたいに楽しい歴史公園になっています。


歴史好きの方も、そうでもない方も、一度見学するとハマってしまうかもしれません。


車で来るなら、長崎自動車道の東脊振IC、電車で来るなら、JR長崎本線(普通列車)の吉野ヶ里公園駅が最寄りとなります。


ただし、園内は広大なので、一日ですべてを見るのは無理。何回か足を運ぶことをお勧めいたします!


<参考資料>

吉野ヶ里歴史公園ウェブサイト

吉野ヶ里遺跡 2023年6月24日・25日 特別公開パンフレット

佐賀県文化財調査報告書『第156集 吉野ヶ里遺跡』佐賀県教育委員会編、2003年

佐賀県文化財調査報告書『第227集 吉野ヶ里遺跡』佐賀県編、2020年

『ナゾホルよしのがり』のイベントについては、9月4日 NHK福岡放映の『はっけんTV(テレビ)』を参考にさせていただきました


文化財調査報告書を拝見すると、年代ごとに異なる土の層をひとつずつ掘り進め、それぞれの層から見つかる出土品をすべてカケラにいたるまで丁寧に記録していく発掘作業が目に浮かびます。

まさに根気のいる調査であり、その労力と注意力、大規模なプロジェクトを遂行する計画性や組織力に頭の下がる思いがいたします。



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