Essay エッセイ
2026年01月22日

香椎宮の「綾杉(あやすぎ)」

<エッセイ その228>

新しい年が明けて、もうすぐひと月。


大人になると、年月が加速度的に過ぎていくのが恐ろしいです。


そんな新年の幕開けですが、年末年始は、静かに自宅で過ごしました。


わたし自身は、生まれてこのかた初詣をしたことがないのですが、その代わり、大晦日(おおみそか)に香椎宮(かしいぐう)に寄ってみました。


香椎宮は、福岡市東区香椎(かしい)にある由緒正しい神社で、全国に十六社しかない勅祭社(ちょくさいしゃ)のひとつ。


勅祭社とは、古代より朝廷との縁が深く、天皇の幣物(へいもつ:供え物)と祭文(さいもん:祈りのことば)を携えた勅使(ちょくし)がいらっしゃって、定期的に「勅祭」を執り行う神社のこと。


島根県の出雲大社、奈良県の春日大社、東京都の明治神宮などが含まれ、九州には、香椎宮と大分県の宇佐神宮(うさじんぐう)の二社があります。


勅使がいらっしゃると、儀式のあとには、こんな風に植樹をされるそう。こちらは、前田利信氏が掌典(しょうてん)として香椎宮にいらっしゃった際、手植えされた杉の木。


掌典というのは、宮中祭祀を担当する職で、前田氏は宮内庁で掌典次長を務めた方のようです。


そんなありがたいお宮なのに、買い物のついでにふらっと足を伸ばしただけという、ちょっとバチ当たりな行動でしょうか。


すると、驚いたことに、御神木の綾杉(あやすぎ)のまわりには、たくさんの人が集まり、まさに神官たちの儀式が始まろうとしています。


大晦日に何の儀式かと思えば、看板には「年越の大祓(おおはらえ)」とあります。


なんでも、心身の穢れや災厄のもととなる罪や過ちを祓い清める行事だそうで、年に二回、夏越と年越に行われるそう。例年、多くの人々が集い、年を越す大事な行事とされているのでしょう。


こちらの御神木・綾杉は、西暦200年(紀元860年)、神功皇后(じんぐうこうごう)が「とこしへに本朝(みくに)を鎮め(しずめ)護る(まもる)べし」と、祈りを込めて植えられた杉と伝わります。


科学的な樹齢はさることながら、とっても古く、迫力があって、神が宿っているのではないかと思うような、立派な杉です。


どんな人でも、なにかしらのパワーを感じるのではないでしょうか。



そして、この綾杉を訪れた中には、歴史的な人物もいらっしゃいます。


時は、平安時代中期。一条天皇の内覧(政務補佐役)を務める藤原道長(ふじわらの みちなが)が、頭角を現していった頃。


道長が甥の内大臣・藤原伊周(ふじわらの これちか)と権中納言・隆家(たかいえ)の兄弟としのぎを削る中、この兄弟が騒動を起こします。


伊周が通っていた姫の屋敷に、何者かが通っていると知った彼は、弟の隆家に相談します。すると、血気盛んな隆家は、従者の武士を引き連れて、屋敷を訪れた一行を襲撃。


あろうことか、襲われた人物は、先の天皇である花山院(かざんいん)。10年前に出家した花山院は、今もなお女性のもとに通っていたのです。隆家が放った矢は、花山院の袖を貫き、従者の童子二人が殺害され、首を持ち去られるという騒ぎに発展。


実は、花山院のお相手は、伊周のお相手の姫とは別人だったのですが、固く口を閉ざす花山院の意に反して、事は一条天皇の耳に入ります。騒ぎを起こした張本人として、伊周は九州の大宰府(だざいふ)の権帥(ごんのそち)に、隆家は出雲の権守(ごんのかみ)に左遷という宣命が下ります。


いえ、その頃の朝廷の出来事をつぶさに記した藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』によると、隆家は花山院に弓を引いたわけではなく、隆家の家来と花山院の従者が闘乱を起こした、というのが事実のようです(『小右記』長徳二年(996年)正月十六日の項)。


が、事実がどうであれ、上皇に対して狼藉を働くことは、先の奈良時代には死罪にもなったという重罪。これで伊周と隆家の兄弟は、完全に失脚したと思われましたが、間もなく他界した伊周に対して、隆家は恩赦によって官界に復帰し、中納言まで上ります。


ところが、30歳を過ぎた頃、古傷がもとで眼病を患い、出仕もままならず邸宅に籠るようになります。


ここで大宰府に良い目医者がいると聞きつけた隆家は、自ら大宰権帥(だざいのごんのそち)を希望。


権帥を務めた5年間で善政を施し、地元の信頼も厚く、満州から攻め入った女真族の海賊(刀伊の入寇:といのにゅうこう)に応戦し撃退するという功を成します(在任1014年〜1019年)。


女真族は対馬・壱岐の人々を殺害・拘束し、博多湾を南下して能古島、博多の街へと攻め入ったという国際的な大事件。なんとか地元・大宰府軍で敵の船団を追い払ったのですが、このとき遠く京の公家たちの関心事は、空席となった大臣ポストに誰が就くかということ。指揮官として功績を挙げた隆家を讃える声はあったものの、彼が取り立てられ出世することはありませんでした。


京に戻った隆家は、いまだ目の具合が思わしくなかったのか、厭世的になっていたのか、内裏に出仕することもなく、40代半ばで中納言を辞します。そして、60歳を目前にして、再び大宰権帥に任命され、大宰府へと赴きます(在任1037年〜1042年)。



と、すっかり前置きが長くなりましたが、この二度目の権帥任官の前に隆家が立ち寄ったのが、ここ香椎宮でした。


当時、京より大宰府に任官する者は、神官に御神木・綾杉のひと枝を冠に刺してもらう慣習がありました。神功皇后が朝鮮半島出兵より無事に帰還したとき、鎧(よろい)の袖についていた枝を植えたものと伝わる綾杉。九州を平定し、軍隊をも統率する大宰府に赴く覚悟を、綾杉のひと枝に込めた儀式なのでしょう。


綾杉の枝を冠にいただく隆家に敬意を表し、神主はこのように歌に詠みます。(以下は、そのときの情景と歌)


隆家卿大宰帥に二たびなりて後のたひ、香椎御社にまいりたりけるに、神主ことのもととて、杉のはをおりて、帥かうふりにさすとて、よめる。神主 大膳武忠


ちはやふる かしゐの宮の 杉の葉を

                                                      二たひかさす わが君そきみ

(ちはやぶる 香椎の宮の杉の葉を ふたたびかざす わが君ぞ きみ)


こちらは、隆家の二度目の任官から数十年後に編纂された勅撰和歌集『金葉和歌集』に採られた歌です(勅撰和歌集とは、天皇や上皇が編纂させた和歌集のこと)。


「わが君ぞ きみ」と詠嘆しているところは、もうそんなに若くはない隆家の姿が凛々しく、神主自身にも誇らしく感じられたことを表しているのでしょう。


その頃は、今のJR香椎駅を通る鹿児島本線が海岸線となっていて、香椎宮の参道の入り口は、海のすぐそばでした。


隆家の一行は、香椎宮本殿前の綾杉から奥へ進み、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が国を治めようとした橿日宮(かしいのみや:現・香椎古宮)の丘から、杉木立の向こうに海を臨んだことでしょう。


この二度目の任官から京に戻った隆家は、二年後には他界。享年66歳でした。


香椎の宮に立つと、彼はいったいどんな気持ちで綾杉を仰ぎ見て、香椎の海を眺めたのかと、千年前に生きた人物のことを思い起こすのでした。



というわけで、大晦日にふらっと立ち寄った香椎宮でしたが、ここ何年かの改修工事も終え、本殿は美しい姿を現していました。


屋根が何層も重なるような複雑な形をしていて、その独特な外観から「香椎造(かしいづくり)」と呼ばれるそう。


神亀元年(724年)の創建以来、何度も火災で消失し、今の本殿は、福岡藩10代藩主・黒田斉清(くろだなりきよ)が1801年に再建したもの。国の重要文化財にも指定されている美しい神社建築です。


本殿では、翌日の初詣に備えて、大きな賽銭箱も準備されています。


古来、人々は自然に神が宿り、ご託宣は木に降りてくると信じたことから、御神木が生まれました。そこから祈りを捧げる社殿が造られるようになり、今の神社の形となります。


社殿の創建という意味では、香椎宮は、伊勢神宮、出雲大社に次いで、三番目に創建されたという古い社。昔ながらの造りなので、綾杉前の階段を上ると、すぐに本殿となっています。初詣の方々がいらっしゃると、すぐに人であふれてしまいそう。


そう思って、わたしはひと足先に午年のおみくじを手に取りました。


いえ、普段は神社でおみくじをいただくことはないのですが、そこは、新年ですから。かわいらしい馬のお腹におみくじが入っていると聞き、パチっと目の合ったお馬さんを手に取ります。


ひとつ500円とは、おみくじにしては高価ですが、お馬さんは一年じゅう飾れるので、そのまま家に持ち帰ります。


夜が明けて、元旦におみくじを開くと、「末吉」でした・・・。



静かにお屠蘇とおせち料理をいただいた元日は、シャンパンにほろ酔い気分の連れ合いが昼寝をする間、前夜の紅白歌合戦などを観ていました。


すると、窓の外に珍しい鳥を発見!


オレンジ色のお腹に、顔はグレーと黒。まるで誰かが装いを選んであげたような、シックな色合いです。


こちらが動くと逃げてしまいそうで、窓も開けられず、どんな声で鳴くのかもわかりません。


けれども、あちらは、紅白歌合戦で布施明さんが『My Way(マイウェイ)』を熱唱していたのを、ガラスを通してじっと聴き入っているご様子。


実は、鳥という生き物は、コミュニケーション能力に優れていて、周辺に生息する違った種類の鳥たちとも鳴き声で合図を交わし合い、猛禽類などの外敵の襲来に備えているそう(参照:”Distant Diplomacy: Unrelated species “talk” and understand one another to avoid threats” by Jesse Greenspan, Scientific American, January 2026, p12)。


この日は、どんよりと曇った肌寒い一日。葉の陰に隠れてホッとひと息、人間の熱唱に耳を澄ませていたのかもしれません。



夕方は、「はばたき公園」の丘に上ります。


すると、連れ合いが「あ、大きな魚を捕まえている!」と叫びます。


レンズを向けると、こちらの写真が。


ズームする時間もなかったので、被写体は小さいですが、確かに大きな鳥が、かなり大きな魚をわしづかみにしています。


トンビなのか、タカなのかわかりませんが、近くの湾から魚を捕獲し、そのままどこかに飛び去って行きます。


ここは、香椎宮にもほど近い、和白干潟(わじろひがた)のすぐそば。まわりには福岡市東区の住宅地が広がりますが、まだまだ自然が残される地域です。


和白干潟には、絶滅危惧種のクロツラヘラサギも生息します。ヘンテコリンな名前ですが、なんのことはない「黒い面(つら)をした、(しゃもじに似た)ヘラのようなくちばしを持つサギ」という命名です。


お散歩をした「はばたき公園」自体、人工島のアイランドシティに新たにオープンした、野鳥保護・観察公園なのです。


そんなわけで、オシャレな鳥さんが枝に休んでいたり、魚をわしづかみにする猛禽類が飛来したりと、都会と思われる福岡にも、まだまだいろんな生き物が息づいています。


新しい年も、環境が激変することなく、人も自然も平和に暮らせる一年となりますように!


(最後の写真は、博多湾に突き出た志賀島(しかのしま)を南西から眺めたところ。右奥の辺りが、人工島アイランドシティと「はばたき公園」、その向こうに和白干潟が見えています)


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