Essay エッセイ
2009年02月14日

20年のお話

昨日は、なんと、13日の金曜日でした。以前「英語ひとくちメモ」のコーナーで、「13日の金曜日」というお話を書いたことがありますが、とにかく、アメリカには、この日を嫌う人が多いのです。

ついでに、わたし自身も13という数字が大嫌いなのですが、昨日の13日の金曜日には、やはり嫌なことがありました。

いつも行き慣れているオーガニックのお店に買い物に向かったのですが、もう少しで、前の車に追突しそうになりました。いえ、わたしの前方不注意ではありません。相手が突然、わたしの車線に移ってきて、目の前で止まったのです! そう、車道の真ん中で!

わたしは、ノロノロとショッピングモールから出てきたその車を、「どうも怪しいな」と遠目に観察していました。なんとなく、危険な行動に出そうな予感がしたからです。
 すると、突然、目の前に割り込んできて、そこで止まってしまいました。わたしは急ブレーキをかけて事無きを得たのですが、なんの事はない、その車のドライバーは、「あら、どこでUターンしようかしら」と、道の真ん中で思案していたようです。

実は、以前も似たようなことがありまして、信号の少ないエキスプレスウェイを快適に運転していると、前の車が完全に停止してしまったことがありました。このときは、ドライバーが「あら、出口をミスったわ、どうしましょう」と、熟考していたようです(同乗の人と協議しながら、もう少しで後退しそうでもありました)。
 わたしは、かなり急なブレーキをかけてストップしたのですが、幸運なことに、そこは下り坂で見通しが良かったので、後続の車も、事情を察してわたしを回避してくれました。

なんでもカリフォルニアでは、こういったケースがあると、後ろから突っ込んだ車が前の車の損傷を弁償するという保険会社同士の(変な)決め事があるそうで、そうなると、こっちは悪くないのに、こちらの保険料が上がってしまう可能性があるのです!

いやはや、そのときも昨日も、何もなくて本当に良かったです。

けれども、やっぱり13日の金曜日には何事かがあるらしく、この日は、全米で銀行が4つもつぶれたそうです。

なんでも、今年アメリカでつぶれた銀行は、全部で13


さて、悪夢のような13日の金曜日が明けると、今日はヴァレンタインデー

連れ合いは出張しているし、べつに何といって特別な行事はありませんが、きっと世の中はルンルンしているのだろうなと、こちらも楽しい気分になるのです。

そんなヴァレンタインデーに向けて放映されたのかもしれませんが、先日、おもしろい短編映画を観ました。

アメリカの公共放送では、週に一回『ImageMakers(イメージメーカー)』というシリーズを放映しているのですが、これは、今はまだ知られていない、世界中の未来の巨匠たちの短編映画を紹介するコーナーとなっているのです。

その中で、こんなものがありました。

あるドイツ人の男性が、タクシーに乗って大きな橋を渡って、ニューヨークのマンハッタンに向かっています。膝の上には、シンプルな花束。そして、何やらクシャクシャになった手元の紙幣を見つめたりしています。なぜか、真っ二つにちぎられた、その10ドル紙幣。

到着したのは、街の真ん中にあるセントラルパーク。緑に囲まれた広場の中心には大きな噴水があって、そこで男性は、その日一日、人待ちをするのです。
 ちょっと蒸し暑い天気なのか、着ていたジャケットは肩にかけ、暇つぶしにドイツの友達と連絡し合ったり、タバコをくゆらしたりしています。友達は言うのです。「こっちには仕事がたくさん残っているんだよ。もし相手が現れないんだったら、さっさと夜のフライトで戻って来いよ」と。
 けれども、あくまでもあきらめない男性。腹ごしらえにと、噴水の近くに屋台を広げる女のコからホットドッグを買うことにします。ポロッとホットドッグを落っことしてしまった女のコは、「今日が初日なの」と弁解をするのですが、男性は「なんでもないよ」とにっこりと微笑み返します。でも、そこで受け取った自分もポロッ。「慣れてないからね」と照れ笑いです。

一度、同世代とおぼしきレディーが噴水の脇で人待ち顔に立っていました。ハッとして彼女を見つめる男性でしたが、間もなく彼女には待ち人が現れました。
 こうやって眺めていると、公園には実にいろんな人たちがいるものです。熱く愛を語らうカップル、結婚式に向かうのか小走りの花嫁と花婿、キャッキャと屈託もなく笑い合う女子学生のグループ。

もう夕刻となり、辺りがオレンジ色に染まってくると、さすがに男性も憔悴(しょうすい)の色を見せ始めます。もう来ない・・・と。
 ベンチに腰を下ろして、うつむく男性に、さきほどのホットドッグの女のコが紙コップを差し出します。ごくっと水を飲む男性に、「その水は、お花のためよ」と、しおれてしまった花束を指差します。
 そこで、男性は、ベンチに座ってきた女のコに、こう明かすのです。

20年前、たった一夜を共に過ごした女性がいて、「今日という記念すべき日からきっかり20年後に、出会った場所で再会しましょう」と誓い合ったんだ。でも、もう彼女は来そうにない。もしかしたら、忘れているのかもしれないし、事情で来られないかもしれない。今は、遠く外国に住んでいるのかもしれないと。

あら、どうしたのかしらねと相槌を打つ女のコは、それでも、「もしかしたら、彼女はもう亡くなっているのかもしれない」と、なぐさめともつかないことを言うのです。

そして、男性がずっと握りしめていた10ドル札の片割れに気がついて、それは何かと尋ねると、再会したときにリトル・イタリーのレストランで食事をすることになってたんだ、あの頃は10ドルでも足りる時代だったからね、と男性は答えます。

辺りはだいぶ暗くなって、男性が「話を聞いてくれてありがとう」と立ち去ろうとすると、「レストランのディナーはどうするの? わたしが一緒に行ってあげましょうか」と、女のコは声をかけます。「いや、ありがたいけど、今晩はひとりになりたいんだ」という男性。ジャケットを羽織りながら、ふと女のコの手元に目をやると、そこには、半分にちぎられた10ドル紙幣が。

そこで、彼女は言うのです。「ママは、決してあなたを忘れはしなかったわ。ママが亡くなる日、わたしに言ったの。わたしの・・・いえ、あなたに逢えるチャンスがたったひとつだけあるって。」

それから、ふたりは、わずかに残る夕焼けと高層ビルを背にして、じっくりと語り始めたのでした。


これは、その名もずばり、『The Date(ザ・デート)』というドイツの短編映画(英語作品)ですが、デートと呼ぶには、あまりにも思い入れの強い逢瀬(おうせ)なのでした。

映画の中ではちょっとした説明があるのですが、なんでもこのふたりは、名前も住所も教え合っていなかったんだそうです。そんなある種「あやふやな」約束を後生大事に胸に抱きながら、20年も過ごしていたなんて、しかも、ふたりとも約束を果たそうという決意があったなんて、まあ、映画のお話とはいえ、人と人との結びつきはすごいものだなぁと感心してしまうばかりです。

この作品を観たあと、ふと思い出したことがありました。わたしにもこんな約束があったのです。小学校の6年生で別の学校に転校するとき、「18歳になった5月5日、あの大きな公園で再会しましょうね」と、仲良しのお友達と交わした固い約束が。
 その約束の日に間に合うようにと、彼女宛にお手紙を書きました。アメリカにいるので行けませんと。返事はなかったので、果たして彼女が約束を忘れてしまったのか、それとも返事を書くのが面倒くさかったのかはわかりません。その後、再会は果たしていませんが、彼女はいったいどうなったんだろうと、ひょっこりと思い出すことがあるのです。

彼女はどこから見ても、純粋な日本人には見えないほど彫りの深い顔立ちでした。両親は日本人でも、どこかで血が混じっていたのかもしれません。とっても活発な元気のいい子だったから、きっと今頃は、いいお母さんをしていることでしょう。


『The Date』の映画では、女のコが男性にこう尋ねるシーンがありました。
 「あなたは今でも彼女を愛しているの?」

すると、男性はこう答えるのです。
 「愛というと、それはちょっと大袈裟かもしれない。でも、彼女をずっと忘れられなかったよ。まわりのみんなは誰もが馬鹿だって言うけれどね。」

共に過ごしたのはたった一夜であっても、彼は恋に落ちた(fell in love)のだそうです。なぜなら、その夜はただただ魔法にかかってしまったようだったから。

想像するに、男性はずっと独身で通したのでしょうね。それとも、家族がいるのでしょうか。

なんとなく物語にありそうな映画のシナリオではありましたけれど、ドイツ人であろうと、アメリカ人であろうと、日本人であろうと、誰もが「ちょっといいなぁ」と感じる、ロマンティックな20年のお話なのでした。

(どうして最後にこんな写真かって、真ん中にうっすらと虹が見えるでしょ? 虹の向こうには、何かしらいいことがありそうな・・・)


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