水神さまの家来、かっぱ
<エッセイ その227>

いつの間にか、今年も12月。
近年は、秋も深まりようやく紅葉を楽しめるので、季節の感覚が狂ってしまいます。
心の中では、まだ「秋」なのに、暦の上ではもう師走(しわす)。太宰府天満宮では、12月に入って早々に「すす払い」を行ったそう。
そんなあわただしい師走ですが、先日、自宅でお食事会を開いたとき、お客さまのひとりが住んでいる三苫(みとま)の話題になりました。
昨年の夏『三苫(みとま)の丘』と題してご紹介しておりましたが、玄界灘を臨む、福岡市東区にある静かな住宅地です。
そう、「三苫」という名は、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神功皇后(じんぐうこうごう)にかかわる、由緒ある地名。
現在の福岡市東区香椎(かしい)の地で国を治めていた第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の妃である、神功皇后。
仲哀天皇の突然の崩御のあと、ご自身が臨月を迎えていることもかえりみず、朝鮮半島の新羅(しらぎ)へ攻め入ろうと、兵を率いて海を渡ろうとします。
が、対馬沖で暴風雨に見舞われ、あやうく沈没の危機。そこで船を覆う苫(とま:植物繊維で編まれたむしろ)を海に流し、海の三神に向かい「無事に朝鮮半島へ渡り、目的を果たした暁には、三神を篤くお祀りいたします」と祈ります。
すると、海は鎮まり、神功皇后は無事に目的を果たして帰還。皇后が流した三枚の苫が流れ着いた場所では海の三神をお祀りした、というお話。
この三枚の苫が流れ着いた先が、三苫の海岸。神功皇后が海の三神をお祀りした社が、綿津見神社(わたつみ・じんじゃ)。(儀式のためでしょうか、神社の裏からは、三苫の海岸に下りて行けるようになっています)

そして、三苫の丘から臨む志賀島(しかのしま)には、森に抱かれ静かな社があります。こちらは、海の神である三柱、上津綿津見神(うわつ・わたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつ・わたつみのかみ)、底津綿津見神(そこつ・わたつみのかみ)が鎮座される、志賀海神社(しかうみ・じんじゃ)。
そんなお話を三苫在住の方にご紹介したら、「まったく知りませんでした!」と驚くやら、喜ぶやら。目を輝かせて「さっそく娘に教えてやろう!」とおっしゃいます。
なんでも、転勤族の父親に連れてこられた福岡市東区千早(ちはや)で育った彼は、実家に近い三苫に家を建ててからも、地元の言い伝えなどは耳にしたことがなかったそう。自分が住む街にそんな古い歴史が隠されていたなんて! と、とても喜ばれたのでした。

なにせ、毎年元旦には、海の三神が祀られる志賀海神社で初日の出を拝んだあとは、地元の綿津見神社にも詣でるそうなので、ご自身の中では、日々の生活と神話がビッタリ合った話題だったのでしょう。
(ちなみに、サッカーで全世界に名を轟かせる三笘薫(みとま・かおる)選手は、竹冠の「笘」で、こちらの草冠の「苫」とは違いますね。)
そんな風に、三苫のお客さまに神功皇后の「三枚の苫」のお話を喜ばれたものの、神功皇后ご自身は架空の人物であるとの説が有力。ですから、「これはあくまでも伝説であって、史実ではありませんよ」とクギをさすことは忘れませんでした。
けれども、どうやら人というものは、伝説であろうとなんであろうと、自分に身近なものの説明がつくと、ひどく嬉しくなるようです。
伝説によって謎が解かれると、「あ〜、そうだったんだぁ」と、パッと表情が明るくなります。

伝説といえば、前回のエッセイ『河童(かっぱ)のしんたろう』に登場した、「かっぱ」という生き物。
もちろん、実在しない生き物ではあるでしょうが、それにしては、日本列島の北から南まで、いろんな地域に点在しているのが気になります。(かっぱは「河童」とも「河太郎」とも書きますが、ここでは「かっぱ」と平仮名で表記いたしましょう)
前回ご紹介したかっぱは、福岡県柳川(やながわ)市に棲んでおりましたが、県内・筑後川(ちくごがわ)流域の久留米(くるめ)市にもかっぱ伝説は多く、田主丸(たぬしまる)地区は「かっぱの街」と自称します。
その久留米一帯のかっぱは、熊本の球磨川(くまがわ)に棲む九千匹のかっぱが加藤清正に追放されて移り住んだもの、との言い伝えもあるとか。
このように、福岡、熊本にはかっぱ伝説が多いようですが、長崎も同様なようです。
長崎県の真ん中に大村(おおむら)市があって、長崎空港はこちらの大村市にあります。ちょうど北の佐世保市、南の長崎市の中間地点といった感じ。

穏やかな内海の大村湾に面し、明るい陽光を浴びて気候も良く、海の幸にも恵まれたところです。
大村市の北に隣接して、東彼杵(ひがしそのぎ)郡があります。この辺りは、江戸時代には大村藩の領地だったところで、「大村」といえば、今の大村市、東彼杵郡、対岸の西海市、西彼杵郡の一帯をさしました。
昔は、五島灘や平戸沖で捕獲した鯨を運搬・解体する捕鯨基地も点在し、天然真珠や黒曜石の産地でした。今は、「そのぎ茶」や波佐見焼(はさみやき)の生産地として名を馳せます。
現在の東彼杵郡・川棚(かわたな)町の川の流域は、昔から水田の広がる耕地でした。今も残される棚田は、観光の目玉になるほど。(こちらの写真は、隣接する波佐見町鬼木郷(おにきごう)にある「鬼木の棚田」)
その昔、川棚の川はよく氾濫したそう。
そう、「川棚」という風変わりな集落の名自体、川のほとりに祀っていた神さまが大雨で流されそうになったとき、村人が作った「棚」からきているとか。棚のおかげで、神さまは川に流されずに済んだというのが由来です。
その川棚川が、大雨で増水したある晩、戸を叩く者がいます。
主(あるじ)が戸を開けると、雨が降りしきる中、子どものように小さな人影が立っていて、こう言うのです。「わたしは、そこの川淵の穴に住むかっぱです。朝から出かけていて、いま帰ってみると、ヤタマの怪物が入り口をふさいでいて、中にいる妻や子どもが案じて待ちわびていると存じます。どうか怪物を退治してくださいませ」と。
主が付いていくと、馬鍬(まぐわ)が穴の入り口をふさいでいます。そこで取り除いてやると、かっぱはお礼にと、七代あとまで洪水に遭わないようにしてあげようと約束します。
この出来事以来、主の家は代々洪水に遭うこともなく、時には、藁茎(わらぐき)に通した川魚が戸口につるされていた、ということです。(参照:福田清人氏・深江福吉氏『日本の伝説28 長崎の伝説』角川書店、1978年、pp51-52)

大村市から南下して、長崎市へ。意外にも、ここにもかっぱが棲息していたようです。
長崎というと、どうしても鎖国時代の異国文化のイメージが強くて、地元の庶民が日々接していたかっぱとは縁遠い感じもしますよね。
長崎市の中心部を流れる中島川(なかしまがわ)。
二連アーチ式石橋の眼鏡橋(めがねばし)をはじめとして、川にはいくつもの古い石橋が残されます。(写真は、ひときわ背の高い東新橋(ひがししんばし)より、上流にかかる芊原橋(すすきはらばし)と魚市橋(うおいちばし)を臨む)

この中島川は、街の総鎮守・諏訪神社の辺りから上流へ向かって二手に分かれています(写真)。
右手は中島川本流、左手は北に向かい、西山から注ぐ支流・西山川と呼ばれ、この辺りにかっぱの言い伝えが残されます。
なんでも、かっぱは、水神さまの家来だそうで、その数はどんどん増えていって、人間に対するいたずらもグンと増えたそう。
そこで、たまりかねた水神さまの神主さんは、毎年6月15日の丑満時(うしみつどき:深夜2時ごろ)かっぱ全員を招いてお酒をふるまい、ご馳走するようになったそう。
翌朝になると、西山橋の下では、真っ赤な顔をしたかっぱたちが、バチャバチャと水音たかく遊び、石の上で陽気にはしゃぐ姿が見かけられたとか。
この神主さんの計らい以来、かっぱは満足して、人間にいたずらをすることはなくなったそう。(参照:同上『長崎の伝説』、p90)
そして、中島川の分岐点からもうひとつの方向(東)へとずんずん上流に向かっていくと、本河内(ほんごうち)に出てきます。明治期より本河内水源地があって、市民に水を届ける大事な供給源となっています。
こちらの本河内水源地の近くには、今も水神神社が置かれ、付近にはこんな言い伝えがあるそうです。
毎年5月5日の深夜、近隣のかっぱたちは水神神社のお堂の戸を閉めて中に集まってくるのですが、日ごろから彼らのいたずらに手を焼いた神主さんは、こんな一計を案じました。
かっぱたちにご馳走を振る舞うにあたって、自分には柔らかく煮た筍(たけのこ)を、かっぱたちには成長した竹の輪切りを皿に盛る。神主がおいしそうに筍を噛み砕くのを見て、かっぱたちは「やっぱり人間は強いものだなぁ、こんなに硬いものを簡単に噛み砕くとは!」と感心しごく。
それ以来、かっぱは人間には逆らえないと、いたずらをすることはなくなったとか。(参照:同上『長崎の伝説』、p93)
この本河内の水神神社には、こんな言い伝えもあるそう。
神主さんが神社の境内に置かれる石に献立表を置いておくと、翌朝には献立に使う材料が石の上にきちんと並べられている。

そこから、この石は「河童石(かっぱいし)」と呼ばれるようになったとか。(『水神神社のかっぱ伝説(本河内1丁目)』広報ながさき、2025年5月号。写真も同サイトより)
こちらは、上述の大村のお話に似ていますよね。かっぱがお礼にと川魚を戸口に吊るして行った、という「かっぱの恩返し」のお話に。
というわけで、今も本河内に残される水神神社。
実は、もともとここにはなかったそうです。
その昔、長崎街道の難所・日見峠(ひみとうげ)に近い本河内水源地の周辺は、まったく未開の山だったはずなので、「かっぱ伝説」も、もっと街中のお話だったと考えるべきなのでしょう。
水神神社は、承応元年(1652年)渋江公師が出来大工町(できだいく・まち)の邸内で水神をお祀りしたことに始まります。
出来大工町は、中島川の分岐点の辺りで、今も川面を見下ろして出来大工町不動堂(写真)が建っています。現在は真言宗派の不動堂と伝わりますが、もしかすると、もとは水神さまをお祀りした場所なのかもしれません。
明暦年間(1655年ごろ)には、水神神社は炉粕町(ろかす・まち)に移されます。炉粕町は今の諏訪神社やお隣の松森天満宮(まつのもり・てんまんぐう)付近で、社殿がここに移されたことで、かっぱの被害に悩まされていた周辺住民を大いに助けたと伝わるそう。
水神さまはまた、唐人屋敷の中国系住人からも「航海の神」として崇められるようになり、少し上流の八幡町(やはたまち)に社殿が移されます。
そして大正9年(1920年)、市街地が拡大する中、さらに上流の本河内1丁目に移され、今に至ります。(参照:山口広助氏『長崎游学13 ヒロスケ長崎 のぼりくだり〜長崎村編まちを支えるぐるり13郷』長崎文献社、2018年、p77)
先に明治24年(1891年)本河内水源地が建設され、水源を守る意味で、水神神社をこちらに移したのでしょう。
そんなわけですので、かっぱの被害に遭い、なんとかしてくれと水神神社の神官に泣きついたのは、今の諏訪神社・松森天満宮近くの住民だったと思われます(写真は松森天満宮に通じる「松の森通り」)。
ちなみに、今は本河内にある水神神社の「河童石」は、江戸期には雨乞いの石だったそうで、「川立石」と呼ばれていたそう。カエルにも似ているので、長崎弁で「どんく石」とも呼ばれるそうです。
そして、そもそもかっぱが人間にいたずらをしたのは、中島川が汚れてきたのが原因だったとか。棲み心地が悪くなってきたので、人間を懲らしめてやろうと、いたずらを働くようになったのです。(参照:同上『ヒロスケ長崎のぼりくだり』、p97)
当時、中島川は飲み水などの生活用水に使われていましたが、ゴミや廃水が捨てられるようになり、飲み水としての水質も危うくなってきました。

このような住民の環境破壊に警鐘を鳴らすキャラクターとして生まれ出たのが、かっぱという架空の生き物だったのでしょう。かっぱが活躍するようになって、中島川もすっかりきれいになったそう。
かっぱに感謝しようと、毎年5月5日、タケノコでもてなす宴会「河太郎饗応(かっぱごちそう)」が開かれ、この風習は明治期まで続いていたとか。
中島川の分岐点には、ひっそりと石灯籠が建っています。舟のための灯りとも考えられますが、この辺りは舟が行き交うには水が浅い。もしかすると、かっぱのために真っ暗な夜を照らしていたのかもしれません!
川や海を守る水神さまの家来、かっぱ。人に寄り添いながら、水を汚す行為に警鐘を鳴らす大事なキャラクターです。そんな風に考えると、日本の津々浦々に棲息していても、まったく不思議ではありませんよね。















Page Top