大徳寺の大クス
<エッセイ その229>

前回は、福岡市東区にある香椎宮(かしいぐう)の御神木、「綾杉(あやすぎ)」のお話をいたしました。
この杉の大木を仰ぎ見た、千年前の平安時代の人物、藤原隆家(ふじわらの たかいえ)もご紹介しておりました。
大宰府に権帥(ごんのそち)として任官する際、神官の手によって綾杉のひと枝を冠に刺してもらう儀式があった、という歴史の一ページ。
今日はまた、違った大木をお散歩することにいたしましょう。
こちらは、「大徳寺の大クス(だいとくじの おおくす)」と呼ばれます。
「大クス」ですので、楠(くすのき)の巨木。
もともと楠は大きく育つ木だそうで、西日本の寺社では御神木として崇められることも多いとか。
この「大徳寺の大クス」は、長崎市丸山町(まるやままち)近くにあります。
丸山といえば、長崎の芸妓衆(げいこし)事務所である長崎検番(けんばん)や、花月(かげつ、写真)や青柳(あおやぎ)といった料亭が建ち並ぶ、花街。
江戸時代の鎖国期には、ここから出島のオランダ屋敷や近くの唐人屋敷(とうじんやしき)に丸山芸者さんたちが派遣されていました。そう、彼女たちは、日本の庶民が触れることのできない国際的な感覚を身につけていたのでした。
今は、この辺りの丸山町や寄合町(よりあいまち)の表通りは区画整理され、昔の面影はあまり残っていません。1943年(昭和18年)の「丸山の火事」で、寄合町の遊郭が焼け落ち、空き地は道路や公園になった、という経緯もあるそう。
が、少し脇道に入って行くと、とたんに時空を超え、タイムスリップ。人の生活の息づかいが感じられます。

看板を頼りに急な坂道を上って行くと、左手には赤い鳥居が。
その向こうに大きな石垣が出てきて、見上げると、大きな楠が張り出しています。
どうやら、こちらが探していた大クスのよう。
階段を上って近づくと、迫力があって、まさにこちらが県指定の天然記念物「大徳寺の大クス」です。
県下最大の楠の巨木で、根のまわりは23メートル、幹のまわりは13メートル。樹齢は800年と伝えられます。
800年前といえば、平家が滅亡し、源氏の鎌倉時代の幕開けのころ。長崎港の開港は1570年の室町時代ということですので、この辺りに人は住み地元豪族が治めていたのでしょうが、まだまだ長崎の街は歴史の表舞台からほど遠い時代。
そのころ、こちらの丘は原生林に覆われていて、この大クスは原生林の生き残りと考えられているそう。
そんな昔から生きているなんて、すごいなぁと、いろんなアングルから写真を撮ってみます。
根から何本にも幹が分かれていて、その一本、一本がネジネジに巻かれながら伸びていった様子。ゴツゴツとした幹には年代を感じますが、枝には若々しい葉が青々と茂っている。
やはり、巨木からは、自分の存在がちっぽけに思える、力強いパワーを感じますね。
大木には神々が降りてきて、ありがたくご神託をいただく。そんな古来の信心も納得できる迫力です。
大クスの神々しい姿とは対照的に、足下の階段は、まさしく生活道路。
毎日、丘の下の商店街へと出かける周辺住民の大事な通り道となっています。
この辺の方々にとっては、「なんでわざわざこんな古い木を見に来るんだろう?」と、少々迷惑なのかもしれません。昔から見慣れている方にとっては、なんの変哲もない、ただの大きな楠なのに。
と、ひとしきり大クスを愛(め)で、周辺を観察してみたのですが、そもそも名前になっている「大徳寺」ってどこ?
そうなんです、すぐ隣には「楠稲荷神社」の赤い鳥居があり、小さな本殿が大クスに寄り添っているものの、肝心の「大徳寺」というお寺が見当たらないのです。

大クスの石段を上って行くと、石畳の両側には、茶屋みたいな建物があります。
昔から大クスの木陰では、お茶や団子をいただいていたのでしょうか。今は「さるく見聞館」という垂れ幕があり、目の前の石畳のくぼみに長年の人の往来を感じます。
その向こうには、かなり広い公園が見えています。
あとでわかったのですが、大徳寺というお寺は、1703年(元禄16年)の創建。1868年(明治元年)には廃寺となり、今は「大徳寺公園」という名前だけが残されます。
大徳寺は、徳川幕府より御朱印地(ごしゅいんち、領有権を持つ寺社領)と認められた格式の高い寺。幕府の手厚い庇護を受け、1742年(寛保2年)観音堂を建立した際は、聖徳太子の作と伝わる、第5代将軍綱吉の生母・桂昌院が崇敬する十一面観音を譲り受けるほど、徳川家とのつながりも深かったとか。

幕末になると、幕府の後ろ盾を失った寺は、檀家を持たないことから経営困難に陥り、建物や宝物を売却して廃寺となります。
大徳寺跡には、アメリカ人の宣教師フルベッキ博士やフランス領事レオン・ジュリーが居住したこともあったそう。(参照:山口広助氏『長崎游学13 ヒロスケ長崎 のぼりくだり〜長崎村編まちを支えるぐるり13郷』長崎文献社、2018年、p121-123)
その後、ここに県立病院が建設され、梅ヶ枝餅屋(うめがえもちや)が三軒営業を開始したそうです。(梅ヶ枝餅は、あんこを米粉の薄皮で包んだ香ばしい餅。大宰府の名物とされますが、北部九州では昔からポピュラーなものだったのでしょう)
たぶん、石畳の両側の茶屋風の建物は、これら「平山家」、「吉村家」、そして今でも営業を続ける「菊水」の三軒の梅ヶ枝餅屋だったのでしょう。
創業当時は、餅は炭火で焼いていたが、昭和15年(1940年)ころから都市ガスを使った焼き釜に変更した、と看板にありました。(創業から139年、ボリュームたっぷりの梅ヶ枝餅で有名な「菊水」さんは、残念ながら1月末時点には「当分の間、休ませて頂きます」と張り紙が貼ってありました・・・)

そして、県立病院が姿を消したあとには、今は梅ヶ崎神社天満宮がひっそりと建っています。
なんでも、江戸時代初期、この梅ヶ崎の丘は眺めの良い岬だったようで、異国船を監視する番所があったそう。鏡などを利用して、リレー方式で長崎奉行所に合図を送っていた複数の番所のひとつ。梅ヶ崎の番所の脇には天満宮が置かれ、遠見番や奉行所の役人がお参りしていたとか。
こちらの梅ヶ崎神社(天満宮)には、幕末から明治黎明期にかけて勃発した戊辰戦争(ぼしんせんそう)で戦死した地元出身の方々をお祀りしたそう。
ですから、勅使(ちょくし、天皇の使い)がいらっしゃることもあり、大徳寺・梅ヶ崎神社に至る坂道は、「勅使坂」と呼ばれていたとか。今は、どこにでもある、勾配のきつい坂道ですけれど。

梅ヶ崎神社天満宮の本殿には、「菅原神社」と書かれた額が掲げられていて、まわりの梅の木は、そろそろ花を開かせるころでした。
ここは、鎖国時代に中国系の住民が居住した唐人屋敷にも近く、一種独特の雰囲気があります。
そう、天満宮のお膝元・籠町(かごまち)と唐人屋敷のある館内町(かんないまち)は隣接しています。
籠町といえば、諏訪神社の秋季大祭「長崎くんち」の演し物(だしもの)、龍踊り(じゃおどり)の発祥地といわれます。
中国では、五穀豊穣を願う、雨乞い神事だった蛇踊り(じゃおどり)。唐人屋敷でも旧暦の正月行事として行われていたものが、隣の籠町に伝わり、それが享保年間(1700年ころ)から諏訪神社大祭の演し物となった、そんな経緯があるようです。
天満宮前には籠町自治会公民館もあり、境内広場や大徳寺公園は、七年に一度、晴れの奉納に向けて、籠町の龍踊りの練習場となるようです。

ちなみに現在、長崎くんちで龍踊りを奉納する踊り町は、籠町、諏訪町(すわまち)、筑後町(ちくごまち)、五嶋町(ごとうまち)の4か町。諏訪町は昨年(2025年)、五嶋町は一昨年(2024年)に奉納しています。
写真の諏訪町は、雄の青龍(あおじゃ)、雌の白龍(はくじゃ)と二匹で舞います。白蛇は、諏訪神社の神さまの使いとされ、1886年(明治19年)には白龍の奉納が始まったそう。
これに加えて、6人の子どもたちが操る、子龍(こじゃ)も登場。
トコトコ歩きの幼児が尻尾(しっぽ)を持って頑張る姿が、なんとも愛らしく、大いに場をわかせます。
と、すっかりお話がそれてしまいましたが、丸山町から坂を上ってたどり着いた、「大徳寺の大クス」。
お寺はないのに、大徳寺の楠でした。
なんでも、『長崎七不思議』という民謡があるそう。明治末期に流行った「大津絵節」の替え歌で、冒頭に出てくるのが、「寺もないのに大徳寺」という歌詞。それほど当時の方々にとっても不可思議な名称だったのでしょうね。
そして、次に出てくるのが、「平地なところ 丸山と」という一節。

先述のように、江戸時代、丸山には遊郭があって、現在も長崎検番や料亭・花月や青柳の並ぶ花街。
丸山の中心部には丸山本通りがあって、昔は趣のある石畳だったそう。コロリ、コロリと、心地良い下駄の音が響いていたのでしょう。
花月の大広間には、床間に坂本龍馬の刀傷が残されます。酒に酔った龍馬が刀を振り回して付けた傷、とは作り話との説が有力ですが、龍馬が夜な夜な丸山で遊んでいたのは事実のようです(支払いが悪く、現地では迷惑がられていた、との言い伝えも)。
で、この地は丘の上の大徳寺と違って、平たいところにあるのに、なんで丸山? というのが『長崎七不思議』の歌詞。
これには諸説あるようですけれど、江戸時代には、丸山は大徳寺に続く岬になっていて、「尾崎」とも呼ばれたそう。
こちらは、1764年(寶暦14年)の肥前長崎の古地図。大徳寺や丸山の辺りを拡大したもので、大徳寺は中央下の木々に囲まれた部分、その右の長方形の区画が丸山。
ちなみに、大徳寺の左側の塀に囲まれた部分が唐人屋敷、右上の扇型がオランダ屋敷のある出島。間に浮かぶ長方形の埋立地は、唐船の荷物を収納した新地蔵所(しんちくらしょ、現・中華街)となります。(所蔵:長崎大学附属図書館医学分館)
これを見ていると、丸山の街は、山を削られてできたのではないか、とも思えます(削った土砂で新地蔵所を造った?)。
ですから、昔は「山っぽい地形」だったことから「丸山」になったのでは、と個人的には思っているのです。

尾崎とも呼ばれた丸山から大徳寺の岬は、先端部は原生林になっていて、「森崎」という権現さまがお祀りされていたとか。
今はもう姿を消した森崎権現ですが、こちらは社に通じていた階段。ここから先は、昔ながらの丸山の地形が残されている地域かもしれません。(左と正面の濃い色の建物は、料亭・青柳)
丸山本通り沿いの長崎検番の脇には、「梅園身代天満宮(うめぞの みがわり てんまんぐう)」という碑が立っています。
「身代わり」とは、なんともヘンテコリンな名前です。

いったいどんな天満宮なのだろう? と以前から気になっていたのですが、ここから坂道を上って110メートル先にある。
う〜ん、どうしようと迷ったものの、坂の両脇には昔ながらの建物が並び、雰囲気のある散策路。
右手は、花月の裏門。左手の家屋には「ピアノ教室」の張り紙もあって、今でもどなたかが大事に住まわれている様子。それが、なんだか嬉しくなる坂道です。
天満宮の鳥居が見えてきたところで、ダメ押しの石段が。
前を行く杖を持ったレディーが、手すりにつかまりながら荷物を引いていたので、「持ちましょうか?」と声をかけると、「いえ、大丈夫ですよ」とおっしゃいます。
やはり、坂の多い街に住んでいると、階段の上り下りは日々のこと。誰かに頼ってはいけないと、心に決めていらっしゃるのでしょう。
失礼ながら、レディーを追い越して石段を上りきると、右手にこぢんまりとした、可愛らしい天満宮がありました。
鳥居には「文政八乙酉歳二月」とあり、文政八年(1825年)の乙酉(きのととり)、つまり幕末の建立のよう。が、天満宮の創建は、もっと古い1700年(元禄13年)とのこと。
元禄のころ、丸山町の乙名(おとな、長崎奉行所属の町役人)を務めていた安田治右衛門が、帰宅途中に梅野五郎左衛門という男に槍で左脇腹を刺される事件が。五郎左衛門は、本懐を遂げたことを確認し、自宅に戻り自決。
倒れた治右衛門を人々が起こし介抱すると、着物は裂け血が流れているのに、まったく傷がない。奇妙に思っていると、天神さまを祀る祠(ほこら)の扉が自然と開き、天神像の左脇腹の傷から血が流れていた! 人々はこれに驚き、「身代天神さま」と口々に叫ぶ。
治右衛門は信仰に厚い人だったので、元禄13年に拝殿を建てて「身代天神さま」を祀るようになった、という言い伝えです。(参照:福田清人氏・深江福吉氏『日本の伝説28 長崎の伝説』角川書店、1978年、p100)
時が経つにつれ、刺した側はゴロツキだったとか、いろんなバーションが派生したようですが、両者の氏名、事の年代も具体的にわかっているようなので、どこかに記録が残っていたのかもしれません。おそらく、町役人に何かの恨みがあって刺した、と考えるのが自然でしょうか。
そんなわけで、身代天満宮と呼ばれるようになった経緯は「おじさん」のストーリーでしたが、これを街の女子が好まないわけはありません。ちょうど近くには、丸山遊郭もあり、芸妓さんたちも足しげくお参りに来るようになったそう。

境内の左手には、いろんな身代わりの神さまがいらっしゃいます。
たとえば、狛犬さん。
普通、二体の狛犬は、向かって右(神さまから見て左)が口を開け、向かって左は口を閉じていますが、こちらはその逆。向かって左が口を開け、口の中に飴玉を入れると、身代わりになって自分の歯痛が治る、という「歯痛狛犬」の言い伝え。
たしかに、お口の中には、たくさんの飴が詰め込まれています。2月の節分祭のあとは、あふれんばかりの飴玉になるとか。
が、なんとなく新しい狛犬さんなので、もしかしたら二代目でしょうか?
こちらが、オリジナルの狛犬二体なのかもしれません。雨風にさらされ、(それとも参拝者が撫でまわしたせいか)原型を留めないほどに風化しています。

そして、愛らしい「撫で牛」もいらっしゃいます。
こちらは、頭をなでると、頭が冴えてきて、ボケ防止になる、というもの。
わたしも、さっそく頭をなでてみました。効果は、何年後に出るのやら?
というわけで、「大徳寺の大クス」と「梅園身代天満宮」をお散歩してみました。
当初は、もうひとつの大木もご紹介するつもりでしたが、ついつい長くなってしまいました・・・。
また次回、ご紹介することにいたしましょうか。






















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