Chestnut flowers(栗の花)
<英語ひとくちメモ その184>
風さわやかな、5月中旬のこと。
誕生日を控える姉と「日本では、ツツジがキレイですよ」などとメッセージのやり取りをしておりました。
姉は、もう40年スイスに住んでいて、日本よりもヨーロッパに詳しい人。
「花といえば」と、こちらの写真を送ってくれました。

街を歩いていて、満開に咲き誇る街路樹を撮ったもの。
見慣れない花が咲いていますが、こちらは、栗の木です。
姉いわく、「こちらでは、大型ツツジのようなロドデンドロンはまだ咲いていません。その代わり、クリの花がロウソクみたいに満開ですよ」
栗の木って、花が咲くんですよね。
あまり考えたことはありませんが、「天津甘栗」の美味しい実ができるのですから、花は咲きますよね。
栗は、英語で chestnut (チェスナット)。
栗の木は、chestnut tree 。 栗の花は、chestnut flower 。
それで、姉の写真の栗は、実を食べられる栗ではなく、horse chestnut と呼ばれるもの。
「馬の栗」「馬栗」というわけですが、日本語ではセイヨウトチノキと呼ばれ、フランス語の名称からマロニエとも呼ばれます。
実は少し毒性があり、間違って食べると、胃腸の具合が悪くなることもあるとか。馬や家畜の飼料に使われるので、馬栗と呼ばれるという説もあるそう。
たぶん、ヨーロッパで街路樹に使われる栗の木は、このトチノキ系が多いのでしょう。青々とした丸い葉っぱと、シャキッと(ロウソクのように)空を向いた花々が美しいです。
白い花の咲くマロニエ並木というと、風景画の題材に使われそうですよね。
ちなみに、冒頭で出てきたツツジは、英語では azalea(発音は「アゼイリア」)。
姉のいう「大型ツツジのようなロドデンドロン」は、英語で rhododendron(「ロードデンドゥロン」)。日本語では、石楠花(しゃくなげ)といいます。
石楠花は、ツツジに比べて大きいので、違う種類かと思いきや、よく見ると花は酷似していて、互いに親戚関係にあります。
というわけで、栗の花。
わたしは、栗の花と聞くと、『アンネの日記』を思い出すのです。
といいますのも、『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクのアムステルダムの隠れ家で、満開の栗の花を見たからです。
オランダの首都アムステルダム。運河沿いのレンガ造りの建物の裏側には、秘密の隠れ家がありました。
ここは、1934年にドイツからオランダに移り住んだユダヤ系のアンネの家族4人が、第二次世界大戦の激化した1942年から、ファン・ペルス一家3人と知人の歯医者さんの8人で、息をひそめて2年間住んでいたところ。
今は、「アンネ・フランクの家(Anne Frank House)」として、見学できるようになっています。
アンネが使っていた小部屋には、小さな窓があって、そこから裏庭を見下ろすと、白いきれいな花がたくさん咲いているのが見えました。
彼女がここに暮らしていた頃は、栗の花が咲くのを楽しみにしていて、開花の時期になると、小窓から少しだけ自然の美に触れていました。
わたしがアムステルダムの隠れ家を訪れたのは、もう何年も前の5月13日。
偶然にも、1944年5月13日(土)のアンネの記述には、こんな一節があるのです。
Our chestnut tree is in full bloom
わたし達の栗の木は、花が満開です
It’s covered with leaves and is even more beautiful than last year
木には葉っぱが繁っていて、昨年よりももっと美しいくらい
前日は、お父さんの誕生日、お父さんとお母さんの19回目の結婚記念日、そして(隠れ家がバレる危険性のある)清掃員の女性も一日来ない、という記念すべき日。
晴々とした気分で、
・・・ and the sun was shining as it’s never shone before in 1944
そして、太陽も今年一番に輝いていたわ
と書いています。
お父さんの誕生日ということで、支援者の方々が、お父さんの興味のありそうな本や、きれいにラッピングされた大箱を持ってきてくれました(「あまりに美しくラップされているので、プロが包んだんじゃないかしら」と日記にも書かれています)。
大箱には、卵が3個、ビール瓶一本、ヨーグルトが入った容器、緑色のネクタイが入っていて、あとでベーカリーから50個のプチフール(ひとくちサイズのケーキ)が届いたそう。
He was thoroughly spoiled
彼(お父さん)は完全に甘やかされているわね
と、たくさんのプレゼントにアンネもびっくりです。
お父さんは、いただいた食べ物をみんなと分け合ったそうで、
Everything was scrumptious!
すべてとっても美味しかったわ!
と、久しぶりのご馳走に満足した様子。
たぶん、この日は、彼女の隠れ家生活の中でも、幸せな記憶の残る、最高の一日だったに違いありません。
アムステルダムからカリフォルニア州に戻ったわたしは、さっそく本屋さんに行って、『アンネの日記』を買って読み始めました(原語はオランダ語なので、英語の翻訳本です:Doubleday, New York, 1991)。
そこで思いがけなく、1944年5月13日の栗の花の記述に出会い、たいそう感動した覚えがあります。
久しぶりに本を引っ張り出してみると、このページには「Chestnut tree in full bloom. Saw this exactly 52 years later(栗が満開。まさに52年後にこれを見た)」と、メモ書きが貼り付けてありました。
花が咲く前の1944年2月23日(水)にも、栗の木に触れている箇所があります。
The two of us looked out at the blue sky, the bare chestnut tree glistening with dew, the seagulls and other birds glinting with silver as they swooped through the air, and we were so moved and entranced that we couldn’t speak
二人(ペーターとアンネ)で青い空を見やると、葉の落ちた栗の木は露(つゆ)で輝き、空を舞うカモメや鳥たちは銀色にきらめき、わたし達はただ感動して、うっとりとして、言葉を失ったわ
アンネにとって、裏庭の栗の木は、自然を象徴する大切な存在だったのでしょう。
日記には、こんなアドバイスも見られます(1944年2月23日(火)より)。
The best remedy for those who are frightened, lonely or unhappy is to go outside, somewhere they can be alone, alone with the sky, nature and God
怖がったり、寂しかったり、不幸せに感じている人たちへの最善の対処法は、外へ出ること。どこかひとりになれるところに行って、空、自然、神と向かい合うこと
外には一歩も出られないどころか、少しの音も立ててはいけない日々。そんな中で、アンネの自然への憧れは、大きなものになっていったのでしょう。
アンネが隠れ家で過ごしたのは、13歳から15歳の多感な2年間。
日記を読んでいると、その間の彼女の成長ぶりが如実にわかります。
最初の頃は、お母さんとソリが合わないことや、同居人のファン・ペルス夫人が何かと自分を批判することへの不満など、日記のお相手「キティ」に思いの丈をぶちまける箇所もあります。
そのうちに、ファン・ペルス家のひとり息子ペーターへの想いや、人に見せる外面のアンネと内側に秘めた真のアンネの二面性など、さまざまな想いを語るようになります。
日記の終盤の1944年7月15日(土)には、大人たちは「子供は気楽でいいわね、大人は大変なのよ」というけれど、子供は大人の倍は大変なのよ、という憤懣も出てきます。
It’s twice as hard for us young people to hold on to our opinions at a time when ideals are being shattered and destroyed, when the worst side of human nature predominates, when everyone has come to doubt truth, justice and God
わたしたち若い人にとっては、自分の意見を持ち続けることは、(大人に比べて)倍は大変なのよ。理想は砕かれ捨て去られ、もっとも醜い人間性があらわになり、皆が真実や正義、神を疑うようになっている今の時代ではね。
自分には、生きていく意義があるのだろうか? といった記述もあります。
何回も繰り返して、自分に問うてみるの。もしも隠れ家に来ていなかったら、今もう死んでしまっていたら、こんなみじめさを味わわなくて済むし、他の人(支援者)にここまで迷惑をかけることもないのに、と。
でも、ここにいる皆が、そのような考えは捨て去ってしまう。
なぜなら、
We still love life, we haven’t yet forgotten the voice of nature, and we keep hoping, hoping for … everything
わたしたちはまだ命を愛しているし、自然の声を忘れてはいない。そして、期待し続けている・・・そう、すべてのことに希望を持ち続けている
これが書かれたのは、1944年5月26日(金)。アンネの日記は、8月1日(火)の記述で終わっていて、3日後の8月4日(金)には保安警察によって隠れ家があばかれます。
アンネと姉のマルゴットはベルゲン・ベルゼン強制収容所に入れられ、1945年2月から3月、相次いで亡くなります。アンネは15歳、マルゴットは19歳の誕生日を迎えた頃でした。
隠れ家の同居人たちも各地の強制収容所で命を落とし、アンネの父オットーのみが奇跡的にアウシュヴィッツの病棟から生還することになります。
<興味のある方へのこぼれ話:オランダのフランク一家>
アンネのお話は、日記を通じてご存じの方も多いとは思いますが、少しだけ背景をご説明させていただきましょう。
もともとアンネの家族はドイツに住んでいましたが、父オットーがオランダ・アムルテルダムでジャムに使うゲル化剤ペクチンの小さな会社を設立し、1934年、ここに家族を呼んだことから、オランダ生活が始まります。
ペクチンだけでは季節性があるので、ソーセージに使うスパイスの会社も設立し、商売の通年性を目指します。両社が置かれた運河沿いのレンガ造りの建物は、倉庫やオフィス、実験室と小部屋に仕切られ、のちに隠れ家としても使われることとなります(隠れ家の同居人となったヘルマン・ファン・ペルスは、スパイスのスペシャリストとして雇われたユダヤ系移民です)。
アンネは、オランダで何不自由のない暮らしを送っていました。学校では、かけがえのない親友もできて、日々の生活を楽しみます。5歳からオランダに暮らすアンネは、オランダ語はほぼネイティヴ。大人たちのドイツ語なまりのオランダ語をからかったり、直してあげたりすることもありました。
ところが、平和な暮らしは一変します。第二次世界大戦が勃発し、1940年5月にはドイツがオランダを攻撃し、占領します。ヒットラー政権下のドイツではユダヤ系市民の弾圧が続き、ユダヤ系の人々は、占領下オランダでも同じことが起きることを危惧します。
歴史的にオランダにはユダヤ系住民も多く、当時、ドイツから移住した2万人も含めて、14万人のユダヤ系住民が住んでいました。そのうち2万8千人がアンネのように隠れて暮らすこと(going into hiding)を決意したといわれます。家族がバラバラになって身を隠したり、アムステルダムのような都会ではなく、農作業で雇ってもらえる村々を目指したりというケースが多かったようです。
ユダヤ系だけではなく、ナチスへの忠誠の宣誓を拒否したオランダ人たちも、30万人ほどが身を隠したそう。(参照:”How unique was the Secret Annex? People in hiding in the occupied Netherlands” by Jaap Cohen)
オランダでは、占領後すぐにユダヤ系住民の「召集」が始まり、自分たちもいつ召集されるかわからない状況です。招集の名目は、労働(a call-up for a labor camp)。が、召集に応えると、すぐに強制収容所に連行されることは明らかです。
状況が深刻化した1942年、フランク一家も隠れて暮らすことを決意し、父オットーが経営する会社の建物に家財道具を運び込み、着々と準備をしていました。が、決行日の10日前、アンネの姉マルゴットに「召集」の通知が届きます。
慌てたフランク一家は、その翌朝、身につけられるだけの服を着込んで、隠れ家へと向かいます。出勤途中の人々が、哀れみの眼差しで見ていたと、アンネもその朝のことを書き込んでいます。服につけた黄色い星と、夏なのにコートまで着込んで着膨れした家族。誰が見ても逃亡だとわかります。アンネが13歳になった直後、1942年7月6日のことでした。
隠れ家は上と下に分かれた屋根裏部屋で、簡易ベッドやキッチンテーブルが詰め込まれた狭い空間。ベッドの上にも荷物が積み上げられ、疲労困憊した母と姉は休ませて、父とアンネで夜までかかって新居を整えます。
アンネは、引っ越してすぐに、この隠れ家(the Secret Annex)をなかなか気に入っていると書いています。いつまで暮らすのか先の見えない逃亡の日々ですが、13歳から15歳の貴重な2年間をこの隠れ家で過ごすことになります(図の右側、裏庭に面した上階が隠れ家)。
そして、1944年8月4日金曜日。隠れ家で暮らす8人は、突然の保安警察の踏み込みによって逮捕され、連行されます。隠れ家生活761日目のことでした。
オランダで逃亡生活を送った2万8千人のユダヤ系住民のうち、約半数の1万2千人が連行されて行ったといわれます。それほど、保安警察の情報ネットワークと市民の協力が徹底していたということでしょう。
アンネの隠れ家は2時間かけて捜索され、価値のあるものは押収されます。が、床の上には、何の価値もないと判断されたアンネの手書きの紙が散乱します(アンネは最初のうち、13歳の誕生日に父からもらった赤いチェック柄の日記帳を使っていましたが、記述の量が増えるにつれ、ノートやコピー用紙のような紙を使うようになりました)。
この膨大な量の「紙」を父の従業員で支援者だったミープ・ヒースとベップ・フォスキュイが拾い集めて大切に保管し、戦後、8人の中で唯一生還した父オットーに手渡します。
アンネは、最初は自分だけのために日記を書いていました。が、1944年3月、隠れ家で聞いたロンドンのラジオ放送で、「戦争が終わった暁には、ドイツの占領によってオランダ国民がどれほど苦しんだかを記録した文書を募集する」と、亡命中のオランダ閣僚が語るのを聞きます。彼女は、戦争が終結したら本として出版することを思いつき、自分の日記を読み直して手を入れ始めます。ですから、日記には、もともと書かれたバージョンと、手を入れたバージョンの二つがあります。

戦後、日記を手渡されたオットーは、悩み抜いた末、娘の遺志を継いで出版することを決意します。が、家族や同居人のことが包み隠さずに書かれた日記をそのまま出版することはできないので、プライベートな部分は割愛したバージョンを編集します。これが、現在、世界中で読まれている『アンネの日記』です。
編集されているとはいえ、とくに後半部分には、アンネの深い内面が如実に見て取れる、正直な描写が続きます。それは、隠れ家生活の疲れ、狭い空間で常に誰かと顔を合わせなければならないフラストレーション、見つかる恐怖、自由への渇望と、いろんな感情から生まれたものであり、同時に、アンネ自身の人間としての成長の証(あかし)なのでしょう。
読者の人生経験によって、いろんなことを読み取れるティーンエージャーの日記。彼女が無事に成長していたら、ジャーナリズムや執筆の世界で活躍していたことでしょう。
再び『アンネの日記』を手に取ってみて、思いっきり声をあげられる「自由」、好きな音楽を奏でられる「自由」、自然を満喫できる「自由」、生きたいように生きる「自由」と、自身の自由を考えてみるきっかけともなりました。
写真の出典:Anne Frank House website
最後の写真は、1960年5月、隠れ家が博物館として公開される直前に、隠れ家の屋根裏部屋にたたずむ父オットー・フランク