One of a kind(唯一無二の)

<英語ひとくちメモ その171>

立春を過ぎても、寒の戻りがありましたが、ようやく春らしくなってきたでしょうか。


まだまだ冷たい風の吹く3月はじめ、菜の花を見に行きました。


農閑期の田んぼが広がる、福岡市郊外の古賀市。


明日は「ひな祭り」のイベントが開かれるということで、地元の方々は準備に余念がありません。田んぼの真ん中には、鯉のぼりも立てられ、季節を先取りしていました。


一面の菜の花を見ていると、心が浮き立つよう。元気をいっぱいもらえる春の花ですね。


菜の花といえば、アメリカではマスタードの花。日本の菜の花と同じアブラナ科の植物で、見た目もよく似ています。


マスタード(mustard、和名アメリカカラシナ)は辛子の仲間で、種はスパイスにしたり、油を抽出したり、葉っぱを炒め物に使ったりと、万能の植物。


2月から3月にかけて、草原が一面に黄色くなっているのを見かけたら、それはマスタードの花。


カリフォルニアでは、冬の雨季が明け、春が近いことを告げる花でしょうか。



そんな3月の英語の話題は、one of a kind


形容詞で、「唯一無二(ゆいいつむに)の」「たったひとつしかない」「とてもユニークな」といった意味です。


世界にひとつしかないような特別な存在として、褒め言葉に使います。


発音は、「ワン・オヴ・ア・カインド」というよりも、「ワナヴァカインド」という風に聞こえます。言いやすいように、フランス語風にリエゾンするんですね。


この言葉を思い浮かべたのは、あるコンサートでした。


日本ツアーの最終公演で福岡市民会館にいらっしゃった、ボズ・スキャッグス(Boz Scaggs)さんのコンサート。アメリカの有名なシンガー・ソングライターで、ギターリストでもある方。


若い方は名前を聞いてもピンとこないかもしれませんが、ボズさんは、1960年代から現在まで、長い間、音楽活動を続けてこられた方。軽快なロックから、渋いソウルやブルースまで、彼の音楽の幅広さには驚きなのです。


いろんな曲が有名ですが、たとえばアップテンポのベースが小気味良い『Lido Shuffle(リド・シャッフル)』や美しいメロディーラインが忘れられないバラード『We’re All Alone(ウィアー・オール・アローン)』など、題名を知らなくても、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。(写真は、1980年にリリースされたベストアルバム『Hits』のLPジャケット)


連れ合いは高校のとき、英語のエヴァン先生が『We’re All Alone』を聞き取りの課題にしたのをよく覚えているとか。語りかけるようなバラードは、何度聞いても飽きないので、歌詞を聞き取るにはぴったりかもしれません。


そんなボズさんの特徴は、なんといっても声。


なかなか表現が難しいですが、なめらかなベルベットの生地のような、声が空気にふんわりとまとわりつくような感じ。


さすがに高音は以前よりも出にくいようではありましたが、伸びのあるベルベットのような音質は健在です。


そんな声を聞いていて、one of a kind という言葉が浮かんだのでした。


他の誰にも真似できないような、ユニークな声。


His voice is truly one of a kind

彼の声は、ほんとに唯一無二なんです


声だけではなく、いろんな歌を自在に作れる才能もスゴいです。


He is a one of a kind singer and songwriter

彼は、まさにユニークなシンガー・ソングライターです



この one of a kind に似たような言葉では、one and only というのがあります。


やはり、「唯一無二の」とか「とてもユニークな」といった意味の形容詞でもあり、名詞でもあります。


形容詞としての one and only は、こんな風に使います。


This could be your one and only opportunity to meet King Charles III

今回が英国王チャールズ3世にお会いできる唯一の機会かもしれないですね


そして、one and only は、誰かを紹介するときなどにも使われます。


たとえば、こんな風に。


Let’s have a big hand for the one and only Boz Scaggs!

唯一無二のボズ・スキャッグスさんを大きな拍手でお迎えください!


Please welcome the one and only Boz Scaggs!

唯一無二のボズ・スキャッグスさんを暖かくお迎えください!


(ここでは人物を紹介しているわけですが、one and only という言葉の性質上 the という定冠詞をつけます)


一方、one and only は、名詞としても使われます。


名詞としては「唯一の人物」といった意味になります。


You are my one and only

僕にとっては、あなたしかいないんだ


そういった意味では、こちらの文章と同じですね。


There is no one else for me

僕にはあなたしかいない


誰かを口説くとき、そして、遠距離恋愛で不安になりがちなとき、相手にしっかりと伝えておきたい言葉かもしれませんね。



というわけで、今日は「ユニークな」という形容詞 one of a kindone and only をご紹介いたしました。


日常会話でもよく耳にする表現ですので、覚えておいて便利だと思います。


そうそう、ボズさんのコンサートはすごい盛り上がりで、ノリに乗ったボズさんたちもステージを去りがたいのか、アンコールを5曲も披露してくださいました。


もちろん、締めは、みんなが大好きな『We’re All Alone』。


Noto Hanto Earthquake(能登半島地震)のために、コンサートで使ったギターは、ボズさんがサインしてオークションにかけるとのこと。


どうして一曲ずつギターを替えるのかなと思っていましたが、オークションの収益を能登半島に寄付する目的があったからなんですね。


ご自身では語られることもなかったですが、ボズさんは数年前、ワイン産地として知られるナパバレーの山火事で、すべてを失った経験があるようです。災害の痛みを知るからこそ、能登の災害も看過できなかったのでしょう。


そういった意味でも、one of a kind の御仁ですよね!


筑前国・住吉神社〜宮司さんの祖先、鎌倉時代に活躍!

<エッセイ その209>

季節のうつろいは早いもので、もうすぐ桃の節句。


ホテルレストランには雛壇が飾られ、外国人観光客にも日本の美を伝えています。


福岡県八女(やめ)市にある人形会館が提供されたそうで、こちらでは毎年たくさんの雛人形や五月人形を製作・出荷されています。


難しいのは、女雛と男雛の肩から手に向かうライン。ベテラン人形師が堅い心棒をエイっと曲げ、指先で微調整しながら女性の優しさ、男性の毅然たるさまを表すそう。


というわけで、今日も日本の歴史に関するお話をいたしましょうか。


前回のエッセイでは、福岡市博多区にある立派な能楽殿をご紹介しておりました。


筑前国一ノ宮 住吉神社(ちくぜんのくにいちのみや すみよしじんじゃ)の境内に建つ、昭和初期の歴史的な能楽殿。


広々とした空間に総檜造りの舞台で、演者の方々にも「とても響きが良い」と評判です。


昨年10月に美しくリニューアルした翌月、歴史講座の勉強会で足を踏み入れたわたしは、能楽殿を造られた方々の音響へのこだわりに驚いてしまったのでした(実際に音が聞けなかったのが残念しごく・・・)。


このとき、見学者を受け入れてくださったのは、住吉神社宮司の横田昌和氏と禰宜の桐田篤史氏のお二人。横田家は、代々宮司を務めるお家柄です。


住吉神社の歴史は、1800年前にさかのぼるともいわれますが、江戸時代には福岡藩主・黒田家の庇護を受け、本殿は1623年(元和9年)初代藩主 長政によって再建されたもの。二代忠之は本地堂を再建、四代綱正は鐘楼を再建、五代宣政は護摩堂を建立と、代々の藩主によって手厚く寄進がなされました。


現在、住吉神社宮司を務める横田昌和氏は55代目とのことで、代々の宮司さんの中には、鎌倉時代の有名な書物に登場する方もいらっしゃるのです。


今日は、郷土史研究家・清田進氏よりご教授された内容をもとに、横田家祖先のお話をご紹介いたしましょう。



鎌倉時代といえば、源頼朝(みなもと よりとも)。平氏一門を滅ぼし、相模国・鎌倉を拠点とした、初の本格的な武家政権です。


その始まりの年代にはいろんな説があるようですが、1180年(治承4年)には頼朝が挙兵しているので、だいたいこの頃から急激に力をつけていったと理解していいのでしょう。


この頃のことは、『吾妻鏡(あづまかがみ)』という書物に克明に記録されています。


本題に入る前に、ちょっと『吾妻鏡』のご説明をいたしましょうか。


『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の年代記ともいえるもので、以仁王(もちひとおう、別称:高倉宮)の令旨(りょうじ)により頼朝が東国武士を募って挙兵した1180年から、鎌倉を追われた6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)が京都に戻った1266年(文永3年)まで網羅されています。その詳細な記述から、鎌倉時代を知る上では、貴重な歴史書となっています。


何年何月何日と日付ごとに(ときには時刻まで)記入されていて、まるで誰かの日記のようなスタイルですが、編纂は、政権最末期の1300年(正安2年)前後だろうとされています。編纂者は、幕府の中枢部にいた北条一門やその周辺といわれます。


細かい史実は、朝廷の文士から幕府の奉行人となった方々の日記や、彼らの家に残された文書(もんじょ)、朝廷より送られた文書や武士が提出した文書など、さまざまな文書や記録がベースとなったそう。


原文は和風漢文で書かれていて、現代語訳された『吾妻鏡』を読んでみると、まるでその場にいたかのようなリアルなタッチ。やはり編纂の上では、数人の日記を照らし合わせて、他の文書で史実の裏取りをしたのだろう、と編纂者たちの苦労が感じられます。


そのためか、年次の書き写しミスがあったり、史実に誤った解釈があったりと、読む側にも心得が必要なんだそう。『吾妻鏡』の写本は複数存在し、どれを底本とするかでも、微妙な違いが出てくるとのこと。


吉川弘文館刊行の現代語訳(2007年)は第16巻まであり、『吾妻鏡』全52巻もの大作を訳し、細やかに注釈を加えられた編者・訳者の方々には、頭が下がる思いです。


(『吾妻鏡』については、現代語訳の序章「『吾妻鏡』とその特徴」と「『現代語訳吾妻鏡』の底本について」を参照いたしました)



というわけで、住吉神社・宮司さんの祖先のお話です。


最初に祖先の方が『吾妻鏡』に登場するのは、1180年(治承4年)7月23日の項。


ここでは、こんなことが書かれています。


佐伯昌助という人物がいて、筑前国住吉神社の神官だったが、昨年5月3日に伊豆国に流されていた。同じ神社の祀官である昌守も、一昨年1月3日に伊豆に流されていたという。その昌助の弟である住吉小大夫(すみよし こだゆう)昌長が初めて武衛(頼朝)のもとに参上した。(中略)

昌長と伊勢神宮の祀官の子孫である永江蔵人大中臣頼隆)は、源氏のために兼ねてから人知れず徳を表していただけではなく、それぞれ神職を勤めたいと求めてきたので、(頼朝のための)祈祷を命じるために仕えることをお認めになったという。


これを読むと、筑前・住吉神社の神主・佐伯昌助と神官・昌守は、先に(平家によって)伊豆に流されていて、昌助の弟で(兄に同行した)住吉小大夫昌長が、伊勢神宮の神官の血筋である頼隆とともに、頼朝のために神職を勤めたいと申し出て、頼朝に認められた、という内容です。


どうして昌助と昌守が伊豆に流罪となったのかは書かれていませんが、当時、栄華を極めた平清盛は、筑前・博多を宋貿易の拠点としていて、博多は彼にとって重要都市。


現在「博多総鎮守お櫛田(くしだ)さん」と親しまれる櫛田神社は、清盛が肥前・神埼(現・佐賀県神埼市)の櫛田宮を博多の町に分祀したものといわれます(櫛田宮のある神埼は豊かな穀倉地帯で、当時は有明海・筑後川をルートとする海外交易の要衝でもあり、荘園として栄えていました)。


そんな清盛にとって、何かしら住吉神社の神官がお気に召さないことがあったのでしょう。お兄さんとともに伊豆に流された昌長は、20年前の平治の乱で平家に破れ、同じく伊豆・蛭島(ひるがしま)に流されていた源頼朝に仕えることを願い出るのでした。



二回目に昌長が出てくるのは、翌月8月6日。


(藤原)邦通と(佐伯)昌長を(頼朝の)御前に召して卜筮(ぼくぜい、占い)が行われ、来る8月17日の寅卯の刻(午前5時頃)を(山木)兼隆攻めの日時とした、と書かれています。


そうなんです、頼朝挙兵の初戦は、山木兼隆(やまき かねたか)がターゲット。平氏一族の威を借り、伊豆の目代として地域を支配する人物です。


この兼隆襲撃の大事な日時を決める占いを担当したのが、昌長と邦通の二人。当時は、事を興す際には占いが頼みだったので、二人にとっても重要な役目です。


この時代を描いたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年放映)では、北条殿(時政)の後妻、宮沢りえさん演じる牧の方(りく)が占いを行う設定になっていましたが、実際は、昌長と邦通の二人が大役を務めたのでした。



そして、襲撃を明日に控えた8月16日には、頼朝が成功を願って祈祷を始め、住吉小大夫昌長が天曹地府祭(てんそうちふさい)を勤めた、という記載があります。


頼朝は自ら鏡を取って、昌長に授けられた、とも書き添えてありますので、事の重要さがひしひしと伝わります。


天曹地府祭とは、陰陽道(おんみょうどう)で戦死者の冥福や病気平癒などを願って、冥界の官人に祈祷をささげる祭式だそうです。もちろん、事の成就を祈願したのでしょうが、襲撃によって少なからず犠牲が出ることを見越して祈りをささげる意味もあったのでしょうか。当時の神官は、陰陽師の色合いが濃く、昌長も占いや祈祷がおもな仕事だったのでしょう。


もともと頼朝は、とても信心深い人物。大勝負に出る前に神仏の御加護を願うのは、当然の行いだったのでしょう。


『吾妻鏡』には、こんな一節もあります。


翌年、力をつけはじめた頼朝は、拠点とする鎌倉に鶴岡八幡宮寺を建立します。その上棟式の朝、僧侶が夢枕に立ち、夢から覚めた頼朝は、このように述べます。


「造営というのは、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を崇め敬うことである。鶴岡八幡宮寺の上棟の日にこのことがあった。ひたすら八幡大菩薩を信仰すべきである」と。(1181年(治承5年)7月21日の項)


頼朝は、八幡大菩薩を崇めるために、鎌倉に立派な「寺」を建立しました。これが、現在、鶴岡八幡宮と親しまれる神社です。明治期の廃仏毀釈のため寺から神社となっています。


もともとは、頼朝の祖先・頼義が、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮を密かに分霊して由比郷(ゆいごう、現・由比ヶ浜、材木座周辺)に由比若宮を建立。これを遷宮しようと、頼朝は心身を浄めて鬮(くじ)を取り、現在の場所である小林郷を鎮座の地と定め、ここに立派な寺を建てたのでした。


頼朝はとにかく信心深い。1180年(治承4年)10月、鎌倉に入って真っ先にしたことは、祖先が祀られる由比若宮を遥拝することでした。神であれ、仏であれ、自分の願いをかなえてくれるのであれば、熱心に祈る。


昔から大切にしてきた小さな正観音(しょうかんのん)像に経を唱える隣で、神官にも祈祷をさせる、そんな日常だったようではあります。



そして、次に昌長が出てくるのは、いよいよ襲撃の当日、8月17日の項。


北条殿(時政)が「今日は三島社の神事の日で人出が多いので、大通りを行かず、裏道を行った方が良いでしょう」と提案すると、頼朝は「大事を始めるのに裏道を使うことはできない。(中略)だから、大道を用いなさい」とおっしゃったそう。

そして、大通りを行く軍勢に(徒歩用の軽い鎧を身につけた)昌長を付き添わせた、と。


これは、昌長に戦場で祈祷をさせるためで、ここでも彼は大役を果たすのです。戦地で祈祷をするのですから、昌長としても命を懸ける覚悟があったのでしょう。


夜が明けて、ターゲットである山木兼隆の首をとり、事は成就するのですが、これから先は、戦乱の世となることが予想されます。


そこで、頼朝は、御台所(政子)に対して文陽房覚淵(もんようぼうかくえん、頼朝が信頼していた真言宗の僧侶)の房舎に避難するように勧めます。


兼隆襲撃の二日後の夜、御台所は房舎に出立するのですが、ここでお供をしたのが、(藤原)邦通と(佐伯)昌長の二人。


政子は世情が落ち着くまでここで密かに寄宿することになるのですが、昌長と邦通の二人は、ボディーガードとして政子をお守りする大事な役目を担ったのでした。



ちなみに、政子は、二ヶ月後には鎌倉に戻り、年末になると頼朝が新造した邸宅に移られたようではあります。


一年後の1182年(寿永元年)3月、ご懐妊した政子のために御着帯の儀式が行われ、頼朝自ら帯を結びます。前年末には政子が病気で臥せたこともあり、ひときわ喜びのご様子。7月には、政子は比企(ひき)家のお屋敷に移り、8月12日、第2子となる長男・頼家(のちの二代将軍)を出産。


10月には政子は鎌倉の御所に戻るのですが、まあ、その間、頼朝は亀前(かめのまえ)という女性をお妾さんにしていて、それが北条殿(時政)の後妻・牧の方の告げ口によって、政子の知るところとなるのです。


ものすごくお怒りになった政子は、亀前がかくまわれていた藤原広綱の家を破壊させ、「大いに恥辱を与えた」そう。政子に手を貸した牧三郎宗親は、頼朝の御前に呼ばれ「政子の命令に従うのは神妙なことだが、どうして内々に報告してこなかったのか」と詰問され、泣きながら逃亡したとか。


そして政子のご機嫌を取るために、亀前をかくまった広綱は、遠江国(現・静岡県西部)に流されるのです。


が、ここでめげる頼朝ではありません。亀前を新たな場所にかくまうのです。政子に恐れおののく亀前は、ご辞退申し上げようとするのですが、頼朝は大丈夫、大丈夫となだめたご様子。


亀前は、頼朝が伊豆にいた頃からおそばに仕えていた女性で、容姿端麗であるだけではなく、優しい方だったそう。そんな彼女に対する寵愛は、日を追って募るのでした。



と、すっかりお話がそれましたが、兄とともに筑前・住吉神社から伊豆に流された、住吉小大夫昌長。


最後に昌長が『吾妻鏡』に出てくるのは、13年後の1193年(建久4年)。鎌倉にやって来た昌長は、「召し返さるべき」という旨の官符(お達し)をいただいたそう。


一時期、お役を離れていたものの、また頼朝にお仕えすることとなったようです。頼朝は好き嫌いがはっきりした人物のようなので、よほど昌長が気に入っていたのでしょう!


というわけで、昌長を知ろうと『吾妻鏡』を開いたのですが、すると頼朝がどういう人物だったのかと大いに興味をそそられるのでした。


『吾妻鏡』は、徳川家康の愛読書でもあったそう。家康にとっては、武家政権を築いた頼朝の采配を描いた年代記は、必読の書だったのでしょう。


わたし自身は、とても最後まで読破する元気はありませんが、せいぜい「平家の滅亡」までは読んでみようと思っています。


<こぼれ話>

『吾妻鏡』には、当時の人々の考え方、感じ方が如実に反映されているようです。

たとえば、こんなものがあります。

1180年(治承4年)10月、鎌倉に入った頼朝は、邸宅の工事を始めるのですが、工期が間に合わないので、とりあえず幕府職員の兼道の家を移築することにします。

この建物は、平安時代の正暦年間(990〜995年)に安倍晴明(あべのせいめい)が「鎮宅の符」を押したから、これまで火災にあったことがない、との理由で選ばれたようです。(10月9日の項)

いうまでもなく、安倍晴明は平安時代の陰陽師のスター的存在。当時は陰陽師が活躍し、実力者が決断をする際は、常に彼らの助言に従っていました。ことに晴明の高名は、鎌倉時代にも語り継がれていたようですね。

わたし自身も、ある工学部教授を囲む会で、陰陽師16代目という方にお会いしたことがあります。子供の頃は妹の方が自分よりも勘が鋭く、彼女が後を継ぐのだろうと思っていたところ、大人になったある日、襖(ふすま)の一面にびっしりと文字が浮かんできて、これは自身が16代となるお告げだと自覚されたとおっしゃっていました。

なんとも不思議なお話ではありますが、『吾妻鏡』にも、こんな不思議な記述があるのです。

戌の刻(いぬのこく、午後8時前後)、鶴岡の辺りに光る物が現れた。前浜の辺りへと飛んで行き、その光は数丈(20メートルほど)におよび、しばらく消えなかったという。(1182年(寿永元年)6月20日の項)

これを読む限り、未確認飛行物体のようにも思えますが、当時の方々は、神さまが現れたように感じたのかもしれませんね。

『吾妻鏡』といえば、歴史の教科書では名前しか習わないような書物です。けれども、じっくりと読んでみると、先達の方々の頭の中が見えるようで、なかなか面白いものなのです。


Pixie dust(魔法の粉)

<英語ひとくちメモ その170>

今日のお題は、pixie dust


ピクシー ダストと発音します。


ごく簡単な名詞ですね。


最初の pixie というのは、イギリスの民話に出てくる妖精のことです。


小さくて、陽気で、いたずら好きな妖精たち。ストーンヘンジのような、古い石造りの遺跡に好んで住んでいるとか。


遺跡には、隠れる場所がたくさん。あちらこちらにできたくぼみを覗くと、何かがチラリと動いた。それが、妖精の誕生に結びついたのかもしれませんね。


この小さな妖精たち pixies は、ケルト語が由来とも言われます。


ケルト人は、紀元前3世紀くらいにはヨーロッパじゅうに広がっていた人々ですので、イギリス、アイルランド、スコットランドなど、ケルトの影響を受けた文化や言語はたくさんあるようです。


それで、pixie dust というのは、妖精の粉、つまり、魔法の粉。「魔法をかける粉」という意味です。


パラパラッと振りかけると、相手に魔法がかかる、という夢のような粉のこと。


この言葉を有名したのは、ディズニー作品の『ピーター・パン』に出てくる、ティンカー・ベル(Tinker Bell)でしょうか。


彼女がパラパラッとすると、空を飛べるようになるという、金色に輝く粉(a golden, sparkling powder)。これが pixie dust と呼ばれて、有名になりました。


現実世界では、ウォルト・ディズニー・カンパニーの顧客サービスのモットーでもあるようです。お客様がクルーズ船やテーマパークを訪れ、パラパラッと金色の粉をかけてもらうと、ディズニー世界の特別感がいっそう増す。そんな魔法の効果をもたらすようです。


実は、俗語としては「覚醒作用のある麻薬」という意味もあるのです。


やはり pixie dust とは、「現実を超越した体験をする」という含みがあるんですね。



一方、pixie dust というと、なんとなくディズニー作品を思い浮かべるので、これを避けるために別の呼び方もあります。


それは、magic fairy dust


こちらは「魔法の妖精の粉」と、ごくストレートな言い方です。


先日、意外にも、この言葉を科学記事で見かけたのでした。


「魔法」と「科学」は相入れない関係だなと、とても印象に残ったのですが、こんな風に使われていました。


ちょっと難しいですが、引用してみましょう。


In marketing copy and start-up pitch decks, the term “AI” serves as magic fairy dust that will supercharge your business

マーケティングのキャッチコピーやスタートアップ会社の投資家向けプレゼン資料においては、「AI(artificial intelligence)」という言葉は、ビジネスをグイッと盛り立ててくれるであろう魔法の粉の役割を果たす

(Excerpted from “Theoretical AI harms are a distraction” by Alex Hanna and Emily M. Bender, Scientific American, February 2024, p69)


つまり、実益があるかどうか確実性はないものの、皆が魔法にかけられて、ウキウキと夢見てしまうような効果があるのが AI という言葉である、とおっしゃっているわけです。


流行りの AImagic fairy dust と結びつけるところが、実に面白い文章になっていますよね。



この科学記事には、Magic 8 Ball という言葉も出てきました。


Magic 8 Ball とは、占いのおもちゃ。


ちょっと長いですが、その文章を引用いたしましょう。


These systems are the equivalent of enormous Magic 8 Balls that we can play with by framing the prompts we send them as questions and interpreting their output as answers

これらのシステム(チャットGPTのような生成AI)は、表示画面に我々がインプットしたものを質問とし、出てきたアプトプットを答えと解釈するように仕向けられた、巨大な「マジック8ボール」のおもちゃと等しいものである

(Excerpted from Hanna and Bender, p69)


この Magic 8 Ball というのは、ビリヤードの黒い8番ボールのような、おもちゃです。黒地に「8」と書いた8番ボールよりも、ちょっと大きめの球体。


こちらが何か質問をして、「8」の裏側を見ると、小さな窓に答えが出てくるという、占いの玩具です。(Photo of Magic 8 Ball from Wikimedia Commons)


答えは20種類あって、そのうち10種は肯定的、5種は否定的、残り5種はあいまいな答えとなっています。


Yes definitely(もちろんイエスです)や As I see it, yes(わたしが理解する限りイエスです)といった肯定的なものから、My reply is no(わたしの返事はノーです)といった否定的なもの、そして Better not tell you now(今はお教えしない方がいいでしょう)といったあいまいな答えまで、バリエーションを持たせています。


が、これはあくまでも、答えを信用などできない、お遊びの道具。


ですから、記事の著者たちは、生成AI の働きは Magic 8 Ball の仕掛けと同じであり、インテリジェンスもなく、背景を理解する能力もなく生成された、あいまいな文章から答えを導くように我々が仕向けられているのである、と述べているわけです。


この著者たちの意見に賛同するか否かは別として、斬新な、面白いたとえであることは確かですよね!



そして、pixie dustmagic fairy dust といえば、magic wand もあります。


この wand というのは、木の枝でできた短い杖(つえ)のこと。


時には動物の角で作ったものもあるそうですが、magic wand とは何かしら呪術的な力のこもった、特別なもの。


つまり、魔法使いがあやつる、魔法の杖ですね。


ハリーポッター作品にも、magic wand は頻繁に出てきますが、最初のうちは、うまく魔法の杖が使えなくって、自分の髪がチリチリに焦げてしまうなんて場面もありますよね。


魔法の杖は、使い手の持つ潜在能力を引き出して、杖の先端に集中させ、対象物に照射する、といった役目を果たすもの。


ですから、ハリーポッターの世界では、目的によっていろいろと種類があるし、熟練すれば、魔法の杖がなくても、相手に魔法をかけられるようになるとか。


この magic wand という言葉は、日常的な会話でも使うことがあります。


たとえば、こんな風に


If I could wave a magic wand, I would make him disappear

もしも魔法の杖が振れるなら(使えるなら)、彼をこの世から消し去るのに


ちょっと物騒な例ですが、「魔法の杖を使う」は wave a magic wand と言いますね。


日本語と同じで、「振る」という動詞を使います。



というわけで、今日は、魔法に関するお話でした。


たとえば、受験。そして、バレンタインデー。


2月は、ハラハラするイベントが多いです。


時には魔法を使ってみたくなりますが、そういうわけにも行かないのが人間社会。


悔いのないように、人はコツコツと生きるのが最善の手段なのかもしれません。


福岡の住吉神社〜リニューアルした能楽殿

<エッセイ その208>

新しい年が明けたと思ったら、まもなく立春です。


有名な太宰府天満宮(だざいふ てんまんぐう)の『飛梅(とびうめ)』もほころび、辺りは春隣(はるとなり)のかぐわしさ。


飛梅は、京都より左遷された菅原道真公を慕って、一夜のうちに都から太宰府に飛んできたと伝わる古木。「学問の神様」にお参りする受験生たちを温かく迎えているのです。


さて、前回のエッセイでは、福岡と日本最古の書物『古事記(こじき、ふることふみ)』の意外な関係をご紹介いたしました。


日本の国を造ったとされる伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二神が、黄泉の国(よみのくに)で壮絶な再会を果たしたあと、イザナギノミコトが禊(みそぎ)をしようと竺紫(つくし)へやって来て、そこで神々が生まれた、というお話。


この禊の地「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(つくしの ひむかの たちばなの おどの あはきはら)」とは、いったいどこなのか?


これには諸説あって、宮崎市の阿波岐原町(あわぎがはらちょう)にある江田神社(えだじんじゃ)の辺りという説もあるそう。


太平洋を臨む有名リゾート、フェニックス・シーガイア・リゾートに隣接し、広大な黒松の森に抱かれるところ(写真では右奥の森に江田神社が隠されます)。


宮崎というと、高千穂(たかちほ)をはじめとして、県全体に神話のふるさとというイメージがあり、なかなか説得力がありますよね。


が、前回ご紹介したのは、竺紫というのは「筑紫」、つまり福岡県ではないかと考えられる、というお話でした。なぜなれば、福岡には、イザナギが禊をされた際にお生まれになった神々を祀る神社がいくつも存在するから。


最初に身の汚れから生まれた神と、その禍を直そうと生まれ出た神々を祀る警固神社(けごじんじゃ、福岡市中央区天神)。


三柱の海の神、綿津見神(ワタツミノカミ)を祀る志賀海神社(しかうみじんじゃ、福岡市東区志賀島)。


そして、住吉三神と親しまれる、三柱の筒之男命(ツツノヲノミコト)を祀る筑前国一ノ宮 住吉神社(ちくぜんのくにいちのみや すみよしじんじゃ、福岡市博多区住吉)。


とくに住吉神社に関しては、鎌倉時代の僧侶、顕昭(けんしょう)が著した歌学書『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』にこのような記述がありました。


「住吉の神々は、もともと筑前(福岡)小戸にあり、荒御魂(あらみたま)は常にここにいらっしゃる。今は、和御魂(にぎみたま)は摂津墨江(せっつすみのえ、大阪市)にいらっしゃるが、神功皇后がこちらに分祀なさったのだ」と。


福岡といえば、常に変化し続け、あまり歴史を感じさせない街ですが、実は古事記にも深い関わりを持っている。前回は、そんなことをご紹介したのでした。



というわけで、今日は、住吉三神のいらっしゃる筑前国一ノ宮 住吉神社にフォーカスいたしましょう。


実は、この住吉の辺りは、我が家にとっては愛着のある地域で、それは、住吉神社の斜め前に住吉酒販という酒屋さんがあるから。


日本全国から仕入れた日本酒やヨーロッパのワインと、日本人客だけではなく、韓国からいらした観光客も訪れる酒屋さん。飲み屋街の中洲(なかす)からは川向こうにあり、博多駅にもほど近い便利な立地。今は整然と区画整理されていますが、昔は、問屋や商家の集まる賑やかな地区だったのでしょう。


我が家にとっては「酒」のイメージの強い住吉ですが、あるとき、住吉神社の境内を散策したときから、この神社の魅力にひき込まれたのでした。


なんといっても、都会にありながら境内が広い。境内には、住吉神社本殿だけではなく、三日恵比寿神社や荒熊・白髭稲荷神社など、たくさんの神々が祀られます。


それぞれの建物は静かな木立や池に囲まれ、どの季節に散策するにも最適なところ。


本殿は、元和9年(1623年)初代福岡藩主 黒田長政によって再建されたもの。戦乱によって荒廃した神社を長政が再興し、現在、本殿は国の重要文化財に指定されています。



この住吉神社にあるのが、「西日本随一」とうたわれた能楽殿。


大正時代に警固神社の能楽堂が老朽化したため、昭和10年(1935年)能楽愛好家の間で、住吉神社の境内に能楽堂を建設しようという計画が生まれます。昭和13年(1938年)に落成し、その後、住吉神社に寄贈されます。激しい太平洋戦争の戦火も、奇跡的に免れました。


近年は老朽化対策と耐震補強、そして増築部分を取り払うために改修工事が行われ、2年の修復作業ののち、昨年10月に柿(こけら)落としを迎えました。


前回のエッセイでも触れていますが、わたしがこの能楽殿に入ったのは、七五三を控える11月中旬。郷土史研究家 清田進氏が主催する『那国王の教室』の勉強会が、美しく修復された能楽殿で開かれたのでした。


前月の柿落としのイベントには役所関係の方々が列席されたそうなので、一般市民でゆっくりと座ったのは、わたし達が初めてだったそう!


そんなわたし達をお迎えくださったのは、住吉神社宮司・横田昌和氏と禰宜・桐田篤史氏のお二人。


この日は、桐田氏(写真)に能楽殿の歴史や内部構造についてご説明いただきました。


なんでも、戦前の木造の能楽殿は、全国的にもまれで、東京都杉並区にある杉並能楽堂など数えるほどだそう。


杉並能楽堂は、明治43年(1910年)本郷弓町(現・文京区本郷)に建てられ、昭和4年(1929年)に和田堀内村(現・杉並区和田)に移築再建。杉並区の有形文化財にも指定されています。


江戸時代には幕府や各藩に保護されていた能や狂言は、明治期になると政府の庇護を失います。そんな背景があって、明治期以降、なかなか能楽堂が建てられることはなかったそう。


こちらの住吉神社能楽殿は、杉並能楽堂よりもずっと規模が大きく、劇場のようにゆったりとした形をしています。洋風建築技術を取り入れるなど、建築史上きわめて貴重な建造物であり、福岡市の有形文化財にも指定されています。


中に入ると、その広さに圧倒されます。外から見るとわかりにくいのですが、こぢんまりとした能楽堂ではなく、まさに「劇場」という名がぴったりな和洋折衷の広々としたスペース。


天井は高く、ゆったりと空間を見渡せます。ゴザを敷いた板張りの桟敷席は、上段・中段・下段に分かれます。床は少し前に傾斜し、前列の人が気にならないように工夫されています。


珍しいのは、舞台の右手に貴賓席が設けられていること。


公演中は、貴賓席に御簾(みす)が下げられ、どなたが観劇されているのか、一般の観客にはわからないようになっていたとか(舞台右手の黄色い御簾の向こうが貴賓席)。


客席の右端に小さな階段があって、一旦そこを下り、細い階段を上って貴賓席に行けるようになっています。神社の能楽殿ということもあり、皇族の方がいらっしゃることを想定されたのでしょうか。



そして、肝心の能舞台。


橋掛(はしがかり)は長く立派で、近年に建てられた大規模な能舞台にも引けを取りません。

橋掛とは、静かに登場を待つ鏡の間から本舞台へと向かう通路ではありますが、あの世から現世へと亡霊が訪れたり、遠くから旅人が訪ねて来たりと、時空を超えた演出を手助けするもの。ここには存在しない設定の演者が控えることもあり、単なる通路ではない奥深さがあります。


舞台を正面から見ると、美しい絵が目に飛び込みます。背面の「老松」と側面の「若竹」は、地元・筑紫郡住吉村(現・博多区住吉)が輩出した日本画家、水上泰生(みずかみたいせい)画伯が描かれたものだそうです。


水上画伯は、明治から昭和にかけて活躍された日本画家で、とくに背面の老松は構図も美しく、躍動感を感じます。花鳥画の中でも「鯉」がお得意だったそうで、一本の松にも風にゆらぐ枝葉の様子や、宿った命の力強さを見て取れるのです。


背面の鏡板の老松は、鏡に映る松の姿を表すそうですが、松とは、神々が人の前に現れるときに依り憑く(よりつく)もの。


能は、芸であると同時に、神事でもあります。神聖な舞台空間を創り出す上で、松の絵は不可欠な要素なのです。



舞台は総檜づくりで、音質は柔らかく、音響の良さに一役買っています。


そうなんです、こちらの能楽殿は、音響の良さも特筆すべき点でしょうか。


舞台奥の天井は斜めに張られていて、客席に向かって音が響くように工夫されています。


舞台の裏手と天井裏には大きな空間が設けられていて、音の反響を助長します。


なんでも、音はこういった空間に一旦こもって、そのあと前に押し出されてくるような構造になっているとか。


この音の響きに関して、「お唄が渦を巻く」と表現する方もいらっしゃったそう。


床下にも大きな空間があって、地面には大きな甕(かめ)が何個も埋められています。


こちらの写真は、翌月(2023年12月)に開かれた能楽殿見学会に参加した友人が撮影したもので、床下にはゆったりとした空間があり、陶器の甕が何個も埋められている様子が見えたそう。


大きなものは8個(現存7個)、舞台と橋掛を合わせて全体で13個の甕が埋められていて、各々の甕は、音の響きを考慮してあちらこちらの方向に向けられています。


能舞台では、笛や太鼓のお囃子や謡(うたい)に加えて、足で舞台を踏む「足拍子」も多用されます。そんな音全体がより美しく共鳴するようにと、古来、舞台下には甕を埋めて共鳴装置としました。甕はそれぞれ埋める方向を違えて、より良い音響に微調整するのです。


こういったさまざまな工夫は、古くから能舞台に施されているものですが、こちらの能楽殿は、とくに演者の方々にも音響効果が良いと評されているのです。



舞台の上に目をやると、屋根は、檜皮葺(ひわぶき:ヒノキの樹皮で葺く工法)。


橋掛の屋根は、杉材を使った柿葺(こけらぶき:木の薄板を何重にも葺く工法)。


通常、舞台屋根は柿葺が一般的だそうで、そこから劇場の初興行「こけら落とし」という言葉が生まれたそうです。が、こちらの舞台屋根は、ひとつずつヒノキの皮を重ねた檜皮葺とのこと。


そして、舞台屋根を支える梁には、透かし彫りの蟇股(かえるまた)。多分に装飾の意味合いが強い細工ですが、細部にまでこだわりが感じられます。


こちらは、壁面に用いた懸魚(げぎょ)という装飾で、魚をつるした形を表します。


もともとは屋根の棟木を隠すために施されたものですが、装飾としてさまざまな文様が派生していきました。


木造建築は火災に弱いので、水に縁のある魚をモチーフにして、「火除け」のおまじないとしたそうです。


こちらはごくシンプルに簡略化された文様ですが、激しい戦火もくぐり抜けたという経緯は、懸魚のおまじないのおかげでしょうか。


舞台の足下に目をやると、ぐるりと舞台を囲むのは白洲(しらす)。


白い玉砂利が敷かれた部分は、日常と神聖な場である舞台を隔てる「結界(けっかい)」を意味します。


それと同時に、実用性もあって、天窓から射し込んだ日の光が玉砂利に反射し舞台を照らすという、間接照明の役割もあるのです。これによって、シテの感情表現が際立つそうです。


というわけで、美しく改修された住吉神社の能楽殿。これからさまざまな演目が上演され、名を馳せることになるのでしょう。


歌舞伎やミュージカルの興行で有名な博多座(はかたざ)とはいわないまでも、能や狂言で人が詰めかける舞台になって欲しいと思うのです。


<こぼれ話>

住吉神社宮司の横田昌和氏によると、こちらの能楽殿では、修復前、年間40回くらい能楽を上演していらっしゃったそうです。

昨年10月にリニューアル柿落としを迎えた際は、九州交響楽団(愛称:九響)の四重奏も披露されました。

能舞台でクラシック音楽というのは、響きが気になるところですが、チェリストの方は「音が床に響いて、とてもいい音色」とおっしゃったそうです。

が、ヴァイオリニストの方は、「空間に音がこもって、気持ちが悪い」とおっしゃったとか。

なるほど、チェロは低音の響きも魅力ですが、ヴァイオリンは、抜けるような高音も大事。周波数が高い高音ほど、演奏者の耳に遅れて到達すると、自分も弾きにくいし、聞いていて気持ちの悪いものかもしれませんね。

ぜひこちらで能楽とクラシック音楽の両方を楽しんでみたいものです!


To the moon and back(月へ行って、戻ってくる)

<英語ひとくちメモ その169>

新しい年が明けました。


新年のスタートと同時に能登半島では大地震が起き、羽田空港では航空機衝突事故が起き、なにやら暗雲たち込める一年の始まりとなりました。


とくに能登半島で被害に遭われた方々には、一日でも早く元の生活に戻れるように心よりお祈り申し上げます。


さて、今年最初の英語のお話は、to the moon and back


直訳すると、「月に行って、戻ってくる」。


一般的には、このように使います。


I love you to the moon and back


これは、「あなたをとっても好きです、愛しています」を誇張した表現になります。


つまり、「地球から月に行って、月から地球に戻ってくるような遠い距離ほど、あなたのことを想っています」といった感じ。


地球から月への距離は、平均すると38万5千キロメートルだそうなので、往復で77万キロ。77万キロを行って帰って来るほど、あなたを深く想っているのです、という表現になります。


遠いということは、愛が深い。よく子どもが「こ〜んなに好きなんだよ」と言いながら両腕を広げることがありますが、それを言葉で大袈裟に表したものですね。


日本語で「愛している(love you)」というと、一般的に恋愛感情をさしますが、英語では必ずしも恋人同士の愛情とは限りません。親子でも兄弟姉妹でも、親友同士でも、とっても大切な人への想いには love を使います。


ですから、お母さんが息子に向かって I love you to the moon and back と言っても、何の違和感もありません。



そう、このお話を書こうと思ったきっかけは、カリフォルニア州サンノゼ市のご近所さんにありました。


彼女は、斜め前(diagonally across the street)に住むご近所さん。感謝祭(Thanksgiving)や復活祭(Easter)と親族で開くイベントに招待していただいたり、ご近所さんが定期的に集うランチでご一緒したりと、「斜め前同士」で過ごした23年間、大変お世話になりました。


そして、わたしが日本に戻って来てからも、事あるごとに、メールで近況を報告し合っています。


梅や桜が咲いたとか、山の紅葉がきれいだったよと写真を送ってさしあげると、愛用のiPadでじっくりとご覧になって、一枚ごとに丁寧に感想を述べていただいています。


とくに日本の紅葉は、なかなかカリフォルニアではお目にかかれないもの。「息をのむようだわ(Breathtaking)! そちらには訪れるべき名所がたくさんあるわね(You have so many beautiful places to visit) シェアしてくれてどうもありがとう(Thank you so much for sharing)」と返信をいただきました。


そんな彼女が、孫が3歳にもならない頃に「おばあちゃんは、スーパーマンより強いんだよ(Grandma is stronger than Superman)!」と言ったことを思い出して、昔を懐かしがっていたのでした。


毎年クリスマスの時期、サンノゼ市の中心部は、クリスマス公園(Christmas in the Park)として市民の憩いの場となります。アイスリンク(写真)も設けられ、ヤシの木の下でアイススケートもできるようになるのですが、そこで遊ばせていた孫が「僕のパパは強いけど、おばあちゃんはスーパーマンよりも強いんだよ」と宣言したんだとか。


すると翌日、「もっと思い出したわ」とメールを送ってきて、「スーパーマンより強い」コメントの背景を説明してくれたのでした。


なんでも、その頃は彼女の娘も忙しくて、なかなか孫にかまってやれず、そうなると孫が「ねえ、ママが遊んでくれないんだ。おばあちゃん、来てくれる?」と電話をかけてきたそう。娘一家は車で20分ほどの距離に住んでいたので、すぐに飛んで行っては、孫をすくい上げて抱っこしてあげたのでした。そんな力強い抱っこの印象があって、「おばあちゃんはスーパーマンよりも強い!」になったようですね。


孫を抱っこしてあげる時には、I love you to the moon and back と言いながら愛情を注ぎます。


すると、孫はこう返してくれたそう。


I love you to Mars and back


「火星に行って帰ってくるくらい、おばあちゃんが大好き!」というわけです。


そうなんです、この I love you to the moon and back には、面白い返答の仕方があって、もっと遠い距離を使って「(僕の方が)もっと好きなんだよ」と返すんです。


つまり、孫は3歳にも満たない頃に、すでに月と地球よりも、火星と地球の距離が大きいことを知っていた! ということになるのです。


地球から火星への距離は、平均すると2億2千5百万キロメートル。往復では、4億5千万キロ。往復でも77万キロしかない月と地球の距離とは比べものにならないほど、火星は遠い。


彼女の孫は、3歳にしておばあちゃんを喜ばせる方法を論理的に知っていた、というわけなのです。


実は、このお孫さんには、以前「エリックくん(仮名)」としてエッセイ『学校は卒業しなくても』に登場していただいたことがありました。


あまりにもお利口さんなので、14歳でカリフォルニア州立大学バークレー校(UCB)の大学院に入学し、16歳でマサチューセッツ工科大学(MIT)の博士課程に入ります。


その後、仲間と起業して成功し、学校には戻らず、実社会で生きている好青年。そんな青年は、小さい頃から地球と月や、太陽系にある惑星との関係などは把握していらっしゃったのでしょうね。



と、お話がそれましたが、I love you to the moon and back


語源を調べようと、Dictionary.com というサイトを読んでいたら、1979年の法廷劇『Nuts』にこんなセリフがあったと書いてありました。


わたしが小さい頃、彼女にはこう言っていたものだわ。 I love you to the moon and down again and around the world and back again(月へ行って帰って来て、世界をグルッと回って戻って来るほど、あなたが大好き)


すると、彼女はこう言ってくれるの。 I love you to the sun and down again and around the stars and back again(太陽に行って戻って来て、星の間をグルッと回って戻って来るほど、あなたが大好きよ)


いずれにしても、宇宙開発などで宇宙への関心がふくらんだ時期、地球上を離れて宇宙スケールの表現を編み出そうと、「月へ行って戻って来るほど、あなたが好き」と言い出した方がいらっしゃったのでしょう。


最初は、え、なんだって? と聞き返されていたんでしょうが、1990年代になると、なかなかクールな表現だね! と、一気に広まったようです。ご近所さんのお孫さんが3歳だったことを考えると、きっと1990年代というのは正しいのでしょう。


I love you to the moon and back


なかなかロマンティックな表現ですよね。


恋人だけではなく、家族にも使えるので便利な表現でもあります。


実際に使うかどうかは別として、覚えておいて損はないでしょう。


『古事記』と福岡〜神さまとの意外な関係

<エッセイ その207>

コロナ禍も少しずつ人々の意識から遠のいているのでしょう。博多湾を行き交うクルーズ船も、ぐんと増えているように感じます。


着岸を目指す大型船のかたわらを、「ちょいとごめんなさいよ!」と別の船がすり抜けて行きます。


やはり、クルーズ船で海外から訪れる方が日々増えている証拠なのでしょう。


そんな師走の今日は、福岡市にまつわる歴史のお話をいたしましょう。


福岡県福岡市というと、九州の北に広がる、玄界灘(げんかいなだ)に面する一大都市。


ちょっと船を漕ぎ出せば、壱岐(いき、長崎県壱岐市)の島に到達し、その先の対馬(つしま、長崎県対馬市)を超えると、もう朝鮮半島や中国大陸とつながります。


常識的に考えて、大陸から南下して最初に人々が流れ着くのは、対馬であり、壱岐であり、その先の北部九州。長崎県松浦市、佐賀県唐津市、そして福岡県福岡市の辺りでしょう。


そう、北部九州の沿岸には、大陸との交流を示す太古の遺跡も多いです。律令制が布かれてからは、都が置かれたこともなく、表舞台から遠のいている印象ですが、太古よりめんめんと受け継がれた文化の栄えた地域。


けれども、不思議なことに、福岡の地元の方はよく「この街には名所旧跡がないからね」とおっしゃいます。


だから、観光客の方々は、まず太宰府天満宮(福岡県太宰府市、現在は仮殿で参拝)を見学して、そのあと食を楽しもうと博多の街を訪れるのだ、と。


それを聞くと、2年半前に福岡市に移住してきた我が家などは、「福岡だって歴史に満ちあふれているのにね」と、なかば憤慨するのです。


その証拠となるのが、日本最古の書物ともいわれる『古事記(こじき、ふることふみ)』。


意外なことに、古事記にも福岡が登場する箇所があるのです!



古事記は、神話や天皇家に関する歴史的表記、歌謡が混在する不思議な書物です。最初の部分には、どうして古事記が成立したかを説明する「序」のあと、数々の有名な神話が続きます。(以下の漢字表記は、岩波文庫版『古事記』(倉野憲司校注)に基づきます)


この神話の部分は、最初に「高天の原(たかまのはら、天上界)」にいらっしゃる神々を紹介したあと、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が日本の国となる島々を生み、次に神々を生み、火の神を生んだことでイザナミノミコトが亡くなるお話へと続きます。


愛する妻を失ったイザナギノミコトは、出雲(いずも)と伯伎(ほうき)の堺にある比婆(ひば)の山に妻を葬り、死の原因となった息子の火の神の頸(くび)を叩き斬ります。


ここで、かの有名な「黄泉の国(よみのくに)」のお話となります。


亡くなった妻にどうしても帰ってきてほしいイザナギノミコトは、黄泉の国を訪れ妻に会えたのですが、「黄泉の神と交渉してくる間、わたしの姿を絶対に覗き見ないように」とクギを刺されたにもかかわらず、髪にさしていた櫛の歯に火をともして、変わり果てた醜い妻の姿を見てしまうのです。


あまりの恐ろしさにイザナギは逃げ帰ろうとするのですが、「あんなに見てはいけないと言ったのに、わたしに恥をかかせたわね!」と怒り狂うイザナミは、次から次へと追っ手を放ちます。そんな化け物や黄泉軍の追っ手と抗戦したイザナギは、命からがら現世へと逃げおおせます。


黄泉の国の入り口を大岩でふさぎ離婚の言葉を唱えるイザナギに向かって、イザナミは「そんなことをするなら、一日に千人ずつ殺してやる」と捨て台詞を吐き、イザナギは「それなら、わたしは一日に千五百人ずつ生んでやる」と返します。もう二人の間には愛の片鱗も残っていない様子。


ここでイザナギは、「なんと汚らわしい国へと行ってしまったことか。禊(みそぎ)をしなければ」と、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)に行き、中流の瀬に入って身を浄めたのでした。


と、「黄泉の国」のお話は、こんなストーリー展開でした。



ここで気になるのが、イザナギが身を浄めた長い名の場所は、いったいどこなのか? ということ。


これには諸説あるのでしょうが、最初の「竺紫(つくし)」というのは、「筑紫」とも解釈できます。


筑紫(つくし)とは、古代の九州の総称であり、おおむね筑前・筑後の福岡県周辺を表します。ですから、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、現在の福岡市の辺りとも考えられます。


ここで重要になってくるのは、イザナギが水で身を浄めたときに、生まれ出た神々。


ちょっと難しいお名前ですが、こんな神々です。


まず身の汚れより出現したのが、八十禍津日神(ヤソマガツヒ・ノカミ)と大禍津日神(オオマガツヒ・ノカミ)。その禍(わざわい)を直そうと出現したのが、神直毘神(カンナオビ・ノカミ)と大直毘神(オオナオビ・ノカミ)、伊豆能売神(イズノメ・ノカミ)。


さらに、水の底で身をすすいだときに生まれたのが、底津綿津見神(ソコツ・ワタツミ・ノカミ)と底筒之男命(ソコ・ツツノヲ・ノミコト)。


水の中ほどですすいだときに生まれたのが、中津綿津見神(ナカツ・ワタツミ・ノカミ)と中筒之男命(ナカ・ツツノヲ・ノミコト)。


水面ですすいだときに生まれたのが、上津綿津見神(ウワツ・ワタツミ・ノカミ)と上筒之男命(ウワ・ツツノヲ・ノミコト)。


まずは、二柱の神が汚れより生まれ出て、汚れを払おうと三柱の神が出現した。そして、三柱の綿津見神(わたつみのかみ)と三柱の筒之男命(つつのをのみこと)が現れた、ということになります。


そして、これらの神々に続いて、イザナギが左目を洗ったときに天照大御神(アマテラス・オオミカミ)が、右目を洗ったときに月讀命(ツクヨミ・ノミコト)が、鼻を洗ったときに建速須佐之男命(タケハヤ・スサノヲノミコト)が生まれました。


そう、かの有名な天照大御神や須佐之男命が生まれる前に、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直毘神(かんなおびのかみ)、綿津見神(わたつみのかみ)、筒之男命(つつのをのみこと)の神々がお出ましになっていた、ということです。



さて、ここで本題です。


綿津見神(わたつみのかみ)の誕生の描写に続くのは、次の文章です。


「この三柱の綿津見神は、阿曇連等(あづみのむらじら)の祖神(おやがみ)と以(も)ち拜(いづ)く神なり。故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金柝命(うつしひがなくのみこと)の子孫(うみのこ)なり。」


これを読むと、綿津見の三神は、阿曇(あづみ)族が祖先神としてお祀りしてきた神であり、阿曇族は、綿津見神の子・宇都志日金柝命の子孫である、ということになります。


綿津見の神々を祖先と拝む阿曇族とは、筑前、今の福岡県糟屋郡(かすやぐん)の辺りを拠点とした一族で、彼らは、綿津見の三神を志賀海神社(しかうみじんじゃ)にお祀りした、と考えられています。


志賀海神社は、福岡市と2.5キロメートルの砂州でつながる志賀島(しかのしま)にあります。


砂州につながる島の南端の丘の上にあり、こんもりとした森に囲まれる、静かな神社です(福岡市東区志賀島)。


神社に伝わる歴史によると、創建は明らかではないものの、島の北部・勝馬(かつま)に「表津宮(うわつぐう、表津(上津)綿津見神を祀る社)」「仲津宮(なかつぐう、仲津(中津)綿津見神を祀る社)」「沖津宮(おきつぐう、底津綿津見神を祀る社)」の三社が置かれていて、2世紀から4世紀の間に、表津宮(写真)が現在の勝山の麓に遷座されたそう。


また、綿津見の三神を祖先とする阿曇族が、代々お祀りしてきた、とのこと。


北部の勝馬では、阿曇族とおぼしき海人(あま)集団の首長の墓と考えられる古墳も発見されています。


この中津宮古墳では、円墳の中にあった縦穴式石室が発掘され、少なくとも5体が埋葬されていました。須恵器に加えて、鉄製の鏃(やじり)矛(ほこ)斧(おの)や、ガラス製管玉(くだたま)の副葬品も出土し、早くから大陸との交わりもあったことを示しています。


なるほど、黄泉の国から辛くも生還し、筑紫のどこかで身を浄めたイザナギノミコトから生まれ出た神々のうち、「海の神さま(綿津見神)」は、海に生きる阿曇族によって、志賀島の志賀海神社に祀られたのでしょう。


志賀海神社は、かつては壮麗な社殿に末社375社、社領50石を誇り、繁栄を極めたそう。今は、森に囲まれた静かな佇まい(たたずまい)で、人々を迎え入れてくれる場所となっています。


散策するもよし、境内から美しい海を見下ろすもよし、志賀島と砂州でつながる福岡の遠景を楽しむのもよし。


一度は足を運んでみる価値のある、由緒正しい神社なのです。



お次は、三柱の筒之男命(つつのをのみこと)です。


古事記の中では、筒之男命の誕生に続いて、こんな文章が書かれています。


「その底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江(すみのえ)の三前(みまえ)の大神なり。」


これを読むと、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神々は、住吉大社の三神である、ことがわかります(墨江は、住吉の古い表記)。


一般的に、住吉大社とは摂津(今の大阪府大阪市)にある住吉大社である、と解釈されています。


けれども、筑紫の国(今の福岡県)で生まれた神さまが、いきなり遠く離れた大阪で祀られたと考えるよりも、最初は地元で祀られたと考える方が自然でしょう。


そうなんです、福岡市にも筑前国一ノ宮・住吉神社があり、こちらの住吉神社(福岡市博多区住吉)では、住吉三神と親しまれる底筒之男(そこつつのを)、中筒之男(なかつつのを)、表(上)筒之男(うわつつのを)の神々を祭神としています。


筒之男(つつのを)の三神は、心身を清め、すべての災いから身を護る神として信仰されています。「筒」は星を表すところから、航海・海上の守護神としても敬われるそう。


実は、住吉の神々が筑紫の国に祀られていたことを示す記録が残っているのです。


それは、顕昭(けんしょう)という僧が鎌倉時代に著した『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』という歌学書。


文治元年(1182年)から建久4年(1193年)までに成立したとされる和歌の解説書で、こんな表記があるそうです。


「住吉神、本筑前小戸に在り。(住吉大神の)荒御魂(あらみたま)は常に筑紫橘小戸に在り。和御魂(にぎみたま)は今、摂津墨江に在り。神功皇后(じんぐうこうごう)初めて摂津墨江に遷す」


つまり、「住吉の神々はもともと筑紫の国の小戸にいらっしゃって、荒御魂は常に小戸にいらっしゃる。今は、和御魂は摂津の国の墨江にいらっしゃる。神功皇后が摂津墨江に分祀なさった」ということでしょうか。


なるほど、これを読むと、謎が解けます。住吉の神々は、最初は福岡に祀られていて、のちに荒御魂は福岡に残り、和御魂は大阪に分祀された、ということになります。


福岡の住吉神社は、地元の方々の信仰も厚く、地域に根ざした神社という印象があります。通りがかりの男性が、鳥居の前で自転車を下りて、本殿に向かって深々とお辞儀をしている姿も見かけました。


この神社の境内は、面白い形をしていて、表参道が道路を隔てて、向こう側に円形に突き出たようになっています。この突き出た部分にあるのが、天津神社(あまつじんじゃ)と天竜池(てんりゅういけ)。


天津神社は、天竜池に浮かぶ浮島にあり、イザナギノミコトが祀られます。いつの時代に刻まれたのか、お顔もわからなくなった神様が二柱、石の祠にいらっしゃいます。


祠のまわりを回ってお祈りすると、願いごとが叶うとのことで、熱心にお祈りをしていらっしゃる女性も見かけました。


天津神社を取り囲む天竜池は、黄泉の国から戻ったイザナギノミコトが禊を行ったと伝わる霊池です。


昔は、住吉神社の辺りは海に囲まれた岬になっていて、満潮時にはこちらの天竜池にも潮が入り込んでいたところから、汐入池(しおいりのいけ)とも呼ばれたそう。


今は、賑やかな街並みとなっていますが、神社が創建されたころには、海を臨み、潮騒と鳥の声が響き渡る、静かな聖地だったのでしょう。


浮島を守るかのような大楠は、樹齢約500年の古木。住吉神社では、木々の一本にいたるまで元気に育つ、そんな力を感じるのです。



さて、イザナギノミコトが禊を行って、生まれ出た神々。


真っ先に生まれたのは、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直毘神(かんなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)でした。


この三柱をお祀りする場も、同じく福岡市内にあるのです。


それが、警固神社(けごじんじゃ)です。


警固神社といえば、福岡の繁華街・天神(てんじん)のど真ん中にある神社で、なんでこんな商店街の真ん中に神さまがお祀りされているの? と不思議に思うような場所(中央区天神)にあります。


神社の横には、商業ビルに囲まれた警固公園(けごこうえん)もあり、若者が集う息抜きの場にもなっています。そう、人が集まるので、ハロウィーンの日には「立ち入り禁止」となるような、とっても賑やかなロケーション。


警固神社は、もとは今の福岡城跡(中央区城内)のある福崎山に創建されたそう。


慶長6年(1601年)、初代福岡藩主・黒田長政がここに福岡城を築城するにあたり、警固神社は一時、近くの丘にある小烏神社(こがらすじんじゃ)に合祀されました。そして慶長13年(1608年)、現在地に新社殿が造営され、無事に鎮座されたとのこと。


つまり、江戸時代の初め、築城のため創建の地を追われ、二度の遷座を経て、今の場所に移ったところ、まわりに天神の街ができあがったんですね。


一方、創建の地については、こんな記録もあるそうです。


貝原好古(かいばらよしふる、こうこ)が著した『八幡宮本紀(はちまんぐうほんぎ)』には、こんな描写があるそうです(貝原好古は、叔父の薬学者・貝原益軒(かいばらえっけん)の養子となった江戸時代前期の儒学者。益軒と同じく、筑前国の人です)。


「八十禍津日(やそまがつひ)、神直日(毘)(かんなおび)、大直日(毘)(おおなおび)の神は、筑前国那珂郡福崎 筑紫石(つくしいし)のほとりに鎮座したまふ。・・・福崎今は福岡といふ。此所もと海にて志賀島に相対し、住吉村に相隣す」


つまり、「(三柱の神は)筑前国那珂郡福崎にある筑紫石のほとりに鎮座されている。福崎は、今は福岡と呼ばれる。ここ(筑紫石)はもともと海だったところで志賀島の真向かい、住吉村の隣に位置する」とのこと。


福岡市の西公園に上ってみると、博多湾を見下ろせます。今は埋立地になっている右下の辺りに、昔は大小の岩礁(がんしょう)があって、これが「大筑紫」と「小筑紫」と呼ばれていました(今でも近くには、鵜来島(うぐしま)と呼ばれる岩礁が残されています。こちらの古図では、上部左寄りの緑色が西公園、その右下に大小の筑紫石が見えます:「博多古図」福岡県立図書館収蔵)。


ということは、もともと三柱の神々は、大筑紫と小筑紫の岩礁に祀られていたところ、もっと人里近くの福崎山に遷座され、そこから二度の遷座を経て、今の天神のど真ん中に鎮座された、ということでしょうか。


この筑紫石を臨む荒津の崎(今の西公園の丘)は、筑前国の住人にとって、喜びと哀しみに満ちた場所だったようです。万葉の時代、朝鮮半島や中国大陸へと使節団を送るとき、この荒津の崎に上って船を見送っていたのでした。


7世紀から9世紀にかけて、福岡は外国との交流の玄関口となっていて、今の福岡城址にあった「鴻臚館(こうろかん)」には朝鮮や中国の外交使節や商人が渡来し、日本からは遣新羅使(けんしらぎし)や遣唐使が派遣されていました。


那の津(今の博多港)から出港した船は、やがて志賀島と野古島(のこのしま)の間をすり抜け、玄海島(げんかいじま)の脇を通って、小呂島(おろのしま)に達したあたりで、水平線へと姿を消していく。


大事な人が乗った船が消えてしまっても、丘の上にとどまり、神々に無事を祈る方もたくさんいらっしゃったのでしょう。そして、何年もたって、船が無事に帰って来たときの喜びたるや、現代人には計り知れないほど大きかったことでしょう。


と、お話がそれてしまいましたが、警固神社に戻ります。


現在の警固神社の境内は、天神の華やかなショッピングエリアにふさわしく、新しく生まれ変わっています。


昨年9月に竣工したばかりのモダンな建物は、神社の社務所。え、これが古事記の神々を祀る、歴史ある神社の社務所? と二度見するような建造物です。


市中大火により寛文8年(1668年)に再興された社殿と、令和の時代に完成したモダンな社務所。時を超えたコントラストが際立つ神社なのです。


ここに祀られる三柱のうち、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)は、悪を示し、過ちを良い方向へと導く神。神直毘神(かんなおびのかみ)と大直毘神(おおおびのかみ)は、罪や汚れを祓い、足りないものを補い、善を見いだす神々とのこと。


警固神社とは、警(いまし)め、固(まも)る神社だそうです。


わたしが訪れたときには、どこからか早足で現れ、熱心に社殿でお祈りしたあと、また早足で立ち去る男性を見かけました。祈りの場が街中にあることで、気軽に立ち寄れる心強さもあるようです。


というわけで、福岡市にある志賀海神社、住吉神社、警固神社をご紹介いたしました。意外なことに、古事記と福岡には密なる関係があったのでした。


次回は、もう少し住吉神社をご紹介させていただこうと思っております。


<謝辞>

この「古事記と福岡の関係」については、『那國王の教室』を主宰なさっている郷土史研究家、清田進氏からご教授いただきました。

11月中旬、再建されたばかりの住吉神社の能楽殿(のうがくでん)にて清田氏が開かれた勉強会で教えていただいたものです。

能楽殿の内部を見学させていただきながら、住吉神社と古事記との関係や、福岡藩兵の沖ノ島在番などの講義をしていただきましたが、わたしにとって印象深かったのが「福岡の神社が古事記に出てくる!!」ということでした。清田氏には、貴重なお話を聞かせていただき、深く感謝しております。

美しく再建された能楽殿については、また次回お話しさせていただきたいと思います。


A walking dictionary(歩く辞書)

<英語のひとくちメモ その168>

いつの間にか、今年も12月下旬となりました。


近頃は、月日が行き過ぎるのも、どんどん加速しているように感じられます。


ついこの前、暑い夏が終わったと思ったら、ようやく紅葉の時期がやって来て、鮮やかな木々の葉が散ったなと思ったら、もう年末が近づいています。


あの四季がはっきりしていた日本の気候は、どこへ行ったのだろう? 日本もカリフォルニアみたいに「二季」になってしまったのだろうか? と、昔が懐かしくも感じます。


そんな師走のあわただしい中、ふと思ったことがありました。


それは、「あの英語の表現は、今はもう死語なんだろうなぁ」ということ。


たとえば、こちら。


She is a walking dictionary


たぶん、こちらは日本の学校でも教科書に出てくる表現だと思いますが、「歩く辞書(a walking dictionary)」ということは、「辞書みたいに言葉をよく知っている人」という意味。


「彼女は、まるで歩く辞書みたいに、あらゆる言葉を知っているよね」という文章です。


幅広く物事を知っている人を、こんな風にも表現します。


He is a walking encyclopedia


「歩く百科事典(a walking encyclopedia)」ということで、「百科事典みたいに物事をよく知っている人」という意味。


「彼は、まるで百科事典のように、あらゆる世の中の事象を知っているよね」という文章になります。


それで、こういった表現がもう使われないのかもしれないと感じたのは、今どき、辞書や百科事典を見たことがない人もいるんじゃないかな? と思ったから。


昔は、いえ、ちょっと前までは、知らない言葉は辞書のページをめくって意味を調べたものでした。


そして、世界の人物や歴史的出来事、惑星の名前や火山の仕組みと、なにかしら知りたいことがあれば、絵や写真つきで詳しく解説してくれる百科事典で調べたものでした。


「あ行」から並ぶ大きな百科事典を書棚から出して来て、ヨイショと机の上で開くときには、何が飛び出してくるのかとワクワク感が伴います。時には、目的の事項にたどり着く前に、別の絵や写真に気を取られて、まったく違った事項にのめり込んだものでした。


誌面で調べるということは、そういった「ワクワク感」や「寄り道」がたくさんあって、それがまた調べる楽しさを倍増させたのではないでしょうか。


今では、知りたいことがあれば、インターネットで調べるでしょう。


辞書を出していた出版社は、すべからくオンラインサービスを提供していますし、書籍形式の百科事典(encyclopedia)もオンライン化されています。「みんなでつくる」簡略化された百科事典 Wikipedia もあります。


その代わり、どことなく情報が画一化され、辞書・百科事典編纂者の個性が消えてしまったし、調べものに付き物だった「寄り道」もなくなってしまいました。



こんな表現もまた、消えかかっているのかもしれません。


She is a bookworm


こちらも教科書に出てきた表現かもしれませんが、「本の虫(a bookworm)」ということで、「本に巣食っている虫、つまり、本好きの人」という意味ですね。


「彼女は、まるで本に巣食う虫みたいに、いつも本ばかり読んでいるよね」という文章です。


言い換えれば、She is an avid reader(彼女は、熱心な読書家だよね)


なんでも、本に使う紙を好む虫は種類がたくさんあるそうで、小さなカブトムシや蛾の仲間、アリやシロアリの仲間と、本棚にはいろんな虫が生息するそう。


逆に、虫が巣食わない本なんて、いったい何でできているんだろう? と心配になってしまいますが、「書架に巣食うほど本が好きな人」にとっては、虫との闘いも生活の一部なのかもしれません。


けれども、今の時代、それほど本が好きな人も激減しているのではないでしょうか。


街角の本屋さんも書籍コーナーを縮小したり、姿を消してしまったりしています。



ところで、消えそうな言葉に加えて、もともとの意味から使い方が変化した言葉もたくさんありますよね。


とくに、言葉の成り立ちが古い日本語では、長い歴史の中で自然と変化していった言葉も多いことでしょう。


先日、気づいたのは、「晩生(おくて)」という言葉。


もともとは、稲の栽培に使う言葉で、早い時期に実を結ぶ品種を「早生(わせ)」、そのあと実を結ぶ品種を「中生(なかて)」、遅く実を結ぶ品種を「晩生(おくて)」と呼んだそうです。


江戸時代には、各藩が収穫量を上げようと、農民に対して農書と呼ばれる教科書を出していたそうで、「晩生は一般的に収穫が増えるが、冷害などの災害が来ると収量が減るので、なるべく中生を植えるように」などと指示していたそうです。(参照:『稲の日本史』佐藤陽一郎氏著、角川ソフィア文庫、2018年、p208)


今では、作物に関して早生(わせ)という言葉は耳にしますが、「おくて」と言われると違った意味を思い浮かべますよね。そう、「成熟が遅く、恋愛などに無関心の人」といった意味。


もともとは、「晩生」「奥手(おくて)」といえば、人ではなく、稲のことだったんですね!


時代が流れ、多くの人々が稲づくりから離れても、昔から使っていた表現は新しい意味となって受け継がれています。


同じように、着物を着る文化から受け継がれた言葉には、「折り目正しい」とか「襟(えり)を正す」がありますね。


もともとは、着物をきちんと折り目正しくたたんだり、着物の襟元をしっかりと直したりすることを表しましたが、今では「行儀作法にかなっている」「気持ちを引き締めて物事に向かう」といった意味に変化しています。



というわけで、いつの間にか日本語のお話になってしまいましたが、言葉は生きている。ゆえに、消えつつある言葉もあれば、意味が変化した言葉もある。


話し手がいて、言語が受け継がれていく以上、その言語の表現は、時代のニーズに合わせてどんどん変化していく。


表現が消えてしまう前に、


She is a walking dictionary


He is a walking encyclopedia


She is a bookworm


と、誰かに言ってみたいものですね。


Kick the can(空き缶を蹴る)

<英語のひとくちメモ その167>

今日の話題は、ずばり、こちらの表現です。


Kick the can down the road


直訳すると、「空き缶(the can)を道の向こうへ(down the road)蹴る(kick)」。


そう、頭の中にすぐにイメージが浮かんでくるような、わかりやすい表現です。


経験したことがある方にはおわかりでしょうが、空き缶をポ〜ンと蹴ると、かなり遠くまで飛んでいきますよね。


「缶蹴り」という遊びもありました。


遊びの缶蹴りは、kick the can という名詞になります。


We used to play kick the can when we were school-age children

子ども(小学生)の頃には、缶蹴りをして遊んだものだよ


そこに空き缶があれば、おとなも子どもも蹴ってみたくなるものです。



そして、この「空き缶を蹴る」行為を慣用句にしたものが、


kick the can down the road


この場合の kick は、「(缶を)蹴る」という動詞です。


こちらの表現は、比喩的に使われていますね。


それで、この場合「空き缶」とは何でしょう?


それは、目の前に山積する、頭を抱えてしまうような大問題。


その大問題(the can)を「向こうの方に足で蹴る」ということは、「先延ばしする」とか「一時的な解決策で逃げておいて、根本的な解決を避ける」という意味。


たとえば、国のお金といった、大きなお話。


今月、日本政府が打ち出した経済対策の補正予算案。13兆円ほどの補正予算案のうち、およそ7割を国債でまかなう、という驚きの予算案です。


国債は、平たくいうと「国の借金」。定期的に利子も付きますし、最終的には借金は決められた期限に返済しなければなりません。


この積もり積もった借金を誰が払うのか? というと、現時点で国策を議論している方々ではなく、未来の世代。問題を先延ばして困るのは、子や孫の世代です。


そんなわけで、この補正予算案を耳にしたとき、真っ先に思い出したのが、この言葉。


Kick the can down the road


そう、英語ではこんな感じでしょうか。


The Japanese government is kicking the can down the road on the national debt, proposing a supplemental budget mostly financed through newly issued government bonds

日本政府は、その大部分を新たに発行する国債でまかなう補正予算案を提出して、国の借金に関する大問題を先延ばしにしている


というわけで、今日は、ごく短いお話でした。


Kick the can down the road


政治をつかさどる方々は、どうしても「今」しか考えないのでしょうね。


お米のおはなし〜どうやって作るの?

<エッセイ その206>

秋は、日本じゅうで祭りが開催されます。


その起源をたどると、多くは「収穫祭」の意味合いが強いのだと思います。


アメリカでは、11月の第4木曜日は、収穫を感謝する「感謝祭(Thanksgiving)」の日。そして日本では、10月、11月と、神社の秋季大祭や夜を徹しての神楽や神舞(かんぶ)が催されます。


収穫といえば、日本では米。


秋になると田んぼが黄金色に実り、地域の皆で稲刈りをする。無事に収穫を済ますと、ホッとしたところで鎮守の神さまに感謝し、収穫物や舞を奉納する。それが、日本の原風景でしょうか。


(写真は、今年10月開催の『長崎くんち』、桶屋町の「本踊り」より、所望踊(アンコール)の『実り』。稲穂を手に持ち、華やかに踊ります。)



というわけで、今日は、お米のお話をいたしましょう。


いえ、わたし自身、田んぼに足を踏み入れたことはありませんし、田植えの体験もありません。けれども、連れ合いのゴルフ友達がお米を育てていらっしゃって、その美味しいお米を分けていただいたときから、「稲」の実である「米」に対する興味がぐんとわいてきたのでした。


興味がわいてくると、郊外をドライブしていて、稲穂がたわわに実り、収穫が始まっている様子も自然と目に入ってきます。


そして、お米とは単に「ご飯茶碗に盛られた、日本の主食」ではない、という認識が生まれるのです。


まず、お米を分けていただくのと、お店で買ってくる袋詰めの米は何が違うのか? というと、それは「新鮮度」にあるでしょうか。


そう、意外なことに、お米にも新鮮さが大事なのです。


稲の実から籾殻(もみがら)を取り除いたものは「玄米」で、玄米から精米機で糠(ぬか)を取り除いたものが「白米」です。健康の面から玄米を食べる方も多いですが、大部分の方は白米を好みますよね。


お店で売っている袋詰めの白米は、流通の関係で、精米をして何日もたっているもの。お米というものは、通常、精米をして数日で新鮮度が落ちるそうなんです。


我が家は玄米の状態でお米を分けていただいているので、精米機を買い込んで、利用のつど精米することにしています。毎回「精米したて」の新鮮なお米を炊けるので、ふっくらとして、甘みの強いご飯が味わえるようになりました。


ちょっと厄介なのは、玄米は、摂氏13〜14度で保存するのが理想的なこと。が、我が家には、ワインを保存する小型の冷蔵庫があります。そこからワインボトルを引き抜き、玄米と物々交換していただいて、空いたスペースに玄米を保存するようにしています。


この「技」を編み出した連れ合いは、摂氏13〜14度と聞いてワイン冷蔵庫を思い浮かべたことを自慢にしています。それほど、玄米から精米したての白米は、素人にもわかるくらい味が違う、ということでしょうか。



新鮮な白米の味の違いがわかってくると、次は、どうやって米を栽培するのだろう? という疑問がわいてきます。


そこで、お米を分けていただいているT氏のお宅を訪問することになりました。


稲刈りを控える9月半ば、忙しくなる前にと、ご自宅を囲む田んぼや愛用の農機具を見せていただきました。


場所は、福岡県遠賀郡(おんがぐん)水巻町(みずまきまち)。馬見山を源とする一級河川、遠賀川(おんががわ)がゆったりと流れる、筑豊の平野部に位置します。


筑豊地方は、以前は炭鉱で栄えた地域。石炭を利用し鉱工業が盛んな北九州市とともに、北九州都市圏を形成。炭田地帯としては田川市や飯塚市が知られますが、昔は水巻町にも炭鉱があったそう。


今では、東に北九州市に隣接する地の利を活かし、都市圏のベッドタウンとして人気のある水巻町。ここで生まれ育ったT氏の家のまわりでも、田畑が人手に渡り、住宅やマンションに変わりつつあるようです。


T氏は長年務めた教職を退いてからは、本格的に米作りを引き継いでいらっしゃいます。さすがに先生だったT氏は、うまい語り口で、米作りの複雑な行程を簡素に解き明かしてくださいます。


なんの知識もないわたしにとっては、すべてが「初耳」のお話。こんなにやることがあるの? とびっくりです。


まずは、種となる種籾(たねもみ)を塩水につけるところから始まります。これは、軽い種籾を取り除き、良質なものを選ぶため。軽いものは、芽や根(胚、はい)を育てる栄養部分(胚乳、はいにゅう)が少ない。ですから、胚乳が多く、水に沈んだ良質のものを選びます。


選んだ種籾は、水に浸します。これを「浸種(しんしゅ)」と呼ぶそうですが、種籾の中に水が入ると、細胞の呼吸が盛んになって、でんぷん質が分解され、発芽も促進されます。水温によって浸種の日数は異なりますが、あまり高温でもよくないので摂氏10〜15度を保ち、15度では一週間くらいとのこと。


昔は、種籾は前年に自分の家で穫れたものを使い、風呂場で水につけて発芽させていたそう。今は、原種の種籾を購入し、専用の容器で水を温めながら浸種します。前年に収穫したものではなく、一世代ずつ原種を使うのは、異品種の混入や病害虫を防ぐためだとか。


優良な品種を保つためには、まずは遺伝的に健康な種から、ということなのでしょう。


次に、苗(なえ)を育てます。平べったい育苗箱に床土を入れて、水をそそぎ、これに種籾を均等にまいて、土で覆います。数日して芽吹き始めたら、育苗箱は田んぼに運んで、ここでさらに成長させます。


一般的に、育苗箱を並べておく場所を「苗代田(なわしろ・だ)」と呼ぶそうです。福島県の会津地方に「猪苗代(い・なわしろ)」という町がありますが、「猪(いのしし)」と「苗代」とは、面白い名前です。町を見下ろす磐梯山(ばんだいさん)から猪が田んぼに訪れていた、といった由来でしょうか?



苗を育てるのに並行して、稲を育てる圃場(ほば)を準備します。


田んぼをつくるわけですが、まずは、2月と5月に「田起こし」をしておきます。


田起こしは、固まった田んぼの表面を掘り起こして、土を乾燥させ、前年の稲の切り株などの有機物や肥料を土に混ぜ込む作業です。


昔は、鍬(くわ)や鋤(すき)を使って、人の力で土を耕したり、粘質土や湿地を掘ったりしていましたが、今は、最新鋭のトラクタを使います。


写真は、田起こしのため、トラクタの後部にロータリ(耕うん爪)という農具を取り付けたところ。爪が見やすいようにと、ロータリ部を上げていただいています。


田起こしが完了したら、田んぼに水を溜めて、「代掻き(しろかき)」を行います。水は、代掻きの1、2日前に入れておいて、代掻きは田植えの数日前に行います。


代掻きは、土をさらに細かく砕き、丁寧にかき混ぜて、土の表面を平たくする作業。苗を植えやすくすることで、発育が安定したり、苗がムラなく育ったり、雑草が発芽しにくくなったりと、いろんな効果があるそうです。


農作業に牛や馬を使っていた時代には、平たい馬鍬(まぐわ)を引かせて田んぼを平たくしていたそうですが、今は、ハロー(代掻き爪)をトラクタに取り付けて、代掻きを行います。


目的に応じて、ロータリやプラウ(鋤、すき)、ハローと、いろんな農機をトラクタに取り付け、一台のトラクタにも汎用性を持たせます。


最新鋭のカラフルなトラクタと取り替え可能な農機は、合体ロボットのようでもありますね!



と、圃場が整ったところで、ここで初めて「田植え」となります。


苗が15センチほどに育ったところで、育苗箱の苗を田植え機にのせて、均等に田んぼに植えます。台にのった苗は、田植え機後部の「植え付け爪」で、下から順繰りに規則正しく植えられていきます。


田植えといえば、昔は手で一本ずつ苗を植えていて、紺色の絣(かすり)に赤い襷(たすき)の「早乙女(さおとめ)」のイメージがあります。現代の田植えは、苗を植えるだけではなく、肥料も田植え機で同時にまくことができるそう。


母はその昔、農家から婿入りした父親の実家で、田植えをしたことがあるそうです。母が子供のころのお話で、「田んぼに裸足で入ったら、足に蛭(ヒル)が吸い付いて痛かった」そう。また、いちいちお昼に足を洗っている時間もないので、「裏がきれいで、表が泥で汚れている草履を履いて座敷に上がっていた」とのこと。母が亡くなる直前に、ガーデニングをしながら語っていたのが印象に残ります。


日本には「蛭田(ひるた)さん」という苗字もあり、田んぼと蛭は、古来、切っても切れない関係でした。そして、ひとたび田植えをはじめたら、もう家族総出で忙殺されたことでしょう。



田植えが終わって、ひと安心。


が、その後も、田んぼの雑草の草取りをしたり、畦道の草刈りをしたり、水や肥料をコントロールしたりと、さまざまな作業が待っています。


今は一般的に除草剤を使いますが、その昔、田んぼの草取りというと大変な作業だったそう。数ある雑草の中でも、とくに、雑草ヒエ類(ノビエ)などはイネ科なので見分けにくいし、稲に混じって生育するとか。


稲の葉は珪酸(けいさん)をたくさん含み、縁がガラスのように鋭く、これが目に入るし、肌を切る。そんな田んぼにつかって暑い盛りに草取りをするなんて、まさに想像を超える重労働。


肥料に関しては、何度か重要なタイミングがあるそうです。


まず、田植えの前にまく肥料は「元肥(もとごえ)」、田植えが終わったあとに施す肥料は「追肥(ついひ)」と呼ばれ、重要なタイミングです。あまりたくさん葉が茂ると、下の葉が育たないし、茎が伸びすぎると、雨風で倒れてしまうので、肥料をまきすぎるのも良くありません。


そして、「穂肥(ほごえ)」というのもあります。稲の穂が出るころに追肥することだそうですが、今は穂肥が必要ない粒状の肥料もあって、この場合は、田植えのときに苗と一緒に田植え機が根元に植え込んでくれるだけで十分だそうです。


水の管理に関しては、「中干し(なかぼし)」と呼ばれるものがあります。


そう、水田と聞くと、稲刈りまでずっと水が張られているような印象がありますよね。でも、それは違っていて、8月上旬ころ、水を抜く時期があるそうです。「水をやり過ぎて、お腹をこわさないように」という理由だとか。


そう、根腐れを防いだり、土中の有毒ガスを抜いたり、肥料である窒素の吸収を抑えて育ち過ぎを防いだりと、いろんな効用があるそうです。


8月中旬、穂が出はじめると、「3日水を入れて、2日やめる」という水のコントロールを繰り返すそうです。


T氏の田んぼには、遠賀川支流のポンプ場につながる灌漑用水が引き込まれ、田んぼ脇の用水路の水門を開閉するだけで、水の管理が容易にできるようになっています。



ところで、稲は花を咲かせることをご存じでしょうか?


そう、お米は植物の種子ですから、「受粉」する必要があるのです。


田植えから2ヶ月ほどすると、籾(もみ)がたくさん集まった「穂」が出てきますが、この時点では、籾の中にお米は入っていません。


晴れた日の午前中、緑色の籾の中からは白いオシベが出てきて、花粉は風にのってメシベに受粉します。受粉したら、開いた籾が閉じて、籾の中にできた胚(芽と根)を育てるために、胚乳(ブドウ糖から生成されるデンプン)を蓄積します。これが、お米の粒となります。


「花」といっても、野の花と違うところは、花びらがないこと。そして、「自家受粉」なので、受粉に虫や蜜蜂、人の手といった助けがいらないこと。


稲の開花は2時間ほど、開花期は一週間で終わるので、「お米の花なんて知らない」というのも、うなずけます。



というわけで、穂が出て一月半ほどすると、黄金色の稲穂が頭(こうべ)を垂れ、稲刈りの季節となります。


稲刈りには、コンバインという機械を使います。


そう、今のコンバインは進んでいて、稲を刈るだけではありません。


稲を刈りながら、同時に脱穀(だっこく)したり、ワラを細かく刻んだりと、いろんな作業を行ってくれます。


こちらは、コンバインの側面のカバーを開けたところ。


刈り取られた稲は、チェーンでこちらの脱穀部に運ばれ、「こぎ歯」がついた胴体が回ることで、穂先から籾を分離して脱穀します。


脱穀された籾は、下に落ちてタンクに集められ、細かいワラくずは、吸引ファンに吸われて、機外に吐き出されます。タンクが籾でいっぱいになると、「アンローダ」と呼ばれる長い管でトラックに排出されます。


脱穀されたあとのワラは、ワラを処理する部分に運ばれ、回転式カッタで細かく裁断されます。


これをどうするかというと、田んぼにまくのです。


田にまかれたワラは、翌年の田起こしのときに土と一緒に耕されて、自然の肥料となります。(写真は、稲刈りのあとの田んぼですが、株からは緑の葉が育っています)



刈り取った籾は、トラックで運ばれ、すぐに乾燥機で乾燥させます。


籾は水分含有量が多いので、すぐに変質してしまいます。ですから、すぐに乾燥させて、品質を保つとともに、硬くして粒が砕けにくくします。


乾燥が終わると、熱を持っているので、一週間ほど冷まします。


十分に冷めたら、次に「籾すり(もみすり)」を行います。


これは、籾から籾殻を取り除いて、玄米の状態にすることです。


籾殻を取り除くと、つやつやとした玄米の誕生です。


この玄米の状態で保存しておくわけですが、冒頭でご紹介したように、ここで冷蔵管理をするのです。そう、摂氏13〜14度で冷蔵するので、連れ合いが「ワイン用の冷蔵庫を思い浮かべた」というお話。


T氏は専用の冷蔵庫を使われていますが、中が広くて、たくさん玄米が入りそうです。



今年T氏は、『夢つくし』と『元気つくし』を育てました。ともに福岡県産米の代表品種で、つややかな光沢とふっくら感、もっちり感で人気です。


毎年、JA遠賀(北九州農業協同組合・遠賀支店)が推奨する品種の種籾を買うようにしているので、同じ品種を植えるとは限らないそうです。


T氏を訪問したのは9月20日でしたが、『夢つくし』の稲刈りはすでに終わっていて、『元気つくし』はこれから行う、とのこと。『こしひかり』などは、さらに稲刈りが早いということでした。


2月に耕うんして土をひっくり返し、5月にまた「田起こし」を行い、「代掻き」をして田植えの準備をする。田づくりと並行して種を選んで、発芽させ、育苗箱で芽を育てる。


6月には田植えをして、台風シーズンでもある夏の間は、草刈りや、水や肥料の管理と、さまざまな農作業が続く。そして、9月下旬から10月初旬には、待望の収穫を迎える。


毎年、同じようなプロセスに見えても、栽培品種も天候も異なるので、一年として同じ体験をすることはないのでしょう。品種によって留意点は異なり、暑いと「干ばつ」が気になるし、天候が不順だと「冷害」が心配になる。


自然を相手にするということは、「予想通りには行かない」ことの連続でしょう。が、それゆえに、豊かな収穫を迎えた喜びはひとしおなのかもしれません。


喜びは、お裾分けするもの。米は、贈り物でもありました。その昔、母の父親が婿入りした商家を建て直したとき、実家からは米俵(こめだわら)を積んだリアカーを引いて、祖父がお祝いに駆けつけてくれたそう。


ひと粒のお米には、育てた方の情熱が込められている。


そんなことを学ばせていただいた「田んぼ見学」でした。


「いただきます」と自然と手を合わせたくなる、日本の主食なのです。


Wedding registry(結婚祝いの登録)

<英語ひとくちメモ その166>

こちらの「英語ひとくちメモ」のコーナーでは、日常生活で役に立ちそうな英語の表現をご紹介しております。


もちろん、新しい表現を学ぶことは、英語の上達には不可欠なことです。が、そういった英語の言葉や表現が生まれた背景にある「文化」を知ることも大事なことではないかと思っているのです。


たとえば、表題の Wedding registry (ウェディング レジストゥリー)。


Wedding は「結婚」だし、registry は「登録」。


ですから、Wedding registry とは、なにかしら結婚届に関することかしら? と思いがちです。


実は、この「結婚の登録」とは、役所には関係はなく、結婚祝いに関することなんです。


結婚する二人が、新生活で何か必要なものがあれば、遠慮なく「これが欲しい!」と登録しておいて、結婚式や披露宴に参加する人、またはお祝いをしたい人が、その中から気に入ったものを買って差し上げる、という制度のことです。


たとえば、コーヒーメーカーが欲しいとか、コードレスの掃除機が欲しいとか、新生活で必要なものはたくさんありますよね。けれども、自分が欲しくないものをお祝いでいただくと、それこそ無駄になってしまいます。


ですから、アメリカでは、合理的な Wedding registry という慣習がポピュラーになっています。


もともとは、街角の個人経営のお店が、お嫁さんになる人(bride-to-be)のために、新生活で使う食器や銀製品などをまとめてコーナーで紹介していたのでしょう。


そのうちに、ウェディング需要を見越したデパートや大型店舗が、「だったら、二人が希望するものをうちで登録してもらって、そのリストの中からうちで購入してもらえるような仕組みにしよう」と、Wedding registry のシステムを始めたようです。


一説によると、シカゴの有名デパート Marshall Field’s(現 Macy’s)が1924年に始めたのが、記録に残る最初の例だったとか。


一社が成功すると、他社もいっせいに真似をして、またたく間に「結婚祝いの登録制度」は全米に広まったことでしょう。


わたし自身、結婚する二人に何がいいかなと迷っていると、「Macy’sに彼らの登録があるから、お店に聞いてみたらいいわ」とアドバイスされたことがありました。


二人がどんなものを希望していて、重複しないように他の人がどれを購入しているかを教えてくれるのだ、と。


へ〜、アメリカにはそんな合理的なものがあるんだぁと感心しつつも、結局は、彼らが登録した「欲しいものリスト」は無視して、日本らしい品を差し上げたと記憶しております。


そうなんです、結婚する二人が「これが欲しい」と指定していても、そのリストから選ぶ義務はありません。「わたしは、大好きなイラストレーターの作品を壁に飾って欲しいのよ」と思ったら、お気に入りの額をプレゼントすればいいのです。


けれども、多くの人は、「本人たちがわざわざ指定してるんだったら、その中から選んだ方が無難だよね」と、登録リストから選ぶようではあります。

(写真は、サンフランシスコのキッチン用品のお店に貼ってあった「Gift Registry」のポスター。Gift Registryとは、Wedding Registryと同じように希望する品を登録しておくシステムです。今は、男性でもお料理が得意な人も多い時代。男性同士のカップルだって、キッチン用品店で登録される方も少なくないことでしょう!)



そして、今は、なんでもネットで済む時代。


Wedding registry はオンライン化されていて、お買い物もクリックすれば簡単に済みます。


もちろん、デパートや量販店もそういったウェブサイトを持っているのでしょうが、「The Knot」とか「Zola」とか、有名な「結婚祝い登録サイト」はたくさんあります。


新生活を始める二人は、サイト上で「これとこれが欲しい」と指定しておいて、贈る側が「これにしよう」と決めれば、ご希望の場所へと送付してくれるのです。


Get exactly what you want

あなたがほんとに欲しいものを手に入れましょう


Pick your gifts and pin your faves to make gift shopping a breeze for your guests

あなた自身のギフトを選び、大好きなものに目印を付けることで、ゲストの方々のギフトショッピングを簡単なものにしてあげましょう


とは、お祝い登録サイト「The Knot」のプロモーションです。


(二番目の文章で、faves というのは、「大好きなもの」という名詞 fave の複数形です。Make 〜 a breeze という文型は、「〜を簡単なものにする」という意味になります。普通 breeze は「そよ風」ですが、この場合は「簡単に行えるもの」という意味で使われています)


以前は、結婚披露宴(Wedding reception)の会場に行くと、入り口に山のようにゲストの方々のお祝いの品が積まれておりました。が、きっと今は、披露宴会場にお祝いの品を持って行くこともなく、二人が希望する品が家に届くんでしょうねぇ。



それで、どうしてこのお話をしようと思ったかというと、仲の良い友だちの娘さんが結婚されたから。


まさに今どきのカップルで、良き日に役所に婚姻届を提出しただけ。二人のご両親とともに、結婚後に六人でお食事会をしたとのことでしたが、結婚式や披露宴のプランはありません。


けれども、こちらとしては、赤ちゃんのころから知っているコなので、お祝いをしてあげたくて、Lineでつながる友人に「何か欲しいものがあるか、本人に聞いてみて」と頼んだのでした。


すると、後日、友人からは「だいたい予算はいくら?」と質問があったのでした。


それを見たわたしは、びっくり。本人がどんなものが欲しいかを聞かなきゃ、予算なんてわからないでしょう! と思ったのでした。


そこで、直接本人に欲しいものを聞くことになったのですが、意外にも「ヘアドライヤー」と、ざっくばらんな答えが返ってきました。


なるほど、まわりくどい表現をされるよりも、モノを指定される方が良いですが、昨今、ヘアドライヤーといっても千差万別。そこで、自分が東京のホテルで使ってみて気に入った製品を贈り、ついでに、我が家にも同じ機種を買ってみたのでした。


後日、「髪がサラサラになる!」と気に入っていただいたことがわかり、こちらとしてもホッとしたところです。


が、いずれにしても、真っ先に「予算はいくら?」と聞いてきた友人の質問が不思議に感じた体験なのでした。


「何(What)」とか「どんなもの(What kind)」の方が、「いくら(How much)」よりも大事な気がするんですが・・・。


そう、英語文化(とくにアメリカ文化)では、単刀直入に質問した方がいい場合もあります。


もちろん、「あなたいくつ(How old are you)?」など、社会的に不適切な質問も多々ありますが、合理的に容易に片づけられるものは、ストレートに相手に聞いてみましょう。


新しい門出を祝って、二人にお贈りするなら、なおさら二人が欲しいと思っているものがいいですよね。


Bon voyage(ボン・ヴォヤージュ)!


もってこ〜い、長崎くんち!

<エッセイ その205>

ようやく夏の暑さが去ったと思えば、急に朝晩が寒くなってきましたね。


そんな10月の話題は、有名な秋のお祭り、『長崎くんち』です。


長崎くんちは、毎年10月7日〜9日の3日間に開かれ、諏訪神社(すわじんじゃ)の氏子である町々が神さまに演し物(だしもの)を奉納するというもの。「お諏訪さん」の秋季大祭であり、神さまの加護に厚く感謝し、さらなる加護を願って、最高のおもてなしをする、というお祭りです。


長崎近郊では、神社の秋祭りは「くんち」と親しまれ、諏訪神社だけではなく、周辺の街でも開かれます。例えば、伝統的な浮立を奉納する『矢上くんち』や、狐に扮した若者が竹の上で曲芸をする「竹ン芸(たけんげい)」で知られる『若宮くんち』と、長崎市周辺だけでも40ほどのくんちがあります。


けれども、秋のくんちといえば、国の重要無形民俗文化財にも指定される、お諏訪さんの祭りが一番有名でしょうか。


コロナ禍で3年間延期となっていたので、今年は、待ちに待った4年ぶりの開催となりました。7、8日は土日、9日は祝日と、見学者にとっては最高のタイミングでもあり、日本各地から見物に来られた方も多かったことでしょう。


長崎くんちに縁のない方でも、「龍踊り(じゃおどり)」や「コッコデショ」という名は耳にしたことがあると思いますが、毎年、神さまに奉納する演し物は変わります。


くんちに参加する町は「踊町(おどりちょう)」と呼ばれ、7年に一回だけ奉納踊(ほうのうおどり)の当番がやってきます。


各踊町は独自の演し物の伝統を引き継いでいて、ある町は華やかな踊りを披露し、ある町は曳き物(ひきもの)と呼ばれる船型の山車を曳き回す、と(神さまが)見ていて飽きない趣向が凝らされています。


毎年くんちには、6つか7つの踊町が参加しますが、当番は7年に一度しか回ってこないので、すべての踊町の演し物を見ようとすると、7年間長崎に通わなければなりません!


各町が思い思いの諸芸を奉納するのは、寛永11年(1634年)から続く伝統のスタイル。当初は、こちらの舞踊のように、芸妓衆(げいこし)が踊りを披露していましたが、だんだんと華やかになってきて、今ではバラエティーに富んでいます。

(写真は、丸山町の長崎検番が奉納する長唄『唐人共祝崎陽祭(とうじんともにいわう きようのおまつり)』。「崎陽(きよう)」とは長崎のことで、芸妓と唐人さんが酒の席でうかれる様子を舞う、別名『うかれ唐人』)



わたし自身、これまで何回か長崎くんちを見物したことはありますが、いまだ本家の諏訪神社で奉納踊を見たことはありません。ひとつに、ここの観覧券は高倍率で手に入りにくいし、朝7時からの奉納とは、あまりにも早すぎる!


そこで、今年は、7日の前日(まえび:くんち初日)午後5時から中央公園で開かれる「くんちの夕べ」を楽しみました。(チケットはネット購入できますが、発売スタートと同時にアクセスして、かろうじて良い席を入手しました)


今年は、久しぶりのくんち見物でもあり、これまでとは違った印象を持ったのでした。


それは、長崎くんちは、老若男女すべての人たちの祭りであるということ。


祭りといえば、ともすれば「男だけ」とか「女だけ」と制限がある場合も多いです。けれども、長崎くんちの参加者は、男の子も女の子も、よちよち歩きの幼児からティーンエージャーまで、子供の頃から大事な役割を持っています。


曳き物や担ぎ物(かつぎもの)となると、鍛えられた男性陣の力は必須ですし、長年の経験者が持つ技と勘も不可欠です。踊りを披露するにも、あでやかな若い娘さんばかりではなく、ベテランの踊り手も唸るようなうまさを発揮します。


たとえば、上の写真は今年の一番町、桶屋町(おけやまち)の『本踊(ほんおどり)』のオープニング。


この町のシンボルともなる傘鉾(かさぼこ)には、江戸時代のカラクリ仕掛けの白象とオランダ人の人形が飾られます(市指定の有形文化財)。この象さんに呼応するかのように、女の子たちが引いているのは、かわいらしい子象さん。


以前もご紹介しましたが、長崎は日本で初めて象さんが上陸した地。そんな歴史をほっこりと物語る一幕です。(以前は、江戸城の徳川吉宗公に上覧された象さんをご紹介しましたが、そのあとオランダから連れて来られた象さんは、「もういいよ」と江戸から断られ、すごすごとオランダに帰されたというエピソードがあるとか!)



そして、子供の参加者といえば、船大工町(ふなだいくまち)の『川船(かわふね)』。その昔、船大工町には、たくさんの船大工が住み、船着場もあったそうですが、こちらは川で漁をする船を再現。


長崎市内には、漁をするほど大きな川はありませんが、立派な御座船を川に浮かべ、勢いよく泳ぐ鯉をつかまえるという設定です。まわりの根曳き衆(ねびきしゅう)は、川面にうねる波を表します。


船頭の大役を務めるのは、8歳の男の子。もともとは、こちらの悠真(ゆうま)くんのお兄ちゃんが船頭を務める予定でしたが、コロナ禍で3年延期となったことで、悠真くんに大役が回ってきたそう(料亭 一力(いちりき)の女将さん情報)。


お父さんの光安健一郎さんは、39年前に7歳で船頭を務めた経験もあり、そのお父さんの網を使って、夏の間、悠真くんは網を打ち、鯉七匹を一網打尽にする猛練習を積んできたそう(写真では、悠真くんの足を支えているのがお父さん)。


くんちに参加することは、7年に一度の誉ですが、今回は10年も待ちました。その間、出られなくなった子供たち、急にピンチヒッターとなった子供たち、振り付けを変更して参加できた子供たちと、いろんなドラマがあったようです。


各踊町にとっては、当番が回ってくるタイミングも大事な人生設計に組まれますが、コロナ禍は、まさにプランできない番狂わせでした。


そして、船を曳く「根曳き衆(ねびきしゅう)」の方々。最初は、お母さんの手に引かれて曳き物の先導役「先曳き(さきびき)」となり、小学生になると、お囃子担当となって船に乗り込む。長じては、根曳きとして力強く船を曳き、船回しを披露する。経験を積むと、責任者として采(さい)を振り、最終的には、長采(ながざい)となって総指揮を執る。


そんな風に、小さい時から祭りに親しみ、大人になっても参加できることに誇りを持つ。現役を引退しても、サポート役にまわって現役を支え続ける。各踊町には、そういった代々のバトンの受け渡しがあるようです。



一方、長崎くんちの面白さは、ストーリー性にもあります。


昔から有名な演し物に、『阿蘭陀万歳(オランダまんざい)』というのがあります。長崎に漂着したオランダ人が、生計を立てるために万才を身に付け、家々をまわって新年を寿ぐ(ことほぐ)という設定です。


もともとは、貫禄のある万蔵(まんぞう)とチョコチョコとコミカルに動きまわる才蔵(さいぞう)の二人で行う踊りですが、今年の栄町(さかえまち)の阿蘭陀万歳には、四人が登場。途中、いつのまにか才蔵二人が入れ替わって、あれ? と顔を見合わすシーンがあったり、かすかに教会の鐘の音が聞こえてきて、故郷オランダを想って涙するひとコマを加えたりと、新しい演出になっています。


オランダといえば、鎖国時代の長崎にふさわしい演目と思えますが、実は、初演は東京だったそう。昭和9年、長崎の国際産業観光博覧会で披露しようと、花柳流のお師匠さんが踊ったのが長崎初演。昭和26年、料亭 一力のある新橋町(今の諏訪町)が、初めてくんちの演し物として披露しました。


昭和31年以降、こちら栄町(当時は眼鏡橋町)の演し物ともなっていて、唐子(からこ)、町娘、オランダ人が登場し、長崎の「和華蘭(わからん)文化」を体現しています。


阿蘭陀万歳を踊るには、花柳流の名取(なとり)でないといけないそうですが、黄色い才蔵さんは、18歳の高校3年生、久原一花(くばらいちか)さん。受験勉強をしながらの大役でしたが、キビキビとした動きに豊かな表情と、例年よりも活きいきとした阿蘭陀万歳となりました。


オランダ人が主役の舞踊ですが、三味線や太鼓のお囃子に加えて、弓を使う胡弓(こきゅう)も登場。胡弓の音色がまた、哀愁を感じさせるのでした。



ストーリー性といえば、本石灰町(もとしっくいまち)の『御朱印船(ごしゅいんせん)』は、また格別です。


豊臣秀吉が朱印船貿易の朱印状を最初に与えたひとり、豪商の荒木宗太郎が主役。宗太郎がヴェトナムの王家からお嫁さんを連れ帰り、豪華絢爛のお輿入れが行われた様子を再現しています。


くんちの踊場では、船が長崎港に近づき、宗太郎がお嫁さんのアニオーさんに「あれが長崎だよ」と示す様子や、上陸したアニオーさんのあとに何人も従者が続く「アニオー行列」を再現。実際にヴェトナムから来られた方々も、アオザイを身に付けて従者として登場します。


くんちの曳き物ということで、御朱印船も「船回し」を披露。当時の航海は、風まかせの命がけの冒険です。激しい船回しは、大海原の波に揉まれる様子を、静かな船回しは、風が止み穏やかな凪(なぎ)を表します。


御朱印船は、くんちの演し物でも最大級。高さ6メートル、重さ5トンの船を18人で動かします。そのうちの16人が新人という今年は、厳しい猛練習が続いたそうですが、静と動の対比が際立つ、見事な船回しでした。船に乗り込んだ子供たちのパラパラ、キャンキャン、ドラや大太鼓のお囃子が、統率の取れたリズムで演出を盛り上げるのです。


この時のお輿入れのような豪華絢爛さは、「アニオー行列のごたる(アニオー行列のようだ)」と街で語り継がれたそうで、当の宗太郎とアニオーさんは、仲良く大音寺の荒木家の墓に眠っていらっしゃるとか。アニオーさんがヴェトナムから持参した鏡は、今でも歴史文化博物館に保存されているそうです。



そして、長崎くんちのユニークな演し物といえば、万屋町(よろずやまち)の『鯨の潮吹き(くじらのしおふき)』があります。


くんちの演し物には、『龍踊り』や『川船』のように複数の踊町が披露するものもありますが、万屋町の『鯨の潮吹き』と樺島町(かばしままち)の『コッコデショ(神輿のような太鼓山)』は、ここだけの演し物となっています。ゆえに、7年に一回しか見られません!


そして、この二つは、くんちが始まった頃からの演し物で、『鯨の潮吹き』の初奉納が安永7年(1778年)、『コッコデショ』が寛政11年(1799年)と、江戸時代から引き継がれた伝統を誇ります。二つとも、シーボルトの日本研究の集大成『日本』で海外に紹介されたという、歴史的な演し物です。


『鯨の潮吹き』は、かつて長崎の海で盛んだった捕鯨を表します。大海原を悠々と泳ぐセミクジラを捕鯨船5隻で捕らえるという設定。今となっては、海外から非難を受けそうな演目ではありますが、捕鯨は、長崎の歴史の大事なひとコマ。(写真は、栄町(昔の袋町)に生まれた日本画家、中山文孝(なかやまよしたか、1888-1969)氏が「無全」という名で描いた『鯨の潮吹き』。中山氏は、カステラの老舗・福砂屋(ふくさや)の黄色い包装紙のデザインでも有名。所蔵:料亭 一力)


くんちの踊場では、セミクジラは数メートルの潮を吹き上げ、「ヨッシリヨイサ!」の掛け声とともに2トンの黒い巨体を回し、鯨と戦う厳しさを表します。くんち初日には、鯨は捕まっていませんが、最終日になると、鯨には網がかかり、納屋船の屋根には冬の漁を表す雪とツララが現れます。脂の乗った冬のセミクジラは、まさに最高級品だったとか。


鯨は、竹で緻密に骨格を組み、黒いサテンで覆います。毎回、新調されるそうですが、根曳き衆の指が入り込まないように竹は隙間なく組まれ、それゆえに、水に濡れたサテンの鯨はツルツルとすべり、えらく回しにくいとか。


船頭さん10人は、子供たちの役割。親船頭を務めるのは、10歳の浅野正宗くん。コロナ禍の延期で大役が回ってきたそうですが、正宗くんの「ヨイヤーサー、ヨイヤーサー」という掛け声は会場じゅうに響き渡り、大人たちの『祝い唄(祝いめでた)』に勢いをつけます。


船頭さんが身につける衣装がまた、特筆すべきものなのです。写真ではわかりにくいですが、衣装は「長崎刺繍(ながさきししゅう)」が施された豪華絢爛なもの。長崎刺繍とは、金糸や銀糸の模様の中に綿を入れて立体的に刺繍するもので、2着を新調するにも6年がかりだったそう。


正面からは見えませんが、正宗くんの背中には、立体的な黒い鯨が、仲間の背には、伊勢海老が施されています。


万屋町の町印となる傘鉾(かさぼこ)にも、『魚づくし』と呼ばれる垂(たれ)を用いていて、こちらは、16種29匹の魚を長崎刺繍で再現。10年前に200年ぶりに新調されたもので、製作には11年かかったとのこと。市の有形文化財にも指定されています。


現在、長崎刺繍の継承者は、嘉勢照太(かせてるた)氏おひとりだそうですが、大切な伝統を受け継ごうと、お弟子さんが何人かいらっしゃって、みなさんで協力してくんちの衣装や飾り物を製作されています。


万屋町の傘鉾には、「福」を呼ぶ工夫も。


こちらに見えるように、傘鉾の裏側、ちょうど垂が重なる部分には、フグ(ふく、福)が刺繍されています。普段は隠れていて、傘鉾がクルクルと勢いよく回ると、フグが姿を現し、これを見かけた人には福が訪れるというもの。



長崎刺繍といえば、上でもご紹介した船大工町の『川船』。船頭さんが登場する際は、こちらの金糸の伊勢海老の衣装を身につけています。


皆で踊場に整列して、ごあいさつをしたあとは、船頭さんはズッキャンキャン(肩車)されて船を下り、衣装替えをして、軽快な船頭さんの姿となって網を打ちます。


くんちの衣装といえば、根曳き衆や采振りの着物は、足さばきが良いように「正絹ちりめん」でできています。祭りには、綿の法被(はっぴ)というイメージもありますが、長崎の祭りには、いなせに絹をまといます。


根曳き衆の着物には、各踊町のテーマが染め抜かれ、川船には大波に鯉、御朱印船にはアニオーさんの祖国ヴェトナムの国鳥トキと、カラフルな衣装を見るのも楽しみのひとつです。


お囃子や謡(うたい)のみなさんも紋付の正装を身につけ、石畳の踊場では、雨が降ろうと、何も敷かずに着物のまま座ります。それが、長崎の人間の心意気! というわけです。


心意気の表れとして、演し物や衣装、小道具や楽器と、贅を尽くすのが「くんち」の常識ではありますが、町のシンボルともなる傘鉾(かさぼこ)にも凝った細工を施します。


通常、くんちの費用は町全体で負担しますが、特筆すべきは、上でもご紹介した『阿蘭陀万歳』を奉納する栄町の傘鉾。


こちらは、旧家が一軒で負担する「一手持ち」だとか。栄町は、酒屋町、袋町、本紺屋町(もとこうやまち)の三町が合併してできた町で、酒屋町で生まれた明治期の実業家、松田源五郎一族の一手持ちということです。


源五郎さんは、金融業を立ち上げ、のちの国立十八銀行に発展させると同時に、幅広い分野の企業経営に携わった人物。市議会、県議会、そして衆議院でも議員を務めました。人から認められる人格者でなければ、一手持ちにはなれないそうで、長崎には「傘鉾ば持つごとならんばのぉ(傘鉾を持てるようにならなきゃね)」という言葉があるのだとか。


酒屋町だった頃には、盃(さかずき)を頂く傘鉾でしたが、今は、源氏物語を題材とした「貝合わせ」4枚と紅葉が飾られます。垂は前日(まえび)には白、後日(あとび)には紫と、粋に色を替えるそう。


貝合わせといえば、母が源氏物語の勉強会の仲間と、松田家の若奥さまに「お雛さまを見にいらっしゃい」と招待されたことがありました。座敷いっぱいに飾られる立派な雛壇にも驚いたそうですが、それ以上に、源氏物語の有名な場面を描いた美しい貝合わせに心奪われた、と語っていました。


まさに長崎の旧家の懐の深さの表れですが、雛人形にすら縁のなかったわたしにとっては、貝合わせとは、京の貴人のお遊びみたいと、脳裏に深く刻まれたエピソードとなりました。



というわけで、なんとも独善に満ちた長崎くんちの印象をつづってみました。


まだまだ書き足りないことはありますが、表題の『もってこ〜い、長崎くんち!』について、ひとこと。


ご存じの方も多いとは思いますが、くんちの踊場でアンコールをお願いするには、「もってこ〜い、もってこい」と声をかけます。奉納踊が始まる前には、観客も掛け声を練習します。


踊場では、白トッポと呼ばれる白法被の男たちが、あとどれくらいアンコールできるかと、総指揮者の長采の顔色をうかがいながら掛け声をかけるのです。


「もってこ〜い、もってこい」は、力強い根曳き衆の曳き物や担ぎ物に使われ、あでやかな舞には、「所望(しょもう)やれ」と声をかけます。反対に、気に入らないと「もっていけ〜」との罵声もあるそうですが、いまだ耳にしたことはありません。(写真は、桶屋町の『本踊り』より、藤間流の門下生による長唄『諏訪祭紅葉錦絵(すわまつり もみじのにしきえ)』)


いつか秋の長崎に足を伸ばす機会がありましたら、くんち見物を予定に組むことをお勧めいたします!


<歴史のこぼれ話>

そもそも、長崎近郊に広まる「くんち」という名前は、中国や香港、台湾、ヴェトナムに伝わる「重陽(ちょうよう)の節句」からきている、という説があるそうです。旧暦9月9日、先祖の墓参りをして、邪気を払い、長寿を願う節句だそうで、日本では「くんち(9日)」として秋祭りになったとか。

上ではご紹介しませんでしたが、くんちの期間中、諏訪神社の「諏訪」「森崎」「住吉」の三柱の神さまが神輿三基で元船町の御旅所に往復されるという「お下り」「お上り」も行われます。こちらは、10月7日(前日)と9日(後日)に行われ、天狗や神官、稚児さんと昔の装束に身を包んだ方々が街を練り歩きます。神輿三基が諏訪神社の急な階段を駆け抜ける様子も、迫力に満ちあふれ人気を誇ります。

長崎の街は、豊臣秀吉の時代に、大村純忠によってローマ・カトリックのイエズス会に寄進されました。イエズス会の領地としてキリシタンが激増しましたが、その反動でキリスト教の禁教令が発布され、教会関係者や信徒は弾圧され、教会の代わりに寺社が保護されました。天領となった長崎のくんちは、キリスト教を庶民の心から払拭する手立てとして、お上に利用された一面もあるのでしょう。

江戸時代には幕府の援助を受け、諏訪神社は20余名の能役者を抱え、能を催していたそうで、歌舞の伝統が街じゅうに広く浸透していたことも、くんちの発展に寄与したのではないでしょうか。

今年、長崎検番のある丸山町が奉納した『うかれ唐人』ですが、こちらは、引田屋花月楼(今の料亭 花月)で丁重にもてなしてくれた遊女へのお礼として、唐人が気分よく舞を披露した、という設定です。

丸山遊郭の女性たちは、教養も高く、芸事にも秀で、そんなレディーたちを大切にした唐人さんたちは、文化人であると好感を持たれたそう。「色もほんのり良かばってん チクライ チクライ カーラリ フーラリミョー」といった和製中国語の歌詞にも、長崎の人々の唐人さんへの親しみが込められているようです。

おくんちの演し物には、踊場で奉納するだけではなく、「庭先回り(にわさきまわり)」でお得意さんを回るという大事な役割もあります。街をブラブラしていたら、好きな演し物に出くわした。そんな偶然もまた、くんちの楽しみではありますね。


Finish sentences(文章を終わらせる)

<英語ひとくちメモ その165>

暑かった夏も、そろそろ終わりでしょうか。


華やかな晩夏の花火は散り行き、虫の音が響きわたる。


季節も一気に進んだように感じられます。


そんな今日のお題は、


Finish sentences


これだけ見ると、「文章を終わらせなさい、完結しなさい」という命令文になりますね。


Finish your sentences


と言うと、親が子供に注意をしているようにも聞こえます。


いつも文章の最後の方になると、口がモゴモゴして、言葉が聞こえなくなる。


だから、自分が思っていることは、最後まではっきりと言いなさい、と注意をしているような感じ。


けれども、この finish sentences には、面白い使い方があるのです。


それは、こちら。


We finish each other’s sentences

わたし達は、お互いの言うことを完結し合うんです


日本語に訳すと、なんだか変な文章ですが、「お互いが口にする文章の最後を補えるほど、仲が良いんです」という意味になります。


文章自体には、ひねりはありません。Finish each other’s sentences は、「お互いの言っていることをお互いが言い終える」という意味です。


Aさんが言い始めた文章をBさんが言い終え、Bさんが言い始めた文章をAさんが言い終える、ということ。


けれども、これは互いを知り尽くしていて、相手が考えそうなことや、言いそうなことを理解しているからできること。ですから、転じて、とても仲が良いということになります。


実際、この文章を耳にすると、「わたし達って、とっても仲が良いのよ」と自慢されているようにも聞こえるのです。


いえ、このように言えば簡単なんですよね。


She and I are good friends

彼女とわたしは良い友達なのよ


でも、She and I finish each other’s sentences と言うと、ちょっとオシャレに仲良しであることを表現できるのです。



「仲が良い」という意味では、こんな表現もありますよね。


We are on a first-name basis

わたし達は、お互いをファーストネームで呼び合っている


この on a first-name basis というのは、「ファーストネームで呼び合うことを基本としている」という意味ですが、「お互いにファーストネームで呼び合っている」ということになります。


ラストネーム(苗字)ではなく、ファーストネームで呼び合うことは、仲の良い証拠だということで、「わたし達は近しい関係にある」ことを意味しています。


この表現を聞いて思い浮かべるのが、日米の政治家の関係。


1980年代、アメリカの第40代大統領 ロナルド・レーガン氏と日本の第71代内閣総理大臣 中曽根康弘(なかそねやすひろ)氏は、互いに「ロン(ロナルドの愛称)」と「ヤス」と呼び合っていたとのこと。


これ以降、日本の首相はアメリカの大統領をファーストネームで呼ぶようになったようですが、日米の外交関係も、戦後の統治時代を脱却して、少しは対等になったのでしょうか?


ちなみに、わたしが行ったカリフォルニア州の大学では、お友達でもないのに、先生(教授)をファーストネームで呼んでいました。ただひとり、言語学の先生だけは、「わたしを〇〇博士と呼んでください」と学期初めにクギを刺されましたが、それ以外の方は、学生とも first-name basis


その後、フロリダ州の大学院では、先生を「ドクター〇〇(〇〇博士)」と呼んでいたので、もしかすると、カリフォルニア州がやけにカジュアルだったのか(それとも、フロリダ州が堅苦しかったのでしょうか)。


そう、アメリカでは、一般的にファーストネームを使うことが多く、ご近所さんの付き合いでも、往々にして苗字を知らないケースが多いです。


一度、連れ合いの会社の日本人スタッフをサンノゼ市郊外の我が家に招いたら、間違った住所が伝わっていて、「近所の方々に〇〇家はどこか? と苗字で質問しても、誰も知らなかった、ご近所付き合いはちゃんとやっているの?」と聞かれたことがありました。


クリスマスカードを出し合うような関係なら、もちろん苗字まで知っていますが、それ以外のご近所さんの場合は、「はて、あの人のラストネームは何だったっけ?」ということが多いのです。


なにせ、オフィスでも、上司に向かって堂々とファーストネームで呼びかける国ですからね。



ここでついでに、メールや手紙などの(書く)文章でよく使われる表現をご紹介いたしましょう。


たとえば、ビジネス的なメールは内容がドライになりがちですが、いきなり本題に入る前に、このような一文を冒頭に入れることも多いです。


I hope this finds you well


直訳すると「あなたが健康でいらっしゃることを、これ(メール)が見つけるように願っています」というわけですが、「お元気にお過ごしと思います」という意味ですね。


こちらもポピュラーな表現です。


Hope all is well with you

あなたにとってすべてが順調であることを願っています


二つとも、とても英語的な表現ですので、そのまま覚えていると便利だと思います。


上の二つの文章は、なんとなく使い古された表現ということで、このように言い換えることもあります。


たとえば、月曜日に出すメールだったら、


Hope you had a great weekend with your family

あなたのご家族とともに素敵な週末を過ごされたことと願っています


週の真ん中だったら、こんな言い方もありますね。


I hope you are having an amazing week

あなたが素敵な週をお過ごしのことと願っています


ごく一般的に、こんな文章でもいいと思います。


I hope you are doing great

あなたが健やかにお過ごしのことと願っております


わたし自身は、上記のような挨拶を愛用していますが、こんな文章もよく使いますね。


 I hope you are holding up in this summer heat

この夏の暑さの中で耐え抜いていることを願っています


Hope you are enjoying the crisp autumn air

爽やかな秋の空気を楽しんでおられることと願っております


いえ、冒頭の軽い挨拶ですから、思っていることを書けば、相手もほっこりすることでしょう。


お決まりの定型文にとらわれることなく、季節のうつろいや楽しいイベントと、相手に関するいろんなことを思い浮かべて、ご自身の言葉で挨拶を編み出すことをお勧めいたします。



というわけで、またまたお話がそれましたが、今日の話題はこちら。


Finish each other’s sentences


She and I finish each other’s sentences と言えば、仲良しであることを表している、というお話でした。


なかなか日本語では使わないような、ユニークな英語の表現ですよね!


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