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2011年07月23日

米国憲法: 政治家って公僕?

Vol. 144

米国憲法: 政治家って公僕?

 


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女子ワールドカップサッカーの世界制覇を果たした「なでしこジャパン」は、まさに奇跡のようなゲームを展開してくれました。

オバマ大統領の応援もむなしく、アメリカは銀メダルとなってしまいましたが、3月の大震災を受けて「日本は世界の心をつかんでいた(Japan won the global hearts)」というキャスターの言葉に、すべてのアメリカ人がうなずいたことでしょう。
「おめでとうございます、にっぽん」とW杯覇者(1999年)のブランディ・チャステインが日本語で贈った賛辞は、なでしこレディーたちすべてが心に刻む勲章なのです。

というわけで、負けてもなお「なでしこ」を褒めたたえるアメリカに敬意を表して、今月は、アメリカの最高の法律『米国憲法』のお話をいたしましょう。その成り立ちは、かなりドラマティックなものなのです。

<憲法へのプレリュード>
いやはや、洋の東西を問わず、政治家というものは、とかく世間を騒がせるようにできているようですね。

前カリフォルニア州知事アーノルド・シュウォルツェネッガー氏の隠し子といい、ニューヨーク選出の連邦下院議員アンソニー・ウィーナー氏の「セクスティング」のスキャンダルといい、出てくるは、出てくるは・・・(sextingは、ケータイやネットでいかがわしい会話や画像をやり取りすること。なんでも、このウィーナー氏のお相手は、アダルト系女優だった方とか・・・)。

このウィーナー氏、最初のうちは「議員は辞めない」と言い張っていたものの結局は辞職するハメになったのですが、この何とも恥ずかしいスキャンダルのさなか、オバマ大統領は「自分だったら、とっくに辞めているね(if it was me, I would resign)」と発言していたのでした。


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さらに曰く、「(政治家のような公共サービス)とは、その名の示す通りだよ。そう、公共に仕えること。もし個人的な理由で政治家が人々にお仕えすることができなくなったら、それはもう辞任するときなんだよ((public service) is exactly that, it’s a service to the public. And when you get to the point where … you can’t serve as effectively as you need to … then you should probably step back)」と。

この言葉を読んで、わたしはハッとしたのでした。そりゃ、ときどきヘンテコな問題は起こすけれど、アメリカの政治家は、少なくとも自分たちが「公僕(public servant)」である自覚はあるのだなと。
自分たちは、人々にお仕えするために代表者になるのであって、私利私欲のために政治家になるのではない、という確固たる信念は持っているのだなと。

その一方で、「公共(the public)」である国民だって、「政治家というものは、我々に仕えるべきものである(Elected officials work for us)」と公言してはばからないのです。

なるほど、アメリカには「政治家は公僕でありなさい」といった思想が根底に流れているようではありますが、これは、いったいどこから生まれたのでしょうか?

少なくとも、国の一番大事な文書である『米国憲法(the United States Constitution)』を読んでみても、そんなことは一言も書いていないように思えるのですが。
いえ、わたしは法律や政治学の門外漢ではありますが、ごく限られた知識を動員しても、そんなことは書いていないように思えるのです。

ということは、憲法には明記されていないこと、つまり、憲法の成り立ちあたりに関係があるのでしょうか?

<不思議な憲法>


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米国憲法というのは、とっても不思議な憲法です。まず、とっても古い。できあがったのは1787年と、現在世界で使われている憲法の中では、一番古いそうです。
1787年というと、フランス革命が起きる2年前ですから、まだまだルイ16世もマリー・アントワネットも健在で、「ケーキはいかが?」なんてのたまっていた頃でしょう。

古いながらも現物は残っていて、首都ワシントンDCの国立公文書記録管理局(the National Archives and Records Administration、略称NARA)で見学することができます。わたしも見たことがありますが、「なんとなく古びた文書」という印象でした(ごめんなさい)。

それから、本文自体は、かなり短い。紙にこまごまと手書きでしたためられた文書は、第1条から第7条までと、わずか4ページしかありません。
あとになってゴチャゴチャと27箇条も修正(Amendments to the Constitution)が加えられていますが、もともとの文書はそんなに長くはないのです。

そして、意外なことに、人民のことには何も触れていない。もちろん、あとで加えられた修正の冒頭では、国民の権利を網羅してあるわけですが、本文自体は、第1条「立法府(the Legislative Branch)」、第2条「行政府(the Executive Branch)」、第3条「司法府(the Judicial Branch)」、第4条「州の互いの関係(Relation of the States to each other)」と、国を形づくるお話ばかりが出てきます。
なんとなく、「国民不在」といった冷たさすら感じるのです。

憲法のくせに国民不在になったのは、いったいなぜなのでしょうか?
 


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だいたい、米国憲法ができあがったのは、ようやくイギリスの統治から解放された時代。1776年、『独立宣言(the United States Declaration of Independence)』を議会で採択したものの、イギリスとの戦いはまだまだ続き、1783年、パリで大英帝国とアメリカとの条約が結ばれ、晴れて独立の身となったのでした。

以前、2009年7月号の第1話「独立記念日」でもご紹介したように、一般的に独立の年とされる1776年は、厳密には『宣言』を採択した年なのですね。ジョージ3世の大英帝国と戦う上で、仲間を鼓舞しようと書かれたのが独立宣言だったのです。
あちらこちらの戦場に持って回ったので、オリジナルはボロボロになってしまって、写真の『宣言』(公文書記録管理局に展示)は、あとで書き直されたものだそうです。

長かった戦いで独立を勝ち取ったものの、国は疲弊し、人々は困窮し、まず、一国としてやらなければならなかったのが、立て直しの組織づくりでした。そのためにできたフレームワーク(枠組みとなる概念)が、米国憲法だったのです。

それまでは、植民地の東部13州(邦)がバラバラに民衆から税を徴収し、交易を行い、まるで州が一国のように機能していました。
米国憲法の前身である『連合規約(the Articles of Confederation)』にも、「それぞれの邦は独立であって、統治権と自由を保有するものである」と明記されています。
州の集まり(連合)とは、国ではなく、つまりは「仲良しクラブ」でしかなかったのです。
 


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これを改め、米国憲法では、国が州の上に立ち、各州を司る形式にしたのです。たとえば、国が貨幣を造り、民衆から税を集めて国と国民を守り、他国と交易を行い、条約を結ぶ、国家の代表となったのです。
第1条・第8節(Article I、Section 8、写真)には、このような国の議会の権限がしっかりと定められています。
そして、第6条・第2項には、「(合衆国の権限のもと)この憲法は、この国の最高の法律(the supreme law of the land)である」と、国の支配権が定義されているのです。

というわけで、独立直後の国づくりといった歴史的背景があって、憲法の本文には、無味乾燥な組織とその権限のお話ばかりが出てくるのでした。

<憲法会議
けれども、何はともあれ、この4ページをまとめあげるまでには、みなさま相当苦労なさったようですよ。最終版に至るまでには、起草に関わった方々(平均年齢42歳、最高齢のベンジャミン・フランクリンは81歳)のさまざまな葛藤があったのでした。

まず、国家とは「連合(a federation)」であるべきか、「連邦政府(a national government)」であるべきか、というのが最大の論点となりました。もし連邦政府となれば、今まで各州が享受していた統治権と自由が剥奪されてしまうのですから、これを不服とする人たちはいっぱいいたのです。
ロードアイランドなどは、「自分たちの州はうまくいっているから、今さら国の統治なんていらない!」と、議論の場に代表者を送ることを拒否したくらいです。

こういった反対意見を唱える人々が一番恐れていたのは、「王」の再来でした。ようやくイギリス王ジョージ3世の統治を逃れたのに、またもや支配者が現れるのか! と。

1787年5月、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアにロードアイランドを除く12州の代表者たちが集い、憲法会議(the Constitution Convention)が開かれます。
ここでは、まずヴァージニア代表ジェイムス・マディソン(のちに第4代大統領)の起案が提出され、先の『連合規約』に定められた「仲良しクラブ」がいかに国として不十分なものであるかが討論されます。
なるほど、してみると、国として何かしら議会が必要なのだなと、一応みんなが納得します。ここに集った代表者たちは、大部分が法律を学び、自身も議員を務めた方々。ヨーロッパの理念にも現状にも詳しく、国の理想型は、皆がしっかりと頭に思い描いているのです。

しかし、国の議会をつくるにしても、次に問題になるのが、どうやって代表者を選ぶかです。ここでは大きな州と小さな州が対立し、州の人口に比例して議員を選ぶのか、それとも各州が同数の議員を送り込むのかで、けんけんがくがくの議論となります。

そして、この議論は、やがて北と南の論争へと発展するのです。なぜなら、代表権と納税を語る上で、「人口」として誰を数えるのかが大問題となるから。そう、具体的には、「奴隷」をどう扱うかというのがホットな論点となったのです。

結局、皆がどこかで妥協をしなければならないということになって、連邦上院(the Senate)は、州の大小に関係なく、各州が二人ずつ代表を選出し、連邦下院(the House of Representatives)は、各州の人口に比例して議員数が割り当てられることになりました。
この場合、「自由人(free persons)」は一人とし、「その他の人(all other persons、奴隷の婉曲語)」は5分の3(!)と数えることで合意されました。

まあ、5分の3であろうと何であろうと、これでようやく憲法会議の破綻の危機が回避され、次に進めることとなったのです。
討論の場となったフィラデルフィアが、今でも「兄弟愛の都市(the City of Brotherly Love)」と呼ばれているのは、このときの妥協を見出す精神から来ているのですね。

そんなわけで、ようやく議会制(民主主義の根本)を定めた草案第1版が完成いたしました。5月に始まった議会も、いつの間にか8月。エアコンもない時代に、フィラデルフィアの蒸し暑い夏に3ヶ月も缶詰になった方々には、ご同情申し上げるのです。

ところが、妥協も束の間、そこから北と南の論争が激しく再燃するのです。「州間の交易に課せられる税」だとか「奴隷制」を語る上で、州の思想や利害関係が大きくぶつかり合うのです。
南は「北が牛耳る議会は、南の作物に重税を課すのではないか」といぶかい、北は「イギリスから自由になったアメリカがいまだに奴隷制を布いているのは、国の理念に反する」と嘆き、議論がどこまでも平行線となるのです。
 


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すったもんだの末、ようやく互いが妥協することに合意し、1787年9月、憲法が4ページにまとめあげられました。
新しい憲法では、立法、行政、司法の三権分立によって、国の力が一極集中しないようにと配慮したものとなっています。が、奴隷制は20年据え置きというのが、北と南の暗黙の了解となりました。

「選挙人団(the electoral college)」なる大統領選挙の不可思議な制度が生まれたのも、このときに集まった方々の妥協に端を発するものなのです。(写真は、代表者の署名の入った最終ページ)

<Federalists vs. Anti-Federalists>
ようやく憲法はまとまったものの、憲法議会での論争の火種は、決して消えることはありませんでした。この4ページの内容を持ち帰り、各州が批准する上で、各地で大論争を巻き起こしたのです。

このときから、憲法支持者は「the Federalists(連邦支持派)」、反対陣営は「the anti-Federalists(連邦不支持派)」と呼ばれるようになり、州を司る連邦政府を擁護する側と、これに反対する側の熾烈なかけひきが生まれたのでした。

アレクサンダー・ハミルトン(初代財務長官、連邦銀行の創設に寄与)やジョン・ジェイ(初代連邦最高裁判所長官)は、憲法のたたき台を書いたジェイムス・マディソンとともに、批准を促す論文を次々と新聞に発表します。
このときに発表された85の論文は、『ザ・フェデラリスト(the Federalist Papers)』と呼ばれ、今でも憲法条文を解釈する上では、優れた参考書とされています。

一方、反対陣営はこれといって強烈なキャラクターに欠けていましたが、各地で支持を広げます。彼らの論点は、北部のエリートたちが国(議会や閣議)を牛耳って州の上に立つのは不満であること、憲法には働く民衆の権利がまったく触れられていないこと、の2点に集約されるでしょうか。

民衆を巻き込み、幅広い憲法論争が繰り広げられたため、批准に必要な9州の賛同を得るには時間がかかりました。
翌年1月までには、デラウェア、ペンシルヴェニアなど5州が着々と批准するのですが、マサチューセッツのような大物は、「民衆のための権利章典」を提案することを条件に、ようやく批准に至るのです。
 


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晴れて1788年6月(憲法会議が始まって早一年)、9州目のニューハンプシャーが批准し憲法が成ったわけですが、その頃にはもう、憲法に人権を加える動きは着々と進んでいました。

そして、13州最後のロードアイランドが憲法を批准した翌年(1791年)、言論の自由や公正な裁判を保障する、米国憲法修正第1条から第10条の『権利章典(the Bill of Rights、写真)』が書き加えられるのです。

<We the People>
というわけで、米国憲法の成り立ちをざっくりとご紹介いたしましたが、冒頭に出てきた「政治家は公僕であって、公共に仕えるものである」という思想はどこから生まれたのか? という疑問が残っているのです。

きっと、これには諸説あるのでしょうし、誰かが「これだ!」とピンポイントできるような性質のものでもないでしょう。
 


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けれども、ひとつ大きなヒントとなるものは、憲法の冒頭に出てきます。「We the People(of the United States)」という言葉です。
「わたしたち合衆国の人民」というわけですが、自分たちが(世の中を良くするために)憲法を定め、これを制定するものである、と冒頭に明記されているのです。

歴史的に見ても、憲法批准の論争には民衆がどっぷりと巻き込まれていたわけですし、つまりは、議会やら大統領府やら裁判所やらがあっても、自分たちがそれをコントロールする力を持っているのだ、と宣言しているのではないでしょうか。

この「We the People」という言葉は、普段よく耳にします。アメリカの民主主義を語る時に、誇らしげに登場するのです。

「主権は民にある」つまり「主役は自分たち」である。だから、民主主義の制度においては、「国や政治家や裁判官は、民に仕える公僕となりなさい」という考えが定着したのではないでしょうか。

参考文献: The Introduction by Roger A. Bruns to A More Perfect Union: The Creation of the United States Constitution, Published for the National Archives and Records Administration by the National Archives Trust Fund Board, Washington D.C., 1986.

夏来 潤(なつき じゅん)



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