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2005年06月28日

高野山と熊野三山:和歌山ってどんなとこ?

Vol.71
 

高野山と熊野三山:和歌山ってどんなとこ?

世の中、いろいろ騒がしいですが、こういう時こそ、一息入れましょう。先月号の巻頭で、小鳥の巣作りのお話をいたしました。我が家のドアにかけたリースに巣が出来上がり、親鳥が卵を数個温め始めたというものです。その後、5月下旬から2週間日本に滞在したのですが、その隙に、めでたく雛がかえっていました。
ドア越しに、ぴよぴよという雛の食事の催促を聞きながら、写真の一枚も撮ってやろうと思っていましたが、筆者が時差ぼけでボーッとしている間に、みんな巣立ってしまいました。雛が育つのは早いものですね(実は、この話には後日談があって、巣をリサイクルする動きが見られたのです。やっぱり玄関が使用できないと不便なので、あわてて巣を撤去させていただいた次第です)。

さて、今回の帰国の目的は、日本の祭を見てみようというものでした。ところが、筆者が東京に着いたのは、京都の葵祭や浅草の三社祭(さんじゃまつり)の直後で、金沢の百万石まつりや各地の田植え祭には早すぎる時期でした。ちょうどこの時期は、「農閑期」ならぬ「祭閑期」とも言える季節です。そこで、祭は望めないものの、和歌山を訪ねてみました。今回は、その時の印象などを綴ってみたいと思います。


<高野山>

旅先を和歌山としたのに別段深い意味はなく、目的地を選ぶにあたり、和歌山には城があるというのが鍵となりました。本屋でガイドブックを見てみると、県内には高野山もあるし、熊野古道や白浜温泉といった魅力的なスポットもあることがわかり、出立の前日、急いで宿や飛行機の手配をしたのでした。

最初の目的地・高野山に関しては、今まで誤解が多かったことがわかりました。京都の比叡山と並び称されるためか、筆者は、高野山も京都近辺にあり、高い、険しい山の上に、大きなお寺がひとつ存在するのだと思っていました(日本の地理に詳しい連れ合いでさえ、高野山は奈良県だと思っていました。和歌山県民のみなさん、申し訳ありません)。
ところが、関西空港から南海電鉄とケーブルカーを乗り継ぎ山頂に来てみると、どうして、人口3千人の立派な町なのです。有名な高野山大学もここにあり、聖職者は千人にものぼります。大小含めてお寺の数も多く、各地にある寺町を大きくした感じです。

ここに来て宿坊に泊まらない手はないと、この晩は、高野山で一番大きな宿坊、福智院にお世話になりました。宿坊では、配膳もお坊さんが行い、朝は早くからお勤めがあると聞いていたので、前日、デパートの食品売り場をぶらついていた時、手土産に菓子折りのひとつも持っていくべきかと迷いましたが、結局、手ぶらで赴きました。行ってみると、思ったよりも広いお寺で、中庭も料亭のように美しく整い、どこかの旅館かと見まがうばかりでした。檀家の方かもしれませんが、宿坊には番頭さんや女中さんもいて、近代的に分業化されていました。
けれども、お坊さんとの接触も多く、やはり宿坊の醍醐味はここにあると実感したしだいです。たとえば、部屋に通されてすぐ、千葉から修行にやって来た尼僧さんに茶室まで案内され、旅の疲れを癒す、薄茶の御手前の歓迎を受けました。

夕食も朝食も、聞いていた通り、若い修行僧が部屋まで運んで
くれました。夕食担当の修行僧はちょっと小太りで、お膳を持っての階段の上り下りに息を切らし、傍で見ていて申し訳なく思いました。けれども、これも修行のうちなのかもしれません。昔は、ひとたび高野山に入れば、3割しか生きて戻れなかったといいます。それに比べれば、何でもないことかもしれません。それにしても、精進料理の美味なこと。高野山にいる間、二度と肉など食べるものかと思っていました。

何と言っても、朝のお勤めはいい経験です。筆者も、菓子折りを持参すべきかと迷っていたほど、お坊さんに会えるのを楽しみにしていました。翌朝、5時には自然に目が覚め、露天風呂でまず身を清めます。頭のすぐ上で、小鳥が実にいい声で鳴いていました。
そして、6時から本堂でお勤めです。宿泊者の大半はヨーロッパからの観光客で、本堂も外人さんでいっぱいです。彼らと同じくらい、筆者もお経の内容などわかりません。唯一認識できたのは、「般若心経」だけです。でも、住職さんと前夜会った尼僧や修行僧など、数人で唱える真言密教のお経は、迫力のあるものでした。鐘や鉦、鈴などを打ち鳴らし、その賑やかさは他の宗派とは異なります。頼りなげだった修行僧も袈裟に身を包み、きりりと見えます。馬子にも衣装、坊主にも袈裟でしょうか。
残念ながら、住職の静琴盛氏とは直接お話する機会はありませんでしたが、お勤め後のお説教は、庶民的でおもしろいと思いました。「般若心経」には、わずか278文字の中に、深い意味が込められており、宇宙のように壮大な世界が広がっている。また、ありがたいことに、読経はボケ防止にも役立つとのこと。以前、般若心経の解説書にトライしたことがありましたが、この際再挑戦してみようと誓ってみました。


<空海>

高野山の主、空海さんとは、妙なえにしがあります。昨年11月、中国・西安を旅したとき、個人ツアーのガイドさんに黙って連れて行かれたのが、空海が修行した青龍寺でした。筆者が神奈川に暮らしたと聞き、空海の出身地である香川(讃岐国)と勘違いし、同郷のよしみできっと喜ぶに違いないと早とちりしたようでした。
筆者はこのとき、「空海って誰だっけ?」と、まるで5歳児のように心の中で叫んだのですが、説明を聞いているうちに、昔の歴史の授業を思い起こし、これは大層すごい所に来たもんだと、合点が行ったわけです。804年の空海の入唐後1200年が経つということで、2週間前には、日本から千人の信者がこの寺にやって来たということでした(804年、空海と同じ遣唐船に乗った中に、比叡山の最澄上人もいます)。ここには立派な空海記念塔も建立されており、筆者たちも訪問者の記帳をして来ました。
そんなわけで、ひょんなことから高野山に行くことになったのには、不思議な力を感じるのです。中国の旅が、ようやくこの地で完結したような。

空海は、青龍寺の恵果和尚(けいかわじょう)のもと、千人の弟子の中から選ばれ、密教の第八祖となりました。師の恵果和尚は、「大日経」というお経を中心とした西インドの密教と、「金剛頂経」というお経を中心とした南インド密教の二派を統一した、偉いご仁だそうです。空海が選ばれ、まわりの弟子からは異邦人のくせにと妬まれたようですが、恵果和尚には、「あなたが来るのは前からわかっていて、長い間待っていましたよ」と言われたそうです。
帰国後、807年、大和国久米寺で「大日経」の講讃をし、この日をもって、真言宗の開宗とするそうです。空海34歳のことでした。そして、816年、高野山に修禅道場として金剛峯寺を開きます。
835年、空海は62歳で高野山に入定(にゅうじょう)するわけですが、彼の死に関しては、いろんな説があるようです。一般的には、結跏趺坐(けっかふざ)のまま御入定なさった、つまり、不死の境地につかれたと言われているわけですが、仏陀と同じく、病没なさった後、火葬もしくは土葬に付されたという説もあるようです。
唐で幅広く知識を身に付けた空海は、錬金術や金属を用いた治療にも長けており、その毒素にあたり中毒死したという説もあるようです。そもそも、高野山を選んだのは、この地に水銀の含有量が高かったせいだともいいます。当時、水銀は、金とのアマルガムで仏像の金箔に使われ、薬や顔料、防腐剤にも用いられたそうです(佐藤任氏著「空海のミステリー」より)。

空海が高野山を選んだのは、唐から五鈷杵(ごこしょ)を投げ、それが当たった所だという伝説もあるそうです(五鈷杵とは、空海が右手にする密教法具で、仏が集まる金剛界の智恵を表すものとされます)。空海にはミステリアスな部分が多く、ゆえに伝説を含め諸説が混在するのかもしれません。けれども、筆者は、高野山に実にシンプルな印象を受けました。それは、空海さんのもとには、生きた人も死んだ人も大勢が集うということです。
生きた人というのは、「同行二人」をいただき高野山に詣でる信者たちです。同行二人とは、誰かとふたりでお参りすることではなく、弘法大師空海の仏としての尊い力に帰依し、現世での幸福を頂くことだそうです。大師とともに人生を歩むという意味なのでしょう。巡礼者の中には、若い信者カップルもたくさんおり、「即身成仏」の教えは脈々と受け継がれているのです(即身成仏とは、生きながらにしてミイラになることではなく、修行により現世で仏と成ることです)。
ここに来る限り、仏教は形骸化された宗教などではないのです。「高野山心の相談所」や、「ひきこもり相談電話」まで開設されています。
一方、死んだ人が集うというのは、ありとあらゆる人が奥の院の参道に眠っているということです。織田信長、明智光秀、武田信玄に上杉謙信と、それこそ、歴史に登場する有名人のオンパレードです。


参道には、有名人に混じり、一般の人も数多く墓標や慰霊塔を建てていますが、目を引いたのは、有名企業の慰霊の塔です。在籍中に他界した従業員のためのものだと思われますが、日産自動車、フクスケ、ヤクルトなど、一流企業が並びます。UCC上島珈琲の一画には、コーヒーカップの形をした門柱もあり、各企業の碑を見て回るだけでもおもしろいものです。害虫駆除の協会は、今まで退治したシロアリのために鎮魂の碑を建てていて、日本人らしい心だと思いました。

いよいよ聖地に近づくと、ろうろうとした声でお経が聞こえてきます。まさか録音じゃないよねなどと不謹慎なことを思っていると、大師御廟と参道を隔てる川の中で、お坊さんが首まで水につかり、読経の修行をしているところでした。近くのお堂では、黄色の袈裟を纏った僧が、無言で経を読み、念珠や法具を扱い何かしら儀式を行っています。密教というと、どうしても特権階級が病気の治癒祈願や呪詛に使うものというイメージが伴います。しかし、ここでは、純粋な修行のあり方を見たような気がしました。
川を渡り、燈籠堂を越えると、その奥は空海が眠る大師御廟です。森を背に、あたりの空気は凛と張り詰め、すぐ後ろにいる観光客の声もかき消されるほどです。聖地中の聖地である御廟に間近に寄れる寛大さに、誰とはなしに感謝していました。

高野山全体は、何かしらありがたい空気に包まれ、俗人の心も洗われるようです。無駄な殺生をしてはいけないと、虫を殺すのさえはばかられます。そんな雰囲気が、この霊山には立ち込めているのです。


参考文献:
新居祐政氏著「真言宗の常識」朱鷺書房、2001年


<和歌山名物>

和歌山名物といえば、梅ですね。なんでも、あの大きな梅は、南部(みなべ)の高校の先生が作り出した品種だとか。それまでは、中国から伝来し、紀州・田辺藩の頃に奨励された小ぶりの梅しか存在しなかったそうです。
昨年は申年でしたが、申の梅を食べると、長生きできるという言い伝えがあるそうです。中でも、昨年の甲申(きのえさる、Wood Monkey)の梅は、60年に一度という大変貴重な梅だそうです。今出回っている梅干は申の梅が多いので、がんばって食べましょう(梅酒でもいいのかも)。
梅は、中国でも体によいものとされています。西安郊外のレストランで、「喉にいいからお食べなさい」と、乾燥梅の袋を渡されました。ちょっと砂糖でコーティングしてありますが、甘酸っぱくて、日本人の口にもよく合います。「活梅肉」という名前が気に入って、西安でも上海でも、喉の痛み防止にぱくついていましたっけ。

あまり知られていないようですが、醤油と金山寺味噌も和歌山名物です。和歌山市の南、湯浅という町が日本の元祖となります。この小さな町は、熊野古道・紀伊路が縦断する歴史的な町で、時代劇の一こまのように、昔ながらの街並みが続きます。
13世紀の初め、和歌山県由良町のお坊さんが、留学先の南宋から金山寺味噌の製法を伝え、その製造過程で生まれたのが、たまり醤油だそうです。湯浅の水は醸造に適し、江戸時代には、92軒もの醤油屋さんがあったそうです。
金山寺味噌の老舗に立ち寄ってみると、店は開いているのに、誰もいません。仕方がないので、メモと650円を残し、パッケージをひとついただいて来ました。あとでまた寄ってみると、「ちょっとそこの道まで、おそうじに出ていたんですよ?」とのこと。
湯浅の金山寺味噌で作る「もろきゅう」はお勧めです。醤油の方は、アメリカに持ち帰るわけにはいかないので、試しておりません。残念しごくです。

いつ頃できたのかは知りませんが、うすかわ饅頭も名物のひとつのようです。紀伊半島の最南端、串本という町の海岸線に、橋杭岩(はしくいいわ)という奇岩が並びます。醜いあまのじゃくが、弘法大師に橋を架けることを許されますが、途中一番鳥が鳴いたので、未完に終わったという天然の架け橋です。これを望む一等地に饅頭屋さんがあって、ここのうすかわ饅頭が有名だそうです。白浜温泉から案内してくれたタクシーの運転手は、ここを通るときは必ず買うんだと言います。
筆者もホテルに持ち帰り食してみたのですが、甘味が上品におさえられていて、もっとたくさん買えばよかったと後悔しきり。串本出身のホテルの仲居さんによると、実は、あそこの支店よりも、商店街の本店の方が出来立てでおいしいとのこと。その場で、お抹茶と饅頭が楽しめるらしいです。
一方、饅頭が嫌いという方には、高野山の酒、般若湯(はんにゃとう)をお勧めします。日本三大漆器の里・黒江が生んだ、黒牛(くろうし)という地酒も捨てがたいです。いい酒は、魚がおいしい土地にはなくてはならないものです。
おいしいのは魚だけではなく、熊野牛もしかり。普段牛肉を口にしない筆者をうならせました。仲居さん曰く、この特別な牛は、熊野古道やそれに沿う国道311号線からは隠れた、どこか奥地で育てられているとか。

食べ物ではありませんが、読みにくい地名も立派な和歌山名物です。朝来と書いて「あっそ」、朝来帰と書いて「あさらぎ」と読むそうです。どちらも、南紀白浜の近くにあります。「朝に来て帰る」とは、いったいどんな由来なのでしょうか。
なんでも、地球旅行研究所のサイトによると、朝来帰は、改葬による両墓制で知られる場所だそうです(改葬とは、埋葬後数年で別の場所に埋めかえることで、もともと埋葬した地である「埋め墓」と、寺院内に移した「詣り墓」を両墓制と言うそうです。葬地の穢れを嫌うため、両墓制が成立したとも言われます)。けれども、改葬と地名が関係するかは不明です。
一方、和歌山らしく、「紀伊~」という冠がついた地名・駅名も多いです。少し長いし、勘違いし易くもありますが、美濃加茂しかり、大和郡山しかり、漢字で四文字の都市名は、歴史の重みを感じます(ちなみに郡上八幡は、郡上市八幡町だそうです)。
今の流行は、市町村の合併の後、ひらがなやカタカナで突拍子もない名前を付けるようですが、それでは地名の由来や土地の歴史が消え去ってしまうようで、寂しい限りです。今年11月、和歌山市東の5つの町が集まって「紀の川市」となる予定ですが、まあ、これは良しとしましょうか。


<熊野の信仰>

失礼ながら、だいたい何の教徒でもない筆者は、熊野信仰など意識下にもなく、今回、白浜温泉から駆け足で熊野三山を回った後も、正直なところ、印象は薄かったのです。
ところが、旅から戻って調べてみると、日本の信仰の歴史上、実に重要な位置を占めていたことがわかりました。熊野は、日本書紀にもイザナミノミコトが葬られた地として出てくるらしく、古代、大和の人間にとって、死者の国に近い土地だったそうです。三山には、もとは神々が祀られていたのですが、神仏混合や浄土信仰の隆盛で、本宮は阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、那智は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土と、現世にある浄土となったそうです。
熊野詣では、院政期の上皇や貴族の参詣に始まり、後に庶民にも大流行したのですが、大和地方に限らず、遠く奥州・平泉からも藤原家が詣でたようです。苦労して歩き、わざわざ神仏の前に出向くことに、ありがたみがあったわけです。

昨年、世界遺産に登録されたこともあり、今でこそ熊野古道は有名になりましたが、昔は、地元の人でも明確な場所を知らなかったそうです。人が通わなければ、道はすぐに自然に還ってしまうのです。1960年代、宮司を中心として保存の動きが出始め、今は大方の古道が復元されています。
筆者も、雲取越えの一部、那智大社に通じる大門坂を登りましたが、観光客用に整備された石畳の道でさえ、登るのは難儀でした。美しい杉並木の下を、ゆっくりと20分かけて歩きましたが、トントンと降りて来る観光客グループを横目に、何で登らなきゃならないのと、案内したタクシー運転手を逆恨みしていました。けれども、途中、世にも不思議な、玉虫色に輝く大ミミズを見つけ、元気を取り戻したのでした。


那智大社の境内には、樹齢800年の大楠があり、幹の空洞を通り、胎内くぐりができるようになっています。最初に木のお札に願い事を書き、それを持って胎内をくぐり、出た所でお札を奉納するようになっています。木の中に入ってみると、暖かく包まれ平和な気分になりました。病気平癒の霊力を持つ、ありがたい木と言われるそうです。

ご存じとは思いますが、サッカーの日本代表チームの胸にあるロゴは、三本足のカラスです。これは、熊野三山に伝わる神の使者「八咫烏(やたがらす)」なんです。また、熊野の険しい山々には、薬にも毒にもなる薬草が生い茂っているそうな。この辺りには、人を寄せ付けない厳しさと、何かしら背筋をゾクゾクさせるような魅力があるのです。


参考文献:
インターネットサイト「み熊野ねっと」。「熊野を歩く」JTBキャンブックス、1999年。細谷昌子氏著「熊野古道:みちくさひとりある記」新評社、2003年。「にっぽんの旅:南紀・伊勢・熊野古道」昭文社、2004年


<おまけのお話:アメリカの弔事>

先日、日本から戻ってすぐ、追悼式(memorial service)に参列しました。太極拳の師の母上が亡くなり、サンフランシスコの教会で親族や友人の集う会が催されたのです。長年アメリカに住んでいて、結婚式には参列したものの、別れの会に出たことはありませんでした。この初めての経験に、ちょっとびっくりして帰って来ました。なぜかと言うと、少し不謹慎に聞こえますが、何かしら楽しいイベントにでも参加したような、すがすがしい気分でその日一日を過ごせたからです。

こちらの告別式・追悼式は、一般的に、故人の生涯を祝うもの(celebration of life)とされ、死を悲しむだけの涙の儀式とは異なります。今回出席した追悼式も、式全体は教会の牧師が取り仕切るものの、進行役は、故人の甥で牧師である、コメディアンみたいな明るい男性が務めました。
彼が駄洒落まじりのお説教(Homily)で皆を笑わせ、場を和ませたあとは、親族全員で壇上のキャンドルに火をともします。そして、歌の得意な親族が「アメージング・グレイス」を歌ったあとは、集まった人が手を挙げて、発言する機会が与えられます。多くは、言いたいことを紙にまとめて来たようでした。故人は、人がどのように逝くべきかを身をもって示してくれたと回顧する友人もいました。
勿論、家族にとっては楽しい行事であるはずもありませんが、娘や息子全員がお母さんの短い思い出話をつづり、甥の牧師が披露してくれました。そんな断片から、列席者は故人がどんな人柄であったかを知ることができます。独立心や人への思いやりが強く、最後まで人に迷惑をかけることを心苦しく思っていた。反面、子供たちには厳しい母親で、ご飯を全部食べ終わるまで、決して許してもらえなかった(「中国には飢えている人がたくさんいるのよ」というのが口癖だったようです)など、家族が明かすほのぼのとしたエピソードが続きます。その中で、チベット仏教の修行をした師は、母に捧げるマントラ(真言)を唱えました。
続いて、甥の牧師がギターの弾き語りで賛美歌を歌い、教会の牧師が祝祷(Benediction)を行い、式が締めくくられました。終わってみると、30分の予定が、1時間を軽く越えていました。故人の遺志もあり、親族や列席者全員参加の、手作りの会という印象でした。

式に参列するにあたり、故人の息子である師に会ったら、何と言おうかとちょっと迷いました。けれども、先に電子メールでざっくばらんなお悔やみを申し上げているし、紋切り型のあいさつも嫌なので、礼拝堂の入り口に立ち列席者を迎える師に、"I’m so sorry"とささやき、短い抱擁を交わしただけでした。"Please accept my condolences"といった表現はありますが、そんなかしこまった間柄ではないし、第一、どこからか借りてきたような文句に聞こえます。大事なことは、自分の思ったことを自分なりに表現することかもしれません。
もうひとつ、何を着るべきかにも迷いました。けれども、喪服など持っていないし、黒っぽい、目立たない服なら何でもいいそうなので、単に黒い服を着ていきました。実際、列席者はいろんな装いで、黒、紺、白が目立つものの、中には茶色や紫のTシャツだとか、黒のドレスに赤い花柄のショールだとか、格別強いこだわりはないようでした。自分が良しとすれば、何でもいいようです。

新聞の身の上相談を読んでいて、こんなものがありました。同僚が母君をがんで失くし、"花などはいらないから、がん協会に寄付をしてください"という故人の遺志を知る前に、花を送ってしまった。花を送るとき、遺族からは、故人の息子が親族の晩餐を計画しているので、デザートでも送ったらいかがですかと言われてしまった。何がいったい正しいの?というものです。
これに対する答えはこうでした。亡くなった人たちに敬意を表するのは、彼らがまだ生きているときです。葬式や儀礼は、遺族を慰めるためのものなのです。


夏来 潤(なつき じゅん)

 

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