パリの日本人: 洋画家の吉岡耕二先生

2011年5月31日

Vol. 142

パリの日本人: 洋画家の吉岡耕二先生


 風薫る5月。雨季も終わりつつあるシリコンバレーでは、緑生き生きと、まぶしい季節になりました。

 東京辺りでは、そろそろ梅雨に入ったとも聞きますが、今月は、ゴールデンウィークを過ごした日本での出会いをお話しいたしましょう。


<パリを目指した若人>

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 近頃は、季節の良いゴールデンウィークを日本で過ごすのが半ば習慣ともなっているのですが、今年は東日本大震災の直後でもあり、特別な意図がありました。他でもない、「日本経済に貢献しよう!」というもの。

 そんな高尚な目的があったので、両親と温泉旅行にも出かけたし、うんとお買い物もいたしました。やはり、消費者が買い控えると、世の中のお金がうまくまわらなくなるので、この際、日本国のためにと、思い切って使ってみたのでした(まあ、支払いの時期になると、ある種の寂寥(せいきりょう)を覚えますが・・・)。

 というわけで、楽しいゴールデンウィークではありましたが、日本に戻ると、いつも感心することがあるのです。それは、「日本には、おもしろい人が多いなぁ」ということです。
 なんとなく、表面的には「普通の日本人」に見えても、話し始めるとユニークで「味わい深い」方が多いなと感じるのです。

 今回も、そんなユニークな方にお会いしました。銀座の本屋さんで出会った画家の先生です。
 

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 銀座の大通りに教文館という本屋さんがあって、ここではよく絵画の催し物が開かれます。ゴールデンウィーク中にも、故・東山魁夷画伯や故・平山郁夫画伯といった日本画の大家の版画展が開かれていました。
 会場の奥には、鮮やかな色彩の油絵の数々も展示されていて、そこにいらっしゃったのが、洋画家の吉岡耕二(よしおか・こうじ)先生でした。

 正直に申し上げると、この方のことは今まで存じ上げませんでした。けれども、説明員の方が、フランスで認められた画家の先生だとおっしゃるので、いったいいつ頃からフランスに? と問うと、「そこにご本人がいらっしゃるので、直接聞いてみてください」と、半ばシルバーグレーの髪の紳士を指差すのです。
 そこから、吉岡先生との会話が始まったのですが、芸術家らしい寡黙なイメージとは裏腹に、先生が饒舌(じょうぜつ)であることに驚いたのでした。
 

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 なんでも、吉岡先生がフランスに渡ったのは、23歳の頃。ほんとはもっと早く行きたかったのだけれど、当時は渡航費用がべらぼうに高いとき。フランスに行こうとすると、飛行機代だけで54万円もかかったんだそうです。初任給が1万円の頃ですから、外国に行くなんて贅沢な時代だったのです。
 それで、3年間働いて100万円を貯めて、横浜港からフランス郵船の「ヴェトナム号」という船に乗り込みました。1967年のことでした。

 当時、フランス郵船は、貨物船の「ヴェトナム号」、客船の「カンボジア号」、豪華客船の「ラオス号」と、3隻の船でアジアとヨーロッパを結んでいました。ヴェトナム、カンボジア、ラオスはフランスの植民地だった歴史があるので、それが船の名に使われていたのです。
 ヴェトナム号は貨物船ですから、横浜を出港したあと、マニラ、香港、サイゴン(現ホーチミンシティー)、シンガポールと、寄港した先で荷物の積み降ろし作業があります。そのため、横浜からフランスのマルセーユまで客船で1ヶ月のところが、1ヶ月半もかかりました。
 けれども、先生は米、みそ、インスタントラーメンと、250キロの荷物を携えていたので、貨物船は最適な交通手段だったことでしょう。

 貨物船での渡航というのは、当時は決して珍しいことではなかったようで、1958年、スクーターとギターを持ってマルセーユにたどり着いた、指揮者の小沢征爾氏の例もあります。小沢氏は、南のマルセーユから北のパリまで、実に800キロの距離をスクーターで移動なさったそうです。
 1962年、ヨットのマーメイド号で西宮からサンフランシスコへとひとりで渡った、冒険家の堀江謙一氏の例もあります。堀江氏の単独航海は太平洋の両サイドで大センセーションを巻き起こし、「海」「渡航」「冒険」といった言葉は、海外に可能性を求める若人たちのキーワードとなったのです。

 外国で干あがらないようにと、食料をたんまりと携えた吉岡先生でしたが、この大きな荷物に加えて、懐には外貨が1000ドル。これがフランスに渡る全財産でした。その頃は1ドルが360円で、日本人にとっては外貨取得すら難しい時代でした。
 

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 それで、どうしてそうまでして先生がフランスに渡りたかったかというと、「色」の勉強をしたかったからなのです。
 日本に油絵の絵具が入ってきたのは、明治になってから。最初の頃は、新しい媒体に戸惑い、油絵具が日本画風に使われていたのでした。そんな伝統を受け継いでいては、油絵本来の魅力は引き出せないのではないか。
 洋画家の中でも、とくにフランスのマチスやボナールといった鮮やかな色彩の画家に感銘を覚えたので、色あせた印刷物などではなく、現地で本物に触れながら勉強したい、そんな意志が先生をフランスへと駆り立てたのでしょう。
 

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 ようやくたどり着いたフランスでは、「花の都パリ」にあるパリ国立高等美術学校で学びます。きっと個性豊かな才能は、入学後すぐに教授陣からも認められたことでしょう。在学中に、名だたる展覧会サロン・ドートンヌ(Salon d'automne)に出品するのです。
 一年目は、いきなり「会員候補」に推挙されました。会場に足を運ぶと、自分の作品の脇に青いタグが貼ってあるので、あれは何だろうかと思っていると、「あれは、会員候補に挙がったという印なんだよ」と誰かが教えてくれました。
 翌年は、候補に挙がったあと、メンバーの投票で会員に選ばれました。サロン・ドートンヌは、20世紀初頭にマチス、ボナール、ルオーなどが設立した由緒ある展覧会です。会員に選ばれるということは、芸術の都パリで活躍する画家にとって名誉なことなのです。

 ここで先生がおっしゃるには、フランスと日本では画壇の制度が違うということです。フランスの展覧会では、出品した一点のみで審査されます。その一点の絵が良いのか、悪いのかで判断され、年齢や国籍、出身学校や出展経験と、その他のことはまったく関係がありません。
 一方、日本の場合は、多くの画家が何かしらの「会派」に所属し、その会派のやり方で絵を描くようになります。展覧会に出品しても、入賞は会派の弟子たちに割り振られるような部分があります。
 会派に属して、その伝統に染まるということは、独創性の芽を自分で摘んでいることになるのではないかと、先生はおっしゃいます。若い人たちは、計り知れない可能性を秘めている。なにも、若いうちから会派のやり方に染まりきって、あたら自身の可能性を狭めることはないのではないかと。

 そんな「組織」や「伝統」が物を言う日本ではありますが、良きにつけ、悪しきにつけ、昔は個性の強い日本人が多かった、ともおっしゃいます。
 たとえば、ヨーロッパで麻薬の運び屋をやっていたヤツ。トラックの荷台の溶接をひっぱがし、その下にブツを隠して運んでいたそうですが、年に2回運び屋をやるだけで一年分の収入を稼ぎ出すという、悠々自適の生活だったとか。

 そして、ヴェトナム号の長い航行で知り合った二人、TさんとKさん。彼らは、韓国人が経営するパリの日本食レストラン「ニュートーキョー」で働くことが決まり、採用を約束する手紙までもらっていたのですが、行ってみると「そんな約束をした覚えはない」とつっぱねられ、渡仏直後に失業の憂き目を見るのです。
 そんな二人は、事もあろうに、「よし、外人部隊に入ろうじゃないか!」と、フランス外国人部隊に入隊するのです。フランス陸軍に所属し、外国人志願兵で組織される軍隊です。なんでも、ヴェトナム号に乗船していた人に「外人部隊は、給料はいいし、待遇はいいし」とホラをふかれ、それを鵜呑みにして入隊したんだとか。

 ところが、外人部隊はアフリカ北部のアルジェリアで誕生した歴史もあって、訓練はアフリカの砂漠で行われます。温和な日本の気候に慣れた人間が、いきなり砂漠の激務に耐えられるわけはありません。とくに、Tさんはヒョロリとした体形ですので、戦闘訓練はこたえたのでしょう。そんなわけで、二人は数ヶ月で脱走を企てるのです。
 どこからともなく駐屯地周辺の地図を手に入れた二人は、20キロの地点に井戸があることを知ります。そこで、夜こっそりと抜け出した二人はこの井戸を目指すのですが、行ってみると、すっかり水が涸れているではありませんか!
 さらに20キロ先にも井戸はあるのですが、先を目指す元気もなく、二人はすごすごと駐屯地に戻ったのでした。だって、次の井戸が涸れていたら、それこそ死活問題ですから。
 脱走に失敗した二人は、一週間牢屋に入れられるのですが、その後は耐えしのぎ、3年にわたる任務をまっとうしたということです。(砂漠周辺の地図が存在したということは、それほど脱走者が多かったという証拠かもしれませんね。)
 

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 TさんもKさんも、今は立派な紳士になっていることと思いますが、紳士といえば、吉岡先生も「クール」な面をお持ちなのです。
 それは、夜ジャズを聴きながら、ウイスキーを片手に絵を描くという、まさに絵に描いたような紳士ぶり。とくにジャズはお好きということで、上海の外灘(がいたん)を描いた油絵は、古き良き上海のジャズバンドに敬意を表してLPジャケットの真四角の形をしています。
 その枠いっぱいに広がる空は、明るい黄色。外灘の歴史ある建物を包みこむ空は、先生にとって、黄色のイメージだそうです。
 

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 そして、エーゲ海に浮かぶギリシャのミコノス島。風車を抱く大地に、海から空へと、一面のピンクです。ミコノスを訪れたことのある者からすると、かの地のイメージは白とブルー。家々の壁の白に鎧戸のブルー、海のブルー。それが、素人が選ぶ色彩なのです。
 けれども、先生のイメージは落ち着いたピンク。ミコノス名物の風も凪ぎ、穏やかなエーゲ海に沈む太陽が、やわらかいピンクという色調を生み出したのでしょうか。

 

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「色」を学びにフランスに渡ったという先生のお話は、ふとフランスの印象派画家クロード・モネに重なったのでした。それは、モネが「光」を追い求める画家だったから。
 刻一刻と光の具合は変わり、それによって景色も姿を留めない。日が翳ったグレーの色調は、雲が晴れれば途端に彩りを取り戻す。
 その刹那を求めて風景を描き続けたモネは、こう悟るのです。「風景画なんてものは存在しない」「キャンバスにとらえられるのは一瞬のみである」と。
 先生がキャンバスに描かれているのも、格別だと感じられた瞬間なのでしょう。そして、そこには、「ミコノス島は白とブルー」なんて常識は入り込む隙もないのです。(写真は、作品『リスボン』の絵はがきと直筆のサイン)
 

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 フランスで14年を過ごされた先生は、1981年、日本に戻って来られます。帰国の理由は「母親が80歳になったら帰国すると決めていたから」だそうです。
 お母さまは96歳で他界されたそうなので、「あとから考えると、もうちょっとフランスにいても良かったかもしれない」と笑っていらっしゃいました。

 若くして海外を目指した方にしては、実に日本的な帰国の理由ではありますが、これが意外にも、外国で成功する秘訣なのかもしれません。そう、日本人であることを忘れないことが。なぜなら、祖国とは、自分を培った根っこなのですから。
 外国で長く暮らし、良いものを学び、大きく花開いたにしても、そのことで根っこを捨て去る必要などないのです。いえ、逆に、捨て去ってはいけないのでしょう。根っこを捨て去るのは、自分を見失ってしまうのと同じだから。
 異文化に触れ、「お前は何者であるか?」と問われたとき、「わたしはこういう者である」と胸を張って主張できるのは、自分を育てた根っこを大切にしているからこそ。

 「己を知る」のは難しいことではありますが、異文化に触れて初めて見えてくるものもあるのでしょう。吉岡先生とのお話が楽しかったのは、先生の冒険と自分の経験に重なる部分があったからなのかもしれません。


後記: 展覧会には他のお客さんもやって来るし、先生を独り占めしてはいけないと、歓談のひとときは30分ほどで終わってしまいました。もっとお話ししていたかったというのが、正直な感想です。
 行き当たりばったりでメモも取っていませんでしたので、貴重なお話が記憶のかなたに消えていった部分もあります。もし事実関係に間違いがありましたら、それはすべて筆者自身が責任を負うものです。あしからず。


夏来 潤(なつき じゅん)

 

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