ゴールデンウィークの旅路:やっぱり、北海道は大きいね!

2008年5月30日

Vol.106

ゴールデンウィークの旅路:やっぱり、北海道は大きいね!

 
 いつの間にか、5月も過ぎ去る頃になり、時の経つのは早いものだと痛感しています。シリコンバレーでは、いきなり摂氏40度に達するかのような暑い日々が続いたと思えば、その次の週には、雨季の戻りのような肌寒さが続いたりしています。ここまで天気が不安定だったことは、過去にはあまりないと記憶しているのですが、やはりこれは地球温暖化の一種なのだろうかと、多少の不安も感じています。

 さて、そんな今月は、ゴールデンウィーク中に旅行した北海道のお話にいたしましょう。旅行のお話といっても、いつもの通り「普通の旅行記」とは程遠いものではありますが、わたしにとって印象深いエピソードをいくつかご紹介いたしましょう。
 

<北の大地>
 この北海道の旅は、彼の地への12回目の旅となりました。生まれ故郷と東京を除き、最も頻繁に足を運んでいる場所となります。北海道出身者を連れ合いに持つと、半ば故郷ともなってくるのでしょうか。
 今回は、北海道は初めてという両親の記念旅行を兼ねていたのですが、わたし自身は四季を通して様々な名所を経験しているので、果たして行く先々で再度感動することができるのかと、それが少々気がかりな旅ではありました。

 けれども、そんなことは杞憂でしかありません。飛行機が新千歳空港に降り立つとき、見渡す限り広がる木々の群れに、「北の大地」という重い響きを思い浮かべます。いったい誰が言い始めたのかはわかりませんが、この言葉は、北海道を実にうまく表現したものだと感じます。
 そして、空港という都会との接点を後にして、いよいよ大地の上を駆け巡るとき、白い木々の上にチラチラと輝く新緑や、新緑を背景に山桜の淡いピンクや針葉樹の力強い緑が混じる景色に、言葉も無く見とれるのです。北海道の風景に飽きるということは決してありません。

 ここには、「大地」を感じ得る場所はたくさんあります。穀倉地帯として名高い十勝平野や、どこまでも広がる道東の釧路湿原は、訪れる者に自然の雄大さを教えてくれます。

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  ラベンダーで有名な富良野や、その少し南に位置する美瑛(びえい)の丘陵は、北海道を初めて訪れる人々に最も好まれる場所かもしれません。この辺りをドライブすれば、まさにヨーロッパの田園風景と見まがうばかりの美しい景色の連続となり、「いったい、これが日本なのか?」と、誰もがため息をつくことでしょう。

 

 けれども、わたしにとって一番印象的な「大地」は、ニセコの周辺かもしれません。

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 蝦夷富士(えぞふじ)とも呼ばれる均整のとれた羊蹄山(ようていざん)と、尻別川を隔てて対峙する主峰ニセコアンヌプリを始めとする山々に囲まれたニセコの地は、冬場はスキー客でたいそう賑わいますが、雪に閉ざされた長い冬が終わり、緑が一斉に芽吹き始める季節も、実に美しい所なのです。函館から小樽に向かう函館本線が、山を縫うようにこの辺りを通っているので、きっと古くから開けていた土地なのでしょう。 

 そして、このニセコの地に、かつて有島農場という農園がありました。明治31年(1898年)、後に文豪と呼ばれる有島武郎(ありしまたけお)の父が取得した農地です。

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 武郎の父武は、明治の藩閥政府の高級官吏で、大蔵省勤務の後、横浜税関長も務めるようなエリート役人でした。その父が、自分に万が一の事があっても家族が路頭に迷うことのないようにと手に入れたのが、狩太村(現ニセコ町)の農園でした。440ヘクタールを越える、広大な農地です。もちろん、有島家の人々が農業に従事するわけではなく、小作人たちが畑を耕すのです。
 大正5年(1916年)父が他界し、いよいよ長男である武郎に農場が譲られることになると、彼は大いに悩み始めます。このまま自分は、「搾取」で成り立つ地主と小作人という理不尽な関係を続けていいのかと。
 その頃、母校である札幌農学校(当時は東北帝国大学農科大学と改称)の教官を辞し、本格的な作家生活に入っていた武郎は、数年間思い悩んだ末、前代未聞のことをやってのけます。「農地解放」を宣言し、小作人全員が共有する形で有島農場をすべて無償解放したのです。そして、その翌年、自ら命を絶ってしまうのです。

 

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 そんなある意味型破りな有島武郎の生涯を記念し、ニセコ町の有島農園跡には、有島記念館が建っています。羊蹄山とニセコアンヌプリふたつの名峰を望む、立派な記念館となっています。
 そして、この記念館を訪れるとき、今まで有島文学にはまったく無縁だった人も、いったいどんな人物だったのだろうかと思いを馳せるのです。

 

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 東京の裕福な家庭に生まれた武郎は、幼少の頃を東京と横浜で過ごしました。学習院に入学した頃は、当時の皇太子(後の大正天皇)のご学友にも選ばれ、土曜日ごとに吹上御所に参上していたそうです(写真は、東京・麹町区下六番町、現・千代田区六番町にある旧有島邸付近。右側が有島邸跡で、道を隔てて左側は文豪・泉鏡花旧居跡)。

 しかし、どちらかというと病弱な体質であったらしく、学習院中等科を卒業すると、東京での生活を避け、札幌農学校に編入します。ここに、武郎の北海道との深い結びつきが始まります。
 この農学校時代からキリスト教や西洋文学に親しみ、間もなく、アメリカへの留学も果たします。4年間に渡る欧米留学中、経済、歴史、労働問題を専攻する一方、ノルウェーの劇作家イプセンや、農奴解放を唱えたロシアの文学者トルストイとツルゲーネフ、そしてトルストイの影響を受けた思想家クロポトキン等の作品をも読みふけり、自分は百姓になるのか、教育者になるのか、それとも文学者になるのかと、大いに悩んだといいます。武郎が20代後半の頃でした。

 その後、農学校の教官と作家という二足わらじをはくことになるわけですが、38歳で本格的な作家生活に入った翌々年、旺盛な創作の日々を送る武郎が発表した中に、「生まれ出づる悩み」という短編があります。文庫本80ページほどの短い作品ですが、これが作家有島武郎の代表作のひとつともされています。
 そして、この作品を読むとき、いまだ身分階級制度が脈々と生き残る時代に、あえて時代の流れに逆行してまで、生活にあえぐ小作人たちに自分の農場を解放した訳がわかるような気がするのです。
 

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 この「生まれ出づる悩み」の主人公は、小作人ではなく、積丹(しゃこたん)半島・岩内から船を出す漁師です。積丹の漁村は、かつては鰊(にしん)で大いに栄えたのですが、その頃はだんだんと鰊も獲れなくなり、スケソウから鱈(たら)、鱈から鰊、鰊からイカと、漁師たちは四季を通じて厳しい漁の生活を強いられていました。
 少年時代、「私」を訪ねて来たこともある主人公・木本は、抜きん出た絵の才能を持ち合わせ、将来は画家になりたいとの夢を持っていました。しかし、東京での学生生活を途中で打ち切り、故郷の岩内に戻って漁師となるのです。もう鰊が獲れないとなると、父と兄を助け、自分も船に乗らなければならないからです。
 あの少年はいったいどうしただろうと思いを巡らしながら、10年目に漁師となった木本が訪ねて来て、「私」はようやく彼の生活を把握するに至ります。そして、世の不条理にさいなまれるのです。あれだけ絵の才能があり、片時も絵のことが頭を離れないくらいに自然に対する洞察力と審美眼を持ちながら、どうして彼は絵描きにはなれないのかと。世の中には、何の苦労もせず、好き勝手に生きている人間もいるというのに、彼は単に生きるために、遭難の憂き目を見ながらも、海と戦い、生活の糧である漁を続けなくてはならないのだと。

 この短編を読むとき、もしかしたら、こんな武郎の熱い思いが「農場解放」に結び付いたのではないかと感じるのです。そして、その熱い思いは確固たる理想と昇華し、彼が農場解放の記念碑に刻もうと書き記した案文の中にも、如実に表れているのです。
 

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  「この土地を諸君の頭数に分割してお譲りするといふ意味ではありません。諸君が合同してこの土地全体を共有するやうにお願ひするのです。誰れでも少し物を考へる力のある人ならすぐ分かることだと思ひますが、生産の大本となる自然物即ち空気、水、土地の如き類のものは、人間全体で使ふべきもので、或いはその使用の結果が人間全体の役に立つやう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によって私有さるべきものではありません。(後略)」(写真は、ニセコ町の有島記念館に展示される農場解放記念碑案文)


 今回の旅では、15年ぶりに有島記念館を訪ねてみました。豊かな自然に囲まれ、外見的には何も変わらないような平和なたたずまいの中にも、新しい事実を発見することができました。
 一般的に、武郎の死は、人妻である『婦人公論』記者の波多野秋子との恋に身を焦がし、軽井沢の別荘での心中に至った「情死」と言われていますが、最近の研究で、そればかりではなかったのではないかという疑問が出てきたようです。

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 当然の事ながら、「農場解放」は当時の体制を揺るがす大事件。だから、お上や特高(思想犯を取り締まる特別高等警察)や現地の警察には大いに睨まれていた。そんなとき、有島農場の灌漑工事を理由に、武郎の片腕として農場を取り仕切っていたリーダー格の男性が、公金横領の罪で捕まり、裁判にかけられる。そして、法廷で有罪判決が下り、男性の服役が決定した一週間後、武郎は軽井沢に出向き、命を絶ったのです。

 いずれにしても、武郎の死の真相は永遠に謎に包まれたままでしょうが、終始彼が悩み多き人生を歩んでいたことだけは確かなようです。

 それから、先にご紹介した短編「生まれ出づる悩み」には、実在のモデルがいらっしゃるのですね。木田金次郎という、積丹半島・岩内町出身の漁民画家です。恩人とも言える武郎が亡くなった翌年、金次郎は画家に専念する決意を固めたそうですが、故郷の岩内には、彼の作品と生涯を紹介する木田金次郎美術館が建っています。
 ごく新しい美術館のようで、旅から戻るまでその存在を知らなかったのですが、積丹半島の西の玄関である岩内町を訪ねるときには、ぜひ足を伸ばしてみようと思います。近くには義経伝説も残る奇岩の海岸線が連なり、きっと風光明媚な土地なのだろうと、旅のリストに載せてみました。
 

追記: 「生まれ出づる悩み」を収録する『小さき者へ・生まれ出づる悩み』は、新潮文庫のものを利用し、有島武郎の生涯については、巻末にある編集部作成の年譜を参考にさせていただきました。現在、書店では、岩波文庫(緑の帯)の同タイトルの方がお求め易いかもしれません。
 主人公の木本が海で遭難しかかる場面などは実にうまく書けていて、失礼な言い方ですが、それを読むだけでも充分に価値のある作品かもしれません。この場面を読みながら、エドガー・アラン・ポーの短編「メールストロムの旋渦」(新潮文庫『黒猫・黄金虫』所収)を思い浮かべていたのですが、いずれの作品も「作者の体験記か?」と疑いたくなるほど、筆の力量を感ずるものなのです。だから自分は小説家にはなれないのだと、快く思い知らされたことでした。



<アイヌを感じる>
 いえ、残念ながら、アイヌの血を引く方にお会いしたわけではありません。けれども、今回の旅では、アイヌ文化を身近に感じることがあったのです。

 旅の二泊目は、小樽でした。石狩湾に面し、海産物で有名な地ということで、その晩は、ホテルに鮨屋さんを紹介してもらいました。
 観光名所の運河近くの鮨屋さんの扉をくぐると、何やら、ニラ臭い匂いが立ち込めています。「これは、ほんとに鮨屋なの?」と後悔が頭をかすめたものの、これから外に出るわけにもいかず、仕方なくカウンターに腰掛けます。
 間もなく、先客も一気に立ち上がり、狭い店内には、カウンターの隅に陣取る紳士と私たちだけになりました。すると、それまで忙しくしていたマスターは、遠来の客である私たちに、地元北海道で獲れた海の幸を次々と自慢げに披露してくれます。イカソーメンにウニ、イクラ、苫小牧のホッキ貝と、北の海ならではのレパートリーです。 

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 そろそろ満腹になった頃、マスターが「これだけは食べて行ってね」と、一押しの隠しメニューを差し出します。巻物になったその中身は、鉄火巻きのマグロでも、かっぱ巻きのキュウリでもありません。緑色のその野菜は、ずばり、店内に充満するニラ臭さの張本人!
 いえ、そんじょそこらのニラではありません。その名を「ギョウジャニンニク」と申します。北海道では「キトピロ」とか「アイヌネギ」などとも呼ばれている、ネギ科の多年生の高山植物です。外見はスズランの葉っぱに似ていて、アイヌ民族の間では、料理に使われていただけではなく、薬としても珍重されていたそうです(抗菌作用や血圧安定の効果があるようです)。

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「プクサ」という名で呼ばれ、アイヌ文化にはとても重要な植物だったので、古来、衣服の文様にも使われていました。よく目にする「網の目」みたいな文様、これがプクサを表します。「悪いものを追い払い、健康でいられますように」、そんな願いを込めて、襟の部分にプクサ文様を愛用したと言われています(写真では、左の脚絆がプクサ文様の変形かと思われます)。 

 この霊験あらたかなギョウジャニンニク、鮨屋のマスターは、軽くゆがいて醤油漬けにしていたようですが、とにかく、体にいいらしいです。2週間ほど食べ続けると、血がサラサラになるのだとか。今話題の「メタボ対策」には、まさに持って来いの食材なんですね。
 けれども、ここで注意しなければならないことは、食べた後の臭いが強烈なので、決してひとりでは食べないこと。そう、みんなで食べれば恐くない。そんな食べ物なのです。

 臭いの正体はつきとめたものの、どうしてそこまで鮨屋の店内に「キトピロ臭」がこもっていたかと言うと、これまた訳がありました。実は、マスターの奥方が台湾出身の方で、彼女が店の奥で「キトピロ入り餃子」をこしらえていたのです。まかない用として作っていた餃子ですが、台湾の話で盛り上がった後、気を良くした奥方が、わざわざ水餃子にして出してくれました。さすが、本場物の餃子のおいしいこと!もちろん、皮から手作りです。
 この愛想のいい奥方、なんでも、台湾のある村の村長さんの娘さんで、結婚式は大変だったんだとか。何百人という村人が集り、皆が祝いの酒を注ぎに来るので、花婿であるマスターは、何杯目か以降はまったく記憶なし。「なんとも、ふがいない花婿じゃ」と村長さんに呆れられたかどうかは知りませんが、東京で修行し、アムステルダムでも鮨を握っていたという、コスモポリタンなマスターならではのお話でございました。


追記:
 ちなみに、キトピロの臭いは、歯を磨いても取れません。翌朝、口の中に残る強烈な臭いは、めでたく牛乳で解消いたしました。 

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 それから蛇足ですが、小樽という街は、昔は札幌よりも都会だったんですよ。明治期に北の玄関口として急激に発展した小樽は、大正期にかけて、札幌などの近隣の街々を大きくしのいでおりました。北前船と鰊。それが小樽の繁栄のラッキーカードです。そうそう、有名な「ソーラン節」というのは、沖で鰊を引き上げるときの沖揚げ音頭だそうです。

 今は観光名所となっている小樽運河は、華やかかりし頃の荷役作業の名残ですが、現在の運河は、半分埋め立てられ整備された形になっています。「だって、あんなに運河が小さかったら、船が通れるわけないっしょ!」とは、鮨屋のマスターのお言葉でした。



<北海道弁>

 もうすぐ北海道に行くんだよという話をすると、シリコンバレーでお世話になっている鍼の先生が、こんなことを言っていました。母国の中国では、ハルビン辺りの言葉が、一番標準の中国語とされているのだけれど、日本では、北海道の言葉が一番標準に近いのでしょうと。
 彼女は秋田で暮らしていた経験もあり、かなりの日本通。日本語だって上手です。それに、確かにアメリカでも、ハルビンや北海道のように、雪の多いコロラド辺りが標準米語を話す地域だともされています。でも、それにしたって、北海道って訛りがあるでしょ!

 そう思って、我が家を訪れた札幌出身者に聞いてみると、彼も「それは疑わしい」と同意してくれたのでした。彼曰く、「実は僕も、本州に行くまでは自分の言葉は標準語だと信じ切っていたんですけど、あるときそれが思い違いだとわかりました」と。
 彼の体験はこうでした。雪でぬかるんだ道を誰かと歩いていたとき、つい「つっぱね上がるよねぇ」と言ってしまったのです。相手が「え~ 何?」と怪訝な顔をしたので、「あぁ、これは北海道弁だったんだ」と瞬時に理解し、それ以降、彼は自分の認識を改めたそうです。ちなみに、「つっぱね」とは、歩くとぴちゃぴちゃとズボンに跳ね上がる「泥はね」のことだそうです。

 すると、それを聞いていた北海道出身の連れ合いが、さっそく話に参加してきました。僕も東京に行ってみて初めて、自分の言葉が必ずしも標準語でないことを認識したと。
 彼の場合、再認識のきっかけは「ばくる」でした。「ばくる」とは「交換する」という意味ですが、東京の後楽園でチケットを交換して欲しいと思い、「ばくってください」と願い出たのです。当然、相手は、「はあ?」という表情をしたので、そこで素早く状況を判断したのでした。
 ちなみに、聞くところによると、「ばくる」の「ば」は馬のことだそうで、馬子が宿場で疲れた馬を交換するところから来ているのだそうです。

 そうそう、北海道弁で有名なところでは、「なまら」がありますね。「とっても」という意味ですが、たとえば「しばれるねぇ、なまら寒いんでないかい」などと使います。ついでに、「冷たい」ことは、「しゃっこい」とか「ひゃっこい」と言います。
 それから、「なげる」というのは、「投げる」こととは限りません。「捨てる」という意味があります。初めて北海道に行ったとき、白鳥たちを見学しようと、千歳空港の南にあるウトナイ湖に立ち寄ったのですが、ここのトイレにこんな張り紙がしてありました。「トイレにゴミをなげないでください」と。

 ちょっと不思議な響きの中に、「じょっぴん」というのがあります。じょっぴんとは鍵のことだそうですが、もしかしたら昔の錠前から来ているのかもしれませんね。錠前を開閉するとき、ピンと音がしたとか。「じょっぴんかったかい?」とは、すなわち「鍵は掛けたかい?」ということです。
 同じく、外国語のような響きに「ほいどたける」というのがあります。「卑(いや)しい」という意味だそうです。「ほいど」というのは、俗に言う「物乞い」のことだそうで、「たける」という部分は、長ける(盛んになる)から来ているのでしょうか。

 「はんかくさい」とか、「あずましくない」という言葉は、北海道弁中級レベルかもしれませんね。なんとなく聞いたことのあるような言葉でしょう。
 「はんかくさい」は「バカみたい」とか「恥ずかしい」という意味で、「あずましくない」は「落ち着かない」ことだそうです。子供がバタバタと部屋の中を走り回っていると、「あ~、あずましくない」と、大人たちから注意されるのです。一方、「はんかくさい」の「はんか」という部分は、「おバカ」といった意味合いでもあるのでしょうか?

 開拓時代、北海道には日本全国から人々が集って来た影響で、言葉もいろんな地域の方言が混ざっているようです。連れ合いのお母さんの言葉には、ちょっとした東北弁の響きに、どことなく九州弁が混じっているようにも感じます。たとえば、「田中さん方ば訪ねる」といった言い方をするのです。「~を」というところを「~ば」と言うのは、広く九州地方で使われている助詞ではないでしょうか。
 そういえば、幼少のみぎり、北海道を転々としていた連れ合いは、あるとき函館に転校して愕然としたそうです。え、あんなにかわいい子が、「~だべ」なんて言ってるよと。
 北海道の南端に位置する函館は、津軽海峡を隔てて青森に面しているので、津軽弁の影響が色濃く残るようです。語尾に「~だべ」「~べさ」「~んだっぺ」を使うばかりではなく、「んだ、んだ」という返事をしたりするそうです。
 函館をこよなく愛し、この地をどうしても離れたくなかった連れ合いは、その後、道東の釧路に引越し、言葉の面でも苦労することとなりました。

 けれども、今となっては、テレビなんかの影響で、正調北海道弁をしゃべる人は少なくなってきているのでしょう。それも寂しいことではありますよね。方言とは、現地独特の文化や歴史を如実に表すもの。「かっこ悪い」などと、簡単に捨て去るべきものではないという気もするのですが。

 釧路を後にして、日本各地から学生の集う大学に進んだ連れ合いは、工学部の実験室で、こんな会話を耳にしたことがあるそうです。
 学生A「よかんべか?(準備はいい?)」
 学生B「よかたい!(OKさ)」

 なんとも、コスモポリタンな会話ではありませんか!



後記: やはり、思った通り、まったく旅行記の体をなしておりませんでしたが、一応、今回の旅の順路は、新千歳空港から洞爺湖へ、ニセコ・余市経由で小樽へ、グイッと足を伸ばして大雪山系の黒岳・層雲峡へ、そして富良野・美瑛経由で札幌へと、北海道の西側をカバーしたものでした。
 久しぶりの日本のドライブで、最初のうちは車道の左側を通るのが非常に恐ろしかったのですけれど、洞爺湖では、夏に開かれるサミットのお歴々の先を越して、湖面を見下ろすホテルに泊まってみましたし、層雲峡温泉では、部屋付きの温泉風呂から黒岳を仰ぎ見るという贅沢を味わったりもしました。
 次回は、知床半島や釧路湿原、摩周湖や屈斜路湖と、道東の雄大な自然を両親にも味わってもらいたいと思っています。


夏来 潤(なつき じゅん)

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