味覚の世界:スコヴィルとワイン

2005年9月28日

Vol.74
 

味覚の世界:スコヴィルとワイン


 9月7日、待望のApple Computerの新製品、iPod nano(2GB、4GBモデル)が発表されました。日本でも同時リリースされ話題となっていますが、かの有名なデジタル音楽プレーヤiPodの超小型版です。フラッシュメモリー採用で小型化を実現しているのですが、さっそく遊びに行ったアップルショップで実物を見てびっくり。テレビの宣伝で見るよりも、更に薄くて小さいのです。テレビに映るとiPodちゃんも太って見えるのねと、妙に納得。
 カラー画面も美しく、恋人や家族の写真を持ち歩くにも最適ですが、残念ながら、4GBモデルは初日で売り切れてしまったようです。そしてその夜、"iPodのなる木"が夢に出てきたのでした。

 iPodちゃんはさて置いて、今回は、まず先月号の補足から始めます。そして、その後ふたつは、味覚に関する話題にいたしましょう。今月も、最後にちょっとシリアスなおまけの話が付いています。


<ハイブリッド・フィーバー>

 まず、先月号に関して、補足説明です。先月アメリカのハイブリッド車事情をお伝えしたとき、今年4月に米国市場で販売開始となった高級ハイブリッドSUV、レクサスRX400hを挙げました。これは、日本市場では、トヨタ「ハリアー・ハイブリッド」と呼ばれるものです(SUVは、スポーツタイプ多目的車とも呼ばれ、多くは四輪駆動の大型車)。
  8月末、日本でもトヨタのレクサスブランドが立ち上がりましたが、筆者はRX400hもレクサスとして発売されたものと勘違いしておりました。実際の日本での販売は、旧アリストのGS、旧アルテッツァのIS、旧ソアラのSCシリーズのみです。説明不足となり、申し訳ありませんでした。
 ちなみに、元サンフランシスコ市長で現連邦上院議員のダイアン・ファインスタイン氏は、さっそくダイムラー・クライスラーのJeepからRX400hに買い換えたそうです。

 ついでと言っては何ですが、ハイブリッド車ブームのお話をもう少し追加いたしましょう。カリフォルニアの環境保護団体シエラ・クラブ(the Sierra Club)は、9月上旬、サンフランシスコで「環境エキスポ」第一回を開催しました。中でも、目玉はハイブリッド車を展示したコーナーで、11月に米市場登場予定のホンダ・シビックハイブリッド2006年モデル(4ドアセダン)や、10月に生産開始予定のフォード、マーキュリー・マリナーSUVハイブリッドが注目を集めています。
 シエラ・クラブの代表者はその挨拶の中で、「ガソリン大量燃焼車(gas guzzler)を製造するメーカーは、それによって死滅するだろう」と明言しました。そして、GM(ジェネラル・モータース)を名指しし、彼らが出しているハイブリッド小型トラックは名ばかりのハイブリッド車だと、強烈な批判を浴びせます(そのGMは、先月、ダイムラー・クライスラーとのハイブリッド車共同開発を発表し、これにドイツのBMWも加わることになっています。これに対しドイツ陣営は、フォルクスワーゲン、アウディ、ポルシェが協力体制を築いています)。
 一方、先述のレクサスRX400hは、トヨタの代表者が列席していたため、この場はそしりを免れたようです。シビックハイブリッド2006年モデルが、街中とハイウェイで燃費50mpgを実現したのに対し、RX400hは街中でも31mpgしかないので、環境保護団体の受けは芳しくないようです。SUVとしては、立派な数値ですが。
 同じトヨタでも、プリウス2005年モデルは、街中60/ハイウェイ51mpgと優等生です(mpgは、1ガロン当たりの走行マイル数。たとえば、50mpgは、リッター当たり21キロメートルとなります。電気モーターとガソリンエンジンのハイブリッド車は、通常、街中を走った方が燃費は良いのです。ちなみに、米環境保護庁と日本の国土交通省には燃費テスト方式に違いがあり、日米燃費データは比較できません。近年、米燃費データは甘すぎるという批判があり、スピードを上げる最近の運転志向や、寒冷地の使用などを鑑み、年末までに検査方式を変更するようです)。
 ところで、ドイツのDW-TVによると、9月25日まで開催されたフランクフルト・モーターショーで、レクサスが340馬力のハイブリッドセダンを出展したそうですが、これなんかは環境団体の受けはどうなのでしょうか。

 ハイブリッド車は、燃費がいいだけではなく、ガン誘発物質排出量は通常車の5パーセントと、環境にも大変やさしいわけです。しかも、先月号でご紹介したように、カリフォルニアでは一人で優先車線も運転できます。おまけに、レオナルド・ディカプリオを始めとして、ハリウッドのセレブもたくさん乗っています。「私は環境問題に真剣よ」と、世に意思表示もできます。そんなこんなで、近頃売れ行きも上々なハイブリッドですが、それは数字にも如実に表れています。
 昨年8月と今年8月の全米販売台数を比較すると、ホンダ・シビックハイブリッドとトヨタ・プリウスは、倍の売れ行きとなっています。一方、今まで路上を君臨してきたSUVは、その燃費の悪さから敬遠され、軒並み減少しています。フォードの人気SUVエクスプローラやエクスペディションは4割減、GMの軍用トラック改造車ハマーH2も4割近くの減少となっています。今年6月GMが始めた「従業員価格販売」の安売り合戦は、翌月にはフォードとダイムラー・クライスラーにも広まり、全体の販売台数はどの三大メーカーもぐんと上がっているはずなのに。どうやら、ここ数年来のSUV人気も、ようやく下降線をたどり始めたようです。
 それにしても、近頃、車の燃費の悪さが目立ちます。アメリカで売られるすべての2005年モデルの燃費平均値は21mpgで、これは過去最高だった1987年(22mpg)を下回っています。本来なら、このご時勢、燃費は毎年向上するべきものではないでしょうか。車を叩き売りしている場合ではないのです。


<スコヴィルはいかが?>

 突然ですが、スコヴィル(Scoville)という言葉をご存じでしょうか。今我が家では、ちょっとした"スコヴィル旋風"が巻き起こっているのです。

 実は、スコヴィルとは、唐辛子の辛さの単位なのです。1912年、ウィルバー・スコヴィルさんという人が作った"辛味の物差し"なのです。初めは個人の感覚で辛さの値を決めていたそうですが、今は高性能液体クロマトグラフィーで構成物質を検出し、科学的に数値を計算するそうです。このスコヴィル数値が高ければ高いほど辛いということになります。
 たとえば、自然界の唐辛子を例に取ると、ニューメキシコという品種が500-1,000、辛いことで有名な緑のハラペニョ・ペッパーが2,500-10,000、そして、その上を行くのが、ハバネロという品種の80,000-300,000。この小ぶりでオレンジのかわいい唐辛子は、577,000という前代未聞の数値を記録したことがあるそうです(自然界のものなので、唐辛子の個体により差が出てくるのです)。

 そもそも、唐辛子の辛味とは何ぞや?それは、混合物質カプサイシン(Capsaicin)の働きなのです。正式には、カプサイシンとはカプサイシノイド(Capsaicinoids)という化学物質の仲間で、唐辛子科の植物に存在します。カプサイシノイドの仲間は5つあるそうですが、カプサイシンが一番多く、辛いそうです。なんでも、カプサイシンは、バニラや生姜に含まれるバニロイド系の混合物の一種だとか。
 カプサイシンを口に含むと、これが口内のリセプターに付着し、刺激を演出します。このリセプターとは熱による痛みを感じる場所で、だから唐辛子を食べると、口の中が燃えるような感覚に襲われるのです。カプサイシンを何度も経験すると、このリセプターがだんだん減り、辛味も平気になってきます。
 そして、この辛味による痛みは、下垂体や視床下部からエンドルフィン(endorphin)を分泌させ、なんともいい気持ちになってくるのです。エンドルフィンは、体内の自然のモルヒネのようなもので、その鎮痛作用とともにボ~ッとするわけですね。
 カプサイシンは、辛味のお楽しみを提供するだけでなく、外用クリームとして関節炎やリューマチの鎮痛剤に使われたり、警察などが使うペッパースプレー(顔に噴きかけ、相手の叛意をそぐ刺激スプレー)に使われたりもします。中米のマヤ族は、その昔、戦いに元祖ペッパースプレーを使用していたとか。日本では、近年、体脂肪の燃焼作用に着目し、ダイエット食品としても人気が出てきています(副腎からアドレナリンを分泌させ、エネルギー代謝を促進するそうです)。

 どうして我が家で"スコヴィル"や"カプサイシン"が流行っているかというと、東京のあるお店で教わったからなのです。響きもなんとなくかっこいいですし。名古屋から東京に飛び火したもつ鍋のお店「赤から」には、東京・六本木に支店があって、辛いものに凝るここのマスターが、日々"スコヴィル道"の研鑽を積んでいるのです。そして、「かなぶん」という少年の日を思い起こさせるようなネーミングの焼酎を片手に、お客もみんなで"スコヴィル談義"に花が咲くのです。
  ここには、"Viper(毒蛇)"という怖~い名前の真っ赤な唐辛子ソースがあって、我こそはという勇敢な方々は、爪楊枝の先でお試しさせてもらえるのです。かの有名なタバスコ・ソースなんてかわいいものではなく、間違ってもスプーン1杯という量を食してはいけません。なぜなら、タバスコのスコヴィル数値がたったの2,500に比べ、この毒蛇ちゃんは、驚きの2,000,000だからです。
 Viperには、"The Source(源)"という上手がいて、こちらは真っ赤なソースなどではありません。辛いものがドロドロに煮詰まり、液状を留めず、色もおどろおどろしい真っ黒なのです。爪楊枝の先の微量を試した人は、皆一様にふさぎ込みます。あまりにも口内が痛くて、もしかしたら、この痛みは一生消えないんじゃないかという不安に襲われるからです。この不安は、3、40分間は消えてくれません。こちらは、スコヴィル数値7,100,000です。
 そして、横綱は、誰もがひれ伏す"純粋カプサイシン"です。これはもはや自然界の物質ではなく、化学室で生成される白い結晶です。製品として一応は販売されているのですが、これはもう毒の域に達するもので、何かに使うにしても、何千倍に薄める必要があります。冗談を軽く超える"純度100%カプサイシン"は、スコヴィル数値16,000,000(1千6百万)です。これは、スコヴィルの理論的最高値です(間違っても、そのまま口に含んではいけません。即、救急車で病院送りです)。

 実は、この"純粋カプサイシン"、ガラス容器は蝋でしっかりと封印されているのですが、こんな警告が付いています。"封印を解くときは、保護手袋と安全ゴーグルを忘れずに"。
 以前、National Geographic誌で読んだ話を彷彿とさせます。ダートマス大学の化学教授が、間違ってゴム手袋の上にジメチル水銀(dimethylmercury)をたらし、5ヵ月後に急死したというものです(脳細胞の破壊が原因)。この水銀は、ゴム手袋すら透過する揮発性があったそうですが、何となく、カプサイシンもそんなイメージがあります。感染率が高い伝染病患者を扱うときは、お医者さんは二重手袋にするそうですが、それくらいの心構えが必要なのかもしれません。喉を守るため、防護マスクもお忘れなく。

 何を隠そう、筆者にとって、辛いものとは天敵なのです。甘口のカレーすら食べません。"スーパーテイスター"を自認する身の上では、刺激に耐えられないし、味音痴にもなりたくないですし(スーパーテイスターとは、舌の味覚芽が発達し、味にうるさいと思っている人のことです)。別に、唐辛子なんかでハイにならなくても結構です。

追記:カプサイシンについては、英ブリストル大学の化学部学生、マシュー・ベルリンガーさんのインターネットサイトを一部参考にさせていただきました。


<カリフォルニアワインをどうぞ>

 9月といえば、ワインを製造するワイナリーにとっては、一番忙しい時期です。そうです、ブドウの収穫期だからです。この忙しい9月を前に、夏の間、あるワイナリーが主催するディナーに参加しました。

 ご存じの通り、カリフォルニアはワイン産地として有名です。日本でのワインブームはちょっと下火になったようですが、アメリカから海外に輸出されるワインの95%をカリフォルニア産が占めます。輸出額も年々伸び、昨年は前年に比べ、3割の成長を記録しています。米国内のワイン市場でも、カリフォルニア産は全体の消費量の3分の2を占めています(Wine Institute発表データ)。
 人気の理由は、何といっても、値段の割に質が高いことが挙げられると思います。国内の消費者にとっては、輸入物に比べ、輸送中の品質の劣化も少ないですし。ナパ(Napa)、カーネロス(Carneros)、ソノマ(Sonoma)、パソ・ロブレス(Paso Robles)といった名高いブドウの産地が州内に散在し、おのおのの特性をかもし出しています。
 一方、カリフォルニアには味にうるさい消費者も多く、ワイナリーの方も切磋琢磨されるのかもしれません。以前一度書きましたが、この界隈には、ワインの味がわからなくなるのを嫌い、コーヒーのような刺激物は一切口にしない人もいるくらいです(こういったセミプロには、カプサイシンなんてもってのほかですね)。
 味わうだけでは飽き足らず、自宅の裏庭にヴィニヤード(ブドウ畑)を作り、ワイン生産を始める人すらいます。フィギュアスケートの往年のチャンピオン、ペギー・フレミングさんは、そういったひとりです。お医者さんを退職したご主人とともに、シリコンバレー・ロスガトスで、Fleming Jenkinsという銘柄を立ち上げました(ブドウは他の生産地からも仕入れ、実際の醸造は、近くのワイナリーを借りて行われます。ご夫婦とも、ワインをかなり勉強したそうです)。

 そんなカリフォルニアでは、いろんなワインに接する機会は多く、遠くのワイナリーに出向かなくても、地元で気軽にお試しできたりします。たとえば、レストランでのワイン・ペアリングがあります。シェフご自慢の料理に合うワインの銘柄をコース品目ごとにペアリングしてくれます。
 地元のワイナリーが主催するワイン・ディナーもあります。歴史あるワイナリーのひんやりとした石蔵で、キャンドルライトのもと、コース料理と自信作のワインを数種提供してくれます。時には、ワイナリーがゴルフクラブのレストランに出張し、コースディナーとのペアリングを共同開催したりします。小さめのワイナリーにとっては、知名度を上げるいい機会なのです。いずれの場合も、ワイナリーの苦労話や自慢話が披露され、裏側を覗き見るようでおもしろいものなのです。

 前置きはさておき、8月上旬、筆者が参加したワイン・ディナーは、シリコンバレーの南端にあるClos La Chance(クロア・ラ・シャン)というワイナリーのディナーでした。すでにこのワイナリーの"ワイン・クラブ"に所属し、定期的に彼らのワインを購入している筆者宅は、ある程度の知識はあるものの、このディナーは特におもしろいものでした(ワイン・クラブとは、ワイナリーのクラブメンバーとなり、定期的にワイナリーが出す白や赤やスパークリングを数本ずつ購入する制度です。通常、参加費は無料で、メンバー割引の特典もあり、ワイナリーでのパーティーにも無料参加できたりします)。
 何がおもしろかったって、ひとつの丸テーブルに集う4組の夫婦が、最初は何者かさっぱりわからないことです。どうやって、話を進めましょうか。アメリカでは、ワイン・ディナーに限らず、あらゆる社交的な集まりには、ある種の暗黙のお約束があります。それは、原則として、仕事の話はタブーなことです。初対面でいきなり仕事の話では、場がしらけるではありませんか。同様に、宗教や政治は避けるべき話題の筆頭に挙げられます(勿論、親しくなれば、別の話です)。
 この場合、ディナーがワイナリーに隣接するゴルフクラブで開かれたので、自然とゴルフの話でスタートします。「ここではゴルフやったことあるの?」から始まって、右側に座る2組の夫婦がご近所同士で、ゴルフ仲間、スパ仲間であることがわかります。ところが、左に座る夫婦のダンナさんは、「いや、ゴルフなんかしないし、やるとしたら、冬にスキーをちょっとするくらいかな。今は子供ができてそんな時間もないけど」と言います。いったい何者?、と残る3組が思いをめぐらしながら目の前のワイナリーのカタログを広げてみると、なんと彼の写真が載っているではありませんか。なになに?ワインメーカー?あの、ブドウを栽培して、ワインを作る専門家?(日本酒の酒蔵でいうと、米の栽培も担当する杜氏さんみたいなものです。)道理で、ゴルフなんかしている暇はないんだと、一堂納得。

 ワイン・ディナーには何度か出席した筆者も、ワインメーカーその人と同席したことは一度もなく、まず、一番気になっていたことを聞いてみました。それは、ブドウを栽培する上で、一番大事なことは何かということです。たとえば、日当たり、気温、日較差なのか。彼曰く、それは水はけだそうです。いい苗木を植えても、水はけの良し悪しで収穫物がまったく異なり、たとえば、長方形の敷地に同じ優秀な苗を植えても、品質の点から見ると、ひょうたん型の敷地となったりするそうです。
 そして、いいブドウを作るためには、クローン・テクニックを使うといいます。なんでも、いいものを追い求め、現在、20種ものブドウを育てているそうです。"クローン(clone)"と聞くと、誰でも、実験室で植物を切り裂いて遺伝子を取り出し、その遺伝子を他の植物に挿入するというイメージがありますが、彼の指す"クローン"とは、早い話"接ぎ木"のことです。植物にも個人の特性みたいなものがあり、ひとつの個体の上に、もっといい個体から枝を接ぎ木し、より健康な、おいしい実をつけるブドウに変身させるそうです。園芸の世界でも、バラの接ぎ木はポピュラーなものですね。

 接ぎ木といえば、彼の上の娘がまだ2歳の頃、寝ぼけながらこう言ったそうです。「白がChardonnayで、赤がCabernet sauvignonよね、むにゃ、むにゃ」。血は争えないものです。


<おまけの話:ハリケーン・カトリーナ>

 8月末、ルイジアナとミシシッピ州を襲ったハリケーン・カトリーナは、まさに想像を絶する被害をアメリカ南部にもたらしました。昨年9月号でご紹介したとおり、それまで史上最大といわれたハリケーン・アンドリューをフロリダで体験した筆者にとって、カトリーナの異常さは痛いほどわかる気がします。

 カトリーナに関し一番悔しい点は、この災害は天災であるとともに人災であるということです。18世紀初頭、フランス人がニューオーリンズを中心として、南部湿地帯(ミシシッピ・デルタ)を開拓し始めて以来、都市を囲む堤防は、人々を悩ませる最大の弱点でした。
 湿地を都市に変え、人口が増えるに従って、街を高潮から守る湿地帯は消え、地下水は汲み上げられ、地面はどんどん沈下していく。都市を守るために建設されたミシシッピ川沿いの堤防は、デルタを保持する堆積物の流入を絶ち、メキシコ湾沿いでさかんに行われる原油・天然ガスの採掘も、デルタ破壊に拍車をかけます。湿地が消え、堤防や水路が完備し、土壌が乾くと、都市はますます沈下する、そういった悪循環が形成されているのです。今のままでは、1世紀もしないうちにニューオーリンズの街は海の底となる、そういった科学者の警告も公にされていました。たとえば、Scientific American誌2001年10月号では、"Drowning New Orleans(溺れるニューオーリンズ)"と題して、警告の論文が掲載されています。
 これに対し政権は、科学者の苦言や、湿地復元に必要な地方自治体の公共事業費の申請を無視し続け、今回の災害に至ったのでした。政権がカットした事業費は、申請された金額の9割に上るといわれます。あまりにひどいと、連邦議会がカットの一部を戻し、昨年初頭、要求額の6分の1を予算に計上した経緯もあるとか。水の被害を食い止める意思があったならば、実際の被害は大幅に縮小されていたことでしょう。

 ニューオーリンズのあるルイジアナ州も、同じく被害に遭ったミシシッピ州も、アメリカでは最も貧しい地域です。ルイジアナのミンクという田舎町では、今年初めて電話が通じたくらいです。ニューオーリンズの都会に住んでいても、車などの避難手段がなかったり、週末働いていて、ハリケーンのことなどまったく知らなかったりと、貧しさゆえに被害が拡大した要因もあります。
 そして、その多くが、白人ではなかったわけです。ゆえに、救助も遅れるし、彼らが生きる道を模索し、食料や衣料を店から失敬すると、それは"略奪(looting)"とレッテルを貼られます。ルイジアナのケナードという街では、最初に水と食料を持って現れたのは、赤十字でも連邦緊急事態管理庁でもなく、ディスカウントチェーンWal-Martだったそうです。前もって避難・救助体制が組織されていたら、犠牲者は激減していたことでしょう。それが証拠に、直後にルイジアナ、テキサスを襲ったハリケーン・リタでは、軍隊を派遣し避難を徹底させたため、直接の犠牲者はたったふたりでした。
 どんなに綺麗ごとを並べても、苦境に立たされていたのが大部分白人だったならば、救助はもっと迅速だったに違いありません。あのパンパンにお腹を膨らませた黒い肌の仏様も、いつまでも水面にプカプカと浮いていることはなかったでしょう。大統領はカトリーナの上陸したこの日、5週間の休暇の最後を利用し、カリフォルニア・サンディエゴの高級リゾートで過ごしたあと、カリフォルニア、アリゾナと、支持者の資金集めに廻っていました。

 これに対し、一般市民のがんばりは、政府の落ち度を補うもののようです。遠く離れたサンフランシスコ・ベイエリアでも、さっそく8歳の男の子が救援物資を募り始め、お母さんと一緒に南部に向かうトラック輸送を組織しました。自分の家に、40人を超える被災者を住まわせる人も出てきました。いくら広い家とはいえ、40人も集まれば足の踏み場もなく、普段の生活の平穏さは失われます。ベイエリアの消防署からは数十人のレスキュー隊が派遣され、南部での救助にあたりました。家族を残して出動する隊員は、「辛いけれど、こういう時のために、我々は何ヶ月も厳しい訓練を受けてきたんだ」と言います。そういった隊員が、アメリカ全土から集いました。
 このような、他人のために私を二の次とするアメリカ市民の反応を見ると、この国もまだまだ捨てたもんじゃないなと思うのです。アメリカの強さは、巨大な軍事力でも、経済力でも、外交力でもなく、実は、こういった一般市民の底力なんじゃないか、そういう気がするのです。

 一度でもニューオーリンズを訪れたことがある人は、南部の温かいおもてなしに感謝したことと思います。早くジャズがフレンチクォーターに戻り、あの有名なカーニヴァル、マーディ・グラ(Mardi Gras)で観光客を呼び戻して欲しいものです。
 マーディ・グラのテーマとも言える奇妙な骸骨は、「生きている間に、楽しもうよ」という、生きる人への戒めだそうです。何度も辛い歴史に遭遇した、その南部の底力で、早く立ち直ってもらいたいものです。


夏来 潤(なつき じゅん)

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