科学と宗教:そのちょっと微妙な関係

2005年7月22日

Vol.72
 

科学と宗教:そのちょっと微妙な関係


 執拗に続くロンドンのテロ事件もさることながら、車が必需品のアメリカでは、石油価格も市民生活を脅かしています。現在、原油1バレル当り60ドル前後となっていますが、25年後には、少なく見積もって125ドル、ひょっとすると200ドルとも推定されています。中国は大丈夫だろうけど、ヨーロッパはこの先どうなるのだろうと、海の向こうでは心配の声が上がっています。スペインやポルトガルでは、今夏の干ばつの被害で、それどころではないようですが。
 2年前、1バレル30ドル近辺をさまよっていたとき、30ドルあれば、石油業界は充分に利益が上げられるとアナリストが言っていましたが、現時点の残りの30ドルは、いったいどこに消えているのでしょうか。

 さて、資源問題はさて置き、今回は、ちょっと眉間に皺寄せるような、アカデミックなお話から始めましょう。そして、真面目なお話がふたつ続いた後は、リラックスいたしましょう。


<科学が危ない! その1>

 端的に申し上げて、アメリカでは今、科学が脅かされているように思えます。国民に広がる科学に対する認識不足が、大きな脅威となっているのです。
 その脅威の最たるものが、進化論に対する攻撃です。地球とあらゆる生物、そして人類とその文化は、ダーウィンが最初に提唱した進化論(evolutionism)の概念体系に基づいています。およそ140億年前に宇宙が誕生した後、46億年前に地球が生まれ、その6億年後に最初の生命体である微生物が誕生した。以来、長い時間をかけて環境に適応する過程で、現在の動植物界や人類の形に進化してきたと説明します。
 ところが、アメリカには、この進化論に異論を呈し、子供たちに科学として学校で教えることに、執拗に反発してきた一派が存在します。その動きは、早くも1920年代に生まれ、南部の5州では、進化論を教えてはいけないという法律までできたほどです。その度に、法廷の場で争われてきたのですが、近年はその力を盛り返し、19の州議会で、進化論に相対する理論も教えるべきだと、熱心に討論が繰り広げられています(1999年に教育委員会によって進化論が禁止されたカンザスでは、2001年にはカリキュラムに戻され、現在また、激しい論争が再燃しています。中・南部の州に限らず、北部のオハイオ州でも、進化という言葉は禁句とされています)。

 元来、アメリカはキリスト教国と言えます。国民の8割がプロテスタントかカトリックとされます。大部分の国民にとって、宗教は日常生活の大事な部分を占めており、無神論者は数パーセントにも達しません。ティーンエージャーでさえ、7割は週に2、3回ひとりでお祈りすると言います。そして、聖書(旧約聖書の最初に出てくる「創世記」)の天地創造説(creationism)を史実と勘違いしている人は国民の半数近くいます。地球と生物は、6千年ほど前、神が7日間で創り賜うたものであり、化石などというものは、古生物学者の想像の産物であると。
 しかし、科学者との討論の中で、そんなことを言っていたら小バカにされると気付く者も出始め、この理論自体が進化を遂げてきました。「インテリジェント・デザイン(intelligent design)」と呼ばれる、新手の創造説の登場です。残念ながら、この理論が何であるかを明確に説明できる推奨者はほとんどいないのですが、おおまかに言うと、こういうことのようです。
 個々の細かな生物進化(microevolution)は、大方認めることにしよう。物的証拠もあるようだし。しかし、進化論では、どうして生物が今の複雑な高等な形に進化し得たのか、説明がつかないではないか。唯一説明できるのは、進化の裏側には、神の偉大なご計画があったからということだ。
 この理論の第一人者は、カリフォルニア大学バークレー校の法学名誉教授、フィリップ・ジョンソン氏です。1991年に"Darwin on Trial"という本を発表して以来、彼の支持者は増え続け、科学者の間にも広がっています。国民の7割が、進化論と創造説の両方を教えた方が良いとする調査もあるほどです。

 最も粗野な創造説を唱える人を見ると、どっと疲れが出る筆者も、インテリジェント・デザインは心情的にはわからないでもありません。大学院で人骨のクラスを取っていたとき、頭蓋骨の精巧さに驚異を覚えたことがあります。ヒトの頭蓋骨は22の骨の部品で成り立っているのですが、鼻のまわりは特に緻密にできあがっています。そのパズルのように複雑に絡み合う骨を手にしながら、これは偶然の産物であるはずがない、何者かの意思が働いたに違いないと思ったほどです。
 しかし、心情的にどうであれ、インテリジェント・デザインは科学ではありません。科学的な手法に基づき、証明できる理論を科学と呼ぶのであって、自分の理論に合う物的証拠を都合よく選りすぐり、自説を主張するのは疑似科学なのです。更に、インテリジェント・デザインが提起する疑問は、科学の範疇を大きく超えています。疑問を持つのは結構なことですが、神の意思があったかどうかなどと、人が科学的に知り得ることのできない仮説は、神学的、哲学的領域に入るわけです。

 残念なことに、人間にとって、知ることには大きな制限があります。物的証拠にいつも恵まれるとは限りません。人類の進化論にしてもそうです。たとえば、ヒト科(hominid)で最も古いとされる数百万年前のアーディピシカス(Ardipithecus)属ですが、更に古いオロリン(Orrorin)属やサヘランスロパス(Sahelanthropus)属がヒト科の祖先なのかどうかは、意見が分かれるところです。発見される化石が不完全だし、第一、何をもってヒト科と断定できるのかコンセンサスが取れていないからです(たとえば、二本足歩行なのか、犬歯の大きさなのか?)。
 一方で、人の「知る」という行為自体にも概念的な制限があります。そんなハンディを背負い、天動説(geocentric theory)から地動説(heliocentric theory)と現象を観察するレンズを取り替えながらも、今まで知り得たことをこつこつと築き上げ、科学と称する「知」の体系としてきました。けれども、科学理論は決して完結したものではなく、絶えず欠ける部分があります。知れば知るほど、新たな疑問が次から次へと湧いてくるからです。時に、レンズを替える必要も出てきます。ゆえに、短絡的な答えを求め、進化論などの科学理論を攻撃する一派がいつまでも存続するのです。

 ここで、反進化論者が認識すべきことは、神に関する討論と科学は敵対するものではなく、存在する場が違うということかもしれません。欧米に多いキリスト教徒の科学者は、それをよく理解しています。彼らは、人の「知」の領域を充分に認識しているのです。だから、「知」を教える学校に、「知」の外にいる神を持ち込んではいけないのだとします。
 そしてもうひとつ、聖書や経典に書いてあることを、文字通り史実であると信じる軽率さに気付く必要があるようです。象徴は、決して物自体ではないのですから。火星の表面に写る「白兎」は、実は、探査機オポチュニティーの着陸用エアバッグなのです。


<科学が危ない! その2>

 インテリジェント・デザインもさることながら、始末に終えないことに、政府も科学の脅威に一役買っています。米国憲法で定められる政教分離(separation of church and state)の原則が、必ずしも守られていないからです。
 驚くことに、アメリカでは、どこにでも神(God)が顔を出します。法廷での宣誓も聖書に手を置いて行うし、大統領を始めとして、政治家や役人の任命式でも神に誓いを立てます。紙幣にも"In God We Trust"と書いてあるし、毎朝学校で子供たちが星条旗に向かって行う、忠誠の誓約(the Pledge of Allegiance)にも、"under God"という言葉が入っています。よくご存じの通り、野球場でも"God Bless America"を皆で歌うし、選手も試合後のインタビューで、"God bless!"と締めくくります。

 忠誠の誓約に関しては、以前、法廷で大騒ぎがありました。カリフォルニア州都サクラメントのお医者さんが、娘が学校で毎朝"神のもとに"などと誓いを立てさせられるのは、憲法違反だと訴えました。リベラルな第9連邦巡回上級裁判所は、無神論者の彼の主張を認め、1954年に連邦議会がこの言葉を誓約に挿入したのは違憲であり、学校での復唱は禁止されるべきであるとしました。
 しかし、その後、争いは連邦最高裁判所まで持ち込まれ、昨年6月、そもそも父親は離婚後親権を持っていないので、娘を代表して訴えを起こすことはできないと、肩すかしを食うような判決が言い渡されました。国民の大部分は、誓約に神が出てくるのは正しいと思っているので、結局、うやむやのうちに関心は薄れてしまいました(ちなみに、離婚した奥さんの方は敬虔なクリスチャンで、"神のもとに"は、抵抗はなかったようです。そんな基本的なことが食い違うようでは、うまくいくものもいきませんね)。

 同様の論争もあります。旧約聖書の「モーセの十戒」を公共の場に示すのは憲法違反かどうかというものです(十戒とは、「出エジプト記」第20章に記述される、神の他に何ものをも神としてはならない、殺してはならない、云々という十の戒律です)。
 3年前、アラバマ州の法廷から十戒の石碑が撤去され、信者一同が泣き崩れたことがありましたが、つい先月も、連邦最高裁判所からこんな判決が下されました。テキサス州議会の庭にある十戒の石碑は合憲だが、ケンタッキーの法廷に飾られる十戒の額は違憲であると。前者は40年前に建てられ、他の石碑と混じり宗教性も薄いが、後者は明らかに宗教の推奨を念頭に置いて掲げられたものだ、という理由です。

 いずれの場合も、対象となっているのは、米国憲法修正第1条の「信仰と言論と報道の自由」です。この中に、議会は宗教の創立を尊重するような法律を作ってはならないとあるのです。しかし、この条項の解釈は、上記のようにケースバイケースになりがちで、国民の間に混乱を招く結果ともなっています。
 議会や公共の集まりでのお祈りに関しては、1983年、政教分離の原則には抵触しないという連邦最高裁判所の判決が下され、これがその後のお手本ともなっています。前述のサクラメントの医師は、今年1月のブッシュ大統領再任式でお祈りを阻止しようと訴えましたが、軽く却下されるというエピソードもありました。

 実は、神は、アメリカの独立宣言(the Declaration of Independence)にも顔をのぞかせています。人は創造主により平等に創られ、生命、自由、幸福の追求の権利を与えられたのだと。これを起草したトーマス・ジェファーソンや、初代大統領のジョージ・ワシントンにとって、人と神は絶対に切り離すことのできない関係だったのです。建国当初は、議会の場が宗教儀式に使われる慣習すらあったようです。
 この人と神の深い交わりは、アメリカの政治に脈々と受け継がれ、政教の境がいつの間にか曖昧模糊となったようです。


<アフリカが危ない!>

 7月上旬のG8サミットに同期し、世界中で同時開催されたライブエイトのコンサートでは、アフリカの貧困に立ち向かおうという熱いメッセージが送られました。そのアフリカでは今、新たな深刻な問題が起きています。

 アフリカ大陸南東の内陸部にジンバブウェという国があります。20世紀初頭、イギリスの植民地となり、1965年、少数派の白人政権のもと、ローデシアとして独立しました。その後、内部紛争を経て、1980年にジンバブウェとして合法的に独立したのですが、以来25年間、ロバート・ムガベ大統領の独裁制が敷かれています。
 この国では、5月以降、首都ハラレのスラム街がことごとく破壊されつつあります。命じたのは、ムガベ大統領です。破壊は周辺の町々まで広がり、150万人の下層階級の人々が、その貧しい家や露店を失いつつあると推測されています。
 現地のショナ語で「ごみをなくせ!」と名付けられた政策は、税金を払わない闇市場や、不法に人の土地に掘っ立て小屋を建てる輩を一掃するのが目的とされています。しかし、実のところ、長い独裁政権に不満を抱く下層階級を、お膝元から都合よく追い出すのが狙いだと言われています。
 ブルドーザーは人々の制止を振り切り、家や露店を押しつぶし、警察は抵抗する者を次々と連行し、殴りつけます。逃げ遅れて押しつぶされた子供は、ひとりやふたりではないようです。2歳の女の子を失くした夫婦は、瓦礫の中から子供の遺品を探します。
 イギリスのBBCニュースは、いち早く事の仔細を報道し始めましたが、数日後、国外退去を命じられました。国連は視察団を派遣しましたが、それに対しムカベ政権は、2008年までには家を失った者のために新しい家を建てると約束したようです。

 アフリカのサハラ砂漠にニジェールという国があります。今ここでは、昨年の干ばつと害虫の被害で食料危機に陥り、国民の3人にひとりが飢えに瀕しています。このままでは、15万人の子供たちが死んでしまうといわれています。
 事態は特に南部地方で深刻で、「国境なき医師団」によると、「今年前半だけで、1万人の飢えた子供たちが救援センターに押しかけたが、これはスーダンやアンゴラの状態よりもひどい」ということです。7月20日の時点で、BBCは、どの国の政府もいまだ援助の手を差し伸べていないと報道していました。
 今この国では、1日に1ドルあれば、たくさんの子供たちが栄養失調になるのを防げたのに、ここまで待ったために、ひとりの命を救うために1日80ドルが必要だといわれています。なぜかというと、栄養失調(malnutrition)は、単に飢え(hunger)のひどいものではなく、体中の生化学反応が複雑に絡み合った現象だからです。治すには、それなりの治療が必要となってくるのです(ひどい状態に陥ると、新陳代謝や免疫機能が働かなくなり、ちょっとしたことで感染症を起こし、取り返しのつかないことになります)。
 困ったことに、伝統的な生活を営む社会だけではなく、先進諸国でもこのことを理解していない人は多いのです。だから、援助が後手にまわってしまうようです。

 ここで一般市民ができることは、義援金などの具体的な援助を提供することでしょう。しかし、ひとつ気を付けるべきことは、組織を過信しないということです。たとえば、上記ジンバブウェでは、食料の配給ルートは、すべて大統領のもとにコントロールされています。こういった状態では、正規(政府対政府)のルートでアフリカ諸国に援助をしても、助けを一番必要としている末端の人々には何も行き渡らないでしょう。
 また、世にあまたある慈善団体にしても、自分の主義にそぐわないものもたくさんあります。たとえば、宗教団体が主催するものの中には、援助に換え、宗教を置いてくるものもあるでしょう。もし、宗教的に中立でありたいのなら、こういった団体は避けるべきです。
 末端の人々に正しく援助が行き渡るのか、それを厳しく吟味するのも、援助する者の責任の一環なのです。


<ショートストーリーふたつ>

 7月1日は、カリフォルニア州の新年度ですが、この日施行された州法や地方条例もいくつかあります。その中に、サンフランシスコの禁煙令があります。公共の場では、屋外であっても一切禁煙となります。公園の散歩やスタジアムでの野球観戦も、タバコは禁物です。
 もともとカリフォルニアでは、人が集う屋内は禁煙なので、今となっては、喫煙者は16パーセントと少数派です。サーフィンのメッカ、サンタ・クルーズでは、5月1日からビーチも禁煙となりました。今後、サンフランシスコでは、喫煙は自宅のみとなってしまうようです。初回罰金は100ドル(約1万1千円)、次は200ドル、その次は500ドルだそうなので、旅行者も気を付けた方が無難のようです。

 7月ともなると、子供の夏休みも真っ盛りです。特に、夏休みが長いアメリカでは、この時期をどう過ごすかが鍵となります。ある者は、ハンバーガー屋やビーチのライフガードとして働きお金を貯めるし、ある者は合唱団の一員として他市で公演し、経験と見識を積みます。高校生ともなると、いろんな選択があるわけですが、子供がまだ小さい頃は、サマーキャンプ(summer camp)が人気です。
 キャンプファイヤや乗馬、アスレチックスと伝統的なサマーキャンプのプログラムに加え、近頃は、時代を反映し、プログラムの特化が目立ちます。そして、お泊りが伴うとは限りません。たとえば、ベイエリアらしく、言語のサマーキャンプがあります。2週間にわたり、中国語、フランス語、スペイン語などの外国語に親しみ、料理教室を通して他国の文化にも触れるというコースです。
 スタンフォード大学では、数十のキャンプメニューを提供していますが、その中に、スポーツ選手として成功するためのコースがあります。スカウトは選手に何を求めているのか、アカデミックとスポーツを両立するにはどうするのかといった、具体的なアドヴァイスを専門家に受けます。近頃は、子供がプロスポーツ選手となり、お金持ちになることを夢見る親も多く、2、3歳の頃からスポーツのスパルタ教育が続きます。
 何でも、こういったサマーキャンプの概念は、ドイツにも波及しているらしく、移民家族の子供たちに正しいドイツ語を教えるコースがあるそうです。ドイツ語の複雑な規則を、演劇やゲームを組み合わせ、楽しく習得できるのです。
 アメリカの子供たちは、学年の切り替わる夏休みの間、平均1?2ヶ月分の学業の遅れを取るといいます。傾向から言えば、今後、お勉強中心のサマーキャンプがどんどん増えるのかもしれません。


<おまけのお話:ハイテク男性の出会い>

 日本もそうですが、ハイテク産業には男性従業員が多いです。インターネットでは、友達を繋げるソーシャル・ネットワーキングのサイトはたくさんありますが、やはり何と言っても、オフィスは大事な出会いの場です(アメリカ人の4割がオフィスロマンス経験者ともいいます)。ゆえに、シリコンバレー界隈は独身男性でいっぱいなのです。花の独身女性に向け、Caltrainの列車通勤をすると、収入の安定した適齢期の男性に出会えますよと、甘い呼び声も聞こえてきます。
 ところが、山を隔てた海沿いのサンタ・クルーズには、好条件の男性は皆無に近いと、以前から独身女性の間で不満がもれていました。ここにいるのは、大学生かサーファーか、お金のない駆け出しのアーティストなのよと(ちなみに、ここの大学とは、カリフォルニア大学サンタ・クルーズ校です。自由な雰囲気に満ち溢れ、天文学や物理学で有名な大学です)。
 そんなレディーたちのご不満にお答えして、この"サーフ・シティー"にハイテク人間をお呼びしましょうという会が催されました。日頃、ハイテク男性たちは、"nerd"だの"geek"だのと揶揄されていますが、この際、そんなことは関係ありません(nerdやgeekは、"おたく"とか"ちょっと普通と違う人"みたいな意味です)。
 サンフランシスコ近郊のAmerican Singles Educationという団体が主催した親睦会だったのですが、蓋を開けてみると、山を越えてやって来たハイテク人間はごく数人。あとはみんな地元の男性で、洗練されたハイテクガイ目当てにやって来た女性参加者は、ちょっとがっくり。団体責任者は、"う~ん、5千人にメールを送ったんだけどなあ。みんな忙し過ぎるのかなあ。よし、次回は、バスを仕立てて男たちを連れてくるぞ"と、抱負を語ります。

 サンノゼ・マーキュリー新聞のビジネス欄を読んでいると、ハイテク男性に向けて、"日本女性と仲良くなりたくはありませんか?"という広告を見かけます。アメリカ各地に支店を持つ、出会いコンサルタント会社の広告です。昨年、30~34歳の日本女性の4割が独身という調査結果が発表されましたと、説得力充分です。
 実は、カリフォルニアには、ひそかに日本女性と結婚したいと思っている男性は多いのです。東海岸と比べ、日本文化に接する場面が多いので、日本人についてある程度知識があります。ゆえに、日本人はいいなあと思うのです。
 まったく非学術的な筆者の調査からすると、日本女性は、まず、きれいだそうです。肌も美しく、お化粧も身なりも整っている(日本への出張者の多くがそう発言します)。なおかつ、きれい好きで、家の中もきちんとしている(そう言えば、近所では掃除は業者任せが多いなあ)。そして、過度の自己主張がない。ある人がこう言っていました。自分の母は沖縄から来たのだが、父の妹がいろいろと入れ智恵するうちに、カリフォルニア人になってしまったと父が嘆いていた。

 勿論、これは男性側の勝手な主張であり、どこの国民にも、男にも女にも(その中間にも)、良さと悪さが兼ね備えられているわけです。けれども、日本とアメリカはどこか違うなと感じる中に、何かしら新鮮な魅力を発見するようなの
です。女性から見ても、きっと同じことでしょう。
 日本の独身男性、危うし!


夏来 潤(なつき じゅん)

 

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