旅行記:不思議の国、ニッポン

2002年1月23日

Vol. 29

旅行記:不思議の国、ニッポン


 昨年末から新年松の内を、日本で過ごしました。公私とも、何かと夏に日本を訪問することが多かったので、日本のお正月を味わうのは、久しぶりな事となりました。
 今回は、あまり珍しくもありませんが、日本で印象に残ったことを、ビジターの視点でいくつか書いてみたいと思います。



【あんまり喜ばしくない歓迎】

 のっけから恐縮ですが、まず、何はともあれ、成田空港に降り立ち、東京に向かうルートで感じた事は、"日本は臭いな" ということでした。長いフライトを終え、ようやく他の国から日本に降り立った人が最初に感じるのは、タバコのニオイだと思います。建物や椅子に染み着いてでもいるのか、空港も、成田エキスプレスも、タクシーの中も、同じようなニオイが漂っています。ホテルの部屋も、禁煙フロアーでなければ、一晩過ごすのはちょっと難しいようです。
 現役のスモーカーの方には申し訳ない話ですが、医学的にも、喫煙や二次的な煙が諸悪の根源とされている国からすると、ちょっとしたカルチャーショックを受けてしまいます。特に、カリフォルニアでは、建物の中での喫煙は違法なので、バーでタバコを吸うことすらできません。そういう所に暮らしていると、普段タバコのニオイを嗅ぐことは皆無で、日本などの喫煙国に来ると、今更ながら、そのすごさに気付かされます。(最近テレビでは、スモーカーを精神的に脅す州政府のコマーシャルが花盛りです。せっかく歩き始めた孫のお祝いに訪れたら、自分はもうお化けだったとか、未熟児で生まれ、人工呼吸器に繋がれた赤ちゃんを画面いっぱいに写し出し、お母さんだけではなく、家族が喫煙するとこうなるんだぞ、と訴えています。)

 ある時、台湾の台北で屋台が密集する地域を訪れ、"あそこはゴミ箱のようなニオイがした" と言っていたアメリカ人がいましたが、きっと彼は、心の奥底では、"日本も同じくらい臭いぜ!" とでも言いたかったのかもしれません。おそらく、異文化の人には不快なニオイというのが、どこの国にもあるのでしょう。

 



【不況とは無関係?】

 日本は、なかなか景気が回復せず、最近また一段と落ち込みが感じられると言われますが、それに反し、国自体は以前より豊かになっているのではないかと思われます。何を根拠にそんなことを、とお尋ねになるでしょうが、筆者の身勝手な "豊かさ指標" によると、日本は良い方向に変化しつつあります。
 この独断と偏見に満ちた "豊かさ指標" とは、トイレの手拭きペーパーです。たとえば、レストラン、デパート、駅ビルなどのトイレに入ると、よほどけちな場所に行かない限り、トイレットペーパーくらいは備え付けてあります。でも、手拭き用ペーパーとなると話は変わり、以前はよく、トイレのストールから紙を拝借していました。
 ところが、今回、東京で入ったレストランのほとんどが手拭きペーパーを備え付けており、"日本も豊かになったもんだ" と、ちょっと驚いてしまいました。アメリカでは、公園のトイレですら手拭きペーパーがあるので、アレルギーで鼻をかむ以外、あまりハンカチを使うことはありません。抗菌にうるさい日本人が、どうしてトイレで手を拭くのにハンカチを使うのか、訪れる度に疑問に思っていました。でも、最近は、公共の福祉を考える私の団体も多くなってきたようで、喜ばしい限りです。

 それにしても、日本人は豊かです。少なくとも、ビジターの目にはそう映るようです。米国でのテロ事件以来、日本から海外に出る人が激減し、その反動で高価な物がよく売れているという話を聞きますが、テロの影響ばかりではなく、生活自体が豊かになっているのだと思います。
 たとえば、デパートのおせち料理コーナーでは、重箱3段で5万円の値が、当たり前のように表示されていました。また、ひと切れ1500円のケーキだとか、人気のクリームパンを求める長蛇の列など、目を丸くする事がたくさんありました。恵比寿にある某高級フレンチ・レストランは、12月15日から1月6日まで予約でいっぱいだったようで、押し並べて豊かな日本人の生活に、またまた舌を巻いてしまいました。
 "日本に行くと、お金に羽根が生えているように、財布がからっぽになる" と表現したアメリカ人がいましたが、まったく同感です。質の良い物は高いからなのでしょうか?世界的に貯蓄の多い日本人と、消費額の大きい日本人、不思議な表裏一体です。

 



【日本人の美徳】

 堅苦しい表現ですが、日本人の美徳とは、やはり、思いやりにあると思います。昔も今も変わらず日本人に受け継がれているのは、他人がどう考えたり、感じたりしているのか、理解しようと努めることです。
 ある朝、ホテルの朝食ビュッフェを終え、コーヒーのおかわりを頼んだら、次にこう聞かれました。"もしよろしければ、新聞をお持ちしましょうか?" と。ちょうど新聞が読みたい時だったので、"人の心を読むサイキックか?" と、こちらはびっくり。良く考えてみると、そんなことは日本人にとっては当たり前の気配りで、それに驚いた自分にかえって愕然としてしまいました。
 そして、長らくヨーロッパに住み、もう立派な欧州人となってしまった姉が、いつか言ったことを思い出しました。ある時、数人で着いたディナーテーブルで、誰かがテーブルの上を見回していたので、姉が塩と胡椒のビンを差し出したところ、その人がびっくりしたと言うのです。日本人にとっては、ごく自然な振る舞いでしょうが、彼にとっては、どうして姉が彼の心を読めたのか、不思議でならなかったようです。

 気配りと言えば、新聞のインクが手に付かないのも驚きです。勿論、日本では通勤途中で読まれる場合が多いので、手にインクが付くと困るという苦情も多かったのでしょうが、新聞を読むと手が真っ黒になるのが当然と思っている国からすると、これはスゴイことです。
 昔、コミュニズム(共産主義)体制下のモスクワでレストランに入ったら、ウェイターが客の飲み残しの水をテーブルに掛け、一応テーブルを拭く動作をし、コップはそのまま次の客に使われていた、という怖い体験談を聞いたことがあります。日本のような気配りのスゴイ国では、このような不快な言動は、お店の評判を傷つけることになり、すぐに廃業となってしまいますね。

 



【感謝、感謝です】

 間抜けな話ですが、今回の旅で、もう少しで大事な所持品を無くしてしまうところでした。日本三景のひとつ、広島県の宮島から、JRの船と電車で広島市内に向かう途中、宮島の券売機にブリーフケースを置き忘れ、そのまま船は宮島の岸壁を離れました。間もなく、乗組員のひとりがつかつかとやって来て、"これ置き忘れたのではないですか?" と、ブリーフケースを差し出しました。それまで、置き忘れた事にも気が付かなかったのですが、もし彼らがタイムリーに気付いてくれなかったら、パソコン、パスポート、トラベラーズチェックなど、不可欠な物を無くしてしまうところでした。
 どうして彼らが持ち主を割り出して、船まで持ってきてくれたのか、これまた不思議な話ですが(地元の人じゃないと、目立つのでしょうか?)、何はともあれ、JR職員の皆様に、感謝の気持ちでいっぱいです。どうやら、国鉄時代のローカル線の親切が、脈々と受け継がれているようです。

 以前、東京にある公衆電話にPDAを置き忘れたのにも拘わらず、サンノゼのオフィスまで無事に戻って来た話に、みんなでびっくりした事がありました。"ニューヨークだったら、絶対に戻って来ないよね" と、全会一致で賛同したものでした。この親切もまた、世界に誇れる、日本人の美徳のひとつと言えるようです。

 それにしても、JR線が船なんて、瀬戸内地方ならではの事ですね。何となく、海を歩く海賊になった気分でした。

 



【泉岳寺にて】

 毎年、12月になると、忠臣蔵の季節がやって来ます。討ち入りは1702年に行なわれたので、もうかれこれ300年にもなるのに、大石内蔵助を始め、四十七士の人気は衰えることがありません。
 今回、東京に滞在中、思い立って泉岳寺に行ってみました。12月14日の討ち入りの日を幾日か過ぎていたので、訪れる人は誰もいないのかと思えば、義士の墓は、絶え間ない参詣者が手向ける線香の煙で、むせ返るようでした。

 行年16歳の大石主税から、77歳の堀部弥兵衛まで、幅広い年齢構成の四十七士でしたが、過半数は20代、30代で命を絶っています。新婚の奥さんや、生まれたばかりの赤ん坊や幼少の子供がいただろうに、と複雑な気持ちにさせられます。全員が法名に "刃" と "剣" の文字を頂いているのも、痛々しい感じすらあります。涙をぬぐっている参詣者を、何人も見かけました。
 それでも、ひとりひとりを見ていくと、それぞれ芸に秀で、多彩な集団という印象も与えます。また、そのことが、四十七士の人気ともなっているのでしょう。たとえば、高田馬場の果し合いで一躍有名になった堀部安兵衛は、それ故に弥兵衛の娘婿にと懇願され、その後、仇討ちの中でも重要な役割を果しています。でも、彼は意外にも書の達人で、浪人時代、お世話になった医師のために書いた看板(泉岳寺、赤穂義士記念館蔵)は、なかなか達筆な、立派なものです(行年34歳)。
 俳号、子葉を持ち、浅野家俳門の三羽烏とも言われた大高源五は、茶の宗匠の門に入り、12月14日の吉良邸での茶会を察知した大功労者とされています。実は、この風流人は文武両道に秀でた人であり、討ち入り後、源五ら十士をあずかった松平家には、野太刀の極意を安兵衛と源五に習った、という接待係の記述があるそうです(行年32歳)。
 その他、変わったところでは、江戸での偵察に活躍した武林唯七は、祖父が中国抗州武林出身の医師で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、捕虜として日本に連れて来られ、めぐりめぐって父の代から浅野家に仕え始めたというのがあります。その剛直さは、辞世の句、"仕合せや死出の旅路は花ざかり" にも良く表われていますが、切腹の際、介錯人の打ち損じを物ともせず、居住いを正し、"お静かに!" とまわりをたしなめたと言います(行年32歳)。

 泉岳寺で義士の墓を前にすると、四十七士だけではなく、隠れた登場人物のことにも思いが巡ります。食べる物、着る物もままならなかった浪士を、陰で支えた人達。親孝行と亡君への忠義の板ばさみになり、28歳で自害した萱野三平。武士の義理と初恋との選択にさいなまれ、18歳の若さで、大阪の遊女と心中した橋本平左衛門。じくじたるものを感じながら、途中で仇討ちの連盟を脱退した人達。それぞれに、自分の結論に至るには、亡君を思い、家族を思い、眠れぬ日々を送ったのではないかと思います。
 義士にしても、誰ひとりとして、刹那の迷いもなかった人はいないはずです。そういった葛藤が、討ち入りを単なる史実ではなく、仮名手本忠臣蔵を始めとする数々の名ドラマに高めているようです。

 先述の大高源五は、討ち入りの直前、お母さんに手紙を書いています。これで最期ですが、これも前世の約束だと思って、嘆かないでください。形見に衣類などを差し上げたいけれど、垢(あか)にまみれているので、代わりに守り袋を送ります。本当に、先立つ罪をお許しください、どうか深く悲しまないでください、と切々と訴えています。
 そういう彼も、事を成し得た後は吹っ切れたようで、辞世の句では粋にこう詠っています。

 梅で呑む茶屋もあるべし死出の山。


(赤穂浪士に関しては、泉岳寺発行の "義士銘々伝" と、船戸安之氏著 "赤穂浪士"、成美堂出版、を参考にさせていただきました。)

夏来 潤(なつき じゅん)

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