Essay エッセイ
2022年10月30日

世界遺産の古墳群

<エッセイ その195>

10月も後半となると、急に肌寒くなってきました。


秋を通り越して、冬の冷たさを感じることもあり、あんなに暑かった夏も記憶の彼方に過ぎ去ろうとしています。


ちょうど一年前にもご紹介いたしましたが、我が家の結婚記念日は10月初頭。その時期になると、毎年どこに行こうかとプランするのですが、今年は昨年と同じところに泊まろう、ということになりました。


ひとつに、福岡県宗像市神湊(むなかたし・こうのみなと)の丘に建つホテルが、海を臨み風光明媚な立地であること。ホテルレストランのフレンチ料理も美味しかったこと。


そして、宗像市は、宗像大社や宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)と、歴史に恵まれた地であることが決め手となりました。


そう、宗像市は『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』として、2017年にユネスコの世界遺産にも登録された地域。


海の神さまである宗像三女神(むなかたさんじょしん)をお祀りする沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)、大島の中津宮(なかつぐう)、宗像の辺津宮(へつぐう)が含まれます。


今は神官しか足を踏み入れられない沖ノ島には、一番上のお姉さま・田心姫神(たごりひめのかみ)が、宗像からフェリーで15分の大島には、真ん中のお姉さま・湍津姫神(たぎつひめのかみ)が、そして宗像本土には一番下の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祀られます。


一年前には、宗像の辺津宮、大島の中津宮、大島から沖ノ島に向かってお参りできる沖津宮遥拝所(おきつぐうようはいしょ、写真)を巡り、当時のヤマト王権と朝鮮半島や中国との海を超えた結びつきを感じることができました。


宗像という地は、ヤマト王権と大陸との文化交流の上で、大事な橋渡し的な存在であり、それが世界遺産認定の理由ともなりました。



そんな風に、宗像の歴史を思い出しながら、再び向かった一泊二日の小旅行でしたが、自分の認識の甘さを痛感することになりました。


なぜかというと、世界遺産となった『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』には、三女神をお祀りする宗像大社だけではなく、周辺地域の関連遺産として「古墳群」も含まれているから。


この歴史の古い北部九州のエリアには、さまざまな古墳が散在するのですが、「まず、ここは外せない!」と訪れた新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群が、世界遺産の構成資産となっていたのです。


なんでも、古墳群が世界遺産の構成資産となったのは、日本では初めてのことだとか。


まあ、そんな大事なことを認識していなかったとは、なんとも不勉強なことではありますが、この新原・奴山古墳群というのは、国指定史跡である津屋崎(つやざき)古墳群のひとつ。


津屋崎古墳群というのは、宗像市の西隣、海に近い福津市北部のなだらかな起伏の丘陵や台地に点在する、60基の古墳群の総称です。


南北8キロ、東西2キロの細長い地域に、前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基が集中しています。5世紀から7世紀にかけて築造されたもので、この地方の豪族・筑紫の胸形君(ちくしのむなかたきみ)一族の墳墓群と考えられているそうです。


胸形(宗像)一族とは、沖ノ島祭祀を担った古代豪族で、東の内陸部には3世紀後半から墳墓が築かれています(山際の徳重本村2号墳(消滅)や現在の宗像市役所付近の東郷高塚古墳)。5世紀前半になると、西の沿岸部に墳墓が移され、津屋崎古墳群を形成していったと考えられています。


当時は、津屋崎古墳群の一帯は、南からグイッと海が入り込む「入り海」になっていて、この沿岸地域に墳墓を移したかったのかもしれませんね。


中でも有名なのが、ユネスコ世界遺産の構成資産となった新原・奴山古墳群。「しんばる・ぬやま」とは、なんとも読みにくい名前ですが、津屋崎古墳群の中では北の方に位置し、いち早く5世紀には築造が始まったとされる、古い古墳群です。ここから南の方へと古墳の築造が移っていったそう。


現在は、新原・奴山古墳群を突っ切って国道495号が南北に走っていますが(写真では向こう側の海岸近くに縦断)、当時は、この国道ラインが入り海の波打ち際となっていて、小高い台地からは、玄界灘に浮かぶ大島がすぐ目の前に見えます。


この古墳群の特徴は、とにかく古墳が密集して築造されていること。


まず、駐車場のある展望台から眼下の緑を眺めると、散策路の脇にポコポコとした小山が見えますが、これが古墳の連なり。


古墳といっても、小さなものから大きなものまで、サイズもさまざま。形も前方後円墳や円墳と、いろいろです。


まだ真夏のような日差しの中、汗をかきながら古墳群を散策しましたが、まずはポコポコと続く、小ぶりの円墳が登場します。


散策路の左に、お行儀良く一列に並ぶ34号墳から43号墳の10の円墳です。大きなものでも直径15メートルと小ぶりの円墳で、6世紀に造られたそうです。


細長い尾根の上に並んで造られているので、近しい親族の方々のために築かれたものなのでしょう。きっと、亡くなったあとも仲良く過ごしていただこうと、古代人が考えたのではないでしょうか。


展望台から一番先の34号墳には、立ち入り禁止の紐がかかっています。墳丘の修復のために、現在調査中とのこと。


大がかりな発掘調査には見受けられませんが、円墳の上部が削られているようなので、この部分を修復する計画なのでしょうね。


この円墳の行列を過ぎて、しばらくすると、正面に前方後円墳が見えてきます。


まさに「前方後円墳のお手本」ともいえるような、わかりやすい形です。6世紀前半に築かれた全長54メートル、高さ8メートルの30号墳です。


前方部の上部が開墾によって削られていますが、鍵穴の形は美しく保たれています。墳丘上では須恵器の甕(かめ)や高坏(たかつき)が出土していて、後円部の横穴式石室が埋葬施設とされています。


30号墳の真ん前には、円墳の25号墳があります。円墳の直径は35メートル(推定)と、30号墳の後円部よりも大きく、存在感があります。5世紀後半に造られ、30号墳よりも古株です。


こちらは、新原・奴山古墳群で最大の円墳で、墳丘は二段になっています。発掘調査では南西側に幅7メートルもの周溝(しゅうこう)があったのが確認されていて、築造時には、円墳の周りに水がはられていたのでしょう。


周溝は、すぐ近くの前方後円墳、24号墳にも残っているそうです。


6世紀前半に造られたこちらの墳墓では、後円部のまわりにくっきりと溝が残っていて、その周溝のまわりには、掘った土を盛土とした周堤(しゅうてい)があるそう。


なんだか、草ぼうぼうでわかりにくいですが、水がはられた周溝やそのまわりに周堤があったということは、埋葬した方々の「お墓を守りたい」という意思の表れなのでしょうね。


そして、この古墳群で最大の墳墓といえば、こちらのこんもりとした森。


25号墳から歩を進めると、目の前に見えてくる森ですが、こちらは全長80メートルの前方後円墳、22号墳です。


福岡県や隣接する佐賀県の場合、なだらかな、こんもりとした森は古墳であることが多いのですが、そんな期待を裏切らない、立派な古墳です。


こちらの写真では、手前が前方部で、向こうの緑濃い山が後円部になっています。前方部は原形を留めていないそうですが、後ろの円に比べて前方部が短い「帆立貝(ほたてがい)式」の前方後円墳とのこと。


5世紀後半に築かれ、墳墓のまわりには周溝と周堤が巡らされているとか。


周溝や周堤があって、この辺で最大のお墓ということは、どなたか大きな権力をお持ちの方が埋葬されたのでしょうか?


なんでも、5世紀中頃に築かれた前方後円墳の1号墳、5世紀後半に築かれたこちらの22号墳、そして6世紀前半に築かれた24号墳(上でご紹介)は、この地方の豪族・胸形君(むなかたきみ)一族の盟主級のお墓だということです(吉村靖徳氏著『九州の古墳』2015年、海鳥社、47ページ参照)。


場所的にも、1号墳、22号墳、24号墳は、当時の海岸線に近い、小高い丘の上に築かれていますので、「海を臨む立地」「周溝・周堤」というのは、盟主級の墳墓造営の前提条件だったのでしょう。


副葬品としては、22号墳の墳丘には、円筒埴輪(えんとうはにわ)が立っていたそうなので、いよいよ「偉い人のお墓」といった印象ですよね。


前方後円墳としてはかなり古い1号墳からは、鉄刀や鉄の矢じりに加えて、鉄製の鏨(たがね)や鉄槌(かなづち)が見つかっています(「たがね」とは、鉄槌で叩いて岩石や金属を加工する「のみ」のような工具)。


このような鍛冶具は、当時、鍛冶の技術が存在したことを示すとともに、朝鮮半島から鍛冶技術を携えて渡来した職人が関与したのだろう、と考えられるそうです(吉村氏、2015年)。


こんもりと大きな22号墳には、デコボコの石段を伝って登ることもできるのですが、興味深いことに、頂上には宗像大社にある高宮斎場(たかみやさいじょう)のような祭祀場があります。


もちろん、墳墓造営当時のものではなく、後世(鎌倉期)の人々がここで祭祀を行うようになったようです。


やはり古墳というものは、いつの時代の人間にとっても、神聖な雰囲気を感じる場なのでしょうね。


ここに静かに立っていると、どなたか神々しい存在と会話できる、そんな気もしてくるのです。



まだまだ暑い、10月初頭。真夏日の炎天下、かけ足で巡った世界遺産の古墳群でした。


が、それだけでは物足りず、次に足を伸ばしたのは、宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)でした。


宮地嶽神社は、近年、国民的アイドルグループが訪れて有名になったと聞きますが、長い階段を登り切って後ろを振り返ると、海まで続く参道と背後に輝く海が魅力です。


参道の先には相島(あいのしま)が海に浮かび、まさに絶景ではあります。


年に2回、2月と10月には、この相島に太陽が沈み、輝く「光の道」が見られるそう。きっと夕陽の時刻には、鳥居の辺りは参拝者でいっぱいになることでしょう。


参道を登り切った風景もステキですが、少し時間に余裕がある方には、「奥の宮八社」まで足を伸ばしていただきたいと思うのです。


なぜなら、こちらにも古墳があるから!


本殿の右奥に進んで行くと、宮地嶽の斜面に建つ「奥の宮八社」に続く上り坂があります。ちょっと急な坂なので、気力がなえそうですが、ここを頑張って進みます。


えっちらおっちらと坂道を上って行くと、八番社の薬師神社や、五番社の恋の宮(写真)と、色とりどりの社(やしろ)が現れます。


恋の宮というのは、淡島神社(あわしまじんじゃ)と濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)の二柱をお祀りする社で、それぞれ女性の身体と心を守ってくださる神さまなんだそう。とくに女性特有の病や恋愛に霊験あらたかとのことで、ですから、女性の方がたくさんお参りされるんですね。


この奥の宮を巡る散策路は、くるりと一周できるようなサークルになっていて、入り口から一番遠い箇所にたどり着くと、おや、不思議。


なにやら、山と社が合体したような、風変わりな建造物が出てきます。


こちらは三番社の不動神社で、実は、山の部分は古墳なんです。


6世紀末から7世紀初めに築かれた、直径34メートルの円墳の宮地嶽古墳で、発見されたのは、江戸時代中期とのこと。


古墳の内部には、巨石を積み重ねて造った長さ22メートルもの横穴式石室があり、その奥に不動神社の御神体が祀られます。古墳と神社の合体とは、全国でも珍しい例ではないでしょうか。


古墳としても、こんなに長い横穴式石室は珍しいそうで、国内二番目の長さを誇るとか。


古墳周辺からは、いずれも金銅製の太刀、馬につける鞍金具(くらかなぐ)や壺鎧(つぼあぶみ)、透彫冠(すかしぼりかん)、緑色半透明なガラス製の瑠璃玉や瑠璃板と、当時の宝ともいえる副葬品が出土しています。


とくに鞍金具と宝冠には、シルクロード伝来と思われる龍紋と唐草がデザインされていて、ペアで制作された秀作。壺鎧も、最高の保存状態で見つかった一級品だそうで、出土した300点の副葬品のうち、二十数点が国宝に指定されているそうです。


沖ノ島の祭祀場で見つかった数々の宝物とともに、この地を支配していた宗像氏の富と繁栄を象徴する品々となっています。


ここに埋葬されたのは、天武天皇の側室で、高市皇子(たけちのみこ)の母である尼子娘(あまこのいらつめ)の父親、胸形徳善(むなかたのとくぜん)とされています(吉村氏、2015年、48ページ参照)。


この宗像・福津エリアの南、現在の福岡市東部や糟屋(かすや)郡からは、阿曇(あずみ)族が勢力を伸ばしていったとされています。


宗像氏と同じく、海上交通を支配した有力氏族で、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)にある志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、阿曇氏ゆかりの地とされています。


現在の福岡市周辺を支配した阿曇氏と、宗像市や福津市を支配した宗像氏は、両氏族とも海上交易で栄えたという点で似ています。いったい互いにどんな関係だったのだろう? と、興味がわくところではあります。

(写真は、博多湾に浮かぶ島々。真ん中には、福岡市から伸びる砂州と志賀島、左端に能古島(のこのしま)が見えています)



というわけで、古墳探訪。


苦労して自分の足でまわってみると、遺跡の立地や大きさが感じられます。すると、当時の人々が何を考えていたのか、少しは想像できるような気もしてくるのです。


いろんな本を読んだり、映像を観たり、客観的に学ぶことも大事ですが、実際にモノに触れてみないとわからないこともたくさんあるのでしょう。


大きな自然の中にある古墳群。なかなかいい観光地なのかもしれませんね!

(写真は、宮地嶽神社の参道を抜けた宮地浜(みやじはま)から臨む、相島です)



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