Essay エッセイ
2006年09月12日

山ごもり

この週末、太極拳の師とその門下生で、山にお籠りしてきました。

仲間内では「隠遁(いんとん、retreat)」などと呼んでいますが、短い週末の間、日々の生活を離れ、自分を見つめなおそうじゃないかという修行のようなものなのです。

シリコンバレーから南に向かって、ハイウェイ17号線という道路が走っていますが、このくねくね道を上って下ると、サンタクルーズの山脈を抜け、海辺に出ます。ここで17号線は1号線に合流し、ちょっと南に下った所でフリーウェイを降り、もう一度山へ向かって上って行きます。
 ソーケル(Soquel)という小さな街の住宅地を抜けると、車が一台しか通れない山道となり、その一番奥が目的地、Land of Medicine Buddhaです。


Land of Medicine Buddha、訳して、薬師仏の地。「薬師仏」とはチベット仏教の呼び名で、日本の仏教でいうと、「薬師瑠璃光如来」になるのでしょうか。
 人の身体の苦しみを取り除いてくれるばかりでなく、心の苦しみや障害からも解き放ってくれる、そういった青い肌の仏さまなのです。

ここは、チベット仏教のお坊さんや尼僧さんが修業する場ではあるのですが、一般の人にも、宿泊施設として開放されているのです。

週末ゆっくりしてみたいとか、ちょっと静かに考え事をしたいとか、いろんな理由で集う人たちで、いつも満杯なのですね。


ちょっと見ただけでは、仏教関係の建物には見えませんが、入り口には、チベット式の祈祷の輪(prayer wheel、マニ車)が置かれていて、平和と幸せを願って、誰でも自由に回すことができます。

受付の向かいの本堂には、立派な金色の仏像が数体置かれ、毎朝ここで、お勤めや瞑想も行われます。一般の人も参加できるようになっているようです。

便利さを好む現代人のために、宿泊施設の各部屋にはトイレ・シャワーが付いていて、庭にはプールやサウナも完備されています。快適な逗留ができるのですね。

ただし、仏教の施設なので、食事は菜食で、食後、皿は各々が洗う規則になっています。勿論、お酒やタバコの嗜好品は禁止で、一切の殺生も固く禁じられています。携帯電話も使えません。

豊かなセコイア(redwood)の山に囲まれ、その澄み切った空気と静寂は、どんな俗人の心も洗い流してくれる、そんな清らかな場所なのです。


今回の修行の目的は、ただひとつ。自分なりの目標を持って、自分を見つめなおし、何かを発見する(discover)こと。そして、新たに発見したものを探求し(explore)、自分なりに何かを得る(evolve)こと。

まあ、そう書くと、非常に難しい哲学的な探求のように感じますが、簡単に言うと、「あ、自分が立って瞑想をするときは、肩に力が入りすぎていたな」、それだけでも、十分な発見なのですね。

いつも、当たり前だと思っていたことから脱出し、違った方法を見つけてみる。その違った方法が積み重なっていくと、急に視界が開け、違った現実(reality)を味わうことができる。
 現実がひとつではないと気が付いたとき、機械仕掛けのような日常からも脱却できる。そんな感じでしょうか。(すみません。いやに哲学的だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、太極拳なんて、半分は哲学みたいなものなのですね。)


人によって身体や精神の修行の段階はさまざまなので、師もああしなさい、こうしなさいと、口やかましく言いません。
 もともと、スパルタ式の師ではないこともあります。自身もチベット仏教のお坊さんではあるけれど、たとえ話は、いつもユーモアに満ち溢れています。
 それに加え、弟子の心や体の準備ができて、自らが「あっ!」と気が付かないと、人がいくら口で説明しても何にもならないことを熟知しているせいもあるのでしょう。

一応、師が考えた一日のスケジュールや、みんなで集まる講習会みたいなものはあるのですが、それに参加しようがしまいが個人の勝手。参加しなかったからといって、怒られることはありません。何もしないのも、修行のうちなのです。

でも、良心の呵責なしに欠席というのは、実は、もっとも難しいんですけれどね。

わたしは、3日目の朝、6時半からの丘の上での気功をさぼりました。
 この丘には、大きな仏像が納められているお堂があって、その前で行う早朝の気功も日課のひとつとなっているのです。けれども、前日、睡眠不足で疲れていたので、その日わたしは、朝食が始まる8時まで寝ていたのです。

そのあと、たった3人しか現れなかったと聞いて、「しまった、師に悪いことをしてしまった」と、罪悪感を覚えてしまいましたね。なんと人間の小さいことか!


この隠遁生活は、わたしにとっては2泊3日、ほとんどの門下生にとっては3泊4日だったのですが、その期間中、沈黙の業(silent practice)を試してみる人もいました。

沈黙の業。つまり、一言もしゃべらないという修行ですが、これが、なかなか難しいようです。

まあ、わたしは家にこもって、ひとりで物を書いていることが多いので、じゃあ、これは沈黙の業か?と言うと、そうではないらしいですね。この沈黙を、まわりに人がいて、しゃべりかけられたときにも続けることができるのか、これが鍵となるようです。
 つまり、誰かに話しかけられたとき、日常やっているように無意識に返事をせず、黙って相手に目や手でサインを送る、そういった「意識」を指すらしいのですね。

そうやって、沈黙を続けていると、自分のやっていることを、常に意識的にみる(単に「見る」ではなく、「看る」、「視る」)癖が付くらしいのです。
 そうしないと、自分の一生が終わりに近づいたとき、ふと、「自分の人生って何だったんだろう?何をやってきたんだろう?」と考えてしまうとか。

沈黙の業は、本格的にやろうとすると、何ヶ月も、時には何年も続けて行うようなのですが、たった数時間でもやってみると、何かしら違ったものを会得するようです。(写真は、師の手になる「沈黙中」のサインで、これを首からかけていると、話しかけてはいけないお約束となっています。)


わたしは、沈黙の業には臨まなかった代わりに、一人で森の中に歩いて行きました。

このLand of Medicine Buddhaの敷地は、160エーカーと広大なものらしく、お散歩したくらいでは、敷地の中からは抜け出せないのだそうです。
 それでも、敷地内とはいえ、ナイシーン・マークス州立公園に隣接するセコイアの森は深く、過去数年間に、2回も捜索隊を出したことがあるそうな。
 くれぐれも小道には入らないでくれと、施設管理者からクギを指されていたので、こちらもおっかなびっくりではあります。が、それでも怖いもの見たさも手伝って、果敢にひとりで森へと向かいました。

宿泊施設から舗装された小道を登っていくと、いつしか泥道に変わり、そこから先は、「魔法にかけられた森(Enchanted Forest)」と呼ばれる場所となります。
 クローバーや蔦などの寄生植物は見られますが、その他は、見渡す限り、濃い灰緑の葉と赤っぽい幹のセコイアの森。ちょっと足を踏み入れただけで、「昼なお暗い」という表現がぴったりの散歩道となります。

少し行くと、巨大な木の幹が横たわっていて、その上には、祈りの言葉を書いた色とりどりの旗(タルチョ)がかけられています。
 こういった祈りの旗は敷地内のあちらこちらに暖簾のようにかけられているのですが、こんな森の中にもあるのです。

いったい何かと思って近づいてみると、幹の洞(うろ)は、祈りの場となっていて、人々がいろんなお供えをしているのです。徳利のような焼き物の容器、ダライ・ラマ14世の写真、「Growth」と彫られた小石、カラフルなビーズでできたお数珠、カップルの似顔絵。実に、思い思いのものが置かれています。
 そして、幹の上には、猫の頭部の石像が。何かチベット仏教に関係があるのかと思えば、どうも、思い出深い品として、誰かが勝手に置いて行ったもののようです。

すまし顔の猫は、日の光も届かない森を、まるで自ら支配するかのように静かに見渡しています。


更に歩いていると、ふと、ポケットの中にキャンディーがあることを思い出しました。非常食用に持ち歩いているキャンディーなのですが、包みを開け、ひとつ口に入れてみると、急に母が恋しくなってきました。

それが、母から送られたキャンディーだったこともあります。そして、森の入り口にあった立て札の言葉を思い出したこともあるのです。

立て札には、こう書かれてありました。

「要約すると、私のすべての母親に幸と益をもたらすよう、直接的にも間接的にも、悪い行いや苦しみは私が密かに肩代わりしよう。」

これは、何かの経典にある言葉のようなのですが、自分の幸せを他に分け与える愛(love)、そして、他の苦しみやその原因を自分が負ってあげる思いやり(compassion)を指すらしいのですね。
 実際にこういうことを実行するのは凡人には難しいわけですが、心の中で思うだけでも、それを続けていけば、行いへの助けとなる、そういった意味のようなのです。

まあ、わたしのような俗人には深い意味などわかりませんが、「私のすべての母親(all my mothers)」という言葉が出てきたので、なんとなく母を思い出し、同時に、自分を生んでくれた母は偉大なものだなあと、感無量になってしまったのですね。

これも、深い森がなせる業、といったところでしょうか。


2泊3日の隠遁が終わり、普段の生活に戻ってみると、何かが急激に変わったようでもあるし、何だかあんまり変わってないようにも思えるし、複雑で、それでいて、霧がかかったようにぼやけてもいます。

まあ、それなりに会得するものも多かった週末ではありましたが、最後にひとつ、「やっぱり山は怖いよ」とだけ申し上げておきましょうか。

めまい、頭痛、吐き気、そういった症状は、このサンタクルーズの山では当たり前のことなのですね。(高山病といった意味ではないんですけれどね。)


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