Essay エッセイ
2024年02月28日

筑前国・住吉神社〜宮司さんの祖先、鎌倉時代に活躍!

<エッセイ その209>

季節のうつろいは早いもので、もうすぐ桃の節句。


ホテルレストランには雛壇が飾られ、外国人観光客にも日本の美を伝えています。


福岡県八女(やめ)市にある人形会館が提供されたそうで、こちらでは毎年たくさんの雛人形や五月人形を製作・出荷されています。


難しいのは、女雛と男雛の肩から手に向かうライン。ベテラン人形師が堅い心棒をエイっと曲げ、指先で微調整しながら女性の優しさ、男性の毅然たるさまを表すそう。


というわけで、今日も日本の歴史に関するお話をいたしましょうか。


前回のエッセイでは、福岡市博多区にある立派な能楽殿をご紹介しておりました。


筑前国一ノ宮 住吉神社(ちくぜんのくにいちのみや すみよしじんじゃ)の境内に建つ、昭和初期の歴史的な能楽殿。


広々とした空間に総檜造りの舞台で、演者の方々にも「とても響きが良い」と評判です。


昨年10月に美しくリニューアルした翌月、歴史講座の勉強会で足を踏み入れたわたしは、能楽殿を造られた方々の音響へのこだわりに驚いてしまったのでした(実際に音が聞けなかったのが残念しごく・・・)。


このとき、見学者を受け入れてくださったのは、住吉神社宮司の横田昌和氏と禰宜の桐田篤史氏のお二人。横田家は、代々宮司を務めるお家柄です。


住吉神社の歴史は、1800年前にさかのぼるともいわれますが、江戸時代には福岡藩主・黒田家の庇護を受け、本殿は1623年(元和9年)初代藩主 長政によって再建されたもの。二代忠之は本地堂を再建、四代綱正は鐘楼を再建、五代宣政は護摩堂を建立と、代々の藩主によって手厚く寄進がなされました。


現在、住吉神社宮司を務める横田昌和氏は55代目とのことで、代々の宮司さんの中には、鎌倉時代の有名な書物に登場する方もいらっしゃるのです。


今日は、郷土史研究家・清田進氏よりご教授された内容をもとに、横田家祖先のお話をご紹介いたしましょう。



鎌倉時代といえば、源頼朝(みなもと よりとも)。平氏一門を滅ぼし、相模国・鎌倉を拠点とした、初の本格的な武家政権です。


その始まりの年代にはいろんな説があるようですが、1180年(治承4年)には頼朝が挙兵しているので、だいたいこの頃から急激に力をつけていったと理解していいのでしょう。


この頃のことは、『吾妻鏡(あづまかがみ)』という書物に克明に記録されています。


本題に入る前に、ちょっと『吾妻鏡』のご説明をいたしましょうか。


『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の年代記ともいえるもので、以仁王(もちひとおう、別称:高倉宮)の令旨(りょうじ)により頼朝が東国武士を募って挙兵した1180年から、鎌倉を追われた6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)が京都に戻った1266年(文永3年)まで網羅されています。その詳細な記述から、鎌倉時代を知る上では、貴重な歴史書となっています。


何年何月何日と日付ごとに(ときには時刻まで)記入されていて、まるで誰かの日記のようなスタイルですが、編纂は、政権最末期の1300年(正安2年)前後だろうとされています。編纂者は、幕府の中枢部にいた北条一門やその周辺といわれます。


細かい史実は、朝廷の文士から幕府の奉行人となった方々の日記や、彼らの家に残された文書(もんじょ)、朝廷より送られた文書や武士が提出した文書など、さまざまな文書や記録がベースとなったそう。


原文は和風漢文で書かれていて、現代語訳された『吾妻鏡』を読んでみると、まるでその場にいたかのようなリアルなタッチ。やはり編纂の上では、数人の日記を照らし合わせて、他の文書で史実の裏取りをしたのだろう、と編纂者たちの苦労が感じられます。


そのためか、年次の書き写しミスがあったり、史実に誤った解釈があったりと、読む側にも心得が必要なんだそう。『吾妻鏡』の写本は複数存在し、どれを底本とするかでも、微妙な違いが出てくるとのこと。


吉川弘文館刊行の現代語訳(2007年)は第16巻まであり、『吾妻鏡』全52巻もの大作を訳し、細やかに注釈を加えられた編者・訳者の方々には、頭が下がる思いです。


(『吾妻鏡』については、現代語訳の序章「『吾妻鏡』とその特徴」と「『現代語訳吾妻鏡』の底本について」を参照いたしました)



というわけで、住吉神社・宮司さんの祖先のお話です。


最初に祖先の方が『吾妻鏡』に登場するのは、1180年(治承4年)7月23日の項。


ここでは、こんなことが書かれています。


佐伯昌助という人物がいて、筑前国住吉神社の神官だったが、昨年5月3日に伊豆国に流されていた。同じ神社の祀官である昌守も、一昨年1月3日に伊豆に流されていたという。その昌助の弟である住吉小大夫(すみよし こだゆう)昌長が初めて武衛(頼朝)のもとに参上した。(中略)

昌長と伊勢神宮の祀官の子孫である永江蔵人大中臣頼隆)は、源氏のために兼ねてから人知れず徳を表していただけではなく、それぞれ神職を勤めたいと求めてきたので、(頼朝のための)祈祷を命じるために仕えることをお認めになったという。


これを読むと、筑前・住吉神社の神主・佐伯昌助と神官・昌守は、先に(平家によって)伊豆に流されていて、昌助の弟で(兄に同行した)住吉小大夫昌長が、伊勢神宮の神官の血筋である頼隆とともに、頼朝のために神職を勤めたいと申し出て、頼朝に認められた、という内容です。


どうして昌助と昌守が伊豆に流罪となったのかは書かれていませんが、当時、栄華を極めた平清盛は、筑前・博多を宋貿易の拠点としていて、博多は彼にとって重要都市。


現在「博多総鎮守お櫛田(くしだ)さん」と親しまれる櫛田神社は、清盛が肥前・神埼(現・佐賀県神埼市)の櫛田宮を博多の町に分祀したものといわれます(櫛田宮のある神埼は豊かな穀倉地帯で、当時は有明海・筑後川をルートとする海外交易の要衝でもあり、荘園として栄えていました)。


そんな清盛にとって、何かしら住吉神社の神官がお気に召さないことがあったのでしょう。お兄さんとともに伊豆に流された昌長は、20年前の平治の乱で平家に破れ、同じく伊豆・蛭島(ひるがしま)に流されていた源頼朝に仕えることを願い出るのでした。



二回目に昌長が出てくるのは、翌月8月6日。


(藤原)邦通と(佐伯)昌長を(頼朝の)御前に召して卜筮(ぼくぜい、占い)が行われ、来る8月17日の寅卯の刻(午前5時頃)を(山木)兼隆攻めの日時とした、と書かれています。


そうなんです、頼朝挙兵の初戦は、山木兼隆(やまき かねたか)がターゲット。平氏一族の威を借り、伊豆の目代として地域を支配する人物です。


この兼隆襲撃の大事な日時を決める占いを担当したのが、昌長と邦通の二人。当時は、事を興す際には占いが頼みだったので、二人にとっても重要な役目です。


この時代を描いたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年放映)では、北条殿(時政)の後妻、宮沢りえさん演じる牧の方(りく)が占いを行う設定になっていましたが、実際は、昌長と邦通の二人が大役を務めたのでした。



そして、襲撃を明日に控えた8月16日には、頼朝が成功を願って祈祷を始め、住吉小大夫昌長が天曹地府祭(てんそうちふさい)を勤めた、という記載があります。


頼朝は自ら鏡を取って、昌長に授けられた、とも書き添えてありますので、事の重要さがひしひしと伝わります。


天曹地府祭とは、陰陽道(おんみょうどう)で戦死者の冥福や病気平癒などを願って、冥界の官人に祈祷をささげる祭式だそうです。もちろん、事の成就を祈願したのでしょうが、襲撃によって少なからず犠牲が出ることを見越して祈りをささげる意味もあったのでしょうか。当時の神官は、陰陽師の色合いが濃く、昌長も占いや祈祷がおもな仕事だったのでしょう。


もともと頼朝は、とても信心深い人物。大勝負に出る前に神仏の御加護を願うのは、当然の行いだったのでしょう。


『吾妻鏡』には、こんな一節もあります。


翌年、力をつけはじめた頼朝は、拠点とする鎌倉に鶴岡八幡宮寺を建立します。その上棟式の朝、僧侶が夢枕に立ち、夢から覚めた頼朝は、このように述べます。


「造営というのは、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を崇め敬うことである。鶴岡八幡宮寺の上棟の日にこのことがあった。ひたすら八幡大菩薩を信仰すべきである」と。(1181年(治承5年)7月21日の項)


頼朝は、八幡大菩薩を崇めるために、鎌倉に立派な「寺」を建立しました。これが、現在、鶴岡八幡宮と親しまれる神社です。明治期の廃仏毀釈のため寺から神社となっています。


もともとは、頼朝の祖先・頼義が、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮を密かに分霊して由比郷(ゆいごう、現・由比ヶ浜、材木座周辺)に由比若宮を建立。これを遷宮しようと、頼朝は心身を浄めて鬮(くじ)を取り、現在の場所である小林郷を鎮座の地と定め、ここに立派な寺を建てたのでした。


頼朝はとにかく信心深い。1180年(治承4年)10月、鎌倉に入って真っ先にしたことは、祖先が祀られる由比若宮を遥拝することでした。神であれ、仏であれ、自分の願いをかなえてくれるのであれば、熱心に祈る。


昔から大切にしてきた小さな正観音(しょうかんのん)像に経を唱える隣で、神官にも祈祷をさせる、そんな日常だったようではあります。



そして、次に昌長が出てくるのは、いよいよ襲撃の当日、8月17日の項。


北条殿(時政)が「今日は三島社の神事の日で人出が多いので、大通りを行かず、裏道を行った方が良いでしょう」と提案すると、頼朝は「大事を始めるのに裏道を使うことはできない。(中略)だから、大道を用いなさい」とおっしゃったそう。

そして、大通りを行く軍勢に(徒歩用の軽い鎧を身につけた)昌長を付き添わせた、と。


これは、昌長に戦場で祈祷をさせるためで、ここでも彼は大役を果たすのです。戦地で祈祷をするのですから、昌長としても命を懸ける覚悟があったのでしょう。


夜が明けて、ターゲットである山木兼隆の首をとり、事は成就するのですが、これから先は、戦乱の世となることが予想されます。


そこで、頼朝は、御台所(政子)に対して文陽房覚淵(もんようぼうかくえん、頼朝が信頼していた真言宗の僧侶)の房舎に避難するように勧めます。


兼隆襲撃の二日後の夜、御台所は房舎に出立するのですが、ここでお供をしたのが、(藤原)邦通と(佐伯)昌長の二人。


政子は世情が落ち着くまでここで密かに寄宿することになるのですが、昌長と邦通の二人は、ボディーガードとして政子をお守りする大事な役目を担ったのでした。



ちなみに、政子は、二ヶ月後には鎌倉に戻り、年末になると頼朝が新造した邸宅に移られたようではあります。


一年後の1182年(寿永元年)3月、ご懐妊した政子のために御着帯の儀式が行われ、頼朝自ら帯を結びます。前年末には政子が病気で臥せたこともあり、ひときわ喜びのご様子。7月には、政子は比企(ひき)家のお屋敷に移り、8月12日、第2子となる長男・頼家(のちの二代将軍)を出産。


10月には政子は鎌倉の御所に戻るのですが、まあ、その間、頼朝は亀前(かめのまえ)という女性をお妾さんにしていて、それが北条殿(時政)の後妻・牧の方の告げ口によって、政子の知るところとなるのです。


ものすごくお怒りになった政子は、亀前がかくまわれていた藤原広綱の家を破壊させ、「大いに恥辱を与えた」そう。政子に手を貸した牧三郎宗親は、頼朝の御前に呼ばれ「政子の命令に従うのは神妙なことだが、どうして内々に報告してこなかったのか」と詰問され、泣きながら逃亡したとか。


そして政子のご機嫌を取るために、亀前をかくまった広綱は、遠江国(現・静岡県西部)に流されるのです。


が、ここでめげる頼朝ではありません。亀前を新たな場所にかくまうのです。政子に恐れおののく亀前は、ご辞退申し上げようとするのですが、頼朝は大丈夫、大丈夫となだめたご様子。


亀前は、頼朝が伊豆にいた頃からおそばに仕えていた女性で、容姿端麗であるだけではなく、優しい方だったそう。そんな彼女に対する寵愛は、日を追って募るのでした。



と、すっかりお話がそれましたが、兄とともに筑前・住吉神社から伊豆に流された、住吉小大夫昌長。


最後に昌長が『吾妻鏡』に出てくるのは、13年後の1193年(建久4年)。鎌倉にやって来た昌長は、「召し返さるべき」という旨の官符(お達し)をいただいたそう。


一時期、お役を離れていたものの、また頼朝にお仕えすることとなったようです。頼朝は好き嫌いがはっきりした人物のようなので、よほど昌長が気に入っていたのでしょう!


というわけで、昌長を知ろうと『吾妻鏡』を開いたのですが、すると頼朝がどういう人物だったのかと大いに興味をそそられるのでした。


『吾妻鏡』は、徳川家康の愛読書でもあったそう。家康にとっては、武家政権を築いた頼朝の采配を描いた年代記は、必読の書だったのでしょう。


わたし自身は、とても最後まで読破する元気はありませんが、せいぜい「平家の滅亡」までは読んでみようと思っています。


<こぼれ話>

『吾妻鏡』には、当時の人々の考え方、感じ方が如実に反映されているようです。

たとえば、こんなものがあります。

1180年(治承4年)10月、鎌倉に入った頼朝は、邸宅の工事を始めるのですが、工期が間に合わないので、とりあえず幕府職員の兼道の家を移築することにします。

この建物は、平安時代の正暦年間(990〜995年)に安倍晴明(あべのせいめい)が「鎮宅の符」を押したから、これまで火災にあったことがない、との理由で選ばれたようです。(10月9日の項)

いうまでもなく、安倍晴明は平安時代の陰陽師のスター的存在。当時は陰陽師が活躍し、実力者が決断をする際は、常に彼らの助言に従っていました。ことに晴明の高名は、鎌倉時代にも語り継がれていたようですね。

わたし自身も、ある工学部教授を囲む会で、陰陽師16代目という方にお会いしたことがあります。子供の頃は妹の方が自分よりも勘が鋭く、彼女が後を継ぐのだろうと思っていたところ、大人になったある日、襖(ふすま)の一面にびっしりと文字が浮かんできて、これは自身が16代となるお告げだと自覚されたとおっしゃっていました。

なんとも不思議なお話ではありますが、『吾妻鏡』にも、こんな不思議な記述があるのです。

戌の刻(いぬのこく、午後8時前後)、鶴岡の辺りに光る物が現れた。前浜の辺りへと飛んで行き、その光は数丈(20メートルほど)におよび、しばらく消えなかったという。(1182年(寿永元年)6月20日の項)

これを読む限り、未確認飛行物体のようにも思えますが、当時の方々は、神さまが現れたように感じたのかもしれませんね。

『吾妻鏡』といえば、歴史の教科書では名前しか習わないような書物です。けれども、じっくりと読んでみると、先達の方々の頭の中が見えるようで、なかなか面白いものなのです。



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