Essay エッセイ
2020年07月16日

3番埠頭のサンタローザ号

<エッセイ  その184>



サンフランシスコには、湾に面してたくさんの埠頭(pier、ピア)があります。



今日は、そんな埠頭のお話をいたしましょう。



もともとサンフランシスコという街は、海に突き出た半島の先っちょにあって、三方を海に囲まれた四角形をしています。こちらは、ほぼ真西から眺めた写真ですが、街の西、北、東が海に面しているのがわかります。



その中でも、大きな船で近づけるほど十分に深さがあった入り江は、街の北東部分でした。ですから、この入り江(Yerba Buena Cove)に港が築かれ、人の出入りとともに集落が生まれ、ここから賑やかな街として発展したのです。



海辺の集落が手狭になるにつれ、入り江は埋め立てられ、街は東(海)に向かって数ブロック広がっていきました。その先には、何本も埠頭が伸びて、たくさんの船が着岸します。ここは、19世紀中頃のゴールドラッシュでグンと大きくなった街ですので、埠頭には世界じゅうからやってきた船が鈴なりでした。



このようにダウンタウンと埠頭が街の北東部に集中する形は、今も変わってはいません。



こちらはダウンタウン地区の航空写真ですが、ベイブリッジのたもとには、高層ビル群が建ち並んでいるのが見えます。海に向かって、埠頭がニョキニョキと伸びているのもわかります。




我が家は、このダウンタウン地区に引っ越してきたので、お散歩するとなると、埠頭のある湾(San Francisco Bay)まで足を伸ばすのが習慣となっています。



先日も英語のお話でご紹介したように、フェリーの発着場所となっているフェリービルディングまでは、15分ほどの距離。ですから、まずはフェリービルに行って、そこから埠頭めぐりをすることも多いです。



その時にもご紹介しましたが、サンフランシスコの埠頭は、フェリービルに向かって左側には奇数の埠頭(odd-numbered piers)。向かって右側には偶数の埠頭(even-numbered piers)と分かれています。



フェリービルのすぐ左には、1番埠頭の「ピア1」。その左には 1.5番埠頭の「ピア1.5」、その左には3番埠頭の「ピア3」と、お行儀よく並んでいます。



「ピア1.5」なんて変ですが、ひとつの埠頭の半分もない短い埠頭なので、「0.5」と名づけられているのでしょう。かわいそうに、「1」には満たない半端物といった感じですが、どことなくマジカルでもありますよね。



ここには、「La Mar(ラ・マー)」という名のペルー料理のレストランがあります。ペルーと聞くと、スパイスの効いた豆や肉料理といったイメージですが、こちらは案外シーフードが中心となっています。



トロピカルカクテルも人気ですが、わたし自身のお気に入りは、パン代わりのフライド・プランテン(バナナ)。海を臨むテラス席もあって居心地の良いお店ですが、現時点では、テイクアウトのみの営業となっています。



「ピア1.5」からは、小型ボートを使った水上タクシーも出ています。



イタリアのヴェニスでも水上タクシーが活躍しますが、混んだ街中を行くよりも、水を行く方が早いことも多いのです(残念ながら、今は休業中です)。




そして、「ピア1.5」の左隣には、今日の主役、3番埠頭の「ピア3」があります。



先日の英語のお話でもご紹介しているように、こちらは観光船の発着所となっています。



それほど大きな埠頭ではありませんので、埠頭いっぱいに船が着岸しています。サンフランシスコ湾をめぐるディナークルーズ船や、近くのアルカトラズ島やエンジェル島へ連れて行ってくれる小型フェリーと、クルーズイベント会社ホーンブローワー(Hornblower)の大小さまざまな船が停泊しています。



アルカトラズ島といえば、監獄で知られる小島で、シカゴの悪名高きギャング、アル・カポネが収容されていたことでも有名ですね。島全体が刑務所になっていて、昔の厳しい「ムショ暮らし」がよくわかる場所です。

街の灯があんなに近く見えるのに、泳いで脱獄しようとしても、サメの餌食になって街には到達できない、という残酷な立地でもあります。



一方、エンジェル島は、古くから軍事拠点とされた小島で、20世紀初頭には移民に入国許可を与える「関所」となったところ。

ヨーロッパからの移民は、ニューヨーク州エリス島の移民局で入国審査を受けましたが、中国や日本からのアジア系移民は、サンフランシスコ沖のエンジェル島で厳しく、執拗に長い審査を受けた、という暗い歴史があります(写真の左手に浮かぶ島が、エンジェル島)。



そんな歴史あるアルカトラズ島やエンジェル島に連れて行ってくれたり、週末にはシャンペン片手にヨットでめぐる「シャンペン・ブランチ」航路があったりと、海を楽しむ企画を提供してくれるホーンブローワー社の船たち。



今は休業中ですが、「ピア3」ではいろんな形の船を見学できます。



そう、この辺のピアは市民に開放されているので、お散歩は自由です。




埠頭の左手には、大きめな二隻が停泊しています。ここが、この二隻の定位置です。



奥に停まっているのは、『サンフランシスコ・ベル(San Francisco Belle)』という名のきらびやかな船。

後部に大きなパドル(水車)がついている、外輪船(paddlewheel vessel)と呼ばれる船です。そう、水車小屋の水車みたいな大きな輪がパタパタと水をかいて、前に進みます。



ミシシッピ川を航行する昔の蒸気船をまねて、1994年にルイジアナ州で造られました。以前ご紹介したタホ湖のクルーズ船『ディクシー2号』や『タホ・クイーン号』にも似て、クラシカルな上品な姿です。



『サンフランシスコ・ベル』はイベントの貸し切りもできて、1階から3階のホール、デッキ部分を合わせると、1050人分の座席が準備できるとか! 意外と大きいんですね。



この美しい『サンフランシスコ・ベル』の手前に停まっているのは、ちょっと地味な『サンタローザ(Santa Rosa)』。



『ベル』みたいに、きらびやかではありませんが、この『サンタローザ』は、わたしの一番のお気に入りです。



全体的に丸みを帯びた、平べったいフォルム。レトロな四角い窓に、船体のところどころに浮かんだサビ。初めて出会ったのに、郷愁を誘われます。



こんな避難用ボートも備えてありますが、クラシカルなつくりに映画『タイタニック』を思い浮かべます。そう、歴史を感じさせる姿は、どう見ても「21世紀の船」ではありません。



どうしてここまで惹(ひ)かれるんだろう? と「サンタローザ」の名で調べみると、この船は、意外と古い1927年生まれの93歳! その昔、鉄道会社のために造られたことがわかりました。



昔は、サンフランシスコ・ベイエリアや州都サクラメント一帯には鉄道網が張り巡らされていて、人々の大事な移動手段となっていました。ひとつの鉄道会社がメガ路線を持っていたわけではなく、たくさんの会社が各々の区間を担当していたようです。



が、サンフランシスコとベイエリア東部の都市の間にはサンフランシスコ湾が横たわる。そして、ベイエリア東部には湿地帯や運河が広がり、内陸の州都サクラメントには大きな川が流れている。



ですから、列車が渡れない「水」の区間をフェリーで渡ろうということで、鉄道会社がフェリーを持ち運行していたのでした。



サンタローザ号は、1927年7月にサンフランシスコ対岸のアラメダ造船所で進水式が行われ、サザンパシフィック鉄道(Southern Pacific Railways)がサンフランシスコと対岸のオークランドを結ぶ「ゴールデンゲート・フェリー路線」として運航していました。



オークランド周辺は早くから住宅地として開けていて、サンフランシスコに向かう勤め人も多かったのでしょう。フェリーは通勤の足として重宝されたのでしょうが、とくにベイブリッジが完成する1936年までは、「これしかない」という通勤ルートだったのでしょう。



こちらは、1940年に撮影された他のフェリーの様子。デッキには鈴なりに人が立っています。この日はイベントのために、定員3500人を超える乗客を運んでいたそうですが、その頃は、いかにフェリーが重宝されていたか理解できる気がします。




それで、もうひとつ驚いたのは、サンタローザ号が電気で動いていたらしい、ということ。



サンタローザ号と同じ時期に造られた姉妹の船たちは、「スチール・エレクトリック級」と呼ばれるようです。



スチール・エレクトリック級(Steel-Electric class)とは、木造ではなく鉄でできた船なんでしょうが、「エレクトリック」というくらいですから、「電気で動く」という意味なんでしょう。



どうやら、この手のフェリーは、ディーゼル発電機でつくった電力で電気モーターを動かしてスクリューを回す、という駆動系のよう。おもにディーゼルエンジンで動く現在のフェリーとは違っていたようです。



19世紀末から20世紀初頭にかけては、車だって先行の蒸気自動車に並んで、電気自動車(electric car)が市民権を得ていたと聞きます。その後、後発のガソリンエンジン車に追い抜かれて、電気自動車は影を潜めた歴史がありますが、きっとフェリーの世界でも同じようなことが起きていたのでしょう。




それにしても、わたしの大好きなサンタローザ号は、どっちが「頭」で、どっちが「お尻」かよくわからないんです。こちらは、上の写真の逆側から撮ったものですが、両方とも同じような形をしているでしょう。



なんとなく、船体を途中でチョキっと切り落としたみたい。前と後ろと両方から人が乗り降りできるようになっていて、二つの港を行ったり来たりしても回転する必要がないようになっているのでしょうか? (ということは、両方向に進めるように、両側にスクリューが付いている?)



スチール「エレクトリック」として生まれたサンタローザ号ですが、1940年ワシントン州のフェリー会社に売られた際、ディーゼルエンジンに改修され、片側から乗客を乗り降りさせる新たなフェリーとして運行されました。



1968年には現役を退き、生まれたオークランドに里帰り。1980年にはサンフランシスコに引き取られたものの、埠頭に停泊したまま忘れられた存在となります。

そんなサンタローザ号を1989年に買収したホーンブローワー社が、デッキ上に後部操舵室を復活させて、オリジナルの姿に戻してあげたそう。



ですから、昔のように操舵室が前と後ろにあって、どちらが前か後ろかよくわからないんですね。



2階客室とデッキ部分は、1940年代に改修された形をそのまま保っているようですが、それが1920年代と40年代の面白いミックスとなって、ますます魅力的になっているのかもしれません。




現在は、3番埠頭につながれたままフェリーとして活躍することのなくなったサンタローザ号。代わりに、ホーンブローワー社のオフィスとして活用されています。



今はクルーズ業界全体が休業を余儀なくされていて、3番埠頭も静まり返っています。が、またサンタローザ号のオフィスが賑やかになる日もやってくることでしょう。



ちなみに、サンタローザ号を保存していこうと、1979年には国の「歴史的建造物」の認定を受けるために申請がなされました。



こちらは、内務省への申請に使われた1939年の勇姿。サンタローザの名とともに、鉄道会社サザンパシフィックの文字がくっきりと掲げられています。



申請は無事に通り、3番埠頭の住人となったサンタローザ号。立派に「サンフランシスコの歴史」の仲間入りを果たしたのでした。



余談ではありますが:



わたしの大好きなサンタローザには、5人の姉妹がおりました。サンフランシスコや対岸のオークランド周辺の造船所で生まれた6人姉妹です。



上でもご紹介したように、サンタローザがワシントン州に売られていった1940年、実は6人とも一緒に引き取られて、ワシントン州の島々を結ぶ足として活躍しておりました。

サンタローザがサンフランシスコに戻ってきたあと、もうひとりフレズノ(Fresno)という名の一番上の姉もベイエリアに戻ってきました。けれども、手厚く面倒をみてくれる人がいなかったので、その身はぼろぼろになって海底に沈んだあと、引き上げられて、結局は2009年スクラップ業者に引き取られて行きました。



残りの4人は、ワシントン州で何度か改良を重ねて、2007年まで現役でバリバリと活躍していたそうです。が、さすがに新しい船にはかなわなくなって、オークションサイト eBay(イーベイ)で引き取り手を探すことになりました。

けれども、現役時代に認められていた安全航行に関する特例措置も期限切れとなり、誰かが引き取って運航させるのも難しい雲行き。ついに買い手は現れず・・・。

翌年には4人ともスクラップとなることが決まり、メキシコまで引かれて行ったそうです。



そんな5人の姉妹たちの運命がありますので、3番埠頭に安住の地を見いだしたサンタローザは、より貴重な存在に思えるのでした。




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