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2007年08月30日

トルコ:この不思議の国へのこだわり

Vol. 97

トルコ:この不思議の国へのこだわり

そうなんです。7月の後半、トルコに行ってきました。そこで、今回は、久しぶりに旅行記にいたしましょうか。
まあ、ご存じの通り、旅行記といっても、観光地とはまったく関係のないお話ではありますが、わたしなりに抱いている、トルコに対するこだわりをご紹介いたしましょう。

<トルコの人々>
このトルコ旅行は、実は、一年以上前から計画していたものでした。どうしてトルコなのかというと、それは、昨年5月、エーゲ海のギリシャを旅したことに端を発しているのです。ギリシャから戻ったあと、「次は絶対にトルコに行きたい!」と、そう思ったのでした。

そのときにご紹介したギリシャ旅行記でも触れていますが、あのときは、首都アテネのあと、エーゲ海の島々をめぐりました。ミコノス島、サントリーニ島、そして、クレタ島。


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各々2泊ずつだったのですが、最後のクレタ島では番狂わせ。もともとサントリーニ島からの高速船が午後6時過ぎに到着するのですが、宿泊先のホテルは、港から1時間ちょっとの場所。その晩の夕食は、もう9時半でした。
おまけに、クレタ島から一気にパリに旅立つ日は、朝がとても早い。そんなこんなで、クレタ島にはわずか36時間の滞在となり、結局、アーサー・エヴァンス卿が発掘したクノッソス宮殿やら、イラクリオンにある考古学博物館やら、有名な観光スポットは、全部パスするはめになってしまいました。

しかし、島をよく知らないとなると、余計に印象が強く残るのです。とくに、ギリシャ正教徒がほとんどのギリシャにあって、カトリック教徒の多いミコノス島、サントリーニ島と旅して来ると、このクレタ島の一種独特な感じが、脳裏に焼き付くのです。
まず、人が違う。ミコノスやサントリーニは、いかにもギリシャの昔の陶器に出てきそうな、色白のヨーロッパ人といったイメージなのですが、クレタは、どちらかというと、中近東に近い。それに、英語がよく通じるふたつの島に比べ、クレタでは、英語をしゃべれる人がとても少ない。
そこで、自分で勝手に結論付けてみたのでした。クレタ島には、お隣のトルコ系の人が多いに違いないと。クレタは、エーゲ海の島々の中では、ずば抜けて大きい。スクーターで端から端まで20分のミコノスとは訳が違う。だから、この島が他国の領土のターゲットとなり、民族が入り乱れたのではないかと。
事実、歴史的に見ても、クレタ島にはトルコ支配の時代があるのですね。紀元前のミノア文明から始まり、アテネをも支配下に置いた強大なクレタは、その後、ミケナイ、ギリシャ、ローマに続き、アラブ王朝、ビザンティン帝国、ヴェネツィア、オスマン・トルコと、さまざまな異文化に治められていたのでした。

なるほど、だったら、トルコに行けば、クレタ島で見かけたような人々が住んでいるに違いない。単純な話ですが、それがトルコに行く動機となったのでした。
けれども、トルコは大きい。日本の2倍の国土です。だから、目的地はたったふたつ、イスタンブールとカッパドキアに絞りました。ご存じ、イスタンブールは、トルコ最大の都市。そして、カッパドキアは、「穴ぐら生活」で知られる遺跡群のあるところですね。(注:トルコ共和国の首都は、イスタンブールではなく、内陸部のアンカラです。)

サンフランシスコからドイツ経由でイスタンブールに着くと、暑いし、湿気がある。ここがちょっとカリフォルニアとは違います。北カリフォルニアは、摂氏40度を越えるほど暑くなることはありますが、夏はとくに湿気がなく、空気もカラカラと乾燥しています。朝に夕に、イスタンブールの港がぼうっと湿気で霞んでいるのが、ひどく印象に残ります。


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けれども、イスタンブールは、基本的に地中海性気候。それはカリフォルニアと同じことで、きれいに手入れされた街路樹が、見るもの見るものカリフォルニアで見かける植物だったことが、この遠い異文化の国にも親近感を抱かせます。
サルスベリ、夾竹桃、シカモア(プラタナス)、そして、名前はわかりませんが、風に吹かれるとチラチラと葉っぱが銀色に輝く木。太陽光線の強い地中海性気候には、サルスベリや夾竹桃の鮮やかな花の色は、とても似つかわしく感じます。

イスタンブールで最初に人を見かけたのは、空港から市内へ向かう車からでした。車は海沿いの眺めの良い道路を走ったのですが、海に向かっていたるところに芝生の公園が広がり、木曜という平日なのに、カップルや家族連れが涼しい夕刻の海風を楽しんでいます。
驚いたことに、多くのカップルが、公園で熱く抱き合っているのです! トルコは、イスラム教の国なのに、そんなことが許されているのでしょうか? なるほど、ここは、政教分離が厳しく法で定められている国です。日々のイスラムの戒律と、社会的に許される行為とは、かけ離れているのでしょうか。
よく見ると、こういった若いカップルは、その大部分が欧米のファッションです。ロングスカートに長いヴェールを身に付けた家族連れの夫人たちとは、いでたちが違います。どこに行っても、若い世代は自由に自己表現をしたい。そういうことなのでしょうか。

そんな自由奔放な、ヨーロッパ的なイメージを抱えて到着したイスタンブールですが、外資系の大型ホテルが集まる新市街と、宮殿やモスクなどの観光地の集中する旧市街とは、まるっきり違った印象を受けました。


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新市街では、モダンなオフィスビルやスーツを着込んだキャリアウーマンも見かけますが、旧市街は、いかにもイスラムの歴史に根ざした、伝統的な庶民の街といった印象なのです。建て込んだ土色の街並みに、ヴェールを身にまとう女性たち。そう、ここは、何百年も営みが変わらない、商いの街。
新旧ふたつの区域は橋でしっかりと繋がっているのに、そこには、タイムトンネルをくぐったような、年代のズレを感じます。

けれども、そんな「タイムトンネル」には関係なく、いたる所で、路上には水を売る少年たちの姿を見つけました。炎天下、忙しく行き交う車の間をすり抜け、ドライバーを相手に商売をする子供たち。危なっかしいけれど、彼らはもうベテランなのです。
もちろん、この時は、子供たちは夏休み。けれども、8年間のトルコの義務教育の中で、いつの間にかドロップアウトしてしまう子供も少なくないようです。とくに郡部にこの傾向が強いそうですが、やはり、学校に行かせるよりも、いち早く金を稼ぐ即戦力にしたいということなのでしょうか。

ところで、街歩きをしてわかりましたが、やはりトルコには、クレタ島で見かけたような感じの人々が住んでいました。この点では、大いに満足です。クレタとトルコは民族的に繋がりがあるという、自分の仮説は正しかったのかなと。
しかし、ここで、ひとつおもしろい発見をしたのでした。トルコとギリシャの間には、並々ならぬ確執がありそうだなと。現に、トルコ人の嫌いな国の筆頭は、ギリシャですから。

「トルコ人(Turks)」という名前が世界の桧舞台に登場したのは、西暦900年頃、中央アジアの放牧民の部族からセルジュクという名の族長が生まれ、アラブ人やペルシャ人の王朝を相手に力を付け始めたのが最初なのでしょうか。これが、後に、セルジュク・トルコ帝国、そして、オスマン・トルコ帝国へと発展し、1453年、エーゲ海を治めていたビザンティン帝国を滅ぼすことになります。


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オスマン・トルコが滅ぼしたビザンティン帝国(東ローマ帝国)というのは、首都はコンスタンティノープル(今のイスタンブール)に置かれ、公用語はギリシャ語、国の宗教はギリシャ正教という、古代ギリシャ文化のバリバリの継承者でした。
だから、イスタンブールは、セルジュクが現れる前は、まさにギリシャ系のビザンティン文化の中心地だったのですね。イスタンブールにあるアヤソフィア(聖ソフィア寺院)などは、ビザンティン様式の建築物として最も有名な寺院なのです(その後、アヤソフィアは、オスマン・トルコ支配下でイスラム教のモスクとなり、現在は祈りの場ではなく、美術館的な機能を果たす観光名所となっています)。

つまり、ごく単純な言い方をすると、トルコ人が奪うまで、トルコの西側は、ギリシャだった!

しかし、ギリシャ人にとっても、その後、トルコ人は嫌な相手となります。なぜなら、オスマン・トルコが、アジア・ヨーロッパ・アフリカ三大陸の地中海・黒海沿岸に広がる強大な国となってしまったから。
1830年、ギリシャが苦労して独立を勝ち取った相手は、このオスマン・トルコだったのですね。

トルコとギリシャは、もともとそんな歴史的な確執があるところに持ってきて、近代にも、ある出来事が起きたのですね。それは、人口交換(population exchange)。そう、トルコとギリシャが、互いの国民の一部を交換したのです。
時は、第一次世界大戦が終わった直後のトルコの大変革期。それまでのトルコは、オスマン・トルコの帝政を布いていましたが、第一次世界大戦後、イギリスを始めとする連合軍の占領下となります。そして、1923年、アタテュルク率いるトルコ革命で、連合軍やトルコの西半分を占拠していたギリシャ軍(!)を駆逐し、現在のトルコである「トルコ共和国」となります。
この建国の父であるアタテュルクが、列国と結んだローザンヌ条約をもとに、1924年、トルコとギリシャの間で人口交換が行われました。ギリシャで生まれ育ったトルコ人50万人と、トルコで生まれ育ったギリシャ人100万人が、泣く泣く「祖国」を捨てることになったのです。

 


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ギリシャから移り住んだトルコ人の多くは、クレタ島からやって来た人々でした。当時を知る人によると、船はエーゲ海の北から南へと小さな島々をまわり、最後にクレタ島で多くの人を拾うと、トルコの西海岸から南海岸へとさまざまな港町に寄港し、人々を降ろして行ったということです。エーゲ海を臨むトルコ西端のイズミールや、地中海に沿う南のアンタルヤ辺りにクレタ島からの移住者が多いのは、そういった理由だそうです。最後の寄港地であるメルシンでは、「船から降りないぞ!」と、抗議行動が起こったとも伝えられています。
ひとつの家族であっても、同じ船には乗れず、はぐれてしまった家族もいました。幸運にも再会を果たしたときには、互いにもうだいぶ年老いていた・・・
そして、船には乗らず、ギリシャに残った家族もいます。父は自分の兄の移り住んだ街を望み、母は自分の姉の行った街を望み、大喧嘩の末、お金が足りずに船には乗れなかった、そんな事を覚えている人もいます。

トルコ人であるにもかかわらず、ギリシャから来た人々は「移民」と呼ばれ、ギリシャに戻ったギリシャ人の家々に暮らし始めました。多くは、ギリシャに持つ土地や家を換金できなかったので、着の身着のままの状態でトルコにやって来たのです。
しかも、血はトルコ人なのに、トルコ語がわからない。1878年、クレタ島はギリシャの領土となりました。だから、それまで何世紀も使い続けたトルコ語を話すことは、許されなくなってしまった。引っ越した先のトルコの村々では、「ギリシャ人!」などと、軽蔑的な呼び名も付けられました。
そんな彼らは、「ギリシャ人」と呼ばれないために、涙ぐましい努力をしたようです。たとえば、ギリシャではエスカルゴを食べていましたが、そんな「奇妙な」食習慣を悟られないように、殻は即、土の中に埋め隠しました。そして、休日ともなると、真っ先にトルコの国旗を掲げ、愛国心のあることを皆に知らしめます。

歴史的に見ると、このような「人口交換」の現象は、トルコとギリシャ間に限ったことではありません。たとえば、ちょうど60年前にイギリスから独立した、インドとパキスタンがあります。
イギリスからの独立に際し、インドからは、イスラムの名の下にパキスタンが切り取られたのですが、この二国間には政治不安が生まれ、イスラム教徒はパキスタンへ、そうでない人はインドへと、1千万もの人が国境を越え移動しました。このとき、互いの移住先では暴動が起き、少なくとも百万人が命を落としたともいわれています。

トルコとギリシャの人口交換では、これほどの悲劇は起こらなかったようですが、どんな背景であるにせよ、異文化の地で新しい生活を築くのは、並大抵の事ではなかったでしょう。
長い年月を経て、「祖国」に残した家族に会いたいと思う反面、その祖国はすでに「異国」となり、身内は遠い「異邦人」となってしまった・・・

人の世とは、なんとも複雑なものではあります。

いやはや、それにしても、昨年クレタ島で抱いた単なる「仮説」が、思わぬ歴史の授業に発展したものでした。

追記:「人口交換」につきましては、7月22日付のSunday’s Zaman紙に掲載された、ユクセル・ハンチェルリ氏の著作紹介記事を参考にさせていただきました。「移民」家族の写真も、この記事に掲載されたものです。

それから、この「人口交換」では、トルコ人の帰還先として、西のイズミールや、南のアンタルヤ辺りが多いと書きましたが、これに関して、おもしろい事がありました。
イスタンブール滞在中の7月22日、国を挙げての総選挙にぶつかったのですが、結果は、ご存じの通り、与党の穏健イスラム政党「公正発展党(AKP)」の圧勝となりました。しかし、この晩の選挙速報を観ていると、イズミールやアンタルヤの辺りは、圧倒的に世俗派(反AKP)である「共和人民党(CHP)」が強いのです。トルコのほとんどの地域が、2対1(ときには3対1)の割合でAKPを支持しているのですが、これらの海岸地域では、2対1でCHPが支持されているのです。
想像するに、同じイスラム教の信者であっても、いろんな過去の経緯から、政治に対する考え方に大きな違いが出てきているのでしょう。

ちなみに、ここでは触れませんでしたが、トルコの南東部にはクルド人が多く住んでいて、イラク国境辺りでは、政治的に不安定な状態となっているようです。トルコ国民の2割はクルド人で、イラン、イラク、シリアとの国境付近に集中して住んでいます。
トルコという国は、現在の国割りで実に8カ国と国境を接しているので、「国境問題」もいろいろと複雑なようです。


<トルコの定年>
先のお話で、水売りの少年たちが出てきたところですが、トルコの人たちは、若いうちから働くのでしょうか?
もちろん、それは、各々の社会・経済的な条件によって大きく異なるわけではありますが、聞くところによると、トルコの定年は、52歳なんだそうです。国営のアクセサリー屋さんで出会った日本人女性が、「わたしもあと10年で立派に定年よ!」とおっしゃっていました。52歳とは、ずいぶん若いですよね。
けれども、昔はもっとすごくて、「20年勤続すれば定年」という定義だったそうです。16歳で働き始めた人は、36歳で定年だった!!

この国は、人口構成がピラミッド型に近い、若い人の多い国なのですね。だから、若い労働力がたくさんあって、みんな早くに「隠居」する。
昨今、トルコの出生率はどんどん下がって来ているそうですが、国民の半分は26歳以下。まだまだ若い国なのですね(ちなみに、日本は、国民の半分が43歳以下といったところでしょうか)。

追記:定年が早いとなると、老後は長いのかどうか気になりますよね。単に統計だけの話をすると、今のトルコの「出生時の平均余命」(俗に言う「平均寿命」)は、72歳です。ざっくり言って、日本よりも10年短いですね。
多分、トルコは、近年になって平均余命がずいぶんと伸びたのだと思いますが、数字を見る限り、とくに長寿の国ではないようです。


<偽絨毯(にせじゅうたん)の見分け方>


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イスタンブールのお次は、カッパドキアへ向かいました。トルコのど真ん中、中央アナトリア地方にあります。イスタンブールからカイセリ空港に向かって1時間ほど飛び、ここから車で1時間の後、ギョレメという街に到着です。
空港のあるカイセリは、何十万人も住む大きな工業都市ですが、ギョレメは、3千人くらいの小さな街なのです。観光で成り立つ、のんびりとした田舎町。

 


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イスタンブールが暑かった上に、こちらはもっと暑い。内陸部なので乾燥はしていますが、日中は40度を軽く越えています。ホテルの部屋は、千年も前に掘られた岩穴を快適な空間に仕上げたもので、バブルバス(泡風呂)はあるけれど、クーラーがない!
昔は、「穴ぐら生活」はひんやりとしていたようですが、地球温暖化の影響でしょうか、涼しい夜風を持ってしても、扇風機だけでは辛いです。

カッパドキア地方は、果実やヒマワリの種、ワインにするぶどう栽培といった農業や、羊などの牧畜が盛んなようですが、昔から陶器や織物も重要な産業だったようです。陶器はヒッタイトの頃からの4千年の歴史があるそうで、なんでも、ひと昔前までは、一人前の陶器職人にならなければ、お嫁さんをもらえなかったんだとか。そして、女性は、織物ができて初めて成人と認められた。なかなか結婚できないと、「棚の上に置かれた」人などと言われていたそうです。

 


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そんなカッパドキアでは、奇妙な岩々に掘られた遺跡群をめぐる観光ツアーの合間に、陶器屋さんや絨毯屋さんにも半強制的に連れて行かれました。まあ、観光客相手のツアーは、地元の産業を助ける上では、なくてはならないものなのでしょう。
陶器屋さんでは、生まれて初めて「ろくろ」を体験させてもらったあと、ワインのセットを購入しました。手の込んだ模様の陶器セットで、ここでしかお目にかかれないようなものなのですが、これから希望のサイズを製作するから、ふた月待ってねと言われました。お金はもう全額払ったのですが、ちゃんとアメリカに届くでしょうか?

 


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一方、国営の絨毯屋さんでは、さすがに何も買わなかったのですが、ここでは良い勉強をさせてもらいました。今まで絨毯といえば、ペルシャ絨毯と、中国で見た西安の絨毯くらいしか知らなかったのですが、どうしてどうして、トルコにも立派な絨毯が存在するのです。

まず、ひとくちに絨毯といっても、絹、綿、ウールと、材質に違いがあります。どれがいいかは、個々人の好みの問題ですね。そして、織り方もいろいろで、綿の縦糸に綿の織り、綿の縦糸にウールの織り、ウールの縦糸にウールの織り、そして、絹の縦糸に絹の織りと、いくつかのパターンがあるのです。綿の縦糸に絹の織り方はありません。なぜって、綿の縦糸が切れてしまうから。


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そう、絹糸は、蜘蛛の糸に次いで、世の中で一番強くて弾力のある材質といわれているのです。
その絹糸を蚕の繭(まゆ)から頂戴するには、こんなローテクな道具を使います。こちらは、中国伝来の絹取りの道具。いろいろ試したけれど、糸の端を見つけるには、これが一番いいんだそうです。
繭からきれいな絹糸をとるためには、カイコガを成虫にさせてはいけません。なぜって、繭の中から脱出するときに、糸が切れてしまうから。だから、かわいそうですが、熱湯でサナギのうちに殺してしまうことになります。

さて、糸を取ったら、次は染めです。染料には、自然のものと人工のものがありますが、天然の染料はウール


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にしか使いません。ウールの中にある脂質が天然染料と入れ替わることで、適度に色ムラのある、自然の風合いが出てくるわけですが、綿や絹は、染めにムラのない人工染料を使います。その方が、織ったときに、模様がはっきりしてくるのです。
天然染料としては、胡桃の殻(茶色)、玉ねぎの皮(黄色)、インディゴ(藍色)などがありますが、ウールによっては、染めずに使うものもあります。灰色、茶色、ベージュと、自然色のウールも、それなりにカラフルです(なんとなく、素朴なアンデス地方の毛織物のイメージですね)。

さあ、ここで織りとなるわけですが、トルコの織り方は、


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有名なペルシャ絨毯に比べて、結び目が多く、目が詰まっているのだそうです(と、自慢していました)。なんでも、ギネスブックに認定されている記録が、1センチメートル四方、28x28(784)という結び目の数なのですが、その実物を見せてもらうと、表からも裏からも、結び目が見えないのです。さしずめ、画素の多いデジタル写真といったところ。もうこうなると、織り手は虫眼鏡を使うのですが、小さな額のサイズなのに、製作には何年もかかり、お値段も数百万円となるそうな・・・
まあ、そこまで凝らなくても、一般的に、いい絨毯の定義は、きつくしまった目なのだそうです。目を多くするには、トントンと目をしめるときに、力強く叩く。だから、数は少ないですが、男性の織り手は、重宝される。刑務所で作った絨毯などは、近頃、いい値で売れるのだとか。
そして、上を歩けば歩くほど、目がきつくしまって上等になる。だから、できたての絨毯よりも、100年経った方が値打ちのあることもあるそうな!

 


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この国営の絨毯屋さんでは、それこそ伝統的なものから、この店オリジナルのものまで、さまざまな模様や色合いの作品を見せていただきました。(作品をひとつずつ広げてくれる、専門の国家公務員がいるんですよ!)
が、ここではひとつ、大事なアドヴァイスを授かりました。それは、偽物の見分け方。

一般的に、絨毯は、絹のものがお高くなるわけですが、だからこそ、ここで偽物が横行するわけです。綿でできているのに、絹のお値段で売られている偽物が。
いや、自分は、絹と綿の違いくらいはわかるとおっしゃるでしょう。第一、光沢が違う。実は、わたしもそう思っていました。けれども、それは違うのです。光沢もあって、180度ひっくり返すと色の濃淡が変わる、そんな絹の特色を持った綿の絨毯を見せてもらったのです!

それに対抗する自衛手段はこちら。まず、絨毯の厚さ。絹は薄く、綿は厚めになってきます。他の絹の絨毯よりも不自然に厚いようなら、ちょっと疑ったほうがいいでしょう。そして、お次は、爪で軽くこすってみる。表面にうっすらと繊維質が浮き出てきたら、これは綿です。絹だと、爪でこすっても、何も出ないそうです。

ま、絨毯といえば、普段あまり縁のない商品ではありますが、お買い求めになるときは、この国営絨毯屋さんのアドヴァイスをちょっと思い出してくださいませ。


<後記>
はっきり申し上げて、トルコが好きなのかそうでないのか、まるっきりわかりません。イスラムという異教徒の国でもありますし、都市部と郡部は人が違うような気もしますし、わたしにとって、トルコという国は、やはり「不思議の国」なのです。
最初にイスタンブールに足を踏み入れたとき、胸がキュンと締め付けられるような懐かしさを感じたのですが、あれが果たして何だったのか・・・それを知るためには、ぜひもう一度行ってみないといけないと思うのです。
やっぱり、この国は、いくつもの表情を持つ万華鏡。次回は、イスタンブールから西へ、東へ、南へと、いろいろと足を延ばしてみようと思います。

それから、このトルコ旅行につきましては、他にもエッセイを少々書いております。興味のある方は、こちらも合わせてご覧ください。


夏来 潤(なつき じゅん)

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