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2004年06月23日

シリコンバレー今昔:戦争と日系の人々

Vol.59
 

シリコンバレー今昔:戦争と日系の人々

先月に引き続き、今月もテクノロジーの話題からちょっと離れ、シリコンバレーの昔話などをいたしましょう。

そう思い立ち、6月のある日、サンノゼ市の日本街にあるサンノゼ日系博物館(Japanese American Museum of San Jose)を訪ねました。そこで、ボランティアとして歴史や展示物の説明をしているアーニー・ヒラツカ氏に貴重なお話を伺いました。以下は、ヒラツカ氏の体験をもとにした、戦時中の日系家族の生活史です。


<戦前の生活>

アーニー・ヒラツカ氏の米国での系譜は、1895年、父方の祖父がハワイに移住したことから始まります。数年後、祖父は米国本土に移り、日系2世であるヒラツカ氏の父が、本土生まれの最初の子となりました。ヒラツカ家は、当時の多くの日系家族がそうであったように、サンタクララバレーで農作業に従事し、イチゴ栽培を手がけていました(ご存じのように、サンタクララバレーは、今はシリコンバレーと呼ばれます)。

1895年以来、日系の人々は、サンノゼ市やサンタクララ市を中心にバレーに広く散らばり、農地の開墾を手がけていました。現在サンノゼ市の南端を走るハイウェイ85号線沿線は、そういった日系農家の畑が最後まで残っていた地帯です。


ヒラツカ家は、1920年代に入ると、イチゴに加え、大根、たまねぎ、きゅうり、トマトなど、作物の種類を徐々に増やしていきました。写真は、当時、ヒラツカ氏の父が野菜の種まきに使っていた農機具です。
農作業には、Henry Ford & Sonのトラクターも使われていました。エンジンをかけるには、前方にあるレバーをカリカリと回します。Fordといえば、1908年10月に、世界初の量産自家用車Model Tを出しています。


主要作物であったイチゴが収穫されると、写真のような "イチゴ箱(berry chest)" にきれいに収められ、業者がトラックで配送基地からサンフランシスコやオークランドの市場に運びます。イチゴ箱の棚には、薄く削られた木製のかごが収められ、これにイチゴが盛られます。
日本街のかご製作業者、ウェイン・バスケットが後に改良を試み、白いかごを作成したところ、イチゴの赤とのコントラストからか、市場で飛ぶように売れるようになったといいます。新しいものに躊躇する他家を尻目に、ヒラツカ家が最初に改良版を採用したとか。


当時は、ストーブもコンロも灯油が燃料となっており、ヒラツカ家もこのようなコンロを料理に使っていました。一度、お母さんがイワシの缶詰を温めようとコンロにかけたところ、缶に穴を開けるのを忘れ、天井まですっ飛んでいったことがありました。まだ小さな子供だったヒラツカ氏をかばい、"気をつけろ!"と父親が母を怒鳴ったことをよく覚えているそうです。父がそんな大きな声を出したのを、この時初めて聞いたといいます。
また、こんなエピソードもあります。今でもサンノゼの日本街では餅つきが師走の恒例となっていますが、移住当時から、日系コミュニティーでは、皆で餅をつくことがお正月準備の大事な行事となっていました。ある年の餅つきで、お母さんがこねを担当していた時のこと、つき手の父とリズムが合わず、指先を杵でつかれ痛い思いをしてしまったそうです。まだ餅つきにも慣れていない頃のお話です。


<収容所へ>

日系の人々の生活が急激に変化したのは、1942年2月19日のことでした。前年12月7日の日本軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃で、日本はアメリカの敵国となり、日本人を祖先とする者は、米国籍の有無を問わず全員を収容所に入れるという、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の命令が下されたのです。
これが、アメリカ史上、最も恥ずべき汚点ともいわれる "大統領行政命令第9066号(Executive Order No. 9066)" です(収容所は、英語では "移転収容所" を意味するrelocation centers や、"敵国人収容所" を指すinternment campsといった表現がなされます。しかし、これらは婉曲語だとして、収容経験者の多くは、"強制収容所" を表すconcentration campsを使います)。

ヒラツカ家は、1937年以降、父がランドリー(洗濯業に移った関係でオークランドに住んでいました。ここでも電信柱ごとに "お達し" が張り出され、日系の人々はすべて、住み慣れた家から追い出され、遠く離れた砂漠の収容所に送られることとなりました。短いケースで6日間ほどの猶予が与えられ、その間、持ち物をすべて処分し、家族で持てる分だけを荷造りし、収容所行きに備えるのです。赤ん坊がいる人は、いくらも荷物が持てないので、自分のものは後回しです。
カリフォルニアでは、19世紀末に中国系移民の排斥運動が起こり、日露戦争での日本の勝利を機に、日系移民にも激しい矛先が向けられていました。そして、1920年、アジア系移民の土地の所有や借地を禁止した法律も定められました。しかし、中には、アメリカ国籍を有する2世の名義にして、かなりの土地や家を所有している家族もありました。短い準備期間中、破格の値段で手放す者も、隣人や知人に託す者もありました。戦争が終わって帰ってみると、家は荒れ果て、畑や果樹園は他人のものになっていたという話も珍しくありません。銀行ローンの名義を勝手に変更し、土地を自分のものにしてしまった隣人のケースもあるようです。
ヒラツカ家では、頑丈にできたスーツケースを銘々に購入し、服や下着、身の回りのものを詰め込み、収容所に向かいました。残りの家財道具で後の生活に必要なものは、郡の保安官事務所が預かってくれたので、収容所に落ち着いた頃に手紙で輸送を依頼し、大きめの箱3個分の荷物が無事に届けられたといいます。けれども、後に収容所で起きた火事のため、半分以上は失われてしまいました。多くの人は、保安官事務所での保管は信用できないとして、売却や友人に託す選択をしました。


<収容所での生活>

収容所は、戦時移転局(the War Relocation Authority)管轄の大規模なものが、アメリカ全土10箇所に点在していました。カリフォルニア、アリゾナ、アーカンソーにそれぞれ2箇所、アイダホ、ワイオミング、ユタ、コロラドにそれぞれ1箇所です。その他、司法省や米陸軍管轄の収容施設も広範囲に点在しています。
これらの施設に収容された日系人は、全部で12万人といわれます。その3分の2は、アメリカ国籍の市民でした。父や夫、兄弟が第一次世界大戦で米軍として戦った経歴があっても、それはまったく考慮されませんでした。
各地の収容所は、1942年夏に次々と完成しましたが、行政命令発令からそれまでは、カリフォルニアを中心に西海岸17箇所に散在する集合センター(assembly centers)に収容されました。中でも、ベイエリア・サンブルーノのタンフォランとロスアンジェルス近郊のサンタアニータは、競馬場を改造したもので、人々は、臭くて狭い馬小屋に数ヶ月間押し込められました。

ヒラツカ家は、そのタンフォランから、列車でアリゾナ州ポストンの収容所に送られました。ポストンは、アメリカインディアンの居住区に指定されていた砂漠ですが、何もない砂漠の平地に粗末なバラックが並びます。ここは、カリフォルニアのトゥーリーレイクに次ぐ規模で、ピーク時は1万8千人が収容されていました(インディアンの部族は、自らの歴史的体験から、居住区内の収容所建設に反対したそうです)。
収容所送りに際し、ひと家族が3つの収容所に分けられたケースもあり、日本国籍だったヒラツカ氏の母は、アメリカ国籍の子供たちから離されるのを恐れていました。不幸中の幸いで、ヒラツカ家6人は揃ってポストンに送られることとなりました。アラスカのいとこ達は、カリフォルニアの集合センターを経て、アイダホに送られました。サンノゼに農地を持ち、市内の日本語学校の役員もしていたおじは、スパイの疑いがあるとしてFBIに捕まり、ニューメキシコにある国の刑務所に入れられました。勿論、スパイなどではありませんが、2年間出られませんでした。

収容所は有刺鉄線で囲われ、監視塔も配置され、脱走できないように絶えず見張られていました(写真は、監視塔の模型です)。収容所入所時は、持ち物を厳しく検査され、銃やナイフの武器は勿論のこと、ラジオやカメラの持ち込みも禁止されていました。中には、カメラで日常生活を隠し撮りしていた人もいますが、ヒラツカ氏は、収容所外に出る何らかの機会に、外で購入し持ち込んだのではないかといいます。検査はとても厳しく、入所時に隠れて持ち込むことは不可能だったようです。

生活の記録としては、日本画や漫画も活用されていました。現在、サンノゼ日系博物館には、ジャック・マツオカ氏の風刺入り漫画が展示されており、当時の収容所内での生活を垣間見るには絶好のものとなっています(来年2月まで展示)。
普段の生活の場は、粗末なベッドが置かれた6メートル四方の6人部屋でしたが、トイレやシャワーなどは、仕切りもなく長屋に横並びに配置されているだけなので、用を足す時も、シャワーを浴びる時も、常にお隣さんの顔が見えています。ヒラツカ氏は、それは学校で慣れていたといいますが、隙間だらけのバラックの間仕切りのお陰で、隣人の夫婦喧嘩がよく聞こえてきたのには閉口したようです。
ジャック・マツオカ氏のトイレの漫画には、こんな注釈があります。"プライバシーがないなんて気にする暇があったら、便器に毒グモやサソリがいないかを注意しろ"と。水廻りには好んでサソリがやって来たと、ヒラツカ氏もいいます。"サソリやコヨーテしか住まない砂漠に見捨てられた"と嘆く、ユタ州トーパズ収容所の人もいました。


バラックの外壁は、木組みの壁の外を、タールを塗った厚紙で覆う簡単なものでした。ポストンをはじめとして、収容所は砂漠や荒野に位置していたため、夏の灼熱や冬の極寒に加え、砂嵐に悩まされました。家の中にいても、呼吸ができないくらいに砂や土ぼこりが入り込んできます。
"日系人は、収容所で甘やかされている"といった批判を耳にしたエリノア・ルーズヴェルト大統領夫人は、1943年、アリゾナ州ヒラリヴァー収容所を訪ねました。その体験をまとめた記事の中で、"砂嵐は息を詰まらせ、鼻やのどに炎症を起こし、人々は呼吸器系の慢性病から回復しなくてはならない"と述べています。

それでも、機転の利く日系の人々は、逆境を乗り越え、収容所での生活を少しでも良いものにしようと努力しました。砂漠に灌漑設備を作り、作物を育てられるようにしたし、豚や鶏も飼育しました。各棟に必ず料理のうまい人がいて、彼らが食事係となったし、先生や医者も募られました。生活が単調にならないように、週に一回は、屋外で映画も上映するようになったし、日系コミュニティーの一番のスポーツである野球も楽しめるように、グラウンドも整備しました。楽器ができる者はバンドを組み、ダンスパーティーなども開きました。
投票で選ばれるコニュニティー評議会も結成され、ある程度の自治権も認められるようになりました。しかし、会議やニュースレターでの日本語の使用は禁止され、収容所内での実権は、英語のうまくできない1世からアメリカ生まれの2世、3世に移っていったようです。一方、日系人収容の行政命令に憤懣を抱く1世を中心として、各収容所内でストライキやデモンストレーションも起き、武装した憲兵隊が入り込む騒ぎにまで発展したことも多々ありました。
ポストン収容所で生活していた中に、こんなことを覚えている人もいます。戦後、ポストンの地を再び訪れた際、収容所跡を見下ろす丘の上に住むインディアンの人々がやって来て、"こんな所には僕たちも住まないけれど、作物ができるようになったなんてすごいね"と声を掛けたそうです。それほど、日系の人々の苦労は大きなものだったようです。


<軍隊に志願>

収容所に入れられた多くは、アメリカ生まれの米国籍です。中には、"帰米" と呼ばれる日本で教育を受けた2世、3世もいますが、日本など行ったこともない人々が大部分です。そういった2世や3世の若者の中には、アメリカ軍に参加することで、自分たちの国に対する忠誠心を証明しようとする者もありました。このような若者は、千2百人を超えます。
ヒラツカ氏もそのひとりで、ポストン収容所で一年を過ごした頃、米陸軍に志願しました。19歳のことでした。彼は、陸軍の訓練を受けた後、他の2世志願者とともに、第442連隊(the 442nd Regimental Combat Team)に配属されました。そして、ハワイで結成された日系の第100歩兵大隊と合流し、イタリア、そしてフランス南部で戦いました。
イタリアからフランスの山越えでは、命拾いをしたことがありました。ヒラツカ氏は、40名ほどの一斉射撃部隊の偵察兵として列の先頭を歩いていました。先鋒の偵察兵が殺されたため、この任務がまわってきたのです(本当は、先頭など歩きたくなかったそうですが)。大きな木の下の二股道にさしかかり、はてどちらに行こうかと一瞬迷ったあと、左の道を選びました。少しして、後ろの者がこの道は間違っていると指摘したので、二股の所まで後退してきたところ、大きな木の根元には、後続の金属探知班が見つけたドイツ軍の地雷がいくつか掘り出されていました。ヒラツカ氏に続く者は、彼の踏んだ所を歩く規則になっていたので、全員地雷を踏まずに助かったわけですが、彼がどうやって地雷を避けて歩いたのかは、自分でもよくわからないそうです。"後続の40名の命を守るため、神様が頭の中に宿ったのかもしれない"と回顧します。

ヒラツカ氏のいた第442連隊は、ドイツ軍に包囲されたテキサス歩兵部隊の救出作戦をはじめとするヨーロッパでの激戦で、アメリカ史上最も多くの勲章を授かった部隊として有名です。引き換えに、多くの犠牲者も出しています。進駐軍として日本にも滞在したヒラツカ氏は、戦後、ハリー・トルーマン大統領から感謝の手紙を受け取りました。"国の最も優秀な者として、敵を駆逐する厳しい任務を遂行したことに、偉大な国からの感謝を捧げます"という内容です(手紙の左下に置かれるブルーの紋章は、隊員がデザインした第442連隊のマークです)。
また、第100・442合同連隊に所属する第552大隊は、ポーランド、ダソウにあるユダヤ人強制収容所を発見し、収容者を解放したという輝かしい経歴もあります。ただし、歴史的には、後にダソウに到着した白人部隊が同地を解放したことになっています。
第442連隊に加え、合わせて1万6千人の日系人が、アジアや太平洋地域でアメリカ軍として参戦しました。その多くは、軍の諜報機関(the Military Intelligence Service)で、日本軍の通信傍受などに従事していました。日本語がわかる2世たちは、米軍にとって役立つ存在でした。しかし、初期の頃は、日系人は正規の米軍兵とは認められず、木製の銃まがいの武器を持たされていました。味方の米軍から間違って狙撃される日系米兵が続出し、初めて本物の銃を与えられたと、ヒラツカ氏は説明します。


<収容所の閉鎖とその後>

1944年12月、戦争も終わりが近づいた頃、一年以内にすべての日系人収容所が閉鎖される決定がなされました。その時点で、すぐに収容所を出る者もあったし、また無理やり移転させられることに最後まで抵抗する者もいました。出所に際し、戦時移転局は、収容者ひとり当たり25ドルと目的地への汽車賃しか支給しませんでした。抵抗はあったものの、1945年末までには、すべての収容所は閉鎖され、1946年6月、戦時移転局は正式に解散しました。
日系の人々の戦後の生活は、収容所と同様に困難なものだったことは、想像に難くありません。家も土地も農機具もほとんどすべてを失い、まさにゼロからの再スタートでした。"収容所に帰りたい"と、我が家の跡地に立ち尽くす人もいました。日系人排斥運動がくすぶる中、戦後すぐは、仕事もうまく見つけられない有様でした。
収容所での生活は、今すぐに忘れ去りたい一ページとして、新しいスタートに専念した人もありましたが、一方で、日系人収容は国の不当な処遇だと、首都ワシントンDCまで掛け合いに出かけた者もありました。この頃になると、さすがにアメリカ人も国のやり方に疑問を抱くようになっていて、直談判に向かう日系人を見ると、タダでタクシーに乗せてくれた運転手も何人もいたそうです。結局、国が日系人収容の不当性を認め、正式な謝罪とひとり2万ドルの補償(redress)をしたのは、戦後かなりたって、1989年のことでした。

日系コミュニティーでは、戦後一貫して、収容所跡を保存し、戦時中のできごとを語り継ぐことに取り組んできました。その根底には、誤った歴史を二度と繰り返さないために、史実を世に広く知らしめる意図があります。同じことは、いつの時代にも誰の身にも起こりうる可能性があるからです。
その使命を胸に、ヒラツカ氏は連日、博物館への来訪者に丁寧に説明をしています。

This article is dedicated to you, Ernie. I extend my sincere thanks to your openness and generosity to share your life history as well as invaluable experiences during the difficult wartime period. Had it not been for the determination and sacrifices of you and Issei, Nisei and Sansei people, newcomers to the United States like us wouldn’t have been able to enjoy the freedom and privilege we have now in this country. Please continue to spread the words of Japanese American community for many years to come!
I also extend my gratitude to Japanese American Museum of San Jose for your generosity and understanding to utilize your indispensable resources of the history and life ways of Japanese American community in the Santa Clara Valley.

追記:この記事は、アーニー・ヒラツカ氏の口述の個人史をもとにしていますが、その他、サンノゼとサンフランシスコで出会った日系1世、2世の方々の体験談も参考にさせていただきました。また、収容所の歴史的背景としては、Burton, Jeffery F., Mary M. Farrell, Florence B. Lord, and Richard W. Lord. Confinement and Ethnicity: An Overview of World War II Japanese American Relocation Sites. Tucson: Western Archaeological and Conservation Center, 1999を参考にしました。
サンタクララバレーの日系農家については、Lukes, Timothy J., and Gary Y. Okihiro. Japanese Legacy: Farming and Community Life in California’s Santa Clara Valley. Cupertino: California History Center, 1985を参考にしました。
集合センターと収容所内の生活については、その詳細を日本画で綴ったHill, Kimi Kodani, ed. Topaz Moon: Chiura Obata’s Art of the Internment. Berkeley: Heyday Books, 2000も参考にしました。
また、日系人の歴史全般については、以下の2冊を参考にしました。Niiya, Brian, ed. Encyclopedia of Japanese American History Updated Edition: An A-to-Z Reference from 1868 to the Present. Los Angeles: Japanese American National Museum, 2001. Cao, Lan, and Himilce Novas. Everything You Need To Know About Asian-American History. New York: Penguin Books, 1996.

夏来 潤(Jun Natsuki)

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