Silicon Valley NOW シリコンバレーナウ
2005年08月30日

日本とアメリカ:両国の架け橋、野球

Vol.73
 

日本とアメリカ:両国の架け橋、野球

今回は、夏の余韻も続く中、どちらかというとのんびりとした話題にいたしましょう。まずは、野球のお話からです。そして、その後は、車の話などが続きます。一転して、最後のおまけ話は、非常に真面目なお話となっております。


<日系社会と野球>

昔、サンノゼ市に、Asahiという野球チームがありました。早稲田や慶応大学と何度か試合をしたこともあります。1935年、アメリカに遠征した東京ジャイアンツと対戦という、意外な歴史も持っています。Asahi(朝日)という名前からご想像のとおり、これは、日系のアマチュア野球チームです。

そのAsahiチームの歴史について本が出版され、7月下旬、サンノゼ市の真新しい図書館で、お披露目とサイン会がありました。"From Asahi to Zebras: Japanese American Baseball in San Jose, California"という本で、著者は、この図書館に勤めるラルフ・ピアス氏です。発行元は、サンタクララバレーの日系人の歴史を伝える、サンノゼ日系博物館です(サンノゼの日本街にある歴史博物館で、昨年6月号"シリコンバレー今昔:戦争と日系の人々"でご紹介したことがあります)。

意外なことに、著者であるラルフさんご自身は、日系の血が混じっているわけではありません。れっきとした(?)青い目の"ガイジンさん"です。けれども、ラルフさんが育ったサンノゼ市は、昔からご近所に人種が入り混じった所でした。お向かいさんはアイルランド系、斜め前はポーランド系、そして、右隣は日系のカワサキさん一家といった様子でした。そんな環境に加え、お隣のカワサキさんにサンノゼの日本街や夏のお盆祭りを紹介されたこともあり、いつしか日本の文化にも興味を持ち始めたようです。結婚したエメリーさんは、日系の血を受け継いでいます。
そのラルフさんは、子供の頃から、プロ野球選手のカードなど野球に関するものを集めるのが趣味だったようです。そして、十数年前、日本野球の本を読んだことや、一部日本の血が流れる息子マイケルくんが誕生したことをきっかけに、日本の野球選手やチームの歴史にも興味が広がりました。いつしか両国の野球事情に精通することとなったラルフさんは、日本野球に関するニュースレターを発行していたほどです(相手国の野球事情に興味を持つのは、何も日本人ばかりではありません)。
そして、1993年、偶然スタジアムで隣り合わせた人にニュースレターを手渡したところ、自分の祖父が日系野球チームでプレーし、サンノゼの試合で、東京ジャイアンツのヴィクター・スタルヒン投手からヒットを打ったのだと教えてくれたのでした。この驚くべき事実を契機に、ラルフさんはチームの元選手や関係者にインタビューを始め、この度の出版に漕ぎ着いたのでした。
この本は、25人のインタビューを軸に、Asahiチームの成り立ちから解散まで、そして各シーズンのメンバー構成や対戦結果を実に克明に再現してあります。今までアメリカの日系野球全般に関する本は発行されたものの、ひとつのチームにフォーカスを当てた本としては唯一のもののようです。残念ながら、現時点では日本語訳が出版されていないので、ここに一部をご紹介いたしましょう。

野球が初めて日本に紹介されたのは、1870年代のことです。日本では馴染みのないチームスポーツですが、ゆっくりと、しかし確実に全国に広まっていきました。一方、1890年代中頃、日本からアメリカへの移住が本格的に始まり、新天地アメリカで、移民たちは野球の楽しみを知りました。朝から晩まで畑で過ごす毎日が続く中、たまに仲間とプレーする野球は、唯一の息抜きだったのです。練習日と試合のある日曜日だけは、農作業を早めに切り上げます。ハワイやカリフォルニアは勿論のこと、オレゴン、ワシントン、ワイオミング、そして、カナダやメキシコにも日系チームが結成されました。
日系移民の多い北カリフォルニアでは、20世紀初頭、各地で日系一世の野球チームが結成されていました。その中に、サンノゼに誕生したAsahiがあります。当時、朝日という名前は最も人気が高く、あちこちに"Asahiチーム"が存在したようです。1913年、一世を集めて結成されたサンノゼAsahiは、1917年には二世に代替わりし、北カリフォルニアの日系リーグNCJBL(the Northern California Japanese Baseball League)で何度も優勝するような、強豪チームに成長していきました。

アメリカに誕生した日系野球チームは、早くも1914年には日本で親善試合をしていたようです。サンノゼAsahiも、前年サンノゼで負かした明治大学に招かれ、1925年日本に赴き、東京六大学を始めとして全国各地で試合をしています。
最初の4試合(対早稲田、明治、慶応、帝國大学)は惨憺たる敗北でした。どうも、使用するボールが原因だったようです。"アメリカと同じ大きさのボールだけれど、牛皮で滑るんだよ。投手はカーブなんか投げられないし、他の選手もうまく投げられない。だからうまくプレーできなかったんだ"と、選手のひとりは回顧します。しかし、5試合目でボールを日本式からアメリカ式に変えた途端、ほとんどの試合に勝つようになりました(当時アメリカでは、馬の皮が主流だったようです)。日本遠征が終わってみると、32勝6敗という素晴らしい成績でした(各試合、日本で購入したMizunoのスコアブックに克明に記録されています)。

1930年代に入ると、サンノゼAsahiは次々と若い選手に代替わりしましたが、相変わらず、強豪アマチュア野球チームとして知られていました。そして、1935年、日本の野球ファンにも名を馳せることとなりました。
前年、ベーブ・ルースをチームマネージャとする大リーグ選抜(アメリカンリーグ・スターズ)が日本を訪れ、東京六大学を中心とする全日本選抜と対戦し、15試合全部に勝利していました。それを契機に、17歳で大リーグ選抜相手に健闘した沢村栄治投手や、子供の頃ロシアから亡命した長身のヴィクター・スタルヒン投手などを集め、大日本東京野球倶楽部(通称・東京ジャイアンツ)が結成されました。そして、1935年2月、このチームは、はるばるアメリカまでやって来たのでした。
翌月27日、サンノゼを訪れた東京ジャイアンツは、Asahiのホームグラウンドで彼らと対戦しました。この日は"休日"と称され、Asahiチームの家族は老いも若きもみんなで試合を見に行ったようです。
ジャイアンツの先発はスタルヒン投手、そしてAsahiの先発は、長年チームを勝利に導いてきたベテラン、ラッセル・ヒナガ投手。両投手の好投が続く中、8回が終わったところで、2対1とジャイアンツが辛くもリードします。9回表、疲れを知らないヒナガ投手は、ジャイアンツをヒット1本に抑えました。
そして迎える9回裏、ヒット、四球、四球の無死満塁。次のバッターのバント処理をジャイアンツの捕手が手こずる中、三塁走者が生還し、2対2の同点となりました。二死となり迎えるバッターは、この日好投を続けるヒナガ投手。チーム一小柄のヒナガは、それまで3打席ノーヒット。1ストライク、1ボールの3球目、力いっぱい振り切ったヒナガの打球は二塁を超え、その間、三塁にいたエイドリアン・オニツカ選手が逆転サヨナラのホームを踏み、試合終了となりました。
Asahiの選手は勿論のこと、スタンドで見ていた家族も"東京ジャイアンツに勝ったぞ!"と、もう大喜びです。そして、その夜は、Asahiとジャイアンツの懇親会が開かれました。この試合に負けたジャイアンツではありますが、この時のアメリカ遠征では、110試合中75勝1引き分けと素晴らしい成績を残したのでした。日系二世チームでジャイアンツに勝ったのは、サンノゼAsahiとロスアンジェルスNipponsだけだったようです。
翌年、再びアメリカに遠征した東京ジャイアンツは、プロチーム・サンフランシスコSealsに5対0と勝利したあと、サンノゼを訪れました。この時は、9回裏のスタルヒン投手のヒットで、ジャイアンツが3対2とAsahiを下しました。

1941年12月、日本軍のハワイ真珠湾攻撃を境に、日本とアメリカは戦争に突入しました。そして、1942年初頭、日系人たちは国籍を問わず、アメリカ各地の強制収容所に入れられました。しかし、収容先でも野球は忘れられていません。たとえば、ワイオミング州ハート・マウンテンの収容所では、収容後すぐに、サンノゼのソフトボールチームZebrasを土台として、野球のZebraチームが結成されています。収容所のトップチームだったZebrasは、アリゾナ州のヒラ・リヴァー収容所にも遠征し、親善試合をしています。収容所には鉄条網が張られ、柵を超えることは固く禁じられていますが、野球遠征の時だけは、外に出ることを許されたようです。
戦争が終結し、1946年サンノゼに戻って来た選手たちは、夏になると、サンノゼZebrasを再結成しました。先代のサンノゼAsahiと同様、北カリフォルニアの日系野球リーグでは、エリート集団として何度も優勝しています。そして、1961年、後継者不足に悩む中、リーグとともにチームも解散となりました。
見ず知らずの土地に移住し、言葉も文化も不慣れな生活を送る日系一世にとって、野球は心の支えでした。次世代を担う二世とともにプレーしたいし、若者に近隣の中華街で流行るギャンブルなどに染まってほしくない。そんな願いを聞き届けてくれた二世たちを、一世や家族たちは、グラウンド建設や日本遠征の実現など物心両面で支え続け、いつの間にか野球は、単なる娯楽から日系社会を結ぶ共通項となっていました。世代を重ねるごとに、日系人はアメリカ社会に溶け込み、生活も多様化し、いつしか野球は"唯一のスポーツ"ではなくなってしまいましたが、いつかまた、サンノゼAsahiやZebrasが復活する日が来るかもしれません。

サンノゼ市の図書館で開かれた出版記念会では、ラルフさんのあいさつの後に、元選手や家族への本の贈呈も行われました。インタビューを行ったものの、すでに他界している元選手も何人かいて、ラルフさんは声を詰まらせながら、ひとりひとりの名前を紹介していました。もうちょっと早く出版できていたら、そんな思いからかもしれません。(写真は、1935年の東京ジャイアンツ戦で、逆転のホームベースを踏んだエイドリアン・オニツカ氏です。)
長年地元のボリビア音楽のグループとチャランゴ(小型の十弦の民族楽器)を演奏する音楽家。そして、水彩画が大好きで、コミックを雑誌に掲載し、仕事場でデザインを担当するアーティストでもあるラルフさん。この風流人は、今も元選手とのインタビューを続け、第二巻の発行を夢見ています。

追記:こちらのウェブサイトで、ラルフさんご自身の紹介記事や、当時の貴重な写真を見ることができます。"View Exhibit Photos!"をクリックしてみてください。古いグラウンドの写真では、レフトフィールドに鉄道が走っているのが見えます。
http://thediamondangle.com/archive/jan04/sjnb/


<高校野球が見たいっ!>

先日、夏の全国高校野球が幕を閉じました。どんなスキャンダルがあろうと、駒大苫小牧高校の夏の連続優勝は、たいしたものだと思います。北海道出身の連れ合いなどは、決勝戦が行われる土曜日の午後1時(米国西海岸時間・金曜日の午後9時)が近づくと、何やらそわそわし始め、おもむろにパソコンに向かいます。
期間中、いろいろインターネットをサーチした結果、検索サイトgooの高校野球速報が一番充実しているようでした。お陰で、駒大苫小牧と京都外大西の決勝戦も、アメリカにいながら、最初から最後までリアルタイムで試合の成り行きがわかりました。
しかし、残念なことに、このサービスは画像のストリーミング放送ではなく、イラストでのプレゼンテーションなので、一球ごとの球種や打球の方向はわかるものの、どうしても緻密さや迫力に欠けます。音声がないのも玉に瑕です。

メジャーリーグ(MLB)の昨シーズン、シアトル・マリナーズのイチロー選手がシーズン最多ヒットの輝かしい記録を打ち立てましたが、この試合は、地元のオークランドA’sとの対戦ではなかったため、ベイエリアでは放映されていませんでした。けれども嬉しいことに、MLBのウェブサイトで各試合のストリーミング中継をしているため、テレビほど画質は良くないものの、パソコンで記録達成の瞬間を見ることができました(MLB.comでは、一試合4ドルで観戦できます。勿論音声もちゃんと入っています。今シーズンは、これに加え、ケーブルテレビのComcastで、全米のテレビ中継をひと試合ずつ購入できるようになりました。試合ごとに有料チャンネルが振り当てられています)。
そこで考えるわけですが、日本の高校野球もNHKがインターネットでストリーミング放送すべきなのです。海外に住む人は勿論のこと、平日に行われる出身地の試合などは、オフィスのサラリーマンも気になると思うのです。需要はたくさんあるはずなので、そろそろテレビ・ラジオ以外に、新手の中継手段を採用すべきなのです。
個人的には、MLB.comのように、ひと試合100円ほどで販売すればいいと考えます。そうすれば、NHKにとっても、受信料による歳入が減少する中、いい収入源になるのではないでしょうか。というわけで、NHKさん、いかがでしょうか。日本にパソコンを置いて画像を録画し、海外からアクセスして観賞する方法などもありますが、それではNHKさん、あなたの懐に観戦料が入らないでしょう。


<ハイブリッド車をどうぞ>

連日、原油価格が最高値を更新する中、こうガソリンが高くてはたまったもんじゃないと、アメリカの消費者は怒り半分、あきらめ半分。気温の低い夜間にガソリンを給油すると、昼間よりたくさん入るなどと、根拠の無いでたらめも巷を賑わすこの頃です。

そんな中、何でも他州の一歩先を行きたいカリフォルニアでは、資源問題でもちょっとだけリードしようとしています。たとえば、電気とガソリンで走る燃費のいいハイブリッド車の奨励があります。その骨子として、前政権のデイヴィス州知事の頃から、フリーウェイの"カープール・レーン(carpool lane)"の使用をハイブリッド車に認める案が協議されていました(これは、フリーウェイの左端にある優先車線のことで、通常、午前5時から9時、午後3時から7時までは、二人以上乗った車でないと使用できません。それを、ハイブリッド車だったら、一人でも使用可とするものです。渋滞のひどいカリフォルニアでは、なかなかいい餌になるわけです)。
これに関し、州議会ではとっくの昔に承諾されていたのですが、上で長いこと引っかかっていました。全米のフリーウェイに関する変更には、州を超え、連邦議会の承認が必要なのです。ようやく7月末、夏休みに入る直前の連邦議会で許可が出され、それを受け、電光石火でカリフォルニアの運輸局で申請受付が開始されました。最初の7万5千人のみに特権が与えられ、現時点で1万6千人が申請をしています(早くしないとダメなのよと、ハイブリッドステッカーをちらつかせながら、みんなを促しているのです。条例の方は、2007年末までと期限付きです。連邦政府によるハイブリッド税金控除額も、今年2千ドルから、来年5百ドルと縮小されます)。

しかし、何にでも厳しいカリフォルニアのこと、すべての"ハイブリッド車"がカープール・レーンの使用を認められるものではありません。一部の"ハイブリッド車"は、燃費が州の基準を下回るからです。現時点で純粋なハイブリッド車とされるのは、ホンダ・シビック(ハイブリッドモデル)、ホンダ・インサイト(2005年モデルを除く)、そして、トヨタ・プリウスのみです。ホンダ・アコード(ハイブリッド)、フォード・エスケープ(ハイブリッド)、そして初のハイブリッド高級車・レクサスRX400hなどは対象外です。
これに加え、7年前に出されたホンダ・シビックの天然ガスモデルは、以前からカープール・レーンの一人使用を認められていました。けれども、ベイエリアに20ほどしか燃料スタンドがなく、個人ユーザには人気は高くありません。

現在、アメリカで売れ筋のハイブリッド車は、トヨタのプリウスです。今年上半期の全米ハイブリッド販売台数(約9万2千台)の6割近くを占めています。一時期、入手困難で、1年近く待つとも言われていましたが、最近ようやく供給が追い付き、売り上げも昨年の2倍以上となっています(ベイエリアでは、トヨタの看板として、49ersの元クウォーターバック、スティーヴ・ヤング氏が盛んにプリウスを宣伝しています)。
レクサスRX400hなどは、昨年から5千ドルの手付金を払って待ちリストに入っている人もいて、今年4月の発売開始時点では、1年待ちの状態となっていました。現在は、8ヶ月ほどだそうです。フォードのSUVエスケープも、同じくSUVのRX400hと販売台数で張り合っています。やはり、アメリカ人のSUVや大型車好きは、そう簡単に治るものではありません。

このハイブリッド優遇措置は、7万5千人と上限があるものの、その数はすぐには埋まらないようです。現在、カリフォルニア州全体で登録されているハイブリッド車数は6万台で、そのうちすべてに申請資格があるわけではないからです。
それでも、こうガソリンが高くては、ハイブリッド車に乗り換える人も増えるのかもしれません。そういう風潮に乗ってプリウスなんかを買ったら、自分はどうせ7万5千1人目になるんだろうなと思うのです。


<おまけのお話:日本とアメリカ>

このおまけの話は、いつもと違って、たいそう真面目なお話です。心して読んでいただくようにお勧めいたします。

アメリカ人と結婚している友人が、こんなことを言っていました。毎年、8月になると、決まってダンナと大喧嘩になると。原因は、原爆投下です。彼女は、広島の人と街が一瞬にして破壊し尽された三日後、長崎に二発目が落とされたのは人道的ではない、と主張します。ダンナは、いや、両方落としたからこそ日本があわてて降伏し、アメリカ・日本両国のその後の犠牲が食い止められたのだと、教科書通りの主張をします。

今年8月、原爆投下60周年を迎えましたが、これに対するアメリカと日本の深い溝はいまだ埋められてはいません。
アメリカの観点からすると、日本にはハワイ真珠湾を奇襲攻撃された深い恨みがあります。世界の前で恥をかかされたじゃないかと。そして、その相手の日本はというと、アジアを植民地化し、占領下の大東亜共栄圏で、数々の暴力と殺戮を行っている。太平洋戦で捕虜となった自国の兵士は、ジュネーブ協定を無視する日本軍によって、強制労働や拷問の虐待を受けている。そして、日本が1945年7月のポツダム宣言を受諾し無条件降伏する決断を先延ばしにする中、ライバル・ソビエト連邦も参戦する気配を見せている。沖縄本土戦で多くの米兵が没したことを鑑みると、これ以上戦争を長引かせないためにも、11月に予定される日本上陸を避けるためにも、ここで新型爆弾を落とすしかない、そう論理付けたのです。
一方、日本人からすると、ただ一言。原爆を落とすなんて人間のすることではない。

スタンフォード大学の歴史学教授が、日本人は原爆の悲惨さばかりに焦点を当て、それ以前の罪は全部忘れてしまっていると、論文の中で指摘していました。また、あるジャーナリストは、「中国で原爆の体験談をしようとしたら、ものの10分で中断させられた」と被爆者が語ったことを書いていました。自分たちに何をしたのかを自覚するのが先決だと、中国人は怒ったのです。確かに、日本に原爆が落とされたのには、それなりの歴史的経緯があったのであり、単に空から降ってきたわけではありません。
しかし、一方で、原爆の悲惨さは、他のすべてのものを日本人の心から消し去ったといえるのかもしれません。退院を明日に控え、顔のケロイドを悲観し、病院で自殺を図った乙女がいます。「人間らしく死なせてやることもできなかった」と、生存者は肉親に涙します。毎年夏になると、蝉の声が「水をくれ」と死んでいった家族の声に聞こえるという人もいます。入退院を繰り返し、「アメリカを一生恨み続けます」と明言する人もいます。広島で被爆した「帰米」日系アメリカ人は、「日本が降伏しないと信じるほど、アメリカはバカじゃなかったはず。その頃はもう、日本には食べる物も何もなかったんだから」と訴えます。
諜報活動に長けていたアメリカ軍は、東京から発信される情報はすべて瞬時に傍受していたといいます。長崎の投下日8月9日に、降伏を協議する最高戦争指導会議が開かれようとしていたことも、アメリカには筒抜けだったのかもしれません。この日未明のソ連の満州侵攻が日本の降伏を早めるであろうことも、アメリカには充分わかっていたはずです。いまだ試されていないウラン爆弾を、無傷に残しておいた広島に投下した後、ひと月前ニューメキシコ州アラモゴード空軍基地で実験したばかりのプルトニアム爆弾を、小倉か長崎にもう一回実戦で落としてみる、そういうシナリオが書かれていたようです(真珠湾を奇襲した魚雷は、長崎の三菱兵器製作所で製造されたものです)。20億ドルかけたマンハッタン・プロジェクトを無駄にしないためにも。

東京大空襲の後も、沖縄本土戦の後も、「神の国」にふさわしい神風が吹き、必ず戦争に勝つと信じていた日本。しかし、原爆を境に、敗戦間もなく「鬼畜米英・一億玉砕」のスローガンは崩れ去りました。「死は鴻毛(こうもう)より軽し(いのちは鳥の毛よりも軽い)」と「軍人勅論」で説かれていたことも、すっかり忘れ去られてしまいました。
それに比べて、アメリカはいまだに、「原爆は必要悪」のマイドコントロールから解き放たれていません。ひょっとしたら、広島投下を指し「これは歴史上最も偉大な出来事だ」と言ったハリー・トルーマン大統領を始めとして、原爆を悪だと実感する人は少ないのかもしれません。
広島に原爆を落としたB29「エノーラ・ゲイ」機を操ったポール・ティベッツ氏は、今年2月、90歳の誕生日を迎え、まわりからはヒーロー扱いでした。「あなたは、間もなく戦地に送られる私の命を救ってくれた」と、どこに行っても感謝されるそうです(爆弾の威力を目の当たりにしたティベッツ氏が、広島投下と二発目の間隔を、予定の5日から3日に短縮するよう促したともいわれています)。

しかし、時が経つにつれ、アメリカ人の心が変化していることも事実です。広島・長崎直後の1945年の調査では、85%のアメリカ人が原爆投下を支持していました(反対10%、どちらでもない5%)。今は、投下は避けられなかったとする人は6割に上るものの、支持者は48%に減り、不支持は46%に増えています(今年7月発表のAP・共同ニュース世論調査)。支持者は戦争を知る高齢層に多く、35歳以下の若い層では、54%が不支持となっています。
これまで地道に続けられた被爆体験の啓蒙活動は、決して無駄にはなっていないのです。そして、これから先、戦争を経験した世代が少数派となる中、非体験者にとっては、単に教えられるのではなく、自分から追い求める能動的な学習が必要となってくるでしょう。20世紀最大の哲学者・数学者バートランド・ラッセルは、学校の歴史の教科書には外国の本を使うべきだと主張したそうですが、これは、互いの過ちを正当に評価する最適な方法かもしれません。

最後に、アララギ派の歌人でもあり、当時、長崎医大物理的療法科教授だった永井隆博士の歌を、ひとつだけご紹介しましょう。
新しき朝の光さしそむる 荒野(あれの)に響け長崎の鐘」(聖母の騎士社発行・聖母文庫「新しき朝」より)。
原爆が上空で炸裂した長崎の浦上地区は、16世紀末から19世紀末までの3百年間、隠れキリシタンが潜伏した地域でした。カトリック信者でもあり、その後原爆症で亡くなった永井博士が「長崎の鐘」と表したのは、この浦上の丘に建つ浦上天主堂の「アンゼラスの鐘」のことです。

そして、原爆投下60周年の今年、サンフランシスコのグレース大聖堂では、広島・長崎の現地時間に合わせ、祈りの鐘が高らかに打ち鳴らされています。


追記:原爆投下に関しては、今まで読んだ数々の文献に加え、以下のドキュメンタリーフィルムを参考にさせていただきました。
英BBC制作 "Hiroshima: the decision to drop the bomb"(1995年)。このフィルムは、トルーマン大統領が原爆投下を指示するに至った歴史的経緯を、マンハッタン・プロジェクトに関わった科学者とのインタビューを含め、克明に追っています。
米Oregon Public Broadcasting制作 "Rain of Ruin: the bombing of Nagasaki"(1995年)。このフィルムは、広島に続くアメリカの原爆投下計画、ポツダム宣言に対する日本の反応、満州侵攻によるソ連の参戦など、8月9日を前後に、複雑に絡み合う長崎投下の要因を詳細に分析しています。
BBC制作 "Hiroshima/Mass Destruction"(2005年)。このフィルムは、最新のCGを使い、原爆の炸裂と破壊力を再現したもので、アメリカ軍関係者と被爆者の両視点から広島を語ります。


夏来 潤(なつき じゅん)

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