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2019年08月15日

夏の一冊:『出口のない海』

Vol. 227



日本では知られた一冊だと思いますが、遅まきながらこの夏、心に残った本がありました。今月は、小説のご紹介といたしましょう。



<命と向き合う秀作>

この夏、偶然に本屋で見つけた本。それは、横山秀夫氏の『出口のない海』(講談社文庫)。

1996年に刊行された同名小説を全面改稿し、2004年に出版された単行本の文庫版です。

それまでお名前すら存じ上げなかった横山氏をテレビのインタビューで見かけて、新聞記者を経て小説家に転じた経歴を知り、氏の作品をぜひ読んでみたいと幸運にも本屋で出会った作品です。



舞台は、太平洋戦争でアメリカと戦っていた頃の日本。甲子園の優勝投手が六大学野球チームで怪我と闘いながらも「魔球」を編み出そうと努力するさなか、当初は免除されていた学生にも召集令状が届き、海軍に入隊して野球をあきらめなければならなくなった主人公、並木浩二。

そこではどんなに厳しい試練にも耐え抜くのですが、日々戦況が悪化し物資も底を突く中、彼の海軍での訓練は、奇妙な方向にねじ曲げられていくのです。それは、もはや潜航艇が敵の軍艦めがけて魚雷を打ち込むといったものではなく、彼自身が「捨て身」の特殊兵器となるもの。爆薬を満載した改造魚雷に人が乗り込み、たったひとりで暗い海の中を操縦し、敵の艦船の横腹めがけて搭乗員もろとも突っ込むという、人間魚雷「回天(かいてん)」。



この壮絶な特攻兵器が編み出された背景には、1941年12月オアフ島パールハーバーでの宣戦布告が、束の間の快進撃に終わったことがあります。わずか半年後には、旧帝国海軍が誇る6隻の主力航空母艦のうち4隻をミッドウェー海戦で失い、熟練パイロットの大半を海に散らすのです。

南へ南へと追いやられる中、湾内に停泊中の敵艦を潜水艦から奇襲攻撃する戦法が功を奏し、米軍を恐れさせます。戦地のみならず、米国本土にも潜水艦の侵入を防ぐ防御ネットが幾重にも張り巡らされ、最新のレーダーが配備されるようになります。サンフランシスコ近郊にも防御ネットが張られ、今でもゴールデンゲートブリッジ(金門橋)近くのサウサリート沖に潜れば、海底に不気味に横たわる防御ネットが見てとれると聞いたことがあります。



が、日本軍の巻き返しも一時的なもの。さらに戦況が悪化する中、帝国陸軍と海軍は飛行機もろとも敵艦めがけて突っ込む特別攻撃隊を編成します。次から次へと出撃する特攻隊が日本の新聞をにぎわす一方、海では、ベニヤ板の船に貨物自動車のエンジンを搭載しただけの「震洋(しんよう)」という新兵器が開発されます。お粗末な船には爆薬が積み込まれ、体当たりで相手を撃沈する目的ではあるものの、この時点では敵艦に接近したところで搭乗員は海に飛び込み、泳いで逃げるというもの。

これを一歩進めたのが、人間魚雷「回天」。搭乗員は爆薬の一部と化して、海の藻屑と潰(つい)えるのです。



ひとたび志願したら最後、逃げ場のない人間魚雷の訓練が繰り返し、繰り返し行われるのですが、この小説は、そんな理不尽な凄惨な軍隊生活の描写だけではなく、「魔球」の完成に打ち込む主人公と仲間たちの絆や叶わぬ淡い恋なども織り込まれていて、清々しい印象の作品となっています。文章は簡潔だし、お話の展開も速く、じっくりと史実をリサーチされた重い内容のわりに、とても読みやすい作品なのです。

まるで目の前に映画のシーンが繰り広げられるような錯覚も覚えますが、実際、2006年には同名で映画化されたんだとか。わたし自身は劇場版については存じませんでしたが、正直なところ、なにも映画にしなくても文章だけで網膜に投影される映像を十分に楽しめるのに・・・と感じるのです。



それにしても、母船である潜水艦に搭載した魚雷に乗り込み、たったひとりでそれを操り、うまく敵艦めがけて突っ込んで相手を撃沈しようというわけですから、艦船や潜水艦の航海技術のみならず、敵艦の探査・攻撃技能や背景にあるラジオ技術、音響理論、敵艦撃沈の確率論と、物理数学の理論を含めて相当量の勉強が必要となるのです。そう、魚雷の操縦ひとつ取っても、中には数え切れないほどのツマミがあって、出撃前には「千手観音並み」の操作が必要だとか。

主人公・並木の場合は、2年ほど海軍でみっちりと訓練を受けていますが、これほど優秀な若者に高度な教育を受けさせたあと、その逸材を文字通り「鉄砲の弾」として散らしてしまうなんて、狂気以外のなにものでもない、としか言いようがありません。

しかも、付け焼き刃に改造した魚雷は、よく壊れる。上官や仲間たちから「国のために立派に散って、神になってこい」と厳粛に送り出されたものの、魚雷が壊れて出動できず、陸に戻って「生き恥をさらす」こともしばしば。鉄拳を受け、執拗に罵倒され、その屈辱たるや、さっさと死んだ方がましだと誰もが思わずにはいられなかったことでしょう。



生死の境と向き合い続けて、ときに自暴自棄となりながらも、それでも「魔球」の完成をあきらめなかった主人公、並木。

小説『出口のない海』は、日本人だけではなく、日本語のできるすべての人に読んで欲しい作品です。そう、民族や文化や思想を問わず、世界じゅうの日本語の堪能な人たちに読んでもらって考えてもらいたい秀作なのです。



今まさに、甲子園では熱戦が繰り広げられています。戦争のために甲子園大会が中止となり、球児たちが築き上げた伝統に空白があけられたばかりではなく、代わりに「手榴弾投擲(とうてき)突撃競争」なる国防競技が幅を利かせ、国民体育大会と称された愚かな時代があるのです。

この平和な時代、甲子園を目指して野球に打ち込む生徒たちには、フィールドで思う存分白球を追える幸せをかみしめて欲しい、と願っています。

世が世ならば、自分たちが追いかけるべきものはベースボールではなく、洋上を航行する敵国の空母や油槽船だったかもしれないのだから。



夏来 潤(なつき じゅん)



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