グローバル化: それって英語教育のこと?

Vol. 152

グローバル化: それって英語教育のこと?

先月号に引き続き、今月は、日本の話題にいたしましょう。

<国際化と英語教育>


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先月号では、東京大学の「秋入学」案を引き合いに出して、「それはちょっと違うような・・・」「入学の時期を変えることよりも、学校をどう魅力的に変えるかが、本質的な議論では・・・」というようなお話をいたしました。

いえ、単純に、わたしにとっては、どうして秋入学が「国際化(globalization)」に通じるのか、不思議に思えたものですから。

だって、学校が魅力的でありさえすれば、きれいなお花に群がるミツバチのように、自然と世界の学生たちが集うのではないか、と感じられたものですから。

そこで、ひとつわかったのが、日本の「有識者」が思い描いている国際化と、わたしが考えている国際化が違うんだろうなぁ、ということでした。

学校のことはよくわからないので、会社のお話をいたしましょう。

日本の企業組織を語る上で、「国際化」「グローバル化」「グローバルカンパニー」といったキャッチフレーズが出てくると、決まって社員の英語教育に話が発展するでしょう。
「よしっ、社内の公用語は英語にしよう!」みたいな掛け声が上がるでしょう。

けれども、国際化というのは、決して社員の英語教育のことではないと思うのですよ。

そりゃ、英語が話せれば、外国で仕事がしやすいでしょう。日本にやって来た外国人とも格好よく会話できるでしょう。そういう点では、英語ができれば、便利です。

しかし、「外国語がしゃべれれば国際人になれる」わけではないと思うのです。

なぜなら、単に外国語をしゃべることと、外国語をマスターすることは違う、と信ずるからなんです。
「しゃべる」というのは、言葉の意味を知り、発音ができて、ある程度、相手と意思疎通ができるということですが、「マスターする」というのは、言葉の裏にある文化(環境・習慣・考え方)をも知ることだと思うのです。

言葉と文化は密接な関係にあって、だからこそ、単に「しゃべる」だけでは不十分ではないかと感じているのです。

 


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たとえば、青森県出身の文豪・太宰治の小説『津軽』には、七つの雪が出てくるそうですね。
「こな雪、つぶ雪、わた雪、みず雪、かた雪、ざらめ雪、こおり雪」の七つですが、これはまさに、いろんな雪を知っている雪国だからこそ生まれた言葉なのでしょう。

さらに、エスキモーの部族では、「雪」という言葉自体に何種類かあると聞いたことがあります。雪に閉ざされた文化では、雪の状態を的確に語ることが、生活に不可欠となるのです。

逆に、生活に必要でなければ、言葉が生まれる必要もありません。「1、2、3、たくさん」といった数え方しかないアマゾンの伝統文化では、モノを数えることに意義を感じていないのです。

一方、文化があるから言葉が生まれるだけではなく、言葉があることによって発想が形づけられることもあるでしょう。

雪国出身の方だったら、「ざらめ雪」と聞けば、雪の状態が頭にピンと浮かぶのでしょうし、それに対処する方法も思い描くことでしょう。

ですから、もしも「生粋の雪国っこ」になりたければ、「ざらめ雪」の含蓄をきちんとマスターしなければなりません。

外国語だって同じことだと思うのです。「生粋の外国人」とまでは言いませんが、相手を深く理解するためには、単に言葉の意味を知り、発音するだけではなく、相手の文化から生まれた独自の発想を知らなければならないでしょう。

 


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学生時代、5、6歳で日本からやって来た学友がいました。もうアメリカで十数年もたつのだから、英語は完璧に聞こえるのですが、彼女は「まだまだダメよ」と言うのです。

わたしは内心「謙遜も過ぎると嫌味に聞こえるかも・・・」とひがんでいたのですが、今になってみると、彼女の言うことがよくわかるのです。
アメリカで生まれていないから、まだまだ文化的なことが理解できていない、だから、自分は発展途上にあるのだ、と彼女は言いたかったのだと思います。

わたし自身、初めて「アメリカが少しわかるようになったかも」と感じたのは、滞米生活20年を超えた頃でした。
もちろん、人によって学ぶスピードは違うはずですが、異文化を知れば知るほど、自分の知らないことが増えていくことに気づかされるのです。

それは、子供が大人になっていく「社会化(socialization)」の過程と似ているのでしょう。ある国で生まれた子供が、親や学校や地域社会から学びながら、自国が何であるかを知るプロセス。

それには、ある程度、学ぶ時間が必要であり、言葉がしゃべれるようになったからといって、言葉の裏にある文化を知ったことにはならないでしょう。

<「履歴書」から学ぶこと>
というわけで、ごちゃごちゃと抽象的なお話をいたしましたが、わたしはべつに「外国語がしゃべれるようになっても国際人にはなれないぞー」と意地悪を言っているわけではありません。

外国語を習得しようと努力するのは立派なことですし、もし機会があれば、海外の仕事にもどんどんチャレンジすべきだと思います。厳しい環境で苦労してみて、初めて得るものもたくさんあるはずですから。

そういうことではなくて、重要な点は「外国語が話せなくても、国際感覚を身につけることはできる」というところなのです。

言葉が不十分で、異文化を深く理解していなくても、少なくとも、自分の分野で仕事をする上では、国際的な感覚を養うことはできるはずです。

というわけで、ここで身近な例をとってみましょう。

たとえば、就職には不可欠の「履歴書」。

英語では résumé(レザメー)と言いますが、同じ履歴書を表す言葉を耳にしても、英語圏の人と日本語圏の人は、まったく違うものを想像するはずです。

ある日本の企業家をアメリカの投資家に紹介するケースで、こんなことがありました。
「ご自分の職歴をかいつまんでご紹介ください」という依頼に対して、意外にも、日本式の履歴書が送られてきたのでした。

そもそも、「職歴」を紹介する必要があったのは、「こんなに素晴らしい経営陣が率いる、卓越した企業です」と力説したかったわけなのですが、日本式の履歴書では、ちょっと説得力に欠けるでしょう。

だって、どこの小学校を出ているとか、何年に大学に入ったとか、そんなことは知らなくてもいい話です。

ついでに、生年月日とか、性別とか、顔写真とか、そんなものも必要はないでしょう。

「素晴らしい経営陣」を描く上で必要なのは、どんな経験を積み、どんな実績を上げたかという熱いメッセージ。そのメッセージを使って「ひたすら相手に売る」のです。

ですから、こちらのケースでは、間に立った方が直接ご本人たちにインタビューをして、アメリカ人の投資家向けに「職歴」「実績」を全部書き直したそうです。

いえ、この経営陣の方々は、東証マザーズに上場したベンチャー企業を「東証一部上場」まで成長させた実績を誇る方たちなのです。わたしよりもお若いのですが、さすがに学生時代から会社を経営していただけあって、「立派な経営者」のオーラを感じさせるのです。

そんな方々を紹介するときに、謙遜してはいけません。目につくように、素晴らしいことから書くのです。

 


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履歴書だって同じことです。
(Photograph of résumé example taken from page 71, Designing the Perfect Résumé, by Pat Criscito, Barron’s Educational Series, 1995)

たとえば、シリコンバレーで転職先を見つけたいときには、「自分は何を探し求めているか(Objective)」を真っ先に書くのです。

ここでは、「責任とさらなる成長が見込まれる国際セールス・マーケティング職(A career in international sales/marketing with an opportunity for continued growth and responsibility)」などと、単刀直入に述べます。

次に、「探し求めるもの」を立証するために、「自分にはどんな能力があるか(Qualifications)」を箇条書きにします。

「結果を出せるセールスリーダーとして実績あり(Proven results-oriented sales leader)」とか「リサーチ、交渉、問題解決に卓越したスキルあり(Exceptional research, negotiating, and problem solving skills)」。
さらに、「日英バイリンガル(Bilingual in Japanese and English)」「中国語に堪能(Highly proficient in Chinese)」といった簡潔なうたい文句です。

その次に、「能力」があることを裏付けするために、どんな職歴(Experience)があって、どんな学歴(Education)があるかを書くのです。だからこそ、自分には新しい職を探し求める資格があり、あなたの企業ともスキルマッチするのだと。

このとき、職歴は一番新しいものから順に並べ、学歴は、通常、大学などの最終学歴に限定します。だって、最新の職歴が自分に最も深く関わることですから、大事なものから並べていくのです。

そう、履歴書の目的は、あくまでも「自分を売り込む」こと。これだけスキルがあるのだから、相手だって欲しいはず! と自信のあるところを盛り込むのです。

そういう点では、年齢、性別、顔写真なんて関係がありませんので、履歴書にも載せません。(アメリカの場合は雇用の法律が厳しいので、企業にとっても「そんなものを履歴書に書いてくれるな」といったところでしょう。)

まあ、なんとなく、学校の卒業年から年齢はわかりますし、名前から性別もわかりますが、「クリスさん」の場合は、男性か女性かはわかりませんよね。それこそ、面接で会ってみてびっくり、ということもあるかもしれません。

というわけで、ひとつの例として履歴書をとってみましたが、「履歴書は国によって違うんだ」と自覚した時点で、それは、ひとつの国際感覚を身につけたことと同じだと思うのです。

どんなことでも、「あ、なんとなく違うな!」と感じたら、それを頭にたたき込んでおくと、次回は何かの役に立つことでしょう。自身の役に立つだけではなくて、誰かに伝えて感謝されることもあるでしょう。それが、「感覚を養う」ことだと思うのです。

ですから、国際感覚を養う上で、外国語の習得は必須ではないでしょうし、逆に、仕事がバリバリできて、何かしらの感覚を持っている人の方が、国際人になりやすいのではないかと思えるのです。

そんな国際人が集まったとき、企業は「グローバル化」したと言えるのではないでしょうか。

 


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先月、東京でお買い物をしているとき、変な日本語を耳にしました。「さきほど、わたくしがおっしゃったように」と、自分に対して尊敬語を使っているのです。

30を過ぎたと思われるいいオトナが情けない、と少々落胆したのですが、外国語うんぬんと言う前に、自国の言葉と文化を知るべきではないかと痛感したのでした。

そう、自国語でしっかりとモノを考え、仕事の感覚を培うことが先決なのではないでしょうか?

そうすれば、おのずと国際感覚だって身についてくるんじゃないでしょうか?

 


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追記: 実は、英語の履歴書には決まった形式はないので、写真のような「ハウトゥー本」から、好きなフォーマットやデザインを選ぶのも良い案ではないでしょうか。

かく言うわたしも、転職するときに利用させていただきましたが、本屋さんで見つけた新品のわりに、たくさんの人が参照したような、くたびれた表紙になっていました。

まあ、履歴書の形式が決まっていないのも頭が痛いところですが、とくにIT業界では、ダラダラと長いものは嫌われますので、あくまでも「簡潔に!」がモットーでしょうか。

夏来 潤(なつき じゅん)

 

大学って?: 日本とアメリカはちょっと違うような・・・

Vol. 151

大学って?: 日本とアメリカはちょっと違うような・・・

新しい年も、はや2月末。

気ぜわしい今月は、先日滞在していた日本のお話にいたしましょう。ちょっと話題は古いですが、なんとなく不思議だなぁ・・・という、つぶやきをどうぞ。

つぶやきのあとは、アメリカの大学のお話が続きます。

<本末転倒?>


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ある日の日経新聞に「Todai」という文字を背景にした「おじさん」の写真が載っていて、これが目をひいたのでした。

「え、Todaiって、ホノルルの食べ放題のレストラン?」と思いきや、「Todai」とは東京大学のことで、「おじさん」は学長さんだそうです。
なんでも、東大が秋入学を検討している、という内容でした。

と言うよりも、実際には、もっと強硬な記者会見だったようで、春入学を廃止し、「国際標準」である秋入学に全面移行する、そして、その時期については「5年前後で実施したい」ということでした。(1月21日付け日本経済新聞・第一面を参照)

で、この目的は、自分の学校が「国際化」できればいいな、とのことですが、この話を知ったわたしの頭には、まず、こんな言葉が浮かんだのでした。

本末転倒。

いえ、決して東京大学を揶揄(やゆ)するつもりはありませんが、もしも「国際化」できていないと感じるのであれば、その理由は「春入学か秋入学か」といった些細な問題ではなく、もしかすると学校に魅力を感じないから、外国人留学生が来なんじゃないかな? と思ったのです。

ですから、もしも外国人留学生がジャンジャンやって来て「国際化」を図りたいのだったら、本質的に学校を変えるべきではないか、問題の所在をすりかえて「秋入学」を語るということは、本末転倒なんじゃないか、と思ったのでした。

いえ、そんな偉そうなことを言って、もしもわたしが日本の大学を受験していたならば、東京大学なんて難し過ぎて入れなかったのかもしれません。

それに、父は某国立大学の学部長まで勤め上げ、今は名誉教授となっている人です。生涯を日本の大学に捧げた父を持ちながら、「日本一」と呼ばれる最高学府をけなすつもりなど毛頭ありません。

けれども、わたしにとっては、単純にこう思えるのです。入学試験で「狭き門」であることと、学校として「理想の学びの場」であることとは、何の因果関係も無いのではないかと。
 


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学校という場は、恩師に教えを請い、学友と切磋琢磨して、自分自身の力で何かを学び取るところです。どんなに「狭き門」であったにしても、どんなに優秀な学生が入って来たとしても、学びの場として何かしら足りない部分があれば、学校としては魅力的には映らないんじゃないか・・・と。

いえ、わたしは日本の現状には疎いので、その「足りない部分」が何なのかはわかりません。けれども、入学の時期を変更しようと議論する前に、もっと学内で議論すべきことはいっぱいあるんじゃないかと思うのです。

もしかすると、先生たちが国際社会に羽ばたいて、学外で自由に研究することが難しい組織になっているのかもしれません。たとえば、一度組織から離れれば、二度と受け入れてもらえないような閉鎖的な仕組みになっていて、いかんせん研究者が「井の中の蛙」になっているとか。

あるいは、研究費や助成金がどこかにかたよっていて、ある分野の研究者にとっては、満足に研究できない環境になっているのかもしれません。目玉分野にはドッとお金が集まり、地道な分野は干される、というのが世の常ですから。

はたまた、学校に対するみんなの考えが、妨げとなっているのかもしれません。もしも多くの人にとって「大学はブランド品」であり、ブランド学校に入りさえすれば、あとの人生は順風満帆! と考えているのだったら、大学は単に「入るところ」であって、学びの場ではなくなってしまうのでしょう。
 


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と、偉そうにご託を並べてみたものの、わたしが「秋入学」にこだわりを感じている理由は、案外、単純なものかもしれません。

だって、日本文化では、桜の咲く頃に新入生や新入社員を迎えるのが、しきたりとなっているではありませんか。

桜の花を愛し、つぼみはいつ開くのかと心待ちにすることは、日本人のDNAに深く刻み込まれているのです。

めでたい花の季節に、めでたく新入生を迎えるのは、日本人にとってごく自然なことなのに・・・

どうしてそこまで外国に迎合するの?・・・と釈然としないのでした。

<アメリカの大学って?>
自分のことを棚に上げて、偉そうなことを申し上げましたが、わたし自身は、たいした学校は出ていません。


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振り返ってみると、ろくに英語もしゃべれないような学生が、3年半で、しかも「成績優秀(マグナ カム ロード)」とやらで学士号が取れたのですから、名門校と比べると、まったくお話にもならない学校だったに違いありません。
(アメリカの大学は、「学年」という意識が薄いので、その気になれば、3年で単位を取り終え、学士号(Bachelor’s degree)を取得することも可能です。)

けれども、どんな学校であろうと、わたしはあることに誇りを持っているのです。それは、学生が多種多様だったこと。

コミュニティーに根ざした州立大学ということで、私立大学よりも、人種が混じっていたこともあります。
おまけに、年齢層だって、バラエティーに富んでいます。日本の大学のように、高校を卒業したばかりの年齢層だけではなく、もっと上の方々も熱心に通って来ていました。

高校を卒業して、働きながら2年制のコミュニティーカレッジ(community college)を卒業し、やっとの思いで4年制に転入して来た学生もいます。
ストレートで入ったものの、働きながら授業を取っているので、いつの間にやら、20代後半に突入した学生もいます。
一度、社会に出たあと、どうしても学位を取りたいと大学に戻って来た人もいます。

公立校の中でも、とくに都市部の大学だったので、働いている学生は多かったのです。

あるクラスでは、隣にいつも銀髪のレディーが座っていたのですが、彼女は、生涯学習(continuing education)の学生でした。
たぶん何かの学位を持っていて、生活にゆとりができた今、新しい挑戦をしようと学校に戻って来たのでしょう。60歳は軽く超えていたと思いますが、物を覚えたりするのは大変だろうと、いつも彼女の熱意に感心させられました。

こんなに年齢がバラバラだと、教室が社会の縮図みたいになっていて、経験の少ないわたしにとっては、ずいぶんと勉強になりました。
社会科学のクラスで、世の問題を語るとき、どんなに自分が「未熟者」であるかを痛感するハメにもなりました。

大学院にいたっては、全員がフルタイムで働く社会人であることを前提として、授業は夜の7時スタートでした。

そして、アメリカの大学では、オトナたちばかりではなく、18歳に満たないティーンエージャーだって、堂々と肩を並べて勉強できるのです。


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わたしの知り合いに、18歳でマサチューセッツ工科大学(通称MIT)の博士課程2年目のコがいるんです!

南カリフォルニアで育った彼は、ホームスクーリング(home schooling、家族が家で教えること)で学んだあと、14歳でコミュニティーカレッジを卒業しました。
数学も、科学も、音楽も、すべてに秀でた彼ですが、やはり社会に出て行って、人と一緒に勉強した方がいいだろうと、とりあえず2年制大学に通ったのです。

そこからカリフォルニア大学バークレー校に転入したあたりから、「よし、自分はコンピュータを人間の脳みたいにしてやろう!」と目標を定め、16歳でバークレーの修士号を取ったあとは、MITの博士課程で勉強することになりました。

なんでも、計算論的神経科学(computational neuroscience)といって、人間の脳の働きを数理的にモデル化し、それを応用してコンピュータやロボットを人間に近づけようではないか、という分野だそうです。MITだと、脳を使った実験がしやすいので、MITを選んだとか。


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わたしが最初に出会ったのは、彼がまだ小さい頃。かわいらしく、メイフラワー号でやって来た祖先のお話を披露してくれました。が、一度パズルで負かしたら、ほんとに悔しそうな顔をしていましたね。

今はもう立派な青年になって、研究のかたわら、小学生や中学生に脳の科学を教えています。18歳になったので、選挙権だって取得したことでしょう。

まあ、わたしのまわりには、彼みたいに若いコはいなかったですけれど、14歳の男の子と銀髪のレディーが大学で机を並べている様子を想像すると、ちょっと奇妙ですよね。

そう、アメリカの大学は、基本的に「来る者は拒まず」みたいな部分があるんです。学びたいという熱意を持って門をたたく者は、「どうぞ、どうぞ」と入れてあげる。

その代わり、「ちゃんと勉強してもらわないと、絶対に出してあげませんからね」「成績が悪いと、すぐにたたき出しますからね」と、みんなに学ぶことを強いているのです。

<アメリカの問題点>
と、良いところを並べてみたものの、世にパラダイスなんて存在しませんので、アメリカの教育分野にも問題が山積みです。

とくに、昨今の上から下への財政難は、高等教育(higher education)にも暗い影を落としています。
そう、大学に行きたくても、行けない人が増えているのです。

たとえば、カリフォルニアの公立校を例にとってみましょう。

カリフォルニアの公立大学には、112の2年制コミュニティーカレッジ、23のキャンパスを持つカリフォルニア州立大学(California State University、CSU)システム、10のキャンパスを持つカリフォルニア大学(University of California、UC)システムがあります。

 
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カリフォルニアの高校を卒業した生徒のうち、トップ12パーセントはUCシステムに、トップ30パーセントはCSUシステムに入れる原則になっています。
なんとなく緩やかな基準にも思えますが、カリフォルニアで高校を卒業するのは4人に3人ですから、在学中に対象外となる生徒もたくさんいるのです。

この基準からもれたとしても、2年制大学で勉強したあと、4年制大学に転入することは可能です。

実際には、願書が提出されると、高校の成績、SATやACTの共通テストスコア、スポーツやボランティアの課外活動、作文、それから、出身校の人種構成、家庭の財政事情などで、ひとりひとりが審査されます。
けれども、今までは、カリフォルニアの高校を卒業した生徒を優先する制度となっていました。なにせ、州立大学は、州民の教育が第一目標ですから。

ところが、昨今の経済状況下、地元の公立大学に受け入れてもらえないケースが増えてきたのです。

ひとつは、授業料の高い私立校を避け、公立校を志望する動きが強まり、競争倍率が高くなったことがあります。

たとえば、今年秋にUCシステムに入学を希望する願書は、前年の2割増(10キャンパス全体で16万通)でした。
シリコンバレーのCSUシステム、サンノゼ州立大学では、過去最高の出願者数(4万2千人)で、倍率は、昨年の1.3倍から2倍に跳ね上がっています(合格しても入学しない学生もいるので、例年、合格通知は多めに出されます)。

そして、州の教育予算が大幅にカットされた影響で、大学側が「州外(out-of-state)」や「外国(international)」の学生を多く受け入れるようになったことも災いしています。
州内の居住者でなければ、授業料はグンと跳ね上がり、大学の収入は増えるのです。「背に腹はかえられない」との大学側の苦肉の策かもしれませんが、その分、地元の学生は選考からもれるのです。

たとえば、UCシステムの名門と呼ばれるバークレー校とロスアンジェルス校では、昨年の合格者の3割が州外や外国の学生となり、物議をかもしました。
 


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さらに、今までは大いに奨励された2年制大学からの転入ですが、希望の4年制に転入できないケースも増えています。
ひとつは、全般に競争倍率が増えたこと。もうひとつは、教育予算のカットで、必修科目の授業がカットされ、転入に必要な単位が取りにくくなったことがあります。

首尾よく4年制に転入できたとしても、授業が減ったせいで、卒業が大幅に遅れる学生も増えています。

その上、近年、授業料が高騰したおかげで、「とっても払えない!」と、大学入学や転入をあきらめた学生も少なくないことでしょう。

今年、UCシステムの平均年間授業料(州の居住者)は、12,192ドル。CSUシステムは、5,472ドル。
これは、過去9年に3倍という急激な伸びで、生活費も入れると、なかなか厳しい状況です。
(実際には、授業料はキャンパスごとに異なります。そして、UCシステムの場合、非居住者の平均年間授業料は3万数千ドルにも達しますので、私立とあんまり変わらないのかもしれません。)

そう考えると、アメリカでは、大学に行くことは当たり前ではなくて、「特権(privilege)」なのかもしれませんね。

というわけで、今回は、公立校に焦点をしぼりましたが、また機会がありましたら、財政難が私立校に及ぼす影響などもお話しいたしましょう。

夏来 潤(なつき じゅん)

 

Pantry(食品保存庫)

前回は、Butler’s Pantry(執事の配膳室)のお話をいたしました。

もともとは、イギリスの貴族の館で生まれた言葉ですが、その「高級感」から、今はアメリカの邸宅でも使われています、というお話でした。

けれども、言葉というのはややこしいものでして、ひとつお断りしたいことがあるのです。

それは、butler’s pantry といった場合と、単に pantry といった場合は、まったく意味が異なるということなのです。

Butler’s pantry は「執事でも使えるような配膳のための小部屋」でしたが、単に pantry というと、「食品を保存しておくスペース、食品の保存庫」という意味になります。

たとえば、我が家のケースは、台所にある単なる木製の棚ですし、もっと大きなものになると、ズイズイと奥まで入って行けて、壁に取りつけられた棚に、ずらりと食品を並べられるスペースになります。

(Photo of pantry from Wikipedia)

いずれの場合も、「扉が付いているので、中の食品が見えない」というのがミソでしょうか。ゴチャゴチャとしたものは、扉で隠してしまいましょう、というのがコンセプトですね。

この pantry には、缶詰やシリアル(コーンフレークの類)、ジュースやボトルウォーター、スパゲッティや各種スパイスと、常温で保存できるような食料品を入れておきます。
 ついでに、洗剤やペーパータオルなどの台所用品を入れておく人もいるでしょう。

一般的に、butler’s pantry(配膳室)のあるような邸宅では、でっかい pantry があって、たくさんの食品を保存できるようになっているようです。

これで、地震などの災害時にも大丈夫!?

(いえ、変な話ですが、家を借りようとか、買い替えようと思って誰かさんの家を見に行くと、この pantry に独特のニオイがこもっている場合があるんです。やっぱり、各家庭には、好みのスパイスやら食品があるようでして、自分の好みに合わないと、引っ越したあとにニオイに悩まされることになるでしょう・・・)


そして、前回のお話に関して、もうひとつお断りしておかなければならないことがあります。

Butler’s pantry とは、食事をするダイニングルームと台所の間にある小部屋だとご説明しましたが、この「ダイニングルーム」というのがクセモノなのです。

英語で dining room というと、日本語のダイニングルームとは違って、「お客さま用の食事の部屋」という意味になりますね。

まあ、お客さまばかりではなく、感謝祭とかクリスマスのときは、家族や親戚の身内でも使いますけれども、基本的に、普段の家族の食事には使わない、という意味です。

そう、ちょっとオシャレな、気取った部屋といった感じでしょうか。これも、もしかすると、イギリスの貴族あたりが起源なのかもしれませんね。

さすがに、我が家にも dining room はありますので、多くの住宅に存在する部屋なのです。

親戚が多い家族だと、dining room が大きいという理由で、家を選ぶ人もいることでしょう。


そして、dining room を普段は使わなくなるというのは、扉で台所から隔離されている場合が多いので、いちいち食事のたびにご飯を運ぶのが面倒くさいからです。

ですから、台所の一角で食べられるスペースのある eat-in-kitchen というのが、ごく一般的ですね。

つまり、kitcheneat-in できる、「食事のできる台所」というわけです。まあ、日本語でいう「ダイニングキッチン」といったところでしょうか。

こちらの写真は、サンフランシスコのコンドミニアム(マンション)のモデルルームで、キッチンカウンター(調理台)で簡単に食べられるようになっているケースです。

簡単に食事ができるスペースという意味では、breakfast nook という表現もありますね。

いうまでもなく、breakfast は朝食ですが、nook(ヌックと発音)というのは「引っ込んだスペース」という意味です。
 台所の一角にテーブルを置いて、普段の家族の食事ができる場所、というわけです。


Dining room が「お客さま用」であるのと同じように、英語の living room(リビングルーム)だって、「お客さま用」の色合いが強いですね。

ですから、お客さまが足を運びやすいように、玄関のすぐそばに、living roomdining room が隣接している家が多いでしょうか。(我が家もこのケースで、入って手前と右側がお客さまのスペース、左奥が家族のスペースといった感じに分かれています。)

日本語の「リビングルーム」というと、「家族が一緒に団らんを楽しむ部屋」になりますが、そういった意味合いでは、family room(ファミリールーム)という方が一般的ですね。

家族でのんびりとくつろげる部屋、つまり、family room となったのでしょう。

やはり、living room といえば、「お客さまがいらっしゃったときに、お通しする部屋」といった固い感じになるでしょうか。
 そして、ここに置くソファーやテーブルも、団らんの部屋とは違った印象の、もっとフォーマルなものとなります。

ちなみに、living room の代わりに、sitting room と呼ぶ場合もありますね。

文字通り、「座る部屋」という意味ですが、玄関から入ってすぐにソファーや椅子が並べてあって、ここでお客さまにカクテルやオードブルをお出しし、食事の前にひととき語らう、というような使い方をします。


そんなわけで、dining roomliving room は、結局は使わなくなってしまうので、最近の傾向は、お客さま用の部屋はつくらずに、大きなオープンスペースにしてしまう場合が多いようですね。

どこを「何の部屋」と細かく仕切らずに、大きな空間のスペースごとに「団らんの場所」とか「食事をする場所」とか、特徴を持たせるコンセプトのようです。

たとえば、「ロフト(loft)式」の家は、このコンセプトですよね。

写真は、サンフランシスコの友人宅ですが、玄関近くにベッドルームふたつとバスルームがある以外は、台所、ダイニングルーム、リビングルーム、仕事場と、全部がひとつの空間になっています。

広々として良いのですが、音が大きく反響するので、寝るときに神経質な人には向かないかもしれませんね。

おっと、またまた話がそれてしまいましたが、pantrybutler’s pantry は違いますよ、そして、日本語のダイニングルームと英語の dining room は違いますよ、というお話でした。

写真出典: 我が家の写真は一枚もありませんが、pantry の写真は、Wikipediaから。そして、dining roomliving room の写真は、「家を買い替えようなかぁ?」と思い立ったときに、見に行かせていただいた、近くの家2軒です。

結局、家は買い替えませんでしたが、他の人の家を見てまわるのは、なかなか興味深いことですね。

かずこちゃんのお父さん

新しい年も、はや2月。

いつの間にやら、サンノゼで迎えた元旦も過ぎ、日本で迎えた旧正月(今年は1月23日)も過ぎ行きました。

そういえば、日本では、「豆まき」だってありましたね。

「一月は行く、二月は逃げる」という表現がありますが、まさに、言い伝えどおりのあわただしさなのです。


そんな気ぜわしい年明けでしたが、ふと子供の頃を思い出していました。

たぶん幼稚園の頃か、その前だったのかもしれません。

近所には、何人かのお友達が集まる「お遊びグループ」ができていました。

わたしは、年齢では下から2番目。

まわりはみんな、お兄さん、お姉さんなので、いつも彼らの振る舞いをまねて、懸命に背伸びをしていたように思います。

あるとき、ひとつ年上のかずこちゃんの家に遊びに行きました。

たぶん小雨が降っていたのでしょう。お家の中で遊んでいました。

窓際には椅子が置いてあって、わたしはそれをガタガタとゆすって遊んでいます。

どうしたものか、子供の頃は、とにかく椅子をゆらして危なっかしいバランスを取るのが、面白くってしょうがなかったのです。家でもしょっちゅうバタンと椅子を倒しては、母にしかられていたものでした。

ときには、後ろにドンとひっくり返って、床に頭をぶつけることがあったのですが、自分でやっているので泣くわけにもいきません。じっと我慢なのです(ま、たまには、ワンワンと泣きながら助けを求めることもありましたが)。


けれども、その日は、もっと悪いことが起きました。

後ろにエイっとゆらし過ぎて、椅子が窓ガラスに当たったのです。

そして、ガラスはガシャンと割れる。

わたしはとっさに、大声で泣き始めました。

怪我をして、どこかが痛いというわけではありません。ガラスが割れたことにびっくりしたのと同時に、これからいったい何が起きるのだろう? と、恐怖心にかられたからです。

そう、これから、この家の人にこっぴどく怒られるのだろうな、という恐怖心。


ところが、不思議な展開となりました。

窓ガラスのガシャンとわたしの大泣きを聞きつけて、かずこちゃんのお父さんが登場しました。

お父さんは、怒るどころか、こうおっしゃったのです。

よし、よし、もう泣かないでもいいよ。そんなところに椅子を置いていたおじさんが悪いんだからね、と。

え? なに? どうしてそんなことを言うの?

怒られることを予測していたわたしの頭は、もう大混乱。

大混乱ついでに、泣き止むことを忘れて、いつまでもボソボソと泣いていたのでした。

もしかすると、後日、母が謝りに行ったのかもしれません。

あれだけ大泣きすれば、目のまわりは真っ赤になって、ただ事じゃないというのは明白です。たぶん、家に帰ってすぐに「いたずら」を白状するハメになったのでしょう。

よくは覚えていませんが、母にはひどくしかられたことでしょう。「だから、いつも椅子をゆすっちゃいけないって言っているでしょう!」と。


そんなわけで、子供ながらに、ほんとに恥ずかしい出来事ではあったのですが、大人になって思い返してみると、とっても不思議に思うのです。

ぜんぜん怒ろうともしなかった、かずこちゃんのお父さんは、もしかしたらキリスト教の信者だろうかと。

いえ、もちろん、キリスト教徒でなくとも、同じことをおっしゃったかもしれません。

けれども、人の間違いを問いたださない、あやまちは許す、というところが、なんとなくキリスト教徒のようにも感じられたのでした。

そして、こうも思うのです。

今の自分は、当時のかずこちゃんのお父さんの年齢をとっくに超えているだろうけれど、自分が同じような状況におちいったら、あのように寛大でいられるだろうかと。

あの頃、かずこちゃんのお父さんがいくつだったかはわかりませんが、きっと年齢のわりには、しっかりとした人物だったのだろう、と想像するのです。

残念なことに、あのお父さんには「窓ガラス事件」の記憶しかありませんが、どうかご健在でありますように、と願うばかりなのです。

追記: ちょうど今日の新聞の相談欄に、こんな回答が載っていました。

(人を)許すことは、自分自身への贈り物です。なぜなら、許すことは、怒りや憎しみの束縛から解き放たれることだから。

Forgiveness is a gift you give to yourself. Forgiveness equates with freedom from the shackles of anger and resentment.
Excerpted from “Ask Amy” by Amy Dickinson, published in the San Jose Mercury News, on February 21st, 2012

もちろん、こちらの話題は「窓ガラス事件」よりも複雑ではありましたけれど、洋の東西にかかわらず、誰かを許すということは、人生の大きな課題なんですよね。

Butler’s Pantry(執事の配膳室)

久しぶりの英語のお話です。

ふと、サンノゼで家を探していたときのことがよみがえってきたので、まずは、思い出話をいたしましょう。

もう16年も前のことになりますが、アパートから一軒家に引っ越そうと思い立ち、家を購入することにいたしました。

べつにアパートに不満があったわけではありません。新しいアパートで、プールやテニスコートも付いています。なかなか快適な生活でした。

けれども、当時は、まだまだシリコンバレーでも物価は安定していたので、家だって、そんなに高くはありませんでした。

毎月、アパート代を払うのならば、それを住宅ローンにまわした方がいいんじゃないか、と考えたのでした。

実際、シリコンバレーで家を探すとなると、これは、結構大変な作業です。

第一、「シリコンバレー」と呼ばれる地域には、10以上も「市」があって、たとえば「ここは高級住宅地」とか「ここは教育熱心な街」とか、いろいろと独自のカラーがあるのです。

もちろん、それによって住宅価格もぜんぜん違いますし、そういった諸条件を考えると、短期の滞在者にとっては、仕事場の近くとか、良い学校があるところとか、好きな街の家を借りる方が、経済的にも賢い方法でしょう。

けれども、「ここにずっと住むかもしれない」と考えた我が家は、とりあえず、シリコンバレー最大の街サンノゼで、新築の家を探すことにいたしました。


その頃、サンノゼは、まさに宅地開発の波がどっと押し寄せる先駆けの頃で、あちらこちらに、美しく整備された住宅地がお目見えしていました。

もともと農地や放牧場が広がるサンノゼには、宅地に転用できそうな土地がいっぱいあったのです。

結局、全部で12軒の家を見てまわったのですが、そのうちの数軒は、現在、我が家が住んでいるコミュニティーにありました。

なんのことはない、ゴルフをやりたい連れ合いは、最初っから、このゴルフ場付きのコミュニティーしか頭になかったのです。

その数件の中でも、最初に見た「高級な住宅」は、わたしにとって印象深いものになりました。

なぜなら、その家には、聞き慣れない部屋が付いていたからです。


そう、それが、題名になっている Butler’s Pantry(発音は、バトラーズ・パントゥリー)。

Butler は執事(しつじ)。Pantry は、配膳の準備をする部屋。

ですから、「執事の配膳室」とでも訳せるでしょうか。

もちろん、執事というのは、イギリスの貴族階級の家で使用人をまとめていた役職ですので、現代のアメリカには、ほとんど関係がありません。

けれども、その「高級感」だけが脈々と受け継がれていて、「執事が使えるような配膳室」といった意味合いで、butler’s pantry と呼ぶようになったのでしょう。

実際には、食事をするダイニングルーム(dining room)と台所(kitchen)の間にある小部屋で、食器や銀食器を入れる棚や、ナイフ・フォーク、ランチョンマットなどの小物を入れる引き出し、そして、配膳の前に盛りつけをチェックできるような台のある小部屋(またはスペース)のことです。

まあ、今でこそ、そんな名前を聞いたって驚いたりはしませんが、その頃のわたしは、butler(執事)という単語が出てきただけで、「すごいなぁ」「アメリカの邸宅は違うなぁ」と感心してしまったのでした。

そう、butler’s pantry のある家は、一般的に大きな邸宅。我が家が引っ越した家には、そんな贅沢な小部屋はありません。

(上の写真は、インテリアデザインの雑誌から取ったもので、サンフランシスコ空港に近い、Midland Cabinet Companyという棚(cabinet)の専門会社の広告です。なかなかクラシックな、品のある butler’s pantry なのです。)


それで、歴史をさかのぼってみると、実際にイギリスの「執事の配膳室」と呼ばれていた部屋は、現代のアメリカのものとはちょっと違うのですね。

イギリスの領主さまの館(マナーハウス、manor house)では、銀食器や銀のナイフ・フォーク、燭台と、高価な物が棚に並ぶ小部屋を butler’s pantry と呼んでいたのでした。

当時、美しく細工された銀の食器は、貴族階級に好まれていて、それゆえに「富」の象徴ともなっていました。

そこから、「銀のスプーン(silver spoon)」という表現が生まれ、今でも、こんな風に使われています。

He was born with a silver spoon in his mouth.
(彼は銀のスプーンを口にくわえて生まれてきた、つまり、金持ちの家庭に生まれた)

そして、そんな高価な銀食器をしまう小部屋には鍵がかかるようになっていて、butler しか鍵を持つことはできませんでした。

ですから、執事が管理するという意味で、butler’s pantry

領主さま家族のディナーのあと、空き時間ができたら、執事は銀食器の数を確認し、表面に傷やくもりがないかと点検するのが習慣になっていました。

点検が終わったら、鍵をかけ、無事に一日が終了するのです。


それから、領主さまのディナーには、美味な料理だけではなく、おいしいワインも欠かせませんが、手元にあるワインのリストをつくることも、執事の重要な職務でした。

ですから、この大事なワインリストも、butler’s pantry で保管されていたのです。

そう、執事ともなると、ワインの知識は豊富に持ち合わせていて、おいしいワインを調達するのはもちろんのこと、ひとつずつ料理が運ばれるごとに、ダイニングルームの屏風の裏で、白ワインや赤ワインと、お料理に合うワインを準備なさっていたわけですね。

そんなわけで、高価な銀食器や大事なワインリストを保管していたのが、butler’s pantry

この小部屋の鍵を持つことは、まさに「執事の誇り」とも言えるような、重要な意味を持っていたのです。

執事にとって、この鍵を誰かに手渡すということは、自分が職務を解かれるということ。それは、何よりも恥ずべきことだったのでしょう。


おっと、サンノゼの家探しのお話が、いつの間にかイギリスの執事のお話になってしまいましたが、今日のお題は、butler’s pantry

簡単な名称にも、深~い歴史と意味合いが含まれている、というお話でした。

そうそう、ふと思い付いたのですが、mansion(マンション)という言葉には、ちょっと気を付けた方がいいかもしれませんね。

日本語でマンションと言えば、各世帯が購入する集合住宅になりますが、英語で mansion と言えば、「大きなお屋敷」という意味になりますね。そう、何億円もするような、豪華な邸宅。

日本のマンションを指す言葉は、英語では condominium(コンドミニアム)になりますので、要注意。

I bought a mansion in Japan(日本でマンションを買いました)

なんて言おうものなら、

Oh, you must be a millionaire(お~、あなたは億万長者なんですねぇ)

なんて、変に感心されちゃいますよね!

今月の注目レース: 大統領候補とサンフランシスコ49ers

Vol. 150

今月の注目レース: 大統領候補とサンフランシスコ49ers

新しい年を迎えた今月は、政治とスポーツのお話をいたしましょう。

<日替わりメニュー>
わたしの大好きな漫画に、阿倍夜郎氏が描く『深夜食堂』というのがあります。

ちょっとコワそうなオヤジがやっている深夜営業の食堂で、ここには、メニューなんて無粋なものはありません。食べたいなと思ったものを「マスター、つくってよ」とオーダーするシステムです。

メニューのない食堂ほど、難しいものはないと思うのですが、そんなお客のわがままにも見事に対応してくれる、あっぱれなオヤジさんなのです。

と、いきなり話がそれてしまいましたが、今日の話題は「日替わりメニュー」。いえ、食堂の話ではなくて、アメリカの政治のお話です。
 


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ご存じのように、今年2012年は、4年ごとにめぐってくる大統領選挙の年です。

現職のオバマ大統領は、再選(憲法で定められた最長の2期目)がかかっているので、民主党候補は、自動的にオバマ大統領となります。

けれども、対する共和党の候補者選びが大変なのです。

まあ、4年ごとに、どちらかの政党がやっている大騒ぎではありますが、今年の共和党は、とくに波瀾万丈。今のところ、誰が候補となるのかはわかりません。

そう、まるで気の利かない定食屋のランチみたいに、代わり映えのしないメニュー(候補者)が日替わりで登場しているのです。いえ、ほんとに「日替わり」って感じなんですよ。
 


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最初は、男性9人に女性ひとりの、10人が名乗りを上げたところから始まりました。

間もなく、ふたりが脱落し、8人となります。

この中でも、元マサチューセッツ州知事で、前回の大統領候補者選びにも出馬したミット・ロムニー氏が、一番の実力者と目されていました。が、共和党支持者だって、一枚岩ではありません。
 


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中部・南部の福音主義キリスト教徒(Evangelicals)を中心に、「ロムニーは、純粋な保守派じゃない!」との批判が沸き起こり、ロムニー氏の引きずり下ろし作戦が活発化するのです。

なんでも、州知事時代にロムニー氏が制定した医療保険制度が、民主党寄りの「全員参加型」だったこと、同性結婚や女性の生殖の権利を支持したこと、そして、ロムニー氏が普通のプロテスタントではなく、モルモン教徒(正式には末日聖徒イエス・キリスト教会の信者)であることが災いの一因となっているとか。

ここで、ロムニー氏の対抗馬として最初に祭り上げられたのが、現テキサス州知事のリック・ペリー氏。


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テキサス州知事としては、ブッシュ前大統領の後継者でもあり、保守派の信頼も厚い方なのでしょう。彼の好感度と支持率はグイグイと上がっていくのです。

ところが、ここで問題が発生します。11月上旬、テレビで生中継された候補者討論会の場で、彼が国政の「ド素人」であることが露見するのです。

「僕が大統領になったならば、すぐに3つの省庁をぶっつぶすよ。まず、商務省でしょ、教育省でしょ、それから・・・」

53秒の沈黙ののち、結局、ペリー氏は3つ目(エネルギー省)を思い出せずに、同時に彼の支持率も失墜していったのでした。(みんながネットでつながる今の時代、ほんとにリアルタイムで失墜したのでした。)
 


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次にロムニー氏の対抗馬となったのが、ハーマン・ケイン氏。
この方は、もともとはハンバーガーやピザ屋のチェーンを経営するビジネスマンで、その後は、全米レストラン協会の会長を務めるかたわら、政治の世界にも足をつっこむのです。

昨年、大統領候補として名乗りを上げ、自身の減税政策を派手に打ち上げた頃から、グイグイと注目度が上がっていくのです。

テキサスの「リック・ペリー号」が失墜した今、頼みの綱は、ケイン氏。

ところが、ここで問題が発生します。どうやら、ケイン氏は相当の女性好きだったらしく、「わたしは、彼がレストラン協会長のときにセクハラされたわ!」という訴えが、次々と各地で沸き起こるのです。

おまけに、「わたしは13年間、彼の愛人をやっていたわ」という女性まで現れ、万事休す。12月に入って、ケイン氏は、やむなく選挙戦の停止(事実上の脱落)を宣言するのです。

これは大変! 年が明けたら、最初の共和党の党員集会(caucus)がアイオワ州で開かれます。それまでには、ロムニー氏の新しい対抗馬を見つけなければ!
 


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ここで脚光を浴びたのが、元連邦下院議長のニュート・ギングリッチ氏。
この方は、1994年、それまで40年間も民主党が握っていた下院を共和党に握らせた実力者です。

けれども、かなりの強硬派としても知られ、当時のクリントン大統領とのかけひきや共和党の人気下落が災いして、政治の世界からは身を引き、近年は、保守系メディアでコメンテーターやコラムニストとして活躍していました。
ヨーロッパ近代史の博士号を取っていることもあって、なかなか弁が立つご仁なのです。

ところが、どうしたことか、クリスマスの頃になると「ギングリッチ熱」も冷め、共和党支持者の視線は、べつの候補者に注がれるのです。
 


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今度は、ペンシルヴェニア選出の元連邦上院議員、リック・サントラム氏。

どうやら、その背景には、「強硬で、無党派層に人気のないギングリッチ氏では、オバマ大統領を負かすことはできない」というコンセンサスがあったようです。

それに、サントラム氏だって、十分に保守を貫くタカ派の政治家として知られるので、「こっちの方がいいや!」と多くの人が思ったのでしょう。

というわけで、1月3日、アイオワ州で開かれた最初の党員集会では、わずか8票差でサントラム氏を抑えたロムニー氏が、首位の座を奪います。

そして、翌週開かれたニューハンプシャー州の予備選挙(primary)では、ロムニー氏が楽々トップの座に就くのです。

が、彼にとっては、これからが正念場。なぜなら、舞台は、南部のサウスキャロライナとフロリダに移るからです。北東部のマサチューセッツの政治家は、南部では知名度は低いのです。

ここでは、ジョージアのギングリッチ氏が盛り返すかもしれないし、テキサスのペリー氏だって、息を吹き返すかもしれません。福音主義者を中心に、サントラム氏が支持を上げているという話も耳にします。

興味深いことに、1980年以降、サウスキャロライナの覇者が、共和党大統領候補となっているそうです。

そんなジンクスが通るのか、今月の予備選挙は注目すべきレースとなることでしょう(サウスキャロライナの予備選挙は1月21日、フロリダは31日となっています)。
 


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そうそう、残念なことに、アイオワ州の党員集会のあと、唯一の女性候補は姿を消してしまいました。
紅一点は、ミネソタ州選出の連邦下院議員ミシェル・バックマン氏でしたが、アイオワ州での成績が芳しくなかったので、早々と脱落を宣言したのでした。

まあ、バックマン氏に限って言えば「力不足」の感は否めませんが、まだまだ女性が大統領候補となるのは、難しい時代なのでしょうか。

今からこんなことを言うと鬼が笑いますが、4年後の2016年には、もう一度ヒラリーさん(クリントン国務長官)に名乗りを上げて欲しいところなのです。

<がんばれ、フォーティーナイナーズ!!>


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わ~い、サンフランシスコ・フォーティーナイナーズ(49ers)が、プレーオフで勝ちました!

あと一勝すれば、2月5日のスーパーボウルに出られるんです!!

というわけで、アメリカンフットボールに興味のない方には申し訳ないことではありますが、「三度のメシよりもフットボールが好き」なわたしとしましては、49ersの話抜きには、一月号をしめくくるわけにはいきません。

いえ、フットボールというスポーツは、実に摩訶不思議なスポーツでして、生まれて初めてフットボールを見たときの衝撃を、今でも忘れることができません。
あれは、京都大学と関西学院大学の試合だったと記憶しますが、テレビで初めてフットボールなるものを見たとき、雷に打たれたような衝撃を受けたのです。

しまった、世の中には、こんなにスゴいスポーツがあったのか! と。

もちろん、「自分でやろう!」などと無茶な判断はしませんでしたが、1980年、サンフランシスコに住み始めて以来、「自分のチームは49ers」と心に深く刻んでいます。

翌1981年のシーズンは、49ersファンにとって未来永劫忘れられないシーズンとなっていて、名将ビル・ウォルシュ監督(故人)のもと、3年目の若いクォーターバック(QB)ジョー・モンタナが、見事に花開き、伝説的なキャリアを築く先駆けとなったのでした。
それ以来、49ersは、5回もスーパーボウルの覇者となり、良きライバル、ダラス・カウボーイズとともに「王朝時代」を築いていくのです。

ところが、いつかは、勢いは失速するもの。ジョー・モンタナ、スティーヴ・ヤングと、のちに殿堂入りを果たす名QBが続いたあと、NFLの記録を塗り替えたジェリー・ライス(ワイドレシーバー)といった名選手も失い、なかなか勝てなくなってしまうのです。
最後にスーパーボウルに勝ったのは、1994年のシーズン。そして、2003年のシーズン以降、プレーオフにすら、姿を現さなくなったのでした。

そして、今シーズン。どこかが違う49ers。

久しぶりにプレーオフに出場した49ersは、大方の予想をくつがえし、お相手のニューオーリンズ・セインツを破ってくれたのでした。
 


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まあ、最初は余裕で勝てるかという試合展開でしたが、そこは、プレーオフ。両者の力が拮抗(きっこう)する中、最後の4分で、相手にまんまと逆転されてしまうのです。

最後の2分で逆転し返し、残り30秒でまた相手に逆転されるという緊迫の中、残り9秒で、アレックス・スミス(QB)が投げたボールをヴァーノン・デイヴィス(タイトエンド)が受け取り、タッチダウン(写真)を決めてくれたのでした。

もちろん、一番の殊勲賞は、ヴァーノン・デイヴィス。敵を背中で防ぎながら、エンドゾーンぎりぎりでボールを受け取るプレーは、3日前に導入した新作戦。
 


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首尾よくプレーが運び、逆転勝利を達成した彼は、感極まって、泣きべそをかきながら、監督のもとへと戻って来るのです。
そう、大の男が、NFLのタフガイが、ボロボロと涙を流しながらサイドラインに戻って来るのです!

そんな彼を、両腕を大きく広げ、暖かく迎えたのは、ジム・ハーボー監督。
 


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今シーズンから49ersの新監督となった方で、今まで鳴かず飛ばずのチームを、シーズン成績13勝3敗のチームに育て上げた実力者です。

49ersに来る前は、スタンフォード大学の監督をなさっていて、やはり、低迷するチームを強豪に育て上げた実績のある方なのです。

自身もNFLでクウォーターバックとして活躍した経験があり、昨シーズンまではメロメロだった49ersのQBアレックス・スミスを、注目株の選手に変身させた功労者でもあるのです。

なかなか成績を残せないアレックス・スミスは、もう7年目。今シーズンが始まる前には「他のQBに替えろ!」と、ファンや報道陣から非難ゴウゴウだったのですが、ハーボー監督が来てからというもの、どんどん調子を上げていくのです。


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やはり、彼にとって、元QBのハーボー監督は良きボスであり、優れた先生であり、頼れるアニキだったに違いありません(写真は、残り2分、自ら走ってタッチダウンを決めたアレックス・スミス選手)。

いや、ほんとにハーボー監督って、熱い方なんですよね。試合中も、サイドラインから真剣な眼差しでフィールドを見つめ、少しでも不満があると、辺りかまわず叫び出すタイプなのです。

けれども、そんな風にいつも火のように燃えている方ですので、選手たちも監督を家族のように慕っていて、「監督のためなら、たとえ火の中、水の中」と、厚い信頼と忠誠心を抱いているのです。

だから、チームが一丸となって、試合に勝って来られたのでしょう。だって、今の49ersには、スーパースターはいないのです。けれども、ここまで来たということは、全員がまとまって、持てる力を発揮できたということなのでしょう。

プレーオフの前夜、ハーボー監督は選手たちにビデオを見せたそうです。歴代のプレーオフで繰り広げられた名場面を集めたもので、加えてこうおっしゃったそうです。

「歴史というものは、プレーオフでつくられる」と。

ヴァーノン・デイヴィス選手が、人生最高の試合ができたのも、もしかすると、監督のこの言葉を聞いたからかもしれません。
 


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さあ、次は1月22日、NFCチャンピオンをかけて、ニューヨーク・ジャイアンツと対戦です!

これに勝てば、2月5日、スーパーボウルでAFCチャンピオンと戦えるのです。

Go Niners!

がんばれ、フォーティーナイナーズ!

夏来 潤(なつき じゅん)

 

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