「シリコンバレーナウ」最終回:20年分のありがとう!

Vol. 239



<シリコンバレーにさようなら>

2000年12月にスタートした、こちらの『シリコンバレーナウ』シリーズ。今月で満20周年を迎えました。

そして、突然ではありますが、今月が最終回となります。書いている本人としては、さすがに愛着がありますが、長年にわたるアメリカ生活に終止符を打ち、日本に戻るため、続けられなくなったのでした。

いえ、べつに新型コロナウイルスが怖くて、アメリカを逃げ出すわけではありません。すでに一年前から日本の「移住先」も決まっていて、そのために住み慣れたサンノゼ市の自宅を売ったり、サンフランシスコ市の小さなマンションに引っ越したりと、着々と準備をしてきたのでした(こちらは、西側上空から眺めたサンフランシスコ市)。

 

思い返せば、この20年の間『シリコンバレーナウ』のスポンサーを続けてくださった方からは、いつもこんな風にご紹介いただいておりました。

テクノロジーなんかの小難しいことは、いろんなニュースサイトで詳細に紹介されているけれど、シリコンバレーに住む人たちがどんな風に暮らしていたり、どんなことを考えたりしているかは、実際に現地に住んでいる人間にしかわからない。だから、住民の視点でざっくばらんにシリコンバレーという土地を紹介しているシリーズなんです、と。

そして、いつも引き合いに出されるのが、記念すべきシリーズ第一話「ハロウィーン:Trick or Treatの社会学」。その頃は、日本には広まっていなかったハロウィーンの習慣をお伝えしようと、ハロウィーンの成り立ちとともに、今は亡きアップルの共同創設者スティーヴ・ジョブスさんや、元サンフランシスコ49ersの名クウォーターバック、スティーヴ・ヤングさんの家ではどんな対応をなさっていたかを紹介したもの。

書いている本人にとっては、他に力作はいくらでもあるものの、たぶん、その後の20年、この第一話ほど面白く感じられたものはなかった、ということなんでしょう・・・。



そして、わたし自身が『シリコンバレーナウ』をご紹介してみると、「あ〜、あの時々旅行記を書いているやつですね」と反応が返ってくることもありました。本人にとっては、旅行記以外に記憶に残らないのかな? と複雑な気分ですが、シリコンバレーをご紹介するはずのコーナーにヨーロッパや日本を旅する話が出てくるのも変な話ではあります。

そこで、今回は最終回ということで、地元をご紹介してみましょう。



わたし自身は、40年前に初めてサンフランシスコにやって来て、25年前には「シリコンバレーの首都」と自負するサンノゼ市に引っ越して来ました。ですから、通算32年のアメリカ生活の中で、サンノゼ市に暮らした年数が一番長いということになります。

けれども、サンノゼ(San Jose)と聞くと、ディオンヌ・ウォーウィックのポピュラーソング『サンホゼへの道(Do You Know the Way to San Jose)』を思い出すくらいで、アメリカ人でも知らない人が多いくらい。

そう、「シリコンバレー(Silicon Valley)」はイメージとは違って、なんとなくだだっ広い、平屋のオフィスが建ち並ぶ、昔は「喜びの谷間(the Valley of Heart’s Delight)」と呼ばれていた農業地帯だった場所という方が正しいです。

ですから、そんな「退屈な」シリコンバレーの代わりに、「絵になる街」サンフランシスコをご紹介いたしましょう。4カ所出てきますので、お好きな場所をどうぞ。



<サンフランシスコあれこれ〜4つの観光名所>

まずは、渋いところで、グレイスカテドラル(Grace Cathedral)。なんとなくパリのノートルダム寺院に似ているので、カトリック教会かと思いきや、こちらはイギリス国教会系のエピスコパル(Episcopal、米国聖公会)教会。

英国国教会系なので、アメリカの新しい宗派、たとえば福音派(Evangelical)とは違って、儀式にはカトリックっぽい要素も残されています。教会の正面には、イタリアの有名な「天国の門(Gates of Paradise)」を模した美しい扉もあり、荘厳なゴシック様式の教会ではあります。

場所も、サンフランシスコで一番美しいとされるノブヒル(Nob Hill)の丘にあり、フェアモントやマークホプキンス(現インターコンチネンタル)といった高級ホテルや瀟洒なヴィクトリアン様式の住宅に囲まれます。ノブヒルには、サンフランシスコ名物のケーブルカーも通っていて、観光客が好んで訪れる地区でもあります(現在は、ケーブルカーは運行停止)。



それで、どうしてグレイスカテドラルかというと、故スティーヴ・マックイーン主演の映画『ブリット(Bullitt)』(1968年公開)に出てくるから。『ブリット』はサンフランシスコが舞台の刑事物で、市内で撮影された映画の中でも、最も有名な作品。急な坂道をぐるぐると走り回るカーチェイスでも有名で、ハリウッド映画のカーチェイスの三本指にも入る作品。

わたしが好きなマックイーン主演で、大好きな街が舞台ということで、お気に入りの映画のひとつですが、主人公ブリット警部補の上司が家族とともに日曜礼拝に向かおうとするのが、このグレイスカテドラル。冒頭から出てくる連邦上院議員がなんとなく邪魔な存在である中、捜査続行に理解を示してくれる上司の存在にほっとする場面で、こちらの教会が出てくるのです。

今はコロナ禍で立ち入り禁止となっていますが、教会の内部も美しく、ステンドグラスから射すカラフルな光を浴びながら、ほっとできる静寂の空間となっています。

ちなみに、この映画では、シカゴの出入国管理局から犯人とおぼしき人物のパスポート写真を送信してもらうシーンがあって、電話の受話器をファックス機(テレコピア)の上に置いて、画像を受信しています。ファックス通信に使う「音響カプラ」の仕組みですが、文字通り受話器を置いたり、熱転写シートを外して顔写真を眺めたりと、歴史が感じられて興味深いです。



サンフランシスコ市警の刑事物といえば、『ダーティハリー(Dirty Harry)』(1971年公開)を忘れてはいけません。クリント・イーストウッド主演の1970年代を彩るヒット作。イーストウッド扮するハリー・キャラハン刑事が悪者を追い詰めていくアクション物で、キャラハンのやり口に、見ている側もハラハラ、ドキドキ。「ダーティ(Dirty)」という名の通り、型破りな捜査を繰り広げるキャラハンなのです。

この映画で最も印象的なシーンが、こちらの十字架。日も沈んだ薄暮の中、犯人を追い詰めていくシーンだったと記憶します。

いえ、見ている側にとっては、なんでもないシーンかもしれませんが、実は、ここは大変な場所。サンフランシスコで一番高い「マウント デイヴィッドソン(Mount Davidson)」という山の上にあって、足で登らないとたどり着かない場所なのです。ですから、物語上はスリルのあるセッティングかもしれませんが、実際の撮影はとても大変だったのではないか・・・と、裏を知ってみると観客も心配するような労作です(なんでも、山頂は霧もかかりやすく、撮影は忍の一字だったとか)。



そう、サンフランシスコはコンパクトな街ですが、その中に40もの山(丘)がひしめき合っています。ですから、上ったり、下ったりと急な坂道が多い。だいたいは数十メートル級の小高い丘ですが、街一番の高さを誇るのが、283メートルのマウントデイヴィッドソン。見晴らしの良いことで知られる「ツインピークス(Twin Peaks)」よりも、鼻ひとつ高い。街のほぼ真ん中(ちょっと南寄り)にあって、てっぺんの十字架は広域から臨むことができます。

昔わたしが住んでいた住宅街からもよく見えていましたが、実際に行くとなると、どこから登るのか知らない人が多いのです。それは、登り口が山の上の住宅街に隠れているから。市営バス「36番」ルートのバス停の裏が登り口ですが、そこからえっちらおっちらと足で登らないといけません。「僕、あそこの山に登ってみたよ」という友人を奇異なヤツだと眺めた記憶がありますが、ネーチャートレイルのハイキングやマウンテンバイクを愛する人たちの集合場所になっています(山の裏手は、奈落の底のような下り坂。あまりの急勾配に、電気自動車テスラが発電を始めて消費電力がマイナスに転じた箇所。ここに住んでいる人たちの気が知れない!)。

山のシンボルである十字架は、上記グレイスカテドラルの司祭が1923年に建てたのが最初のようですが、1930年代には「イースター(復活祭)」の儀式を開くためにコンクリート製の立派な十字架になったそう。まあ、街のどこからも見える場所に十字架があると、「宗教(無宗教)の自由」に反するということで、近年は裁判が起きたりしましたが、現在は、20世紀初頭のアルメニア人虐殺(Armenian Genocide)の犠牲者に捧げるものとして、民間団体が所有します。



ちなみに、映画『ダーティハリー』というと、こんなセリフが有名ですね。十字架の下に追い詰めた犯人に向かって、主人公がクールに吐く「Go ahead, make my day」。「俺を楽しませてくれ」と粋な邦訳になっていたと記憶しますが、「やれるもんなら、やってみろ。俺が楽しんでやるから」といった感じでしょうか。自分だって撃たれるかもしれないのに、どこまでも、凄みのあるキャラハン刑事なのでした。

この映画は、圧倒的な人気から第5作までシリーズ化されていて、いずれかの作品に海沿いの街サンタクルーズ(Santa Cruz)が出てきます。シリコンバレーからは山を越えた海辺にあって、今は、キレイに洗練された街となっています。が、当時は、改造したホットロッドをブイブイ走らせるギャング崩れの若者が暴れ回る街、といった印象でした。わたしが知っている1980年代も、まだまだドラッグなど危険な要素の残る街でしたが、そういった変遷を映画から学ぶのも面白いですよね。



一方、サンフランシスコのシンボルといえば、やはりゴールデンゲートブリッジ(Golden Gate Bridge、金門橋)でしょうか。ゴールデンゲートというのは、広い太平洋からサンフランシスコ湾に面した港(写真右奥のダウンタウン地区)に入ってくる海峡の名前です。狭い海峡なので、いつも強い風が吹いていて、天候も変わりやすいです。

ゴールデンゲートブリッジが開通したのは、大恐慌時代の1937年。そんな厳しい時代にでっかい橋を作ろうなんて、スケールがでかいです。

もう一本の大きな橋、ベイブリッジ(San Francisco-Oakland Bay Bridge)も同じ年(1933年)に着工し、こちらの方は半年ほど早く開通。どちらも大恐慌時代の建設ということで、当初はセーフティネット(転落防止網)すらなく、命がけで工事に携わっていた、とのこと。

ゴールデンゲートブリッジは、吊り橋の美しいフォルムと鮮やかな赤い色で印象的です。橋脚は海面から230メートルも突き出していますが、当時は身ひとつでペンキ塗りに従事していて、「風が強いから寒くて大変だったけれど、晴れた日はもう最高だったねぇ」という思い出話も伝わります。当時は仕事があるだけでありがたかった時代なので、与えられた環境で仕事を楽しむ術(すべ)を編み出されていたのでしょう。



それで、ゴールデンゲートブリッジが出てくる映画で思い出すのが、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい(Vertigo)』(1956年公開)。警察を辞めた元刑事(故ジェームズ・ステュアート主演)と謎の美女(キム・ノヴァック)が織りなすサイコスリラーの名作です。

昔の友人から妻の素行調査を依頼され、主人公の元刑事が尾行する最中に「妻」が投身自殺を図る。辛くも彼女を海から助け出す舞台が、ゴールデンゲートブリッジのすぐ足元。冷たそうな荒波と背後の赤い橋脚が印象的なシーンです。

こちらの写真で、橋の足下に見えている建物は、1861年(南北戦争勃発の年)に米陸軍が完成させたレンガ造りの歴史的建造物(Fort Point)。ここは、太平洋からやって来る敵の艦船から街を守る要所ですので、スペイン人統治時代から兵隊の駐屯地となっていました。

そう、ゴールデンゲートブリッジを渡る手前の一帯は、プレシディオ(Presidio)と呼ばれるでっかい陸軍の駐屯地となっていました。クリントン政権下の軍事力縮小政策で、プレシディオは国立公園化され、順次市民にも公開されるようになりましたが、それまでは独立記念日に打ち上げる花火を楽しむため、年に一回だけ駐屯地を通ってビーチ(Crissy Field)に入ることが許されていました。

同様に、今は海軍が撤退して、兵舎が市民の集合住宅へと改造されているトレジャー島(Treasure Island:ベイブリッジの途中から降りた先の人工島)も、昔は海軍の正面ゲートまでしか入ることができず、サンフランシスコの夜景を存分に楽しむこともできませんでした。そう、ダウンタウンのスカイラインを楽しもうとすると、ここからの景色が一番のお勧めですが、昔は軍人たちの特権だったわけです。

まあ、サンフランシスコというと、観光地のイメージが強いですが、歴史的に西海岸の代表都市だったこともあり、古くからガチガチの軍事的要所といった方が正しいでしょうか。内海のベイブリッジ側の埠頭では海軍の軍艦が造られ、ゴールデンゲートブリッジ側の外海は陸軍で防備を固め、万全に軍隊に守られた要塞都市でした。

そして、ゴールデンゲートブリッジを渡った北の海岸線には、谷間に隠れて無数の軍隊の駐屯地が点在し、小高い丘の上には、レーダーやミサイルが配備されていたのでした。第二次世界大戦では、日本からの攻撃に、冷戦時代にはソヴィエト連邦(ロシア)からの攻撃に備えていたわけですが、ポスト冷戦時代の今も、そういった歴史の遺物をあちらこちらで見学することができます。



と、ちょっとお話がそれましたが、サンフランシスコの名所で最後にご紹介しておきたいのが、ベイブリッジ。このコロナ禍の自宅待機でどこも行くところがないので、毎日のようにお散歩するのが、こちらのベイブリッジ。この景色には、とっても愛着があるのです。

ベイブリッジが出てくる映画といえば、クラシック映画の代表作『卒業(The Graduate)』(1967年公開)でしょうか。若きダスティン・ホフマン扮する、なんともハッキリしない青年が、土壇場になって恋人を結婚式から「盗み出す」という、はちゃめちゃなストーリー。この「花嫁強奪」に乗り出そうと、真っ赤なアルファロメオを駆るのが問題のシーン。

大学街バークレーから南カリフォルニアのロスアンジェルスに向かい、恋人とすれ違いになったあと、夜通し運転してサンフランシスコ側からバークレーに戻るというシーン。ここでベイブリッジを渡るアルファロメオの航空映像が流れますが、これは間違いなんです!

実は、二階建てのベイブリッジは、サンフランシスコからバークレーに(写真では右に)向かうのは下の階、逆方向が上の階となっていて、映像を正しく見ると、バークレーからサンフランシスコに(左に)向かっていることになるのです。まあ「絵にならないから勘弁してよ」というところですが、地元っ子にとっては、なんとも気持ちの悪いシーンなのでした。



ちなみに、ベイブリッジの近くには、ピア3(3番埠頭)があって、通常はここからディナークルーズなど遊覧船が出ています。今は停泊したままの「サンタローザ号(Santa Rosa)」(写真では右手の船)はフェリー会社Hornblowerのオフィスとなっていますが、これがまた、1927年進水の歴史的な船。

ベイブリッジができる前は、サンフランシスコ湾を渡るには、鉄道会社が所有するフェリーを利用していました。サンタローザ号は、サザンパシフィック鉄道のために地元で造られた最先端のフェリー。「スチール・エレクトリック級(steel electric-class)」と呼ばれるフェリーで、どうやらディーゼル発電で電気モーターを動かしていたよう。

1940年代にワシントン州のフェリー会社が譲り受けた際、パワーのあるディーゼルエンジンに改修したそうですが、昔の人も現代の「ハイブリッド船」みたいに電化の夢を持っていたのでしょうか。

地元では同時期に6隻建造された同型フェリーですが、今となっては、唯一形をとどめるのが、こちらのサンタローザ号。どことなく郷愁を誘われるのは、丸みを帯びたアール・デコ調の美しいシンメトリーに加えて、そんな物悲しい背景があるからかもしれません。



そう、サンフランシスコという街は、歴史的建造物のオンパレード。1906年の大地震で壊滅的な被害を受けましたが、街は見事によみがえり、それから114年の間に守るものは守り、再生するものは再生してきたのです(写真は震災直後、グレイスカテドラルの建つノブヒルを撮影したもの)。

とくにダウンタウン地区は、さまざまな建築様式の屋外展示場のようでもありますので、散策なさる際は、ショーウィンドウばかり眺めていないで、上を向いて歩かれることをお勧めいたします。



<日本へ移住!>

というわけで、駆け足でサンフランシスコを巡ってみましたが、そんなに愛着のある街なのに、いったいどうして日本に戻るの? と思われることでしょう。

最大の理由は、わたしの目。左目の網膜の調子が悪く、物が歪んで見えたり、遠近感がなくなったりと手術しても治らず、車の運転が難しくなってきました。そう、アメリカでは車がないと生きていけませんので、「そろそろ日本に戻ろうよ」ということになったのでした。



それと同時に、アメリカという国が変わってきたことも、要因のひとつかもしれません。

日本ではトランプ政権の報道は日々耳にしますが、政治によって国自体や住民の生活がどのように変わったかについては、ほとんど報道されていません。意外なことではありますが、アメリカという国は、トップが変わると国がガラッと変わってしまいます。そんなことは、首相が交代しても何も変わらない日本では実感がわきませんが、アメリカは大統領が変わると、閣僚や政府機関、議会や法廷との関係と、何もかもがトップダウンで変わってしまって、その影響が国の津々浦々まで浸透し、住民の日々の生活までインパクトを受けることになります。

そんなこんなで、2017年1月に就任したトランプ大統領の(悪)影響は甚大なもので、「人々の心がヤスリのようにガサガサとささくれだってしまった」という印象を受けています。リベラルなことで知られるカリフォルニア州の街中でも、「あんたは国に帰れ!」とアジア系住民が罵倒されることがありました。人を思いやる心を持つアメリカ人の間で、「俺たち」と「あいつら」という分断ができてしまったように思います。

こういった分断は、インターネットを通してますます増長しているよう。ネットでは何が正しいかではなく、何が人の目を引くかが第一条件となりますので、人々の憶測が報道の顔をして横行します。人間は「自分が耳にしたいこと」を信じようとしますので、やっぱり俺は正しいんだ! と、「俺たち」と「あいつら」の分断も、もはや修復不能なところまできているのかもしれません。

「無理が通れば道理がひっこむ」。大きな声で無理を主張すれば、科学や論理は吹っ飛んでしまう。そんなことは理解している人も多いのに、「王様の耳はロバの耳」と教えてあげる人がいなかったのでしょう・・・。



と、そんなこんなで、私事から国のあり方と、いろんな要因があって、住み慣れたカリフォルニア州を後にすることになったのでした。

日本の「移住先」は、福岡市。数回しか訪ねたことはありませんが、とっても住みやすい街だと思いますので、少しずつ慣れていって、新しい生活スタイルを築いていけると期待しております。

いつかまた、福岡から情報発信をすることもあるかもしれませんので、その際は、画面上で再会できることを楽しみにしております。



長い間、稚拙な文章につきあってくださって、心より感謝しております。

みなさま、どうぞお元気で良い新年をお迎えください!

Have a Healthy & Safe New Year!



2020年クリスマス、サンフランシスコにて

夏来 潤(なつき じゅん)



今月はお休みいたします



9月下旬に父が他界し、日本に滞在しております。そのため、9月・10月号はお休みいたします。

季節は移ろい、過ごしやすい日々となってきました。皆様どうぞ充実した毎日をお過ごしくださいませ。

夏来 潤(なつき じゅん)



サンフランシスコのレンガ造り〜1906年の震災編

<ライフ in カリフォルニア その164>



こちらの「ライフinカリフォルニア」のコーナーでは、前回、サンフランシスコのダウンタウン地区に残る、レンガ造りの建物のお話をいたしました。



この街のダウンタウンといえば、金融街をはじめとして、なんとなく高層ビルが密集するイメージがあります。



高さを競うようなノッポなビルに加えて、今でもオフィスやマンションと、どんどん新しいビルを建築中。ニョキニョキと高層ビルが建ち並び、毎年のように様変わりするところは、香港などの過密都市を思い浮かべます。



そして、サンフランシスコといえば、パステルカラーのヴィクトリア調の家々も有名ですね。そう、絵はがきでも知られるように、色とりどりの明るい色彩が特徴です。



ダウンタウンのビル群をちょっと離れると、こんな風に美しい住宅街があちらこちらに散らばっています。



こちらは、ミッション(Mission)地区に建っているヴィクトリア調の家々。ミッション地区には、「ミッション・ドロレス(Mission Dolores)」というスペイン人開拓時代の教会が残っていて、付近は落ち着いた雰囲気の住宅地となっています。



ヴィクトリアンハウスに暮らす方々も、いつも家を美しく保ち、「街ゆく人を楽しませたい!」という心意気が感じられます。



そんなわけで、サンフランシスコの建物といえば、ダウンタウンの高層ビルやヴィクトリア調の家々を思い浮かべ、この街に重厚な「レンガ造り」の建物が残っていること自体、ちょっと意外な気がする。前回は、そんなお話でした。



そこで、今回は、前回ご紹介できなかったレンガ造りのお話をいたしましょう。




まずは、こちらのレンガ造り。1889年に建てられた、フランス様式の建物です。



ミッション通り(Mission Street)の東(海側)の起点、湾とベイブリッジを臨む、眺めの良い場所に建っています。ひとつ道(The Embarcadero)を超えたら、そこはもう防波堤という立地です。



このフランス風の建築様式は、「ナポレオン3世」とか「第二帝政期」と呼ばれるそう。19世紀後半にフランスで生まれたバロック復興様式で、パリの建造物やお城にも多く見られるもの。人気を博し、またたく間にヨーロッパからアメリカへと広まりました。



最大の特徴は、「マンサード屋根(mansard roof)」と呼ばれる深い屋根。屋根裏部屋には絶好の形をしています。深い屋根には、鱗(うろこ)型のスレートがピカピカと光って美しいです。



この建物は19世紀末生まれのレディー。ですから、1896〜98年に向かいにフェリービルディング(Ferry Building)が建ったのを眺めていた、唯一の証人でもあります。



フェリービルといえば、今も街のシンボルとして市民に親しまれていますが、こちらのレディーの方が10年ほど先輩なんですね!



この趣のあるレンガ造りは、今はブルヴァード(Boulevard)という名のフレンチレストランになっています。が、もともとのビルの名前は、「オーディフレッド・ビルディング(Audiffred Building)」といいます。メキシコからやって来たフランス人ビジネスマン、ヒッポライト・オーディフレッド氏が建てた瀟洒(しょうしゃ)な建物です。



オーディフレッドさんは、中華街で木炭を売って財を築いた方だそうで、この建物の1階はご自身の店舗かと思いきや、レストランとバー3軒に貸し出されていたとか。



1906年4月18日午前5時、サンフランシスコ近くの海底で大地震が起き、その後街を襲った大火が、西から海際のこの辺りまで迫ってきます。



付近で消火活動を行なっていた消防士の方々も、「これはもうダメだ」とあきらめかけて、他に向かおうとします。が、1階のバー「バルクヘッド」のバーテンダーが、消防士さんたちにこう頼み込むのです。



「この建物を救ってくれたら、ひとり2リットルのウイスキーと、消防署いっぱいのワインを確約するよ。だから、お願いだから救ってくれ!」と。



これが功を奏して、建物は火事をまぬがれ、この辺りで焼け残った唯一の建造物となったとさ、



と言い伝えられています。



この建物の2階はというと、意外にも、船乗り組合の事務所として貸し出されていました。1901年の大規模ストライキでは参加者の連絡事務所として大役を果たし、1930年代に起きた港湾労働者の労働争議では、目の前で二人の労働者が州兵に射殺されるところを目撃した歴史の証人ともなっています。



そういえば、建物にはぐるりと美しい装飾が施されていて、よく見ると、海に関する3つのモチーフが使われています。左は「船を導く灯台」、真ん中は「船を操る舵(かじ)」、そして右は「船を岸に繋ぐ錨(いかり)」と、海運には不可欠のものです。



海運関係のモチーフが使われているのは、船乗り組合に貸し出されていたからか、それとも、オーディフレッドさんご自身が海と船が大好きだったからか? と思っていると、どうやら建築当初には、海のモチーフはなかったようです。



この歴史ある建物には忘れ去られた時期もあり、1970年代にはガス漏れ火災が起きたあと、解体が決まっていました。これに市民が立ち上がって保存運動の気運が盛り上がり、国の内務省にも働きかけて歴史建造物に指定してもらいます。

その際、以前よりももっと美しい姿に改修され、どうやら、海のモチーフもその時に付け加えられたようです。(Photo of the Audiffred Building, circa 1905, from “Audiffred Building Historical Essay” by Libby Ingalls, FoundSF digital archive)



海のモチーフは船乗り組合にふさわしいし、海とともに生きてきたサンフランシスコの街にも似つかわしい。



大地震に大火、労働争議に解体の危機と、いろんな経験をしてきたレンガ造りの古株レディー。美しい姿の中にも凛とした風格があり、前を通るたびに心ときめかせてくれる、そんな存在感があるのです。




お次は、「ホータリング」という変わった名前の登場です。



前回ご紹介していた「ジャクソン・スクエア歴史地区」にも、有名な逸話が残されているのです。



ここは、金融街のモンゴメリー通り(Montgomery Street)を北上し、ジャクソン通り(Jackson Street)を右に曲がって、ふいっと右手(南側)のトランズアメリカ・ピラミッドを見上げた辺り。足元には、ホータリング(Hotaling Place)という名の、オシャレな小道があります。



馬をつなぐ鉄のポールなども立っていて、20世紀のピラミッドの手前は、19世紀の街並みの風情。今はインテリア関係の店などが集まり、オシャレな景観となっていますが、その昔はちょいと「いわくつき」の場所でした。



この角にある瀟洒な建物は、「ホータリング・ビルディング(Hotaling Building)」と呼ばれ、1866年に建てられたもの。



ニューヨークからサンフランシスコに移住してきたビジネスマン、アンソン・ホータリング氏が建てたもので、当初はホテルでしたが、のちに自身の本業に使うようになります。彼の本業とは、ワインや蒸留酒の卸売業。このビルには、たくさんのウイスキーが貯蔵されていたのです。その量は、西海岸最大ともいわれます。



お酒の卸売業や不動産業、海外貿易で大成功したホータリング氏ですが、彼が亡くなって数年後の1906年、サンフランシスコで大地震が起きました。ダウンタウンをはじめとして、街のほとんどは震災後の火災で焼き尽くされることになるのですが、大火はこの辺りにも迫ってきます。



消防士だけでは対処できず消火活動に派遣された軍隊は、火の手を妨げようと、付近の建物をダイナマイトで破壊し、壊れた建物を「防火壁」にしようとします。が、ホータリング地区で爆薬を使われたら、大量に保管してあるウイスキーに引火して炎上するではありませんか!



そこで、付近の住民は、軍隊に懇願します。「自分たちで街を守るから、どうかダイナマイトで爆破しないで」と。



「それも一理あるな」と納得した軍隊は爆破を諦めるのですが、そのうちに風向きが変わり、西風に乗ってホータリング地区に迫りくる大火は、東風によってピタッと停止。そのおかげで、ホータリング地区もウイスキーを保管するホータリングビルも焼け残ったのでした。



まわりの立派な建物がことごとく焼け落ち、人々が茫然とする中、教会の焼け跡では、牧師がこんな声をあげます。「これは、サンフランシスコの街がすっかり堕落してしまったことに対する、神の怒りである」と。



ゴールドラッシュや貿易で街が潤っていくにしたがって、退廃的な影が忍び寄り、人々は堕落した。そのことに神が怒りをあらわしたのだ、というわけです。たしかに、酒やギャンブルというのは、海に出る男たちや一部の住民の日常ともなっていたのでしょう。



そんな牧師の戒めの言葉を聞いて、ひとりがつぶやきます。



だったら、どうして神は教会を焼き切って、ホータリングのウイスキーを救ったんだ? と。



この逸話は、サンフランシスコを語る際に、必ず出てくるくらいに有名になっています。




というわけで、サンフランシスコに残されるレンガ造りの建物には、いろんな逸話が隠されています。



とかく西海岸の街には、東海岸の街に比べて(ヨーロッパ系移民の)歴史が短く、文化的に粗野なイメージがつきまとうもの。



けれども、その代わり、時代ごとにいろんな人々を受け入れ、彼らの文化が流入してきた歴史があります。それは遠い国や地域の文化だったり、新しい考えを表す文化だったり、何かしら新しいものが入ってくるごとに、違った習慣や信条を受け入れてきました。



ですから、街歩きをしてみると、街角ごとに違った趣(おもむき)があるのです。世の中には「花の都」とか「バルト海の真珠」と呼ばれる美しい都市もありますが、この街は、カラフルなアクセサリーが詰まった宝石箱のよう。



そう、蓋を開けて覗いてみたい、どんなものが入っているのか知ってみたい、そんな魅力があるのです。




<ちょっと余談ですが>

実は、最初に出てきたオーディフレッドビルディングにも、ホータリング地区にも、違ったバージョンの逸話が残されています。



一般的には「風向きが変わって建物が救われた」とされるホータリングビルには、「海軍がフィッシャーマンズ・ウォーフ(漁師の埠頭)から丘を越えて引っ張って来た、1マイル(1.6キロメートル)の長い消火ホースが一役買った」というバージョンがあります(こちらの説は、ホータリングビルの外壁に掲げられた記念碑より)。



そして、オーディフレッドビルには、「消防団は、緊急避難に利用されるフェリービルや埠頭を街の大火から救おうと、海際のオーディフレッドビルの辺りをことごとくダイナマイトで爆破して防火壁をつくろうとしたが、バーテンダーがウイスキーをちらつかせて止めさせた、それでこのビルだけ助かったのだ」という一説があります。

これは、文中でご紹介した「ウイスキーをちらつかせて助けてもらった」というバージョンとは真逆の「消防団が何もしなかったから建物が救われたのだ」というバージョンです。「ダイナマイトで爆破しなかったから、自然鎮火で助かった」というホータリングビルに酷似しています。(文中のバージョンは、ビルの前の路上に埋め込まれた碑に刻まれています)



いったい、何が真相なのかはわかりません。が、消火活動ではなく、風向きの変化で救われたとされるホータリング地区と同様、消防団を皮肉っぽく描いた背景には、それほど街が大混乱していたことがあるのでしょう。



その頃から消火活動に定評のあったサンフランシスコ消防署ですが、消防署長は地震で大怪我をして数日後に亡くなったとのこと。指揮をする署長が不在のまま、消火活動には若干の支障が出たのかもしれません。

災害が大規模だったこともあり軍隊が派遣されたわけですが、建物を爆破して防火壁をつくろうとしたおかげで、新たな火事がたくさん起きたとも伝えられています。



ちなみに、この震災と大火ではダウンタウン周辺の被害も甚大でした。前回ご紹介していた歴史地区「2番通り・ハワード通り地区」に残るレンガ造りは、そのほとんどが震災直後の1906年か1907年に建てられたものです。



カリフォルニアの山火事群:自然の悲痛な叫び?

Vol. 238



日本は今、コロナ禍での首相の辞任表明が話題だと思いますが、こちらカリフォルニアでは、コロナ禍に加えて、史上最悪規模の山火事と懸命に闘っている状況です。

<前代未聞の山火事が!>

日本よりも面積が広い、カリフォルニア州。日本と同じく、都市部は海際と一部の内陸部に限られ、その他は険しい山々に囲まれます。

山があるということは、森林があり、木々という「燃料」が豊富だということ。とくに乾季の夏は降雨量ゼロのカリフォルニアでは、ひとたび何らかの理由で火が起きると、手がつけられないほどに延焼します。

そんな状態が起きているのが、今のカリフォルニア。とくに北部カリフォルニアのサンフランシスコ市やサンノゼ市の都市部のまわりでは、巨大な山火事が3つも燃え盛り、2週間たっても火の帯が広がっている状況です。(Photo from abc7news.com)



事の発端は、日本のお盆の週末にカリフォルニアを襲った猛暑。各地で猛暑の記録を塗り替えたとともに、サンフランシスコ市のように夏は霧で「寒い」街でも、気温が35度まで上がり、小雨が降るという異常気象。

その後襲ってきたのが、稲妻の嵐。カリフォルニア州で稲妻を見ることはまずないのですが、72時間のうちに州全体で 11,000の落雷を記録。(Photo by Wesley Lee)

落雷は 6,000箇所に着火して 370件の山火事を生み、うち 22件が大規模に炎上して「山火事群(fire complex)」を形成。

一週間のうちに州全体の山火事は 560件に増えていたところ、次の週末にも落雷による新たな山火事が起き、二週間たった今は 730件に増加。

ひとたび山火事が起きると、それが新たな火種となって山火事が発生することもあるし、一箇所で起きた山火事が猛スピードで移動し、どんどん合わさって、手がつけられないほどに大規模な火災となることもあります。火のありようは風向きや湿度によって刻々と変わるし、山火事はまさに、動きの予測できない、暴れん坊の「怪物」のよう。(Photo from abc7news.com)



現在、サンフランシスコ周辺では、ナパやソノマのワイン産地で燃え盛る火事群(LNU Lightning Complex)、「シリコンバレーの首都」と自負するサンノゼ市の東側で燃え続ける火事群(SCU Lightning Complex)、そしてシリコンバレーから海際のサンタクルーズに向かう山中で燃える火事群(CZU Lightning Complex)と、大きなものだけで3つの山火事群と闘っています。

Lightning Complex」という呼び名は、落雷(Lightning)で起きた山火事ということですが、「Complex」というのは、複数の山脈で個別に起きていた山火事が合わさって、巨大な「火の群」を形成するという意味。

毎年、山火事とは縁の切れないカリフォルニア州ではありますが、「山火事群」という言葉は聞いたことがありません。それほど尋常ではない規模の炎上なのでしょう。

実際、ナパ・ソノマのワイン産地とシリコンバレーの東南部で起きている山火事群は、カリフォルニア史上2番目と3番目に大きな山火事とか(それぞれの場所で四国の香川県が燃えている感じでしょうか)。(Map: Cal Fire Incidents map)



人々の生活にも大きな影響を与えていて、サンフランシスコ・ベイエリアだけで、一時は30万人ほどが避難していました。静かなコミュニティが広がるサンタクルーズ周辺では、今でも2万人ほどが避難したままだと聞きますが、知人も山火事が起きた時点から、サンノゼ市内のホテルでの避難生活が続いているようです。(Photo from abc7news.com)

我が家が5月下旬まで住んでいたサンノゼ市の住宅地では、連日のように警戒警報が発令され、いつでも避難できるように準備だけはしていると聞きます。少し南の住宅地では、突然「今から避難しろ」と警察官がやって来て、あわててバックパックに荷物を詰めて車で逃げた、という話も聞きます。

避難命令は出なくとも、大気汚染がひどく避難を考える方も多いですが、その実、ベイエリアのどこに逃げても同じ悩みを抱えることになります。サンフランシスコ市にいるわたしも、風向きによっては PM2.5指数 180のスモッグに悩まされます。

そして、家に戻れるようになっても、無事に家が残っていたケースは幸運です。ナパやソノマの周辺では、すべてが焼かれたコミュニティもあります。これから逃げるのは危ないと、地下室で火をしのごうとしたところ、助からなかった家族もいらっしゃいます。



<空と地上の消火活動>

「山火事(wildfire)」と聞くと、裏山の雑木林の火事を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうが、アメリカの山火事はなまやさしいものではありません。とくにカリフォルニアは、人が分け入ることのできない険しい山々が多いので、消防士が火元に近づけず、空から消火剤を撒くしかない場合も多々あります。

小型機やヘリコプターは小回りが効きますが、一回に撒く量が限られます。ですから、合わせてジャンボジェット機も出動します。こちらは、ボーイング747型スーパータンカー。一回に大量の消火剤を撒き、火の行く手を効果的に遮ります。(Photo by Ray Chavez / Bay Area News Group)

空からの消火活動には、州森林保護防火局(Cal Fire)の消火機も出動しますが、それだけでは足りないので、民間会社の消火ヘリコプターや小型機の助けを借ります。ヘリコプターなどはタンクが小さいので、頻繁に消火剤を補充する必要がありますが、いちいち地面に着陸はしません。空中に浮上したまま、長いノズルで消火剤を補充します。

こちらは、民間機が利用するサンノゼ市の小型飛行場(Reid-Hillview Airport)で、消火剤を補充するビリングス社のチヌックヘリコプター。この飛行場には急遽消火剤タンクが設置され、消火活動が最優先となっていますが、短時間で現場との往復ができるヘリコプターは十分に力を発揮します。消防士2人が尾根で火に囲まれ取り残された時も、ヘリコプターによって命を救われました(この飛行場の存続は危ぶまれますが、例年の大規模山火事の現状では欠かせない存在のようです)。(Photo from County of Santa Clara Website)



けれども、煙で視界がさえぎられると、地上の消火活動に頼るしかありません。消火活動といっても、単に水で火を消し止めるだけではなく、火の行く手にある木々をなぎ倒したり、地面に溝を掘ったりと延焼を防ぐ労力も多大なものです。重機を使って、火の周りに「堀」を張り巡らせることもあります。

また、直感に反するようですが、火をつけて火事を制する方法もあります。消防士が自ら火をつけるのは、先に「餌食」となる木々を焼き切っておいて、迫り来る火の勢いを削ぎ、やがて鎮火させる(火を餓えさせる)ためです。

「火は火で制する」といった感じですが、その場でどんな手段を選ぶのかは、消防団の豊かな経験に裏打ちされています。(Photo from NBC Bay Area broadcast)



こういった自然災害の中では、ありがたく感じることもあります。それは、相互援助(mutual aid)の取り決め。

同じカリフォルニア州内でも、北部のサンフランシスコ周辺と南部のロスアンジェルス周辺では災害の状況が異なりますので、北部が山火事で苦しんでいる時には、南部から援助隊が送り込まれます。今回も、700台の消防車と 2,800人の消防士が助っ人として駆けつけました。普段は、北と南は仲良しとは言えませんが、災害時には肩を並べて「敵」に立ち向かいます。

意外なことですが、カリフォルニア州は、刑務所の入所者を訓練して消防士を補佐する制度でも定評があります。

そして、州外からは、オレゴンやワシントンと西海岸だけではなく、ユタ、モンタナ、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、遠くはインディアナからも消防隊や消火機が派遣されています。カンザス、インディアナ、ユタ、アリゾナからは州兵が派遣され、地上の消火活動にあたっています。間もなくワシントン州からは、消火訓練を受けた陸軍の新兵が派遣されます。アメリカの西側は、どの州も山火事の猛威を熟知しているので、大規模な災害が起きると、お互いに援助の手を差し伸べるのが取り決めとなっています。

また、ギャヴィン・ニューサム州知事は、カナダとオーストラリアにも援助要請をしたと述べていました。このコロナ禍ではアメリカに飛んで来ることすらはばかられますが、両国とも、大規模火災の際は真っ先に駆けつけてくれる心強い仲間です。

今年は、カリフォルニア史上初めて、はるばるイスラエルからも消防士が助けに来てくれました。

現在、州全体には 15,000人の消防士が動員され、気まぐれな「怪物」を倒そうと、寝る間も惜しんで闘ってくれています。(Photos of LNU Lightning Complex by Carlos Avila Gonzalez / The Chronicle; Scott Strazzante / The Chronicle)



もともとカリフォルニアの自生種には、山火事に対する自衛能力があります。年老いて見える大木でも、火に焼き尽くされることなく凛として立ち、翌年には力強く芽吹くものもあります。焦土の中から初めて芽を出すという、不思議な灌木もあります。

そんな何百万年もの悠久の自然の営みが、たった何世紀かの人間の生活様式で、すっかりとバランスを崩しているように見受けられます。

毎年のように規模が大きくなっていく山火事は、自然の悲痛な叫びであり、人間への最後の警告なのかもしれません。(Photo of Big Basin Redwoods State Park by Ethan Baron and Randy Vazquez / Bay Area News Group)

サンフランシスコ周辺の3つの山火事群は、3割から4割ほど鎮火したとのことですが、一日も早く消し止められて、この大気汚染から開放されたい! と願う、今日この頃なのでした。



夏来 潤(なつき じゅん)



Help us help you(あなたを助けさせてよ)

<英語ひとくちメモ その143>



今日ご紹介するのは、こちらです



Help us help you



なんだか、こんがらがった言い方ですが、これは立派な文章です。



直訳するとこんな感じでしょうか。



「わたしたちがあなた方を助けるのを助けてください」



「わたしたちを助けて(Help us)」という部分と「あなた方を助ける(help you)」という二つの部分から成り立っている文章です。



言うまでもなく、二つ目の「あなた方を助ける」のは、「わたしたち(us)」です。



そんな「あなた方を助けるわたしたち」を「助けてください(Help us)」というわけです。



Help という動詞で始まっているので「命令形」の文章ではありますが、どちらかというと「お願いだから、助けてくださいよ」と懇願の色合いが強いでしょうか。



「わたしたちがあなた方を助けられるように協力してください(邪魔をしたり抵抗したりしないでください)」といったニュアンスです。




同様に、こちらもよく耳にしますね。



Help me help you



こちらも「僕を助けて(Help me)」という部分と「あなたを助ける(help you)」という二つの部分から成り立っています。



ですから、「僕があなたを助けられるように協力してください」つまり「お願いだから、そんなに肩肘張って抵抗しないで、僕に助けを求めてよ」といった感じ。



どちらの文章も、「わたしたち(僕)はあなたを助けたいので、そうできるように協力してください、耳を傾けてください」といった意味の慣用句になります。



そう、意地を張ってばかりいないで、「助けられ上手」になってくださいよ、と懇願する感じでしょうか。




それで、どうしてこんな文章をご紹介しているのかというと、消防団の記者会見で耳にしたから。



ご存じかもしれませんが、現在、サンフランシスコ・ベイエリアでは史上最悪規模の山火事が3カ所で燃え盛っていて、コミュニティ全体が山火事と闘っている状態です。



事の発端は、稲妻(lightning)。(Photo by Wesley Lee)



日本がお盆を迎えた週末、カリフォルニア州全体では72時間で 11,000もの落雷があり、小さいものも含めると 6,000件の山火事が起きました。そのうち 370件が大きな山火事となり、中でも 22件の山火事が「山火事群(fire complex)」と呼ばれる巨大な火の帯となって燃え続けます。



ひとつの山火事が飛び火して新たな火種となったり、小さな山火事が合わさって大きな山火事群を形成したりと、山火事は各地で数を増し、規模もどんどん大きくなっていきます。(Photo from abc7news.com)



数日たつと、州内の山火事は 560件に増え、次の週末には、また落雷による新たな山火事が起き、それから3日たつと全体で 700件に増えている。

現在、14,000人の消防士が動員されていますが、消防活動が追いつかない状態になっています。



サンフランシスコ・ベイエリアをぐるりと取り囲む山火事群3件は、都市部に非常に近いので、住宅地や人の命を脅かすとともに、大気汚染でも人々を苦しめています。



ナパやソノマといったワイン産地の二つの山脈で燃え続ける火事群(LNU Lightning Complex)、「シリコンバレーの首都」と自負するサンノゼ市の東側にある二つの山脈で燃え広がる火事群(SCU Lightning Complex)、そしてシリコンバレーから西のサンタクルーズへと向かう山中で起きている火事群(CZU Lightning Complex)と、一週間燃え続けても鎮火の気配もありません。(Map: Cal Fire Incidents map)



そんな中、消防団のチーフの方がおっしゃったのが、今日の言葉



Help us help you



家が心配で、自分が家にとどまって延焼を防ぎたい気持ちはわかるけれど、お願いだから、我々を信じて消火活動は任せてもらって、避難指示が出たら早く避難してください! という心からの叫びです。(Photo from NBC Bay Area broadcast)



避難警報(evacuation warning)が出たら荷物をまとめて待機し、避難命令(mandatory evacuation order)が出たら、すみやかに家を出て遠くに避難する。それが規則なのに、なかなか守らない人がいる。



そうなると、消防士の方々も火を消すどころか、人の救助に時間と労力を割かなくてはならなくなって、最悪の場合は、消防士の命だって危うくなる。なぜなら、みんなが思っている以上に、火がまわるスピードは速く、いつの間にか火に囲まれて逃げられなくなってしまうから。(Photo from abc7news.com)



だから、お願いだから、Help us help you



我々が助けるのに協力してください!




そんなわけで、新型コロナウイルスの感染拡大に加えて、巨大な山火事群の延焼拡大とも闘っているサンフランシスコ・ベイエリアです。



わたしが5月下旬まで住んでいたサンノゼ市の住宅地も、毎日のように「警戒警報」が出されているそう。幸いにも今のところ大丈夫なようですが、いつでも逃げられるように避難の準備だけはしているそうです。



その1キロ南の住宅地では、土曜日の晩に「今からすぐに避難しろ」と警察官がやって来て、あわててバックパックに荷物をまとめて、車で逃げた例もあったとか。(Map: County of Santa Clara evacuation map)



今住んでいるサンフランシスコ市では、山火事が延焼する危険はないですが、ナパやソノマ、そして海際で燃えている山火事群に近いので、ときどき窓の外では灰や燃え残った葉っぱが舞っているのが見えます。(Photos of LNU Lightning Complex from abc7news.com)



そして、大気汚染がひどく、外に出られないのも大変です。家の中でもマスクは欠かせませんし、「自宅待機中」の唯一の楽しみだったお散歩ができないのが痛いです。



昨日は PM 2.5 の指数が 160だったので、喘息など呼吸器疾患をお持ちの方はさぞかし大変だろう・・・と心配していました。(Air Quality Index from AirNow.gov)



だいたい、fire complex(山火事群)なんて言葉は、山火事の多いカリフォルニアでも、今まで聞いたことがありません。



それほど、前代未聞の規模の山火事があちこちで起きている証拠なのでしょう・・・。



Social distancing(ソーシャルディスタンス)

<英語ひとくちメモ その142>



今日の言葉は、ソーシャルディスタンス。



この新型コロナウイルスのご時世、今は誰でも知っている表現でしょうか。「一歩外に出たら、人との距離を空けて行動する」という意味ですね。



ソーシャルは「社会的な」、ディスタンスは「距離」を表します。



こちらの看板のように、「Stay 6 feet apart(互いに6フィート(約1.8メートル)は離れてください)」と街角でも徹底されています。



けれども、このソーシャルディスタンスは、英語ではこう言います。



Social distancing(ソーシャルディスタンシング)



実は、英語で social distance というと、ちょっとニュアンスが異なります。



たとえば「社会的な隔たり」というような、概念的な表現と言いましょうか。



ですから、物理的に人との距離、間隔を空ける、といった場合には distance を動詞として使います。



そう、distance は「距離」という名詞でもあり、動詞でもある言葉。他動詞として使う distance は、「(人)を引き離す」という意味。



ソーシャルディスタンスの場合は、「自分を(他の人から)引き離す」といった意味合いになります。



この動詞 distanceing が付いて、名詞形 distancing となり、頭に形容詞 social(社会的な)が付いて、social distancing



「一歩外に出たら、自分を他の人から遠ざけること」といった表現になっています。



ちなみに、こちらの張り紙は、マンションのエレベーターに乗るときの注意事項。

「エレベーターに乗るときにはソーシャルディスタンスのルール(Social Distancing requirements)に則って、一台につき一家族のみが乗り、他に誰かが乗っていたら、次のエレベーターを待つように」と書かれています。




それで、どうしてこんなに面倒くさい話をしているのかというと、カリフォルニア州知事のテレビ生中継を観ていて、あれ? と思ったことがあったから。



新型コロナに関してギャヴィン・ニューサム知事が説明される横で、いくつかの注意点が箇条書きで出ています。が、その真ん中にこんな文字が・・・



Physically distance



え、これって文法の間違いでは?! と最初は思ってしまいました。



だって、physically は「物理的に」という意味の副詞なので、動詞にくっつくもの。だとすると、この distance は動詞ってこと?



なるほど、本来は Physically distance の後ろには Physically distance yourself from other people と続く言葉があったのに、それを省略しているのだろう



と、気がついたのでした。



そう考えてみれば、social distancingdistancing だって、ing がついているから、もともとは動詞だったわけです。



なぁんだ、だから social distancing なんだぁ、と初めて考えるきっかけになったのでした。



もちろん、social distance(ソーシャルディスタンス)と言っても、文法的には間違いではないと思います。



けれども、「自分自身を人から遠ざける、距離を置く」と責任ある行為を強調したいから、あえて動詞の distance を使って social distancing と言っているのだと思います。




というわけで、distance という言葉は、ちょっと厄介な表現ではありますが、こちらもちょっとトリッキーな言い方かもしれません。



Distance learning



ディスタンスラーニングというわけですが、日本語では「遠隔学習」でしょうか。



先生と生徒が同じ教室で勉強するのではなく、お互いが離れた状態で学習すること。つまり、オンライン学習ですね。



この言葉は、かなり以前から使われていたようで、distant という形容詞ではなく、distance という名詞を使って distance learning と言います。

「距離」を隔てた学習ということで、distance という名詞形を使っているのでしょうか。



ディスタンスラーニングは、「リモート(遠隔)」に学習するところから、remote learning とも呼ばれます。



教科書を使った学習ではなく、パソコンなどの「デジタル」機器を利用することから、digital learning とも呼ばれます。



また、先生と顔を合わせることなく「仮想的に」学習することから、virtual learning とも呼ばれるようです。



今は、各家庭にもパソコンや高速インターネットが普及しているので、家にいる生徒に向かって先生が遠くから授業をすることが可能です。生徒たちもお互いの顔が画面に出てきて、表情が読み取れたりするので、遠い場所にいても親近感がわきます。




夏休みのあと、どうやって学校を再開する(reopening school)か? と全米で大問題になっています。

が、少なくともカリフォルニア州の場合は、学区のある郡が「州のコロナ警戒リスト」に入っていると、教室を再開することはできないので、ディスタンスラーニングを選択するしかありません。



サンフランシスコ近郊の学区では、8月10日、対岸のオークランド市でいち早く新学年(new school year)が始まりましたが、少なくとも数週間はディスタンスラーニングで学習することが決まっています。



けれども、オークランド市の学区には、パソコンやインターネットのない家庭も多いので、最初のうちは各家庭に装置を配布するなど、ディスタンスラーニングの体制を整えることにおおわらわです。



また、両親とも外で働く家庭が多いので、両親が家で仕事ができる(telecommute)家庭と比べて、子供たちの勉強をみてあげることも難しいです。



そう、このようなウイルス感染拡大の状況下では、ディスタンスラーニングは唯一の選択肢となります。が、いざ実行しようとすると、「デジタル格差(digital divide)」や家庭の状況、また学校のデジタル教育への対応能力と、さまざまな問題が浮き彫りになってきます。



また、子供によっては、顔を合わせた学習の方が効果の上がる場合もあるし、自宅ではすぐに注意散漫になる(get distracted)生徒もいるでしょう。



感染に対処するために今までとは違ったやり方を編み出そうと、各地の教育現場では手探りの状態が続いているようです。




そんなわけで、「ソーシャルディスタンシング」に「ディスタンスラーニング」。



この時代に不可欠なのは、ビデオ会議システム。お仕事にも、仮想里帰りにも、ディスタンスラーニングにも、顔を合わせずに人と触れ合う機会が増えています。



今までは誰も知らなかった Zoom(ズーム、人気のビデオ会議ツール)といった言葉も、今年の流行語となるのでしょう。



そして、こちらもコロナ禍での流行語でしょうか。



Stay safe and healthy



身の回りに気をつけて、健康にお過ごしください!



感染再拡大:新型コロナって怖いのに・・・

Vol. 237



7月に入り朝晩は霧がかかって、いよいよ「寒く」なってきたサンフランシスコです。

そんな季節の移ろいとともに、自宅待機も5か月目に突入。新型コロナウイルスが頭を離れない今月は、ウイルス感染の「よしなしごと」をつづってみることにいたしましょう。



<「あごが落ちた」キャンペーン>

My jaw dropped」という英語の表現があります。「あごが落ちた」というわけですが、日本語の「あんぐりと口が開いた」と同じで、呆れて開いた口がふさがらない、という意味。

呆れたのは、日本政府が推し進める「Go Toトラベルキャンペーン」。新型コロナ感染が再拡大する中、一か月も前倒しして強行した旅行費補助のキャンペーン。

これまでも、感染拡大は「東京問題である」との官房長官の発言や、感染の「大きな波、小さな波を見極める手段はない」との担当大臣の発言を耳にして驚いたのですが、今度は大いに「あごが落ちた」のでした。



あえて私見を述べさせていただければ、キャンペーンに対して呆れる理由は二つ。「今やることではないでしょう」と「経済復興を願う産業は、なにも観光業界だけではない」ということ。

旅行キャンペーンは感染拡大が収束した際に行うべきでしょうし、お金をつぎ込む場所は、他にもたくさんある気がします。全国の観光バスや旅館が困っているのと同じように、各地の零細企業だって困っているでしょう。いったん経営が破綻してしまえば、消えゆく特殊技能も多いことを考えると、単に「旅行」にテコ入れするだけでいいのか? と疑問に感じます。

そして、もっと深刻なことは、コロナ感染者を受け入れ必死に看病する病院や医療従事者に何の手助けもない、ということ。病院は、感染者を受け入れれば受け入れるだけ赤字になるといいますし、医師や看護師にいたっては、病院経営の悪化のとばっちりを受けてボーナスもカットされ、挙げ句の果てに「代わりはいくらでもいる」と病院側からは冷遇されると聞きます。

日々神経をすり減らし、睡眠時間を割きながらも最前線で頑張っていらっしゃる医療従事者が疲弊し、次々と現場を去ってしまったら、いったい誰がコロナ感染者や他の疾病と闘う患者や救急搬送された怪我人を救うのだろうか? と素朴な疑問がわいていきます。

1兆数千億円もの予算が計上されているなら、その一部は、人の命を救う産業にまわすべきだと感じます。



<ちょっと違うコロナウイルス>

というわけで、「あごが落ちた」政策には憤りを覚えますが、巷でも「新型コロナって、インフルエンザと同じようなものさ」と、科学を軽視した空恐ろしい発言が聞こえます。

新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)とインフルエンザウイルスが違う点は病理学的にいくらでもあるでしょうが、医学や生物学の門外漢としていろんな話を耳にして、とくに二点に危機感を抱いているのです。

ひとつは、症状が出るタイミング。鼻や口から入ったウイルスが喉や気管で増殖して、すぐに喉の痛みや咳などの症状を起こすインフルエンザと違って、SARS-CoV-2は、気管や気管支を通り越して肺の奥深くまで入り込み、一気に増殖を繰り返し、自覚症状もないまま一部は体内に広がり、一部は呼吸とともに口から放出されます。

加えて、SARS-CoV-2は自分を無害だとカモフラージュして抗体を寄せつけない術や、体内の免疫を起動するセンサータンパク質やメッセンジャーRNAをブロックする術を備えていることも、感染初期に自覚症状が出ない原因のひとつと考えられているようです。

同じくコロナウイルスである SARS(重症急性呼吸器症候群)コロナウイルスが、熱や咳の症状が出て24〜36時間後に患者から放出されるのに対して、SARS-CoV-2は、感染者本人が自覚のないままウイルスをまき散らし、周りの人に病気をうつすという「ステルス」モード。ですから、症状のないうちに感染者を隔離しなければ、感染拡大にブレーキがかかりにくい、というわけです。



もうひとつ怖い点は、SARS-CoV-2は肺などの臓器細胞を破壊するだけではなく、血管を直接攻撃するということ。

たとえば、肺や腎臓は毛細血管が集まって仕事をする臓器です。肺には「肺胞」があって、ここに毛細血管が集まり二酸化炭素と酸素を交換して、体内に酸素が運ばれます。腎臓には「糸球体」があって、毛細血管が運んできた老廃物や塩分をろ過して体内に戻してあげます。

ウイルスが血管に悪さをするということは、肺胞や糸球体を直接アタックするということで、肺や腎臓の機能が加速度的に悪化することになります。一度壊れた肺胞や糸球体は元には戻りませんので、どんどん肺胞や糸球体が減っていって、肺機能や腎機能が急速に低下します。そうなると細菌による合併症にもかかりやすくなります。

おまけに血管(内壁の内皮細胞)がアタックされるということは、血栓ができやすいということで、若い人でも血栓が肺に入って呼吸困難になったり、脳に入って脳梗塞となったりする可能性があります。(図は、NHK健康チャンネル、2020年4月19日掲載記事より)



ついでに申し上げれば、同じくRNAウイルスであるインフルエンザウイルスと比べると、SARS-CoV-2は塩基対の数が異常に多く、インフルエンザが約13,500に対して、倍以上の約29,900もあるそう。このため変異しやすい特性があるのと同時に、自己再生の際に間違いを訂正するチェック機能が働くという品質管理能力もあるとか。

この品質管理者として働く酵素は、塩基対が20,000以上のウイルスでなければつくれない「逸品」だそうで、この点でも、他に抜きん出た能力を持っているようです。

SARS-CoV-2の遺伝子情報には不明な点もありますが、ヒトの免疫反応をはねつける能力や自己管理能力もあり、かなり「ずる賢い」ウイルスなんでしょう。(参照:”Inside the Coronavirus – A Visual Guide: What scientists know about the inner workings of the pathogen that has infected the world, edited by Mark Fischetti, Scientific American, July 2020; figures from the online version dated July 1, 2020)



そんなわけで、SARS-CoV-2はさまざまな点で他のウイルスと違っていて、ひとたびCOVID-19を発症すると、健康な若い人でもいつ何が起きるかわからない危険な状況と言えるのでしょう。

また心血管疾患、慢性呼吸器疾患、慢性腎臓病、糖尿病の方や、抗がん剤治療などで免疫力の低下する方が感染しないようにと、周りの健康な人も心がけが必要となります。

そして、とくに高齢の方は家にこもりがち。通常は「亀の甲より年の劫」で精神的強靭さを発揮する方々も、このコロナ禍で家族や友人と会えなかったり、先が見えない不安を抱えたりと「うつ状態」に陥ることも懸念されます。

カリフォルニア州で始まった精神サポートのホットライン『フレンドシップ・ライン・カリフォルニア』は、深刻な悩み相談とともに、「ちょっと声が聞きたいわ」という軽い相談にも応じるウォームラインでもあるようです。



<ワクチン開発>

一方、完成が待たれるワクチン開発ですが、イギリスのオックスフォード大学と製薬会社アストラゼネカの共同チームが一歩リードの様相を呈しています。

アメリカでは、バイオテクノロジー会社モデルナ(Moderna)が臨床試験の第一段階(フェーズ1)を終えて、先日期待の高まる結果を発表しています。

フェーズ1に参加したのは、18〜55歳の健康な男女45人。これを3つのグループに分けて、開発中のメッセンジャーRNAワクチン(それぞれ25, 100, 250 µg)を28日間隔で2回投与。57日経過観察した結果、副作用もほとんどなく、すべての被験者に感染予防の中和抗体が確認され、ダメージを受けた細胞を破壊してくれる T細胞も確認された、と医学誌で発表(オンライン版New England Journal of Medicine)。

免疫力が持続するかどうか、2回目の投与から一年間(来年6月まで)、被験者の血液検査を続ける、とも述べています。

現在、同社は治験の第2段階に入っていて、18〜55歳の300名、55歳以上の300名が参加し、プラセーボ(偽薬)、50、100 µgいずれかを28日間隔で2回投与する、とのこと。

また、今月27日には、3万人の被験者を相手に最終段階に入るとしています。(参照: “A mRNA Vaccine against SARS-CoV-2 – Preliminary Report”, L.A. Jackson et al. for the mRNA-1273 Study Group, published on July 14, 2020 at NEJM.org)



ちょっと気になる副作用ですが、もっとも多く見られた症状は、倦怠感、悪寒、頭痛、筋肉痛、とのこと。症状は一過性のもので、深刻なものではなく、傾向としては2回目の投与後、また投与量の多い被験者に強く見られた、ということです。



フェーズ1に参加した被験者の体験談がワシントンポスト紙で紹介されていて、こちらはちょっと興味深かったです。

彼は、これまで大きな病気にかかったことのないシアトル市在住の29歳の健康体。一番多い投与量(250 µg)のグループとして、最小量の10倍のワクチンを2回打たれました。

1回目は腕がちょっと痛んだくらいで、何の違いも感じませんでした。が、2回目の注射が終わった1時間後にはひどく腕が痛み、その日の晩になると、寒気を感じ始めます。その後、吐き気、頭痛、筋肉痛と続き、真夜中になると40度近い熱にうなされます。午前4時になると、同居する彼女が心配してホットラインに連絡。すぐに待機する臨床チームに会いに行って、薬で症状を抑えてもらいます。

家に帰って正午まで眠りましたが、起きた時には、ひどい吐き気。トイレに行って嘔吐すると、その場で気を失って倒れます。が、心配した彼女がホットラインに電話し終わったころには、すっかり意識を取り戻し、翌朝になると、何事もなかったかのように体は元に戻ったそう。

これは今まで経験したこともない体調不良だったが、被験者になったことは後悔していないと、バイオテック研究所勤務の彼は語ります。だって、これが治験の真っ当なあり方だろう、と。(参照: “We’re all starved for hope” Ian Hayden, as told to Eli Saslow, The Washington Post, July 6, 2020)

彼と仲間の被験者のご苦労のおかげで、投与量250 µgは多過ぎることが判明。フェーズ2では最大100 µg、フェーズ3では100 µgを投与する、とモデルナ社は発表しています。



そんなわけで、いろいろと気をつけながらも、ひとたび COVID-19にかかると、症状は千差万別のよう。今はすっかり完治した映画俳優のトム・ハンクス氏は、オンライン出演したCBS『レイト・ショー』でこんなことをおっしゃっていました。

「一緒に感染した妻は、味覚障害が現れたあと、高熱と嘔吐におそわれたが、僕にはそんな症状はさっぱり。その代わり、体じゅうの骨が痛くて、微熱と倦怠感もあった。そして、なぜか尻が痛くて、子供のころ兄ちゃんにぼんぼん殴られたみたいに痛かったねぇ」と。

オーストラリアの病院に入院中も、ちょっと立って前屈みになると、気が遠くなるくらいに疲労感があったそう。奥さんはもっと重症だったのでしょうが、人によって症状や深刻さが違ったりするので、気の抜けない感染対策が浮き彫りになるのです。

ちなみにハンクス氏は、サンフランシスコ対岸のオークランド市の出身。若きハンクスさんは、オークランド A’s(アスレティックス)の球場でホットドッグを売っていた経験があるとか。

MLBシーズン開幕戦でエンジェルスを迎えた7月24日、観客のいない A’s球場では、「ホットドッグ、ホットドッグ!でっかいホットドッグだよ!」とハンクスさんの掛け声が流れ、臨場感を盛り上げました。



ちょうど一年前は、サンフランシスコの公園で『東京オリンピック』のうちわをもらって、盆踊りを教わって楽しく踊ったなぁ。そんな懐かしい記憶もよみがえります。

What a difference a year makes(たった一年で、こんなに違うのか!) この言葉を、今日の結びといたしましょう。



皆さま、どうぞお気をつけて。

夏来 潤(なつき じゅん)



3番埠頭のサンタローザ号

<エッセイ  その184>



サンフランシスコには、湾に面してたくさんの埠頭(pier、ピア)があります。



今日は、そんな埠頭のお話をいたしましょう。



もともとサンフランシスコという街は、海に突き出た半島の先っちょにあって、三方を海に囲まれた四角形をしています。こちらは、ほぼ真西から眺めた写真ですが、街の西、北、東が海に面しているのがわかります。



その中でも、大きな船で近づけるほど十分に深さがあった入り江は、街の北東部分でした。ですから、この入り江(Yerba Buena Cove)に港が築かれ、人の出入りとともに集落が生まれ、ここから賑やかな街として発展したのです。



海辺の集落が手狭になるにつれ、入り江は埋め立てられ、街は東(海)に向かって数ブロック広がっていきました。その先には、何本も埠頭が伸びて、たくさんの船が着岸します。ここは、19世紀中頃のゴールドラッシュでグンと大きくなった街ですので、埠頭には世界じゅうからやってきた船が鈴なりでした。



このようにダウンタウンと埠頭が街の北東部に集中する形は、今も変わってはいません。



こちらはダウンタウン地区の航空写真ですが、ベイブリッジのたもとには、高層ビル群が建ち並んでいるのが見えます。海に向かって、埠頭がニョキニョキと伸びているのもわかります。




我が家は、このダウンタウン地区に引っ越してきたので、お散歩するとなると、埠頭のある湾(San Francisco Bay)まで足を伸ばすのが習慣となっています。



先日も英語のお話でご紹介したように、フェリーの発着場所となっているフェリービルディングまでは、15分ほどの距離。ですから、まずはフェリービルに行って、そこから埠頭めぐりをすることも多いです。



その時にもご紹介しましたが、サンフランシスコの埠頭は、フェリービルに向かって左側には奇数の埠頭(odd-numbered piers)。向かって右側には偶数の埠頭(even-numbered piers)と分かれています。



フェリービルのすぐ左には、1番埠頭の「ピア1」。その左には 1.5番埠頭の「ピア1.5」、その左には3番埠頭の「ピア3」と、お行儀よく並んでいます。



「ピア1.5」なんて変ですが、ひとつの埠頭の半分もない短い埠頭なので、「0.5」と名づけられているのでしょう。かわいそうに、「1」には満たない半端物といった感じですが、どことなくマジカルでもありますよね。



ここには、「La Mar(ラ・マー)」という名のペルー料理のレストランがあります。ペルーと聞くと、スパイスの効いた豆や肉料理といったイメージですが、こちらは案外シーフードが中心となっています。



トロピカルカクテルも人気ですが、わたし自身のお気に入りは、パン代わりのフライド・プランテン(バナナ)。海を臨むテラス席もあって居心地の良いお店ですが、現時点では、テイクアウトのみの営業となっています。



「ピア1.5」からは、小型ボートを使った水上タクシーも出ています。



イタリアのヴェニスでも水上タクシーが活躍しますが、混んだ街中を行くよりも、水を行く方が早いことも多いのです(残念ながら、今は休業中です)。




そして、「ピア1.5」の左隣には、今日の主役、3番埠頭の「ピア3」があります。



先日の英語のお話でもご紹介しているように、こちらは観光船の発着所となっています。



それほど大きな埠頭ではありませんので、埠頭いっぱいに船が着岸しています。サンフランシスコ湾をめぐるディナークルーズ船や、近くのアルカトラズ島やエンジェル島へ連れて行ってくれる小型フェリーと、クルーズイベント会社ホーンブローワー(Hornblower)の大小さまざまな船が停泊しています。



アルカトラズ島といえば、監獄で知られる小島で、シカゴの悪名高きギャング、アル・カポネが収容されていたことでも有名ですね。島全体が刑務所になっていて、昔の厳しい「ムショ暮らし」がよくわかる場所です。

街の灯があんなに近く見えるのに、泳いで脱獄しようとしても、サメの餌食になって街には到達できない、という残酷な立地でもあります。



一方、エンジェル島は、古くから軍事拠点とされた小島で、20世紀初頭には移民に入国許可を与える「関所」となったところ。

ヨーロッパからの移民は、ニューヨーク州エリス島の移民局で入国審査を受けましたが、中国や日本からのアジア系移民は、サンフランシスコ沖のエンジェル島で厳しく、執拗に長い審査を受けた、という暗い歴史があります(写真の左手に浮かぶ島が、エンジェル島)。



そんな歴史あるアルカトラズ島やエンジェル島に連れて行ってくれたり、週末にはシャンペン片手にヨットでめぐる「シャンペン・ブランチ」航路があったりと、海を楽しむ企画を提供してくれるホーンブローワー社の船たち。



今は休業中ですが、「ピア3」ではいろんな形の船を見学できます。



そう、この辺のピアは市民に開放されているので、お散歩は自由です。




埠頭の左手には、大きめな二隻が停泊しています。ここが、この二隻の定位置です。



奥に停まっているのは、『サンフランシスコ・ベル(San Francisco Belle)』という名のきらびやかな船。

後部に大きなパドル(水車)がついている、外輪船(paddlewheel vessel)と呼ばれる船です。そう、水車小屋の水車みたいな大きな輪がパタパタと水をかいて、前に進みます。



ミシシッピ川を航行する昔の蒸気船をまねて、1994年にルイジアナ州で造られました。以前ご紹介したタホ湖のクルーズ船『ディクシー2号』や『タホ・クイーン号』にも似て、クラシカルな上品な姿です。



『サンフランシスコ・ベル』はイベントの貸し切りもできて、1階から3階のホール、デッキ部分を合わせると、1050人分の座席が準備できるとか! 意外と大きいんですね。



この美しい『サンフランシスコ・ベル』の手前に停まっているのは、ちょっと地味な『サンタローザ(Santa Rosa)』。



『ベル』みたいに、きらびやかではありませんが、この『サンタローザ』は、わたしの一番のお気に入りです。



全体的に丸みを帯びた、平べったいフォルム。レトロな四角い窓に、船体のところどころに浮かんだサビ。初めて出会ったのに、郷愁を誘われます。



こんな避難用ボートも備えてありますが、クラシカルなつくりに映画『タイタニック』を思い浮かべます。そう、歴史を感じさせる姿は、どう見ても「21世紀の船」ではありません。



どうしてここまで惹(ひ)かれるんだろう? と「サンタローザ」の名で調べみると、この船は、意外と古い1927年生まれの93歳! その昔、鉄道会社のために造られたことがわかりました。



昔は、サンフランシスコ・ベイエリアや州都サクラメント一帯には鉄道網が張り巡らされていて、人々の大事な移動手段となっていました。ひとつの鉄道会社がメガ路線を持っていたわけではなく、たくさんの会社が各々の区間を担当していたようです。



が、サンフランシスコとベイエリア東部の都市の間にはサンフランシスコ湾が横たわる。そして、ベイエリア東部には湿地帯や運河が広がり、内陸の州都サクラメントには大きな川が流れている。



ですから、列車が渡れない「水」の区間をフェリーで渡ろうということで、鉄道会社がフェリーを持ち運行していたのでした。



サンタローザ号は、1927年7月にサンフランシスコ対岸のアラメダ造船所で進水式が行われ、サザンパシフィック鉄道(Southern Pacific Railways)がサンフランシスコと対岸のオークランドを結ぶ「ゴールデンゲート・フェリー路線」として運航していました。



オークランド周辺は早くから住宅地として開けていて、サンフランシスコに向かう勤め人も多かったのでしょう。フェリーは通勤の足として重宝されたのでしょうが、とくにベイブリッジが完成する1936年までは、「これしかない」という通勤ルートだったのでしょう。



こちらは、1940年に撮影された他のフェリーの様子。デッキには鈴なりに人が立っています。この日はイベントのために、定員3500人を超える乗客を運んでいたそうですが、その頃は、いかにフェリーが重宝されていたか理解できる気がします。




それで、もうひとつ驚いたのは、サンタローザ号が電気で動いていたらしい、ということ。



サンタローザ号と同じ時期に造られた姉妹の船たちは、「スチール・エレクトリック級」と呼ばれるようです。



スチール・エレクトリック級(Steel-Electric class)とは、木造ではなく鉄でできた船なんでしょうが、「エレクトリック」というくらいですから、「電気で動く」という意味なんでしょう。



どうやら、この手のフェリーは、ディーゼル発電機でつくった電力で電気モーターを動かしてスクリューを回す、という駆動系のよう。おもにディーゼルエンジンで動く現在のフェリーとは違っていたようです。



19世紀末から20世紀初頭にかけては、車だって先行の蒸気自動車に並んで、電気自動車(electric car)が市民権を得ていたと聞きます。その後、後発のガソリンエンジン車に追い抜かれて、電気自動車は影を潜めた歴史がありますが、きっとフェリーの世界でも同じようなことが起きていたのでしょう。




それにしても、わたしの大好きなサンタローザ号は、どっちが「頭」で、どっちが「お尻」かよくわからないんです。こちらは、上の写真の逆側から撮ったものですが、両方とも同じような形をしているでしょう。



なんとなく、船体を途中でチョキっと切り落としたみたい。前と後ろと両方から人が乗り降りできるようになっていて、二つの港を行ったり来たりしても回転する必要がないようになっているのでしょうか? (ということは、両方向に進めるように、両側にスクリューが付いている?)



スチール「エレクトリック」として生まれたサンタローザ号ですが、1940年ワシントン州のフェリー会社に売られた際、ディーゼルエンジンに改修され、片側から乗客を乗り降りさせる新たなフェリーとして運行されました。



1968年には現役を退き、生まれたオークランドに里帰り。1980年にはサンフランシスコに引き取られたものの、埠頭に停泊したまま忘れられた存在となります。

そんなサンタローザ号を1989年に買収したホーンブローワー社が、デッキ上に後部操舵室を復活させて、オリジナルの姿に戻してあげたそう。



ですから、昔のように操舵室が前と後ろにあって、どちらが前か後ろかよくわからないんですね。



2階客室とデッキ部分は、1940年代に改修された形をそのまま保っているようですが、それが1920年代と40年代の面白いミックスとなって、ますます魅力的になっているのかもしれません。




現在は、3番埠頭につながれたままフェリーとして活躍することのなくなったサンタローザ号。代わりに、ホーンブローワー社のオフィスとして活用されています。



今はクルーズ業界全体が休業を余儀なくされていて、3番埠頭も静まり返っています。が、またサンタローザ号のオフィスが賑やかになる日もやってくることでしょう。



ちなみに、サンタローザ号を保存していこうと、1979年には国の「歴史的建造物」の認定を受けるために申請がなされました。



こちらは、内務省への申請に使われた1939年の勇姿。サンタローザの名とともに、鉄道会社サザンパシフィックの文字がくっきりと掲げられています。



申請は無事に通り、3番埠頭の住人となったサンタローザ号。立派に「サンフランシスコの歴史」の仲間入りを果たしたのでした。



余談ではありますが:



わたしの大好きなサンタローザには、5人の姉妹がおりました。サンフランシスコや対岸のオークランド周辺の造船所で生まれた6人姉妹です。



上でもご紹介したように、サンタローザがワシントン州に売られていった1940年、実は6人とも一緒に引き取られて、ワシントン州の島々を結ぶ足として活躍しておりました。

サンタローザがサンフランシスコに戻ってきたあと、もうひとりフレズノ(Fresno)という名の一番上の姉もベイエリアに戻ってきました。けれども、手厚く面倒をみてくれる人がいなかったので、その身はぼろぼろになって海底に沈んだあと、引き上げられて、結局は2009年スクラップ業者に引き取られて行きました。



残りの4人は、ワシントン州で何度か改良を重ねて、2007年まで現役でバリバリと活躍していたそうです。が、さすがに新しい船にはかなわなくなって、オークションサイト eBay(イーベイ)で引き取り手を探すことになりました。

けれども、現役時代に認められていた安全航行に関する特例措置も期限切れとなり、誰かが引き取って運航させるのも難しい雲行き。ついに買い手は現れず・・・。

翌年には4人ともスクラップとなることが決まり、メキシコまで引かれて行ったそうです。



そんな5人の姉妹たちの運命がありますので、3番埠頭に安住の地を見いだしたサンタローザは、より貴重な存在に思えるのでした。



Jane Doe(ジェイン・ドウ)

<英語ひとくちメモ その141>



いきなりですが、Jane Doe(ジェイン・ドウ)



人の名前のようですが、よく聞く女性の名です。



ご存じの方もいらっしゃることと思いますが、アメリカでは身元不明のご遺体が見つかって、それが女性だった場合には Jane Doe と名づける習慣があります。



ご遺体が男性だった場合は、John Doe(ジョン・ドウ)



この Jane Doe や John Doe がどこからきたか? というのは、意外とはっきりわかっているそうです。



なんでも、1768年のイギリスの法廷記録には「原告の匿名は John Doe、被告の匿名はRichard Roe(リチャード・ロウ)」と記されているとか。



これが女性のケースなら、原告は Jane Doe、被告は Jane Roe(ジェイン・ロウ)となります。



イギリスでは、中世の時代から自分の正体を明かさずに匿名で法廷に訴え出ることができたそうで、そんな匿名裁判で好まれた名前が Jane Doe や John Doe。それが、アメリカの現代社会にも転用されているのです。



イギリスの裁判で「身元を明かさない」ために使われていたものが、どうして「身元不明」という意味合いでアメリカの治安当局に使われるようになったのかはわかりません。が、この国で Jane Doe や John Doe と聞くと、どうしても「ご遺体」のイメージが強いのです。




それで、どうしていきなり Jane Doe の話をしているのかというと、サンフランシスコの海沿いをお散歩していて、この名前を見かけたから。



こちらは、ダウンタウンのちょっと南にあるヨットハーバー。



ダウンタウンの南側にあるので「サウスビーチ(South Beach)」という名のヨットハーバーです。規模はそれほど大きくはないものの、ヨットや小型船舶がずらりと並んでいます。



街の中心部に近いので、便利な立地で人気も高い。でも、いかんせんハーバーの規模は小さいので、ここに停泊する権利(メンバーシップ)が欲しいと何年も待っている人も多いとか。



そんなわけで、大小さまざまなヨットやボートを見ながらお散歩するのも楽しいものですが、ここで場違いな Jane Doe を発見!



よりによって、立派なヨットに「Jane Doe」号という名前がついていて、ギョッとしたのです。



だって、先にご説明したように、Jane Doe や John Doe と聞くと、どうしても「身元不明のご遺体」というイメージがつきまといます。どうして自分の大切なヨットにそんな名を? と理解し難いものがあるのでした。



持ち主はよほどブラックユーモアのある方なのか、それともイギリスの法廷に従って「匿名」という意味合いで使っていらっしゃるのか、いずれにしても、ネーミングセンスが「ひねくれて」いるので、他のヨットと絶対にかぶらないネーミングであることは確かです。



そう、一般的には縁起の悪いイメージですので、「事故に遭わなければいいな」と願いながら、その場を離れたのでした。




このように、英語には、人名が出てくることも多いです。たとえば、こんなものがありますね。



Every Jack has his Jill

すべてのジャックは、自身のジルを持っている



つまり、すべての人には、各々に適した相手がいるものだ、という意味。



「誰だって理想の人が必ず現れるものだよ」と、元気づけの言葉にもなる慣用句です。



逆に、「ヘェ〜、あんな人でも結婚できたんだ(人の好みって、わからないものだなぁ)」と、ちょっと失敬な驚きの表現になるのかもしれません。こういった意味合いでは、日本の「タデ食う虫も好き好き」みたいな感じでしょうか。



ちなみに、この Jack と Jill という名前は、よく聞く男女の匿名コンビネーションになります。



たとえば、Jack-and-Jill bathroom(ジャックとジルのバスルーム)



これは、おもに子供たちが使うバスルームのことで、シャワーやバスタブ、トイレなどを子供たちが共有できるタイプのバスルーム。



理想的には、sink(洗面台、シンク)や鏡は二つあって、ひとりひとりが歯を磨いたり、髪をとかしたりするのに便利な作りになっているバスルームのこと。(Design/Photo by Small Design Ideas)



アメリカの平均的な家のレイアウトでは、両親が使うマスターベッドルーム(master bedroom)に加えて、子供たちのベッドルームがあって、その隣に置かれるのが Jack-and-Jill bathroom です。



子供たちが各々ベッドルームを持っている場合は、その間に設置したりします。



Jack and Jill という名前は、昔から親しまれる同名の童謡(nursery rhyme)からきているようです。



ちなみに、Jack や Jill のような匿名として人気なものには、男性名の Joe(ジョー)もありますね。日本でいう「なにがし太郎」みたいなものでしょうか。




というわけで、ヨットハーバーで見かけた変なネーミング、Jane Doe



きれいなヨットに、そんな名前をつけないでよ! と、少々憤慨してしまいました。



プンプンしながら家に戻ってテレビを点けると、小型発電機(generator)のコマーシャルが流れています。



夏になると乾季になるカリフォルニア。山火事(wildfire)の危険性が高くなるので、昨年あたりから電気会社による計画停電(rolling blackout)が急増しています。「住民を守る、安全のための停電」という意味で、Public Safety Power Shutoff(略してPSPS)などと呼ばれています。



そんなベイエリアの住民に向けて、「停電になっても、自宅に発電機があれば大丈夫!」と呼びかけるコマーシャル。



が、体験談を誇らしげに語っているのは、John D.(John Doe?)という名の男性。



ふん、これは絶対に偽名の「やらせ」だね! と確信したのでした。



アメリカ人の課題:手洗いとマスクの着用

Vol. 236



今月は、カリフォルニアの近況をお伝えいたしましょう。

<第1話:マスクをしてください!>

私事ではありますが、5月下旬、長年住んだサンノゼ市からサンフランシスコ市へと引っ越してきました。

サンノゼ市は、「シリコンバレーの首都」と自負する街。サンフランシスコほど知名度はありませんが、北カリフォルニア最大の都市です。

そのサンノゼには25年住みましたが、「もう四半世紀たったし、そろそろ新しい土地へ」と、車で1時間ほど北のサンフランシスコに引っ越したのでした。



これまでも、月に一回はサンフランシスコに滞在していましたが、引っ越してみてびっくり。街からは人影が消えているのです。

3月17日にサンフランシスコ郡や「シリコンバレー」と呼ばれるサンタクララ郡に自宅待機命令(shelter-in-place order)が出されて以来、初めてサンフランシスコを歩いてみましたが、いつもの賑わいはどこへやら。お店はほとんど閉まっているし、オフィスも閉鎖しているので、車も走らないし、歩く人もほとんど見かけません。

普段は夕方ともなると、道路は車で満杯で動かなくなるし、オフィス帰りの歩行者は列をなして駅やバス停へと向かいますが、そんな人たちがすっかり街から消えてしまっています。



そして、もうひとつの驚きは、人々がマスクを着用していること。ご存じのように、欧米諸国ではマスクをする習慣はありません。マスクをするのは医療関係者と病気の人だけと信じる人も多く、日本やアジア諸国の街角でマスク姿を見かけると、「え、みんな病気なの?」と警戒する人もいるほど。

逆に、「マスクをするのは、人に病気をうつさないための気配りなのよね」と、マスクを愛用する国々を褒める方も若干いらっしゃいますが、いずれにしても、マスクは自分たちとは無縁の存在。

そんな国でマスク姿を見かけるなんて、何かがおかしい! と頭の中で警報が鳴るのです。

人も通らないような静かな街角に、マスクを着用する人々。これはもう Sci-Fi(サイエンスフィクション)の世界か? と錯覚するほどの異様な光景です。これほど異様な光景を引き起こしたウイルス感染は、まさに映画の筋書きのよう。



4月号でもご紹介したように、アメリカ最大のカリフォルニア州では、ニューヨークやフロリダ、テキサスといった他州に比べると、新型コロナウイルスをうまく抑えていたと言えるでしょう。隔離施設、人工呼吸器、医療従事者のPPE(個人用防護具)と、すべてに先手を打って対応したので、感染患者の急増と医療崩壊を防ぐことができました。

5月初頭には、大型施設を転用した臨時隔離病棟(surge center)を次々と閉鎖していますし、市民生活の面でも、ゴルフやテニスと屋外スポーツが解禁となりました。5月中旬には、個人商店が店先で商品販売できるようになりました。

6月に入ると、大型ショッピングモールが開き始めましたし、それまではピックアップとデリバリーに限られていたレストランも、屋外での営業を認められるようになりました。

ワイン生産地として名高いナパ(Napa)やソノマ(Sonoma)のワイナリーでも、テイスティングルームが再開されています。

とはいえ、4千万人を抱えるカリフォルニア州ですので、州全体が一斉にひとつの再開計画(reopening plan)に従うわけにはいきません。基本的には、州に58ある郡(county)が各々の現状を見定めながらプランを立てていきます。



少しずつ経済活動が戻りつつあるカリフォルニアですが、6月第4週になると、ロスアンジェルス郡など州南部を中心に、ウイルス感染の再拡大が懸念されています。

州全体の新規感染者数は、4月末までは一日1500人ほどでしたが、5月にはジリジリと上がって2000人ほどに。6月に入るとさらに増加して、17日には4000人、22日には5000人を越えています。

翌23日には新規感染は突発的に7000件を越え、陽性率は5パーセントを記録。翌日には5000件まで下がったものの、予断を許しません。

この時点では、州全体で一日10万件ものウイルス検査が行われていますが、これは単に検査数が増えたことのみに起因するものではなさそうです。なぜなら、街に人々が戻ってくるにつれて、感染数の急増(spike)はテキサス、フロリダ、アリゾナと、南部や西部を中心に11州で確認されているから。



この事態を重く見たカリフォルニア州知事ギャヴィン・ニューサム氏は、翌24日久しぶりの生中継会見に出演し、州民に向けて訴えかけます。「あなた方ひとりひとりの行動が、人の命を救うのだ(Your actions save lives)」と。

具体的には、今まで通りにソーシャルディスタンスを守り、しっかりと手を洗いましょう、と。

いえ、画面上のニューサム氏の隣には、ご丁寧にイラストが出てきて、手の洗い方を細かく指南しているのです。

ニューサム氏も「まさかここで手洗いを説明するとは思わなかった」と言い訳しながらも、ご自身の4人の子供に言い含めるように、州民に手洗いの励行を訴えます。その隣で画面には、「親指や指の間、手の甲も忘れないように」と注意書きが出ています。



そして、同じく大事なことは、マスクの着用である、とも。

画面には「Wear a Mask.」と大きな文字が出てきて、いつもはクールなニューサム氏も「マスクをするのは自分のため、家族のため、人のためである」と、ジェスチャーつきで力説します。

マスク着用に関しては、アメリカでは難しい面もあって、着用を強制するのは「自由(freedom)」や基本的人権を定めた権利章典に反するなどと、物々しい抵抗を示す住民もいます。先月、ミネソタ州の白人警官に命を奪われた黒人男性ジョージ・フロイド氏の最期の喘ぎ(あえぎ)を真似て、「息ができない(I can’t breathe)」とマスクを捨て去ってみせる、けしからん輩(やから)も出ています。

カリフォルニアでも、サンフランシスコ郡のように、早々と4月中旬に公共の場でマスク着用を義務化した郡もある一方、義務化(mandatory)と聞いた途端に、「黒幕」とおぼしき公衆衛生局長のお医者さんに脅迫状が送りつけられたという郡もあります。

そんなわけで、州知事が代わってマスク着用を義務化することになったのですが、サンフランシスコの街中でも、お散歩中にマスクをしない人もチラホラというのが現状でしょうか。

これに対して、お隣のサンマテオ郡などは、「マスクをしない違反者には罰金を科すようにして欲しい」と、州知事に働きかけています。一回目は警告、二回目は100ドル(約1万円)、三回目は500ドル(約5万円)と、かなり厳しい提案です。



今後、新型コロナウイルス感染を抑えられるか否かは、半分が科学に、半分が社会的・政治的要因にかかっていると指摘する専門家もいます。

カリフォルニアでは、市民科学者たちの知恵を借りようと、州が持つ感染データすべてをアクセス可能にすると発表しています。

世界中で80の団体がしのぎを削るワクチン開発の分野では、ウイルスの遺伝子情報をベースに開発が急ピッチで進んでいて、アメリカでは RNAウイルスに取り組む Moderna(モデルナ)が3月中旬から、DNAプラスミド・ワクチンを開発中の Inovio(イノビオ)が4月初頭から、それぞれヒトを使った小規模の臨床試験に入っています。ワクチン開発の大御所ジョンソン&ジョンソンはウイルスベクターワクチンに特化し、9月には大規模な臨床試験に臨みたいとしています。



日本をはじめとして、濃厚接触の可能性を伝える通知アプリも世界各国でリリースされつつありますが、最終的には、人々が情報をどう処理するかがカギとなります。

手洗いとマスクの励行すら苦労するアメリカでは、接触通知を受け取る意味はあるのかな? と疑問にも感じるのです。

少なくともカリフォルニアでは、希望者は全員ウイルス検査をしてもらえるので、疑わしい場合は検査を徹底する方が手っ取り早いのかも・・・。



<第2話:シリコンバレーに新駅登場!>

少しずつ人が戻ってきたとはいえ、まだまだ静かな街中。それに比べて賑やかなのは、道路工事でしょうか。

自宅待機命令が続く中、サンフランシスコ・ベイエリアの道路は、どこも近年まれに見るような空きよう。この機会を利用して、今までプランしていた道路工事を一気に片付けてしまおうと、高速道路の大改修から住宅地の舗装工事まで、作業員の姿や大きな重機、オレンジ色のロードコーンがあちらこちらに目立っています。



たとえば、サンフランシスコの街に入ってくる高速道路、国道101号線。ここは市内に入るための幹線道路で、ちょうどダウンタウンが見えてくる高架箇所の老朽化が問題になっていました。

そこで、高架の入れ替えを計画する州交通局は、5月中頃に10日間のプランで工事に着手。週末から翌週末の予定が、交通量の少ないおかげで事がスムーズに運び、丸二日前にはプロジェクトが完了。工事を早く終えれば、下請け企業は一日ごとにボーナスが増えるという動機づけはあるものの、交通量の少なさは大いに追い風となったようです。



そして、交通事情といえば、「シリコンバレーの首都」と自負するサンノゼ市に、新しい駅が誕生しました!

公共の交通機関が乏しい印象のサンフランシスコ・ベイエリアですが、サンフランシスコ市内には市営電車(Muni、写真)が走っていますし、南のサンノゼ市近郊には、公共交通団体 VTA(Valley Transpiration Agency)が運営する電車が走っています。が、たとえばサンフランシスコとサンノゼを結ぶとなると、ノロノロ運転の列車(Caltrain)しかありません。

そこで、サンフランシスコ半島と湾を隔てた東側の都市(East Bay)を結ぶ BART(Bay Area Rapid Transit、通称「バート」)という電車網を広げていこうじゃないかと、何年も前から計画されていました。

BARTは、1950年代に構想が描かれ、1972年に最初の路線が開通した地下鉄網。手始めは対岸のオークランド市からサンフランシスコ市を結ぶラインで、海底トンネルを通ります。これによって、湾を結ぶベイブリッジに頼っていた人の流れが一気にスムーズになりました。

わたし自身も、初めてサンフランシスコにやって来た40年前(!)、BARTに乗って大学街バークレーに連れて行ってもらいました。「こんなに速い地下鉄で海を渡って大学に行けるなんて、ベイエリアって都会だなぁ」と感心した記憶があります。

BARTは、その後着実に路線を広めていって、サンフランシスコ半島では国際空港まで、そしてシリコンバレー周辺では、アウトレットモールで有名なミルピタス市まで路線が伸びました。

便利さは十分に立証済みですので、「BARTをサンノゼ市まで伸ばして欲しい」と、20年前の住民投票でサンノゼ市民も賛成しています。市の消費税を増やして資金調達もなされ、実際に工事に着工してみると、4年で完成する予定が8年もかかってしまいました。



そんなわけで、6月13日に開通したばかりのサンノゼ市のベリエッサ路線。前日には記念式典が開かれ、サンノゼ市長やサンタクララ郡の議員らがテープカットを行ない、駅の完成を住民にアピールしています。

このベリエッサ駅(Berryessa)からサンフランシスコ市ひとつ目のエンバーカデロ駅(Embarcadero)までは、およそ60分の行程。ノロノロ運転の列車だと、サンノゼ市中心部ディリドン駅(Diridon)からサンフランシスコ駅まで1時間半はかかるので、だいぶ早く着きます。

しかも、金融街を含むダウンタウン地区に勤務する場合は、エンバーカデロ駅で降りた方がずいぶんと近いので、その点でも楽かもしれません。

片道料金は、8ドル15セント。50マイル(約80キロ)の距離を900円弱で行けるので、ガソリン代よりも安いのでしょう。電車通勤だと仕事もできるし居眠りもできるので、ずいぶんと楽ではあります。

ただ、唯一の心配は、このベリエッサ駅までどうやって行くの? ということ。とくに、だだっ広いサンノゼ市では、歩いて駅まで行ける人はほとんどいないでしょう・・・。



ちなみに、サンノゼ市ダウンタウンに近い列車のディリドン駅の周りでは、再開発プランが進んでいます。ここには、Googleが新たにキャンパスを建てようと計画していて、サンフランシスコに住んでいようと、パロアルトのような半島の都市に住んでいようと、「列車で通って来られる」というのが利点のようです。

ディリドン駅の周辺には、アイスホッケーのサンノゼ・シャークスが本拠とするSAPアリーナがあり、グアダルーペ川沿いには大きな市民公園もある絶好の立地。

Googleの従業員が来るということは、周辺の家賃が上がり、物件がなくなってしまう、と懸念の声も聞こえます。が、誘致する市当局は、安価な住宅区域(affordable housing)を設けるので問題はない、という構えです(大企業が来て税金を払ってくれれば、市民も助かるのだ、という論法でしょうか)。



ようやくシリコンバレー・サンノゼ市に足を踏み入れた BARTは、10年後にはベリエッサ駅からダウンタウン、ディリドン駅を経由して、サンタクララ市まで延長される予定です。

サンタクララといえば、アメリカンフットボール・サンフランシスコ49ersのスタジアムが移設された街として有名ですが、地域を結ぶ VTAの電車駅もありますし、湾の東側の内陸都市とシリコンバレーをつなぐ通勤列車 ACE(Altamont Corridor Express)が停まる交通要所でもあります(写真は、高速道路85号線上を走る VTA電車)。



アメリカの公共交通機関といえば、駅から自宅の「最後の1マイル」がいつも問題になってきます。結局は車に乗らないと電車を利用できない、というジレンマが絶えずつきまといます。

現行の路線を延長する。バラバラに存在する鉄道網をつなげて地域の交通網を拡充する。新設された駅の周りには集合住宅を併設する。

こういった地道な努力を続けていけば、人々の意識も変わっていって、シリコンバレーやベイエリア、カリフォルニア全体の交通事情も少しは改善するのではないかと思っているのです。



夏来 潤(なつき じゅん)



サンフランシスコのレンガ造り〜ダウンタウン編

<ライフ in カリフォルニア その163>



先日のエッセイでもお話ししておりましたが、5月下旬、長年住んだサンノゼ市からサンフランシスコ市に引っ越してきました。



サンノゼ市は、観光地として有名なサンフランシスコの陰に隠れた印象がありますが、テクノロジーの最先端「シリコンバレーの首都(the capital of Silicon Valley)」と自負する街。25年前にサンノゼに引っ越してきて以来、あっという間に時が過ぎ去った感じがします。



でも実は、わたし自身がアメリカで最初に住んだのは、このサンフランシスコの街。こちらに引っ越してきた5月下旬には、ちょうど40周年(!)を迎えました。



その頃のわたしにとって「アメリカ」イコール「サンフランシスコ」だったのですが、東海岸を見てきた母が、初めてサンフランシスコの街並みを目にして、驚きの声をあげたのをよく覚えています。



「まあ、家々が白っぽいこと!東海岸のレンガ造りの重厚な街並みと違って、ずいぶんと南国的なのねぇ」と。



これは、実に正しいコメントではあります。肩を寄せ合って丘に建つ家々の外壁は、白やパステルカラーの軽い色合いが多く、全体的に白っぽく南国的(tropical)にも感じるから。



けれども、そんな印象は、ある意味ちょっと不完全でもあるのです。なぜなら、サンフランシスコの街中にも、まだまだレンガ造りの建造物がたくさん残っているから。



そうなんです、よく見ると、ダウンタウン地区にもレンガ造りがいっぱい。というわけで、今日はレンガ造りのお話をいたしましょう。




たとえば、メインストリートのマーケット通り(Market Street)から南東に伸びる、2番通り(Second Street)。ここは、レンガ造りの代表格でしょうか。



周りには、金融関係やテクノロジー企業の高層ビルが建っていますが、なぜかここだけは低いビルが並んでいます。



2番通りの建物は、ほとんどが国の内務省から歴史的建造物(National Register of Historic Places)の指定を受けていて、壊すわけにはいかないのです。



この2番通りと東西に交わるハワード通りの区画は、「2番通り・ハワード通り地区(Second and Howard Streets District)」として一帯がまるごと歴史地区の指定を受けています。ですから、外装を修理したり、内装を変えたりというのは可能ですが、ビルはそのまま保存しなければなりません。



こちらは、2番通りからハワード通りを眺めたところ。表から見ると漆喰(しっくい)で塗り固めてあったり、ペンキを塗ったりしてわかりにくいですが、もともとのビルはレンガ造り。ひとつひとつ見ていくと、高さもまちまちだし、それぞれに特色があって、ひとくちに「レンガ造り」といっても、いろんなスタイルがあるのがわかります。



2番通りは、両側に古いレンガ造りの建物が並んでいます。向かって右側はレストランが多いですが、左側はスタートアップ企業のオフィスがたくさん入っています。中は快適にリフォームされているので、外観が古くても、みなさんあまり気にならないのではないでしょうか。



この区画のすぐ東側には、「トランスベイ・トランジットセンター」というモダンな交通会館がオープンしたばかり(こちらの写真では、右端に見える緑の屋上公園がトランジットセンター)。

21世紀のビルから2番通りまで足を運ぶと、いきなり古い街並みで昔に舞い戻ったよう。



ここだけは近代的な高層ビルから取り残された印象ですが、そんな「頑固な」一画がダウンタウンにあるなんて、ちょっと意外ですよね。



ちなみに、2番通りの後ろにそびえ立つ銀ピカのタワーは、新しくサンフランシスコのシンボルともなった セールスフォース・タワー(Salesforce Tower)。ビジネス向けソリューション企業、セールスフォース・ドットコムの本社ビルで、タワーに隣接するトランジットセンターにも「セールスフォース」という名が付いています。



現在、このタワーの斜め前でも再開発が進んでいますが、角っこにはレンガ造りの建物が4棟あって、これを壊すわけにはいきません。ぽつんと取り残されたレンガ造りの後ろには、クレーンがニョキニョキ。新しく建つビルは四角形とはいかずに、ギザギザとした、いびつな形になるのでしょう。




レンガ造りの建物が残っているのは、2番通りだけではありません。ちょっと北にある金融街(Financial District)の足下にも、レンガ地区として有名な場所があるのです。



2番通りからはマーケット通りを渡って、モンゴメリー通り(Montgomery Street)沿いにある金融街を北上します。

この辺りには古くから銀行が集まり、経済的にも文化的にもサンフランシスコを「西部を代表する街」に押し上げてくれたところ。それを象徴するかのように、両側には装飾をほどこされた立派なビルが建ち並びます。



そんな立派なビルを見上げながら歩いていると、数ブロック先には、長年サンフランシスコのシンボルとして知られた、トランズアメリカ・ピラミッド(Transamerica Pyramid)が出てきます。

この三角ビルが完成したのは、1972年。前衛的なビルに触発されたかのように、翌年には、映画『タワリング・インフェルノ(The Towering Inferno)』の制作が始まりました。名優ポール・ニューマンやスティーヴ・マックイーンが出演する、サンフランシスコが舞台のヒット作です(1974年公開)。

ビルが完成し、お披露目パーティーを開いた途端に、大火災(インフェルノ)が起きて大変な目に! というスリル満点のお話ですが、撮影したのは、このビルではありません。近くにあるバンク・オヴ・アメリカの本社ビルや、海沿いのホテル、ハイアット・リージェンシーのビルがロケ地となったとか。でも、三角ビルは街のシンボル。「ここが映画の舞台」と信じている人も多いのです。



実は、この三角ビルが建つ場所は、19世紀中期サンフランシスコの街が生まれた頃には「船着き場」だったところ。そう、昔は海岸線がぐいっと入り込んでいて、この辺りは海だったのです。

トランズアメリカ・ピラミッドを建てる時にも、地中からは廃船が出てきたとか。なんでも、当時は要らなくなった船は海際に沈める習慣があったそうで、今でも土を掘っていると、ヒョコっと廃船が見つかることがあるのです。



メインストリートのマーケット通りを歩いていると、1番通り(First Street)の角に「その昔、ここは海岸線でした」という小さな記念碑が埋められているのに気づきます。「1番通り」という名のとおり、昔はここが、海から上陸して1番目のストリートだったのでしょう。

街の人口が増えるに従って、だんだんと東に向かって海が埋め立てられ、ダウンタウン地区も東に数ブロックほど広がっていったというわけです。




と、ちょっと話がそれてしまいましたが、有名なトランズアメリカ・ピラミッド。この三角ビルの足元には、ジャクソン通り(Jackson Street)というのがあって、周辺にはレンガ造りの建物が多数残っているのです。



そう、この辺りは、昔は船着き場のすぐ近く。船が頻繁に出入りするにつれて商業地区として栄えた場所で、1850年代、60年代のレンガ造りの建物が残っています。



当時は商店や銀行、政府機関、娯楽施設と、いろんなものがごちゃごちゃと集まって活気ある街角でした。今はきれいに改装されて、法律事務所やデザイン事務所、ギャラリー、建築関係の本屋さん、有名レストランと、オシャレな構えの街並みとなっています。



ここ3か月ほど、新型コロナウイルスのせいで、オフィスも店舗も閉まって静かです。窓には板を貼り付けて侵入者を防いでいますが、それが物々しい雰囲気で、ちょっと残念です。



このジャクソン通りや一本北のパシフィック通り、その間にあるゴールド通りの一画は、「ジャクソン・スクエア歴史地区(Jackson Square Historic District)」として、国の歴史地区の指定を受けています。



こちらは、小道の ゴールド通り(Gold Street)。珍しく頭上には電線が張られていて、「車高の高い車両は、通らない方がいいでしょう(Vehicles over 10 feet not advised on Gold Street)」と看板も出ています。

19世紀のサンフランシスコの街は、きっとこんな感じだったんだろう、とゴールドラッシュ時代を彷彿とさせます。



逆側には、「BIX」という看板のお店がありますが、こちらは人気レストランだそうです。わたし自身は行ったことはありませんが、2階まで吹き抜けの広々とした店内では、毎夜ジャズの生演奏が聴けるという、オシャレなレストランだとか(今は休業中)。



こちらは1971年に国の歴史建造物に指定されたレンガ造りで、古びた印象ですが、ひとたび中に入ると、外観からは想像できないくらいにモダンに改装されているようです。



レストランといえば、一本北の パシフィック通り(Pacific Street)にも有名店があります。過去に二回フォトギャラリーでもご紹介した「Quince」と、姉妹店の「Cotogna」です。

Quince は、三つ星に昇格したイタリアンレストラン。こちらの角にある Cotogna は、カジュアルイタリアン。釜焼きピッツァも有名です。



両店とも、昔は倉庫だったという建物ですが、店内はレンガ造りの壁をそのまま活かしたインテリア。赤味を帯びた茶色いレンガが、明るい印象を与えています。




そして、レストラン Cotogna からパシフィック通りを海(東)に向かって歩くと、二つ目の角に古いバーが出てきます。

サンソム通りを超えて、バッテリー通り(Battery Street)との四つ角。こちらは、「サンフランシスコで一番古い」と自負するバーです。



The Old Ship Saloon」という名で、オープンしたのは、1851年。「Old Ship」というくらいですから、「古い船」に縁があるのです。



時は、カリフォルニア州にゴールドラッシュが訪れた頃。1849年、アーカンソー号という船が金鉱を目指してサンフランシスコへとやってくるのですが、湾に浮かぶアルカトラズ島で座礁してしまいます。

座礁したアーカンソー号は、現在のバーの位置に運ばれてくるのですが、当時この辺は海。岸壁に錨(いかり)を下ろした座礁船は、ホテルや下宿として使われるようになります。



1851年には、船体がくり抜かれてバーとなるのですが、ここには、ちょっとした仕掛けが隠されていました。

それは、床に「落とし穴」があって、ベロベロに酔っぱらった若者を落っことして、本人が知らない間に船員として船に連れて行く、という仕掛け。まあ、連行された若者だって、酔っぱらっただけなら、そこまで前後不覚にはならなかったでしょう。でも、酒の中には麻薬のアヘンが混ぜられていたとか!



いえ、この頃のサンフランシスコのにぎわいは、ほんとにすごかったらしいです。サンフランシスコは、シエラネバダ山脈の金鉱掘りのベース基地として発展した街ですので、世界各地から船がやってきて、湾には大小さまざまな船が千隻ほど浮かんでいたそうです。

が、乗組員は金鉱を掘り当てることが目的ですので、そのうち船は忘れ去られる。船長としては、どうやって船を動かすか? と悩む。そこで考え出したのが、「若者をだまして船に乗せる」こと。その片棒を担いだのが、この「オールド・シップ・サロン」だと伝えられています。



当時は、湾内に停泊したまま見捨てられ、「粗大ゴミ」となった船もたくさん。そんな「航海を忘れた船たち」は、オールド・シップ・サロンのように、海際に運ばれてホテルやバーとして利用されていました。(イラストは、ホテルやバーに利用される廃船を描いたもの: Library of Congress; adopted from KQED “Bay Curious: The Buried Ships of San Francisco” by Jessica Placzek, November 23, 2017)



けれども、時がたてば船は老朽化するし、第一、湾の「粗大ゴミ」はどんどん増えていきます。そこで、要らない船はどんどん沈めて、その上を埋め立ててしまえ! ということになりました。

そんなわけで、1850年以降、ダウンタウン地区は、だんだんと東の海側へと伸びていったのでした。



少なく見積もっても、30隻から60隻の船が土中に埋まっているということですが、ときにゴールドラッシュ時代の遺物となって「顔を出す」ことがあるのです。



追記: ちょっと話がそれてしまいましたが、本題の「レンガ造り」の建物。

やはり、昔のままだと不便なこともあるのでしょう。こちらのパシフィック通りの建物では、屋上の上に建て増しして、新しいフロアを設けています。ある程度の低さなら、上方向の建て増しも許されているのでしょう。

壁面の出っ張った部分には、エレベーターも設置されているようです。オフィスでしょうか、集合住宅でしょうか、一階にはレストランもあったりして、なかなか快適にリフォームされているようです。レンガ造りの再利用としては、お手本となるケースなのかもしれませんね。



セブン-イレブンのスラーピー

<エッセイ  その183>



セブン-イレブン(7-Eleven)というと、コンビニエンスストアの少ないアメリカでは、代表格のコンビニチェーンでしょうか。



アメリカのコンビニは、日本ほど数は多くありませんし、目新しい、楽しいものが満載というわけにはいきません。でも、まあ、まあ必要なものは手に入る、といった感じかもしれません。



長年住んでいたサンノゼ市の我が家は、メジャーな住宅地から外れていたので、周囲にコンビニはありませんでした。サンフランシスコでは、近くのマーケット通りやミッション通りに店舗がありますが、なんとなく治安がかんばしくなさそうで、足を踏み入れたことはありません。



そんなわけで、あんまり縁のないセブン-イレブンですが、年に一回「スラーピー・デー」というのがあるそうな。



スラーピー(Slurpee)とは、炭酸飲料が半分凍った、ドロッとした飲み物。アメリカをはじめとして、世界各地で人気だとか。



スラープ(slurp)という言葉は、ズルズルと音を立てて食べ物や飲み物をすすること。たとえば、お蕎麦を食べる音が「スラープ」に該当しますが、きっと「勢いよくストローで吸い込まないと飲めないよ」というところから、Slurpee の名が生まれたんでしょう。



わたし自身は試したことはありませんが、想像するに、人気の秘密は、フレーバーの多さ。チェリーやブルーベリー、バナナやココナッツと、フルーツ風味の飲み物が季節限定で次から次へと登場します。「次はこれを試してみたい!」と、クセになってしまうのでしょう。




それで、どうしてこんな話をしているかというと、ローカルニュースで話題になっていたから。



今年は新型コロナウイルスの影響で、7月11日の「フリー・スラーピー・デー(スラーピー無料の日)」がなくなる代わりに、セブン-イレブンは1万食の食事を慈善団体に寄付するそう。



でも、心配ご無用。お得意さんアプリを持つ顧客にはクーポンを発行して、7月中に一回スラーピーをタダで飲ませてもらえるんだよ、と。



過去20年間、セブン-イレブンの誕生日とされる7月11日には、店舗に行けばスラーピーがタダでいただけたそう。でも、今年は顧客が店に殺到すると「密集状態」となって、ウイルス感染の要因ともなる。だから、顧客の安全を考えて、プラン変更に踏み切ったようです。



そんな話題を提供していたら、キャスターのマイクさんは、こんな思い出話をはじめました。



僕は高校生の頃、サンフランシスコの32番街とタラヴァルの角にあるセブン-イレブンに毎日通っていたよ。フットボールの練習が終わったあと、この店に寄って、スラーピーを飲むのが毎日の楽しみだったんだ、と。



これを聞いたキャスター仲間のサルさんは、こんなコメントを返します。



「いや、僕は、スラーピーはぜんぜん好きじゃなかったけど、そのセブン-イレブンはよく知ってるよ。僕も毎日のように通ってたからね。ほんと懐かしいよねぇ」と。




実は、わたしも、そのセブン-イレブンにはずいぶんとお世話になっていたんです。



でも、どちらかというと、怖い思い出があるんです。



この店の隣にはコインランドリーがあって昼間も寄ったりしていましたが、夜になると、よく友達と飲み物やアイスクリームを買いに行ってました。そこにはいつも夜間お店を担当するナイトマネージャーがいらっしゃいました。



20代前半くらいの若い方で、お顔も端正な白人の男性。余計なことはしゃべらないけれど、きっちりと仕事をこなせる有能な感じのマネージャーの方。



ある晩、友達と飲み物を買いに行ったら、びっくり仰天。彼の顔には、斜めにナイフの傷がついているのです!



ちょうど誰かが彼の顔をめがけてナイフを振り下ろしたように、鼻を中心に右から左へと斜めについた傷。まだ日が浅いのか、赤味を帯びた傷です。



そのお顔を見て、あまりにも気の毒で、そのあとはお店には足を運ばなくなりました。あの傷は一生残ってしまうような、そんな深い傷だったのです。



いったいどんな事情で、危険が伴うコンビニのナイトマネージャーをなさっていたのかはわかりませんが、もしかすると学費を稼いでいらっしゃったのかもしれません。でも、ちゃんと学校を卒業したところで、描いていた人生設計が狂ってしまうのではないか・・・と、他人事ではありますが気をもんでおりました。



ここは、市の西側に広がる、サンセット地区。碁盤の目のように規則正しい区画には、平均的な家々が支え合って建っている。そんな平和な住宅街です。



「どんなに安全な場所に見えても、常に危険が伴うのがアメリカだな」と、胆に命じる出来事となりました。




と、そんな怖いエピソードを思い返していると、キャスターのマイクさんは、またまた思い出話を視聴者に披露します。



僕が大学の頃、天文学のクラスを取ってたんだけど、必須科目で仕方なく取った授業なんで、内容はちっとも理解できなかったよ。ある日、この天文学のクラスで、ブルーブックを使う試験があったんだ。マークシート方式じゃなくて、ブルーブックにエッセイ形式で答えを書き込んでいくテストなんだけど、僕にはちんぷんかんぷん。



卒業目前だったんで、この単位を落としたら卒業できない。でも、何も書くことができない。すっかり困ってしまって、「僕はどうしてリポーターになりたいか」っていう題名でエッセイを書いたんだ。



すると、教授はこのエッセイに対して及第点をくれて、晴れて無事に卒業できたってわけ。



このエピソードを聞いたキャスター仲間のサルさんも、「君が書いたエッセイなら、なかなかうまく書けてたんだろうね」と相槌を打っていましたが、なるほど、情熱がほとばしるような良いエッセイだったことでしょう。



試験の内容とはまったく関係ないエッセイなのに、ちゃんと「合格」をくれた教授もすごいです。でも、人を育てる教職に就く御仁としては、理解できる行動かもしれません。だって、たった一回の試験で、若者の将来に悪影響を与えるようなことがあったら感心しないですものね。



というわけで、セブン-イレブンのスラーピーではじまり、大学の試験のエピソードで終わったローカルニュースでした。近頃は、ニュースキャスターも自宅からリモート出演なさっている方が多いので、余計に思い出話に花が咲くのでしょう。



そんな体験談に耳を傾けていたこちらも、学生時代を思い出して、ひとときさわやかな気分を味わったのでした。良いことばかりではないですが、悪いことばかりでもない、そんな平均的な日々だったでしょうか。



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