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2010年05月22日

渡米30周年!: 長いようで短い時空

Vol. 130

渡米30周年!: 長いようで短い時空

そうなんです。題名にありますように、わたしが初めてアメリカにやって来て、今月で丸30年となりました。

「30年」などというと、まったく自分は原始人かとも思ってしまうわけですが、そんな大昔のことを思い出しながら、ひとつふたつ綴ってみたいと思います。

<渡米初日>
1980年5月、まだ真新しい成田空港から飛び立った先は、北カリフォルニアのサンフランシスコでした。アメリカ西海岸では、南のロスアンジェルスとともに、日本からの来客が最も多い街です。
その頃は、日本の航空会社では、日本航空が国際線を飛ばしているだけでしたので、ご多分に漏れず、わたしの飛行初体験は日本航空のサンフランシスコ便となりました。はっきりと記憶してはおりませんが、間もなく無くなってしまうという「JAL 001便」だったのかもしれません。


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飛行中は何の問題もなく、無事に時間が過ぎて行きましたが、いよいよサンフランシスコ空港に近づいて、窓の外を覗いたわたしはびっくり。まさに飛行機は、真っ赤な海を目指してタッチダウンしようとしているのです。
え~っ、サンフランシスコってこんなに公害だらけなの?と、お先真っ暗な気分で着陸態勢に入ったのでした。
もう、その時点で、とっとと成田に引き返したいくらいです。

と、ここでカリフォルニアの名誉のために申し上げますが、この赤い海は、決して公害などではありません。飛行場の面するサンフランシスコ湾では、塩を作る伝統がありまして、長い間、かなりの湾内の面積が、カーギルという製塩会社の作業に使われていたのでした。
海を区切って水を蒸発させる過程で、塩分の濃度が高くなってきますが、そうなると、塩を好むエビが大量発生して、海が赤く見えるのです。


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今では、カーギルの作業場の多くがカリフォルニア州に売却され、昔ながらの湿地帯に戻す大掛かりな計画が進んでいます。やはり、人間の手が入った自然界なんて、生態系のバランスを崩すものですから、その点では、自然を愛するカリフォルニア人の意識は高いのです。

けれども、わたしは何年もこの事実を知らなかったので、「公害だらけのサンフランシスコ」のイメージは、なかなか払拭されないままでした。
 


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赤い海ばかりではありません。サンフランシスコ空港からバスで市内へ向かうと、目の前には、いきなり茶色の丘が広がるのです。青々とした草の息吹(いぶき)などまったく感じることのできない、殺伐とした、砂漠のような風景が。
空港のまわりは、少しは都会だったような気がするのですが、こんな「砂漠」を通るなんて、いったいどんな場所に連れて行かれるのかと、大いに不安を抱いた道行きでした。
もう、この時点で、アメリカに来たことを深く後悔しています。

けれども、こちらも事情さえわかれば「恐るるに足らず」ではあるのです。
空港から幹線道路のフリーウェイ101号線で市内に向かうと、間もなく、左手に大きな丘が見えてきます。つい最近まで、家も何も建っていないただの丘でしたが、一面草におおわれてはいるものの、乾期にはカラカラに草が枯れてしまう。だから、砂漠のような茶色に見えるのです。
ちょうど5月下旬といえば、冬場の雨季が終わり、半年間の乾期に入った頃。だから、こちらの丘も枯れ草におおわれ、真っ茶色。
もともとカリフォルニアは砂漠気候なので、どこに行っても、夏は茶色、良く言えば金色。「そんなわけで、ここはゴールデンステート(金色の州)なんだよ」という人もおりますが、そんな説も、まことしやかに聞こえるのです。


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もちろん、11月になって、本格的な雨季に入ると、茶色い丘も美しい緑色に変わります。そして、こんなにくすんだ丘でも、ひとたび越えてしまえば、そこには砂漠なんかではなく、人の集まる「都会」が広がっているのです。

けれども、新緑の美しい日本からやって来ると、褐色の光景は、ただただ気が滅入るばかり。街を彩る緑といえば、心の沈むような深緑だし、意気揚々とした、心の燃え立つような若葉とは、まったく無縁の色彩なのです。
そうやってたどり着いたサンフランシスコの街は、ひんやりと冷たい。暖かく包み込まれるような日本の春とは対照的で、それも、来たばかりの者にはよそよそしく感じるのです。

おまけに、到着初日に大きな失敗をしてしまいました。お湯をわかそうと思って、台所の電気コンロのスイッチをひねったのですが、いつまでも赤くなりません。壊れているのかしらと、コイルの上に手を置いてみてびっくり! あまりの熱さに、手のひらに同心円状の火傷をしてしまったのでした。
それまで電気コンロなんて見たこともなかったのですが、どうやら、電気コンロのコイルというものは、真っ黒いまんま熱くなるようですね。

今では、アメリカの家でも、火力の強いガスコンロの方が人気となっておりますが、古い台所で電気コンロを見かけたら、要注意なのです!
 


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まったく渡米初日にして火傷という災難がふりかかってきたわけですが、気を取り直して、近くのゴールデンゲート公園までお散歩に出かけることにしました。風は冷たいけれど、日の光がぽかぽかと暖かい午後。まさにお散歩日和です。
テクテクと数ブロック歩いて、ゴールデンゲート公園の裏門までたどり着いたものの、中に入るか、引き返すかと、はたと迷ってしまいました。
なぜなら、この公園は実に広大で、敷地内には大きなユーカリの木々が群生を成し、昼でも薄暗い感じなのです。そんな暗がりを見ていると、このままひとりで入るには、とても危険な気がしたのです(写真では、帯のように広がっているのがゴールデンゲート公園)。

そこで、「引き返そう!」と決断を下したのですが、それは、今でも正しい判断だったと思っています。マンハッタンのセントラルパークも同じですが、アメリカの大きな公園は、明るい芝生が広がったと思えば、急にこんもりとした森が出てくる。そんな人影がまばらな箇所は、できるだけ避けた方が身のためだと思うのです。

誰から注意されることもなく、自ら危険信号を察知したわけではありますが、「どうやら、アメリカ生活は前途多難だな」と、お散歩の帰り道には暗い気持ちになっていたのでした。
 


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まあ、そんなこんなで、渡米初日から「日本に帰りたいよぅ」と、ホームシックを経験するハメになってしまいましたが、やはり、新しい環境に迷い込んで一番辛いのは、最初のいっとき。人間なんて、そのうちに新しいことにも慣れ、何が辛かったのかもすっかり忘れてしまう生き物ではあります。
初めのうちは、太平洋に沈む夕日を追いながら、海の向こうの祖国を想っていたものが、そのうちに落陽の美しさを楽しむ余裕すら出てくるのです。

幸い、火傷は軽いものだったので、いつの間にか跡形もなく消えてしまいました。「行こか、戻ろか」と逡巡したゴールデンゲート公園のお散歩も、それを題材にして文章を書いたら、英作文の先生に「臨場感があって、非常によろしい」と、お褒めの言葉をいただきました。
お散歩の途中、幼稚園児の一行とすれ違ったりもしましたが、子供たちと引率の先生の「ハ~イ!」という明るい挨拶に、アメリカ人の人なつっこさとお行儀の良さを学んだ気もしたのでした。

あれから30年たった今月中旬、ゴールデンウィークを過ごした日本から戻って来たのですが、あのときの旅をもう一度体験しているような気分で、成田からサンフランシスコ空港に到着いたしました。

今回は、日航ではなく全日空。サンフランシスコ空港からは、北へと向かう代わりに、南のシリコンバレーへと、あのときとは若干異なる旅路ではありましたが、まるで初めて目にする土地のように、フレッシュな眼でアメリカを眺めていたのでした。

というわけで、お次はのんびりと、ゴールデンウィークに旅した南の島のお話をいたしましょう。

<八重山の石垣島>


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今年のゴールデンウィークのハイライトは、八重山諸島の石垣島でした。そう、沖縄本島からさらに南へ、もうほとんど台湾のお隣という南の島です。

「石垣島に行こうよ!」と連れ合いに言われて、「キャーッ、有名な猫ちゃん(イリオモテヤマネコ)に会える!」と思ったくらいなので偉そうなことはいえませんが、石垣島というのは、台湾の東側にぽっかりと浮かぶ八重山諸島の中でも、一番たくさん人が住んでいる島ですね。
そう、ハワイ諸島でいえばマウイ島みたいに、マリンスポーツが盛んな観光の島。行政名は沖縄県石垣市。八重山諸島で唯一市制をしいています。沖縄県では、沖縄本島と西表島(いりおもてじま)に次いで3番目に広い島なんだそうです。
ちなみに、「有名な猫ちゃん」は、石垣島ではなくて、西に浮かぶ西表島の住人ですね。しかも、普段は自然界に隠れているので、残念ながら、今回はお会いすることはできませんでした。
 


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東京から沖縄本島の那覇に向かうと、飛行機で2時間の旅路ですが、石垣島はさらに1時間ほど南西へと向かいます。機内の空気もだんだんと湿気を含んでくるので、「あ~、南の島に来たもんだ」と実感するのです。(写真は、島の北端・平久保崎灯台付近)
そんな湿気を含んだ空気も当然のことではありました。なぜなら、石垣島に着いた翌5月6日には、早くも梅雨入りしてしまったから。昨年より12日も早いそうですが、そういえば、前回沖縄を旅したときも、梅雨入りは5月5日だったような。
というわけで、滞在中、青空はたったの一日だけでしたが、とにかく島の天気は変わりやすい。曇りといえば急に雨が降ってくるし、雨だといえばカラリと晴れたりするのです。天気予報なんて当てにはならないので、誰も真剣には聞いていません。

それでも、わたしは毎日天気予報を気にしていました。なぜなら、夜は天文台に行って星を見せてもらう予定だったから。石垣島は別名「星の島」と呼ばれているくらい、星のきれいなところです。天の川もくっきりと夜空を彩り、南の島でしか見えない南十字星もひときわ美しく輝くそうです。
けれども、それも次回におあずけとなりました。さすがに梅雨時の雲は厚く空をおおい、雲の晴れ間から星を覗くことすらできません。
 


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その代わり、昼間は石垣島や近隣の島々を満喫させていただきました。海で泳ぐもよし、グラスボトムボートで川平湾(かびらわん)のサンゴ礁を見学してもよし。名勝川平には、ぽこぽこと小島が散在し、その昔、男たちは小島まで泳げなければ、お嫁さんをもらうことができなかった、というシビアな習慣もあったとか。
そして、島の探索が終えたら、船で竹富島、小浜島、西表島と足を伸ばしてもよし。石垣島は、交通のハブ(拠点)になっているので、ここを足場にして離島歩きができるのです。

ところで、沖縄県といえば、以前、沖縄本島と宮古島を旅したことがありますが(2004年5月号でご紹介)、石垣空港に到着して、まず驚いたことがありました。それは、言葉。
よく空港に掲げてある「ようこそ」という言葉ですが、これが沖縄では「めんそーれ」となります。そして、宮古では「んみゃーち」になります。
それが、石垣では「おーりとーり」となるのです。これでは三者三様、まったく違う言葉ではありませんか!


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実際、石垣では言葉がなかなか通じない時期もあったそうなのです。地理的に近いため、昔から石垣には沖縄や宮古から人が流入していたそうですが、互いに言葉が違うので、意思の疎通が難しい。それで、出身地ごとに集落を構え、住民が仲違いしていた時代もあったようなのです。
戦前は、パイナップル栽培が盛んになったので、安い労働力を雇うために、台湾からも人が移入していました。そのため、もともと複雑な言葉の関係は、もっと複雑になったようです。
何代もへて、今は石垣島の住人としてひとつにまとまっているようですが、それでも、島々の間では、「おらが島の利権」をめぐって論議が起こることもあると伺いました。
けれども、人間社会である以上、それはどの地に行っても同じことではあるのでしょう。


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残念ながら、今回の旅では石垣島独特の言葉を耳にする機会は限られていましたが、テレビではこんなお話をしていました。石垣島を始めとして、八重山諸島には奈良時代の古い日本語が残っていると。
奈良時代には、「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」と発音していたそうですが、それが八重山にも残っていて、たとえば石垣では、「花」は「ぱな」、「屁」は「ぴ」と発音するそうなのです。
その後、平安時代には「ぱぺぽ」の音は「ふぁふぇふぉ」と貴族的になったそうですが、石垣では「ぱぺぽ」のまま残ったようです。なんでも、言葉というのは同心円状に伝播するものだそうでして、中央部から地理的に遠い場所ほど、昔の言葉がタイムカプセルのように残されているのだそうです(4月22日放映のNHK番組『みんなでニホンGO 仰天!』を参考にいたしました)。

八重山だけではなくて、宮古島でも「は行」は「ぱ行」となるそうです。ですから、足を表す「ひさ」は「ぴさ」と発音されます。その他にも、「草」が「ふさ」になったり、「笑い」が「ばらい」となったりと、独特の音の転換が起きるのです(佐渡山正吉氏著『沖縄・宮古のことわざ』ひるぎ社、1998年 を参照いたしました)。

おもしろいことに、宮古では「島」が「すま」、「品」が「すな」と変化するなど、東北の響きに似たものもあるようですが、だとすると、「同心円伝播説」はなかなか説得力があるのかもしれません。

このように、沖縄、宮古、八重山と、島によって言葉が違うだけではなく、習慣の違いも見られるのです。
たとえば、祖先との交流。沖縄地方では、親戚みんなで一族の墓(門中墓)にお参りして、祖先を敬い、そこに集った一同の結束を強めるという習慣が根強く残っています。けれども、これを行う日程が違うのです。
6年前の沖縄記でも触れていますが、沖縄本島では「清明祭(シーミー)」と呼ばれ、旧暦の清明節(新暦4月5日頃)に行います。この日は、ご馳走や酒を持って墓を訪れ、墓のそうじをしたあと、一族でご馳走を堪能したり、歌や踊りを披露したりと、楽しいひとときを過ごすのです。


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一方、宮古・八重山では、祖先とのふれあいは「十六日祭(ジュウルクニチー)」と呼ばれます。「十六日」というのは旧暦1月16日(新暦2月初頭~3月初頭)のことですが、この日は、旧正月のお祝いが終わったばかりの「グソー(後世、あの世)の正月」となるのです。
どうして本島の「シーミー」と宮古・八重山の「ジュウルクニチー」に分かれてしまったのかは存じませんが、宮古でも石垣でも、学校がお休みになるので子供たちが楽しみにしている行事であるし、「お盆」なんかよりも大事なので、みんなこっちの日に島に帰省する、と伺ったのでした。
8月の「お盆」には、八重山では「アンガマ」と呼ばれるお盆祭りが開かれ、歌や踊りで祖先の霊をもてなすそうですが、こちらは本土伝来の念仏踊りに端を発しているようで、現地の方からは「アンガマ」という言葉は伺いませんでした。

このように祖先を大事にするということは、お墓だって人々の心の中で重要な位置を占めているものでして、ある石垣の金持ちさんは、お墓に3千万円もかけたそうですよ。わざわざ外国から特別な石を取り寄せて立派なお墓をつくり、墓の中では、親族で酒盛りもできるようになっているとか(これで急に雨が降ってきても大丈夫!)。
まるで、日本の古墳やエジプトの墳墓の石室を思い浮かべるようですが、それだけ、沖縄地方の方々は、あの世との結びつきを大切にするということなのでしょう。そう、古来、墓の中というのは、あの世にもっとも近い場所だったのです。

そんな大切な門中墓には、長子(長男)しか入れないそうですが、なんでも、現世の行いが悪いと、お墓には入れてもらえないそうなのです。現世というものは、楽しいあの世へのチケット、といったところでしょうか。
 


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「シーミー」「ジュウルクニチー」といった祖先との交流日だけではなくて、沖縄と宮古・八重山には、「ハーリー」の開催日にも違いがあります。
ハーリーとは、中国伝来の勇壮なボートレースのことですが、豊漁、海の安全、五穀豊穣を祈願して、沖縄地方全域で行われる楽しい初夏のお祭りです。
これが那覇市では、5月3日から5日まで3日間にわたって盛大に開かれます。中日の4日に東京から那覇に到着しましたが、ハーリー会場では体験乗船が行われ、市民のみなさんの憩いの場となっておりました。
一方、宮古島でも石垣島でも、ハーリーは旧暦の5月4日に行われます。新暦では6月上旬ですが、今年は6月15日となります。
 


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石垣では、ハーリーが開かれる頃には梅雨も開け、カ~ッと照りつける太陽のもと、夏の始まりを祝う賑やかな祭りとなるそうです。
この頃から7月初頭までは、台風も来ることはないし、観光にはベストなシーズンになるということです。(写真は、お隣の竹富島の皆治浜、別名「星砂の浜」)

というわけで、次回は梅雨と台風を避けて、気候のいいときに石垣を訪問したいと思います。だって、まだひとつも星を見せてもらっていないのですから。

どうやら、「星の島」の醍醐味は、お空と相談しなければ味わわせてはもらえないようです。

追記: 文中に「天文台に行く予定だった」とありましたが、この「天文台」というのは、国立天文台石垣島天文台のことです。こちらでは、NPO八重山星の会とともに定期的に天体観望会を開いています。いつもは土日だけですが、ゴールデンウィークは「こどもの日」の祝日にも開かれました。雨天・曇天には映像を見せてもらえるのですが、わたしたちは大きな望遠鏡(愛称「むりかぶし望遠鏡」)で本物の星が見たかったので、予約はしたものの参加はしませんでした。


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天文台は前勢岳(まえせだけ)の頂上にあって、レンタカーかタクシーで行かなければなりませんが、「まわりは真っ暗なので、必ず懐中電灯を持って来てください」とクギをさされたのでした。それほどの漆黒であるから、星が美しいのでしょう。そして、人々は夜空の「むりかぶし(昴、すばる)」を暦として土を耕してきたのでしょう。(写真は、竹富島から遠くに臨む前勢岳)

この天体観望会のことは、タイミングよく日本に向かう飛行機で知りました。ANAの機内誌『翼の王国・2010年4月号』に特集されていたのですが、次回は絶対にむりかぶし望遠鏡を覗くぞ!と、帰りの飛行機で誓ったのでした。

<おばあの調べ>


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沖縄の音ってどんなもの?と問われれば、多くの方が「三線(さんしん)」を思い浮かべることでしょう。三味線に似て、弦が三本ある楽器です。何ともいえない、素朴な音を奏でる沖縄の楽器です。

昔から「蛇皮張り(蛇の皮を胴に張ったもの)」は高価なものとされ、琉球王朝の王族や貴族たちに珍重されてきました。自分で弾かないにしても、名器は家宝として代々受け継がれ、大事な馬や田畑と交換した豪農も珍しくなかったそうです。
一方、島々の庶民は、芭蕉渋(バナナのタンニン)を塗った紙張りの「渋皮張り」を使っていましたが、厳しい農作業の合間に歌われた数々の民謡とともに、結婚や誕生の祝いに奏でる三線の音色は、なくてはならない沖縄の芸能となりました。

三線は沖縄民族の宝であって、「戦争中も沖縄の人たちは弾雨の中を祖先の位牌とこの三線を抱え命に代えて守った」のだそうです(宜保栄治郎氏著『三線のはなし』ひるぎ社、1999年「はじめに」より引用)。

そんな三線をアメリカに持って帰ろうよと、連れ合いが言い出しました。「どうせ三日坊主になるんじゃないの?」とは思ったものの、ここで買わなかったら一生手にしないような気がして、竹富島の帰り、石垣の繁華街にある三線屋さんに向かいました。
けれども、本物の蛇皮張りは、高いうえにワシントン条約に引っかかりそうではありませんか。おまけに、時間が経つと皮は裂けてくるそうです。そこで、合成の蛇皮張りを買うことにしたのですが、驚くことに、ひとつひとつ微妙に音色が違うのです。
皮の質と張り方によって個性のある響きとなるようですが、どうやら、自分の好きな音色を選ぶのが、三線を愛するひとつ目の秘訣のようです。
 


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ふたつ目の秘訣は、三線の楽譜に慣れること。「工工四(くんくんしー)」と呼ばれる譜面は、まるで暗号みたいな漢字の羅列となっていて、西洋の五線譜とは違って右から縦に読んでいくのです! 最初は、よっぽど工工四を五線譜に書き換えようかとも思いましたよ。
それでも、小一時間もすると、不思議と漢字の羅列にも慣れ、大好きな「島唄」なんかをつま弾くようになるのです。
そう、開放弦の「合」は「C」、「四」は「F」、「工」は「高いC」。「尺」は「B♭」だけど、「丸囲いの尺」はちょいと高い「B」となる。と、そんなことにも自然と慣れてくるのです。

何といっても、若干音をはずそうが、音色が濁ろうが、自分で三線を弾きながら歌を歌っているところがいいではありませんか!
 


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西表島から由布島(ゆぶじま)へと浅瀬を行く水牛車では、おばあが三線を奏でながら、八重山民謡の「安里屋(あさどや)ユンタ」を歌ってくれました。そんなおばあの音色に近づくには、いったい何年かかるのかはわかりませんが、今日もとつとつと三線を練習してみたのでした。

この5月15日には、沖縄が日本に返還されて38年となりました。三線を抱えてみると、そんな島々の歴史や習慣が身近にも感ずるのです。

夏来 潤(なつき じゅん)



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