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2008年08月31日

夏の思い出:オリンピックなど

Vol.109
 
夏の思い出:オリンピックなど
 
 

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8月中旬、北京オリンピックが始まってすぐに日本に戻り、オリンピックが終わると同時にアメリカに帰ってきました。まずは、そんなオリンピックのお話から始めましょう。

<オリンピックの思い出>
  今回の日本の旅は、仕事とオリンピック観戦に明け暮れることになりました。海外に住んでいると、なかなか日本人選手の活躍を観ることができないので、オリンピックの祭典もいきおい他人事となりがちですが、今回は日本にいたのでさすがに違いました。しかも、開催地が北京なので、ほぼリアルタイムで観戦できます。
  録画ではなく、リアルタイムの昼間の観戦は難しいだの、なんとなく北京オリンピックには興味が湧かないだのと、いろんな私見を耳にしておりましたが、日頃日本チームには縁遠いわたしに言わせれば、そんなことは贅沢なことだと感じるのです。(写真は、アメリカ選手団の出発したサンフランシスコ空港に掲げられた「がんばれ!」との垂れ幕です。)

  オリンピックといえば、開催国の都合で競技種目を変更したり、参加国が自国の有利になるようにルールを変えたりと、各国の思惑がドロドロと絡んでくるわけですが、それでも中継画面に釘付けになってしまうのは、選手たち自身がそんなドロドロとしたものとは無関係であるからかもしれません。あの笑顔と涙は、懸命に努力した者にしか見せることはできないのです。
  前回のアテネと比べてメダル獲得数がどうだったかはわかりませんが、日本代表チームの活躍は素晴らしかったですね。やはり、一番印象に残ったのは、競泳の北島康介選手でしょうか。皆に宣言していた通りに、100メートル平泳ぎは世界新記録で、200メートルは惜しくも五輪新で金メダルとなったわけですが、あれだけ豪語したものを実現するなんてことは、そうそうできるものではありません。
  それから、日本のお家芸である体操。仕事の合間にチラチラと競技進行を観ているうえでは、まさか男子団体総合で銀メダルを、そして内村航平選手が個人総合で銀メダルを獲得できるとは思ってもいなかったので、結果がわかったときには、もう少し真剣に観ていればよかったと反省してしまいました。

  それにしても、日本の女子選手の元気のいいこと! 日本女性は「大和なでしこ」などといわれながら、どうして柔道やレスリングがあれだけ強いのでしょう? なにせ日本女子の獲得したメダル12個のうち9個は、柔道かレスリングなんですからね。おっとりとしたイメージに反して、大和なでしことは、心優しく、力持ちのことなんでしょう。
  そして、ソフトボールチーム。まさか連敗した強豪のアメリカを相手に勝てるとは思っていなかったので、上野由岐子選手が決勝トーナメントの3試合を投げ抜き、最後の最後でアメリカをしのいだときには、こちらも一緒になって涙を浮かべてしまいました。

  勝った人も負けた人も、選手それぞれに視聴者が惹かれるドラマがあるわけですが、ここまで祖国の選手を一生懸命に応援するのはいったいなぜなのでしょうね。それは、もしかすると、祖国が平和で安定した国だからなのかもしれません。
  この北京オリンピックで、男子レスリングの松永共広選手が惜しくも決勝で敗れた相手は、アメリカのヘンリー・セジュド選手という21歳の若手でした。セジュド選手は、自身はアメリカで生まれ国籍を持つものの、両親はメキシコから来た不法移民。いつも摘発されるのを恐れ、西南部の州を転々として育ちました。4歳のときから母の手ひとつで育てられた彼は、そんな自分の逆境に泣き言をいったことは一度もないといいます。そして、両親から受け継いだメキシコの血を誇りに思うけれど、自分はあくまでもアメリカ人であり、自分をここまで育んでくれたアメリカは世界で一番の国であるといいます。

  なるほど、何年アメリカに住んでも祖国は祖国だと思う人と、セジュド選手のように新世界に紛(まご)うことなき忠誠を誓う人の違いは、ここにあるのでしょう。つまり、祖国が安定していて「いつでも戻れる」と思っている人と、自分には新世界以外に祖国などないと思っている人の違い。
  ともすると、アメリカに来る移民は、祖国とアメリカ両国に忠誠心を持つといわれますが、それはまさにケースバイケースなのでしょう。セジュド選手のように、自分の血や伝統は必ずしも忠誠の源とはならない場合もあるわけです。

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  一方、わたし自身は両国に深い愛着を持っていますが、オリンピックともなるとまったく別です。ソフトボールの決勝のときなどは、相手のアメリカ人選手がアウトになるのが嬉しくてしょうがなかったです。

  それにしても、あの「USA! USA!」コールがあれほど耳障りに感じるとは、自分でも意外なことではありました。(写真は、東京都内で見かけた、2016年オリンピックの東京招致を願う垂れ幕です。)

 

<クレタ島の思い出>
  話はガラッと変わって、以前旅したギリシャのお話をいたしましょう。一昨年の旅ではあるのですが、近頃妙に気になっていることがあるのです。夏といえば青い海、そういった季節柄の連想のせいでしょうか。
  2006年5月号でもご紹介しておりますが、このギリシャ旅行では、前回のオリンピックの開催地でもある首都アテネを訪ねたあと、エーゲ海に浮かぶミコノス、サントリーニ、クレタの島々へと足を伸ばしたのでした。けれども、最後のクレタ島には1日半しか滞在できなかったし、有名な観光地はどこも見学していないので、とりたてて書かず仕舞いとなっておりました。ところが、そのクレタのことが、近頃妙に頭に浮かんでくるのです。

  クレタ島というのは、ミノア文明の発祥の地といわれていて、それこそエーゲ海の源ともなるような文明を生んだ地なのです。ミノア文明とは考古学的には「青銅器時代」に分類され、紀元前2700年から同1500年に栄えた古い文明です。ミノス王が后の生んだ牛頭人身の怪物ミノタウルスを閉じ込めていたとの伝説のあるクノッソス宮殿で有名ですが、数々の発掘物や人々を如実に描いたカラフルな壁画などで、当時の生活ぶりも比較的よく知られています。
  そのミノア文明は、突然ともいえるほどに唐突にこの世から姿を消してしまっています。この急激な凋落を指し、古代ギリシャ人はミノアのことを「アトランティス」とも呼んでいました(ミノアとは後世に付けられた名で、ミノア人自身が何と名乗っていたのかは今もってわからないそうです)。

  そんなミノア文明を生んだクレタ島でわたしが滞在したのは、島の東側にあるエロウンダ(Elounda)という街。日本の観光ガイドにはあまり載っていませんが、欧米人に喜ばれそうなリゾート地で、完成間もないモダンなホテルでは行き届いたおもてなしをしてくれました。島々を結ぶ高速船が発着する港や本土への飛行機が飛び立つ空港を備えるイラクリオンからは、1時間ちょっと東に離れています。


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  宿泊した施設や静かな環境は最高のものではありましたが、わたしは何となく落ち着かない気分で時を過ごしていました。ひとつに、目の前の島が気になるのです。
  リゾートが面する海は静かな内海になっていて、少し先にぽっかりと小さな島が浮かんでいます。波が穏やかなので、泳いでも行けそうなくらいの距離に見えます。島には定期的にボートが出ていて、見学をしようと、家族連れのグループが何組も海を渡って行きます。あちらへ渡ると島の遺跡を探索し、何時間後かにまたボートでリゾートへと戻って来る、そんな気楽な航行なのです。

  この小さな島はスピナロンガ(Spinalonga)と呼ばれ、ちょっと風変わりな経歴を持っています。15世紀中頃、この辺りがイタリアのヴェネチアに統治された時代に、エーゲ海の脅威ともなっていたオスマン朝トルコとやり合うためにここに堅固な要塞が築かれました。現在目にする遺跡は、この頃に築かれたもののようです。
  ヴェネチアとトルコが鎬(しのぎ)を削る中、スピナロンガは最後の最後までヴェネチアの手中にありましたが、18世紀初め、二国間の交渉の末トルコの統治下に置かれます。その後、オスマン朝はだんだんと力を失っていくのですが、オスマンに縁のある者は、キリスト教徒たちの報復を恐れ、この島を安住の地としたようです。けれども、間もなく、この島すら追われることになる。


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  そして、20世紀に入ると、この島はハンセン病患者の隔離場所として使われるようになります。第二次世界大戦後まで隔離施設として利用され、ヨーロッパ最後のハンセン病療養施設となったのだそうです。ここは海に囲まれた小さな島。ちょうどハワイのモロカイ島(Molokai)が「隔離」に選ばれたのと同じような理由だったのでしょう。
  モロカイでは毎日青い海を眺めては、暗鬱(あんうつ)な気持ちで過ごしていたという体験談を聞いたことがあります。きっとこのスピナロンガでも、同じ気持ちで過ごしていた人々がたくさんいることでしょう。手の届きそうな対岸には村人たちが楽しく暮らしている。けれども自分たちは決して村に渡ることを許されない。いつ出られるともわからない、閉じ込められた生活。しかし、万が一そこから出られたとしても、村人との間には目に見えない有刺鉄線のようなバリアがある。
  今となっては誰もいない静かな島には、日中、観光客がのんびりと訪れるだけです。

   このスピナロンガの歴史はクレタ島を去る頃に知ったのですが、風光明媚な景色を目にしてもずっと心が晴れなかったのは、この島の数奇な運命が意識下で影響していたのかもしれません。
  けれども、どうやら、それだけではなかったようです。もっと大きな出来事がクレタ島全体を襲っていたのです。

  先にミノア文明は唐突に消えてしまったと書きましたが、長年の学者たちの論争の末、最近になってその原因が解明されつつあります。それは、天変地異。火山の大爆発と、それに続く大津波。

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  クレタ島から120キロメートルほど北にはサントリーニ島がありますが、ここは有名な観光地であるわりに、今でも活火山の上に乗っかっていて、とても危ない場所なのです。このサントリーニ島では、紀元前1600年に「ミノア噴火(Minoan eruption)」と呼ばれる大噴火がありました(サントリーニの別名はセラ(Thera)というので、「セラの噴火(Thera eruption)」とも呼ばれています)。

  この大噴火の際、クレタ島から派生しサントリーニに点在するミノア文明の集落は、急激に降り積もる降下軽石に一瞬のうちに埋め尽くされました。が、被害はそれだけでは収まりませんでした。噴火によって巨大な津波が起こり、30分後には遠く離れたクレタ島にも到達したといいます。そして、その45分後には二つ目の津波が、その30分後には三つ目の津波が押し寄せたともいわれます。
  津波は幅およそ50キロメートル、高さは優に30メートルを超えていたと見られ、クレタ島北東の沿岸部は、壊滅的な被害を受けたと考えられています。津波で直接的に流されなくても、この災害で急激に力をそがれたミノス文明は、やがてペロポネソス半島のコリントから遠征してきたギリシャ人に滅ぼされたともいわれています。

  そして、わたしが泊まったエロウンダは、クレタ島の北東部。ちょうど大津波が押し寄せて来たと思われる場所なのです。3600年の昔、この辺りに住んでいた人々は、びっくり仰天したことでしょう。
  ある晴れた日、大きな爆発音とともに空はにわかに夜のように掻き曇る。海沿いの集落は丘の斜面に張り付くように広がっていて、「何事が起きたのか」と家々の窓から外を眺めると、見たこともないような巨大な水の壁がこちらに向かって迫り来るではないか! 逃げようとしても、とても間に合わないし、逃げ場などありません。だって、丘のてっぺんですら、津波にすっかり飲み込まれてしまったのですから。

  そんな人々の驚愕と叫びが、エロウンダに泊まっている間中、意識下で聞こえていたのかもしれません。それは、耳から入り大脳で処理する類の情報ではなく、遠い時空を越えてじわりと人に伝達する分析不能な波長みたいなものでしょうか。
  そう、どんなに時代が変わろうとも、「アトランティス」の顛末は、現代人ともしっかりと繋がっているのかもしれません。

追記: ミノア文明の衰退に関しては、ここでご紹介した火山噴火による津波説の他に、噴火による地震説もあるようです。いずれにしても、サントリーニ島の噴火が遠く離れたクレタ島に壊滅的な被害を与えたという説には、多くの学者(考古学、古代地質学、火山学の専門家)が同意しています。
  それから、「アトランティス」とは、古代ギリシャの哲学者プラトンの記述に初めて登場する伝説の島ですが、プラトンがどの歴史的事実をもとにこれを書いたのかは諸説分かれるようです。なかでもミノア噴火は、有力な説のひとつとなっているようではあります。

<夏の思い出>

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  あの日は、朝から蝉の声が響く暑い日でした。何かしら大事な放送があるというので、近所の班長さんの家の中庭に集合すると、ちょうど正午にラジオ放送が始まりました。それまで聞いたこともない天皇の声を録音した放送でした。
  けれども、ラジオは感度が悪くガーガーと雑音混じりだし、第一、天皇の言葉が難し過ぎて、すぐには理解できません。しかし、まわりの大人たちが声もなく泣き始めたところをみると、ようやくこれは4年近くも続いた大東亜戦争の終結を告げる詔勅であることがわかりました。

  あの日は、昭和20年(1945年)8月15日。子供たちばかりではなく、大人たちの中にも、玉音放送の中身が飲み込めない者はたくさんおりました。
  「伍長殿、戦争は終わりました。日本は負けたのです。」
  「バカを言え!神国日本が鬼畜どもに負けるわけがないではないか!」
  読み書きの不得手な伍長殿は、部下の兵卒が指摘する日本の敗戦が信じられず、なかなか武装を解こうとはしませんでした。

  そして、日本のあちらこちらでは、さまざまな反応が起こりました。学徒動員で学業が中断され、お国のために兵器製造に従事していた学生は、これで監督官を務めていた軍国教師に「何を生意気な!歯をくいしばれ!」とボコボコに殴られることもなくなると胸をなでおろします。疎開先の地方都市が空襲に遭い、更に山間部への疎開を強いられた生徒は、もうこれで逃げ回る必要はなくなるし、大好きな両親の元へ帰れると、戦争に負けた悲しさよりも嬉しさの方を感じます。
  その一方で、戦争に勝つことができなかった不甲斐なさを天皇に詫びようと、自決を選んだ人々もいます。皇居の前には、そういった人々がたくさん集っておりました。

  毎年8月になると、そんな夏の思い出がよみがえってきます。もちろん、わたし自身が体験したわけではありません。ですから、思い出は不思議と夏に凝固しているのです。まだ寒さが残る3月10日の東京大空襲でもないし、3日後の大阪大空襲でもありません。いつも夏のシーンが頭に浮かんでくるのです。
  それは、個の思い出ではなく、集団の思い出ともいえるもの。自身は未経験であったにしても、集団の中の個に深く刻まれている記憶。いかに色褪せ、細部を失った白黒のシーンであっても、絶対に忘れられない集団の実体験。

  20年前に79歳で亡くなった作家・大岡昇平氏は、晩年このようにおっしゃっていました。8月には、6日の広島の原爆投下記念日、9日の長崎の原爆投下記念日、そして15日の敗戦記念日という3つの大事なターニングポイントがある。だから、こんな飽食の時代にあっても、せめてものこと、毎年8月6日から15日の間は自国の平和について考えなければならないと。
  大岡氏は、戦争文学の代表作ともなった『野火(のび)』という小説の中で、主人公にこう述べさせています。「この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺(だま)されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島(注:フィリピン)の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」(『野火』第37章・狂人日記より)

  戦争を知る方たちがだんだんと減り、「半分は子供」の大人たちが幅を利かせるこの世の中では、毎年8月になると、夏の思い出を思い起こす必要があるのです。先達の甚大なる犠牲を無駄にしないためにも。そして、明日へと平穏な生活を繋げるためにも。

夏来 潤(なつき じゅん)

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