Essay エッセイ
2021年12月31日

虹のかけ橋

<エッセイ  その188>

今年も残りわずかとなりました。


2021年は、長年住み慣れたアメリカを離れ、日本に戻ったわたしにとっても、大きな一年となりました。


と言いますか、愛着のあるカリフォルニアから日本への「移住計画」は、すでに一年以上前から始動。昨年は、コロナ禍の自宅待機命令下で「シリコンバレー」の中心地サンノゼ市から脱出し、サンフランシスコ市に移り住み、自宅を売り払ったという大きなイベントがありました。


以前もお話ししておりましたが(2020年6月掲載の「自宅待機中にお引っ越し」)、なにせ23年も住み続けた我が家でしたので、物が多い。しかも、不用品を寄付しようにも、コロナ禍でみんなが家の整理を始めたので、モノにあふれた慈善団体はどこも窓口を閉ざしている。


そんな中、機転の利く連れ合いのがんばりで、なんとか引っ越し屋さんが来るまでには、日本に持っていく物、置いていく物の整理ができて、無事に日本向けの荷物を倉庫に送り出したのでした。


引っ越し先のサンフランシスコの小さなマンションは、以前から住み慣れた場所だったので、コロナ禍の厳しい規制下にあっても、新生活はスムーズに始まりました。


サンノゼの我が家もたった一日(!)で売れ、何事もうまく行くような気配。


ところが、平穏な日々もつかの間、入院生活を送っていた父が亡くなり、日本に緊急帰国して、父と寂しい対面をすることになりました。コロナ禍で病院はずっと面会不可となっていたし、帰国も難しかったので、一年近くも会えずに寂しい思いをさせたのだろうと自分を責めてみても、もう、どうにもなりません。


日本に戻ろうと決意したのには、父もそう長くないから、そばにいてあげたいという願いもあったのですが、あと一歩のところで間に合いませんでした。思い通りには運ばないのが世の常でしょうか。


そんなわけで、今年初頭、サンフランシスコから荷物を送り出し、両親が住んでいたマンションに引き揚げて来た時には、忙しいながらも、なんとなく気が抜けた感じもありました。


40年前に初上陸したサンフランシスコ空港を飛び立つ一抹の寂しさや、コロナ禍でも無事に出国・入国を終えた安堵感、そして、両親のマンションに着いても誰も迎えてくれない寂寥感と、いろんな感情が押し寄せてくるのでした。



けれども、少しずつ日が長くなり、木々の芽が吹いて、花開く頃になると、新天地・福岡へと引っ越し、またまた忙しくなりました。


だいたい、日本という国は、自治体への届け出が多く、手続きが煩雑です。アメリカで引っ越しをしたら、郵便局や陸運局に住所変更を出して、郡の選挙管理委員会に有権者登録(voter registration)をし直すくらい。


何がそんなに大変なのかとアメリカの友人に理解してもらおうと、「日本には Family Registry(戸籍制度)というのがあって、その上に現在どこに住んでいるかって Registration of Residence(住民登録)をしないといけないのよ」などと説明するのですが、こればっかりは、自分で経験してみないとわからないシステムですね。


おまけに、4月1日の引っ越しというのは、「新年度」と重なって、区役所が混むこと!


まあ、引っ越しは、いつの時代も大変なことではありますが、我が家の場合は、コロナの規制下で国境と通関手続きを超え、2箇所からの荷物を一気に運び込み、新居は240もの大箱でいっぱい・・・というありさま。


荷物がだいぶ落ち着いたなと思ったら、今度は、難航していたサンフランシスコのマンションの売却や、父の遺産相続・納税の手続きと、息をつく間もない初夏から夏の日々でした。



秋に入ると、早くも父の一周忌がやってきて、今年こそはちょっと賑やかに!と、お仲間の方々を何人かご招待して法要を執り行いました。


無駄なことは口にしない父ではありましたが、なぜか賑やかな雰囲気が大好きだったので、父をよく知る方々のお顔を見られて喜んだのではないかと、少しだけ安堵したのでした。


すると、安堵もつかの間、関東でひとり暮らしをしていた父の弟が亡くなり、父母と祖父母が眠る菩提寺に入ることになりました。


遠路はるばる、埼玉から九州へとご遺骨を運んでもらい、お寺から仮安置の連絡が入って、「無事にお寺に着きましたよ」と親戚にメッセージを送っているそのとき。


ふと、窓の外を見ると、大きな二重の虹(double rainbow)がかかっているではありませんか!


その日は、叔父に戒名をつけていただこうと、ほんの数回お会いしたエピソードをもとに、参考になる文章をつづっていました。頻繁には会えない叔父ではありましたが、強烈な個性を持った「絵描き」を語るには、かなりの集中力を要します。


降り続いた雨があがったのにも気がつかず、パソコンやスマホの画面ばかりを見つめていたのですが、なにかしら、大きな気配を感じたのでしょう。


窓の外には、輝く虹が姿を現し、「消えてしまわないうちに!」と、こちらも懸命にカメラに収めます。


こんなに完璧な、しかも二重のゴージャスな虹を見たのは初めてだったので、親戚にもお寺の方にも写真をお送りしてみました。するとみなさん、「きっとお寺に着いて、叔父さんも喜んでいるのでしょう」と口を揃えておっしゃるのでした。


この日の虹は、手が届きそうなくらい間近から、向こうへとかかる虹。「虹のかけ橋」という表現がありますが、まさに、歩いて渡れるのではないかと思えるくらい、しっかりと見えました。


すると、そんな感動も醒めやらぬ二日後、十日後と、またまた二重の虹がかかったのでした。


「もしかすると、この場所は、虹を見る特等席かもしれない!」と嬉しい気分になるのです。


まあ、科学的に考えると、単に、太陽と水滴を含んだ空気の間に自分がいて、背後から差してくる日の光が目の前の水滴に当たり、ちょうどいい塩梅に屈折して七色の虹として目に入ってくる、という現象ではあります。


けれども、人というものは、そういった自然現象にも、なにかしら意味があるんじゃないかと詮索する生き物。


あの『不思議の国のアリス』でチャールズ・ドジソン氏(ペンネーム:ルイス・キャロル)が描いたスーッと現れて、スーッと消えるチェシャ猫(Cheshire Cat)みたいに、虹は突然現れて、突然消えるもの。そんな虹を見ていると、やっぱり、自分に対するメッセージなんだろう、と思ってしまうのです。


だって、虹は、笑みだけを残して消えていくチェシャ猫みたいに、思わせぶりにひとカケラを残して消えていくもの。


ひと足先に旅立った父と渡ったばかりの叔父は、あの世で再会できたのかはわかりませんが、ふたりとも心穏やかに過ごしているのだろう、と想像がふくらむのでした。



そんな年の瀬、一年をふり返ってみると、さすがに最後は疲れで体調を崩したものの、まずまず順調に過ごせた一年だったと、感謝をしているところです。


虹の写真を見た連れ合いは、五七五で感想を述べてくれました。


福岡の 虹のかけ橋 アジアへと


縁もゆかりもない福岡へと越してきた、思い切った「移住」。九州を代表する都市・福岡は、それこそ弥生・古墳時代の昔から朝鮮半島や中国との交流で栄え、文化の発展を牽引してきた街です。


そんな長い歴史とアジアへの近さや親密さを表現したのが、連れ合いの五七五でした。


2022年こそは、早くコロナ禍が収束して、心おきなく街歩きができる、平和な世の中になりますように!



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