2009年を振り返って: 変革と光明

Vol. 125

2009年を振り返って: 変革と光明

 


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12月に入って、シリコンバレーは寒い日々が続いておりました。意外に思われるかもしれませんが、この温暖な谷間にも、氷が張ったり、霜が降りたりすることがあるのです。遠くの尾根に雪が積もって、雪深いコロラド辺りの風景を彷彿とさせることもあるのです。

そんな師走のシリコンバレーからは、今年最後のお便りをお届けいたしましょう。2009年もいろいろとありましたので、書くネタは尽きないところではありますが、強く印象に残っていることを厳選して3つだけ書いてみることにいたしましょう。

<今年のキーワード>
日本では、今年を表す漢字として「新」の一字が選ばれたそうですが、アメリカでひとつ単語を選ぶとするならば、やはり「change(変革)」でしょうか。
今年1月には、オバマ新政権が誕生し、それまで8年間続いた共和党のブッシュ政権から一夜にしてガラリと変わってしまいました。

何はともあれ、アメリカの良いところといえば、この変わり身の素早さにあるでしょうか。大統領を取り巻く陣営ばかりではなくて、役所だって重要なポストは総取っ替え。霞ヶ関の役人がいつまでも官僚ポストにしがみつくのとは大違いではあります。
しかも、アフリカ大陸の血を引くオバマ大統領。上院議院の承認を必要とする主要ポストだけとってみても、ヒスパニック(中南米、カリブ海からのラテン系)など有色人種の躍進が目立ちます。

そんな希望に満ち満ちたオバマ政権のスタートではありましたが、やはり、今年は問題が多過ぎました。なぜなら、前年までにブッシュ政権がまいた毒の種が一気に開花してしまったから。
「大不景気(the Great Recession)」と呼ばれるほどにひどい経済の立て直し、8年前から続くアフガニスタン戦争の収拾、破綻寸前の医療保険制度の改革、地球環境問題に対する理解と対策と、オバマ大統領が直面する問題は困難を極めます。
これを評して、有名なコメディアン、ワンダ・サイクスさんがおっしゃっていましたが、「厄介な問題は、全部黒人に押し付けられるのよ」。
なるほど、過去の奴隷制度をほのめかすような、きわどいコメントではありますが、彼女の辛口のジョークも、当たらずとも遠からずの感があるのです。
 


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ですから、今年の年末の世論調査では、こんな意見が大勢を占めていたようです。自分は、オバマ大統領は好きだけれど、彼の政策には賛成しかねる部分もあると。
だって、アフガニスタンに3万人も増強するなんて、ノーベル平和賞を受賞するような人が、よくそんなこと言えたわね。それに、そもそも、どうしてアメリカが戦争しなければならないのよ? (写真は、Atlanta Journal-Constitution紙の風刺漫画家Mike Lukovich氏の作品)

けれども、意外なことに、オバマ大統領自身は、自分をかなり高く評価しているようではあります。先日、トークショーの女王様オプラ・ウィンフリーさんがホワイトハウスでインタビューしたところによると、「僕は自分にB+ をあげたい」ということでした。(アメリカでは、ABCDFの5段階評価となるわけですが、AとBの間には、微妙にA- とB+ というのがあるのです。)
これがもし、今の時点で医療保険の改革法案が議会で通過していたならば、B+ といわず、A- をあげたいともおっしゃっていました。

ふん、なるほど。個人的には、これは過大評価だとは思うのですが、そこは、やはりアメリカの大統領。彼の一挙手一投足が世界を動かすとあらば、自信のないところを見せるわけにはいかないのです。
辛くても、にこやかに、自信たっぷりに。それが、アメリカを背負う人間のモットーなのです。

ちなみに、アメリカの経済はといえば、まだまだ「混沌」を脱していないという状況でしょうか。なんでも、「不景気は今年7月には脱した」という学者たちの仰せではありますが、人々の心に重くのしかかる失業率は、まだまだ高いままなのです。
たとえば、最新のデータとなる11月の失業率は、米国全体で10.0%、カリフォルニア州で12.3%、そしてシリコンバレー(サンタクララ郡)では11.8% という高さでした。
なんでも、一昨年(2007年)末に始まったとされる「大不景気」のおかげで、全米で750万人が職を失ったとか。南国の楽園ハワイも例外ではなくて、ヤシの木に囲まれながら公園で寝起きする人々も珍しくないそうです。

この失業の問題は、アメリカでは二段構えで起きているのです。一昨年夏にはじけた住宅バブルが引き起こしたのが、第一の失業の波。こちらは、建築や製造を中心に、昨年初めから全米の津々浦々に大きな影響を与えました。
そして、昨年9月の金融危機(financial crisis)が引き起こしたのが、第二の失業の波。荒波はもろに金融業界に降りかかり、閉じた銀行はこれまで165行。今年は、この第二の余波がシリコンバレーのIT企業にも広まり、ここ豊かな谷でも、労働人口の8人に1人が職探しを続けるという厳しい状態になっています。
わずか一年前には、シリコンバレーの失業率は7.2% だったので、今年一年の厳しさが如実に表れているようです。

オバマ大統領にとっても、これから3年間の任期の第一目標は、経済の回復と失業率の改善。
一般的に、失業率の回復は、経済の回復より一年から一年半ほど遅れるそうなので、来年もちょっと怪しい雲行きではあります。が、そこをなんとか、オバマさんの魔法の杖でチョチョイッと好転させてくださいよ、と願うばかりなのです。

だって、(お買い物好きの)アメリカの消費者の購買力が回復しないと、世界もなかなか復帰できないですからね。

追記: ちょっと不思議なことに、近頃アメリカでは、不景気のわりに犯罪が減っているそうなのです。FBIの今年前半の犯罪報告書によると、前年に比べて全米でおしなべて犯罪件数の減少が見られ、とくに殺人は10パーセントほど減っているということです。
関係者は「おかしいなあ」と首をかしげているそうですが、みんな家で過ごす時間が長いから泥棒が入りにくいとか、全体的にアメリカ人口が老いてきているから犯罪が減少するとか、諸説あるそうです。何はともあれ、犯罪が減るのは歓迎すべきことでしょうか。

でも、「サンノゼ州立大学の鼓笛隊のサキソフォーンとトロンボーンが盗まれた」なんて報道を聞くと、もう世も末かと思いますけれどね。だって、学校や宗教施設は不可侵でしょう。(泥棒さんも、ちょっとは義賊になってくださいよ。)

<アップルさまのキャンパス>
今年も、いろんなIT業界のニュースがありました。「つぶやきサイト」のトゥイッター(Twitter)が大流行りしたのも、今年初め頃からでしょうか。
1月中旬、ニューヨークのハドソン川にジェット機が不時着したときも、ハドソン川周辺の方々は、Tweet(現場の生中継)に余念がないようでした。やはり、さえずりの瞬間芸は、人を引きつけるものがあるのです。
おかげで、今年のネット検索第一位の英単語は、Twitter。オバマ大統領の Obama や、新型インフルエンザの H1N1 を押さえてのトップの座です。(The Global Language Monitorの11月末の発表より)

それから、先月号でもお伝えしていますが、とくに印象に残っているのが、アメリカのモバイル分野の動き。グーグルさんのケータイ基本ソフト「アンドロイド(Android)」がいろんなスマートフォンに採用されてきて、急に広がりを見せているのです。
そろそろアメリカにも、「何でもケータイでやっちゃいましょう」という時代が訪れつつあるのかもしれません。

先月号でも書いておりましたが、このアンドロイドを採用する各社が目指しているのが、「打倒、iPhone(アイフォーン)!」。言わずと知れた、アップルさまの世界的超人気スマートフォンを追い越せ!と、みなさん鼻息が荒いのです。
で、今年一年、個人的に印象に残ったことといえば、他でもない、このアップルさまのキャンパスに初めて足を踏み入れたということでしょうか。
 


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わたしがIT業界で勤めた何年という間、残念ながら、アップルさまと直接商売をする機会はありませんでした。ですから、ここシリコンバレーでも、フリーウェイ280号線に乗るときに、アップルさまの白亜の本社を横目で眺めていたくらいでした。
ところが、「ランチを食べにおいでよ」とアップルに勤める友達に誘われたのをきっかけに、クーパティーノにある本社キャンパスを訪れ、カフェテリア Caffé Macsでお昼を食べる栄誉をいただきました。
「なんだ、ランチか」と軽んじてはいけません。本社に足を踏み入れるということは、この会社の雰囲気が手に取るようにわかるのですから。

そう、わたしだって、シリコンバレーのITスタートアップで苦労した身。あちらこちらの大小企業を訪れ、「ここは勢いがあるなぁ」とか「なんだか役所みたいだなぁ」とか、組織の雰囲気を嗅ぎ分けるスキルは、ちょっとは持ち合わせているのです。
そして、思ったのでした。アップルさんって、なんだかピリピリしているなと。いつか本社キャンパスを訪れたグーグルさんの「はつらつとした」雰囲気とは対照的です。

このときは5月下旬で、創設者のひとりであり現CEO(最高経営責任者)のスティーヴ・ジョブス氏は病気療養中でした。いったい全体、ジョブス氏が戻って来られるかどうかもわからない、アップルにとっては暗黒の時期ではありました。
それにしても、空気がピリピリしている! みなさん、何かの締め切りに追われているのでしょうか。


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そして、カフェテリアから眺める限り、白人のエンジニアがほとんどなのです。このキャンパスのあるクーパティーノという街は、シリコンバレーでも特にアジア系住民の多い場所。その中にあって、白人が大多数の空間があるなんて、ちょっと意外に感じたのでした。それに、シリコンバレーのIT企業は、中国系やインド系のエンジニアが多いと相場が決まっているではありませんか。

けれども、何系にしたって、やはり、みなさんお利口さんの顔立ちですね。しかも、漏れ聞こえる会話からも、理知的な話題を楽しんでいらっしゃる。というわけで、みなさん人当たりはすごく良いけれど、どことなく「くずれない」印象。
でも、キャンパスの芝生を闊歩する中には、1970年代のロックンローラーを彷彿とさせるような長髪のエンジニアがいたりして、ちょっと読めない部分もありました。きっと、ああいうベテランの方々は、オリジナルのマッキントッシュの頃(1980年代)から勤めていらっしゃるのかもしれませんね。
 


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というわけで、おいしくてヘルシーなランチをいただきながら人間ウォッチングを楽しんだのですが、やはり iPod や iPhone を作り出す会社はすごいですね。
何がって、どこまでも強気の態度を崩さないから。「僕らの製品を独占で売りたいんだったら、お安くないよ」と、天下の携帯キャリアに対しても厳しい条件を突き付けていらっしゃるそうなのです。
そう、2年半前に初代 iPhone が登場したときから、米独占キャリアは AT&T Mobility。この AT&T を相手にしても、アップルさまはひるむことはありません。

いえ、通常、こんなメーカーなんて、あり得ないでしょう。普通なら、「お願いですから、我が社の製品を売ってください」と、キャリアさまにお願いするのが筋なのです。
天下のソフトウェア会社マイクロソフトだって、最新の検索サービス「Bing(ビング)」をブラックベリー端末のトップ画面に載せてくださいと、米キャリア最大手の Verizon Wireless にたくさん支払っているそうですよ。

いやはや、そういう意味では、アップルさまは、もう普通の会社ではなくなっているわけですね。

というわけで、今年もアップルさまの強気が目立った一年となりましたが、来年は対抗馬としてどんなサービスが出現するのか、とても楽しみなところではあります。

<財産と税金>
以前どこかで書いたことがありますが、アメリカには、こんな有名な言葉があるのです。「この世には、死と税金ほど確かなものはない(in this world nothing can be certain, except death and taxes)」


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これは、アメリカ独立の功労者ベンジャミン・フランクリンの言葉なのですが、今でも、税金の話になると、必ず引用されるような名言となっています。だって、税金からは逃げられないんだから、いさぎよくあきらめなさいよと。
まあ、税金の話に限らず、逆説的に「世の中というものは、それほど不確定要素が多い」という意味でも引用されることもありますが。

ところがどっこい、なんとも信じられないことに、来年(2010年)はアメリカには遺産相続税(estate tax)がないそうなのです。ということは、この一年間、誰かが亡くなって何億円かを子供たちに相続しても、国の税金はゼロ!?
なんでも、ブッシュ前政権のときに始まった相続に関する税制優遇措置が、今年いっぱいで切れてしまうのですが、その代わりになる国の相続税の法案が連邦議会で通っていないのです。時間切れで法律がないものだから、年が明けると、自然と相続税が課せられなくなる。(州が相続税を課す場合は、現行通りのようです。)

それにしても、どうしてこんなことに? ご存じのとおり、ブッシュ前大統領は共和党の政治家なので、お金持ちに対する優遇措置には異常なまでに気を配っておりました。ですから、それまでは百万ドル(およそ1億円)以上の遺産には55パーセントの相続税が課せられていたものが、ブッシュ政権誕生時の2001年から9年間は、350万ドル(約3億円)以上であっても45パーセントの課税と、相続税が大幅に軽減されていたのでした。
けれども、現オバマ政権と連邦両院(上院と下院)がすべからく民主党に押さえられている御代で、そんなことが許されるわけがありません。それに、今は上から下への歴史的な財政難。ですから、大事な財源である相続税を見直そうと、議会はがんばっておりました。
が、なにせ今年は、経済の立て直し、イラク・アフガニスタン戦争、医療保険制度の改革と、他に重要な議題が盛りだくさん。とくに医療保険に関しては、週末返上で年末ギリギリまで大もめの状態です。そんなこんなで、あえなく時間切れとなったのでした。

このニュースにほくそ笑んでいるのは、大金持ちの親類縁者でしょうか? そう、ちょっと病気を患っているような大金持ちの縁者たち・・・。

まあ、億単位の遺産相続なんて、一般市民には縁のないお話ではあります。けれども、自ら起こしたビジネスが成功して財を成した人の多いシリコンバレーでは、まったく無縁のお話というわけではありません。ですから、自分が死んだら財産はどうしましょうと、生前にきちんと遺言をしたためておく人が多いのです。
そして、ちょっと驚きではありますが、日頃から計画的に巨額の寄付をする人も多いのです。なぜなら、この身が滅んで身内に財を残すよりも、社会に還元した方が有益だと信ずるから。

実は、アメリカという国自体、国民に寄付を奨励する制度が徹底しているのですね。それは、寄付をした金銭や物品が税金控除の対象になるという制度です。
たとえば、毎年4月、個人で確定申告をするときに、前年に寄付した額を控除申請する方法があります。これは、どんな小額でも構いません。慈善団体に10ドルの寄付をしたとか、古着や使わなくなった電化製品を寄付したとか、そんな些細なことでいいのです。
ですから、感謝祭やクリスマスの年末になると、単に人助けというばかりではなくて、「税金対策」のためにせっせと寄付をする人が増えるのですね。

それから、もっとお金がある場合は、自分の財産を非営利団体(nonprofit organization)に寄付して、老後はこの団体から年金をもらうという方法もあります。
たとえば、サンフランシスコの公共放送局KQEDはこの方式を採用していて、一般人からの寄付金を放送事業に有効に運用しています。

そして、もっとお金がある場合は、基金(private foundation)を設立して、自分の財産を個人所有ではなくする方法もあります。
これには、1960年代にシリコンバレーの元祖ヒューレット・パッカードの創始者が設立した、ヒューレット財団やパッカード財団がありますし、近年、マイクロソフトの創設者ビル・ゲイツ氏が心血を注いでいるビル&メリンダ・ゲイツ財団もあります。


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ご存じのとおり、この世界一大きいゲイツ財団には、投資の神様ウォーレン・バフェット氏が財産の半分を寄与することを約束しています。(バフェット氏は「自分でやるよりも、ゲイツ財団に寄付した方がうまくやれる」と思ったのだそうです。)

いずれにしても、この基金のキーワードは、慈善事業(philanthropy)。自分のためではなく、人のためになること。ですから、社会に貢献する非営利団体に補助金を出すことを目的に、基金が設立されるのです。
そして、そんな基金を奨励するために、国は税制優遇措置を採っているのです。財を築いたら、自分だけでガメないで、世のために還元しなさいと。

シリコンバレーでも、寄付はさかんです。有名なところでは、インターネットバブルの頃、母校のスタンフォード大学にポンと2億ドル(およそ200億円)を寄付した、ヤフーの創始者ジェリー・ヤン氏の例があるでしょうか。こういうのは、ちょっと驚きの話に聞こえますけれども、実は、母校に何百億円単位で寄付するというのは、珍しい話ではないのですね。


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毎年、律儀に寄付をなさっている方の中には、インテルのCEOポール・オテリーニ氏があるでしょうか。彼はきっと音楽好きなのでしょう、例年サンフランシスコ・シンフォニーに25万ドル(2千万円強)ほど寄付なさっています。どうして知っているかって、年末のシンフォニーのプログラムには、寄付した方々がずらっと掲載されるから。
(いやはや、こういうのを眺めていると、寄付した額と人数の多さに唖然とするばかりなのです。だって、過去の3年間で15億円ほど寄付した個人もいるんですよ!)

それから、先日、こんな話もありましたね。地元のサンノゼ・マーキュリー紙が、ホームレス施設の資金難を報道するがいなや、偶然にも夫婦二組が10万ドル(およそ1千万円)ずつをポイッと寄付したと。
もちろん、厳しい冬に向かう中での報道に心を痛めたことがあるのでしょうけれど、ダンナさまのひとりは、「僕のワイフへの誕生日のプレゼントなんだよ」ともおっしゃっていました。(なるほど、プレゼントというのは、ダイヤの指輪ばかりではないんですね。)

まあ、シリコンバレーの中にも、やれ豪邸だ、ヨットだ、自家用ジェット機だと他を顧(かえり)みない人々はいますよ。けれども、そういうのは、心の中をむなしさで埋め尽くしているようなものかもしれません。
そして、日本だって、税制優遇を施して、どんどん寄付を奨励すべきなんだと思うのです。そうしたら、「格差社会」だとか「ねたみ文化」だのは、少しは解消されるのではないでしょうか。

そう、昔っから言われているではありませんか。金は天下の回り物と。ある程度、生活に困らなくなったら、ババ抜きのジョーカーみたいに、さっさと次の人に回しちゃった方がいいものなのかもしれませんね。
 


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だって、金持ちは自分ひとりで金持ちになったわけではないでしょう。それに、がめつくお蔵に貯め込んだにしたって、札束を墓場に持って行くことなんてできゃしないんですから。

というわけで、今年もご愛読ありがとうございました。

どうぞみなさま、お健やかに新年をお迎えくださいませ。

夏来 潤(なつき じゅん)

 

兄のいたずら

前回のエッセイ「お兄ちゃん、お姉ちゃん」では、スイスにいる姉が登場いたしました。

もう長い間ヨーロッパに住んでいるので、すっかりあちらに溶け込んでしまった姉です。

そんな姉のスイス人のダンナさまは、なんとも得体の知れないところがあるのです。いえ、べつに世の中の日の当たらない所で生きているとか、そんな悪い意味ではなくて、想像もつかないようなことをやってのけるという、ある種の尊敬をこめた意味なのです。

スイスに姉夫婦を訪ね、みんなでバーゼルの街を散策しているとき、義理の兄がいきなりこんな自慢話を始めました。

僕は、20代の頃に、すごいいたずらをやったことがあるんだよ。

友達が住んでいるアパートに二人で押し掛けて、そこのドア全部に、覗き穴を付けてあげたんだ。そう、あの片目で覗く、小さな穴のこと。だって、覗き穴がないと、誰が来たかわからないから、すごく不便じゃないか。

なぜだか知らないけど、このアパートには、そんな便利な物が付いてなかったんだよね。

友達も僕も、ちゃんとつなぎの服を着て、工具箱を持って、しっかりと作業員のふりをしていたんだけど、誰も僕たちを疑おうとしないんだ。そうそう、作業着の胸には、「覗き穴専門店」って刺繍も付けてたかな。
 「アパートの管理人から言われて、覗き穴を付けに来ました」って僕が言うと、みんなホイホイとドアを開けてくれて、作業をさせてくれるんだよね。ほんと笑っちゃうよねぇ。

僕たちは二人とも芸術家肌だったから、穴を取り付けるのも、そりゃうまかったさ。本職とまったく変わらないくらいにね。

作業を終えて、僕たちはすっかりご満悦だったんだけど、ちょっと悪いからって、アパートの住人に白状したんだよ。実は、これは僕たちのいたずらでしたって。

そしたら、みんな怒るどころか、便利だからよかったですって、感謝してくれたんだ。だって、もともと覗き穴がない方がおかしいんだよ。

というわけで、バーゼルを行く電車の中では、兄の武勇伝でひとしきり盛り上がったわけですが、まったくドアの覗き穴なんて、意表をつくことを考え出すものですね。しかも、考えるだけではなくて、実行にうつしてしまうとは、かなり実行力のあるお方のようです。

それにしても、思うのです。もしこれをアメリカでやっていたら、不法侵入か器物損壊か何かの罪で、絶対に警察に突き出されていたところでしょう。
 これがスイスだったから許されたのでしょうか? それとも、かなり昔だったから許されたのでしょうか? その辺は、わたしにはまったくわかりません。

けれども、よく考えてみると、みんなに便利なことをしてあげたのだから、そんなに目くじらを立てることもないのかもしれませんね。そんなことで人を捕まえる暇があったら、警察はもっと重罪犯を捕まえてください、といったところでしょうか。


このスイスの旅では、姉から面白いことを教えてもらいました。

収穫の季節、果樹園がたわわに実って、おいしそうな実をちょっと失敬することがありますよね。なにも農家の果樹園でなくとも、隣の家の木からちょいと実をもいで食べてみたとか、そんなことは誰にでもあることでしょう。

そういうのは、スイスではだいたい許されるそうなのです。もちろん、ごそっと失敬してはいけませんよ。それは立派な泥棒さんです。
 でも、自分ですぐ食べるために、ひとつ、ふたつ拝借、というのは大丈夫なんだそうです。

なんでも、これを称して、「お口の泥棒(Mundraub)」と言うんだそうです。(もちろん、持ち主が訴え出たら、罪に問われることになりますが。)

だって、おいしそうな果実が実っていて、それをちょっと失敬して食してみるというのは、ある意味、立派な実を育んだ持ち主と自然に対する「賛美」でもありますよね。
 ですから、「すばらしい物をありがとう。おいしく食べさせてもらいました」という感謝の気持ちを抱きながら失敬すれば、ひとつやふたつくらいなら許されてしかるべきことなのかもしれません。

まあ、こちらも、アメリカでは立派な窃盗罪になるんでしょうけれど。

そうやって考えてみると、何でもかんでも、規則がどうの、罪がどうのとやっていると、世の中がだんだんギシギシとしてくるのではないかとも思うのです。

アメリカの場合は、もうとっくに手遅れですけれど、日本の場合は、ギシギシに歯止めをかけることもできるんじゃないかなとも思うのですよ。

べつに果樹園から実を失敬しなさいと主張しているわけではありませんけれど。


ところで、わたしにとって初めてのスイスでは、ひどく印象に残ったことがありました。それは、スイスの南端にあるマッターホルンから、スイスの真ん中に移動するときでした。

マッターホルンからは、ツェルマット駅始発の「氷河急行」に乗り込んだのですが、スイスの真ん中に行くためには、途中でローカル線に乗り換えなければなりませんでした。
 この氷河急行を降りたのが、アンデルマットという駅。そこでは、スイスの東のサンモリッツを目指す急行と、わたしたちの乗る北行きのローカル線が、ちょうど同時に発車しました。

列車が発車すると、こちらの線路はだんだんと急行から離れて行くのですが、あちらの列車の最後尾には、わたしたちに向かって懸命に手を振る親子がいるのです。それは、氷河急行の中で、食べ物を売り歩いていた母子でした。

この日は日曜日だったので、学校がお休みだったのでしょう。まだティーンエージャーにもなっていないような女のコが、お母さんと一緒に売り子をしていました。

ドイツ語の堪能な姉がサンドイッチを買うのを手伝ってくれたので、買い物はスムーズに行きましたが、わたしたちのようなアジア人の顔や、日本語や英語が飛び交う会話が、あちらの脳裏にも鮮明に残っていたのでしょう。
 その異邦人の顔を列車の窓に見つけたものだから、もう一生懸命に手を振ってくれたようでした。

間もなく、わたしたちの列車は北へ、あちらは東へと分かれて行ったのですが、互いの列車が見えなくなるまで、あちらもこちらもずっと手を振り続けていたのでした。

ただそれだけのことなんです。けれども、まるでスイスの国を誇る盛大なお祭に出くわしたみたいに、今でもはっきりと覚えているのです。

そして、あの親子を思い出すと、ほっこりと明かりが灯ったように温かなものを感じるのです。

スイスの思い出 ~ ルツェルン湖

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前回に引き続き、スイスの思い出を語ることにいたしましょう。

スイスの北端の街バーゼルから、南端にあるマッターホルンへ足を伸ばしたあとは、スイスの真ん中を訪ねました。ここには、マッターホルンほど名高い、ルツェルン湖があるのです。

マッターホルンのお膝元のツェルマットからは、まずは、氷河急行に乗り込みます。この氷河列車は窓が大きいし、天井も窓になっているので、周辺の高い山々を覆う氷河を、座席に座ったままで楽しめるようになっているのです。だから、その名も氷河急行(Glacier Express)。

午前10時過ぎにツェルマットを出た列車は、3時間ほどでアンデルマットに到着します。そこで氷河急行にさよならして、ローカル線に乗り換えました。
そのまま乗っていると、スイスの東側にあるサンモリッツやダヴォスへ連れて行ってくれるのですが、わたしたちは、アンデルマットから北に向かわなければなりません。快適な列車を降りるのは心残りでしたが、仕方がありませんね。

アンデルマットでローカル線に乗ったあとは、すぐにゲーシェネンで降りて別の列車に乗り換え、そのあともう一度、アルトゴルダウで乗り換えます。
アンデルマットもゲーシェネンも、まわりは高い山々に囲まれ、それこそ山岳地帯を縫うような行程です。

アルトゴルダウからは、南のイタリアから来た列車に乗り込みます。さすがにイタリアから来ただけのことはあって、車内にはイタリア語が頻繁に飛び交っています。それまではドイツ語ばかりだったので、まるで異次元の空間に迷い込んだようでした。
こんな風に、スイスを通る列車はかなりコスモポリタンなので、車掌さんは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語の4カ国語が必修なんだそうです。

そのうちに、列車は平地を走るようになり、窓の外にはエメラルド色の湖が見えてきます。どうやら、目的地のルツェルン湖に近づいたようです。

ルツェルン駅に到着すると、それまでの古式ゆかしい建物とは打って変わって、近代的な造りです。天井には、ルツェルン湖周辺のカントン(州)の旗がずらっと掲げられています。
牛の顔は、ウーリ州。十字のマークは、シュヴィーツ州。ルツェルン湖は細長くて、とても大きいので、その他に、ルツェルン州とウンターヴァルデン州が隣接しているそうです。

ルツェルン湖のまわりは、中世の頃から商業都市として栄えたそうですが、その後、風光明媚な景色を目当てに、画家や作曲家、文豪と、数々の芸術家が好んで訪れたのだそうです。
以前、「初夢の調べ」というエッセイでもご紹介したことがありますが、ロシアの作曲家ラフマニノフが、名曲『パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43』を生んだのも、このルツェルンの湖畔でした。

そんな歴史のある街ですので、旧市街は昔のままに美しく保存されていますし、湖上から眺める街並にも格別なものがあります。

駅近くの船着き場では、姉のダンナさまとも合流しました。バーゼルからはそれほど遠くはないし、スイスで育った彼はルツェルン湖が大好きなので、マッターホルンはスキップして、こちらで合流することになったのです。そして、みんなでさっそく遊覧船に乗り込みました。

大きなルツェルン湖には、船の停留所がたくさんあって、わたしたちは船着き場からほど近く、ビュルゲンシュトックの麓で船を降りました。ここで登山電車に乗り換えると、山のてっぺんにあるビュルゲンシュトックの街まで連れて行ってくれるのです。

ここはルツェルン湖を一望にできる名所なので、山の上にはホテルの集落ができています。普段だったら、思う存分湖を眺められるのでしょうけれど、この日は、あいにくのお天気。どんよりと曇って、湖面の色も冴えません。
その代わり、予約もなく駆け込んだ老舗のパレスホテルでは、半額の値で泊まれることになりました。姉と旅をすると、いつも予約なしの行き当たりばったりなのですが、たまには良いことにも出くわすのですね。

その晩、夕食も終わる頃には、何やら急に怪しい雲行き。部屋に戻ると、さっそく大粒の雨が落ちてきて、雷はゴロゴロ、稲妻はピカピカ。
けれども、遠くに落ちる稲妻がなんとも美しいこと! 黒雲の合間から落ちて来ては、はるかかなたに次々と着地する。そのさまは、まるで天が織りなす自然のスペクタクル。湖の眺めは冴えない代わりに、稲妻のお膳立てに大満足したのでした。

翌朝は、なんとか雨は上がったものの、空はやっぱりどんよりとしています。けれども、この日は、登山鉄道にゆられて、ピラトゥス山に登るのです。
ビュルゲンシュトックからは、またルツェルン湖の遊覧船に乗って、ピラトゥス山の麓で下ります。そこから登山鉄道が出ているのです。

こちらの鉄道は世界で一番の急勾配というだけあって、やはり迫力は満点なのです。45分の行程も、「すごいね~」を繰り返して、あっと言う間に終わってしまいました。
2100メートルを超えるピラトゥスの山頂からは、下界は雲って何も見えません。それに真夏とはいえ、山は寒い。北欧に持って行ったセーターを荷物に入れておくのだった、と後悔しても遅いのです。

そこで、ちょっと暖まりましょうと、レストランで腹ごしらえをいたしました。ついでに、ワイングラスを傾けながら、ワインを愛する義理の兄の講釈もいただきました。が、悲しいかな、カリフォルニアの人間には、ヨーロッパのワインはぜんぜんわかりません!

というわけで、お腹もふくれたことだし、そろそろピラトゥス山の逆側に下りて、ルツェルン駅からバーゼルに向けて帰ることになりました。こちら側からは、登山鉄道ではなく、ロープウェイとゴンドラを乗り継いで下界に下りることができるのです。

ロープウェイもゴンドラも、鉄道と同様かなりの急勾配なのですが、さすがに山裾まで下りて来ると、家が建ったり、牛が放牧されていたりと、人の生活のにおいがしてきます。
そこで、おもむろに兄が言うのです。自分が子供の頃は、毎年この斜面にある小さな家を借りて、家族で夏を過ごしていたものだよと。
そこからはルツェルン湖が望めるそうですが、その思い出の家を懸命に探していた兄は、「あ、まだある!」と、嬉しそうに報告してくれました。何年経っても、まったく変わらない。それが、スイスの良さでもあるようですね。

子供の頃は、何の道具も使わずに、ピラトゥス山の険しい岩肌をホイホイと登っていたそうですが、そんな甘酸っぱい思い出がいっぱいあるから、兄にとっては、ルツェルン湖やピラトゥス山は、心の中の特別な場所を占めているものなのでしょう。

ゴンドラの中にも聞こえてきた牛さんたちのカランコロンという鈴の音が、アメリカに戻ってからも、いつまでも耳に残っていたのでした。

スイスの思い出 ~ マッターホルン

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先日、「お兄ちゃん、お姉ちゃん」というエッセイを書いていたら、以前スイスへ旅行したときのことをご紹介したくなりました。スイスは、姉が長く住んでいる所ですので、ご紹介しておかないと姉にちょっと悪いかなと思いまして。

かの地へ旅行したのは、かれこれ6年前の2003年8月ですが、この年はヨーロッパ全体が異常気象に見舞われ、灼熱の夏となりました。フランスでは、高齢の方を中心に何万人と亡くなったそうですが、隣国のスイスやドイツでも、かなりの被害が出たのではないでしょうか。

もともと涼しいスイスでは、エアコンのない家がほとんどだそうなので、急に暑さに見舞われても対応のしようがないようです。だって、スイスといえば、雪を頂くアルプスと涼しい高原、そして草原にのびのびと放牧される羊やヤギのイメージですものね。
けれども、エアコンがあったにしても、このときは焼け石に水だったのかもしれません。ヨーロッパ全体が電力不足に落ち入って、頻繁に停電があったようですから。北欧だって暑かったので、他国に電力を供給することもできなかったそうです。

そんなこんなで、北欧からスイスのバーゼルに到着したときには、その暑さにびっくりでした。え、ここがスイスなの?と。だって、この日は、摂氏39度の猛暑でしたから。
写真で見ると、空はどんよりと曇っているようですが、これはこれで熱がこもって、なかなか暑いのです。湿気もかなりありますしね。カリフォルニアに住む身には、夏の湿気は大敵なんです。

そして、バーゼルからマッターホルンのお膝元であるツェルマットに到着すると、もっとびっくり。だって、標高1600メートルの地で、ほぼ30度の気温なんです!

いやはや、この夏は、ほんとに異常でした・・・。

というわけで、ちょっと地理のお話をいたしましょうか。

ご存じのとおり、スイスはかなり小さな国ですが、バーゼルという街はスイスの北端にありまして、ちょうどスイスの北に位置するドイツと、北西にあるフランスと3国が交わるところにあります。

おもしろいことに、バーゼル空港にはスイス側とフランス側がありまして、バスに乗っていると、途中でひょっこりと国境を超えました。バーゼルの街中には、ドイツに属する鉄道駅もありましたっけ。
姉はよく、自転車に乗ってフランス領に入り、そこのレストランでおいしいディナーを堪能するそうです。海に囲まれた日本では、ちょっと想像できない芸当ですよね。

一方、名峰マッターホルンはスイスの南端にありまして、イタリアとの国境線上にあります。ですから、バーゼルからマッターホルンに向けて列車で行くと、スイス全体を北から南に縦断することになりますね。
バーゼル駅では、ドイツのドルトムント始発の高速列車に乗って、3時間後にはスイス南のブリークに到着。そこからローカル列車に乗り換えて、目的地のツェルマットへ。全体でかれこれ5時間の行程でしょうか。

ところで、このローカル線がくせものなんですよ。なぜって、高山病にかかりやすいわたしは、目的地のツェルマットに近づくにつれて、だんだんと空気が希薄になるのがわかったから。
ツェルマットの街は標高1600メートルにありますが、列車が1500メートルを超えた頃でしょうか、だんだんと呼吸が辛くなって、おしゃべりもしたくなくなりました。

そして、ツェルマット駅に到着すると、何はともあれ、薬屋さんを探します。小型の酸素ボンベを買おうと思いまして。

ところが、銀色に輝くスリムな酸素ボンベが棚の上に見えているのに、店員さんが女性客につかまっている! 「この化粧水はどうかしら?」とか、のんびりとおしゃべりしているのです。よっぽど割り込もうかと思ったとき、ようやく女性客が立ち去り、めでたく酸素ボンベをゲット。
その日は、辛くなってくると、ときどきボンベから酸素を吸って、無事にしのぐことができました。道行く人には、じろじろと好奇の目で見られましたが。

この酸素の甲斐あって、翌日、ゴルナーグラート登山鉄道に乗って、わずか40分後に展望台に到着しても、もう大丈夫。標高3089メートルの展望台からは、名峰マッターホルンを満喫できましたし、ちょっと下のリッフェルベルグの駅までハイキングもできました。

まさに酸素は偉大なのです!

それにしても、マッターホルン周辺の風景は、まるで絵ハガキから飛び出してきたようですね。近年の温暖化の影響か、ちょっと地肌が見えているところもありますが、雪を頂く山々の連なりは、荘厳のひとことです。

もちろんマッターホルンも美しいのですが、わたしの一番のお気に入りは、スイス最高峰のモンテローザ。展望台からは、すぐ真ん前にそそり立っています。
普段なら、何ということもない山なのかもしれませんが、この日は、山頂から雲が立ち昇り、その純白の固まりが絶えず形を変えながら、ゆっくりと流れて行くのです。きっと一日中見ていても飽きないなぁと、この景色に釘付けになってしまいました。

じきに「もう行くよ!」と姉と連れ合いに促されたのですが、それが非常に残念で、今でも心残りに感じているくらいです。そう、スイスでは、もっとモンテローザを眺めていたかったと。

そんな風に、山頂付近はカラリと晴れ上がったお天気でしたが、その日の午後、ホテルに戻って来ると大雨になりました。近くを流れる川がまたたく間に白濁し、あふれんばかりに水かさを増して、恐ろしいくらいでした。

あんなに高い山々から流れ落ちる水ですから、さぞかし量が多いのでしょう。

夕方には雨も上がり、街を散策する時間となりましたが、高台に登ってみると、雨上がりのツェルマットには、教会の鐘がカランコロンと響き渡っていました。

湿気を含んだ暖かい空気を通してみると、鐘の音が手で触れるほどに、はっきりと聞こえてきたのでした。まさに、荘厳な山々に囲まれた古い街並には、似つかわしい音の色でした。

お兄ちゃん、お姉ちゃん

わたしには、2つ違いの姉がいます。

歳がそんなに離れていないせいか、子供の頃はよくけんかもしました。まあ、兄弟姉妹はけんかをして育つものと相場は決まっていますけれど、もしかすると、性格的にかなり違うこともあったのかもしれません。

けれども、わたしが高校生の頃から姉は離れて暮らすようになり、もう会う機会もあまりなくなってしまいました。今では、かれこれ四半世紀もヨーロッパに住んでいるので、なおさら会うこともなくなりました。だから、仲良く(?)けんかをするチャンスもありません。

やっぱりアメリカの西海岸からすると、ヨーロッパは日本以上に遠い所なのです。だって、東に向かってアメリカ大陸を超え、さらに大西洋を越えなければなりませんからね。

一度、姉の住むスイスに遊びに行ったことがありました。ヨーロッパが異常気象に見舞われ、スイス全体が融けてしまいそうな暑い夏でした。
 あまり長居はできませんでしたけれど、少なくとも、姉が長年住んでいる街の雰囲気に触れることはできました。
 そうか、話で聞いていたよりも山間(やまあい)の起伏のある風景だなとか、近くにあるバーゼルの街は、思っていたよりも都会だなとか、物珍しさと同時に、長い間ここで暮らす姉に尊敬の念すら感じたのでした。

アメリカに慣れっこになっているわたしにとっては、ヨーロッパは何もかもが珍しいのです。だから、よくもまあ、こんなに様子の違う所で、ちゃんと生きてきてものだなぁと、身内のことながら感心してしまうのです。


いつか、大人になって久しぶりに再会したとき、姉からこう言われたことがありました。

子供の頃に、あなたから言われてがっかりしたことがあると。

なんでも、子供のわたしが、「お姉ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんの方が良かった!」と、声高に宣言したのだそうです。

そう言われてみれば、おぼろげに覚えてもいるのですが、きっとけんかか何かの最中に、悔しまぎれに意地悪を言ってみたのでしょう。

どういう心理でそんなことになったのか、今となってはよくわかりません。けれども、何となくお兄ちゃんだったら、妹のことを暖かく見守ってくれるんじゃないかと、そう思ったのかもしれません。
 きっとお姉ちゃんよりも、お兄ちゃんの方が妹思いなんじゃないか。お兄ちゃんだったら、こんなにけんかをすることもないんじゃないかと。

お兄ちゃんのいないわたしには、それは単なる想像でしかありません。けれども、子供のわたしにとっては、ちょっと楽しい空想だったのかもしれません。
 そして、本当にお姉ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんだったら、もうちょっと「おてんば」に育っていたのかもしれません。

けれども、「お兄ちゃんの方が良かった!」なんて言われた方は、それは、それは、がっくりときたことでしょう。だから、大人になっても、いつまでも忘れられなかったのでしょう・・・。

今となっては遅過ぎますけれども、あの言葉は撤回させていただきたいです。


そんな風に、姉と二人で育ったわたしですが、不思議なことに、よく弟がいるのかと尋ねられることがあるのです。

そういえば、年下の男のコから弟のようになつかれることもあったなぁと、なつかしく思い当たることもあるのです。べつに何かしてあげた覚えはないけれど、話をよく聞いてあげたので、それがお姉ちゃんみたいに頼もしく思えたのかもしれません。

そして、今は、正真正銘、(義理の)弟が二人います。弟と言っても、一人は同い年なので、あんまりこちらは威張れませんけれど。

その同い年の弟が結婚したときには、(義理の)妹もできました。妹は日本にいるものの、東京からはちょっと離れているので、ひんぱんに会うことはできません。けれども、二、三年に一度は会うこともありますし、近頃は、ときどきメールのやり取りもしています。

そして、思ったのですが、やっぱり妹っていいですね。

子供の頃は、姉がいるせいか、どちらかと言うと「甘えん坊」で育った傾向がありますけれど、ここまで大人になると甘えてばかりはいられないので、少しは面倒見も良くなってくるのです。すると、義理でも何でも、妹ってかわいいなぁと実感するのです。

まあ、あちら様は「かわいい」なんて言われたら心外かもしれませんので、おとなしく心のうちに留めておくことにいたしましょうか。


こんな風に、生まれたときにお兄ちゃんやお姉ちゃんがいなくても、結婚をきっかけにひょこっと兄弟姉妹ができることがありますよね。

けれども、そればかりではなくて、アメリカでは、コミュニティーの中で「お兄ちゃん・お姉ちゃん的な存在」が生まれることがあるのです。
 英語では、Big brother(お兄ちゃん)とか Big sister(お姉ちゃん)、それから Mentor(メンター、良き助言者)とか言われることが多いでしょうか。

やはりティーンエージャーの頃や、若いうちには、何かと思い悩むこともたくさん出てきます。悩んだ末にもまだまだ進むべき道が見えなくって、やみくもに間違った方向に突っ走ることもあります。

そんなとき、血のつながりもないお兄ちゃんやお姉ちゃんたちが、一緒に遊んでくれたり、やんわりとアドバイスをしてくれたりしたら、何かの助けになることもあるでしょう。

家族だったら相談しにくいようなことでも、ちょっと離れた人になら相談できることもありますよね。それに、アメリカの場合、両親がいたとしても、しかたなく里親に育てられることもあります。お兄ちゃんやお姉ちゃんがいたとしても、18歳になったら家を出て行って、すぐそばにいないことも多いです。
 そういうときに、誰かが親身になって悩みを聞いてあげたり、自分の貴重な体験をざっくばらんに話してくれたりすると、目の前がパッと明るくなって、道がすっきりと見えてくる子供たちもたくさんいるのです。

たとえば、アメリカには、Big Brothers Big Sisters of America(アメリカのビッグブラザー、ビッグシスター)という全米の組織があって、ボランティアによる地道な活動のおかげで、学校をずる休みする生徒が減ったり、麻薬やお酒に走るティーンエージャーが減ったりと、確固たる成果が出ているそうなのです。

それに、やっぱり人間は社会に生きる動物ですので、ちょっと年齢の違う人たちとも近しく触れ合い、いろんな物の見方を教えてもらうのも、子供たちにはとっても大切な栄養素になるのだと思います。

いつも同じ視点から物を見ていたんじゃ、大きなことは考えられませんし、世の中がどれほど大きなものなのか、なかなか感じることもできませんしね。


そんなこんなで、アメリカでは、スポーツ選手や俳優のような有名人から、普通の大人や学生まで、いろんな人が「お兄ちゃん、お姉ちゃん」になってあげているのです。

つい先日も、こんな記事が載っていました。アメリカンフットボールのプロチーム、サンフランシスコ49ers(フォーティーナイナーズ)の現役選手が、高校の「問題児」たちの前でお話をしてあげたと。

荒くれの多い街に育った自分は、高校生の頃は、教室の後ろでいつも先生に悪態をつくような生徒だった。でも、あるとき停学処分を受けたとき、母親に叱られたことよりも、彼女の顔に浮かぶ絶望の色にあせりを感じてしまった。これは、自分で何とかしないといけないんだって。だって二人のお兄ちゃんは、両方とも銃で撃たれて短い命を絶っていたから。これ以上、母親を悲しませることはできないんだって。

それからは一念発起して、教室の真ん前に座って先生の言うことを聞くようになって、高校も卒業したし、大学にも奨学金で進んだ。プロのスポーツ選手にもなった。高校を卒業したのなんて、家族の中で僕が初めてだったんだよ。
 だから、僕は、みんなにこう言いたい。自分の意志さえあれば、何だってできる。ただトライしてみるだけでいい。
 それから、先生の言うことはしっかりと聞くべきだよ。だって、先生たちは君たちを助けるためにいるんだから。

おもしろいことに、この方は、お話をこういう風に結んだそうです。母と、そして神にはとても感謝している。けれども、自分自身にも感謝している。
 なぜなら、自分で自分の行くべき道を選んだのだから。自分で自分を変えられたんだから(Nobody changed me but me)と。


こんな風に、アメリカでは、勇気をもらえる話を聞きたがる人はたくさんいますし、心が強くなるような話を聞く機会もたくさんあります。
 そればかりではなくて、人生をいかに生きるべきかを指南してくれる「ライフコーチ(life coach)」なる不思議な職業もあるくらいです。そうなんです、お金を払って、助言してくれるプロがいるんです。

それくらい、みなさんアドバイスに飢えているということなのでしょう。この複雑な人の世を生き抜くために。

けれども、どんな国に暮らしていても、誰かしら助言してくれる人とか、目標にすべき人(role model)がいれば、それはそれでとても幸せなことなのかもしれません。自分の道がすっきりと見えてくるはずですから。

そして、そんなお兄ちゃん、お姉ちゃんだったら、自分もちょっとなってみたいかなと、ふと思ったのでした。

追記: アメリカでは、こんな言葉を聞くこともありますね。
 If I can do it, so can you. (もしわたしにできるんだったら、あなたにだってできる)

この言葉には、「誰かにやれて、あなたにやれないことはない。だから、あきらめないで!」という含みがあるのです。アメリカ人って、そう言われると、俄然がんばれる国民なのでしょうね。

アメリカ人には、存外素直なところがありますので、上に出てきた「ライフコーチ(人生の指南役)」だけではなくって、「人にモーチベーション(刺激)を与える話し手(motivational speaker)」という職業も立派に成り立っているのです。
 日本で言うと、どうやったら自分でできるようになるかを説明する「How to(ハウツー)ものの本」みたいなものでしょうか。アメリカ人って、スピーチがお上手な方が多いですから、すっかり聞き手をその気にさせてしまうのです。

まあ、「豚もおだてりゃ木に登る」みたいな感じはありますけれど、おだてられて、いい気になって、ちゃんと木に登れるようになれば、それはそれで幸せというものでしょうか。

インフルエンザ

先日、救急病院に行くハメになってしまいました。

いえ、何のことはない、風邪か何かのウイルスが胃を攻撃して、胃腸の具合が悪くなったんです。
 もちろん、たいしたことはなかったのですが、夜中に急に症状が出てきたので、恐くなってお医者さんに会いにいったのでした。

なんでも、英語では「Stomach flu(胃のインフルエンザ)」という病気だそうですが、今まで名前だけ聞いていて、何だか知らない病気だったので、自分で体験してみる(あんまりありがたくない)機会となりました。

そうなんです。アメリカでは、Stomach flu(胃のインフルエンザ)だの、Head cold(頭の風邪)だのと、おかしな通称の病気があって、自分で実際にかかってみないと、「あ、そうか!」と理解できないことがあるのです。

まあ、仰々しく「胃のインフルエンザ」というわりには、インフルエンザや風邪のようなウイルス性だけではなくて、何かのバクテリアでかかるときもあるそうなので、結局、急性胃腸炎(Gastroenteritis)のことを、まとめてこう呼ぶのでしょうね。

ちなみに、Head cold(頭の風邪)というのは、おもに鼻の粘膜が風邪のバイキンにやられて、鼻づまりや頭痛、くしゃみと、頭の周辺で出るタイプの風邪だそうです。

どうやら、わたしの「胃のインフルエンザ」は、ご丁寧なことに頭の方にも飛び火したようでして、その後、めまいと鼻水に悩まされたのでした。「胃」のあとは「頭」と、何とも忙しいことではありました。


というわけで、わたしの病気はたいしたことはなかったものの、やっぱり世の中では新型インフルエンザ(H1N1 influenza)が猛威をふるっていて、十分に注意しなければなりませんね。

アメリカでは、12月に入って、「どうやら流行は峠を越えたんじゃないか?」と言われるようになっていて、4週連続で、新しく新型インフルエンザにかかる患者の数が減ってきているそうなのです。

それでも、まだまだ発症する患者の数は多いままなので、できることなら、かかる前に予防接種を受けたいと願っている人はたくさんいるのです。

実は、わたしもその一人なんです。

10月下旬、かかりつけの病院で新型インフルエンザの予防接種が始まったので、すぐに行ってみたものの、制限があって受けられなかったので、代わりに季節性インフルエンザ(seasonal flu)の注射をしてもらったのでした。

そのときは、妊婦さん、6ヶ月未満の子供を持つ人、心臓病・糖尿病・喘息などの慢性的な病気を持つ人、そして医療従事者しか対象になっていませんでした。
 子供たちには、注射の代わりに鼻からのスプレーを接種してあげていたようです。(鼻からのスプレーワクチンは、生きたウイルスを薄めたタイプなので、妊婦さんや喘息持ちの人には向きませんが、健康な子供たちには問題はないようです。)

その頃は、アメリカ全土で病気がどんどん広まっているわりには、ワクチンがとても不足していて、それこそ、ある種のパニック状態になっておりました。
 どこかの病院で予防接種をするぞと聞くと、ソレッとばかりに長~い行列ができるし、小さい子供を持つ親たちは、かたっぱしから小児科に電話して、いったいいつになったら接種できるのかと、心配をつのらせておりました。


その後、少しずつワクチンも出回り始め、たとえば、シリコンバレーのあるサンタクララ郡などでは、土曜日ごとに青空のもとで無料予防接種クリニックが開かれたりしておりました。このときには、18歳未満の子供たちとその親、妊婦さん、慢性病を持つ人の接種が許されていたようです。(無料クリニックなので、郡の予算からお金が捻出されているのでしょう。)

11月初頭、初めてこのようなクリニックが開かれたときには、それこそ何千人という子供たちと親が、会場の遊園地の前に並んだようです。前日の金曜日から徹夜で並んでいた人たちも一人や二人ではなかったとか。

まあ、中には、慢性病を持っていると偽って、予防接種を受けに来た人もいるようではありますが、基本的には「来る者はこばまず」でやってあげていたようです。

わたしもそうしたいのは山々ですが、やっぱり子供たちが重症になりやすいことを考えると、一人でも多くの子供に接種して欲しいと思うので、ズルはしないぞ!と決心したのでした。

そして、子供たちを守りましょうと、学校も乗り出しました。シリコンバレーのサンノゼ市では、学区内の児童・生徒3万2千人全員にワクチン接種をすることになり、11月中旬から徐々に接種が始まったのです。

学区内の41の学校では、多くの生徒たちが必ずしも経済的に恵まれた環境にいるわけではないので、無料でワクチンを提供することになったようです。
 こちらの学区で健康・家族サポートを担当している責任者の方が、もともとは看護婦さんだったようでして、とにかく子供たちの健康を第一に考える方のようですね。

保護者の中には、「いかなる予防接種もイヤ!」という人もいますので、拒否することもできるそうですが、基本的には学区内の子供たちから流行を防ごうという、画期的な計らいのようです。

ちなみに、わたしの病院でも予防接種は無料でやってくれるので、「病気の予防(prevention)」には、とくに重点を置いているようですね。


こんな風に、子供たちを優先に接種が始まったわけではありますが、12月に入った今も、とにかくワクチンが不足しています。

わたしの病院でも大人向けの予防接種クリニック自体が閉じてしまっているようなので、やっぱり需要はまだまだ大きいわりに、供給の方がまったく追いつかない状態のようですね。
 子供向けのクリニックは細々とやっていて、10歳未満の子供たちには、2回目の接種をしてあげているようではあります。(新型ワクチンの場合は、小さい子供たちは一ヶ月空けて2回受けないと、効き目が足りないそうです。)

どうやら、足りないのは新型ワクチンだけではなくて、季節性インフルエンザの方も不足しているということで、今年は、普通のインフルエンザも「脚光」を浴びているようですね。

そういえば、わたしが季節性の予防接種を受けたときにも、こんなことを話しているおじさんがいましたよ。
 「自慢じゃないけど、僕は1973年以来、一度も予防接種なんて受けたことがないんだよ。でも、今年はちょっと違うからね。もし新型が受けられなくたって、季節性のだけでも受けておきたいよね」と。

この方は66歳ということだったので、係の看護師さんに「65歳以上の方は、新型には免疫があるはずだから、ワクチンは受けなくてもいいんですよ」と言われて、ホッと胸をなでおろしていたようでした。
(アメリカの疾病予防管理センター(通称CDC)では、60歳以上の人の約3割には、新型ウイルスに対してなにがしかの免疫があるとしています。)

(それから、上の写真は、わたしの病院で予防接種のときに張ってくれる青い絆創膏。「thrive」というのは、こちらの病院のスローガンでして、「みんなで元気に生きていきましょう!」という意味合いがあるのです。)


というわけで、わたしも一日も早く新型ワクチンを受けたいと願っているところではありますが、先日、救急病院のベッドで横たわっているときには、こう痛感しておりました。

「世の中には、健康ほどありがたいものはないなぁ」と。

常日頃、元気に暮らしているときには、健康なんて空気のような存在でしかありませんが、病気になって、あちらこちらが痛んだり、具合が悪くなったりすると、「お願いですから、早く元通りにしてください」と、ついつい天を仰いだりしますよね。

そして、「昔の人は薬も十分になくて、病気になると大変だったろうなぁ」とも実感しておりました。だって、今のように特効薬がないと、苦しい症状がなかなか消えてくれないのですものね。

たとえば、昔は、結核で命を落とす文学者も多かったわけですが、そんな風に徐々に体が病に蝕まれる窮地に追い込まれても、書く情熱と創造力は決して衰えなかった。それどころか、それをバネとして、さらに優れた作品を生み出すこともあったのです。

もしかすると、病気になって研ぎすまされた心があって、その異常事態の心にしか作れないものもあるのかもしれませんね。

とにもかくにも、健康は大事に守りたいもの。そう実感できたのは、救急病院の点滴の効用なのでしょう。

久しぶりに家の外に出てみると、木々の彩りが一段と美しくなっているのに気が付いたのでした。

アンドロイド戦争: にわかに勃発!

Vol. 124

アンドロイド戦争: にわかに勃発!

つい先日、救急病院にお世話になってきました。新型インフルエンザではないとは思いますが、まわりには具合の悪い人たちがウヨウヨいて、何かの悪いバイキンをいただいてしまったようです。

さて、そんな異常事態の11月には、「アンドロイド戦争」も勃発いたしました。まずは、そちらのお話から始めましょう。
そして、第2話は、ちょっと長めではありますが、スマートフォンの進化論のお話となっております。

<アンドロイドの逆襲>
ご説明するまでもなく、アンドロイド(Android)というのは、グーグルさんの新しめのスマートフォンOS(賢いケータイの基本ソフト)のことですが、ここに来て、次々とアンドロイド搭載機が姿を現し、市場は戦国時代の合戦の場になりつつあるのです。
 


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前々回の9月号でもお知らせしていますが、昨年10月、米携帯キャリアT-Mobile USAが発売した「G1(ジーワン)」(台湾メーカーHTC製)が、記念すべきアンドロイド第一号機でした。
その後、今年8月には、同じくT-MobileとHTCの組み合わせで、アンドロイド1.5搭載の「myTouch 3G(マイタッチ3G)」が登場しています(アメリカ以外の市場では「Magic(マジック)」という名称)。
それを追うように、今年10月には、T-Mobileの商売敵であるSprint Nextelが、同じくHTC製の「Hero(ヒーロー)」を市場に投入しています。

残念ながら、「G1」と「myTouch 3G」は、爆発的なヒット作には至っていないと言っても語弊はないでしょう。「G1」はアメリカ市場で100万台、「myTouch 3G」は世界市場で100万台の販売台数を超えていますが、半年かかって徐々に台数を伸ばした感があります。
ひとつに、T-Mobileは、米携帯キャリアとしては、規模やサービス範囲の点で二流だという要因があるのでしょう。ユーザベースが小さいので、みんながエイッと飛びつく勢い(話題性)が生まれないというか。
それに、いくらグーグルさんの新OSが搭載されているからって、出始めの初代アンドロイドには、使い勝手の面で「いまいち」なところもありましたしね(そう、どことなく試作機的な香りが・・・)。
ですから、それこそ多くのユーザがこう思ったわけです。「わたしにはアップルさまのiPhone(アイフォーン)があるわ」と。

ところが、グーグルさんだって、そのままで終わるわけがありません。「一回目がダメなら、次があるさ」と、黙々とバージョンアップに取り組み、現在はアンドロイド2.0まで成長しています。
アンドロイドはスマートフォンOSである以上、メール、アドレス帳、スケジュール管理などのビジネス機能の使い勝手も大事ではありますが、やはりゲームやネット、ビデオやカメラなどの娯楽性を充実するとなると、スピードを速くしたり、解像度を良くしたりと、改善すべき点はあまたあるのです。
まあ、厳密には、アンドロイドはオープンソース(ソースコードが公開されている)OSなので、外部の方々からも自由な発想を次々と取り入れてやっていらっしゃるようですが、その辺の取りまとめが実にお上手なのも、グーグルさんならではといったところでしょう。だって、社外からグーグルファンのプログラマーたちを招いて、自分たちのキャンパスでブレーンストーミングのキャンプを催し、常に新鮮な風を吹き込もうという努力を惜しまない文化がありますから。
「何でも自分たちで作ろうなんて、今どきそんなの古い、古い!」

そんなこんなで、成長を重ねるアンドロイドOSと手を組むハードウェアメーカーも増えておりまして、アメリカの大手携帯端末メーカー・モトローラ(Motorola)が本腰を入れて開発に乗り出した頃から、アンドロイドに対する世の中の視線もガラリと変わってきたのです。
なにせ、モトローラといえば、ちょっと前まで「RAZR(レイザー)」という薄型のコンパクトなケータイで一世を風靡したメーカーではありませんか。やはり、そのネームバリューは消え去ってはいないのです。
 


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そして、いよいよモトローラは、今年10月14日、T-Mobileから「Cliq(クリック)」というアンドロイド機を発表するに至るのです。(「Cliq」はアンドロイド1.5搭載機で、実際の発売は11月2日から。アメリカ以外の市場では、「DEXT(デクスト)」というネーミングになります。)
9月号でもお知らせしていますが、外観は、同じくT-Mobileが販売するアンドロイド一号機のHTC「G1」によく似ていて、タッチ画面がパカッとスライドして、キーボードが出てくる仕掛けになっています。(7年前にDanger社開発のSidekickを発売して以来、T-Mobileは、このスタイルがいたくお好みのようです。)
けれども、初代「G1」に比べて、一年間の進化の過程を経ているだけのことはありまして、こちらには「Motoblur(モトブラー)」という名のモトローラ一押しの新機能が載っています。新しいメールやメッセージが舞い込んだら、逐一知らせてくれるし、ソーシャルネットワーキングサイトや「つぶやきサイト」のトゥイッター(Twitter)に新しい書き込みがあれば、やはり瞬時に把握できる。そんな人とのコミュニケーションを大切にする、若いユーザ層向けの機能です。
T-Mobileがおもにティーンや20代の獲得に力を注いでいることを考えると、このモトローラ「Cliq」の発売は、キャリアの路線にぴったりと合っているのでしょう。
 


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モトローラが手がけたのは、「Cliq」だけではありません。いよいよ携帯キャリアの大御所Verizon Wirelessが、モトローラ製「Droid(ドロイド)」を発売しました。
こちらは、「Sholes(ショールズ)」という開発名で知られていたアンドロイド2.0搭載機ですが(9月号でも「Sholes」とご紹介)、11月6日、鳴り物入りでVerizonから登場したときには、新しい名称に変身しておりました。
いうまでもなく、「Droid」とは、映画『スターウォーズ』に出てくるロボットたちのことでして、R2-D2とかC-3POとか、賢いロボットたちにあやかりたいという名前なのでしょうか。「ドロイド」という言葉は、制作会社ルーカスフィルムのトレードマークとして登録されているので、Verizonはこの名前を借りるだけで、使用料をたくさん払っているようです。

いえ、最初「Droid」には、いやな印象しかなかったんですよ。なぜって、発売翌日の土曜日にふらっと近所のVerizonショップに行ってみると、いきなりデモ機が壊れているんです。なんでも、2日間、みんなが好きなだけ触ったので、充電器が壊れてパワーが入れられなくなったとか。でも、たった2日ですよ!
しかも、指紋で薄汚れたデモ機を手に取ってみると、まるでモックアップ(店頭用の筐体だけのデモ機)みたいにペラペラした印象だし、薄くてすぐに壊れそうだし、とても売れるような代物には見えなかったのでした。
 


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けれども、動く実物は違います。べつにモトローラの肩を持つわけではありませんが、なぜだか、手に取ると、ずしりとした重厚感があるし、薄さも、壊れそうな印象というよりも、ちょうどいい薄さでクールな感じなのです。
ついでに、クールといえば、新しいメールが到着したりすると、ロボットのような声で「Droid!」と知らせてくれることでしょうか。それに、画面の下にある「ホーム」や「メニュー」ボタンを押すと、ビリッとした感触があって、なんとなくかっこいいのです。(トゥイッターのアプリケーションを入れると、誰かが書き込みをするたびに、パタパタと羽音がするのですが、こちらはあんまりクールじゃないですね。)
 


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アップルさまのiPhoneと比べてみると、ほんのちょっと長くて厚い感じですが、大きさはほぼ同じです。画面は、「Droid」の方が少々縦長ですが、サイズとしては同等です。そして、「ずしりとした重厚感がある」と感じたことだけのことはあって、「Droid」の方が若干重いです。なにせ、こちらには、画面をスライドするとキーボードが付いていますからね。
それから、解像度は「Droid」の方がよろしいので、地図の検索やビデオ鑑賞にも十分に耐えられるでしょう。カメラは5メガピクセルで、iPhone(「3GS」で3メガピクセル)を超えています。それに、物理的なキーボードが付いてこれだけ薄くまとめてあるというのは、なかなか良くできたものだとも思うのです。

機能的には、今までのアンドロイド機よりもユーザインターフェースが改良されていて、たとえば会社のメールの設定なども簡単にできるようになっています。複数のアプリケーションを同時に走らせるという、iPhoneにはできない技も持っています。ウェブアクセスも驚くほど速いですし、全体的に使い勝手はグンと向上しています。


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使い勝手といえば、「Droid」の売りは音声検索(search by voice)にもあるのですが、たとえばグーグルの検索ページでは声で検索項目を入れることもできるのです。英語の発音があまり上手でない人の単語だってちゃんと認識していたので、今の音声認識の技術とはすごいものだと感心してしまいました。
この音声検索は、いろんなシチュエーションで便利なようでして、たとえば「イタリアンレストラン」と声で検索すれば、近くにあるイタリアンレストランを地図上でさっと示してくれるのです。当然のことながらGPS機能が付いていますので、現在位置はかなりの正確さで把握しているのです。(韓国では、このようなロケーションベースのサービス認可を取るのが遅れて、iPhoneの発売が今月まで延びていたようですね。)
 


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このGPS機能を生かした目玉アプリケーションには、リアルタイムのルートナビゲーションがあります。トップ画面のGoogle Mapsに「ナビゲーション(Navigation)」というメニューがあって、ここで目的地を入力すると、現在地から目的地まで声でルート案内をしてくれるのです。
このルートナビゲーション(turn-by-turn navigation)は、もちろん他機種でも画面で見ることはできますが、「Droid」は音声で細やかに案内してくれるところが、アメリカ市場での画期的な機能となっているのです。(日本では、もう何年も前から可能なことでしょうけれど。)
 


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ところで、「Droid」を裏側から見ると、まるで超薄型デジカメみたいな感じがするのですが、やはりドロイド(ロボット)というだけのことはあって、「この機械はいったい何をしてくれるのだろう?」と、期待感とともに、謎めいた印象もあるのです。
まあ、「謎めいた印象」の中には、あまりに賢くて使いこなすまでに苦労するという含みもあるわけですが、そんな「Droid」をひとことで表現すると「なかなかいいんじゃない?」といったところでしょうか。

というわけで、この「なかなかいいDroid」の登場で、アンドロイドOSは成功するのでしょうか?
その鍵を握る要因のひとつが、アプリケーションでしょう。一説によると、アンドロイドの各種アプリケーションは、その数1万2千にも膨れ上がっているそうですが、10万とも言われるiPhoneのアプリケーションには、まだまだ遠く及びません。けれども、近頃の注目度を考えると、アンドロイドファンの開発者が増えるのは、時間の問題かもしれません。
そして、もうひとつの要因は、ハードウェア。魅力的な端末がなければ、OSとして伸びてはいきません。しかも、大前提は2年契約で200ドル近辺という値段。最初の一週間で25万台売れたという「Droid」は、十分にヒット作となる素地はありますが、これ一機でポシャるわけにはいかないのです。
現在、端末メーカー各社が新作にしのぎを削っているようですが、「Droid」を超える後続に期待したいところです。

調査会社Gartnerは、5年のうちに、アンドロイドはスマートフォンOSの2割のシェアを獲得すると予測していますが、この予測が当たるも当たらぬも、それはひとえにアンドロイドのエコシステム(生態系)としての成長にかかっているのです。

 
<スマートフォン進化論>
モトローラの最新のアンドロイド機「Droid」は、今、モバイル市場で一番注目を集める、スマートフォン分野の新星となりますね。2年前、アップルさまがiPhoneを発売して以来、モバイル文化では立ち後れたアメリカでも、スマートフォンという言葉は猫も杓子も語るようになっています。
 


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そういえば、あのときはびっくりしましたね。2007年6月29日、初代iPhoneが世にデビューしたとき。
何がびっくりって、アップルショップでiPhoneを買って来たのはいいものの、いったいどうやって初期設定するのか謎のままではありませんか。これを提供キャリアのAT&T Mobilityショップに持って行くのかと、いろんなことを考えたものの、結局、iPhoneをパソコンに繋げて、パソコンに最新のiTunes(アイチューン)をダウンロードして、そこからすべてがオンラインで登録されるシステムになっていたわけですものね。もちろん、AT&Tの処理が済んで、お知らせメールが送られてくるまでは、自分の電話番号だってわからなかったのです。
携帯電話のくせに、パソコンに繋げなければ使うことができない、そんな不思議な機械でした。

この初代iPhoneの初期設定が体現するように、多くのアメリカ人にとって、パソコンとかマックといったコンピュータは子供の頃から慣れ親しんだものでして、それを小さくしたものが、PDA(Personal Digital Assistance)と呼ばれる携帯情報端末でした。


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今となっては、PDAと言われても「それって何?」と首をかしげる若い方も多いわけですが、要するに、パソコンに入れていた情報(スケジュール、顧客の住所録、売り上げ計算、プレゼンテーション資料など)を持ち歩きたい欲求から、パソコンの小型化が試みられ、次々とPDAの新機種が生まれました。かの有名なパーム(Palm)・パイロットやシャープ・ザウルスを始めとする、華々しい「PDA文化」の到来です。
すると、やっぱりPDAにも通信が必要でしょうという話になって、PDAに電話機能を付け始めたわけですが、ここに二つの流れがあって、PDAに電話をプラスする陣営と、携帯電話にPDA機能を付加する陣営に分かれました。

まあ、世の中の趨勢(すうせい)は、「何でも速く、小さく、より高性能に」ですから、結局のところ「小型化」という点では、どちらの陣営も勝ち目はあったわけです。


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ところが、北米市場においては、勝者はひょんな所から登場するのです。両陣営が必ずしも重要視していなかった「メール」の分野から、勝者が現れたのです。そう、ご察しの通り、ブラックベリー(BlackBerry) 端末で有名な、カナダのリサーチ・イン・モーション(Research In Motion)です。もともとは、双方向通信のポケベルを作っていた会社です。
日本では馴染みは薄いものの、ブラックベリー端末といえば、アメリカのビジネス界や政界の誰もが愛用しているようなメール端末です。個人的なメールではなく、大事な仕事のメールを四六時中やり取りするのに重宝されました。やはり、アメリカはメール文化ですから、オフィスを離れてメールができないと、みなさんパニックに落ち入るのです(写真は、今のような縦型のブラックベリー端末としては初代機)。
そのうちに自然の流れとして電話機能も付加されたこともあって、しっかりとキーボードの付いたブラックベリー機は、ある種のスマートフォンとして、不動の地位を築くのです。
 


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もちろん、いくら北米市場でメール端末が重宝されていたからって、市場がブラックベリーに独占されていたわけではありません。たとえば、マイクロソフトだって、Windows Mobile(ウィンドウズ・モバイル)というスマートフォンOSを作り、日本の端末メーカー各社や台湾のHTC、韓国のサムスン、アメリカのHPと、さまざまなハードウェアメーカーをリクルートしておりました。
こちらの写真はほんの一例ですが、左側は中国・上海のWindows Mobileメーカー、Dopod(ドゥーポッド)のモデル818。のちにDopodは、HTCに吸収合併されています。
そして、右側はパーム初のWindows Mobile搭載機、Treo 700wです。パームは、今年6月6日、社運を懸けた新製品「Pre(プリー)」を市場に投入しておりますので、これからはWindows Mobile路線は捨て去り、自社開発のwebOSに全精力をつぎ込むようです。
 


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そして、北米市場では伸び悩んではおりますが、やはり世界市場でのスマートフォンOSの王様といえば、Symbian(シンビアン)。現時点では、世界のスマートフォンOSの約50パーセントを占めています。
代表的なメーカーとしては、世界最大の携帯端末メーカーであるフィンランドのノキアがありますが、こちらはS60というフレーバーのSymbian搭載機となっています。
左から、コンパクトな702NK IIとN95、ビジネスユーザ向けのE71とE61です。N95(日本名X02NK)以外は日本仕様モデルですが、E71は日本市場では未発表に終わりましたので、幻の機種でしょうか。

話はちょっと脱線しますけれど、欧米のモバイル市場が混沌とした状態の頃、日本にはすでに「iモード」という画期的なサービスがありましたので、国外のスマートフォンの進化とは無関係な市場ができあがっていたわけですね。
このiモードサービスが始まった1999年2月というと、アメリカはいまだケータイ黎明期にあったわけですが、日本では、瞬く間にケータイユーザの全員にメールやコンテンツというおしゃれな機能が浸透してしまいました。
サービス開始の直前、わたしもNTTドコモに夏野剛氏を訪ねたことがありましたが、シリコンバレーのネットワーク製品を売り込みに行ったこちら側は、夏野氏が披露するiモード構想の壮大さに、口をあんぐりと開けて戻って来ました。「やっぱり、日本はスゴい!」と。

今となっては、日本で「メール」というと、ケータイメールを指す場合が多いわけですが、そこまで成功したiモードサービスがどうして海外では受け入れられなかったかというと、それはひとえに海外の携帯キャリアの事情によるのです。
海外のキャリアは、すでにSMS(ショートメッセージサービス、別名テキストメッセージ)から莫大な利益を得るビジネス構造になっていて、もしiモードのメールが主流になったら、自分たちの金庫が干上がってしまうので、メール機能には本格的に着手したくなかった。
まあ、メールのないiモードなんて骨抜きもいいところですので、欧州を中心に海外で展開した国際iモードサービスも風前の灯となってしまいました。
そんなこんなで、iモードのような至れり尽くせりのサービスが浸透しなかった海外では、データサービスに加入するユーザも伸び悩み、ケータイ文化そのものが停滞した背景があるのです。

すっかり話がそれてしまいましたが、北米市場の元祖スマートフォンメーカーであるリサーチ・イン・モーションの大成功を横目でにらんでいたのが、他でもない、シリコンバレーのアップルさまです。アップルさまには、iPod(アイポッド)という携帯音楽プレーヤーの貴重な経験もあり、スマートフォンだってその延長線上にとらえていました。
それに、すでにアップルさまには、iTunesという音楽やビデオを売るマーケットがありました。これをスマートフォンのアプリケーションの紹介の場とすれば、誰もが無理なく、欲しいものを売り買いできる交換の輪ができ上がります。


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そして、ご説明するまでもなく、2年前、満を持して登場したiPhoneは、世の中の携帯電話に対する考えをガラリと変えてしまいました。電話というよりも、何かをするプラットフォーム、そういったスマートフォンのパラダイムができあがったのです。(写真は、初代iPhoneの発売当日、パロアルトのアップルショップにて一番乗りでiPhoneをゲットした男の子。)

現在、このスマートフォン分野では、アップルさまの「iPhone 3GS」を始めとして、リサーチ・イン・モーションの人気モデル「Curve(カーヴ)」やタッチスクリーン方式の「Storm(ストーム)」「Storm 2」、そして、久方ぶりのパームの新製品「Pre(プリー)」や弟分の「Pixi(ピクシー)」と、きらびやかな機種で賑々しくなっています。

そこに登場したのが、アンドロイド搭載機。第一話でもご紹介したように、HTC製の「G1」「myTouch 3G」「Hero」に引き続き、いよいよ大御所モトローラが「Cliq(クリック)」と「Droid(ドロイド)」を発表しています。
そして、「Droid」を引っさげ、アンドロイド界に突入した米キャリア最大手のVerizon Wirelessは、商売敵であるAT&T Mobility (iPhoneの独占提供キャリア)に宣戦布告しています。どうだ、iPhoneのできないことを俺たちはできるんだぞと。
 


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いえ、まさに宣戦布告という言葉が適切に感じるくらいのVerizonの挑みようなのです。
たとえば、「Droid」発売直前の新聞広告。ちょうど発売一週間前に掲載された一面広告ですが、こんなことを書いてあります。
「iDon’t customize. iDon’t have interchangeable batteries. iDon’t run simultaneous apps. iDon’t allow open development. / Everything iDon’t, DROID DOES 11.06.09」
(僕はカスタマイズできない。僕は電池の交換ができない。僕は同時に複数のアプリケーションを走らせられない。僕はオープンな開発を認めていない。/僕ができないすべてのことを、ドロイドはできる。2009年11月6日に乞うご期待)

いうまでもなく、iDon’tというのはiPhoneをもじったパロディーではありますが、この広告文には「打倒 iPhone!」という意志が強く表れているではありませんか。

そして、実際に「Droid」がお目見えすると、宣伝攻勢はさらに激化するのです。テレビのコマーシャルは、まるでサイエンスフィクション映画のような懲りようだし、そんな派手なコマーシャルも時とともに変化し、「Droid」の名が知れ渡った今は、もっぱら目新しい機能の紹介に向けられるという、念の入れようです。
iPhoneのコマーシャルもそうですが、やはり端末が高機能になればなるほど、メディアで宣伝してくれないと見つけられないような便利な機能も出てきますから、宣伝のシナリオも長い目で描かなければなりません。そして、懐が暖かいVerizonには、そんなことは朝飯前なのです。

そんなこんなで、いよいよ火ぶたが切られたアンドロイド戦争。iPhoneをかつぐAT&T 対 Verizon、Sprint、T-Mobileのアンドロイド陣営の戦い。

何年か経ってみると、世のスマートフォンはこの2つのプラットフォームに集約されているのでしょうか?

夏来 潤(なつき じゅん)

 

I’m so sorry(ほんとにごめんなさい)

あんまり穏やかなお題目ではありませんが、I’m so sorry.
 なんとなく、心が霧でモヤモヤしたときに使います。

これは、ご説明するまでもなく「ほんとにすみませんでした」という意味ですね。

I’m sorry という謝りの慣用句が、so という語句で強まった形になっています。つまり、「申し訳なく思う」という形容詞の sorryso という副詞が強調していて、「とっても申し訳なく思っております」といった感じになりますね。

この so という副詞は、とても便利な言葉でして、形容詞を強調するのには好んで使われます。

たとえば、I’m so tired. 「わたしとっても疲れちゃったわ」

I’m so hungry. 「わたしものすごくお腹が空いてるの」

She’s so smart. 「彼女ってとっても頭いいわよねぇ」

(注: 英語で smart というと、日本語の「スマート」という意味ではなくて、「頭が切れる」という意味になります。)

それから、こんな風に動詞を強調する使い方もありますね。

I’m so not going there. 「あそこには、わたし絶対に行かないわ」

こちらの使い方は、ずいぶんとくだけた口語的な表現になりますので、おもにティーンエージャーが使うようでして、大人はあんまり使わないでしょう。

いずれにしても、形容詞を強調する場合も動詞を強調する場合も、so という部分はちょっと大袈裟に発音すべきものですね。
 ですから、so の部分の語気を強めたり、ちょっと音程を高くしたり、「ソー」と長めに発音したりと、いろいろとトリックが必要になってくるのです。

ちなみに、I’m really hungry と、so の代わりに really を使うケースもあります。けれども、so の方が、より口語的なくだけた感じで、より強調された感じがするでしょうか。

(まあ、really の場合でも、I’m really, really hungry などと、何回か really を続けて、ニュアンスを強める表現もありますね。)


というわけで、I’m so sorry. 「ほんとにごめんなさい」

今回は、いったいどこから書くヒントを得たかというと、ある高校の先生が新聞の投書欄で I’m so sorry と謝っていて、この先生って勇気あるなぁと感心したからなのでした。こちらの先生は、高校生にスピーチの指導をしている方でした。

アメリカでは、みんなの前で行うスピーチ(speech)や討論(debate)がかなり重要視されておりまして、高校生ともなると、かなり本格的なスピーチコンテストが開かれます。

やはり、文化的に「自分のことは自分で守る」というような個人主義が発達していますので、自分の意見ははっきりと建設的に述べ、相手のことも同様にしっかりと聞く、そして必要とあらば筋道を立てて反論する、というような訓練が子供の頃からなされるのです。学校の授業でも、自分の意見を述べ、クラスに積極的に参加しているか(class participation)を評価されたりしますからね。

こういう風に自分自身の意見をまとめて述べる「弁論術」は、Forensics と呼ばれていて、全米には弁論術協会がいくつか存在します。そして、協会が主催する高校生や大学生のスピーチコンテストが各地で開かれ、予選コンテストでの優秀者は、全米大会への出場権を獲得という名誉を受けるのです。

とは言っても、高校生のようなティーンエージャーの間では、やはりスポーツに秀でる活発な子たちが人気が高く、弁論術を磨くような子たちは、「頭でっかちな nerd(ナード)」だとか「変人っぽい freak(フリーク)」だとか「ちょっと風変わりな、おたくっぽい geek(ギーク)」だとか、からかわれることもあるのです。

そして、先日シリコンバレーで開かれたスピーチコンテストを地元紙が取材したとき、取材を受けた高校の先生が、コンテストに出場した子たちを freaksgeeks などと表現してしまったのですね。
 きっと、あとで記事になった文章を読んで、「自分は何と無神経な表現を使ったのだろう」と反省したのでしょう。さっそく先生は、掲載紙に謝罪文を投稿したのです。

「このようなわたしたちの地道な活動が、ともすると学校にとけ込めない子供たちにどれほど役に立っているかを示す代わりに、わたしは人を傷つけるようなステレオタイプ(固定概念、紋切り型の表現)を使って、何千人というティーンエージャーをはずかしめてしまいました。」

This error is mine alone. (この過ちの責任は、わたしひとりが負うものです。)

I apologize to all educators, parents, and particularly students who participate in speech and debate. (わたしは、すべての教育者や保護者、そして、とくにスピーチや討論に参加した生徒たちに謝りたいです。)

I’m so sorry, and I beg your forgiveness. (ほんとに申し訳なく思っておりますし、あなた方の許しを請いたいです。)


なんだか、とっても大袈裟な謝罪に感じますけれども、この弁論コンテストのスピーチ(forensic speech)というのは、自分で好きな話題について調査したり、長い時間をかけて考え抜いたりした内容を8分から10分にまとめ、みんなの前で身振り手振りを添えながらしっかりと表現する、という大人顔負けのものなのです。
 それに、ノートを見てはいけないので、最初から最後までちゃんと覚えなければなりません。緊張してしまったら頭の中が真っ白になるでしょうから、スピーチを覚えるのだけだって、かなりの試練ではないでしょうか。

そんな難関をくぐり抜けて、見事にみんなの前でスピーチした子供たちを、freaks だとか geeks だとかと妙なレッテルを貼ってはいけませんよね。

わたしも最初に記事を読んだときには、これは教育者として適切な表現じゃないでしょうとも思ったんですよ。でも、自分が悪いと気が付いて、あとでちゃんと謝っているところに、教育者としての人格を感じましたね。

そして、教育者であろうと何であろうと、やっぱり謝るべきときには、素直に謝るべきだなぁと思ったことでした。


実は、わたしもごく最近、I’m so sorry とある人に謝ったばかりだったのです。

わたしの場合は、かなり失礼なメールを送ってしまって、次に会ったときには、あちら様が「ぶっきらぼう」になっていたのでした。「もう、どうでもいいや!」みたいな。

そのあと原因(失礼なメール)に思い当たったとき、どうやって謝ろうかと2日ほど悩んだのですが、結局、一番ストレートな表現を選びました。

I have to apologize to you because I was so rude to you in my e-mail the other day. I’m so sorry.

(わたしはあなたに謝らなければならないの。だって、先日のメールでとっても失礼だったから。ほんとにごめんなさい。)

すると、あちら様のわだかまりも、氷が溶けるようになくなっていくのを感じたのでした。

タイムカプセル

ちょっと気取った題名ではありますが、まったく他愛もないお話です。

改築中の我が家のバスルームもようやく完成し、今は、性懲りもなく、もうひとつトイレルームまでやってしまうことになりました。

この新しいチャンスの到来に、我が家を担当するデザイナーなんかは、真っ白なキャンバスを目の前にした絵描きさんみたいに、いったい何を描こうかとウキウキとしておりました。

壁を真っ赤に塗ったらどうかという連れ合いに同調して、Chinese Red(ちょっとオレンジがかった赤)に塗りましょう! と提案してくれたのですが、さすがにそれはご辞退申し上げて、ほんのりオトナの雰囲気の若草色にいたしました。

だって、四方が真っ赤な部屋なんて、落ち着かないでしょう。


今回は狭い空間ですし、シャワーに比べると部品が少ないので、簡単なリフォームではありますが、それなりに洗面台をどうしようかとか、蛇口をどうしようかとか、悩ましい点もいくつかありますね。

結局、洗面台の台は作ってもらうことになったので、完成まで少々「お預け状態」になっておりますが、今朝は、さっそく注文していた照明器具が届きました。

ごくシンプルに! をモットーに、これといって飾り気のない照明ではありますが、この照明会社からの届け物に、思わずほほえんでしまったのでした。

何がほほえましいかって、まるで家族経営のお店が何かを送って来たみたいに、新聞紙の詰め物がしてあったのです。しかも、あふれんばかりに箱いっぱいに。

だって、ちゃんとした照明の専門会社ですよ。普通、商品を外箱に詰めたら、中身が動かないように専用の梱包材を使うでしょう。たとえば、あのプチプチとしたイボのある透明な梱包材とか。

そんなことを思いながら、クシャクシャになった新聞の束を広げてみると、それが見たこともない新聞だったんですよ。
 最初に出て来たスポーツ欄には、sgvtribune.com なんて書いてあるのですが、「トリビューン(Tribune)」といっても、SGV はシカゴ(Chicago)ではなさそうだし、いったいどこの街のトリビューン紙なのか、さっぱりわかりませんでした。

さらにガサゴソとやっていると、新聞の第一面が出て来たので、ようやく SGV というのが San Gabriel Valley(サンガブリエル・バレー)を意味することがわかりました。

なんでも、サンガブリエル・バレーというのは、ロスアンジェルス市の東に位置する谷間のことだそうで、華やかな元日のローズ・ボウル・パレード(大学フットボールの試合の前に行われるパレード)で有名なパサディナ市などがある場所だそうです。

もちろん、同じカリフォルニア内の話ではありますが、わたしは南のことはよくわからないので、まったく初めて聞いた土地の名だったのでした。


というわけで、サンガブリエル・バレー・トリビューン紙の全体を修復してみると、おもしろいことに気が付きました。今はもう11月なのに、なぜか7月1日付の新聞が使われているんです。

そう、まだ暑さが盛りの夏の一日。今日の最高気温は華氏86度(摂氏30度)などと書いてあります。

そんな新聞紙を眺めていると、ちょっとしたタイムカプセルを開けてみたような気分になったのでした。

7月1日というと、4日の独立記念日を控えウキウキとした輝く季節ではありますが、どうやらその頃は、ちょっと前に亡くなったマイケル・ジャクソンさんの死因について、いろいろと取り沙汰されていたようですね。
 栄養士の人が、ジャクソンさんに鎮静剤の使用について忠告していたという記事が載っています。

それから、こんな政治の出来事も報道されています。ミネソタ州で行われた連邦上院議員戦では、8ヶ月のすったもんだの末、ようやく決着がついたと。

以前、「サタデーナイト・ライヴ(Saturday Night Live)」という深夜コメディー番組に出演していた、元コメディアンのアル・フランケン氏(民主党)が、票の数え直しの結果、わずか312票の僅差で、共和党の現職候補ノーム・コールマン氏を破ったことが確定したのです。

どうしてこれがカリフォルニアでも大きく報道されていたかというと、これは単にミネソタ州だけの問題ではなくて、世の中の大きな関心事だったのですね。
 なぜなら、この一議席が民主党(オバマ大統領の所属党)に傾くと、連邦上院(U. S. Senate)の100議席のうち、60議席が民主党と民主党系の無所属で占められることになるからなのです。

もし上院で60議席を獲得するとなると、法案を通すときには、対立する党の議事妨害(filibuster)などのさまざまな障害を乗り越え、絶対的な強みを持つことになる。60人が一丸となって投票すれば、自分たちの提出した法案も、難なく可決することになるのです。

ですから、最後の一議席であるミネソタ州を民主党が死守するのか、それとも共和党が一矢(いっし)を報いるのかと、アメリカ中が固唾を呑んで見守っていたのですね。
 そして、フランケン氏の議席は、民主党とお仲間にとって、めでたく60議席目となったというわけなのです。

オバマ大統領は、まだまだ人気は高いものの、内政的にはかなりの窮地に立たされているといってもいいでしょう。なかなか回復しない景気と失業率。そして、とくに医療保険制度の改革案は、多くの国民や共和党議員から激しい反対にあって、ほんの一議席の助けでも欲しいというのが苦しい実情なのですね。

ですから、フランケン上院議員の誕生は、民主党にとっては、とりあえずは喜ぶべきことだったというわけなのです。
(実際の法案通過には、上院だけではなくて、下院の審議も必要ですので、医療改革案の可決は決して単純な話ではありません。現時点では、下院では可決したものの、上院では民主党派60人の中に亀裂が生まれ、審議開始に遅れが出るという思わぬ展開になっています。)


さて、7月のロスアンジェルス界隈の新聞を見つけて、思わずタイムカプセル気分になってしまったわけですが、先日、こんなおもしろい話も耳にいたしました。

我が家を担当するデザイナーは、以前ニューヨークに住んでいたのですが、結婚して初めて住んだ家に、こんな「仕掛け」をしたんだそうです。

リビングルームの壁の中に、自分と夫の写真と、そのとき使っていた携帯電話を埋め込んだのだと。

その携帯電話というのは、ちょうどこんなものでして、アメリカで一番大きな携帯電話メーカーのモトローラ(Motorola)が、1989年に初めて出したものなのです。てのひらに収まるサイズだし、話をする部分(マウスピース)がパカッと開くおしゃれなデザインだし、当時としては画期的な携帯電話だったんですよ。

写真は「MicroTAC Lite」というシリーズで、最初に出たのは1991年のようですが、こちらの写真の機種は昔式のアナログではなくデジタル通信(!)なので、実際に市場に出てきたのは、1994年頃のようです。

我が家でも、1996年か1997年までは、これを使っていましたよ。充電器はバカでかくて、机の上にドカッと置くタイプでしたけれども、その頃、携帯電話なんて持っている人も少なかったので、ちょっとした「エリート気分」でしたよね。

我が家のデザイナーがどのモデルを使っていたかは定かではありませんが、少なくとも、1996年頃の話だと言っていたので、きっと写真のような機種だったのではないかと思います。

彼女にとっては初めて手にした携帯電話でしたので、記念に壁の中に埋めておいて、あとで誰かが発見してくれるのを密かに願っていたようです。ちょっと自慢もあったのでしょうけれど、「え~、昔はこんなのを使ってたんだ!」と、驚いても欲しかった。

それと同時に、この家にはこんなカップルが住んでいたんだよと、写真の置き手紙もしておいたのでした。

名前も書かれていないので、写真だけでは身元はわからないし、今はどこの州に住んでいるのかさえわからないし、後世の人が、彼らが何者であったかを知るすべはありません。
 それでも、家をリフォームしようと壁を壊したら、過去のメッセージが出てきたなんて、ちょっとロマンティックではありませんか?

アメリカの古い家って、結構そんな実話があるんですよ。意識的に何かを残したかどうかは別として、屋根裏や壁の中や隠し扉の中には、過去のメッセージがいっぱい詰まっていることがあるみたいです。
 何代も使っていた家具の裏から、先祖が使っていた櫛(くし)が出てきたとか、屋根裏でホコリをかぶっていた保管箱から、最初に家を建てた人の日記が出てきたとか、タイムカプセルに出会う機会は案外たくさんあるようです。

デザイナーの携帯電話の話を聞いたのは、我が家のバスルームが出来上がった後だったので、「もうちょっと早く聞いていれば良かった!」と、少々残念に思ったのでした。

次回、壁を壊すときには、いったい何を埋めようかなと、思いを巡らしてみたのでした。

政治のこぼれ話: タイムカプセルからは話が少々ずれてしまいますが、上院の100議席という話題が出てきたので、ちょっと議員数のご説明をしておきましょうか。
 連邦上院議員は、全米50州(首都ワシントンD.C.を除く)から2人ずつ選出するので、全部で100人になるというわけです。上院議員の任期は6年ですが、2年ごとに3分の1ずつ入れ替えていくというシステムになっていて、偶数年に入れ替え選挙が行われます。
 ちなみに、連邦下院の定員は435人で、任期は2年です。議席数は、州の人口に応じて割り振られていて、偶数年に選挙が行われます。

上記のミネソタ州のケースでは、上院2議席のうち1議席が昨年11月の選挙の日(オバマ大統領が選ばれた日)に入れ替え投票となったわけですが、カリフォルニア州の場合は、来年(2010年)11月に1議席が入れ替え選挙となります。
 カリフォルニアは、現在、2議席ともベテラン女性議員(民主党所属)となっていますが、来年は現職バーバラ・ボクサー議員の共和党の対抗馬として、HP(ヒューレットパッカード)の元最高経営責任者カーリー・フィオリナ氏も名乗りを上げています。
 彼女は、シリコンバレーで大企業を経営した手腕を強調していくようではありますが、彼女の在任中、業績はあまりかんばしくなかったので、個人的には必ずしも「強み」にはならないのではないかと踏んでいます。

ところで、来年の11月には、カリフォルニア州知事選挙も行われますが、現職のシュウォルツェネッガー知事(共和党)は任期切れ(2期まで)で立候補できないので、その跡継ぎとして、やはりシリコンバレーの元経営者メグ・ホイットマン氏が名乗りを上げています。
 彼女は、日本からは撤退したオークションサイト、イーベイ(eBay)の最高経営責任者ではありましたが、彼女の場合も在任中あまりかんばしい業績ではなかったので、その経営手腕が吉と出るか凶と出るかは定かではありません。

それに、フィオリナ氏もホイットマン氏も、シリコンバレーでは知られていても、南カリフォルニアでは無名に近いのかもしれませんね。

Drink responsively(責任を持って飲んでください)

お久しぶりの英語のお話となりますが、いきなり、おっと! といった題名です。

Drink responsively.

これは、とても単純な命令の構文ですね。

つまり、「責任を持って飲みなさい」。

Drink は、「(何かを)飲む」という動詞。そして、responsively という副詞は、「(まわりの環境に)敏感に反応しながら」という意味があります。

通常、Drink responsively という表現は、お酒に対して使われるものなのです。自動詞 drink には、「お酒を飲む」という意味もありますから。

ですから、「前後不覚にならないように、お酒の飲み過ぎには注意しなさい」といった含みがあるのです。だって、喉ごしがいいと、ついついクイっとやってしまいますものね。

まあ、アメリカで Drink responsively と聞くと、「飲み過ぎには注意してください」とテレビコマーシャルで警告を発する、スミノフ・ウォッカ(Smirnoff Vodka)なんかを思い浮かべるでしょうか。

若い人たちを相手に大々的にお酒を宣伝しておいて、いったい何を言ってるの? とも思ってしまうのですが、実は、このお話を書こうと思ったきっかけは他にあるのです。

それは、Drink responsively という表現がまったく違った意味で使われていて、「おや、珍しい!」と、ご紹介したくなったからでした。


先日、大好きなコーヒー屋さんの豆のパッケージが一新されていて、袋の上部には「Drink me(わたしを飲んでちょうだい)」などと、かわいく書いてあります。

そして、裏側には、こんなに恐~い但し書きがしてあったのでした。

Drink responsibly: Enjoy this coffee within 14 days

「責任を持って飲むこと。このコーヒーは14日以内に楽しむべし。」

こちらのコーヒー屋さんは、シリコンバレーで一押しのコーヒー専門店でして、その名も「ベアフット・コーヒー・ロースターズ(Barefoot Coffee Roasters)」。

訳して、「裸足(はだし)の自家焙煎屋」。

想像するに、「Barefoot」なるネーミングは、裸足に近いような、気取らない姿で作業をする世界各国のコーヒー農家と、裸足で自由に野原を闊歩する野生児といったイメージを打ち出しているのではないでしょうか。
 どうして「野生児」なのかって、お店には、なんとなくヒッピーの雰囲気が漂っているから。

とくに偉ぶった様子もなく、淡々と世界各地の個人農家からコーヒーを調達して来ては、納得のいくまで手間ひまかけて焙煎する。だから、自分たちの豆は自信を持ってお勧めできるので、これを飲むときには、どうか責任を持って飲んで欲しい。

Drink responsively という但し書きには、そんな提供者の願いが込められているのでしょう。それに、焙煎したあと2週間以上も放っておくなんて、それは作り手にも失礼になりますものね。


というわけで、ついでにコーヒーの味を表現する言葉をちょっとご紹介いたしましょうか。

こちらは、エル・サルバドールのアフアチャパン地区アパネカという街にある、サンノゼ農園のコーヒー豆。
 品種(varietal)は、「レッド・ブルボン(Red Bourbon)」と呼ばれるアラビカ種で、マダガスカル島の東に浮かぶブルボン島(現レユニオン島)が原産地なんだそうです。

レッド・ブルボンは、今となっては、世界で生産されるコーヒー豆でもっともポピュラーな品種のひとつだそうですが、おもに1000メートル以上の高地で栽培されるので、中米グアテマラやエル・サルバドールの農園で好んで栽培されているようです。

こちらの豆の特徴は、バターたっぷりの香ばしい飴「バタースコッチ(butterscotch)」の甘みと、柑橘系の酸味。その辺のところを、コーヒー屋さんはこんな風に表現しています。

Tropical butterscotch. Hints of clover honey, with sweet green grapes and citrus and just the suggestion of ruby red grapefruit. The flavor and texture of raw sugar with butterscotch candy throughout.

トロピカルなバタースコッチ。かすかなクローバーの蜂蜜の甘みと、甘い緑のぶどうと柑橘の(甘酸っぱさ)に、ちょっとしたルビーレッド・グレープフルーツの甘みも加わる。全体的に、粗糖やバタースコッチキャンディーの香りと舌触りが広がる。
(粗糖というのは、糖蜜を完全に分離しきっていないので、コクの強いお砂糖となります。)

まあ、なんとも、複雑怪奇な表現ではありますが、コーヒーもワインと同様、いろんな「うんちく」を並べるのが流儀となっているのですね。

それでも、偉そうに難しい言葉を並べているのではなくて、わたし自身も、書いてある通りだと思うのですよ。
 バタースコッチキャンディーのように甘みがあって、砂糖をカラメル状にこがしたような香ばしさがある。

それから、コーヒーには大切な酸味(acidity)。柑橘系(citrus)の酸味は、グアテマラやニカラグアの豆でもよく出ていますけれども、このエル・サルバドールの豆でも十分に楽しむことができるのです。

いそいそと買って来て最初に飲んでみたとき、こう思ったものでした。「あ、ほんとにバタースコッチだ!」

そして、甘みがかなり強いので、牛乳の甘みは合わないかもしれないなぁと。


なんとなくコーヒーを語ってしまいましたが、中米産の豆が大好きなわたしとしましては、ベアフット・コーヒーというお店は、なくてはならない存在なのです。

中南米産に限らず、ここではアフリカのケニアやタンザニアやエチオピア、そしてルワンダのコーヒーも手に入ったりするのですが、やはり基本は、個人経営の小さな農園。
 環境に配慮して、動物や鳥たちとともに自然と同化しながら、じっくりと豆を育てる。そして、雇われる労働者も共同経営者として運営に参画している。
 そんな意識の高い農園が、こちらのコーヒー屋さんの取引先となっているのです。

巷には、コーヒーのチェーン店があふれかえり、街角ごとに緑色のロゴを見かけたりいたします。昨年の「金融ショック」以来、ちょっと遠のいていた客たちも、近頃はまたこの緑の看板を目指して戻って来ているみたいですね。

でも、やっぱり自分には「裸足のコーヒー」だなぁと、頑固に通い続けているのです。

そして、このお店を教えてくれた友達には、足を向けては寝られないのです。

シリコンバレーにお越しの際は、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。場所は、シリコンバレーのど真ん中、サンタクララ市にありまして、賑やかな目抜き通りのスティーヴンズ・クリーク(Stevens Creek Boulevard)とローレンス高速道路(Lawrence Expressway)が交わる角(北東の角)となります。

お店に漂う、何とも言えない香ばしい空気に、至福すら感じることでしょう!

(お断り:べつに、お店から宣伝文を書いてちょうだいと頼まれているわけではありません。あしからず。)

追記: 蛇足とはなりますが、エル・サルバドールといえば、「パカマラ(Pacamara)」という独特の豆が生産されています。1950年代に、かの地で栽培され始めたそうですが、今では世界に名を知られるまでになっています。

パカマラの豆は、普通よりもずいぶんと大きいので、最初に見たときはびっくりしてしまいましたが、大きいわりに、お味は複雑で上品なのです。やはり甘みと酸味が強くて、味わうほどに味に変化がみられるような、よくできた豆なのです。(右側の豆が、パカマラです。)

いつもは一袋12オンス(約340グラム)で12ドル(約1080円)という値段ですが、こちらは15ドル(約1350円)でしたので、やはり「高級品種」として扱われているのでしょう。

ところで、この「ベアフット・コーヒー」では、メンバーカード(登録無料)を持っていれば、10袋買うと通常の12ドルの商品が1袋タダになるのです。10パーセントの割引とは、なかなかいい条件ではありませんか?

東京の空、カリフォルニアの空

前回のエッセイから、ずいぶんと時間がたってしまいました。

9月末には日本に向かい、10月半ばまでゆったりと過ごしておりました。

けれども、物事というものはうまく行かないものでして、せっかく我が家の改築工事から逃れて日本でのんびりとしようと思っていたら、東京に着いてすぐに風邪をひいてしまいました。

幸い、今流行りの新型インフルエンザではなくて普通の風邪だったので、そんなにひどくはならずに済みましたが、喉が痛くなり始めたときには「しまった!」と思ってしまいましたね。
 明日から高熱が出るかと構えていたら、熱はまったく出なかったので、ほっと胸を撫で下ろしたところでした。


そんな風邪の特効薬といえば、アメリカでは「Jewish penicillin(ユダヤ人のペニシリン)」なんかを思い浮かべるでしょうか。

何だか注射器を思い出すような恐い名前ですが、何のことはない、チキンスープ(chicken soup)のことなんです。

鶏の身だけではなくて、人参やタマネギ、セロリ、マカロニなんかがたっぷりと入った、具だくさんの温かいスープです。

どうしてスープのことを「ユダヤ人のペニシリン」と言うのかといえば、ユダヤ人が風邪のときにはチキンスープを好んで食べていたという、古くからの習慣から来ているようです。

まるで抗生物質のペニシリンのように、チキンスープは病気によく効くものだという根強い言い伝えがあって、それがアメリカでも広まっているのです。

一説では、スープを作るときに鶏の骨髄(bone marrow)から出てくる成分が、風邪のバイキンをやっつけるということですが、これは医学的にははっきりと証明されていません。
 けれども、温かいスープをスプーンですくって食べているうちに、その湯気や香りで鼻の通りがよくなったり、喉の痛みが薄らいだりするのは事実のようです。

それに、風邪をひいたときには何かと心細くなるものではありますが、子供の頃、おばあちゃんやお母さんが作ってくれたチキンスープを思い出して、心の中もほっこりとすることでしょう。すると、風邪の治りも自然と早くなるのではないでしょうか。


日本には古くから、「南天のど飴」や「龍角散」や「葛根湯(かっこんとう)」といった風邪薬がありますね。

東京で発病した風邪をそのまま北海道に持って行ったわたしは、こういった日本古来のお薬で治そうといたしました。が、やはり、風邪はひとしきり症状が進化しないと治らないようですね。

さすがに3日目になると、ベッドから起きられないくらいの辛さになって、せっかくの札幌の一日も、街歩きはあきらめて寝て過ごすことになりました。

そして、北海道から東京に戻って来てからも、ずっとホテルの部屋で過ごしていたのですが、ベッドの上に横たわっていたり、長椅子にころがっていたりすると、自然と目が窓に向かってしまうのです。

「あぁ、お外に出たいなぁ」という願いからよりも、窓の外に広がる空に目が吸い寄せられると言った方がいいでしょうか。

あんなに空って大きかったかなぁとか、雲が進むのは速いなぁとか、まったくどうでもいいようなことを考えているんですよね。すると、ちょっと気がまぎれて、気分が良くなってくる。

それに、「空」って、なかなか目が離せないのです。だって、片時も同じ状態で留まっていることはないから。雲は形を変え、絶えずどこかに流れて行くし、空だって、いつも「空色」というわけではありません。

夕日の頃なんて、それはそれは美しい映像を観ているようではありませんか。

アメリカに戻る飛行機で、こんな対談記事を読みました。

ビートルズのジョン・レノンの未亡人であるオノ・ヨーコさんは、落ち込んだときには、いつも空を眺めているそうです。
 今までの人生では、それこそいろんなことがあったけれど、辛いことに遭遇したときには、いつも空に目をやって乗り越えてきたと。

きっと空には、人に元気を与える何かが詰まっているのでしょう。


そして、カリフォルニアに戻って、ようやく東京の風邪が治ったわたしは、また2週間もしないうちに、べつの風邪をひいてしまいました。今度のは、ちょっと熱が出たので、違う種類だったみたいです。

幸いなことに、こちらの方はタチが良かったみたいで、すぐに治りましたが、いずれにしても、10月はよく体調を崩すひと月でした。

結婚記念日や誕生日、ハロウィーンと、10月には楽しい行事が目白押しなのに、やっぱりカリフォルニアでも、空を眺めてはほっと息をつく日々を過ごしていたのでした。

今月のつぶやき: 政権交代と「ガラパゴス」

Vol. 123

今月のつぶやき: 政権交代と「ガラパゴス」

 


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10月中旬、日本から戻って来て、しつこい時差ボケもさすがに治りかけているこの頃です。

東京滞在中は、大型の台風18号が首都圏を直撃し、交通機関などにかなりの被害を及ぼしました。が、シリコンバレーに戻って来ると、こちらは前日に襲った大型の嵐のために、あちらこちらで被害が出ていました。
我が家では、裏庭の椅子やパラソルが吹き飛ばされただけ済みましたが、お隣さんの家では、角地にある大きな木が突風で根こそぎ倒れてしまったようです。そして、その後始末に大わらわ。
雨季が始まってもいない10月中旬に、こんなに大きな嵐が来るのは珍しいことですが、なにせ今年は「エル・ニーニョ」の年。嵐の被害はいやだけど、3年連続の水不足を一気に解消してくれるほどに雨が降ってくれるのではないかと、みんなが期待を寄せています。

さて、そんな10月は、日本滞在中にあれこれ感じたことをつぶやいてみようかと思います。ちょっと堅苦しい話題も出てくるかもしれませんが、どうぞおつきあいくださいませ。

<日米の政権交代>
何といっても、最近の日本の出来事でびっくりしたことは、政権交代でした。夏の衆院選を圧勝した民主党の善戦にもびっくりでしたが、実際に民主党から首相が誕生したのにも、またまたびっくりでした。
そりゃ、第一党から首相が選ばれるのは当然じゃないかとおっしゃるでしょうが、長い間、日本を外から覗いていただけのわたしにしてみれば、まさか自民党中心の政治が崩れるとは夢にも思っていなかったのです。だって自民党は結党から半世紀、ほぼ寸断なく政権を担っていたのですからね。

そういうわけで、民主党・鳩山氏の首相就任が内定したときも、どうせ政権政党が交代したからって、政治は何も変わりはしないだろうと高をくくっておりました。
ところが、ふたを開けてみると、ちょっと違ったではありませんか。なにせ、物事がパキパキと進んでいる。今までの「のらりくらり」とした「のれんに腕押し」の政治は陰を潜め、選挙公約に従って、どんどん政策の転換を図ろうとしているではありませんか。
鳩山首相はオバマ大統領との会談に引き続き、隣国同士で日中韓首脳会議を行っているし、岡田外相は、イスラム原理主義組織タリバンとの戦いで揺れるアフガニスタンとパキスタンを訪問し、軍事支援ではなく平和的な復興支援を提示している。そして、内政的には、優先順位の低い予算事項をばっさばっさと切り捨てる。

もちろん、こんな速攻戦術に風当たりも自然と強くなるわけではありますが、今までと違った「わかりやすい」政治に対して、こんな評価をする方がいらっしゃいました。
民主党の発言は、最初にイエス・ノーありき。そういう点では、文章(や考え方)が英文法化している。言葉を濁して、最後まで聞いてもよくわからなかった自民党政権の発言に比べれば、非常に簡潔である。(10月14日放映フジテレビ『とくダネ!』、小倉智昭キャスターのコメント)

まあ、英文法を使うアメリカであっても、政治家の言うことは曲がりくねっていて、わかりにくい場合も多々あります。それに、元来、政治というものは何でもチャカチャカと即断すればいいものではないと反論する方もいらっしゃるでしょう。
けれども、個人的には、この即決や速攻こそ、今までの日本の政治に大きく欠けていた点だと思うのです。そして、いろいろと問題が山積する中にも、何はともあれ、歯車が大きく動き始めたことに、大いに期待できるのではないかとも思っているのです。

ところで、東京滞在中に、またまたびっくりのニュースに出会いました。ご存じのように、今年のノーベル平和賞にオバマ大統領が選ばれたというものです。
東京時間でCNN速報を観ていたわたしは、ご本人よりも先に知らせを耳にして驚きの声を上げることになったのですが、オバマ大統領への殊勲賞に対し、諸手を上げて賛成しない人もたくさんいるようです。だって、彼は(発表時点で)就任9ヶ月も経っていない新米大統領。何をするにしても、これからではないかと。
 


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実際、アメリカの著名な小説家・エッセイスト・活動家のゴア・ヴィダル氏などは、堂々とこんな批判をしています。自分は大統領選の最中にヒラリー・クリントン(現・国務省長官)からオバマ指示に乗り換えたというのに、彼が大統領になってみると、それはまったく正しい判断ではなかったことを遺憾に思うと。
曰く、「彼(オバマ大統領)は、今まで大統領になった中でもっとも知能の高い人間だが、いかんせん、未熟である。たとえば、軍事のことなんか、まったくわかっていない。まるでアフガニスタン(戦争)がテロのすべてを解決してくれる魔除けのように振る舞っている。(中略)テロに対する戦いなんて、しょせん“でっちあげ”のPRにしか過ぎないのに。」(10月11日付、英ザ・タイムズ紙掲載の対談より)

そればかりではなく、就任直後は人気の高かったオバマ大統領にも、近頃は、若干の翳りが見られます。夏の間、国民のおよそ半分から激しい突き上げにあった医療制度の改革案。横ばいの景気といつまでも好転しない失業率。そして、巨額の金融救済措置や経済刺激策、おかげで雪だるま式にどんどん膨らむ国の財政赤字。
そんなオバマ氏にとって極めて不利な条件から、国民の支持率は5割ほどに落ち込んでいます。

けれども、わたしは密かにこう思っているのです。オバマ大統領の誕生が、少なからず日本の政権交代に寄与したであろうことを考えると、彼はノーベル平和賞受賞に十分にふさわしい人物ではないだろうかと。
アメリカという大国でオバマ大統領が誕生したことが、日本や世界の人々に大いなる希望(hope)を与えたのであるならば、その「誕生」自体がしっかりと評価されるべきものではないかと。

きっとヒラリー(クリントン)の方がいい大統領になったであろうと酷評する前述のヴィダル氏でさえ、オバマ大統領の今後を楽観視しています。「なぜなら、彼は嘘をつかないから」。「嘘つきの国家」では、事実も曲げられてしまう。
そして、これにはわたしもまったく同感なのです。オバマ大統領は、のらりくらりと弁明することはあっても、絶対に嘘をつくような人物ではないと。

現在、日本の鳩山政権は、なかなか高レベルの支持率を保っているようですが、こちらも庶民に希望を与え続ける政権であってほしいと願うばかりです。
そして、何かと外野でうるさいメディアにも、せっかく生まれた変革の芽を摘み取ってほしくないと祈るばかりなのです。

<ガラパゴスとウルトラマン>


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今回、アメリカから成田空港に到着して真っ先に目に付いたものは、日本への歓迎メッセージでした。外国人客を意図しているのか、「Welcome to Japan(ようこそ日本へ)」と英語で書かれています。
まあ、ここまでは良いのですが、そのメッセージのスポンサーにはちょっと頭をかしげてしまいました。なぜなら、看板にはでかでかと真っ赤な文字でこう書いてあったからです。「Coca-Cola(コカ・コーラ)」。

コカ・コーラといえば、今となっては、どこが本国なのかわからないくらい、世界一大きな清涼飲料の多国籍企業となっております。北米での売り上げが落ちているとはいえ、中国やメキシコなどの新しいマーケットをどんどん開拓し、新規分野での収益は確実に伸びています。インドにも巨大な工場が建っていますし、中米のグアテマラでは、先住のマヤ族が住む村の片隅でも店頭に並べられています。
このように世界中に広がる販売網から、コカ・コーラには、外国から日本に入って来た人たちがすぐに認識できるネームバリューがあるはずです。

けれども、しょせんコカ・コーラは、ジョージア州アトランタを拠点とするアメリカの会社ではありませんか。日本の玄関ともいえる成田空港で、どうしてアメリカの会社に「ようこそ」と言われなくてはならないのでしょうか?
どうして「青柳ういろう」とか、「虎屋の羊羹」とか、「泉屋のクッキー」ではいけないのでしょうか? お菓子がダメなら、「キッコーマンの醤油」でもいいではありませんか。少なくとも、醤油のKIKKOMANを知らない外国人はあまりいないでしょう。

と、日本の玄関口でひとり憤りを感じていたのですが、今回の旅では、ひとつ気になった言葉がありました。それは、「ガラパゴス」という表現です。これは、もちろんダーウィンの進化論のヒントとなったガラパゴス諸島のことではなくて、自国・日本を表す一種の流行語ですね。
日本は、いつの間にか世界の潮流から取り残され、まるでガラパゴスのように自分勝手に独自の進化をたどっている、といった意味で使われているかと思います。

けれども、本当に日本は「ガラパゴス」と簡単に片付けるほどに、世界の潮流から取り残されているのでしょうか? 自分たちの造り出すものは、しょせん独自路線を歩むものであり、世界から相手にされなくてもしょうがないと、あきらめムードになっていいものなのでしょうか?

わたしにしてみれば、ガラパゴスなんて「おしゃれな流行語」を使う人は、その実、日本人の創造力を卑下しているような気がしてならないのです。だって、日本の製品はいつだって優れているし、基礎研究の分野でも画期的な発明・発見を繰り返しているではありませんか。

それは、自分たちが開発した製品が外国で売れないこともあるでしょう。せっかく苦労して協議した規格が世界で採用されないこともあるでしょう。
けれども、それは売り方がまずいのであって、ちょっと工夫すれば、相手にも理解してもらえる話ではないのでしょうか。日本は事情があって、こういう仕様を採用しているけれども、現地に適応するためにはこうしたらどうかと、説明を尽くせばいい話ではないのでしょうか。だって、ほとんどの場合、日本のものの方が時代の先端を行っているではありませんか。
もしも基礎研究の成果がなかなか製品に結びつかないとしたならば、ビジネスのわかる人が研究者を導いてあげればいいではありませんか。あなたの発明を無駄にするのはもったいない、だから、こんな応用を考えてみようよと。多くの場合、この一押しが足りないだけなのではないでしょうか。
(オバマ大統領だって、地球環境に配慮したクリーンテクノロジー技術を語るときは、いつも日本を引き合いに出しています。「ハイブリッド車の電池は、日本が一番進んでいる。だから、日本に負けるな!」と。そして、今、クリーンテク分野には国の奨励金をどんどんつぎ込もうとしています。これを先導するのは、自身もノーベル物理学賞を受賞しているエネルギー省長官、スティーヴン・チュー氏。)
 


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そして、ガラパゴスという言葉は、残念ながら、日本の先達を小馬鹿にしているような気もするのです。そう、第二次世界大戦が終結し、焦土の中から必死の想いで這い上がった先達を。戦後すぐには「日本製は何でも安かろう、悪かろうなのさ」と陰口をたたかれていたものを、見事に「日本の品質は、世界最高峰である」と言われるまでに高めた企業努力を。
さらに、この言葉には、日本が完全にガラパゴスにならないためには、今まで培った伝統を土台からひっくり返す必要がある、といった含みがあるような気もするのです。たとえば、これまで企業で採用されてきた「日本型経営」などは、過去の遺物となるべきであると。

けれども、日本独自の経営路線をすべて捨て去り、完璧にアメリカ式の経営論を採用するのは不可能なことでしょう。なぜなら、日本文化の土台に異文化の考えをそのまま接ぎ木しても、根は育たないだろうから。

たとえば、最近流行りの「能力主義」。社員ひとりひとりの実績にあわせて、昇進や年棒を設定しましょうというものですが、これなどは、かなり破綻をきたしているのではないかとも思うのです。なぜなら、多くの日本企業の場合、社員を評価する対象がはっきりせず、適切な評価がなされているかどうかは疑わしいから。
アメリカの場合は、ひとりひとりに目標設定がなされていて、その任務遂行に必要な権限はきちんと委譲されています。たとえグループで働いていても、各々の責任範囲が明確に定義されていて、同じ仕事を何人かで重複してやることはありません。
一方、日本の場合は、往々にして数人のグループにひとつの任務が与えられていて、ひとりひとりの責任分担が明確でないケースも多々あるでしょう。このような職務形態では、個人の実績をきちんと評価することは難しくなり、雇われている側には「自分はきちんと評価されていない」と、だんだんと憤懣がたまっていく・・・。

きっとグループ重視の日本の職務形態が生まれたのは、誰に指示されなくても、自然と互いをカバーし合って一丸となって任務を遂行した、高度成長期のなごりなのかもしれません。ですから、グループごとに評価を下す制度が生まれ、個人の目標設定なんて必要がなかったのでしょう。
けれども、もしもグループ重視の伝統を捨て去り、個人の能力を評価する欧米方式を採用したいのであれば、明確な目標設定ばかりではなく、それに見合う権限委譲から始めなければならないはずです。しかし、実際には、目標らしきものはあっても、権限を与えられないケースも多いことでしょう。上司から権限を与えられないだけではなくて、自分で責任を回避しようとするケースもあるのではないでしょうか。

そうやって考えてみると、社会に「個人主義」が根付いているかどうかが鍵となってくるのでしょう。企業であろうと、その他の組織であろうと、自分で約束した任務の責任は、すべて自分自身で負う。そんな個人主義が文化的に根付いているかどうかを踏まえ、「能力主義」の是非が問われるべきだと思うのです。
そして、社会に出る前に、学校の教育はどうでしょうか。個人主義を助長する教育になっているでしょうか。それとも、グループ重視の、個性を抑えるような教育でしょうか。まっすぐに相手の目を見て、自らの意見を主張する訓練はできているのでしょうか。
 


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成田空港の看板から、とんだ話に発展してしまいましたが、その成田空港への帰途で、おもしろいものを発見しました。
JR成田エクスプレスでは、10月1日から新しい車両を採用したのですが、その新車両の顔(先頭部分)が、どことなく「ウルトラマン」に似ていたのです。
それを見て、こう思ったのでした。日本人の頭の奥底には、いつでもウルトラマンが生きているのだなと。そして、いつの時代にも、正義の味方ウルトラマンを誇りに思っているのだろうなと。

ウルトラマンを誇りに思う国民と、ウルトラマンを見て何も感じない国民では、おのずと組織のあり方も変わってくるでしょう。けれども、それは、決して日本がガラパゴス化しているわけではなくて、ウルトラマンをウルトラマンとして胸を張って世界に紹介すればいいだけの話ではないでしょうか。

<合法的なマリファナ>


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真面目なお話が続いたので、最後に、ちょっと趣向を変えてみましょう。日本からアメリカに戻って来たら、いきなり風変わりなニュースを耳にしました。
サンフランシスコ空港から飛び立つときには、8オンス(約225グラム)までだったら、乾燥マリファナ(大麻)を持って飛行機に乗り込んでも良いよと。

えっと驚くような話ですが、これは、もちろん娯楽用(?)のマリファナのことではありません。アメリカでは、いくつかの州で医療用のマリファナ(medical marijuana)が認められていて、マリファナを吸うことで重病の諸症状が緩和されるとの医者の処方を受けた患者のみ、合法的にマリファナを使うことができるのです。
サンフランシスコ市警察では、医療用マリファナを摘発しないことがガイドラインとなっていて、市警が管轄するサンフランシスコ空港でも、同様のガイドラインに従いますよと、そういったお話なのです。
サンフランシスコ空港だけではなくて、同じくベイエリアのサンノゼ空港やオークランド空港でも、乗客のマリファナ所有を摘発しないのが基本となっているそうです。だって、医療用マリファナは、あくまでも薬。激しい痛みや、薬の副作用から来る吐き気や食欲不振などを緩和してくれる大事なお薬なのです。

けれども、飛行機に乗った先は、保証の限りではありませんよ。飛行機を降りたら、そこは医療用マリファナが認められていない州かもしれません。そんな州では、すぐにお縄をちょうだいするケースもあるでしょう。
実際、医療用マリファナが認められているのは、全米で14州のみ。残りの36州では、固く御法度なのです。(14州とは、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アラスカ、ハワイの太平洋岸の5州とネヴァダ、モンタナ、コロラド、アリゾナの西部4州、加えて、東部のメイン、ロードアイランド、メリーランドなどの5州です。もちろん、13年前に最初に制度を採用したのは、他ならぬカリフォルニアです。)

しかし、そんな制度はあるものの、今まで何かと問題となっていたのは、国と14州の見解が大きく食い違っていたことでした。今年1月の政権交代までは、ブッシュ前大統領の政権下では、医療用マリファナですら厳しくて摘発されていたのです。患者にマリファナを売っている店や合法的に植物を育てている畑でさえ、たびたび国の麻薬取締局DEA(司法省管轄のDrug Enforcement Administration)の踏み込みを受けていたのでした。
ところが、今月に入って、オバマ政権は前政権の方針をガラッとひっくり返したのです。今までの「いかなる理由でも麻薬は禁止」という方針から、「医療用マリファナに限り、取締は制度を採用する14州の裁量に任せる」と大きく方針転換したのです。
この発表を受けて、サンフランシスコ空港もガイドラインを公表したのでしょう。少なくとも、サンフランシスコ市内にいる間は、厳しい詮索は受けませんよと。

わたし自身も、多くのカリフォルニア人同様、医療用マリファナで救われる患者がいるのなら、それを制度として認めるべきだと思うのです。けれども、それは、決して娯楽的な使用を認めるものではありません。なぜなら、娯楽のマリファナは、悪魔のささやきのようなものだから。

一般的に、マリファナは習慣性が低く、タバコよりも止めやすいとも言われています。けれども、それはちょっと違うと思うのです。一度、軽い気持ちで始めたが最後、多くの場合、そのままで終わることはないのです。マリファナがコカインとなり、コカインがLSDやヘロインとなりと、まるで小学生が中学校、高校と進学していくように、常用者もより強い刺激を求めて、軽い麻薬を卒業していくのです。
そして、今となっては、メタンフェタミン(通称クリスタル・メス)や、日本でも話題のMDMA(通称エクスタシー)など、合成麻薬がいくらでも巷に流通しています。高校生だって、簡単に手に入る時代です。
アメリカでは、自家製メタンフェタミンの精製を抑制しようと、アレルギーの薬などの鼻炎消炎剤は、一度に二箱しか買えない州もあるくらいです。消炎成分であるスードエフェドリンから、メタンフェタミンが違法に精製されるからです(カリフォルニアも制限のある州のひとつですが、薬屋さんでは免許証を提示して、住所・氏名を登録することになっています)。

以前からメタンフェタミンの蔓延が問題になっていたオレゴン州では、オレゴニアン紙の記者が徹底的に統計を調べ上げ、こんな結論を出したことがありました。メタンフェタミンの摘発と、そのとき巷に流れるメタンフェタミンの純度とは密接な関わりがあると。
純度が高いときには、使用が蔓延して当局の摘発が増え、純度が低いときには、全体に使用頻度が減ると。とすると、麻薬常用者のゴールはただひとつ。「より強い刺激を受けたい」ということなのでしょう。
だから、軽い麻薬で始まった人も、そのままで終わることはないのです。
 


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ちょっと物騒な話になってしまいましたが、麻薬の問題は、アメリカでは避けて通れるものではありません。「身を持ち崩した話」は、わたし自身も耳にしたことがあります。
ですから、痛切にこう感じているのです。「ハイ」な気分になりたいのだったら、公園のまわりを走るなり、適度にお酒を飲むなり、他にいい方法はたくさんあるでしょう。お酒が合法で、麻薬が違法なのには、それなりの理由があるのですよと。

後記: 今月は、なにやらヘンテコなお話になってしまいましたが、日本でいろいろと感じたことを忌憚なく綴ってみたつもりです。来月は、もうちょっとまともな話題にしたいと反省しているところではあります。

夏来 潤(なつき じゅん)



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