A flock of geese (ガチョウの群れ)

先月の中旬、嘘みたいなお話がありましたよね。

ジェット機が、マンハッタン島の西を流れるハドソン川に不時着した!と。

不思議なことに、あんなに大きな鉄のかたまりでもちゃんと水に浮くように設計されていて、不時着後30分くらいは水に浮かんで、合わせて155人の乗客・乗員は、全員無事に助け出されましたよね。

そのときビジネスニュースを観ていたわたしは、水面に浮いた飛行機から人を助け出すシーンを生中継で観ることになったのですが、画面がスタジオから現場に切り替わった瞬間、自分の目を疑ってしまいましたよ。映画か何かの作り話ではないかと。

救助活動には、民間のフェリーもたくさん出動し、さすがにアメリカ人は、とくにニューヨークの方々は惨事への対応が素早いものだと感心いたしましたが、それと同時に、過去の悲劇を思い出し、神妙な気分にもなったものでした。

「ニューヨーク」と「飛行機」と聞くと、どうしても2001年9月の大惨事を思い起こすわけですが、ここで誤解されてはいけないと、生中継ではニュースキャスターが繰り返し、繰り返し、この言葉を使っておりました。

It’s a flock of geese! 「ガチョウの群れなのよ!」

つまり、エンジンにガチョウの群れがからまって、両翼のエンジンがダメになったために、緊急着陸したのだと。

なにはともあれ、ベテランのパイロットの方の機転が利いて、無事に不時着となったわけですけれど、この「ハドソン川の奇跡(Miracle on the Hudson)」とも呼ばれる離れ業(わざ)に、チェスリー・“サリー”・サレンバーガー機長は、一躍アメリカの「ヒーロー」となりました。

このサリーさんは、サンフランシスコ・ベイエリアのダンヴィルという静かな街に住んでいるのですが、地元では、ヒーローをお迎えする大きな祝賀会が開かれたし、かの有名なオバマ大統領の就任式や、アメフトの祭典・スーパーボウルなんかにも招かれ、みんなの拍手喝采を一身に受けたのでした。

けれども、そこは、パロディーが大好きなアメリカ。
 そんな「ヒーロー」のサリーさんに対抗するかのように、パロディー番組の王様『サタデーナイト・ライヴ(Saturday Night Live)』では、ジェット機のエンジンに散っていった仲間たちを思う「ガチョウのラリー(Larry the Goose)」が登場したのでした。

「ふん、パイロットがヒーローだ、ヒーローだって言うけれど、犠牲になったガチョウたちのことも考えてくれよ」と視聴者に訴えるのです。


さて、この表題になっている a flock of geese ですが、英語には、動物を数えるときに、いろんな数え方があるのです。

そう、ちょうど日本語に「一匹」とか「一頭」とか「一羽」があるように、英語にも動物によって、適切な表現というのがあるのですね。

まあ、厳密には、一匹の「匹」に当たるような「助数詞(数を数えるときの助詞)」ではなくて、「~の群れ」といった表現になります。

表題の a flock of geese は、「ガチョウの群れ」という意味ではありますが、ガチョウの geese(単数形 goose)に使われるだけではなくて、ほかの鳥にも使います。

たとえば、a flock of swans(白鳥の群れ)、a flock of crows(カラスの群れ)、a flock of cranes(鶴の群れ)、a flock of seagulls(カモメの群れ)と言ったりしますね。

港街のサンフランシスコなどでは、海沿いに行くと、カモメを見かけたりするものですね。
 近くで見ると、かなり大きいのでびっくりしますが、鮮やかな黄色いくちばしがベイブリッジの遠景にも映えるのです。

そして、ときに、ガチョウの群れを a gaggle of geese と言ったり、カモメの群れのことを a colony of seagulls と言ったりもします。

カモメに使われている colony というのは、「群棲(ぐんせい)」、つまり、群れをなして生活する動物のことをさします。だから、南極大陸にいるペンギンさんの群れなんかも、colony と言います。「あ~、寒い、寒い」と、みんなで固まって、極寒の南極の冬を越すのです。

一方、gaggle という単語は、「ガアガア鳴く」という動詞が転じて、ガチョウの群れを表すようになったようですが、いかにもガアガアとうるさそうですよね!


さて、a flock of ~ という表現は、鳥だけではなくて、a flock of sheep(羊の群れ)と四本足の動物に使うこともあります。

けれども、四本足の動物で a flock of ~ を使うのは、羊(sheep)とヤギ(goats)くらいなものでしょうか。ふむふむ、だとすると、a flock of ~ は、おとなしい四本足の動物に使われるということでしょうか?

ちょっと恐い動物になると、a pack of ~ という別の表現が登場します。

たとえば、a pack of wolves(オオカミの群れ)、それから a pack of hounds(猟犬の群れ)。なんとなく、強そうな響きがあるのです。

一方、同じ四本足でも、牛さんの場合は a pack of ~ ではなくって、a herd of ~ を使います。
 つまり、a herd of cattle(牛の群れ)。

(注:このcattleという表現は、メス牛のcow、オス牛のbull、子牛のcalf などの総称となりますので、厳密には、メス牛だけの群れという場合は、a herd of cows となるようです。ちなみに、オス牛 bull の複数形は、bulls。子牛 calf の複数形は、calves となりますね。)

それから、ちょっと厄介なことではありますが、a herd of ~ は、牛、ロバ、馬、シマウマといった大きな動物に使うばかりではなく、ウサギのような小動物や、はたまた七面鳥にも使うらしいのです。

ウサギさんはまだ四本足だからわかりますけれど、鳥の仲間であるはずの七面鳥も a herd of turkeys とは!

やっぱり七面鳥は、かわいい小鳥さんなんかとは違って、どっぷりと大きな鳥だからなのでしょうか?


さて、「群れ」という表現には、 a school of ~ というのもあります。こちらは、おもに、水の中の生物に使います。

たとえば、a school of fish (魚の群れ)

それから、a school of tadpoles (おたまじゃくしの群れ)

この school という単語は、べつに「学校」という意味ではなくて、「何やら水の中に泳ぐ群れ」といった意味ですね。クジラやイルカもこの仲間に入ります。

そう、a school of whales (クジラの群れ)

そして、a school of dolphins (イルカの群れ)

きっと、マナティーの群れだって a school of manatees となるのでしょう。

でも、きっと、あの童謡『めだかの学校』だって、a school of killifish と言うんでしょうね!

(注:ちなみに、クジラの場合は、a pod of whales とか、a herd of whales という説もあるようです。そして、水中をユ~ラユラ浮遊するクラゲの群れは、 a smack of jellyfish と呼ぶそうです。なんでも、この smack という単語は、一本マストの小型帆船のことだそうですが、そういえば、そんな風にも見えるでしょうか。)


それから、驚くなかれ、おたまじゃくし(tadpoles)の群れが a school of tadpoles だからって、カエルの群れは a school of frogs とは言いません。

動物ではないので a herd of frogs とも言いませんし、鳥ではないので a flock of frogs とも言いません。

こちらは、なんと、an army of frogs と言うそうです!

え、なに、「カエルの軍隊」?

おたまじゃくしとは同じ生き物であるはずなのに、どうして呼び方が変わるのでしょうか?

まあ、もっぱら水の中に生きているおたまじゃくしが、水陸両用のカエルに変態するわけですから、科学的にも合っているわけではありますが、なんともややこしいことですね。

それから、「軍隊」ごときで驚いてはいけません。なんと、a parliament of owls という表現があるのです。

こちらは、いわば「フクロウの議会」!

(そう、parliament は「議会」で、 owls は「フクロウ」。ちなみに、Parliament が一般的にイギリスの国会をさすのに対し、アメリカの国会は Congress と言いますね。それから、日本の国会は、「ダイエット」と同じ発音の Diet です。)

う~ん、たしかにフクロウは賢そうな生き物ではありますが、それにしても変な数え方ですよね! なんとなく、フクロウが一堂に会して、みんなで眉間にしわを寄せて討論している図なんかを思い浮かべるのです。

こんな風に、日本語と同じように、英語の(生き物の)数え方とは実に厄介なものでして、それだけ、日本語圏でも英語圏でも自然に対する愛着が大きいということでしょうか。

追記: ちなみに、英語の動物の表し方をもっともっと詳しく知りたいという方がいらっしゃいましたら、こちらの米国政府機関USGSのサイトをご参照くださいませ。
http://www.npwrc.usgs.gov/about/faqs/animals/names.htm

USGS(United States Geological Survey)というのは、自然界を科学する国の研究機関です。地震や地滑りなどの災害を研究したり、絶滅に瀕している生物を長年にわたって観察したりと、人間や動植物の保護者の役割も果たしています。
 ただし、こちらは研究機関が作成した表ですから、ここに出てくるのは、あくまでも、普段は使わないような「学術用語」みたいなものです。ですから、わからなくても気にする必要などありませんし、覚える必要もありませんよ!

それから、ちょっと蛇足とはなりますが、カエルの子供「おたまじゃくし」が出てきたところで、こんな逸話をどうぞ。
 なんでも、人間とおたまじゃくしとは、深い縁(えにし)があるそうです。なぜって、人間のしゃっくり(hiccup)は、おたまじゃくしの「真似(まね)」だから。
 エッと驚いてしまうような仮説ではありますが、人間がひくっと声を出して(hic)しゃっくりをするメカニズムは、生物の進化のプロセスでは、おたまじゃくしの呼吸法の名残(なごり)だというのです。

両生類であるおたまじゃくしは、変態した後の陸上生活のために肺を持っているのですが、水の中で生活しているときは、お魚のように「ひれ呼吸」をしています。ということは、水を口から吸い込んで、ひれから出して、水中の酸素を体内に吸収しているのですが、肺の中に水が入ったらそれこそ大変! むせてかえってしまいます。
 そこで、肺の手前にある声門(glottis)を閉じながら、口から水をヒーッと勢いよく吸い込むことになるのです。そこのところが、人間さんのしゃっくりと似ているというのです。
 人間のしゃっくりは、何らかの理由で横隔膜(diaphragm)にけいれんが起こって生じるものですが、ひくっと声が出るのは、喉の奥。ここにある柔らかい部分(喉頭蓋「こうとうがい」と呼ばれるふた、epiglottis)を閉じた状態で、息を勢いよく吸い込む現象が、ひくっという音のしゃっくりになるそうです。
 まあ、人間のしゃっくりはひくっと短いわけですが、おたまじゃくしの「しゃっくり呼吸法」は、ヒーッと比較的長いしゃっくりだというわけなのです。

生物の進化のプロセスで考えると、人間のような陸上の霊長類だって、もとは水中で生活していた生き物。だから、ちょっと意外なことではありますが、人間とお魚、人間と両生類は、ずいぶんと構造的に似ている部分があるのだそうです。
(参考文献: Neil E. Shubin, “This Old Body”, Scientific American, January 2009 : 64-67)

すみません、とんだ蛇足ではありましたが、それでも、こんなお話を聞いてみると、小さな生き物に対しても、なんとなく親近感が湧いてきませんか?

20年のお話

昨日は、なんと、13日の金曜日でした。以前「英語ひとくちメモ」のコーナーで、「13日の金曜日」というお話を書いたことがありますが、とにかく、アメリカには、この日を嫌う人が多いのです。

ついでに、わたし自身も13という数字が大嫌いなのですが、昨日の13日の金曜日には、やはり嫌なことがありました。

いつも行き慣れているオーガニックのお店に買い物に向かったのですが、もう少しで、前の車に追突しそうになりました。いえ、わたしの前方不注意ではありません。相手が突然、わたしの車線に移ってきて、目の前で止まったのです! そう、車道の真ん中で!

わたしは、ノロノロとショッピングモールから出てきたその車を、「どうも怪しいな」と遠目に観察していました。なんとなく、危険な行動に出そうな予感がしたからです。
 すると、突然、目の前に割り込んできて、そこで止まってしまいました。わたしは急ブレーキをかけて事無きを得たのですが、なんの事はない、その車のドライバーは、「あら、どこでUターンしようかしら」と、道の真ん中で思案していたようです。

実は、以前も似たようなことがありまして、信号の少ないエキスプレスウェイを快適に運転していると、前の車が完全に停止してしまったことがありました。このときは、ドライバーが「あら、出口をミスったわ、どうしましょう」と、熟考していたようです(同乗の人と協議しながら、もう少しで後退しそうでもありました)。
 わたしは、かなり急なブレーキをかけてストップしたのですが、幸運なことに、そこは下り坂で見通しが良かったので、後続の車も、事情を察してわたしを回避してくれました。

なんでもカリフォルニアでは、こういったケースがあると、後ろから突っ込んだ車が前の車の損傷を弁償するという保険会社同士の(変な)決め事があるそうで、そうなると、こっちは悪くないのに、こちらの保険料が上がってしまう可能性があるのです!

いやはや、そのときも昨日も、何もなくて本当に良かったです。

けれども、やっぱり13日の金曜日には何事かがあるらしく、この日は、全米で銀行が4つもつぶれたそうです。

なんでも、今年アメリカでつぶれた銀行は、全部で13


さて、悪夢のような13日の金曜日が明けると、今日はヴァレンタインデー

連れ合いは出張しているし、べつに何といって特別な行事はありませんが、きっと世の中はルンルンしているのだろうなと、こちらも楽しい気分になるのです。

そんなヴァレンタインデーに向けて放映されたのかもしれませんが、先日、おもしろい短編映画を観ました。

アメリカの公共放送では、週に一回『ImageMakers(イメージメーカー)』というシリーズを放映しているのですが、これは、今はまだ知られていない、世界中の未来の巨匠たちの短編映画を紹介するコーナーとなっているのです。

その中で、こんなものがありました。

あるドイツ人の男性が、タクシーに乗って大きな橋を渡って、ニューヨークのマンハッタンに向かっています。膝の上には、シンプルな花束。そして、何やらクシャクシャになった手元の紙幣を見つめたりしています。なぜか、真っ二つにちぎられた、その10ドル紙幣。

到着したのは、街の真ん中にあるセントラルパーク。緑に囲まれた広場の中心には大きな噴水があって、そこで男性は、その日一日、人待ちをするのです。
 ちょっと蒸し暑い天気なのか、着ていたジャケットは肩にかけ、暇つぶしにドイツの友達と連絡し合ったり、タバコをくゆらしたりしています。友達は言うのです。「こっちには仕事がたくさん残っているんだよ。もし相手が現れないんだったら、さっさと夜のフライトで戻って来いよ」と。
 けれども、あくまでもあきらめない男性。腹ごしらえにと、噴水の近くに屋台を広げる女のコからホットドッグを買うことにします。ポロッとホットドッグを落っことしてしまった女のコは、「今日が初日なの」と弁解をするのですが、男性は「なんでもないよ」とにっこりと微笑み返します。でも、そこで受け取った自分もポロッ。「慣れてないからね」と照れ笑いです。

一度、同世代とおぼしきレディーが噴水の脇で人待ち顔に立っていました。ハッとして彼女を見つめる男性でしたが、間もなく彼女には待ち人が現れました。
 こうやって眺めていると、公園には実にいろんな人たちがいるものです。熱く愛を語らうカップル、結婚式に向かうのか小走りの花嫁と花婿、キャッキャと屈託もなく笑い合う女子学生のグループ。

もう夕刻となり、辺りがオレンジ色に染まってくると、さすがに男性も憔悴(しょうすい)の色を見せ始めます。もう来ない・・・と。
 ベンチに腰を下ろして、うつむく男性に、さきほどのホットドッグの女のコが紙コップを差し出します。ごくっと水を飲む男性に、「その水は、お花のためよ」と、しおれてしまった花束を指差します。
 そこで、男性は、ベンチに座ってきた女のコに、こう明かすのです。

20年前、たった一夜を共に過ごした女性がいて、「今日という記念すべき日からきっかり20年後に、出会った場所で再会しましょう」と誓い合ったんだ。でも、もう彼女は来そうにない。もしかしたら、忘れているのかもしれないし、事情で来られないかもしれない。今は、遠く外国に住んでいるのかもしれないと。

あら、どうしたのかしらねと相槌を打つ女のコは、それでも、「もしかしたら、彼女はもう亡くなっているのかもしれない」と、なぐさめともつかないことを言うのです。

そして、男性がずっと握りしめていた10ドル札の片割れに気がついて、それは何かと尋ねると、再会したときにリトル・イタリーのレストランで食事をすることになってたんだ、あの頃は10ドルでも足りる時代だったからね、と男性は答えます。

辺りはだいぶ暗くなって、男性が「話を聞いてくれてありがとう」と立ち去ろうとすると、「レストランのディナーはどうするの? わたしが一緒に行ってあげましょうか」と、女のコは声をかけます。「いや、ありがたいけど、今晩はひとりになりたいんだ」という男性。ジャケットを羽織りながら、ふと女のコの手元に目をやると、そこには、半分にちぎられた10ドル紙幣が。

そこで、彼女は言うのです。「ママは、決してあなたを忘れはしなかったわ。ママが亡くなる日、わたしに言ったの。わたしの・・・いえ、あなたに逢えるチャンスがたったひとつだけあるって。」

それから、ふたりは、わずかに残る夕焼けと高層ビルを背にして、じっくりと語り始めたのでした。


これは、その名もずばり、『The Date(ザ・デート)』というドイツの短編映画(英語作品)ですが、デートと呼ぶには、あまりにも思い入れの強い逢瀬(おうせ)なのでした。

映画の中ではちょっとした説明があるのですが、なんでもこのふたりは、名前も住所も教え合っていなかったんだそうです。そんなある種「あやふやな」約束を後生大事に胸に抱きながら、20年も過ごしていたなんて、しかも、ふたりとも約束を果たそうという決意があったなんて、まあ、映画のお話とはいえ、人と人との結びつきはすごいものだなぁと感心してしまうばかりです。

この作品を観たあと、ふと思い出したことがありました。わたしにもこんな約束があったのです。小学校の6年生で別の学校に転校するとき、「18歳になった5月5日、あの大きな公園で再会しましょうね」と、仲良しのお友達と交わした固い約束が。
 その約束の日に間に合うようにと、彼女宛にお手紙を書きました。アメリカにいるので行けませんと。返事はなかったので、果たして彼女が約束を忘れてしまったのか、それとも返事を書くのが面倒くさかったのかはわかりません。その後、再会は果たしていませんが、彼女はいったいどうなったんだろうと、ひょっこりと思い出すことがあるのです。

彼女はどこから見ても、純粋な日本人には見えないほど彫りの深い顔立ちでした。両親は日本人でも、どこかで血が混じっていたのかもしれません。とっても活発な元気のいい子だったから、きっと今頃は、いいお母さんをしていることでしょう。


『The Date』の映画では、女のコが男性にこう尋ねるシーンがありました。
 「あなたは今でも彼女を愛しているの?」

すると、男性はこう答えるのです。
 「愛というと、それはちょっと大袈裟かもしれない。でも、彼女をずっと忘れられなかったよ。まわりのみんなは誰もが馬鹿だって言うけれどね。」

共に過ごしたのはたった一夜であっても、彼は恋に落ちた(fell in love)のだそうです。なぜなら、その夜はただただ魔法にかかってしまったようだったから。

想像するに、男性はずっと独身で通したのでしょうね。それとも、家族がいるのでしょうか。

なんとなく物語にありそうな映画のシナリオではありましたけれど、ドイツ人であろうと、アメリカ人であろうと、日本人であろうと、誰もが「ちょっといいなぁ」と感じる、ロマンティックな20年のお話なのでした。

(どうして最後にこんな写真かって、真ん中にうっすらと虹が見えるでしょ? 虹の向こうには、何かしらいいことがありそうな・・・)

ベイエリアあれこれ

前回は、「新年のお祝い」と題して、我が家の大晦日の様子をご紹介いたしました。日本からお客様をお迎えして、サンフランシスコのコンサートホールで楽しく過ごさせていただいたのでした。

そこで、今回は、そのときに日本からの来客がアメリカやサンフランシスコ・ベイエリアに対して抱いた疑問をいくつかご紹介することにいたしましょう。

ある土地に何年か住んでいると、もう慣れっこになっているようなことでも、初めていらっしゃる方には驚きに値することも多々ありますので。そして、そんな驚きを耳にすると、慣れっこになっている方でも、「初心」を思い出すことにもなるのです。


そこで、まずは、ちょっと季節外れとはなりますが、時候のごあいさつからいきましょうか。

年末年始になると、アメリカでは感謝祭(Thanksgiving)、クリスマス(Christmas)、新年(New Year)と大事な行事が続くので、なにかと季節のごあいさつを耳にいたします。

たとえば、11月下旬の感謝祭が近づいてくると、Happy Thanksgiving!
 クリスマスが近づくと、Merry Christmas!
 そして、新年が近づけば、Happy New Year!となりますね。

近頃は、感謝祭に七面鳥を食べることから、Happy Turkey Day! などと言う人もいます。
 それから、クリスマスの常套句「メリークリスマス」の代わりに、Happy Holidays! を使う人もいます。

けれども、どれにしたって、いつになったら季節のごあいさつができるのかなと、そのタイミングが気になりますよね。

わたし自身は、誰かが言い始めたら自分も真似をするようにしていますが、だいたい各行事の2週間くらい前だったら大丈夫なのだと思っています。

しかし、近頃は、購買意欲をあおってやろうというお店の作戦で、年々いろんな行事の準備が前倒しの傾向にあるので、それにつられてあいさつも早めに始まっているような気もいたします。なにせ、9月に入ってすぐに、クリスマスの飾り付けを売り始めるお店すらあるのですから。
 昨年、わたしは12月10日頃にはメリークリスマスのあいさつをしたのですが、「なんだか早過ぎるなぁ」と自分で半ばあきれてしまいました(でも、相手はこれから会社のクリスマスパーティーに行くというので、仕方がなかったのです)。

この点、Happy Holidays だと、感謝祭から新年までずっとOKかもしれませんね。だって、一連の行事をひっくるめて「どうぞ楽しい休暇の時期をお過ごしください」と表現しているのですから。
 そして、この言葉には、メリークリスマスと違って、宗教性はまったくありませんから、キリスト教のクリスマスを祝わない人(たとえば、ユダヤ教のハヌカやイスラム教のラマダンを祝う人)にでも使えるあいさつではあります。

ちなみに、昔は、Compliments of the Season(to you)! という表現もあったみたいですね。昨晩観ていた名探偵シャーロック・ホームズのドラマで、クリスマスを控えた場面に、そういう表現が出ていました。「季節の表敬をあなたに」というのは、なかなか合理的なあいさつではありますが、アメリカでは聞いたことがありませんので、イギリス独特の表現なのでしょうか。
 けれども、シャーロック・ホームズというと、日本の時代劇みたいなものですから、今はイギリスでも使わないのかもしれませんね。


さて、ひとたびクリスマスが終われば、Happy New Year! を使っても大丈夫になります。もともとクリスマスと元日の間には、あまり日数がないので、タイミングを気遣う必要はありません。(こちらの写真は、かの有名なニューヨークのタイムズスクウェアの大晦日です。みなさん、カウントダウンを待ちわびているところです。)

けれども、この言葉のトリッキーなところは、年の瀬が押し詰まったときだけではなくて、新年が明けても使うところでしょうか。つまり、Happy New Year というあいさつには、日本語の「どうぞ良い年をお迎えください」と「明けましておめでとうございます」の両方が備わっているのですね。

ですから、1月2日の初出勤のときには、オフィスでは Happy New Year とあいさつし合うし、その後も1、2週間くらいは、初めて顔を合わせる人には Happy New Year と言うのが習慣となっています。ここがなんとも、日本からいらした方には不思議だったようです。

この方が指摘していらっしゃいましたが、日本に比べると、アメリカの方が季節の分け方が大雑把なのかもしれませんね。とくに、新年の前後に同じあいさつをするというのは、日本よりも新年の「価値」が低いのかもしれません。
 それに、日本の場合は、二十四節気などといって、四季だけではなく、一年がいろんな季節の節目で細かく分かれているので、時のうつろいには敏感な国民ではありますね。2月に入って「立春」と聞くと、なんとなく春も近づいてきたなと実感するようにできているのです。

そうそう、二十四節気といえば、日本には中国の影響が色濃く残っているわけですが、アメリカ、とくに中国系の多いサンフランシスコ界隈では、こんな新年のごあいさつもあるんですよ。

Gung Hay Fat Choy!(恭喜発財、グンヘイ・ファッチョイ)
 「おめでとう。そして、幸多きように!」とでも訳せばいいのでしょうか。

毎年、サンフランシスコでは、太陰暦の中国の新年の頃、街の中心部で新年を祝う大きなパレードがあるのですが、そのときは、この Gung Hay Fat Choy をたくさん耳にしますね。

太陰暦の元日というのは、1月21日から2月20日の間にあたるのですが、サンフランシスコのパレードは、旧暦の年明けから2週間ほど後に開かれるので、中心部のユニオンスクウェアや中華街の辺りには、いつまでも正月気分が漂っている感じです(今年は、1月26日の丑年の元日に対し、パレードは2月7日に行われました)。
 ちなみに、来年の寅年の元日は、ヴァレンタインデーになります!


さて、日本からいらしたカップルのうち、まだお若い彼女はアメリカが初めてだったので、いろんなことが珍しく感じられたようではあります。
 その中でも、とくに、我が家のあるサンノゼ市のことを「San Jose」と書くことを意外に思われたようです。

「あら、なんだ、サンジョゼと書くのね」とおっしゃっておりました。

たしかに、J が使われておりますが、ご存じの方も多いように、これはスペイン語から来ております。スペイン語の J は、ハ行の発音となりますね。
 たとえば、Jalisco は、「ハリスコ」(メキシコの中心部にある州の名前。州都のグアダラハラには、多国籍企業の支店や工場も多く集まります)。
 それから、イエス・キリストのイエス Jesus は、「ヘスース」と発音します。

わたしはサンノゼ市のことを「サンノゼ」と英語読みで書いていますが、もともとは「サン・ホセ」ですね。
 スペイン語で「聖ホセ(San Jose)」、英語で「聖ジョセフ(Saint Joseph)」、つまり日本語で「聖ヨセフ」となります。聖マリアの夫であり、イエスの養父である聖ヨセフ。

どうして聖ヨセフなのかというと、まだカリフォルニアに先住のインディアンが暮らしていた頃、メキシコからカリフォルニアに進出してきたスペイン人が、カリフォルニアで最初につくった集落(プエブロ、村)を聖ヨセフにちなんで名付けたからです。

1777年につくられたこの集落は、Pueblo de San Jose de Guadalupe(グアダルーペの聖ヨセフの村)という名前でした。
 そもそも、どうしてこのサンノゼの地に集落をつくったのかといえば、北はサンフランシスコ、南はモントレーにあるスペイン人開拓団の基地(プレシディオ、要塞)のちょうど真ん中にあって、ここで兵隊たちを養う食べ物を生産するにはちょうどよい肥沃な土地だったから。
 そして、聖ヨセフを村(プエブロ)の名に頂いたのは、スペイン人開拓団の守り主だったからです。

その後、メキシコの統治を経て、カリフォルニアは1848年にアメリカの州となったわけですが、ここでサンノゼは、華々しく最初の州都となったのですね。カリフォルニアで初めてできた集落ではありますし、街も大きかったのです。
(その後すぐに、州都はベニーシャ、ヴァレホと移転し、現在はサクラメントが州都となっています。こちらの写真は、1890年代にサンノゼの中心地に建てられた郵便局です。1906年のサンフランシスコ大地震では辛くも倒壊をまぬがれ、今は、美術館となっています。)

今では、サンノゼ市はアメリカで10番目、カリフォルニアで3番目に人口が大きな街に成長していますが、プエブロ時代の名残と言えば、サンノゼ市の真ん中を流れる川は、今でもグアダルーペ川と呼ばれていることでしょうか。
 1776年3月、デ・アンザ探検隊が初めてメキシコからサンフランシスコへと探検に向かったとき、サンノゼで渡ろうとした川が急流だったので、「どうぞ我らをお守りください」という意味で、Rio de Nuestra Señora de Guadalupe「グアダルーペの聖母の川」と名付けたところから、グアダルーペ川となったんだそうです。

このように、「グアダルーペ」という名前は、メキシコではとても重要なものとなっています。1531年、メキシコに現れたとされる聖マリアを「グアダルーペの聖母(Nuestra Señora de Guadalupe)」と呼び、メキシコ独立革命(1810年~1821年)の旗印としただけではなく、今でも自分たちの象徴として、人々の間で深く崇(あが)められているのです。Nuestra Señora、つまり「わたしたちの聖母」と、親しみをこめて呼んでいるのですね。

それから、「グアダルーペの聖ヨセフ」は、現在もサンノゼ市の守護聖人とされていて、街の中心部にある聖ヨセフ・バシリカ聖堂(the Cathedral Basilica of St. Joseph)は、付近のカトリック教会や信者のまとめ役となっています。

こんな風に、サンノゼ市を筆頭に、カリフォルニアの都市には「サン」とか「サンタ」が付く名前が多いわけですが、これは「聖ヨセフ(サンノゼ)」と同じく、「聖フランチェスコ(サンフランシスコ)」「聖クララ(サンタクララ)」「聖マリア(サンタマリア)」「聖ディエゴ(サンディエゴ)」と、聖人の名を表しているのですね。
 はっきりとはわかりませんが、サンディエゴは、「グアダルーペの聖母」を見たというメキシコの聖フアン・ディエゴからきているのでしょうか。
 それから、観光地として有名なロスアンジェルスは、なにやら一人だけ違うタイプですが、Los Angeles というのは、スペイン語で「天使たち」という意味ですね。やっぱりキリスト教に関係があるのです。

そうやって考えてみると、ピューリタン(清教徒)がつくったマサチューセッツ州プリマスの集落をはじめとして、イギリスの統治下にあった東海岸の古い州に比べて、カリフォルニアやアリゾナなどの西の州は、スペイン人が新天地で築いたメキシコの支配のもとにあった、という大きな違いがあるわけですね。

かたや清教徒とは、英国国教会に残っていたカトリック的な要素に猛反発したキリスト教の新派。かたやスペインは、バリバリのカトリック教国。ひとつの国でも、アメリカの東と西は、成り立ちがずいぶんと異なるのです。


さてさて、前回の「新年のお祝い」でもお伝えしたように、今年の元日は、サンフランシスコは濃い霧に包まれていたのでした。

なんでも、前日の大晦日の朝にサンフランシスコ空港に着いた来客は、着陸の直前まで陸地が見えず、急にタッチダウンしたので驚いたそうです。

雨季の冬場は、どうしても霧の日が増えるのですが、元日、サンフランシスコから一路南下してみると、来客は大いにびっくり。なぜって、場所によって天気がまったく違うからです。

たとえば、その日の正午、サンフランシスコの観光目玉であるゴールデンゲート橋は、こんなに濃い霧に包まれていました。

元日なので人は多かったですけれど、細かい霧の粒に濡れながら、橋を歩いて渡っている観光客がひどく寒そうに見えました。

そして、橋を渡ったところにある観光地のサウサリート(Sausalito)も、やっぱり霧に包まれ、せっかくの海の景色がどんよりと鉛色でした。
 風は冷たく、海に突き出したレストランでは、その日は屋内のみのお食事となっていました。普段は、海を眺めながらパティオでお食事ができるのですけれどね。

けれども、もう一度サンフランシスコ方面に戻り、街中を南に突っ切り、ちょうどサンフランシスコ市の境界線を越える頃から、少しずつ青空が見え始め、シリコンバレーに着く頃には、雲もほとんど晴れています。

そして、シリコンバレーも通り過ぎ、小一時間ほど南のモントレー(Monterey)にたどり着く頃には、サンフランシスコの濃霧なんて、もうすっかり過去のお話。いったい、これが同じ日なのかと疑うほどに、まったく違ったお天気なのでした。

こんな風に、サンフランシスコ・ベイエリア内で体験するお天気の違いを、microclimate(小さな気候)、つまり「細かく分かれた気候帯」と呼びますね。
 トンネルを抜けると、そこは青空だった、なんてことはよくある話なのです。

モントレーも海沿いの街ですから、もともと霧が出やすい場所ではあるのですが、その日は、ほんとに気持ちがいいほどに晴れていましたね。誰かをご案内するには、最適の日でした。
 ここには、「17マイル・ドライヴ(17-Mile Drive)」という有料道路があって、晴れていると、カリフォルニア独特の美しい海岸線を満喫できるのです。
 この辺からちょっと南のビッグサー(Big Sur)までは、とくに美しい景色が連なっているので、自然の大好きなカリフォルニア人の自慢の種でもあるのですね。

お買い物の好きな方でしたら、有料道路の途中にあるペブルビーチ・ゴルフ場(Pebble Beach Golf Links)のプロショップでロゴ入りのグッズを買うのもいいでしょうし、カーメル(Carmel)の街まで足を伸ばして、ここでウィンドウショッピングをするのもいいでしょう。
 カーメルには芸術家も多く住んでいるので、地元の絵描きさんを紹介する画廊や、オブジェや手作り家具、手芸などを扱う店も多く、街並もとてもかわいいのです。

この日は、あちらこちらのポイントから海を眺めているだけで、もう夕方になってしまったので、カーメルをすっ飛ばして、サンノゼの我が家に向かったのですが、やっぱりお買い物が好きそうな彼女には、悪いことをしたなと反省したのでした。

けれども、その晩は、黒豆やなます、煮しめにお雑煮と、我が家のおせち料理をご披露したので、もう何年もお正月料理を食べていないという彼女は、それなりに満足されていたようでした(連れ合いが作った黒豆を、おいしいおいしいと4回もおかわりしていらっしゃいました!)。


そんなこんなで、翌日、彼らはネヴァダ州のラスヴェガスに向かったのですが、午後一番の飛行機が4時間も遅れてしまったのでした。サンフランシスコ空港では、午前中あまりに霧がひどくて、着陸できない飛行機が続出したそうですが、そうなると、折り返し運行する便は、軒並み遅れてしまうのですね。

サンノゼの家を出る頃は、早朝の霧も晴れ、天気も良くなっていたのですが、やはり霧の街サンフランシスコまで行くと、どうなるかわからないのです。車で1時間と離れていないのですけれどね。

ご本人たちは「あんなに遠慮なく黒豆をいっぱい食べてしまったから、黒豆のたたりだ」などと冗談で笑っていらっしゃいましたが、空港で4時間も待つなんて、さぞかしお疲れになったことでしょう。

どうもご苦労様でした。これに懲りずに、またベイエリアに来てくださいね!

後日補記: これを掲載したときには知らなかったのですが、実は、ロスアンジェルスだって、サンノゼと同じくらい、メキシコの影響を受けた名前だったんですね。
 この地には、サンノゼに次いで1781年にプエブロ(村)が置かれたのですが、そのときの名前が、Pueblo de Nuestra Señora la Reina de Los Angeles、つまり、「天使たちの女王である、われらの聖母の村」というものだったのです。
 サンノゼのグアダルーペ川と同様、最後のLos Angeles(天使たち)というところだけが街の名として残ったのでしょうね。

ロスアンジェルスという街は、カリフォルニアの中では最後の最後までメキシコとして残った場所で、1850年にカリフォルニアがアメリカの州となっとき、ロスアンジェルスの街は、最後に州に加えられたということです。

新年のお祝い

いつの間にか、2009年もひと月を過ぎてしまいました。

そして、太陽暦のお正月だけではなくて、今年は1月26日となった太陰暦のお正月(the Lunar New Year、または Chinese New Year)も過ぎ去ってしまいました。

言い古された表現ではありますが、月日が経つのはほんとに早いものですね。

さて、そんな時期に何ではありますが、ここでちょっとアメリカの大晦日の様子などをお伝えしておきましょう。今まであまり詳しく書いたことがないような気がいたしますので。


昨年の大晦日は、我が家は日本からの来客を迎えて、サンフランシスコで楽しく過ごさせていただいたのでした。

ご存じのとおり、アメリカの大晦日からお正月は、みんなで大騒ぎしながらお祝いすることになっているわけですが、せっかく日本からお客様がいらっしゃるので、一番アメリカらしいお祝いは何だろうと考えました。

そこで思い付いたのが、サンフランシスコ・シンフォニー(交響楽団)の大晦日コンサート(New Year’s Gala)でした。ここでは、コンサートのあと、シンフォニーホールのステージで開かれる年越しのダンスに参加できるのです。
 新年を祝う花火もいいですけれど、シンフォニーホールのダンスというのも、なかなか乙なものではありませんか。

このサンフランシスコの年越しコンサートには、我が家も何回か参加しているのですが、年ごとに少しずつ趣向が違うのでそれなりに楽しんでおります。

たとえば、以前は、ヨハン・シュトラウスなどのウィーンのワルツ(Viennese Waltz)が演奏されていました。日本でもクラシックファンの方はそう感じると思うのですが、何となくお正月といえば、華やかなウィーンのワルツって感じがするのですね。
 けれども、そのうちに、演目に少しずつブロードウェイの歌が加わるようになって、今回は、全部がミュージカルの歌になっておりました。きっとアメリカ人の聴衆は、器楽曲だけでは飽きてしまうのでしょうね。
 遠路はるばるニューヨークからいらしたご夫婦のブロードウェイシンガーが、とっても息の合った、いい感じのデュエットをなさっていましたが、このときばかりは、天下のシンフォニーも歌の伴奏に終始なのです(いえ、サンフランシスコ・シンフォニーというのは、アメリカでも名だたるシンフォニーでして、日本が世界に誇る指揮者の小澤征爾氏も、ボストン・シンフォニーに移る前は、ここで音楽監督を務めていらっしゃいました)。

そんなこんなで、いつもよりも軽やかなコンサートが終わると、いよいよお目当てのダンスとなります。と言いましても、こちらはただリズムに合わせて体を動かしているだけなので、ダンスなんて呼べるものではありませんが。
 こういうときばかりは、「ちゃんと社交ダンスを習っておくべきだった」と後悔してしまうのですね。

けれども、シンフォニーホールの演奏ステージで踊れるなんて、何とも気持ちのいいものです。普段は、プロの演奏家でもない限りステージには上がれませんから、この際、ダンスの上手い下手は関係なく、舞台に上がって、スポットライトを浴びた方が得なのです。

だんだん踊りも佳境になって、新年が近づいてくると、舞台のみんなはカウントダウンを始めます。そして、時計が12時を告げるとともに、ホールの天井からはステージ目がけて風船がワ~ッと落ちてくるのです。

銀色やブルー、かわいいピンクと、色とりどりの風船がホールの高~い天井から一斉に落ちてくるのです。紙吹雪も舞い踊り、ディスコ時代のミラーボールもキラキラと光を放って、ますますお祝いムードを盛り上げます。

ステージで踊るみんなは、風船が落ちてくると、ますます大騒ぎ。ポンポンとバレーボールのようにアタックするは、風船をつかまえてバンバンと手で割るは、床に落っこちたのを足でムギュっと踏んづけるはで、子供のように大はしゃぎするのです。

この手のイベントは小さなお子供にはご遠慮させていただいているので、参加者はサンフランシスコ界隈から集った熟年のレディーやジェンツ(紳士)が多いのですが、それでも、このときばかりは歳を忘れて、みなさん一年に一度の大はしゃぎ!


それから、今年は、食べ物も充実しておりましたね。

そうなんです、コンサートに食べ物が出るんです!

何と言っても、アメリカ人と食べ物は切り離して考えることはできないわけでして、この年越しコンサートのときだけは、会場のデーヴィス・ホール(Davies Symphony Hall)の踊り場が、シャンペンとおつまみの「立食パーティー会場」に変身するのです。

わたしたちはコンサートの前にたらふく食べていたので、食指がまったく動かなかったですが、ダンスが始まる前の中休み、ミニハンバーガーやら、焼きソバやら、甘~いデザートの登場に、アメリカ人の聴衆はもう大喜びなのです。
 前年は、食べ物が少なくて、あっと言う間になくなったので、きっと誰かが「もうちょっと食べ物を出せ!」と抗議したに違いありません。今回は、余るほどに次々と食べ物が運ばれていました。

それにしても、あんなにタキシードやイヴニングドレスで着飾っているくせに、食べ物のコーナーには我先に猛ダッシュなのです。


遠路はるばる日本から来られたカップルにとっては、コンサートホールでダンスを踊るなんて珍しい光景なので、それなりに楽しまれていたようでしたが、元来、アメリカの年越しというのは、とにかく賑々しいものなのです。
 あちらこちらの街ではカウントダウンの行事が開かれ、深夜12時を迎えると、花火は上がるは、紙吹雪は舞い散るは、みんなでビービーとおもちゃの笛を吹き鳴らすはで、ただただ大きな「騒音」に囲まれるのです。

街中を車で駆け巡り、ブーブーとクラクションを鳴らしたり、友達と肩を組んで歩きながら、すれ違う人たちに「ハッピー・ニューイヤー!」と叫んだりと、とにかく賑やかなのです。

まあ、時には騒音にしか聞こえない賑々しさではありますが、あれだけ大きな音を出したら、旧年の「鬼」たちもさっさと退散してくれるかもしれませんね。

ちなみに、サンフランシスコ界隈では、毎年行われる「年明け花火」が有名でして、花火が打ち上げられるフェリービル(Ferry Building)の近くには、大晦日には人がわんさと集まって来ます。
 フェリービルは、サンフランシスコ湾を東へ北へと渡るフェリーの船着き場となっているのですが、対岸のバークレーやオークランドに向かうベイブリッジ(Bay Bridge)の足下にあるので、ここから打ち上げられる年明け花火は、湾沿いの高層ビルからはよく見えるのです。(一方、7月4日の独立記念日の花火は、観光客の集う「ピア39埠頭」辺りのフィッシャーマンズ・ウォーフから上がります)。

我が家も、前年の年明けには、サンフランシスコ・シンフォニーのあと、高層ビルのホテルの窓からポンポンと上がる花火を楽しませていただきました。けれども、やっぱり花火の醍醐味はドーンという爆発音にもあるので、ビルの中から観ていると、ちょっと臨場感に欠けますね。

それに、まわりの高層ビルが視界の邪魔にもなりますし。そう、決して大都会とは言えないサンフランシスコでも、さすがに、フェリービル近くの金融街には高層ビルが建ち並んでいるのです。

もしも、この年明け花火を地上から眺める場合は、エンバーカデロ通り(the Embarcadero)上で、ミッション通り(Mission Street)とハワード通り(Howard Street)の間が特等席となるそうですよ。つまり、フェリービルの右側の湾に沿った辺りで、ベイブリッジを間近に仰ぎ見る場所です。


さてさて、我が家とお客様にとっては、コンサートあり、ダンスありの賑やかな年越しではありましたが、今年は前年と比べてお天気が悪く、それがなんとなく世相を表しているようでもありました。

せっかくサンフランシスコの高層ビルのホテルに泊まったのに、あたりは霧でほとんど何も見えません。
 そんな風景を眺めていると、「五里霧中」という言葉が自然と頭に浮かんでくるのです。

まったく、お天気まで「いつになったら先が見えるのだろう?」とつぶやいているようではありませんか。

それに比べて、前年同じ場所に泊まったときは、「もう絶好調!」と言わんばかりに、快晴でした。そう、ちょうどこんな風に。

名物のトランズアメリカ・ビル(Transamerica Pyramid)も空にそびえ立つようだし、その向こうの丘には、コイト・タワー(Coit Tower)、そのまた向こうには、アルカトラズ島(Alcatraz Island)がぽっかりと浮かんでいるのが見えています。

けれども、霧の正月もまた、サンフランシスコらしくていいでしょうか。

歴史的瞬間: オバマ大統領の誕生

Vol. 114

歴史的瞬間: オバマ大統領の誕生

早いもので、新しい年2009年も、間もなくひと月目を終えようとしています。

ドイツにいるお友達が、今年はものすごく寒いんだと言っていましたが、同様に、日本でも、この冬は寒さが厳しいと聞いております。アメリカでも、中西部に始まった極寒がニューヨーク周辺の北東部にも広がり、まさに「しばれる冬」に悩まされているようです。


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ところが、どうしたわけか、シリコンバレーのある北カリフォルニアは、1月に入って「暖冬」の気配を見せていて、1月中旬には、連日最高気温の記録を塗りかえるほどの暖かさになりました。12日、サンノゼ市では摂氏25度にも達し、その後の陽気で、我が家の「二月の花」は、もう春だと勘違いして早々に紫の花びらを開かせています。

今年は、気象的には「ラ・ニーニャ」の年だそうですが、アメリカ北西部(イチロー選手のいるシアトル辺り)とロスアンジェルスを中心とするアメリカ南西部の狭間にある北カリフォルニアでは、「ラ・ニーニャちゃん」がどのような影響を及ぼすのかはまったく予測できないのだそうです。そんな中、早くも、今年は水不足に悩まされることになるぞと、嫌な予言も聞こえています。

そんな今月は、やはりオバマさんのお話にいたしましょう。シリコンバレーでは、1月に入って、アップルのCEOスティーヴ・ジョブスさんが6月末までお休みするとか、新しいCEOを探していたヤフーでは、ジェリー・ヤンさんの代わりにキャロル・バーツさんが舵取りをすることが決まるなど、大きな話題が続きました。けれども、何と言っても、オバマさんのお話は大きいのです。

<歴史的瞬間>
「あの瞬間に、あなたはどこにいた?」というのは、歴史的出来事によく使われる表現ですが、そう聞かれてすぐに思い出すのが、わたしの場合はジョン・レノンがニューヨークで撃たれた瞬間なのです。
今の若い方はビートルズのメンバーだと聞いても、何のことだかわからないのかもしれませんが、忘れもしない1980年12月8日の夜(日本時間では12月9日午後)、わたしは家で人気テレビドラマ『大草原の小さな家』を観ていました。すると、突然、画面には硬い表情のアナウンサーが現れ、レノンさんが自宅前で撃たれたことを伝えていたのでした。
(そのわずか3ヵ月後には、就任直後のロナルド・レーガン大統領が首都で撃たれ、一命をとりとめているので、きっとあの頃は今よりも物騒な世の中だったのでしょう。)

それと同じくらい、生涯忘れない歴史的出来事であるはずなのに、1月20日の朝、目を覚ましてみると、すでにオバマ大統領が誕生したあとなのでした。首都ワシントンD.C.で正午から行われた大統領就任式(Presidential Inauguration)でしたが、西海岸ではそれは朝の9時になります(完全に夜型のわたしには、まだ早朝なのです)。
「あー、あの瞬間をミスッたー」と多少がっくりではありましたが、それでも、その朝の目覚めは、とても良かったですね。「今はもう、晴れてオバマ大統領の御世(みよ)なんだ!」と思いまして。
 


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その日、最初に「オバマ大統領」を中継で観たのは、連邦議会のメンバーとの午餐会のスピーチでした。何だかこわばった顔で、いったいどうしたのだろうと心配していると、その直前に会場でエドワード(テッド)・ケネディー上院議員(故ジョン・F・ケネディー大統領の末の弟)が倒れるハプニングがあって、救急車で病院に運ばれたケネディー議員を気遣っていたからのようでした。
それに、今のアメリカの置かれた立場を考えてみると、ブッシュ前大統領のように、ヘラヘラと笑ってなどいられないでしょう。スピーチをしながらニタニタと笑っている方が、よほど信用できないのです。出口のないふたつの戦争、未曾有の経済危機、戦いが再燃した中東情勢、日に日に悪化する地球環境と、新大統領が就任翌日から直面する問題は、挙げればきりがありません。

それでも、若さあふれる、半分有色人種の大統領の誕生に、「これからアメリカは変わるんだ!」と期待している人も多いことでしょう。
NBCの朝番組のキャスターが、「僕たちふたり(キャスターと相棒)よりも大統領の方が若いんだよねぇ」としみじみとつぶやいていましたが、バスケットボールが大好きで、まだ7歳と10歳の女の子のお父さんというオバマ大統領は、ともすると政治に無関心になりがちな若い世代との意思疎通も、きっとお上手にやっていくことでしょう。

大統領選挙キャンペーンでも、インターネットや携帯電話などのテクノロジーを駆使した、新手の「草の根運動」が実を結んだわけですが、そんなオバマ氏自身、かの有名なBlackBerryサービスの大ファンで、ブラックベリー端末を片時も手放すことができません。


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ご存じのとおり、リサーチ・イン・モーション社のブラックベリーサービスは、日本の携帯電話会社が提供するメールシステムとは異なり、会社や個人の既存のメールアカウントに携帯端末でアクセスできるようにするサービスです。初代機から数代は、仕事のメールに最小限のネットアクセス、ビジネスオーガナイザーと地味な白黒端末でした(写真は初代機)。ゆえに、日本ではケータイメールが一般ユーザに広がったのに比べ、アメリカではおもに、ビジネス界や政界で支持されてきました。
さすがに今は、電話機能やデジカメ、音楽・ビデオ再生機能の付いたおしゃれな端末となっていて、一般ユーザにもファンを増やしていますが、四六時中ブラックベリー端末を手放せない中毒者を「クラックベリー(CrackBerry)」と呼ぶことは有名ですね。それから、「ブラックベリーの祈り(BlackBerry Prayer)」なる言葉もあります。小さな画面を覗き込みながら、大きなお指で懸命に操作する様子が、頭(こうべ)を垂れてお祈りしているように見えるからです。家族の手前、隠れて仕事をしている意味合いもあるのかもしれません。

もう充分に「クラックベリー」の範疇に入るオバマ氏には、就任前、「ブラックベリーだけは止めてくれ」という要望があちらこちらから寄せられていました。なぜなら、大統領のケータイコミュニケーションがどこかで傍受されたら、それはお国の一大事ではありませんか。それに、大統領がやり取りする文書は、いかなる形式であっても、きちんと保存しなくてはならないという法律があって(the Presidential Records Act of 1978)、今まで使っていた個人的メールなんていうのはホワイトハウスでは許されないのです。
そして、大統領たる者、四六時中シャカシャカと手元で情報を得るのではなく、ときには自分の殻にこもってじっと熟考すべきである、との意見も聞こえていました。

多分、オバマ大統領は泣く泣く愛用のブラックベリー端末を机の引き出しにしまったのではないかと思いますが、どうやら最終的には、彼の勝ちとなりそうです。


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ジェネラル・ダイナミックス(General Dynamics)という会社が作った「Sectera Edge」端末が、すでにオバマ大統領に手渡されたようです(機種は明らかにされていませんが、この端末ではないかといわれています)。
なんでも、3350ドル(約30万円)もするこのデバイスは、ブラックベリー端末が2台合わさったようなものだそうで、一方は普段用(unclassified)、もう一方は機密用(classified)と、右下の赤いボタンで切り替えが可能なんだそうです。機密用を使えば、ホワイトハウスのメールシステムと大統領専用電話回線に繋がるのです。どちらを使っているのか間違えないようにと、機密用は画面が真っ赤になります。

これから先オバマ氏は、側近やごく親しい友人とのコミュニケーションにのみこの端末を使うそうですが、アメリカの暗号諜報機関であるNSA(the National Security Agency、国防省管轄の国家安全保障局、つまり暗号や盗聴の専門集団)のお墨付きをもらうまでは、お預けとなるようです。もともと「Sectera Edge」端末は、NSAのために軍事用に開発されたそうですが(ジェネラル・ダイナミックスは国防省の請負企業)、ハッキングできないシステムはないといわれるこの世の中で、NSAが最終的に「うん」とうなずくかは未定です。
オバマ大統領のメールを受け取った人は、転送などご法度だそうですが、そもそも特別に暗号化されたメールを民間人はどうやって読むのかなと、疑問の声も上がっています。
それに、「Sectera Edge」端末は、マイクロソフトのOS(基本ソフト)を搭載しているそうなので、独自のブラックベリーOSを搭載する「ブラックベリー機」とは呼べないですよね。(ちなみに、リサーチ・イン・モーション社はカナダの会社なので、ブラックベリーサービスを利用すると、米国内のコミュニケーションにしても、一旦カナダのデータセンターを経由します。いくらカナダがアメリカの親友とはいえ、それじゃ、まずいでしょと、スパイ集団がブラックベリーに「ダメ出し」をしたのでしょう。それにしても、ブラックベリーという名が、完全に一人歩きしてますね。)

まあ、大統領専用「ブラックベリー類似機」の行方はわかりませんが、新居であるホワイトハウスのウェブサイトでは、これから先、オバマ氏自身がブログを載せることもあるのではないでしょうか。
就任当日には、早々と新しいホワイトハウスのウェブサイトも公開され(www.whitehouse.gov)、このアメリカの象徴の地にも大きな変革が訪れたことを告げています。
国民との親密なコミュニケーションと情報の透明性は、オバマ大統領が最も重要視していることのようなので、新しいウェブサイトは、政権と国民との大きな橋渡し役となることでしょう。

とはいえ、ホワイトハウスの裏側ではかなりのゴタゴタがあるようで、少なくとも就任式から丸2日間は、ウェブサイトへの新しい掲載が完全にストップしていました。
なんでも、ホワイトハウスのコンピュータシステムというのは「原始時代」にあるようで、アップルのマックに慣れきった新スタッフにとっては、6年前のマイクロソフト・ソフトウェア搭載のコンピュータは謎だらけのようです。「いったいどのコンピュータを何に使ったらいいの?」と、そんな基本的なことからわからないんだそうです。

さて、就任前のオバマ氏には「ブラックベリーを止めてくれ」という要望が寄せられていたわけですが、それと同じくらい、「タバコを止めてくれ」という嘆願もたくさん寄せられていましたね。
オバマ氏はこれまで、ストレス的状況に陥るとタバコを吸い始めていたそうですが、それが2年にも及ぶ大統領選挙戦となっては、いつまでも止められなかったのでしょう。けれども、歴代ホワイトハウスで喫煙する人などほとんどいなかったわけですし、国民の模範となる「父親像(father figure)」である大統領ともなると、喫煙など許されないわけです。

これから、最低4年間は元気に過ごしてもらわないといけないことを考えると、国民としても「禁煙」のご注進に及ばざるをえなかったのですが、その願いは果たして聞き届けられるのでしょうか。

 


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追記: ご存じのとおり、オバマ大統領の宣誓式(the swearing-in)は、一回目は「ちょっと法的に怪しいぞ」ということで、翌日の夜、ホワイトハウス内で二度目の宣誓式が行われました。わたしは内心、「いよいよ本物が観られるぞ!」と喜んでいたのですが、二度目は非公開だったので、やっぱり歴史的瞬間を逃してしまいました。

ちなみに、米国憲法第2条のセクション1-8で、宣誓は以下のとおりに規定されています。
I do solemnly swear (or affirm) that I will faithfully execute the Office of President of the United States, and will to the best of my Ability, preserve, protect and defend the Constitution of the Unite States.
たった35個の単語の羅列ですが、faithfully の場所を間違えてしまったのですね。

<Yes We Can!>
ご存じのとおり、「Yes We Can!」というのは、「みんなで変革をもたらそう」というオバマ大統領候補のキャンペーンスローガンでしたね。とってもわかりやすく、覚えやすいキャッチフレーズでした。

とはいえ、今は国中がバラバラに引きちぎられたような状態にあって、「変革(Change)」を旗印に掲げるオバマ新大統領にとっては、問題はあまりにもたくさん山積しているのです。
もちろん、彼が真っ先にやるべきことは、経済の建て直しでしょう。日に日に状況が悪化する中、アメリカ経済がどうにかして元に戻らなければ、世界経済など復活しないでしょうから。けれども、それと同じくらい、わたしが新大統領に期待しているのは、外交問題なのです。
歴代の「サラブレッド育ち」の大統領に比べて、ケニア人を父に持ち、インドネシア人の継父と現地で暮らした経験も持つオバマ大統領は、フェアな国際感覚を持ち合わせているのではないでしょうか。
さらに、ハーヴァード大学の法律学校の頃から、たとえ敵対する立場であっても、相手の言うことには熱心に耳を傾けることで知られていて、やれ共和党だ、民主党だと真っ二つに分かれる一党主義(partisanship)の国内だけではなく、各々の信条によってバラバラに分断される世界をうまくまとめていってくれるのではないかと期待しているのです。

少なくとも、現時点では、ブッシュ前大統領と敵対していたイランのアフマディネジャド大統領が静観の構えを見せているので、それだけでも大したものだと感服するのです。
アフマディネジャド大統領曰く、「(オバマ氏の)政権が何をするのか、我々は静観させてもらおうではないか。」 けれども、アメリカへの牽制も忘れてはいなくて、「米国で政権の座に就くいかなる政府も、その影響力を己(おのれ)の領域内に制限すべきである。世界のすべての問題や戦争の根源は、外交問題への米国の要らぬ干渉にあるのだ」とも述べています。

それから、オバマ大統領には、アメリカの「イスラエルべったり政策」も見直して欲しいなと、個人的には思っているのです。もう少し中立の立場を採るべきではないかと。
わたしは中東問題の専門家ではないので、偉そうなことは言えませんが、イスラエルの独立以来60年も続いているパレスチナとの紛争の根源には、人間の性(さが)みたいなものが見えるような気がするのです。ひとたび「暴力」という手段に訴えたら最後、争いは消えるどころか、永遠のループに入り、更に激化していくという、人間社会の悲しい性が。
最初は、「やったらやり返せ」の精神で叩き合いをしているのでしょうが、そのうち、何代も時が経つと、もともと何で争っていたかなんてどうでもよくなって、単に、「うちとあそこは仲が悪いことになってるんだ」と片付けてしまうようになるのでしょう。ただただ「恨み」だけが心の糧(かて)となって。

長い間、わたしは、聖書の中にある「だれかがあなたの右の頬(ほほ)を打つなら、ほか(左)の頬をも向けてやりなさい」という言葉を、ひどく不可解に感じていました(新約聖書「マタイによる福音書」5章39節より)。
けれども、近頃は、これはまさに人の性をうまくとらえている言葉なのだと思うようになりました。
頬を打たれ、「恨み」を抱いて相手を打ち返すよりも、もう一方の頬を差し出すことで、自分自身で永遠の争いのループを終わらせなさいということなのでしょう。「目には目を、歯には歯を」の精神では、人の世はどうにもならないことがあるのでしょう。それは、たとえ何教徒であろうと、無信教であろうと、当てはまることではないかと思うのです。
 


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政権二日目、オバマ大統領はさっそく国務省を訪れ、新しく国務長官となったマダム・クリントンとともに、スタッフの前で外交方針演説を行いました。その中で、「わたしは(戦禍をこうむった)パレスチナの人々のことを想っています(My heart goes out to the Palestinian people)」と率直に述べていたのが印象に残りました。

きっとオバマ氏は、歴代の大統領とはひと味もふた味も違う大統領になってくれるのではないかと感じた次第でした。

<アメリカの縮図、オバマ氏>
褒めたあとでこんなことを言うのは何なのですが、オバマ大統領という人は、決してスピーチ(演説)がお上手な方ではありません。選挙キャンペーン中、ヒラリーファンだったわたしが「カリスマを感じない」と批評していたのもそのせいですし、現に、大統領就任のスピーチを「どの言葉も心に残らない、普通のスピーチだった」と酷評しているコメンテーターもいました。それが、右寄りのFox Newsチャンネルなどではなく、オバマ氏の所属する民主党寄りとされるCNNで言われていたことなので、世の中には、いろんな解釈の仕方があるものなのです。

けれども、どうしてあれだけ大勢の人がオバマ大統領の誕生を心待ちにして、寒空の中、わざわざ就任式に駆けつけ、スピーチにボロボロと涙を流していたかというと、それは、オバマ氏が半分黒人の血を引いているからなのでしょう。肌の色の濃い大統領の誕生というのは、アメリカ人にとっては特別な意味があるのです。
そして、黒人の解放に命をかけたマーティン・ルーサー・キング牧師を祝う日(Martin Luther King, Jr. Day)が、ちょうど大統領就任式の前日になったことも、何かしら運命的なものを感じるのです。

ご存じのとおり、アメリカの黒人(今はアフリカン・アメリカンと総称)の祖先は、17世紀中盤以降、奴隷としてアフリカ大陸から連れて来られた人々でした。
新天地での奴隷制度確立から200年、南北戦争(1861-65年)によってようやく奴隷解放がなされ、憲法にも自由人の権利を保障する条項が追加されています。しかし、実際に黒人が自由と権利を獲得するまでには、それから100年にも及ぶ闘争の歴史がありました。
とくに、マーティン・ルーサー・キング牧師が公民権運動(civil rights movement)を盛り上げた1950年代、60年代は、白人の黒人に対する風当たりは激化し、各地で暴動が起きたり、黒人が暴力のターゲットになったりもしました。1963年9月、南部のアラバマ州バーミンガムの教会が爆破され、11歳から14歳の4人の女の子が命を落とした事件は、その最たる例かもしれません。当時は、警察だって白人の味方でした。

長年の闘争の結果、1964年7月には、リンドン・ジョンソン大統領が「1964年の公民権法(the Civil Rights Act of 1964)」に署名し、人種差別を禁止する画期的な法律が誕生しました。けれども、その4年後にはキング牧師自身がテネシー州メンフィスで暗殺されたところを見ると、とくに南部では、人種差別撤廃が実現するまでには、それから何年もかかったのでしょう。
法律があっても、有名無実。そんな辛い経験を積んできた高齢の黒人有権者にとって、闘争の記憶など決して風化するものではありません。
しかも、あからさまな人種差別は過去の話となったものの、現在も有色人種に対する偏見はまだまだ根強く残っているし、社会的な格差は歴然と存在しています。たとえば、シリコンバレーとほぼ同義語とされるサンタ・クララ郡では、黒人の平均年収は、白人やアジア系住民のわずか半分だそうです。法的には平等となった今でも、社会的には解決すべき問題がたくさん残されているのです。
 


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そんな中で颯爽(さっそう)と現れたオバマ氏は、多くの有色人種にとって「救い主」にも見えたことでしょう。それと同時に、「救い主」は自分が生きている間には現れることはないとあきらめていた人々にも、たくさんの希望を与えてくれました。
わたし自身ですら、ヒラリーさんやオバマさんが現れるまでは、自分の生涯で白人男性以外の大統領を拝めるようになるとは夢にも思っていませんでしたから、闘争を肌で知っている方々は、なおさら喜びをかみしめていらっしゃることでしょう。

オバマ大統領誕生の日、人々が流した涙には、何代にも渡って流された涙が合わさっているのでしょう。

追記: 冒頭にあった「マーティン・ルーサー・キング牧師の日」は、牧師の誕生を祝う日ですが、実際の誕生日である1月15日ではなく、1月の第3月曜日が祝日となっています。一方、新しい大統領の就任は、憲法修正第20条で1月20日の正午と定められています。ということは、必ずしもこのふたつの日が連続するとは限らないので、今年はそうなったことに運命的なものを感じた人も多いのだと思います。
 


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先日、初めて公開された英BBCの1964年のインタビューによると、キング牧師は、「40年後には黒人大統領が誕生するだろう」と述べていたそうです。その記念すべき就任の日、牧師が予言した初の黒人大統領のパレードを率いるのは、「ローザ・パークス・バス」でした。
1955年、アラバマ州バーミンガムの市バスで、「白人の座席に勝手に座り、白人に席を譲らなかった」罪で、黒人のローザ・パークスさんが逮捕されるという事件がありました。この愚かな過去を繰り返さないようにとの固い決意を象徴するバスが、「ローザ・パークス・バス」なのでした。
もしキング牧師が存命であったなら、このパレードを見て、いったい何とおっしゃったのでしょうか。

それから、以前、平等社会を目指す公民権運動について、ちょっとだけ書いたことがあります。もし興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、こちらをご覧ください。

www.natsukijun.com/svnow/post_75.html

夏来 潤(なつき じゅん)

 

年賀状

もう正月の三が日も松の内もとっくに過ぎてしまいましたが、あけましておめでとうございます。

旧年2008年は、何かと大変な一年ではありましたが、みなさまご無事に新年を迎えられたことと思います。

新年を迎えるといつも思うのですが、アメリカに何年住んでいようともなかなか慣れないものに、「お正月」があります。

日本のお正月というのは、静かで、のんびりしていて(初詣に行かなければの話ですが)、いかにも「心を正して新しい年を待つ」という荘厳な雰囲気が立ち込めています。

その一方で、アメリカでは、「何が何でも騒いでやる!」といった感じでしょうか。何が楽しいのやら、みんなでもう大騒ぎなのです。
 こちらの新年のカウントダウンや花火の様子は、テレビなんかでご覧になって、よくご存じのことでしょう。

もちろん、新年(New Year)がめでたい(Happy)というのは日本と同じことではありますが、何もあそこまで騒がなくても・・・と思うのです。

それに、元日は営業しているお店も多いですし、お勤めの人にしたって、2日からは普段どおりにオフィスに向かいます。アメリカ人は、頭の切り替えがとても早いのです。

大騒ぎのあとは、紙吹雪を片付けるとともに、新年であることなどはさっさと忘れてしまうのです。


静かなお正月も日本独自のものではありますが、「年賀状」というのも独特の雰囲気がありますね。

もちろん、アメリカでも、クリスマスの前にごあいさつのカードを出すのが慣わしとなっています。クリスマスとそれに続く新年を、どうぞ楽しく健やかにお過ごしくださいと、身内やお友達、それからお世話になった方々に伝えるのです。

けれども、日本の年賀状というのは、受け取ると、もっと嬉しいものなのかもしれません。

それはどうしてかなと考えると、ひとつに、相手の様子を写真ハガキなどで知ることができるからなのかもしれませんね。
 こちらでも、家族の写真をクリスマスカードの表紙に使う人はたくさんいますが、日本の方が一般的なようです。毎年、子供たちが成長するのを垣間見ていると、その早さには驚いてしまいます。

それから、アメリカに比べると、日本の方が長い間、親交を暖めているような気もするのです。頭の切り替えの素早いアメリカ人に比べて、日本人の方がいつまでも恩義を忘れないことがあるのでしょうか。
 たとえば、アメリカでは、仲の良いご近所さん同士でクリスマスカードを出し合うのを慣習としていますが、果たして遠くに引っ越したときにそれが続くのかどうか・・・

けれども、もちろんそれも、人によるのかもしれませんね。どの国であろうと、いつまでも親交を保ちたいと思う人と、過去はさっさと忘れようという人がいるのかもしれません。

義理堅いお隣さんなんかは、もう何十年も、遠くアイスランドに引っ越したお友達と親交を保っているようではあります。
 そして、我が家へのカードには、「あなた方のような素晴らしい隣人を持って幸せよ」と、必ず律儀に書き添えてあります。そんないいことが書いてあるのに、手書きの文章が(自由奔放で)読みにくいのが玉に瑕(きず)なんですが。


昔は、わたしも、年賀状なんて面倒くさいばかりだと思っていましたね。けれども、今になってみると、毎年、多少無理をしてでも年賀状を書くのは、なかなかいいことじゃないかと思えるようになりました。

あちらさんにしたって、普段は音信が途絶えているけれど、年賀状だけは出し合うことをちゃんと承知していて、それがまた、年賀状独特のお決まりみたいで、なかなか便利ではないかと思うのです。「このときばかりは、日頃の音信不通も許される」みたいな大義名分があるのではないでしょうか。

今年は、なぜか我が家の辺りの郵便事情が悪くて、「どうしてあの人から年賀状が届かないんだろう」と気を揉んだりもいたしました。

けれども、ひとたび手にしてみると、「まあ、子供たちが大きくなったこと」とか「奥方は変わらないのに、どうしてダンナさんだけ老けているのだろう」とか、充分に楽しませてもらっているのです(そう、女性はいつまでも変わらないのです)。

そんな今年は、こんなに楽しい年賀カードを受け取りました。

キャラクターグッズの王様、サンリオが作ったカードなのですが、なんと、表紙がおせち料理になっているんです!

そればりではなくて、ちゃんと「寿ばし」まで付いているのです。

そして、ちまちまとお盆に盛られた料理の写真をめくっていくと、ひとつひとつ、いろんなコメントが出て来るしかけになっているのですね。

たとえば、なます(酢の物)は、「今年もよろしくお願いしナマス」。

昆布巻きは、「よろコブこといっぱいありますように」。

伊達巻には、「この一年もあなたのお役にダテるといいな」。

ちょっとかわいいのは、かまぼこです。「今年もカマってね」ですって。

アメリカには、ユーモアたっぷりのものや、とても美しいカードなどは掃いて捨てるほどありますが、どれもこれも、この年賀カードには負けてしまうと思うのです。

どなたがデザインされたのかは存じませんが、「さすが日本人!芸が細かい!」と、うなってしまいました。

ついでに、カードの中に添えてあった写真を見て、「あ、ご主人が太った!」と驚いてしまったのでした。

追記: 先日1月11日はお隣さんのご主人の誕生日だったのですが、ふと思い立って、前日の午後、郵便受けの中に誕生日カードを入れておきました。お誕生日は日曜日だったので、多分、月曜日まで郵便受けは見ないだろうと思っていたら、日曜日の礼拝のあと、お隣さんが何かを感じて郵便受けを開けてみて、カードを見つけたのだそうです。
 その日、ご主人の体の具合が芳しくなくて、ディナーなどには出かけられなかったそうですが、あなたの誕生日カードが一日を明るくしてくれたのよ(Your birthday card brightened up his day)と、後日、報告してくれました。
 たった一枚のカードでも、あんなに喜んでいただけるのであれば、決して「筆不精」になってはいけないものだなと痛感したのでした。

ちなみに、最後に出てきた車型のカードは、車の保険屋さんから来た誕生日カードです。今日は連れ合いの誕生日だったのですが、出張のため本人が不在の間にも、金融機関、車のディーラー、それから保険屋さんと、律儀にカードを送ってくれたのでした。アメリカの商売人も、結構「義理堅い」ところがありますよね。

それから、あとになって気が付いたのですが、「おせち料理」の年賀カードに付いていた「寿ばし」は、おはしの部分を引き出せるようになっているのです!
 何気なく触っていたら、おはしがスポッと抜けて、お友達のこんなコメントが書いてありました。
 「日本のおせち料理が食べたくなっちゃった?」

幸いなことに、お正月には、黒豆、煮しめ、なます、昆布巻きなど、主要なおせちメニューは食べておりましたので、そこまでホームシックにはなっておりませんでしたが、それにしても、サンリオさんの芸の細かいこと!ただただ恐れ入りました。

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