秋風に考える: グーグルさんのアンドロイドと人のネットワーク

Vol. 122

 

秋風に考える: グーグルさんのアンドロイドと人のネットワーク

 

もう、どうもこうもありませんよ。8月末に家の改築を始めたのですが、連日工事関係者が出入りしているので、仕事がまったく手につきません。

というわけで、今月はまず、アメリカの改築体験談でもいたしましょうか。そして、話題はガラリと変わって、第2話ではグーグルさんのケータイOS「アンドロイド(Android)」のお話をすることにいたしましょう。

<有機的なネットワーク>
そもそも、どうして家の改築を始めたのかといえば、今年初めに、2階のバスルームから水が漏っているのに気が付いたからなのです。


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まあ、正直に申し上げると、昨年辺りから、バスルームのシャワーのしっくいが「溶け」始めていたので、もしかしたら水が少しずつ漏っているかもしれないと薄々は感づいていたんです。でも、改築なんて誰に頼んでいいかわからないし、お金もかなりかかるし、見て見ぬふりをしていたんですよ。
けれども、今年初めには、いよいよ1階の天井に水漏れのシミを作り始めたので、ようやく重い腰を上げて改築に取りかかる気になったのです。
すると、不思議なことに、今まで大丈夫だったもうひとつのバスルームのシャワーまで漏り始めてしまって、結局、両方のバスルームを改築し、ついでに居間の改造をしようということになったのでした。たった築12年の家なので、改築にはちょっと早いとは思いますが・・・。

というわけで、ほぼ2ヶ月間の工事期間ですが、それに至るまでは、3ヶ月半もかかったのでした(水が漏っているというのに)。なぜなら、デザイナーを雇ってデザインをしてもらって、それが完成した暁に、ようやく契約交渉でお金の話が佳境となるという、時間のかかるステップを踏まなくてはならなかったから。
それに、子供たちの夏休み期間中でもありましたし、2児の母のデザイナーや家族持ちの改築会社の社長は、なかなか時間がうまく取れなかったようでした。

しかし、そんな風に日本では考えられない暢気さで事が進んでいたわけですが、実際に工事が間近に迫って来ると、アメリカ人の底力を発揮することになるのです。


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まずはいきなり、先に工事しようとしているバスルームの部品が調達できない、という難関にぶつかりました。それは、ヨーロッパから輸入している「Rohl(ロール)」というブランドの蛇口なのですが、わたしが選んだデザインがたまたまイタリア製だったために、問題が起きたのでした。
なんと、イタリアでは8月の一ヶ月間まるまるバケーションを取るので、あちらの会社は営業停止状態。何も出荷できない!

いや、その知らせをサンノゼにある工事部品の調達代理店が受け取ったときには、誰もがこう思いましたよ。「ヨーロッパ人め!一ヶ月も休みやがって!」
みんなオトナだから決して口には出さないけれど、きっとお腹の中ではそう思っていたはずです。

けれども、立ち直りが早いのがアメリカ人のいいところ。このままで行くと、工事開始を延期するか、一時的に別の部品を使って後でやり直すか、まったく別の蛇口を選ぶかの選択になるけれど、もうひとつ可能性が残されているから、ちょっと待っててねと、工事会社から連絡があるのです。
すると、心にくいではありませんか。さっそく翌日には、問題は解決したよとメールがありました。なんでも、Rohlのアメリカ支店と部品調達代理店が交渉した結果、アメリカの在庫品の中で共通の部品を使っているものを流用し、希望通りの形に組み直してサンノゼまで発送してくれることになったそうです。

そんなわけで、めでたく工事は予定通りに始まり、いまだに日々のスケジュールを遅滞なくしっかりとこなしてくれているわけですが、今回の改築工事のプロセスでは、大事なことを学んだような気がするのです。
それは、アメリカで仕事をする上では、人のネットワークほど大切なものはないということなのです。

ちょっと意外に思われる方もいらっしゃるでしょうけれど、アメリカの人間関係は決してドライなものではなくて、かなり「ウェット」なもののようです。あの人が頼んでるから、こっちもがんばって一肌脱いでやろうという、そんな部分があるのです。
たとえば、上記の例でいうと、工事会社と部品調達代理店の関係でしょうか。この工事会社は、信頼の置けるこちらの代理店しか使わないので、お互い利益を分かち合う関係を築いているし、何か問題が起きても、かなり無理をきいてもらえる状態にあります。
ですから、ヨーロッパから輸入できなくても、ブランドのアメリカ支店と交渉して、予定通りに配達してもらうという離れ業をやってのけたのでしょう。もし他の工事会社が依頼していたら、同じ結果が出たかどうかはかなり疑わしいです。

そればかりではありません。規模は小さいものの、この工事会社はうまくネットワークを広げていて、それこそシリコンバレー中の優秀な下請け会社を従えるピラミッド構造を築いているようです。
壁の塗装(drywall)屋さん、ペンキ塗り(paint)屋さん、タイル貼り(tile layer)屋さん、床(flooring)屋さん、木製棚(wood cabinetry)屋さん、屋根(roofing)屋さんと、工事会社が一声かけると、自分の予定をほっぽり出しても現場に現れる人たちが控えているようです。


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自分を認めてくれる工事会社からの仕事は、確実な顧客で、確実な収入源。相手が「腕利き」と見込んで仕事をまわしてくれる代わりに、こちらは押っ取り刀で参上つかまつる。ですから、顧客にしてみると、予定通りにスムーズに物事が進むわけですよね。
実際、我が家のスケジュールを死守しようと、タイル屋さんはひとりで土曜日にやって来て、残りの仕事を片付けていましたよ。

IT産業だって同じことかもしれません。今どきのソーシャルネットワーキングサイトではありませんが、みんなが貴重だと思うのは、人とのネックワーク。なぜなら、自分はある会社の従業員というよりも、あるスキルを持った社会の一個人という意識が強いから。
ですから、常日頃から人とのコンタクトを大事にするし、万が一、今の会社に不満を抱き始めたり、会社をクビになったりしたとしても、人とのネットワークでなんとかしようと努力するのです。

雇う側だって、同じことでしょう。あるポジションに空きができると、「自分の知り合いにこんな人がいるよ」と、さっそく顔見知りの適任者に声をかける場合もあります。自分の元上司が他社に移ったときには、そちらからお声掛かりがあるかもしれません。
「これから我が社では、どんどんアジアに進出するのだが、アジア通の君のスキルとバイタリティーをもって、僕の所でがんばってくれないか」と、引き抜かれることもあることでしょう。
 


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新しい事業を起こそうと、初期投資を募るときなども、人のネットワークが活きてくることでしょう。まだまだベンチャーキャピタルに頼る前の黎明期には、「エンジェル(angel)」と呼ばれる個人投資家から資金を募る場合が多いわけですが、シリコンバレーにはエンジェルたちが集まる場所があって、日頃からこういう場所でネットワーク作りをしている起業家もたくさんいるようです。
わたしの知り合いには、ゴルフ場で何人もエンジェルたちを説得し、起業資金を募った人もいます。お知り合いになるのは、何も四角四面のオフィスの中とは限らないのです。

そして、これも意外なことではありますが、「恩義を忘れない」ということも、アメリカ人の辞書にはしっかりと書かれてあるのだと思います。あのときに自分を助けてくれたから、次回相手に何かあったときには、自分が助けてあげようという、なんとなく「浪花節」のところがあるようです。
逆にいうと、恩を売れるときには売っておいた方が、後で得をすることにもなるのかもしれませんね。

ですから、ごく最近、日米間の出来事でこう思ったことがあるのです。日本のトヨタは、カリフォルニアのフリーモントにある工場を閉鎖しない方がいいのにと。
こちらは、シリコンバレーの対岸フリーモント市にあるNUMMI(ヌミー)という自動車工場なのですが、1982年にGM(ジェネラルモータース)が一旦閉鎖した施設を、1984年にGMとトヨタで共同運営することになって、その後ずっと両社の車を組み立てていた工場なのです。
日本の車メーカーから技術を学べる、画期的な新手法の工場と呼び声も高かったのですが、近年のGMの経営不振から、今年6月にはGMが撤退することが決まっておりました。そして、従業員の切なる願いもむなしく、トヨタも来年3月末には完全撤退することが発表されたのでした。これに伴って、トヨタの小型トラック生産はテキサス州に、カローラ生産はカナダに移転されることになりました。

もちろん、トヨタが苦しいのはわかっております。工場を閉めたい理由も理解できます。けれども、現地の従業員のことを考えると、トヨタはここで歯を食いしばって閉鎖を思いとどまり、フリーモント市、カリフォルニア州、ひいてはアメリカ合衆国に恩を売っておいた方がいいような気がするのです。
だって、工場を一気に閉鎖するなんて、そのインパクトは決して小さいものではないでしょう。NUMMIの従業員だけで5千人、系列会社のメンバーを含めると2万人とその家族が路頭に迷うことになるのです。合わせて数万人のカリフォルニア人を救ったとあらば、シュウォルツェネッガー知事だって、オバマ大統領だって大喜びでしょう。すると、後で何かしら便宜を図ってくれることもあるかもしれないではありませんか。
オバマ大統領だってアメリカ人ですから、下調べや根回し、人とのネットワークや恩義を尊ぶ方なのではないでしょうか。

英語には、こんな格言があるのです。「Don’t burn your bridges(あなたの橋を焼き切るな)」。
つまり、ポジションや立場が変わってしまったとしても、これまでお世話になった方々との関係を焼き切ってはいけない。なぜなら、いつまたお世話になるやもしれないから。

おっと、申し訳ありません。我が家の改築の話が、いきなりあらぬ方向に脱線してしまいましたね。
けれども、「ウェット」なアメリカで仕事をするなら、「橋」のことを頭の隅に置いておいた方がいいかなぁと思ったものですから。

<アンドロイド花盛り>
話はガラッと変わります。アップルさまがもうすぐiPhoneを中国で売り始めるという記事を読んでいたら、その中に、エッと目を引くものがありました。
なんでも、米パソコンメーカーのデル(Dell)が、中国の携帯トップキャリア・チャイナモバイル(中国移動通信)のためにケータイを作っていると。

現在、中国市場への各社の進出はめざましく、アップルさまだけではなくて、デルがチャイナモバイルと、「ブラックベリー(BlackBerry)」で有名なリサーチ・イン・モーションがチャイナテレコム(中国電信)と着々と話を進めているようです。
中でも、デルの新しい中国向けスマートフォンは、グーグルさんのケータイOS「アンドロイド(Android)」を搭載しているそうで、実際にこの試作機を見た知り合いによると、薄くて、コンパクトで、今までのアンドロイド搭載機の中で一番いいよということなのです。(この「Mini 3i(ミニ3i)」なるアンドロイド機は、もちろん、デルが自分で作っているわけではなくて、台湾メーカーのHon Hai Precision Industryが製造するといわれています。)
 


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グーグルさんのアンドロイドといえば、オープンソースのケータイプラットフォームであり、昨年10月にアメリカ市場で「G1(ジーワン)」という搭載機がお目見えしたのが最初でした。
昨年10月号でもご紹介しておりますが、「G1」は台湾メーカーのHTC製で、米携帯キャリアT-Mobile USAから独占提供されています。当初はアンドロイド一号機として注目を集めましたが、残念ながら、鳴かず飛ばずで終わったような感があります。
その後、今年8月には、「アンドロイド1.5」搭載の「myTouch 3G(マイタッチ3G)」がT-Mobileから独占提供されています。こちらも同じくHTC製ですが、今のところ、テレビで大々的に宣伝しているわりには、話題性に欠ける印象も受けるのです。(アメリカに先駆け、ヨーロッパ市場では今年2月に「HTC Magic(HTCマジック)」という名でVodafoneから出されております。また、日本市場ではドコモさんが「HT-3A」という名で8月に発売しておりますが、あまり売れていないという評判も耳にいたします・・・。)

けれども、「G1」と「myTouch 3G」の不調も何のその、ここに来て急にアンドロイドは盛り上がりを見せているのです。同じくHTC製のアンドロイド機としては、米携帯キャリアSprint Nextelが10月11日にリリースする予定の「Hero(ヒーロー)」も控えています。
「G1」と「myTouch 3G」を提供するT-Mobileからは、モトローラ(Motorola)製のアンドロイド機「Cliq(クリック)」が年末に向けて出される予定です(アメリカ以外の市場では、「DEXT(デクスト)」というネーミングとなります)。
これに負けじと、米携帯キャリア最大手のVerizon Wirelessは、同じくモトローラ製の「Sholes(ショールズ)」というアンドロイド機を販売することを明らかにしています。

ヨーロッパ市場では、9月初めに韓国のサムスン(Samsung)が「Galaxy i7500(ギャラクシーi7500)」というアンドロイド機を発売しています。今のところ、イギリスの携帯キャリアO2が販売していますが、イスラエルでもお披露目されたとも聞いています。


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サムスンは、すでに2台目のアンドロイド機「InstinctQ(インスティンクトQ)」も仕込んでいて、こちらは画面が横にスライドしてキーボードが出てくるタイプで、HTCの「G1」やモトローラの「Cliq」と似たような形状となるようです(写真は「G1」)。

モトローラは、大手携帯メーカーとしては初めてアメリカ市場でアンドロイド機を発表するわけですが、発売前の今からCliqの「Motoblur(モトブラー)」という機能が注目されています。こちらは、誰からかメールが来たとか、ソーシャルネットワーキングサイトのFacebookや「つぶやきサイト」のTwitterに新たにコメントや写真がアップされたとか、そんな人とのコミュニケーションの状況を一気にひとつの画面で眺められる便利な機能です。
Cliqのトップ画面にはウェブブラウザやメッセージ、ソーシャルネットワークなどのウィジェット(簡易プログラム)が並んでいて、たとえばソーシャルネットワークのウィジェットをタッチすると、FacebookやTwitterなど自分の加入するサービスのリストが出て来て、サイトへの書き込みや友達とのコンタクトが簡単にできるようになっているのです。

このように何でも一気にできる利便性で、いつでも友達とつながっていたい若いユーザー層を引き込もうとしているわけですが、近頃、アメリカのモバイル界では、このようなデータの一元化が流行っているようです。
今年6月にご紹介したパーム(Palm)の新製品「Pre(プリー)」(Palm webOS搭載)も、「Synergy(シナジー)」という機能を持っていて、ウェブ上のあちこちに散在する友達に関するデータや、仕事やプライベートのスケジュールなどを手元に一元化してくれるものでした。
モトローラの「モトブラー」はさらに一歩進んだもので、ソーシャルネットワークの情報なども便利に一元化してくれるのです。「モトブラー」の「ブラー(blur)」とは「ぼやける」という意味ですが、情報の垣根がぼやけて、何でも一気に手元からアクセスできることを指しているのでしょう。
つまり、何でも簡単にやっちゃうよ、という意味。若い層にはもっとも好まれそうなコンセプトですね。

ちょっと話がそれてしまいましたが、グーグルさんのアンドロイドは、今年の年末に向けて、アメリカ市場やヨーロッパ市場でどんどん広がる兆しを見せているのです。
けれども、とくにアメリカ市場では、結果的に成功するかどうかは、利便性と値段の兼ね合いとなってくるでしょう。
日本の携帯メーカーを含めて、水面下ではいろんな会社がアンドロイド機を開発しているようではありますが、「金にいとめをつけず、最高級のものを作ろう!」というのはアメリカ市場では受け入れられないことでしょう。なぜなら、いくら便利であっても、値段が高ければ誰も買わないでしょうから。

アップルさまのiPhoneは、安いモデルだと99ドル(約1万円)から買えるのです(「iPhone 3G」16GBモデル)。やはり、「打倒iPhone!」を目指すなら、最終的には値段の勝負だと個人的には思っているのです。

<おまけのお話:イチロー談義>
最後に、四方山話をいたしましょう。9月の初めに、シアトル・マリナーズのイチロー選手が、サンフランシスコ・ベイエリアにやって来ました。同じアメリカンリーグのオークランド・アスレチックス(通称A’s)と4連戦するためです。
 


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ご存じのとおり、このときはメジャーリーグ通算2000本安打、なおかつ9年連続シーズン200本安打を賭けているさなかで、そんなに熱く輝く青色巨星のようなイチローさまがベイエリアにいらっしゃるのに、観に行かない手はありません。というよりも、イチローさまがいらっしゃっているのに、応援に行かないというのは失礼ではありませんか。
というわけで、通算2000本まであと4本、連続200本まであと9本を控えた、9月5日土曜日(現地時間)のナイターを観に行くことになりました。チケットは、その日の朝に買いましたが、大丈夫。誰かがちょうどいい席を手放したようで、一塁側(ビジター側)の前から10列目をネットでゲットです。
 


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結果的には、この日は惜しくもヒット3本で終わってしまったので、通算1997本から1999本までを目撃することになりました。けれども、最後の1999本目の3塁越えの当たりは鋭く、これは絶対に明日の試合でもう一本出してくれるだろうと、気持ちよく球場を後にしたのでした(写真は、1999本を打った後、味方の本塁打でホームを踏むイチローさま)。
翌日曜日はデーゲームでしたので、さすがにナイターの後、続けてオークランドまで行くのは辛いということで、テレビ観戦となりました。すかさず、一打席目で2000本を達成なさったのですが、この日はいまいち調子に乗らないご様子。ヒットはこの一本だけだったので、前日のナイターの方が観ていておもしろかったと、こちらも機嫌をなおしたのでした。
 


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まあ、イチローさまの試合は今まで何度も観戦しておりますが、彼はいつも気持ちがいいですね。フィールドでのひとつひとつの行動を決しておろそかにしないし、たとえヒットが打てなくても、悪びれる様子もなくベンチに駆け足で帰って来るのです。
それに、2000本安打という大記録を控えると、さすがに日本人の女のコのファンもこぞって球場に現れていましたが、ライト後方の外野席から響く黄色い歓声にも、顔色ひとつ変えていらっしゃいませんでした。さすがに彼はクールなのです。

ご存じのとおり、イチロー選手は9月6日にオークランドで2000本を達成したあと、9月13日にはテキサス州アーリントンのレンジャーズ戦で、9年連続200本の偉業を達成いたしました。
けれども、残念ながら、こちらの記録は、どうも他のスポーツニュースでかき消されてしまったようです。そう、この日は、待ちに待ったアメリカンフットボールの開幕の日。全米の目が、アメフトに集中する日曜日なのです。
わたしは、スポーツ専門チャンネルESPNのダイジェストを懸命に観ていたのですが、この晩は、とうとうイチローの「イの字」も出て来ませんでした。翌日の新聞には、「200-hit consecutive seasons(200本安打連続シーズン)」と、3センチ四方の枠で小さく報道されていただけでした。
やはり、日本とアメリカでは、イチロー選手の記録に関してかなりの温度差があると言わざるを得ないのでしょう・・・。

けれども、アメリカ人にとっては、春から続く野球シーズンよりもアメフトの開幕戦の方が話題性が高いのは当然のこと。もし平日に記録達成されていたならば、もっと注目を浴びていたことでしょう。
 


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かく言うわたしも、サンフランシスコ49ers(フォーティーナイナーズ)が開幕2連勝しているので、もしかしたら、今年こそはプレーオフに進出できるかもしれないと、淡い期待を寄せているところなのです。
なんでも、1990年以降、NFLにはこんな統計があるそうです。シーズン開幕後2連勝したチームの65パーセントが、スーパーボウルへ向けたプレーオフのチケットを手にしている。

いえ、今はまだ、シーズン16試合中たった2試合をこなしただけなんですけれどね。

夏来 潤(なつき じゅん)



ナール湖の伝説

先日、「メルティングポット」というエッセイで、こんなお話をいたしました。

カリフォルニアのシリコンバレーやサンフランシスコ・ベイエリアには、世界各地から人が集まって来るので、地元の住民もそれをおもしろいと思っているし、誇りにも思っている。
 だから、外国生まれの人であっても、すんなりと受け入れてくれる素地があると。

そんな日頃のわたしの感想を裏付けてくれるように、こういった意識調査が発表されました。

多くのカリフォルニア州民は、外国からの移民を「お荷物」ではなく、「有益」であると感じている。けれども、サンフランシスコ・ベイエリアの住民ほど、そのように強く感じている州民はいないと。

なんでも、カリフォルニア州民の58パーセントは、外国からの移民は良く働くし、スキルがあるので、州にとっては有益であると感じているそうです。が、ベイエリアになると、その数字が65パーセントに跳ね上がるんだそうです。

たぶん、ベイエリアには、もともと自身が移民であったり、移民の子であったりする人が多いので、こういう結果になるのでしょう。
 それが証拠に、白人の州民に限ると、「有益派」がちょっと減って、その分「お荷物派」が増えるんだそうです。

それでも、ベイエリアの3分の2の住民が移民に対して好印象を持っているなんて、外国生まれにとっては、実に心強い結果ではありませんか!

(こちらの意識調査は、Public Policy Institute of California(カリフォルニア公共政策研究所)という無党派の団体が、定期的に行っている調査です。初回は1998年に行われ、そのときは、移民を有益だと思っている州民は、48パーセントにとどまっていたそうです。)


まあ、「移民(immigrants)」とか「外国生まれ(foreign-born)」という言葉はかなり曖昧なものでして、個々人によって、育った文化圏とかアメリカでの経験や法的立場が大きく異なります。

ですから、聞き手によっても、「移民」という言葉に対して抱く印象はさまざまでしょう。

たとえば、シリコンバレーに生活する人は、自分の勤めている IT企業のインド系や中国系の仲間を思い浮かべるかもしれません。

サンディエゴ辺りの裕福な人は、自宅の広い庭を掃除してくれるヒスパニック系の移民を思い浮かべるかもしれません。そして、その掃除係の何人かは、不法に国境を渡って来た人かもしれませんし、英語もほとんどしゃべれないかもしれません。

ですから、白人の州民(ずっと昔にアメリカに移住して来たヨーロッパ系移民の子孫)の中には、移民は「お荷物」である、つまり公共の福祉や施設を使うばかりの好ましくない存在であると感じている人もいるのでしょう。

一方、シリコンバレーになると、IT企業のかなりのスタッフが中国やインドなどの外国から来た人たちです。ですから、移民にはスキルがあり「有益」であると感じる人が多いのでしょう。

つきつめて考えてみると、移民に対してどんな印象を抱くかという根底には、「移民を身近なものに感じているかどうか」という条件があるような気がするのです。

カリフォルニア、とくにベイエリアの若い世代になると、生まれた頃から人種や文化の異なる仲間に囲まれていて、肌の色だとか、言葉のなまりだとか、そんな事はどうでもいいと思っている人も多いようです。

自分が誰かと友達になるのは、興味や考え方が似ていて、感動を分かち合えるからであって、その他の事はあんまり関係ないと思っている人たちが多いように見受けられるのです。

カリフォルニアという州は、もっとも人種の多様化が進んでいる場所ではありますが、中でもベイエリアでは、それにつられて人の意識もだいぶ変化しているのでしょう。

そして、これが、本来の意味での「メルティングポット」なのでしょうね。だって、メルティングポットという言葉には、単に人種の寄せ集めというだけではなくて、文化や意識のブレンドも含まれていますからね。

ブレンド。そう、ちょうど魔女が大きな鍋をひっかきまわして、いろんな材料を混ぜ合わせているみたいな感じ。いったい何ができるのかは、あとのお楽しみ、といったところでしょうか。


と、なんとなく理屈っぽいお話になってしまいましたが、ここでショートストーリーをどうぞ。
 
 こちらは、2年前にトルコを旅行したときに、ガイドさんから聞いたお話です。

奇岩で有名なカッパドキアのあるトルコ内陸のアナトリア地方に、ナール湖(Nar Lake)という名前の湖があります。

火山の噴火口に水がたまってできたカルデラ湖ですが、その水の色が何とも不思議で、つい引き込まれてしまいそうな魅力のある湖なのです。

ですから、今となっては、奇岩群や地下都市の合間に連れて行かれる、絶好の観光スポットとなっています。そして、このナール湖には、こういった言い伝えがあるそうです。

もともと火山の噴火口跡には人が住んでいて、集落を成していました。

あるとき、この村に貧乏な親子が訪ねて来て、食べるものにも困っていると、母親が一件々々戸を叩いて回りました。
 「もう食べるものが何もなくて、息子の具合が悪いのです。どうか息子を助けると思って、食べものを少し分けてください」と。

けれども、どの家も何も分け与えようとせず、母親を追い返してしまいました。

誰からの手助けもないまま、いよいよ男の子の症状は悪化して、そのままこの村で他界してしまったのでした。

母親はこれに嘆き悲しみ、村人に向かって言い放つのです。

「お前たちのせいで、息子が死んでしまった。だから、お前たちの家をみんな水に沈めてやる!」

すると、みるみるうちに噴火口には水が満たされ、村は湖の底にすっかり沈んでしまいましたとさ。


なんとなく、どこにでもころがっていそうなお話ではありませんか? 日本のどこかの県のお話だと言われても、すんなりと納得するでしょう。

世界じゅうを見まわすと、国によって着るものが違ったり、習慣が違ったりするけれど、人なんて、しょせん似通ったところが多いものなんですよね。

だって、嬉しければ笑うし、悲しければ泣く。そして、悲しみがつのれば、人を恨むこともある。それが、人情というものなのでしょう。

だから、まったく知らなかった相手の文化に触れてみると、「あれっ、似てるな」と共感を抱くし、そんな相手をありのままに受け入れることもできるようになる。

そんなわけで、「メルティングポット」というのは、単に慣れの問題なのかもしれませんね。

メルティングポット

「メルティングポット(melting pot)」といえば、「人種のるつぼ」という意味ですね。
 アメリカのように、いろんな国から常に移民を受け入れている国では、だんだんと人種が混じってきて、もともとの人種構成や文化が徐々に変化してくるといった表現となります。

そんなにすごい題名ですけれど、まったく大したお話ではありません。雑談のつもりで読んでいただければ嬉しい限りです。(お食事中の方には、ちょっと向かないかもしれませんので、あしからず。)


今、我が家では、家のリモデルをしています。日本語では「リフォーム」と呼ばれるのでしょうか、つまり、ちょっとした家の改築をしているのです。

アメリカの家は(とくに新し目の家は)よく壊れるものでして、我が家の場合も、12年はなんとか持ちこたえたものの、12年というマジックナンバーを過ぎると、とたんにあちらこちらがいっぺんに壊れてしまいました。
 そうなんです、ふたつあるバスルームのシャワーが、両方とも同時に水漏れの問題を起こすようになったのです。

まあ、そのお話はまた別の機会にゆずることにして、他でもない、メルティングポットのお話です。

現在、我が家を担当しているリモデル会社の従業員が、こんな体験談を語ってくれました。

僕は一時期、サンノゼにある大きなコンピュータ会社に雇われて、施設の整備を担当していたのだけれど、こんな奇妙な体験があったんだ。

ある日、男性トイレがつまって流れなくなったので、修理しに行ったんだけど、作業を開始したら、排水溝から大きな魚の頭が出てきたんだよ。きっと誰かが「これはいいゴミ箱だい」って、ランチの残りを捨てたんだろうね。

あの頃、僕はまだ19歳だったし、大きな会社に雇われてラッキーだと思ってたんだけど、「なんで自分はこんな所から魚の頭を取り出さなくちゃならないのさ」って、心の中で半ベソをかいていたよ。だって、あんなに大きな魚の頭蓋骨なんだもん。

それから、変な話、ここではトイレシートがよく壊れてたんだよね。なぜって、トイレシートに座らずに、シートの上にしゃがみこむ人がいるからなんだよ。
 そういうことをすると、シートにかかる負荷が均等じゃないから、足を載せた所にヒビが入って、シートがすぐに壊れちゃうんだよね。だから、トイレシートの交換は頻繁にあったねぇ。


なんとも、美しい話ではなくて申し訳ありません。

けれども、わたしもこの多国籍コンピュータ会社に籍を置いていたことがあるので、彼の働いていたサンノゼのオフィスにいろんな人が集まっていたというのは、想像に難くありません。

それに、シリコンバレーたるもの、世界中から人が集まることを誇りにし、そのいろんな頭脳で日夜新しいアイデアを考え付くことをミッションとしているわけです。

ですから、こんな身近なトイレのお話を聞くと、「まさにシリコンバレーは人種のるつぼだなぁ」と感心してしまうのです。

半ベソの彼自身だって言っていましたが、そんな人種のるつぼだからこそ、シリコンバレーやサンフランシスコ・ベイエリアは、住んでいておもしろいのでしょう。

そして、そんな風に誰もが人種のるつぼを誇りに思っているから、どんな文化で育った人であろうとも、すんなりと受け入れてくれるような素地が生まれるのでしょう。

残念ながら、半ベソの彼は白人のアメリカ人なので、「いったい誰が魚の頭の犯人だったんだろう」と、長年疑問に思っていたようです。そこで、アジア人のわたしは、こう教えてあげました。

「きっとインド系の人は、魚はあんまり食べないだろうから、もしかしたら中国系の人かもしれないね」と。


いつかサンフランシスコの中心地ユニオンスクエアを歩いていたら、こんな言葉を耳にしました。
 すれ違った白人のアメリカ人男性が、「ここはまさに東洋だねえ(This is the Orient)!」と、感嘆の声を発しているのです。

どうやらアメリカの中西部か東海岸から来た観光客のようでしたが、サンフランシスコにあまりに東洋人(アジア系アメリカ人)が多いので、びっくりしてしまったようなのです。

ご存じのとおり、サンフランシスコのユニオンスクエア近くには、アジア圏外で一番大きな中国街(Chinatown)がありますからね。しかも、市の南西部にあるサンセット地区では、住民の3割ほどが中国系でもありますし。

何といっても、中国系の方々は、19世紀中盤にサンフランシスコが栄え始めた頃からの住人ですから、この街には、長い歴史を刻んでいるのです。

そして、サンフランシスコの南に隣接するデイリーシティ(Daly City)には、同じアジア系でも、フィリピン系アメリカ人が多いです。たぶん、アメリカでも有数のフィリピン系人口の集中度だと思います。

わたしがベイエリアに住み始めた頃からそうだったので、30年前にはすでに「フィリピン系都市」の様相を呈していたのでしょう。

今では、街の半分ほどがアジア系住民で、そのうちのほとんどがフィリピン系だそうです。カリフォルニアは、もともとフィリピン系人口の多い場所ですので、親戚縁者を伝って来たら、自然と「集落」ができたといったところなのでしょう。


今わたしが住むサンノゼには、ヴェトナム系が多いです。なんでも、アメリカで一番ヴェトナム系人口の多い都市なんだそうです。なにせ、市の人口の1割ほどがヴェトナム系ですから。(アジア系全体では3割ほど)

きっと、1975年に長かったヴェトナム戦争が終結し、アメリカが南ヴェトナムから人を受け入れ始めた頃から、サンノゼを新天地とする人たちが増えたのでしょう。1980年から2000年の20年間に、市のヴェトナム系人口は10倍にふくれあがったそうです。

サンノゼという街は、ヒスパニック系(中南米諸国、とくにメキシコからの移民)も多いので、スペイン語あり、ヴェトナム語ありと、外国語をしゃべる人が圧倒的に多い場所なのです。

驚くことに、サンノゼ市の10人に4人は外国で生まれているとか。(だから、外国語を耳にしても、誰もビクともしない。「当たり前」って感じでしょうか。)


一方、サンノゼから北東にのぼった所に、フリーモント(Fremont)という街があって、ここにはアフガニスタンからの移民が多いそうです。なんでも、アメリカで一番アフガニスタン系人口が集中している街だとか。
 ですから、「リトルカブール(Little Kabul)」と呼ばれる目抜き通りもあるんだそうです。(いうまでもなく、カブールはアフガニスタンの首都ですね。ロスアンジェルスにある「リトルトーキョー」みたいなネーミングでしょうか。)

残念ながら、一度も訪れたことはないのですが、アフガニスタンの食べ物や日用品が気軽に手に入って、そこはかと母国の雰囲気を漂わせる所だそうです。

中東の人々といえば、サンフランシスコ・ベイエリアには、イラン系アメリカ人も多いのです。
 アメリカに住む34万人ほどのイラン系住民のうち、半分はカリフォルニアに住んでいて、南のロスアンジェルスと並んで、ベイエリアもかなり好まれているようです。

いつか電話を取ったら、いきなり「ファーシー語はしゃべれますか?(Can you speak Farsi?)」と聞かれたことがありました。(ファーシー語とは、イランで使われるペルシャ語のことです。ちなみに、写真の青いタイルは、ペルシャ語かどうかはわかりませんが、このような美しい字体であることは確かです。)

これは間違い電話ではあったのですが、想像するに、イランから飛行機でアメリカに着いたばかりの若い女性が、教えられた電話番号にかけてきたといった感じでした。後ろには、空港の雑踏のような騒音が聞こえていました。

もちろん、助けてあげたいのは山々なのですが、こちらは、ファーシー語はまったくわかりません。後ろ髪を引かれながらも、電話を切るしかありませんでした。


ところで、今日は9月11日。あの忌まわしい同時テロから、ちょうど8周年。

この日を目前にして、ベイエリアのイスラム教徒たちは、電話相談窓口を開設したそうです。こちらは、イスラム教徒のための相談窓口ではなくて、イスラム教を知りたい人のための窓口。名付けて、「どうしてイスラム?(Why Islam?)」。

どうして自分たちはイスラムの教えに従っているのかを、ざっくばらんに解説してくれるそうです。

ベイエリアは、いろんな国からの寄せ集めではありますが、それでも、あのテロ事件以降は、イスラム教徒に見える人たちに対する「暴力」が何件も起きたそうです。

それは、「お前の国に帰れ!」という言葉の暴力だったり、実際に殴りかかる暴力だったり。中には、ターバンを巻いているインド系(ヒンドゥー教徒)のタクシー運転手が殴られたこともありました。

そんなイスラム教に対する偏見をなくそうと、自分たちで教育キャンペーンに乗り出したのです。

だって、人々が一番怖がるのは、自分たちがまったく知らないこと。ちゃんと知ることで、「怖い」とか「薄気味悪い」という気持ちもだんだんと薄れていくのです。


そして、今日は、わたしにとって珍しい日でもありました。

何かというと、青い目の人に3人も出会ったのです。3人ともきれいな青い目ではありましたが、微妙にトーンが違います。薄い青、透き通った、射るような青、そして、緑がかった青。

やっぱり茶色い目の持ち主の多いシリコンバレーでは、青い目の持ち主は少ないんじゃないかと思うのですよ。

けれども、こうも思うのです。目の色が茶色だろうが、青だろうが、緑だろうが、ヘーゼルだろうが、グレーだろうが、ピンクだろうが、何でもいいじゃないかって。

目の色が何であろうと、しょせん考えることは似たようなものですからね。だって、排水溝から魚の頭が出てきたら、やっぱりギョッとするでしょう。

追記: 最後の部分で、「え、目の色がピンク?」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、これは、アメリカ政府の書類に出てきた選択肢なのです。ちなみに、選択肢は、「Brown, Blue, Green, Hazel, Gray, Black, Pink, Maroon, Other」となっておりました。
 ピンクの目の方にはお会いしたことはありませんが、一度じっくりと見てみたいなぁと思うのです。想像するに、灰色がかったピンクっぽい目なのではないでしょうか。

それから、冒頭に出てきたトイレシートが壊れるお話ですが、中米のグアテマラでフィールドワークをしていた恩師から、こんな話を聞いたことがありました。
 知り合いの農民が大けがをしたので病院に見舞いに行ったら、病院のトイレシートの上に、ぺったりと足跡が付いていたと。
 なるほど、グアテマラでも、伝統的な生活様式は「しゃがむ」なんですね。(あ、またまた美しくなくて、すみません!)

エメラルドシティ

Emerald City(エメラルドシティ)」といえば、『オズの魔法使い』に出てくる、エメラルド色の美しい街を思い浮かべるでしょうか。
 そう、故郷のカンザスに戻りたい一心のドロシーが、仲間たちと一緒に願い事を叶えに行った魔法使いの街。

いったいどこにあるのかしらと、イエローブリック・ロード(黄色いレンガの道)を歩きながら、冒険の末に、ようやくたどり着いた魔法使い「オズ」の街。

でも、アメリカには、架空のエメラルドシティではなくて、実在のエメラルドシティがあるんですよ。

正式な名前ではないけれど、「エメラルドシティ」というニックネームを持つ都市。

それは、ワシントン州で一番大きな街、シアトル(Seattle)。太平洋岸の湾に面しているので、昔から港街として栄えた所ですが、今となっては、マイクロソフトにアマゾンにボーイング、はたまたスターバックスにバイオテック業と、テクノロジーや新規事業のハブ(中枢)としても有名になりました。

港に面して近代的な高層ビルが立ち並び、それでいて、ダウンタウンからちょっと離れれば、海を臨む緑豊かで閑静な住宅地となる。そんな豊かな自然を生かした街並に、海が大好きな人にとっては、憧れのおしゃれな街となっています。

(今となっては、野球のイチロー選手のいる場所と言った方が、すぐにおわかりになるでしょうか。そう、シアトル・マリナーズの本拠地のある所ですね。)


どうして突然「エメラルドシティ」の話をしているかというと、「エメラルドシティはシアトルのニックネーム」と耳にしたときに、まず、こう思ったからなのでした。
 カナダのすぐお隣でもあることだし、この街には、有名なエメラルド湖(Emerald Lake)のような、神秘の湖があるのだろうかと。

8月初頭、カナディアンロッキーの山々に隠れるエメラルド湖を訪れてみたのですが、その宝石のエメラルドにも負けない水の色が、あまりにも現実からかけ離れていて、まさに夢現(ゆめうつつ)といった印象を受けたのでした。

だから、そんな不思議の湖がシアトルにもあるのだろうか?と思ったのです。

調べてみると、シアトルの「エメラルド」は、エメラルド湖のエメラルドとは無関係のようでした。こちらのエメラルドは、街に緑が多いところに由来しているということでした。

けれども、おもしろいことに、「エメラルドシティ」とは、シアトル市が定めた正式なニックネームなんだそうです。だから、単なる誰かの思いつきとか、商売を狙ったどこかの会社のスローガンというわけではないのですね。

そして、その前の公式ニックネームは、「Queen City(女王の街)」。これは、シアトルという街ができた1869年から1982年まで使われていたニックネームだそうですが、こちらは街に人が移り住んでくれるようにと、地元の不動産屋さんが宣伝用に付けた名前なんだそうです。

その頃は、イギリスとの深いつながりを彷彿とさせる Queen City は、洗練された名として全米各地で好まれていたようですが、当時のシアトルは、まだまだ土ぼこりだらけで、「洗練」からはかけ離れた存在。でも、「名前が美しければ人が来るかも」と、不動産屋さんは踏んでいたようですね。

もちろん、シアトル界隈は、昔は林業でとても栄えた場所なので、仕事を求めて全米各地から男たちが集まって来たという歴史的背景はあるのです。でも、今はこんなに大きくなったシアトルを見てみると、案外、「クイーンシティ」という洗練されたイメージにつられて、人が集まって来たところもあるのかもしれません。

とすると、街のニックネームとは、人に憧れを抱かせるような、結構大事な存在なのかもしれませんね。


そして、アメリカには、エメラルドシティのような都市のニックネームがゴロゴロしているのです。

一部は、シアトルのように公式ニックネームだったりするわけですが、その多くは、現地人の愛称あり、商工会議所のスローガンあり、市役所観光課のキャッチフレーズありと、いろんなルーツがあるのです。

たとえば、有名なものに、ニューヨーク市の「The Big Apple(ビッグアップル)」、ネヴァダ州ラスヴェガスの「Sin City(罪な街)」、そして、4年前にハリケーン・カトリーナで大打撃を受けたルイジアナ州ニューオーリンズの「The Big Easy(リラックスした街)」などがあるでしょうか。

カリフォルニアで有名なものは、サンフランシスコの「The City by the Bay(湾沿いの街)」や「Fog City(霧の街)」、ロスアンジェルスの「City of Angels(天使の街)」や「The Entertainment Capital of the World(世界のエンターテイメントの首都)」があるでしょうか。

(ちなみに、ロスアンジェルスの「天使の街」というのは、Los Angeles、つまりスペイン語の「天使たち」という街の名から来ているもので、べつに「天使たちの住む街」という意味ではありません。この名の由来については、こちらの最後に出てくる後日補記でご説明しております。)

一方、シリコンバレーでは、たとえば、サンノゼ市の「The Capital of Silicon Valley(シリコンバレーの首都)」がありますでしょうか。

こちらは、正式に市側が採用しているもので、市のロゴの入った書類だとか、市の名前の入った標識だとかにヒョッコリと顔を出すニックネームなのです。

(まあ、サンノゼという街は、北カリフォルニアで一番人口が多くて、面積も一番大きいわりに、知名度はサンフランシスコよりもいまいち低いのです。だから、どこかで「首都」だといばってみたいのでしょうね。)

そして、こんな珍しいものもあります。ソルヴァングの「Danish Capital of America(アメリカのデンマークの首都)」。

このソルヴァング(Solvang)という街は、南カリフォルニアのサンタバーバラ郡の真ん中にある小さな市で、街全体がデンマーク風の建築物でおおわれ、まるでヨーロッパにいるような錯覚におそわれる、かわいらしい街なのです。

なんでも、その昔、アメリカの中西部からデンマーク系移民たちが移り住み、ここにリトルデンマークを築こうじゃないかと、街づくりに取り組んだのだそうです。


そして、ニックネームに関しては、カリフォルニアにはおもしろい現象があるのです。それは、「何とかの首都」というのが非常に多いということです。しかも、その「何とか」というのが、圧倒的に農作物の場合が多いのです。

農作物をニックネームにしている街は、カリフォルニアには30ほどあるようですが、以下に、代表的なものをいくつかリストしてみましょうか。
(いずれも、北カリフォルニアの街で、州都サクラメント以外は、シリコンバレー界隈にあります。)

Half Moon Bay(ハーフムーン・ベイ): Pumpkin Capital(かぼちゃの首都)
 Gilroy(ギルロイ): Garlic Capital of the World(世界のニンニクの首都)
 Sacramento(サクラメント): Almond Capital of the World(世界のアーモンドの首都)
 Salinas(サリナス): Lettuce Capital of the World(世界のレタスの首都)
 Watsonville(ワトソンヴィル): Strawberry Capital of the World(世界のイチゴの首都)

まあ、カリフォルニアという州は、シリコンバレーやサンディエゴ周辺のようなIT業界の中心地が存在するとともに、立派な「農業国」でもあるのですね。ですから、あちらこちらで特産品を栽培していて、広い土地を活かして生産量が多いものだから、「世界の首都である」といばることになるのです。

けれども、いずれの農作物も長い歴史を誇り、たとえばサリナスのレタスなどは、現地で生まれた有名な小説家ジョン・スタインベックが、若い頃に牧場で働きながら、付近のレタス生産に従事する移民たちをつぶさに描いたこともあるという、曰く付きの特産品なのです。

(彼の代表作のひとつである『エデンの東(East of Eden)』は、サリナスの谷を中心に展開するお話ですが、ジェームス・ディーンの主演で映画にもなり、ヒット作となりました。)

このサリナスという街は、レタスやアーティチョークの生産地なので、別名「サラダボール(salad bowl)」とも呼ばれていますが、レタスの中で一番有名な品種「アイスバーグ(Iceberg)」は、生産地サリナスから東海岸に向けて輸送するときに、氷(ice)をかけて新鮮味を保つようにしていたことに由来する、と耳にしたことがあります。

今でこそ、冷蔵輸送なんてお手のものでしょうけれども、昔は貨物列車で運ぶときには氷で冷やすしか方法がなかったのでしょうね。


さて、カリフォルニアといえば、やっぱり海。海といえば、サーフィン。

だから、サーファーたちを呼び込もうと、「サーフシティ(Surf City)」というニックネームだってあるのです。
 だって海があって、波があって、みんながサーフィンをしに集まったら、それは自然の成り行きではありませんか。

ところがどっこい、カリフォルニアには、その「サーフシティ」がふたつあるところに問題が生じてしまったのです。

こちらは、北カリフォルニアのサンタクルーズ(Santa Cruz)。あちらは、南カリフォルニアのハンティントンビーチ(Huntington Beach)。
 それまでは何十年も、なんとか「大人のつきあい」をしてきた二都市でしたが、今から3年ほど前に、ニックネームをめぐって争い事が起きたのでした。

2006年の夏、サンタクルーズのサーフショップが「サーフ・サンタクルーズ・カリフォルニア USA (Surf Santa Cruz California USA)」とプリントしたTシャツを売り出したところ、ハンティントンビーチの観光協会が、弁護士のしたためた手紙を店に送りつけてきたのです。
 我々はすでに、街のトレードマークとして「サーフシティUSA」という名を特許庁に登録してある。だから、似通った名をTシャツに使うのは、トレードマークの侵害であると。

もちろん、サーフショップのオーナーだって黙ってはいません。「だいたい、そんなどこにでもありそうな名をトレードマークに登録したって、法的拘束力はないのさ。だから、そんな無意味な登録なんかやめさせてよ」と、正式に裁判所に訴えたのでした。

そして、ほぼ2年にわたる法廷での争いの末、ハンティントンビーチの「サーフシティUSA」はトレードマークとして正式に認められ、南カリフォルニアに持って行かれることになりました。

なんでも、歴史的に見ると、アメリカのあちらこちらの街が「サーフシティ」と名乗っていたことは事実なのですが、最後に「USA」と付けたところにトレードマークとしての独自性があるのだそうです。

まあ、結果的には、サーフショップはハンティントンビーチと示談を成立させ、Tシャツは売ってもいいことになったということではありますが、何となく後味の悪いお話ではありますよね。

だって、海は誰のものでもないし、ニックネームだって誰もが好きなように使ったっていいではありませんか。

人間なんて、どこにいたって、同じようなことを考え付くものですからね。

後日談: ちょっと蛇足ではありますが、新聞記事を整理していたら、こんなものが出てきました。サンタクルーズ・センティネル紙の記者が書いた今年6月6日付けの記事なのですが、「サンタクルーズは“サーフシティ”とは名乗れないけれど、ここがアメリカで一番のサーフスポットに選ばれた」と。

なんでも、『サーファー・マガジン(Surfer Magazine)』6月号では、他でもないサンタクルーズが、栄えあるサーフスポット全米第一位に輝いたそうです。ライバルのハンティントンビーチは、なぜだかトップ10からもれているので、これで、サンタクルーズのサーファーたちの溜飲も下がったことでしょう。

現在は南カリフォルニアに住むものの、北カリフォルニア生まれのあるサーファーの談話として、こんなものが載っていました。
 「ここ(サンタクルーズ)には、バラエティに富んだサーフスポットがたくさんあるんだよ。それに、ここは、(サーファーの生みの親である)デューク・カハナモクが、アメリカ本土で初めてサーフィンを広めた所なんだよね。だから、こここそが“サーフシティ”なのさ。」

ちなみに、このトップ10リストのうち、4カ所はカリフォルニア州内でして、一位のサンタクルーズ以下、3番手のエンシニータス(Encinitas、ずっと南のサンディエゴ郡)、5番手のサンクレメンテ(San Clemente、ロスアンジェルス界隈のオレンジ郡)、7番手のマリブ(Malibu、ロスアンジェルス郡)となっております。
 地理的には、マリブとサンクレメンテの間にハンティントンビーチがあるような感じでしょうか。

もしサーフィンをなさる方がいらっしゃいましたら、ぜひ北カリフォルニアと南カリフォルニアを比べてみてくださいませ。北の水は冷たいので、それだけは心して準備していただければと思います。

黄色いスクールバス

前回のお話で、アメリカの学校の多くは、8月の最終週には新学期が始まるというお話をいたしました。

今週からは、我が家のまわりでも、カラフルな服に身を包んだ登下校の子供たちを見かけるようになりました。きっと新しい学年に向けて、洋服も靴も勉強道具も新調してもらったことでしょう。

そして、長い休みがあけて新学期が始まると、まわりの大人たちも気を付けなければならないことがあるのです。それは、運転マナー。

日本でも同じだと思いますが、アメリカでは、学校のまわりではゆっくりと運転することが義務付けられています。「School(学校)」もしくは「School Zone(学校区域)」という看板や道路上の標示を見かけたら、すぐに減速しなければなりません。

カリフォルニアでは、学校から半径500フィート(約150メートル)以内は、時速25マイル(40キロ)と決められています。
 もし登下校の子供を見かけたら、とくに注意を払うことが義務付けられていて、時速25マイルでも「速過ぎる!」と、警官に注意されることもあるかもしれません。

同じカリフォルニアでも、自治体によっては、制限速度15マイルを課す場所もあるそうです。法律が改正されて、自治体が学校周辺の速度を設定しても良いことになったそうです。

我が家の近くの小学校のように、学校のすぐそばの道路を、下校時には全面通行止めにする場所もあります。

ですから、学校のまわりでは、注意するに超したことはないのですね。


そして、ちょっと厄介なルールが、黄色いスクールバスを見かけたときでしょうか。

こちらの規則は、アメリカ人でも知らない人(もしくは、知っていても守らない人)がとても多いので、自治体によっては、厳しく取り締まりを行っている場所があるかもしれません。

カリフォルニアでは、こちらが規則となります。

スクールバスが歩道脇に止まって、車の前後の赤いライトを点滅させ、脇に取り付けた「ストップ(Stop)」という赤い標識をピッと出していたら、それは、子供たちがまさにバスから降りて来るサイン。

だから、バスと同じ方向に進んでいる車は、四の五の言わずに、黙ってバスの後ろに止まること。

だって、子供たちがバスの陰からヒョコッと飛び出して来る可能性がありますからね。

そして、バスの後ろにもちゃんとこう書いてあります。「Stop When Red Lights Flash」つまり「赤いライトが点滅したら止まれ」と。

バスとは反対向きに進んでいる車であっても、一車線しかない道路の場合は、その場で止まること(上の写真が、まさにそうですね)。

例外として、逆方向に進んでいる車は、以下の場合は止まらなくてもよい。

1) 両側通行の真ん中に、盛り上がった安全地帯(island)がある場合
 2) 両側通行の真ん中に、黄色の二重線が2セットある(2 sets of solid double yellow lines)場合
 3) 両方向とも道路に二車線以上ある(any road consisting of two or more lanes each way)場合

申し上げることもないでしょうが、こちらが安全地帯のある道路の場合です。こういう安全地帯では、花や木の植え込みのあるケースが多いので、歩行者が簡単には道を渡れないようになっています。
 ですから、逆方向に進んでいる車にとっては、子供たちが渡って来る危険性が少ないわけですね。

そして、こちらが黄色の二重線が2セットある場合。厳密に言うと、二重線が2セットあったにしても、その2セットの間に最低2フィート(約60センチ)の間隔がないといけないそうです。
 なんとも手厳しいことではありますが、それくらいゆったりした道路でないと、子供たちに危険が及ぶという配慮なのでしょう。

ですから、要約いたしますと、スクールバスと同じ方向に進んでいる車は、バスが止まっている間は自分も停止する。逆方向に進んでいても、大きな道路でない限り、停止することが義務付けられているということなのです。

(大きな道路だと、ちゃんと信号があったり、登下校時に助けてくれる「交通おじさんや交通おばさん(crossing guard)」がいてくれたりするので、反対方向に関してはあまり神経質にはなっていないのでしょう。)


そして、スクールバスを見かけて停止した車は、バスが赤いライトの点滅を消して、ゆっくりと動き出したら、自分も動いていいことになっています。

降りて来る子供の数によっては、かなり待つこともあるのですが、せっかちなカリフォルニア人は、これが待てないらしいのです。ルールを守ってこちらが停止していると、「早く行ってよ!」とばかりに、後ろからクラクションを鳴らされることがあるのです。

けれども、ルール違反に対しては、厳しい罰則が待ち受けているのです。名門私立のスタンフォード大学に近いパロアルト市の大きな道路で、スクールバスの後ろで止まらなかった罰として、636ドル(約6万円)の罰金を課せられたという実話もありました。
 きっとこの方の場合は、同じ方向に進んでいたところ、道が大きい(片側に2、3車線ある)ので、ついついバスを追い越してしまったのでしょう。

この手の交通違反チケットは、駐車違反(parking violation)のような軽いものではなく、スピード違反(speed violation)と同じように立派な「運転上の違反行為(moving violation)」と見なされます。ですから、3年以内に2回以上やると、車の保険料もグイッと上がるわけですね。

まあ、アメリカの場合、交通法規は州ごとに若干違ったりするので、少々面倒くさい話ではありますけれども、どこにいたとしても、黄色いスクールバスには気を付けて、まわりの車に従うのが無難だと思います。

なにはともあれ、「黄色は注意の色」というのは、万国共通の理解でしょう。


そして、スクールバスと言えば、近頃、ちょっと心配な話も聞こえています。

ご存じのように、アメリカは国だけではなくて、どの州も、どの自治体も「金欠病」にかかっているので、どうやって予算をカットしようかと頭を悩ませているのです。

そこで、出てきた案のひとつが、スクールバスをカットしようというもの。バスの台数を減らしたり、停留所の数を減らして運行の迅速化に努めたりと、あの手この手でお金をセーブしようと必死なのです。

なんでも、全米の自治体の23パーセントが、この秋からスクールバスを減らすことを考えているそうで、子供たちや保護者に対する影響も甚大なものになりそうです。

なにせ全米で学校(小中高)に通っている5千万人の生徒(巻末の注でご説明)のうち、半分の2千5百万人はスクールバスを利用しているということです。ですから、バスが利用できなくなると、個人の生活パターンがガラリと変わってしまって、全体ではかなりのインパクトが出てくることが予想されるのですね。

全米学校交通協会(National School Transportation Association)の代表者は、「スクールバスの代わりに、保護者のすべてが自家用車で子供を学校に連れて行けるわけではないので、学校に通えない子も増えてしまう」と警告を発しています。
 アメリカにも、車を持てない人はたくさんいますし、仕事の都合で登下校時に送り迎えができない人もいます。ですから、学校が遠くて、歩いて通ったり、自転車で通ったりできない子供たちは、登校の手段がなくなってしまうのですね。

それに、アメリカの場合、歩いて通うなんて危険な感じもするのです。いつどこで誰に連れ去られるかわからないではありませんか。

先日も、こんな実話がありました。北カリフォルニアの観光地タホ湖の近くの街で、18年前に女の子が誘拐され、その子が29歳の女性に成長して発見されたと。
 この誘拐事件は、登校途中にスクールバスの停留所に向かっていて起きた事件なんだそうです。継父が玄関先から娘が連れ去られるのを目撃していたので、急いで自転車に乗って、途中まで犯人の車を追いかけたのだとか・・・。

ですから、交通法規うんぬんだけではなくて、登下校時の子供たちには、まわりの大人たちが目を配ってあげることも大事なのでしょうね。

これからは、コミュニティー全体で子供を育てていく時代となるのでしょう。

注: 2008年のアメリカの人口推計では、小中高の年齢層は5千3百万人だそうですが、実際に学校に通っている子は約5千万人。中にはホームスクーリング(homeschooling)、つまり、学校に通わないで自宅で勉強している子供たちも何百万人かいることでしょう。

「Flu buddy」というインフルエンザの相棒

早いもので、8月ももう終わりに近づきました。

もうすぐ日本の子供たちの夏休みも終わりとなりますが、アメリカでは、一足先に今週あたりから学校が始まります。
 そう、アメリカの場合は、夏休みが終わると、新しい学年の始まりとなりますね。ちょっとだけお兄さん、お姉さんになったような晴れ晴れとした気分の新学期なのです。

そんな新しい学年の始まりとともに、今年はちょっと気がかりなことがあります。新型インフルエンザの流行ですね。これから秋に向かって、学校を中心に広がりが予想されているのです。

そんな中、国内の病気の広がりを監視している米国疾病予防管理センター (Centers for Disease Control and Prevention、通称 CDC)は、こんな警告を出しました。
 大学では、「Flu buddy 制度」つまり「インフルエンザの相棒制度」を徹底するようにと。


日本と比べてちょっと暢気なアメリカでも、さすがに新型インフルエンザとなると、国を挙げての対策に追われています。その先鋒となるのが、CDC。いかに大流行を防ごうかと、頭を悩ませています。

今が冬の南半球のオーストラリアやニュージーランド、アルゼンチンなどでは、すでにかなりの流行が見られ、学校や劇場などの閉鎖が続いています。それが北半球で起きない保証はまったくないのです。

アメリカでは「swine flu(豚インフルエンザ)」もしくは「H1N1 flu (H1N1型インフルエンザ)」と呼ばれる新型インフルエンザは、夏の間にも確実に全米で広がりを見せていたようです。

アメリカでは、CDCに発症例が報告され始めた4月15日から7月24日の3ヶ月間で、4万4千件が確認されています。その後、広がりがあまりに急だったので、7月以降は、いちいち感染ケースを数えるのを止めたそうですが、少なくとも100万人が感染したのではないかとも言われています。

現在CDCは、入院件数と死亡数だけの統計を取っていて、これを書いている時点では、全米での入院件数は約8,000件、死亡は522人だそうです。
 カリフォルニアでは、亡くなった方は100人近いと聞いています。まだ大流行と言うほどではありませんが、国に対するカリフォルニアの人口比率からすると、ちょっと多いような気もします。

州別に見ると、人口が密集して流行の兆しのあるカリフォルニアやフロリダなどよりも、北のアラスカ州とメイン州が、もっとも大きな広がりを見せているそうです。


そんな現状をふまえて、先日、こんな恐~い予測も発表されました。

もしかすると、今年の秋冬には、米国民の3割から5割が新型ウイルスに感染し、2割から4割の人(約6千万人から1億2千万人)に症状が出るかもしれない。
 最悪の場合は、全米で180万人が入院し、そのうち30万人が集中治療室に入ることになるだろう。そして、死者は3万人から9万人に上るかもしれないと。(科学者たちで構成されるオバマ大統領の諮問機関の発表)

これに対して、1957年のインフルエンザ大流行(「アジアかぜ」と呼ばれるH2N2型インフルエンザ)のときでも、アメリカで亡くなったのは7万人くらいなので、医療技術が進んだ今、「死者9万人」というのは大袈裟だろうと評論する方もいらっしゃいます。
 毎年、アメリカでは、高齢層を中心に3万人から4万人が季節性インフルエンザ(seasonal flu)で亡くなっていることを考えると、むやみに国民を怖がらせるのもよろしくないのではと。

けれども、新型インフルエンザの恐さは、新しいゆえに謎が多いこと。今のところ、ウイルスの変異は見られないものの、いつ「猛毒」に変身するやもしれません。だから、みんなで流行させないように気を付ける必要があるのですね。


さて、表題に出てきた「flu buddy(インフルエンザの相棒)」という変な名前の制度ですが、これは、今週から始まる大学が多いことを受けて、CDCが全米の大学に向けて発した警告なのです。

大学への警告とは穏やかではありませんが、たとえば、こんなものがあるのです。

いろんな人が出入りする大学の寮では大流行が懸念されるので、もしも新型インフルエンザにかかった寮生がいたら、なるべく別の部屋に移すなどして、ルームメイト(同室の寮生)から隔離すること。
 この場合、実家が近い寮生は、公共の交通機関を使わずに、タクシーや自家用車で自宅に戻るのが望ましい。

感染した寮生は部屋からは出ないように心がけ、食事を運んでくれたり、講義内容や宿題を知らせてくれたりする「flu buddy」を指定すること。
 そのflu buddyが部屋を訪れるときには、感染者はきちんとマスク(surgical mask)を着用し、接触した人にうつさないように留意すること。部屋を出られるのは、熱が下がって平熱に戻った24時間後とする。

病院が急増した患者の対応に追われることが予想されるので、大学側は、医師の診断書がなくても「病気欠席」を認めること。そして、講義や試験に無理矢理出て来るように強制しないこと。

これからシーズンが始まるフットボールの試合やコンサートなど、人が集まる場所には感染者が出て来ないように徹底すること。

こまめに消毒液(hand sanitizer)を使い、共用のコンピュータのキーボードなどは、使用前に使い捨て消毒布(disinfectant wipes)でぬぐうよう心がけること。

などなどと、かなり細かいガイドラインが定められているのです。

アメリカの場合、大学に入ったら家を出るのが基本なので、実家が近くても学校の寮に入る人も多いのです。それに、そもそも家を出たいからと、わざと遠くの州の学校を選ぶ学生もいるくらいなのです。
 ですから、大学構内で寮生活を送る学生が圧倒的に増えるわけですけれども、これがインフルエンザの拡大に災いすると懸念されているのですね。


もちろん、大学だけではなくて、幼稚園、小学校、中学、高校と「K-12 (Kindergarten to 12th grade)」と呼ばれる初等・中等教育でも、生徒の間で急激に蔓延する可能性があります。ですから、こちらに対しても、CDCはちゃんとガイドラインを出しています。

けれども、こちらも大学へのガイドラインと同じく、基本的には、学校に出て来ないようにと「隔離」を呼びかけているのですね。

感染した生徒は自宅療養するように指導すること。具合の悪そうな生徒や先生の早期発見につとめ、早めに家に帰すこと。

そして、手洗いや手の消毒を励行し、むやみに目や鼻や口を触らないように徹底すること。咳をするときには、口と鼻を覆うようにエチケットを指導すること。


この手洗いや咳のエチケットに関して、サンノゼのある小学校では、こんな指導をしているそうです。

「手を洗うときには、ハッピーバースデーを2回歌いましょう」
 「咳やくしゃみは、ドラキュラみたいにしましょう」

もちろん、ひとつ目のルールは、Happy Birthday を2回歌うほどに、長くしっかりと手を洗いましょうということなのですが、ふたつ目の「ドラキュラ」というのは何だかおわかりになりますか?

よく映画に出てくるドラキュラは、日の光を目にしたり、ニンニクを突き付けられたりすると、しかめっ面をして腕とマントで顔を覆うではありませんか。ちょうどそんな風に、咳やくしゃみをするときには、曲げた片腕を顔の前に持って来て、腕のくぼみで口や鼻を覆いましょう、ということなのですね。

言うまでもなく、ウイルス感染者の唾液が咳やくしゃみで飛沫となって飛ぶのを防ぐ意味があるのです。

そして、ウイルスの感染ルートは、ドアの取っ手やパソコンのキーボードと「触ること」でもありますので、手洗いの励行も必須条件ですね。とくに新型ウイルスは、「手」が大きな感染経路とも言われているそうなので。

それにしても、「ドラキュラみたいにハクション(sneeze like Dracula)」とは、うまく考えたものですね。こうやって教えてあげると、小さい子たちは喜んで練習するそうですよ。

(こちらの写真は、8月24日付のサンノゼ・マーキュリー紙に掲載された小学生の練習風景です。ドラキュラの咳を実演してくれているのは、カーラ・ラミレズちゃん、6歳。ハッピーバースデー手洗いのあと手の汚れをチェックしているのは、ヤディラ・ラミレズちゃん、8歳。)

けれども、学年を追うごとに、だんだんと素直じゃなくなってくるので、中学生ともなると先生の言うことをなかなか聞かないらしいです。「そんなに言うことを聞かないなら、幼稚園児を呼んでお前たちを指導させるぞ」と、脅しをかけた中学校の先生もいるんだとか。


たぶん、これから秋冬に向かって、日本でも学級閉鎖などが増えていくのではないかと思われるわけですが、アメリカでは、なるべく学級や学校を閉鎖しないで、「flu buddy制度」「自宅待機」「ドラキュラの咳」、そして、新型予防接種(swine flu vaccine)などで難を乗り切ろうという方針のようです。

「一斉に学校を閉鎖すると、どうしても勉強の遅れが出てくるので、デメリットの方が大きい」というのが、CDCや国の立場のようですね。(これに対して、「甘過ぎる!」と批判する人もいるようですが。)

ところで、気になる新型予防接種は、アメリカでは8月初頭から実地テストに入っていて、今のところ「腕が痛くなる」以外は、さしたる障害は報告されていないようです。(大人へのテストは8月7日から、子供へのテストは8月19日から行われています。9月に入ったら、妊婦さんへのテストも始まるそうです。)

テストも順調に進んでいることだし、10月になったら、広く一般市民にも接種できるのではないかと予測されているようです。が、なにせ新型ワクチンは3週間あけて2回受けないといけないらしいので、大部分の人の接種が終わるのは、11月後半ではないかとも言われています。
 そして、ちゃんと予防効果が出てくるのは、その2、3週間後・・・。

新型インフルエンザのシーズンは、早ければ9月初頭に始まり、10月中旬には猛威を振るうかもしれないということなので、予防接種は時間との闘いかもしれません。

「Flu buddy制度」も「ドラキュラの咳」も、単なる杞憂に終わってしまえばいいのですけれどね。

Don’t let the bed bugs bite you(おやすみなさい)

いきなりですが、「おやすみなさい」のお話です。

たぶんイギリスから来たのだと思いますが、アメリカでは、子供を寝かしつけるときに、よくこう言うのです。

Sleep tight. Don’t let the bed bugs bite you.

最初の文章 Sleep tight は、「しっかりと寝なさいよ」という意味です。

Sleep tightly と言ってもいいのですが、tight は形容詞でもあり、副詞でもありますので、Sleep tight でも大丈夫なのです。それに、こっちの方が、ゴロがよくて言い易いですしね。

Sleep tight の代わりに、Sleep well とも言い換えられます。

けれども、次の文章はいったい何でしょう。

Don’t let the bed bugs bite you は、文字通りの意味は「ベッドにいるシラミ(トコジラミ)に噛まれたらいけませんよ」というわけですね。

(こちらは、Let A ~ 「Aに~させる」という構文の否定形で、Don’t let A ~ 「Aに~させないように」という構文ですね。)

実は、この二つの文章は慣用句となっているので、自然と対になって出てくるものなのです。ですから、この慣用句全体で「ゆっくりと、ちゃんと寝なさいよ」という意味なのだと覚えていていいと思います。

ちょっとややこしいので、誰かに「ゆっくりと寝てください」と言いたいときには、単にこう言ってもいいかもしれません。

Have a good night’s sleep.


けれども、「トコジラミに噛まれないように」なんて、どこからそんなヘンテコな表現が生まれたの? と、ちょっと気になるところではありますよね。

いろんな言葉や慣用句の語源(etymology)には、諸説ありますし、どれが正しいとは決して断定できないわけですが、どうやら、Don’t let the bed bugs bite you に関しては、長年にわたって、文字通りの意味で使われていたようなのです。

つまり、実際に、「トコジラミに噛まれないように十分に注意して、しっかりと寝なさいよ」という意味で使われていたようなのです。

たぶん、トコジラミ(bed bugs)という生物は、英語が生まれた頃から自然界に存在していたのでしょうが、昔は、ベッドで寝るときには、トコジラミがいないことを確認して、注意しながら寝ていたのでしょう。

実物は見たことがありませんが、トコジラミなる昆虫は、長さ4ミリ、幅3ミリほどの大きさなので、ちゃんと目に見えるものなのです。だから、ダニとは違うのですが、噛まれるとダニ同様、かなりかゆいそうなのです。赤く湿疹ができて、腫れ上がる場合もあるとか。

昔は、ベッドのマットレスなんてものはなかったので、ベッドのフレームにロープをきつく張って、その上で寝ていたそうです。すると、ベッドの足を伝ってやって来たトコジラミが、ロープの隙間から、人間目がけてビュンビュンと入り込む。
 シラミなんてものは、人間や動物の血を吸って生きているものですから、ベッドの上でおとなしく寝ている人間は、いい餌食(えじき)となるのです。

イギリスでは、トコジラミの被害がひどくなると、ベッドの足を灯油の入った容器に浸けておいて、シラミがベッドの足を登れないようにする習慣もあったくらいだそうです。

けれども、1950年代にはDDT(有機塩素系の強い殺虫剤、現在は使用禁止)の普及によって、トコジラミもすっかりと姿を消した・・・。


それで、どうして今になってこんな話をしているかと言うと、近年、アメリカではトコジラミが大発生の兆しを見せていて、注意した方がいいかなと思ったからなのです。

大学の寮や、ホテル、滞在型の施設など、いろんな人が入れ替わり立ち替わり入って来る場所で、大発生しているそうなのです。
 この辺りでは、名門私立のスタンフォード大学やサンノゼ州立大学の寮でも大騒ぎになっていましたし、一時的に施設に入っている人たちの希望として「新しいマットレスが欲しい」という、切なるクリスマスの願い事も耳にしたことがあります。

わたし自身も、先日、カナダに旅行したときには、「これだけは注意しよう」と意識していたのでした。ちゃんとしたホテルですから、大丈夫だとは思いましたが、荷物にくっついて我が家に持って帰って来たら大変ですものね。
 普通の殺虫剤には耐性があって、一度家に入り込むと、なかなか退治できないそうなので。(もちろん、手入れの行き届いたホテルでしたので、我が家の場合は大丈夫でした。)

ですから、アメリカのホテルに泊まったときには、一応ベッドのシーツを確認した方がいいかもしれませんね。それから、ベッドやソファーの上にべたべたと衣服を置かない方がいいのかもしれません。そして、台の上に置いたスーツケースは、開けっ放しにしないこと。

もちろん、そんなことは杞憂に終わる、安心なホテルも多いとは思いますが、ひどい場所(安めのモーテルなど)になると、マットレスやソファーの縫い目に白い卵が!なんていうのもあるそうです。(雌は生涯のうちに500個も卵を産みつけ、卵が孵化すると5週間で大人になって卵を産みつける・・・、という恐~い話もあるのです。)


というわけで、英語のお話からはすっかり遠ざかってしまいましたが、本日のお題はこちら。

Sleep tight. Don’t let the bed bugs bite you.

ちょっと前までは、単に「おやすみなさい」の慣用句でしたが、今はいやに意味深なものがある。そういった表現なのでした。

ちなみに、いつまでも「おねむ」の人のことを、sleepyhead と言います。

「眠たい頭」とは、ねむくて頭がボ~ッとする感じがよく出ていますよね。

なかなか目を覚まさない子供を思い浮かべるようで、ちょっとかわいくて、ホッとする表現でしょうか。

カナディアンロッキーはレンタカーでどうぞ

8月の初め、カナダの西側にあるカナディアンロッキーに行ってきました。

カナディアンロッキー(Canadian Rockies)は、カナダの西側の2州、ブリティッシュコロンビアとアルバータの間にそびえる壮大な山脈です。アメリカのコロラド州やモンタナ州を南北に突っ切るロッキー山脈(Rocky Mountains)の連なりとなりますね。

カナディアンロッキーに行くとなると、アルバータ州カルガリーが最寄りの空港となるのですが、サンフランシスコからは同じ太平洋側なので、ひとっ飛びといった感じです。国際線ではありますが、飛行時間はわずか2時間。ニューヨークは6時間ほどかかりますので、東海岸に行くよりもずいぶんと近いのです。(近いついでに、国際線のくせに食事も出ないんです。)


個人でカナディアンロッキーを旅する場合は、カルガリー空港でレンタカーを借りるのが一番簡単な方法だと思いますが、空港を出たら、まず「大陸横断ハイウェイ1号線(Trans-Canada Highway 1)」を見つけましょう。

我が家の場合は、かれこれ十数年前にスキー旅行で訪れているのですが、それがかえって仇(あだ)になってしまいました。近年、空港周辺では宅地化が進んでいて、巨大な新興住宅地に入り込み、あやうく迷子になりそうだったのです。
 1号線は確かこっちだったよねと、GPSナビゲーションを疑いながら進んでいたのですが、周辺のあまりの変わりように、道を見失いそうになりました。

(そう、1号線はダウンタウン付近では一般道になるので、それがちょっといやらしいのですね。帰りにわかったのですが、街中を通るルートは道路工事で遅滞していたので、結局、ちょっと遠回りをして新興住宅地を突っ切ったのは良かったのかもしれません。)

けれども、ひとたびハイウェイ1号線に乗って西に向かえば、バンフ(Banff)でもルイーズ湖(Lake Louise)でも目的地には迷わずに到着できます。


カルガリーに降り立つと、そこはもう標高1000メートル級の高地なのですが、それから先は、山脈に向かってだんだんと高くなっていきます。
 1号線に乗ってしばらくすると、目の前には大きな山脈のシルエットが見えてくるのですが、「え~っ、あんなところに入って行くの?」と、ちょっと不安すら覚えるかもしれません。

そして、実際に山脈の中に入って行くと、右にも左にも巨大な山々がそびえているわけですが、どれもこれも山肌が険しくて、ちょっと恐い感じもするのです。

「やっぱり自然は大きいなあ」と、いきなりカナディアンロッキーの洗礼を受けることでしょう。

夏場は道がちょっと混んでいるし、冬場にはできない道路工事区間があるので、バンフには1時間半、ルイーズ湖には2時間半ほどかかるでしょうか。けれども、目の前に出てくる風景は次々と変わっていくので、その行程もなかなか楽しいものなのです。


今回の旅では、ルイーズ湖を宿泊地としたのですが、湖畔にある「シャトー・レイクルイーズ(Chateau Lake Louise)」の他にも、付近にはロッジがいくつかあります。連れ合いが最初に一人でここを訪れたときには、お隣の「ディアー・ロッジ(Deer Lodge)」に泊まったそうです。「あ~、昔とまったく同じだぁ」と、懐かしそうな声を出しておりました。
 その頃は観光客も少なかったのか、夏に訪れたのに予約なしでも泊まれたそうです。きっと今は、とくに週末ともなると、予約がないと難しいことでしょう。
 こちらのロッジも、20世紀初頭には営業を開始していたそうなので、19世紀末にできたシャトー・レイクルイーズに並ぶくらい、歴史のある宿泊場所なのです。

そして、ルイーズ湖の鉄道駅近くには、ちょっとした集落があって、付近にはキャンプ場もあります。

ルイーズ湖周辺にはキャンプ場は2つあって、ひとつはトレーラー(寝泊まりできる大きな車)専用の「レイクルイーズ・トレーラー(Lake Louise Trailer)」、もうひとつはテント専用の「レイクルイーズ・テント(Lake Louise Tent)」と呼ばれているそうです。
両方とも200家族分ほどのスペースがあるそうなので、結構広いキャンプ地なのでしょう。集落とは道を隔てた反対側の、ボウ川(Bow River)と鉄道線路に挟まれた所にあります。こちらの線路はカナダ太平洋鉄道(Canadian Pacific Railway)のもので、今はおもに長~い貨物列車が通ります。

近くの集落のスーパーマーケットで買い物をしていたら、男の子を連れた日本人家族が、水を大量に買い込んでいました。ここで1週間ほどキャンプをして過ごすのでしょう。
 そのあと、わたしたちが泊まっているホテル周辺のハイキングコースでもお見かけしたので、きっと到着したばかりだったのでしょうね。とりあえず、辺りを散策中といった感じでした。(それにしても、あんなにたくさん水を買い込んで、ちゃんと全部使い切るのかなと、人ごとながら心配しておりました。)


自慢にはなりませんが、わたしは生まれて一度もキャンプをしたことがないので、キャンプ場がどういうものなのかは、よくわかりません。それでも、カリフォルニア州のヨセミテ国立公園やカナダに近いワシントン州のオリンピック国立公園などでキャンプをしている人たちを見かけたことがあるので、アメリカやカナダのキャンプ場は、なんとなく快適そうだなとは思っているのです。

一部の日本のキャンプ場のように、温泉の露天風呂といったシャレたものはありませんが、少なくとも水洗トイレやシャワーはあって、何日か過ごすには不便を感じないほどに整備されているように思います。ルイーズ湖のキャンプ場にも、トイレもシャワーもきちんと完備されているそうです。

そして、トレーラーで旅をしていると、そんな必需品は車に装備されているのではないでしょうか。

これまた、わたしには未経験なので何とも言えませんけれども、トレーラーのコマーシャルをテレビで見かけたりすると、その豪勢さにびっくりしてしまうのです。ベッドはあるし、食卓はあるし、冷蔵庫はあるし、小さな家で旅行しているような感じではないでしょうか。
 まあ、トレーラーにもいろいろとタイプはあるのでしょうが、限られたスペースにコンパクトに必需品がまとまっていて、なかなか快適であろうと思うのです。

そして、そんなトレーラーをレンタルできるのですね。

カナディアンロッキーを走るレンタカーの中では、トレーラーはかなりポピュラーなようですが、あちらこちらの名所の駐車場では何台も見かけました。

このようなレンタルトレーラーには、「Rent me!」とか「RV4Rent」などと車体に書かれていたりするのですが、そういった誘い文句を眺めていると、自分も新しい旅のやり方を体験してみたいなぁとも思うのです。

(「Rent me!」とは、「わたしを借りてちょうだい、つまり、この車をレンタルしてちょうだい」という誘い文句ですね。「RV4Rent」は「RV for Rent」ということですが、RVとはRecreational Vehicleの略で、旅行用のトレーラーのことです。つまり、レンタルできるトレーラーがありますよという宣伝文句ですね。アメリカでは、家の代わりにトレーラーに住んでいる人も多いのですが、このような住宅用のタイプは機動力がなくて、トラックに引かれて移動するものも多いですね。「トレーラーパーク」と言うと、トレーラーに住んでいる人たちが長期に借りる区域で、月々場所代を支払うようになっています。)


そんなわけで、夏でもありますし、今回の旅では自由にレンタカーで移動していたわけですが、カナディアンロッキーを運転する上で、ひとつ気を付けるべきことがあるのです。

それは、大きなトレーラーが多いので、ノロノロ運転の車をよく見かけるということです。

たとえば、ルイーズ湖から北に向かうには、アイスフィールズ・パークウェイ(Icefields Parkway、別名93号線)という幹線道路を通ることになるのですが、ここは片道一車線の区間があるので、要注意なのです。
 前方に遅い車を見かけたとしても、黄色い二重線の場所では追い越しはできませんからね。言うまでもなく、二重線のこちら側が破線となって、初めて追い越しが許されるのです。

それから、そういう交通ルールだけではなくって、運転マナーの問題も出てくるんです。もちろん、トレーラーを運転している方々には、マナーの良い方が多いのですが、小型トラックなどを運転なさっている方の中には、こちらが追い越しをしようと加速すると、途端に加速なさる方もいらっしゃるのです。そんなに追い越されるのが嫌なら、ノロノロしなければいいのに・・・。

そういうのを見かけると、「きっと、あの人もカリフォルニアから来たんだろうね」と話していたのですが、カリフォルニア人みたいにせっかちなカナダ人も少しはいるのかもしれませんね。(でも、「せっかち」の大部分はアメリカからの旅行者だと思いますけれど。)

そう、広いカナディアンロッキーですから、急がず、あせらず、のんびりと行けばいいと思うのですよ。

そんなに急がなくても、山や湖は逃げて行きませんからね。

山と湖: カナディアンロッキーのすすめ

Vol. 121

山と湖: カナディアンロッキーのすすめ

 

8月上旬、喉に痛みを感じ風邪でもひいたのかと思っていたら、はるか南のサンタバーバラで起きた山火事の煙のせいでした。煙ははるばる450キロを旅して、サンフランシスコ・ベイエリアまで流れ込んでいたようです。

はるばる旅をするのは、山火事の煙ばかりではありません。先日わたしも1600キロを飛んで、カナダの西側に行ってきました。そんなわけで、今月は、カナダが誇る雄大な自然をつづってみることにいたしましょう。

<山>
カナダ・アルバータ州のカルガリーに降り立つと、ここが1000メートルの高地であることを感じます。飛行機は台地に築かれた街に降り立つ感覚ですし、草地の緑も平地よりもずいぶんと淡い印象です。その高地カルガリーをあとにして、車は一路西にカナディアンロッキーへと向かいます。
カナディアンロッキー(Canadian Rockies)は、カナダの西側の2州、アルバータとブリティッシュコロンビアの間にそびえる山脈で、アメリカのコロラド州やモンタナ州を南北に走るロッキー山脈の連なりとなります。ゆえに、その雄大さは、アメリカのロッキーにも引けを取りません。
 


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カルガリー空港を出て間もなく、前方には奇怪な山並みが姿を現します。遠くにあるのでまだ青いシルエットのままですが、その不規則な稜線は、てんでばらばらに切り紙細工を施したよう。
さらに西に進んで行くと、一本道の大陸横断1号線は、いよいよ山脈の中に突入します。右にも、左にも、山肌をあらわにした険しい山々がそびえ、これがどんよりとした曇りだったら、どんなに恐ろしいものだろうと、いきなり自然の威力を感じるのです。


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最初にこれを見た人は、いったいどんな言葉を発したのだろう。この地で生まれた先住民族の子供たちは、いったいいくつの頃に、この山々の存在をはっきりと認識したのだろうと、脈絡もない疑問が頭に浮かんできます。今は出逢うこともない「先住民族」を意識するほど、目の前に広がる大きな景色には畏敬の念を感じるのです。

けれども、たとえばハワイの山々が、ときには怒りをあらわにする厳しい神の集う場とすると、こちらは、ちょっと暢気な神々の住処なのかもしれません。細かいことは気にしない、そんな神々の気質がそこはかと表れているようでもあります。

カナディアンロッキーの魅力は、やはり、そのスケールの大きさにあるでしょうか。この辺りには、バンフ、ヨーホー、ジャスパー、クートゥニーと名だたる国立公園が隣接していますが、1984年には、これら4つの国立公園と3つの州立公園を合わせて、「カナディアンロッキー山岳公園群(Canadian Rocky Mountain Parks)」としてユネスコの世界遺産にも登録されています。
そもそも、カナダという国は、国土はアメリカよりも若干大きいわりに、国の人口はカリフォルニア州よりも少ないくらいです(約3,300万人対3,600万人)。ということは、でっかい土地に人はちょっと。だから、とくにカナディアンロッキーの地方では、どでかい山々が鎮座する隙間に人間がちょこっと住まわせてもらっている感があるのです。

そして、カナディアンロッキーのもうひとつの魅力は、夏でも冬でも年間を通して楽しめることでしょうか。もちろん、高地であるために冬場の積雪は激しいわけですが、それでも大きなスキー場があちらこちらに完備されていて、ホテル発着のバスに乗れば楽にスキー場まで連れて行ってもらえます。


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厳しい冬が明け、春から夏ともなれば、ハイキングにキャンプ、乗馬にボートと、やることは尽きません。ハイキングコースもキャンプ場も、それこそ「星の数ほど」整備されていますし、山歩きにしても、ベテランから初心者まで誰でもトライできるように段階的に準備されているのです。
とくにアウトドア派でなくとも、十分に自然を感じることもできます。わたし自身は、生まれて一度もキャンプをしたことがないほどの「インドア派」ではありますが、国立公園群を突っ切るハイウェイ(大陸横断1号線やアイスフィールズ・パークウェイ)が整備されているので、車で移動しながら目の前に広がるパノラマを楽しむことができるのです。

そんなカナディアンロッキーの目玉のひとつに、コロンビア氷原(Columbia Icefield)があります。バンフやルイーズ湖の集落から北に2、3時間向かって、バンフ国立公園がジャスパー国立公園に代わる境界線の近くです。幹線道路のアイスフィールズ・パークウェイ(93号線)からも見えているので、迷うことはまったくありません。
ここでは、まず駐車場にあるビジターセンターからシャトルバスに乗り、雪上車の停留所まで連れて行かれます。ここででっかい数十人乗りの雪上車に乗り換え、これでゴトゴトと急斜面を登って、氷原から流れ出すアサバスカ氷河(Athabasca Glacier)まで連れて行ってもらえます。
そうなんです、雪上車を降りて、氷河の上を歩けるのです!
 


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もちろん、氷河が固く安定した停車地のまわりを歩けるだけなのですが、それでも、氷河に足を踏み入れ、氷原を間近で仰ぎ見られるなんて、そんなに体験できることではありません。下界は摂氏20度と暖かいのに、氷河の上はたったの5度。寒がりのわたしは、4枚も重ね着をしておりました。
遠くに氷河を歩く隊列をいくつか見かけましたが、こちらはプロのガイドに付き添われたベテランのハイカーだそうです。氷河には底なしのクレバスがあちこちに隠れているので、ガイドがいないと歩けない規則になっているのです。「落ちたら最後、クレバスの中で人知れず凍てつくことになる」と、雪上車のドライバーはみんなを脅しておりました。
 


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コロンビア氷原は、いくつかの山頂をカバーするほどの大きな雪原なのですが、そこからアサバスカ氷河、隣のドーム氷河(Dome Glacier)と、8つの氷河となって四方に流れ出しているのです。
雪が30メートルほど積もると、雪の重みで底の部分が圧縮され氷になる。雪は圧縮されると空気が抜け、青白く光を反射するようになり、氷の固まりは1立方メートル当たり1トンの重みにもなる。この降雪と圧縮のプロセスを繰り返していると、そのうちに氷の層は氷河となって下へ流れ出す、そんなメカニズムなのです。
なんでも、アサバスカ氷河の氷は上から下まで150年もかかってゆったりと動くそうですが、氷原のてっぺんから数えると、実に500年の悠久のプロセスだそうです。
 


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けれども、そんな大きな氷雪の固まりも、時代の流れには勝てないようです。地球温暖化の影響か、氷河がどんどん後退しているのです。なんと1843年には、こちらの写真のカナダの国旗までは氷河があったそうです(左がアサバスカ氷河、右がドーム氷河)。
それから160余年の歳月が流れ、気が付いてみると、はるか遠くまで氷河は後退している。そして、氷河の下流には、溶け出した水が湖を成している。
そういったお話は、6年前に旅したスイスでも耳にいたしましたが、世界のあちらこちらで、「あと100年経ったら、ここの氷河はすっかり消滅してしまう」とも言われているようです。

今から1万年前まで続いた氷河期の更新世(Pleistocene)は、氷期と間氷期を繰り返し、気温の変化が激しい時代ではありましたが、それでも、10万年周期で平均気温が10度(摂氏)上下するほどの変化でした。そして、地上の生物にとっては、数千年のうちに数度変わるだけでも、急激な「壊滅的な」変化となるのです。

アサバスカ氷河に立ってみて、足下に広がる氷の固まりに愛着すら覚えたわけですが、そんな自然の偉大さとはかなさを感じるだけでも、カナディアンロッキーのドライブは、十分に価値のあるものかもしれませんね。

<湖>


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そもそも、どうして今回カナディアンロッキーを旅したかというと、かれこれ18年前に、スキーをしにこの辺りを訪れたことがあるからなのです。そのときは、バンフの街にある「バンフ・スプリングス・ホテル(Banff Springs Hotel)」に一週間滞在して、思う存分スキーを楽しみました。最終日にはあちらこちらをドライブして、有名なルイーズ湖(Lake Louise、レイクルイーズ)にも足を伸ばしたのでした。
もちろん、冬場なので辺りは雪に埋もれ馬ゾリが走ったりしているわけですが、ルイーズ湖には厚い氷が張って、ここでアイススケートができるようになっています。アイスリンクのまわりには、角の立派なエルク(大型の鹿)の氷の彫刻が施され、歓迎ムードに満ちています。
わたしは北の育ちではないので、自然の氷でスケートをするのは初めてだったのですが、これがなんとも難しい。氷を平にする「ザンボーニ(製氷車)」なんてあるわけがないので、表面がゴツゴツとしていて、スケート靴のブレードがひっかかるのです。滑るというよりも、まるでヨチヨチ歩きです。
あんなにヘタクソなスケートをしたのは、最初にスケートにトライした日以来だったのですが、そこで悔し紛れに思ったのでした。「ふん、氷のないときに、もう一度来るぞ!」
 


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まあ、ルイーズ湖というのは、その神秘的なエメラルド色の水から、「カナディアンロッキーの宝石」と称されるほどの美しい湖です。ですから、一度は氷のないときに訪れた方が良い場所であることは確かなのです。
そして、この神秘の湖レイクルイーズが、二度目の旅の宿泊地となりました。19世紀末から湖畔にたたずむ、「シャトー・レイクルイーズ(Chateau Lake Louise)」という老舗のホテルでした。

旅に出る前、お向かいさんがこんな話をしてくれました。「わたしの祖母の名はルイーズというのだけれど、それは曾祖父が付けた名前なの。生まれたばかりの祖母の目が真っ青で、まるでルイーズ湖のようだったから、ルイーズという名になったのよ」と。きっと愛娘に名付けるほどに、一度見た湖の色が忘れられなかったことでしょう。
そんなイメージがあったので、ルイーズ湖は青いのかと思っておりましたが、実際には、宝石のエメラルドに白を混ぜたような色なのです。ちょっと青みがかった緑とも言いましょうか。


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そして、ルイーズ湖という名は、輝かしいヴィクトリア朝を築いたイギリスのヴィクトリア女王の娘、ルイーズ・キャロライン・アルバータに由来するそうです。夫がカナダ総督に任命されたために、カナダに住み民にも好かれたそうですが、泊まった部屋の壁にも、ルイーズ王女の写真が2枚も掲げてありました。(ちなみに、ルイーズ王女は、アメリカが独立宣言をしたときの英国王、ジョージ3世のひ孫にあたります。)

それにしても、どうしてこんな湖の色になるのだろう? これは、旅に出かける前のわたしの最大の謎でした。
すると、その悩ましい謎は、コロンビア氷原の雪上車のドライバーが解き明かしてくれました。答えは、「石の粉(rock flour)」にあるのだよと。
なんでも、カナディアンロッキーの山々は、マグマから成る火成岩ではなくて、石灰岩(limestone)、砂岩(sandstone)、頁岩(けつがん、shale)といった堆積岩で形成されているそうです。これらの堆積岩は雨水や雪解け水で砕け易く、砕けて粉なった石が水に溶け出し、それが川となってどんどん湖に流れ込んでいるのです。


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とくに、貝殻や水生の生物の骨格が海底に堆積してできた石灰岩は、炭酸カルシウム(calcium carbonate)を主成分とするので、水に触れると崩れ易い性質を持っているようです。セメントの原料ともなり、粉末は乳白色。
そして、このような乳白色の石の粒子が、周辺の湖をハッとするほどに鮮やかなものとしているのですね。フワフワと水に浮かぶ粒子は、青や緑の光をよく反射するのだそうです。
こちらは、ルイーズ湖に近いエメラルド湖(Emerald Lake)ですが、その絵の具を溶かし込んだような鮮やかな色から、ルイーズ湖と同じくらい有名な湖となっています。近くの山のてっぺんからは、古生代カンブリア紀の珍しい海の生物が化石になって発見され、「バージェス頁岩(Burgess Shale)」という名で学術的にも有名になっています。
 


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こちらの写真は、ルイーズ湖の源流となる白い川です。夏場は雨が多いことと、近くの氷河の雪解け水が絶えず流れ込んでいることから、水かさも増していますし、かなりの白さとなっています。こんなに白い川は、アメリカのワシントン州(太平洋側)でも見たことがあるのですが、ワシントン州はカナダのお隣でもありますし、この一帯は成り立ちが似ているのでしょう。
有名なアリゾナ州のグランドキャニオンも、おもに堆積岩でできていて、これをコロラド川がせっせと浸食した造形なんだそうです。全体に赤っぽくて、火山の島々ハワイの真っ赤な泥を思い浮かべますけれど、赤い色は、岩に含まれる酸化鉄(iron oxide)の色だそうです。
それにしても、カナディアンロッキーの険しい山肌しかり、グランドキャニオンの落差のある谷間しかり、あんなものを造り出すなんて、自然の力にも驚きではあります。

そんなわけで、ようやく念願の夏のルイーズ湖を訪れ、その源流まで見せてもらったわけですが、この湖は、眺めているだけでも心が浄化されるような場所でしょうか。夏場は人が多いので、湖畔のボート乗り場やハイキングルートはごった返しの感もありますけれど、部屋のバルコニーから湖面を見下ろしていると、湖畔の喧噪はミュートボタンでかき消されたようだし、目の前の山やはるか向こうの氷河が覆いかぶさってくるような迫力もあります。


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そして、湖の色は、空模様や時刻、風の具合によって刻々と変化し、一日眺めていても飽きないほどです。凪いだ朝方は、エメラルドの輝きを青緑で封じ込めたような色。太陽が昇って暖かくなると、小さく波立つ湖面には、だんだんと明るさが増してくる。そして、日が向こうの山に沈み、湖面が再び鏡のように静かになれば、緑青(ろくしょう)はわずかに黒みを帯びていく。

湖の色は季節によっても変わると言われているようですが、「turquoise(青緑)」という言葉がいったいどんな形容詞で飾られるのかと、またふつふつと興味が湧いてくるのでした。

<鉄道>


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ルイーズ湖からアイスフィールズ・パークウェイ(93号線)を北に向かうと、「クロウフット」という名の氷河が左手に見えてきます。「クロウフット(Crowfoot)」、つまり「カラスの足」という名前ですが、これは、カラスの足のように鋭い爪の生えた鳥の足に似ているところからきています。
近年、氷河の融解が進んでいて、爪の部分が消えかかっているそうですが、それでも、道路沿いのボウ湖(Bow Lake)にかぶさる格好のカラスの足は、まだまだ迫力があるのです。

そして、この「クロウフット」という名は、先住部族のリーダーの名でもあります。ブラックフット(原語Siksiká)というアルバータ州南部を領土とする部族連合のリーダーでした。戦いのたびに傷を負いながらも、味方を何度も勝利に導いた勇敢な人物と伝えられています。
19世紀末、このクロウフットのもとに、ローマカトリックの伝道師アルバート・ランコムがやって来ました。ブラックフットの領土に鉄道を通して欲しいと、直談判に訪れたのです。

1881年、カナダの東側から大陸横断鉄道を敷こうと、カナダ太平洋鉄道(Canadian Pacific Railway、通称CPR)が設立されました。実際にオンタリオから西に向けて鉄道工事を始めてみると、いくつかの大きな障害が出てきました。そのうちのひとつが、先住民族の領土に線路を通すことでした。
この頃は、とくに西側のアルバータ州やブリティッシュコロンビア州には、まだまだ伝統的な生活を守る先住部族も多く、彼らの領土に足を踏み入れることは「ご法度」とも言えることでした。
そこで、懐柔策に駆り出されたのが、ランコム伝道師。彼は、ブラックフットのリーダーであるクロウフットと会談を重ね、説得にあたります。相手は、百戦錬磨の勇敢な戦士です。味方をあやつり、実力で工事を阻止することは可能なのです。
けれども、結局はクロウフットも時代の流れを悟り、自分の領土に鉄道を通すことに合意します。戦いというものを知っているだけに、無駄に血を流すことを嫌ったのかもしれません。その後、工事を阻止しようと実際に武力行使に出た周辺部族もありましたが、クロウフットは参戦をかたくなに拒否したそうです。
 


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そんなCPRの西に向けた大陸横断ではありましたが、1885年暮れには、早くも目的地である太平洋岸のブリティッシュコロンビア州まで到達するのです。
これによって、「1885年までには大陸を横断してやる!」というCPRの約束は守られたわけではありますが、工事には、多大な犠牲が伴いました。上述の先住部族の抵抗で血が流されたこともありますが、工事に駆り出された人夫たちの労働条件も過酷なものだったのです。
人夫の多くはヨーロッパからの貧しい移民でしたが、アメリカの大陸横断鉄道と同様、発破作業などの危険な仕事は、もっぱら中国人人夫の担当となっておりました。彼らは「クーリー(coolies)」と侮蔑の名で呼ばれ、食事代や宿泊費を雇い主に取られると、もともと安い賃金は手元にほとんど残らなかったと言われています。

一方、カナディアンロッキーの難所も人の前に大きく立ちはだかっておりました。最短距離を考えると、険しい谷間でも線路を通さなければならなかったのです。最大の難所となったのは、キッキングホース峠(Kicking Horse Pass、訳して「蹴り上げ馬の峠」)でした。
ここでは実際に鉄道が開通したあとも、事故が絶えませんでした。落差が激し過ぎるために、列車が安全に通れる線路の傾斜度ではなかったのです。
 


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そこで、1909年に完成させたのが、スパイラルトンネル(Spiral Tunnels、訳して「渦巻きのトンネル」)。端的に言うと、高低差の部分をまっすぐに行こうとしないで、ぐるぐるとトンネルで遠巻きにしながらクリアしましょうよ、というコンセプトなのです。
こちらは、実際に列車がやって来たところです。ちょっと見にくいですが、写真の下方、左から右に向かって列車が進んでいて、はるか向こうの先頭部分(写真中央部)は、山腹で口を開けるトンネルにまさに突入しようとしています。


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そして、このトンネルに入った列車がどこから出てくるかというと、右巻きにグルッと回転したあと、線路の下にぽっかりと開いたトンネルの出口から出てくるのです。多分、トンネルの中はかなりの下り坂になっているのでしょうが、それでも、直接勾配を突っ切ろうとするよりもずいぶんと緩やかな傾斜のはずです。
こちらの見晴し台からは、長い貨物列車がトンネルから出て来るときに、最後尾はようやくトンネルの中に消えて行く、という珍しい光景を眺められるのです。場所は、ルイーズ湖からエメラルド湖に向かう1号線の途中、下り坂の右手にあります(列車が通る時間になったら自然と人が群がってくるので、見落とすことはありません)。
 


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もともとCPRの大陸横断鉄道は、東と西を結ぶ大事な産業連絡路ではありましたが、カナディアンロッキーの周辺には、バンフやルイーズ湖という風光明媚な地も点在しています。これらの名所にヨーロッパや東海岸から金持ちを呼んで一大観光地としよう、そんな意図もあったようです(こちらの写真は、昔懐かしいバンフ駅)。
「景色を運び出せないなら、旅行者を運び込め!(Since we can’t export the scenery, we’ll import the tourists)」というのが当時の鉄道関係者の合言葉だったようですが、そうやって19世紀末には、バンフ・スプリングス・ホテルやシャトー・レイクルイーズという名だたるホテルが築かれたのでした。

今は、列車に乗らなくとも、金持ちでなくとも、誰もが気楽に行ける便利な時代となりました。

後記: 山があって、氷河があって、湖があって、どことなくスイスを彷彿とさせるカナディアンロッキーの風景ではありますが、「スイスよりも大きいかな」というのが個人的な印象でした。もしかしたら、この規模と美しさからいくと、世界でも屈指の景色かもしれない、とも感じたのでした。まあ、最終的には、個人の好みの問題ではありますが。

それにしても、思ったよりも日本人観光客が少ないのにはがっかりしてしまいました。アジア系観光客となると中国人と韓国人が多く、何人か日本人を見かけたのは、ルイーズ湖のまわりとコロンビア氷原だけでした。
もしかすると、今どきの日本では、カナダなんて流行らないのかもしれませんね。今は「象の背中に揺られてジャングル探検」とエキゾチックなものが受けるのかもしれませんが、もっとカナダの自然を見直そうよ!と、ちょっと不満が残ったのでした。

高山病にかかり易いわたしは、標高1600メートルの宿泊地はギリギリの線でしたが、酸素が足りない脳細胞は、深い思索をすっかりあきらめ、ボ〜ッと過ごそうよと決め込んでいたようです。「大きいなあ」「きれいだなあ」「すごいなあ」ばかりを繰り返しておりました。
旅から戻ると、今度は「楽しかったなあ」を連呼していたのですが、そこまで子供のような反応をするということは、よほど楽しかったということなのでしょう。
 


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そういえば、近年アメリカでは、「take it easy(ゆっくりやろうよ)」という言葉を耳にしなくなったような気がいたします。とくに昨年の金融危機以来、労働人口が減っているわりに生産性は上がり続けているそうなので、労働者はギリギリと締め付けられて「ゆとり」がなくなったということでしょう。
たまには、ゆっくりやってもバチは当たらないでしょうに。

というわけで、日本からはちょっと遠いですが、機会がありましたらカナディアンロッキーへぜひどうぞ。大きな自然を「体感」できることでしょう。

夏来 潤(なつき じゅん)



従業員は羊さん

5月の中頃、家の近くのゴルフ場から帰って来た連れ合いが、「ねえ、ねえ、羊さんがいるんだよ」と、真っ先に報告してくれました。

なんでも、ゴルフコースの脇の雑草の生い茂る野原で、羊がわんさと放し飼いになっていて、メエ、メエという鳴き声がゴルフのバックグラウンドミュージックになっていると言うのです。

それは、さっそく見に行かなきゃと、カメラを持って出かけたのですが、言われた通りに、羊の群れがおとなしく柵に囲われ、みんなでハムハムと雑草を食べているではありませんか。最初は、まさか、こんな住宅地の真ん中で?とは思いましたけれど、これは連れ合いの悪い冗談ではなかったんですね。

群れの中には、かわいい子羊たちもいて、お母さんの真似をして、一生懸命に草を食べています。なにやら、こちらの黄色い花がお好みのようで、子羊たちは、枯れ草よりもこっちの方に気を取られています。

いったい何匹いるのかはわかりませんが、みんな好き勝手に鳴く声が、辺りに響き渡っています。

そして、そばでよ~く聞いてみると、鳴き声はメエ、メエではないんですね。どちらかというと、バアァァァ、バアァァァという風に聞こえるのです。

もしかすると、大人の羊(sheep)は「バアァァ(baa)」と鳴き、子羊(lamb)の方は、かわいく「メエ(meh)」と鳴くのかもしれませんね。

ちょっと滑稽ではありますが、アメリカ人が真似をするときも、「バアァァ、バアァァ」と言っています。(動物の鳴き声を真似するのは、万国共通の現象ですね。)


ところで、どうしてこんなにたくさんの羊さんがいるのかというと、べつに誰かの趣味で飼育しているわけではありません。この羊さんたちは、立派に「従業員」として動員されているのです。

そう、ご察しの通り、枯れ草を食べる従業員として雇われているのですね。

カリフォルニアは、夏の間、丘や山肌が黄金色の枯れ草に覆われてしまうのですが、住宅地に近い場所では、火事にならないようにと、せっせと枯れ草を刈らないといけません。ひとたび枯れ草が発火すると、火はどんどん燃え広がり、家に引火して大事な財産を焼き尽くしてしまうからです。

そこで、5月も中頃を過ぎ、雨季が完全に終わる頃になると、住宅地のまわりの雑草を刈る「草刈り隊(mowing crew)」が雇われるのです。けれども、中には急な斜面もあって人が仕事をするには危ない場所もあるし、第一、草刈り機の火花が原因となって山火事を引き起こすケースも多々あるのです。
 なんでも、カリフォルニアの山火事の9割以上は、自然発火ではなくて、たき火だとかエンジンのスパークだとか人為的な原因によるものなんだそうです。だから、火花を起こさない四本足の動物は、ありがたい助っ人となるのですね。

というわけで、今年からは、我が家のまわりでは、人間の草刈り隊に代わって羊さんたちが雇われたということなのです。


ところが、実際に羊さんを雇ってみると、ちょっとした問題が起きるのですね。それは、羊さんは好みがうるさくて、雑草の食べ残しが出てくる場合がある。そう、連れ合いが最初に羊さんを見かけたときにも、一緒にゴルフをプレーしていた方が、こうおっしゃっていたそうです。

「羊もいいけれど、ヤギの方が好き嫌いなく何でも食べるから、いい仕事をするんだけどね。」

すると、2週間もしないうちに、今度はヤギさんも雇われることになりました。

こちらは、一生懸命に仕事をするヤギさんのご一行です。カメラを向けると、はて何だろう?と、顔を上げてこちらを観察しています。あまり、人を恐れる風でもなく、興味津々といった感じです。

もちろん、野生のヤギではないので、人には慣れているのでしょうけれど、ペットでもない動物と近くで顔を合わせると、こちらはおっかなびっくりになってしまいます。

でも、ひととき立ち止まって観察してみると、あちらにもお父さん、お母さん、子供といった家族構成があるみたいで、お母さんは子供の世話をする係、お父さんは家族や群れを見守る係と、役割分担があるようなのです。
 そして、子供にはやっぱり子供の特権があるみたいで、お母さんのそばで甘えています。

それにしても、これだけ枯れ草があれば、食べる物には困りませんよね。彼らは、機械で刈るよりも徹底的に美しく食べ尽くしてくれるそうです。(そして、食べ尽くされたあとには、みんなが見失った「ロストボール」が50個、100個・・・)

しかも、水飲み場さえ確保しておけば、あとはここで食べて、ここで寝てくれるのです。手がかからず、とっても楽ちんなのです。(それに、彼らの排泄物は、いい肥料になるではありませんか!)

けれども、羊さんやヤギさんのような優しい動物は、ボブキャットやコヨーテの標的になり易い。だから、野生の恐~い動物が彼らを襲わないようにと、まわりには弱電流を通した柵がめぐらされています。羊たちが逃げ出さないようにという意味もあるようです。

もちろん、ここでも環境に優しいようにと、電気だって太陽電池で発電しているのです。


5月中旬に姿を現した羊さんの群れは、18番ホール、17番ホール、16番ホールと順番に場所を変えていきます。ヤギさんの方は、6番、7番、8番と移動して、我が家からは見えなくなってしまいました。

そして、6月中旬、向いの丘には、羊さんの第二集団が現れました。きっと、羊さん第一集団では歯が立たないので、第二集団を追加で雇ったのでしょう。

というわけで、草刈り隊が3つもいるので、いつしか我が家の裏庭にも来てくれるだろうと、ウキウキしながら待っておりました。
 子供たちは裏庭の羊たちに名前を付けて、親しく呼んでいるなんて話も耳にするので、自分だったらどんな名前を付けてみようかと、手ぐすねを引いて待っていたのです。

ところが、6月の終わり、朝早く騒音で起こされて窓の外を見てみると、なんと人間の草刈り隊が雑草を刈っているではありませんか!

うるさい上に、勝手に雑草を刈れてしまったなんて!と、その日一日、ご機嫌斜めで過ごしておりました。人間が3人いると、ものの20分でそこら中を刈ってしまうのですが、それでは風情がではないではありませんか。


そんなわけで、わたしはがっくりと肩を落としたわけですが、その一方で、裏庭に羊やヤギがやって来るのも考えものだと言う人もいるのです。どうしてって、バアァだのメエだのと鳴き声がうるさい。最初のうちはいいけれど、四六時中鳴かれるとやっぱり気になってくるのでしょう。

それに、羊の方だって柵に囲われているのは嫌なときもあるみたいで、先日、お向かいさんが「羊の脱走」に遭遇したのです。
 羊がどっと柵を乗り越え、裏庭の向こう側のゴルフコースに逃げ込もうとしたので、自分たちとまわりにいた人間10人ほどで通せん坊をしたと言うのです。

そして、急遽、カウボーイと羊飼い犬(sheep dog)を呼んで、無事に「脱走犯たち」を柵の中に連れて行ったのですが、さすがに羊飼い犬はよく訓練されていて、脱走犯たちも犬の指示にはおとなしく従っていたそうです。

なんでも、カウボーイさんの方は、インディアナ州から来られた元トラック運転手だそうで、今はトラックの仕事が少ないから、カリフォルニアに来て期間限定のカウボーイをやっているということでした。

今は、住宅地の裏の小屋に仮住まいしているそうですが、「大変だ、脱走犯がいる!」と電話があったときには、近くのスーパーマーケットでお買い物をしていたそうです。いったい誰がカウボーイのケータイ番号なんて知っていたんでしょうね?

ちなみに、羊やヤギに雑草を食べさせるのは昔から行われていた手法だそうで、何も近年の「エコ発明」ではないそうです。

追記: きっと、羊とヤギの鳴き声をご存じない方も多いのだと思いますが、以下のサイトでお聞きになれます。
 羊は、こちらをどうぞ。上にメニューが並んでいるのが羊で、その下が子羊です。
 ヤギは、こちらをどうぞ。右側の「Playlist(プレーリスト)」でいろいろと選べます。どちらかと言うと、8番目の「Goat」というのが普通の感じでしょうか。

ちなみに、我が家の近くの草刈り隊は、羊さんがバアァァで、ヤギさんがメエですね。
 それにしても、バアァだのメエだのといった騒音の中でゴルフをするのも、かなりの試練だそうですよ。「無我の境地」の訓練にはいいかもしれませんね。

花火とムーンウォーク: アメリカが輝くとき

Vol. 120

花火とムーンウォーク:アメリカが輝くとき

 


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夏のシリコンバレーは、雨が一滴も降りません。そう思っていたら、先日、車のフロントグラスにチョボチョボと水滴が付いたことがありました。もちろん、こんな雨はすぐに終わってしまうので、残念ながら、恵みの雨とはいきません。ちょっとだけ雨のにおいを感じただけ、といったところでしょうか。(写真は、シリコンバレーにあるStevens Creek水源地)

そんな夏のシリコンバレーからは、アメリカらしいお話をいたしましょう。日頃、いろんな問題を抱えるアメリカですが、誇らしげにパッと輝くこともあるのです。そんなお話です。

<独立記念日>


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ご存じのように、7月4日は、アメリカの独立記念日(Independence Day)ですね。国民の休日が少ないアメリカでも、さすがにこの日はほとんどの人がお休みとなりますので、昼間はみんなでバーベキューをしたり、パレードを見学したり、夜は花火を観たりして楽しく過ごす一日となっております。
日本でも有名でしょうけれど、毎年ニューヨークで開かれるホットドッグ大食い選手権も、この独立記念日に開かれるのですね。

このように「楽しい」イメージの強い独立記念日ですが、いったいこの日は何かと申しますと、それまでイギリスの植民地だったアメリカの13州が独立する旨を記した宣言書(the United States Declaration of Independence)を、米国議会(当時は大陸会議)が採択した日なのです。
実際には、大陸会議の56人の議員がいつ独立宣言に署名したのかは諸説分かれるようですが、1776年の7月か8月だったことは確かなようです(有力な説は8月2日だそうです)。ですから、アメリカは、今年で建国233年ということになりますね。
そして、宣言の採択を祝う独立記念日には、みんな胸を張って星条旗を掲げ、国民であることに誇りを持つという、輝かしい一日ともなっております。

ところで、独立宣言はかなり長い文章なので、いったい何が書かれているのかと疑問に思うわけですが、結局のところ、人間は平等に生まれ、人としての権利を認めてもらわなければならないはずなのに、大英帝国の植民地に生きる自分たちは、英国王ジョージ3世にまったく権利を認めてもらっていないと、イギリスに対する怨みつらみが書かれていると言ってもいいでしょう。
重税を課されているわりに、英国議会へは自分たちの代表を送ることもできないし、自らの政権を樹立することも許されていない。しかも、イギリスの軍隊が駐留して睨みを利かしているではないか。だからこそ、自分たちは絶対君主制に抵抗し、国として独立する必要があるのだと。
そう、宣言のかなりの部分は、ジョージ3世の植民地政策に割かれ、彼がいかに統治者として不適切であるかを説いているのです。その中には、「イギリスが大挙して役人を送り込み、わたしたちを悩ませ、好きなだけタダ飯を食べている」なんていう下りもあるのです。

まあ、そんな「怨みつらみ」の部分も読んでみるとおもしろいものではありますが、この宣言で一番有名な箇所は、冒頭に出てくる独立の主文ですね。今でも、アメリカ国家の中心的理念として引用されることが多いです。
「わたしたちは、以下の事項を自明の真実とする。すべての人間は平等であること。人間は創造主によって、生命、自由、幸福の追求といった侵さざるべき権利を授けられていること。(We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.)」
ゆえに、これらの権利を守るために政府がつくられるわけだが、もし政府が人々に害を及ぼす危険があるときには、これを改めるか、廃止して新たな政府をつくるかの権利が人にはある(it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government, . . . )。
 


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この歴史的に有名な宣言文を読んでみると、いかに一国の独立宣言であるとはいえ、よくもまあ、こんなにはっきりと物を言えたものだと感心するわけです。
もちろん、これはイギリスに向かって送られた書簡ではなくて、前年に勃発した独立戦争(the American Revolutionary War)を戦う同胞の士気を鼓舞するための宣言ではありますが、相手は強大な軍事力を誇る大英帝国。後にフランス、スペイン、オランダがアメリカの助っ人となったとはいえ、よくもまあ植民地の分際でイギリスに宣戦布告する勇気があったもんだと感心してしまうのです。

しかし、相手は強かった。そんなに簡単には行きません。独立宣言が米国議会で採択されても戦いはさらに続き、7年後の1783年、パリ条約で終戦が締結されて初めて、アメリカは一国として独立が認められることになります。
独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンも、1781年、当時のヴァージニア州知事という役職からイギリス軍に追われ、馬を駆って辛くも逃げたという苦い体験を持つのです。
ちなみに、パリ条約の頃、アメリカという国は大西洋岸からイリノイ州辺りまでの小国でして、カリフォルニア州などは影も形もありませんでした。カリフォルニアでは、50を超すさまざまな先住部族が狩猟採集の生活を営んでおりましたが、1769年以降、スペイン人が植民地メキシコを足がかりにして統治を始めようかと乗り出した頃でした。
 


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そんなわけで、大英帝国を相手に謀反を起こしたアメリカの「勇気ある無謀さ」にも感心するわけですが、それと同時に、同胞を鼓舞した独立宣言とは実にうまく練られた文章だなぁとも感服するのです。
たとえば、上に引用した主文の「すべての人は平等である」という下り。もちろん、この記載には、当時アメリカで労働力として使われていた「奴隷」は除外してありますが、それでも「人は平等である」とはよく言ったものだと感心するのです。

そして、この一文を読むとふと思い出すことがありますよね。そう、幕末・明治維新の思想家、福澤諭吉先生の『学問のすすめ』。冒頭に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という名文が出てきます。
なんでも、好学の福澤先生は、それ以前にアメリカ独立宣言の全文を和訳して『西洋事情』という著書で紹介しているそうで、宣言文の中身は熟知していらっしゃったのですね。
ですから、『学問のすすめ』にも、平等の思想だけではなくて、「政府に対して不平があったら、抗議の手段をとって遠慮なく議論すべきである」とか、「(必要以上に)厳しい政府というものは、民が愚かであることが招いたわざわいである」などと、独立宣言にある自立の精神が脈々と流れているようにも感じるのです。

それから、独立宣言に出てくる「平等」「生命、自由、幸福の追求」といった表現は、日本国憲法の第三章・第十三条「個人の尊重」と第十四条「法の下の平等」にもしっかりと反映されていますね。

そうやって考えてみると、アメリカの独立宣言とは、日本には無関係の無味乾燥の文書というわけではないのですね。

追記: 福澤諭吉先生の『学問のすすめ』は、ちくま新書の現代語版(斎藤孝氏訳、2009年発行)を参照いたしました。第8章「男女間の不合理、親子間の不条理」などを拾い読みしてみると、「このご仁はおもしろい!」と痛感した次第です。

<アメリカって結構シビア>
「輝き」とはまるで正反対ではありますが、何が「シビア」かって、アメリカの労働条件がかなり厳しいというお話です。まあ、労働条件にはいろんな要素が絡んできますが、今は夏休みのシーズンということで、ここでは休暇のお話に絞りましょう。

上のお話の冒頭でもちょっと触れましたが、一般的なイメージに反して、アメリカは国民の休日が少ない国なのです。これはなぜかと言うと、厳密には、「国民の祝日(national holidays)」というものが存在しないからなのです。
えっと驚いてしまうような話ですが、アメリカの連邦議会(国会)には、連邦政府機関とそこで働く公務員、そして連邦議会のお膝元である首都ワシントンDCに対してのみ、休日を定める権限があるのです。
つまり、それ以外の民間人に対しては、国は勝手に休日を定めることはできない。たとえ独立記念日のような大々的な祝日だったとしても。

しかも、国は民間人に対して、「自分たちの祝日を休みにしなさい」とは指導していません。そう、国の法律には、「従業員に祝日(paid holidays)や有給休暇(paid vacation days)を与えなければならない」と課している法律はないのです。
極端に言うと、ある会社が祝日を一日も与えず、しかも有給休暇を一日も与えなくても、それは法律違反にはならないということです。

とは言っても、さすがに一日も休みがないと誰も働いてくれないので、大部分の会社は祝日を何日かお休みにしてあげたり、有給休暇を何日か(お印程度に)与えたりするわけですね。
けれども、たとえ独立記念日のような、誰もがお休みをいただいているときに働かされたとしても、それは法律違反にはならないし、休日出勤手当などはあげなくてもよいということなのです。(公務員の場合は、祝日に出勤すると休日手当をちゃんといただくようですが。)

それでは、州のレベルではどうかと言うと、少なくともカリフォルニア州は、国にぴったりと準拠しています。つまり、カリフォルニアには、「祝日や有給休暇を従業員に与えるべし」という法律はありません。だから、独立記念日に働かされたとしても、訴え出ることはできないのです。
そういう意味では、休日とは、従業員の「権利(rights)」ではなくて、会社が与える「恩恵(benefits)」という位置づけでしょうか。
この点では、アメリカの休日と医療保険制度はよく似ていますね。原則的には、国が国民に与えるべきものではなく、あくまでも、国民が働く企業や団体が責任を持って与えるという理解。何でも民間に委託する態勢が徹底しているアメリカならでは、といったところでしょうか。
 


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わたしが働いていたシリコンバレーのスタートアップ会社では、どの日を休みにしようかと、他のベテラン企業に聞き取り調査をしていました。さすがに世の中の大部分の人が休んでいるときに働かされると、従業員の憤懣が一気に爆発するので、「みんなと一緒に休みましょう」ということになるのですね。
そして、そのときに参考になるのが、国で働く公務員の休日でしょうか。国の公務員は、年間に10の祝日がお休みとなります。
1月の「元日」と「(公民権運動の指導者)キング牧師の誕生日」、2月の「ワシントン初代大統領の誕生日(別名:大統領の日)」、5月の「メモリアルデー(戦没者追悼記念日)」、7月の「独立記念日」、9月の「レーバーデー(労働祭)」、10月の「コロンブス記念日」、11月の「ベテラン(復員軍人)の日」と「感謝祭」、そして12月の「クリスマス」です。
同じ祝日でも、宗教色のかなり濃い「復活祭」や「聖灰の水曜日」、ユダヤ教の「ハヌカ」、そして子供たちに大人気の「ハロウィーン」などはお休みにはなりません。

けれども、公務員が民間人よりも多く休むのは世の常でありまして、企業の場合には、「ワシントンの誕生日」とか「コロンブス記念日」などは、まず休みにはなりません。祝日が休みとなるのは、年間せいぜい7日がいいところでしょう。

そして、有給休暇はというと、それこそ会社の規模や業種によって大きく異なりますし、従業員の職種や就業年数によって十人十色となります。しかし、概してアメリカが他国に劣るのは否めない事実でして、5年~10年勤続で20日(有給休暇と病気休暇を合わせて)というのが関の山のようです(米労働省の統計を参照)。

これは、世界の先進国や新興国と比べても見劣りのする数値でして、ある会社が調べた49カ国のうち、アメリカより休みが少なかったのは、タイとヴェトナムの2カ国だけでした。(Mercer Human Resource Consultingが調査した勤続10年の国別平均有休日数を参照。ここでは、アメリカは祝日10日、有休15日の計25日と定義。ちなみに、日本は祝日15日、有休20日の計35日とされる。現在は、祝日16日?)
 


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まあ、日本では、有給休暇があっても有名無実であり、だからこそ国民の休日が多いのだというわけではありますが、それは何も日本に限ったことではないような気もするのです。アメリカでも、有給休暇を消化できない人が多いので、「退職時に買い取る」制度を採用する企業もあるくらいです。
とくに今は、経済が停滞する厳しい時期。「仕事があるだけでありがたく思え!」という強気の経営者が多いので、労働者はさらに苦境に立たされる。しかも、休暇を取ろうものなら、仕事のメールは毎日チェックするように仕向けられる。

きっとこの夏、一年に44日も休暇がもらえるフィンランドがうらやましい! と叫んでいるアメリカ人も多いことでしょう。

追記: 蛇足ではありますが、有給休暇だけではなく、病気休暇(sick leave days)も国の法律では徹底されていません。国の法律(Family and Medical Leave Act)では、ガンのような重病のみに「無給の病気休暇を与えるべし」と定められています。しかも、従業員50人未満の会社や勤続一年未満の従業員は、この法律には該当しません。
それから、有給休暇に対して、無給で従業員を休ませる日を「furlough days(ファーローデイズと発音)」と言います。近頃は、カリフォルニア州政府のように財政破綻寸前の自治体も多いので、カリフォルニアの公務員も「月に3日」と、無給休暇を余儀なくされています。

<ムーンウォーク>
「ムーンウォーク(moon walk)」と申しましても、先月末に亡くなったマイケル・ジャクソンさんのことではありません。天才エンターテイナーMJの一ファンとしましては、彼のことを書きたいのは山々なのですが、こちらは、本物のムーンウォークのお話です。
 


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7月22日、日本中が皆既日食で騒然となった前日、アメリカでは月面着陸40周年のお祝いで騒然としておりました。新聞やテレビで特集が組まれたばかりではなく、シリコンバレーのグーグルも、自社開発のGoogle Earth(グーグルアース)に「月ツアー」の新機能を加えています(アメリカ時間では7月20日が記念日)。
今から40年前の1969年7月16日、3人の宇宙飛行士を乗せたアポロ11号が地球を飛び立ちました。3日後には無事に月の軌道に乗り、翌7月20日、軌道を周回する司令船から月に降り立ったニール・アームストロング機長とエドウィン“バズ”・オルドリン飛行士のふたりが、人類初のムーンウォーク(月面歩行)を果たしたのでした。もうひとりのメンバー、マイケル・コリンズ飛行士は司令船に残り、月に向かうふたりをサポートしておりました。

きっと、凝ったサイエンスフィクションの観過ぎなのでしょう。今まで、この月面ウォークを目にしても、あまり何とも思いませんでした。けれども、40周年を機によ~く考えてみると、「これは偉業としか言いようがない」と、初めて事の重大さに気が付いたのでした。
何がすごいって、まず、この時代のコンピュータなんて大した頭脳を持っていなかったのです。よくテレビに写っているアポロ11号のヒューストン管制司令室なんて、今に比べると、おもちゃみたいなものかもしれません。
ピコピコとスイッチに明かりが灯って、ずいぶんと偉そうな機械が並んでいるように見えますけれども、ここにあるコンピュータを全部合わせても、今のノートパソコン一台に満たない頭脳でしかなかったとも言われています。

月を周回している司令船(command module “Columbia”)から月着陸船(lunar module “Eagle”)が離れたときなんか、ヒューストンのみんなはストップウォッチ片手に固唾を呑んで見守っていたそうですよ。なぜって、司令船を離れてすぐに着陸船は降下コースを外れ始めたのですが、着陸レーダーを使い始めた途端にコンピュータが「処理不能」のエラーメッセージを放ち、コースを大きく外れているのがわかったときには、もう燃料が底をつきかけていたから。
計算では、高度5万フィートから12分を想定した降下でしたが、飛行士の操縦に切り替えたときには、辺りはフットボール球場くらいのゴツゴツしたクレーターになっていて、とても着陸できる状態ではありません。あと500フィートあるのに、逆噴射(降下第二)エンジンを半開にしても、燃料は2分と残っていない!
訓練では、残りの燃料が30秒になったら、何が何でも着陸しろと言われていたのですが、偶然にもその瞬間、目の前に平地が開けてきたではありませんか! そうやってようやく月面にタッチダウンしたときには、残り30秒を切っておりました。

そして、月から司令船に戻るとき。だいたい、月面にあるものがどうやって軌道上の司令船に合体するのかと、今の技術でも難しい話だと思うのですが、このアポロ11号の着陸船には、エンジンが一個しかありませんでした。ということは、これが不調だと月から飛び立てない!
実際、起きたんです、大きな問題が。月面ウォークから着陸船に戻って来たふたりは、床に何か破片が落ちているのを発見。事もあろうに、上昇エンジンのスイッチが、ゴワゴワと大きな宇宙服にひっかかって壊れてしまったんだそうです。え、スイッチが壊れたら、エンジンがかからないじゃない!
もちろん、飛行士だってそう思ったわけでして、ここで頭脳明晰なオルドリン飛行士は考え付いたのです。ここにペンを差し込んで、スイッチの代わりにしようと。先がフェルト状になっているペンを着陸船に持ち込んでいて、それを差し込んで辛くもエンジンをスタートさせたそうです。

いえね、このとき、それまでに行った上昇エンジンの実験からすると、月から司令船に戻れるのは五分五分ともささやかれていたそうです。当時のニクソン大統領だってそのことは十分に承知していて、ホワイトハウスから月面のふたりに声をかけたときには「ニール、バズ、おめでとう」と労をねぎらっていたくせに、その裏で、側近には死者に向けた賛美の文章を準備させていたのです。
もしも事がうまく運ばなかったならば、「運命がふたりを安らかに月面に立たせ、そして安らかに眠るために月に残した」と、全世界に向けて発表するつもりだったそうです(近年発見されたホワイトハウスの保管文書より)。
けれども、当の飛行士たちは、万が一そうなったとしても最後の最後まで努力し、酸素がなくなったら静かに眠ろうとの決意を胸に抱いておりました。アポロ計画の飛行士には、戦闘パイロットとして実戦を経験した人も多く、誰からの援護もなく危機的状況に立ち向かうのには慣れていたそうです(オルドリン元飛行士ご本人の談話)。
 


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見事に月面着陸を果たした3人の宇宙船は、7月24日明け方、3つのパラシュートに運ばれながら、無事に太平洋に着水しました。高度1万フィートまで下りて来ると、塩を含んだ空気のにおいを感じたそうです。「何とも言えない地球の歓迎だった(That’s quite a welcome-home sensation)」と、オルドリン元飛行士は回想しています。

40年経った今、人々が再び月面着陸に魅了されるのは、画期的な有人飛行を果たした強き、良きアメリカへのノスタルジアばかりではなく、人の力で月に着陸し、人の力で月から生還したドラマがあるからなのでしょう。
技術の粋を集め、テストにテストを重ねて、万全の態勢で臨んだアポロ打ち上げではありましたが、やはりコンピュータ黎明の時代にあれだけのものを月に飛ばしたというのは、人間だって賛美に値するものではありませんか。

追記: このお話は、NASA(アメリカ航空宇宙局)のウェブサイト、サイエンスチャンネル番組「First on the Moon: Untold Story」(2005年制作)、インタビュー番組「Charlie Rose」(1999年7月のオルドリン元飛行士の談話)などを参考にいたしました。
ちなみに、今はとても危なくて月に人を送り込むことなんてできないそうですが、それでも、40周年を機に「月にもう一度」とか「月を足がかりにして、いざ火星へ!」という気運が高まっています。
つい先日、サンフランシスコ・ベイエリアを訪れたバズ・オルドリン氏も、「今こそ、月を超えて火星を目指すとき!」と、NASAに熱いエールを送っています。

アメリカの宇宙開発の理念は、「すべての人類のために平和目的のみであるべき」というもの(連邦法令集にある連邦議会宣言)。その輝かしい理念のもと、宇宙が平和利用されることを多くの地球人が願っていることでしょう。

Here Men From Planet Earth First Set Foot Upon the Moon. July 1969 A.D. We Came In Peace For All Mankind.
(月に残された着陸船の足場に刻まれた碑文「西暦1969年7月、ここに惑星地球の人類が初めて足を踏み入れた。我々はすべての人類のために平和に月を訪れた。」)

夏来 潤(なつき じゅん)

 

赤鬼さんと青鬼さん

先日、あまり好ましくない身内のニュースを耳にして、不思議とまったく関係のないことを思い出していました。

子供の頃、父の実家にお泊まりすると、なぜか薬屋さんに行く機会がたくさんありました。たぶん、誰かの風邪薬でも買いに連れて行かれたのでしょうが、わたしにとっては、それは楽しいお買い物なのでした。どうしてかと言うと、薬屋さんが絵本の景品をくれるから。

今となっては、どこの製薬会社が出していたのかもわかりませんが、買い物客が子供を連れていると、宣伝のために薄い冊子の絵本を配ることになっていたようです。
 今でも、アメリカのコーンフレークの箱には絵本のおまけが入っていたりするので、この方式はかなり効果があるのでしょう。


絵本はシリーズ物になっていて数種類ほどいただいた記憶がありますが、その中に、強烈に印象に残っているお話があるのです。それは、赤鬼さんと青鬼さんのお話でした。

ある村に赤鬼さんと青鬼さんがやって来ました。ふたりは仲良しで、村から村へと一緒に旅をしておりました。

ふたりはこの村をとても気に入ったので長逗留したかったのですが、村人にとっては鬼なんて嬉しい訪問客ではありません。赤鬼さんが「こんにちは」と声をかけても相手は逃げるばかりだし、誰かの家を訪ねようとしても、決して扉を開けてはくれません。

落胆している赤鬼さんを見て、青鬼さんがあることを思い付きました。村人の前で自分が悪党の役を演ずるから、自分をやっつけて村人の信頼を得なさいと。

そこで、青鬼さんは、ある村人の家に上がりこみ、怖がる家族に悪さをするふりをします。すると、そこに赤鬼さんがさっそうと登場し、青鬼さんをぽかぽかと殴り始めます。
 この騒ぎに村人たちが駆けつけて来るのですが、みんなが見守る中、赤鬼さんに本気で殴られた青鬼さんは、「ごめんなさい、ごめんなさい、僕が悪かったよ~」と退散してしまいます。

目の前で繰り広げられる赤鬼さんの武勇伝に、「なんだ、赤鬼さんはとてもいい人じゃないか」と、村人は赤鬼さんを褒めそやし、お酒とごちそうで歓待します。

宴も終わって、「あ~、村の人たちとも仲良くなれたし、嬉しいなあ」と、のんびりとねぐらに戻って来た赤鬼さんは、置き手紙があるのに気づきます。それは、青鬼さんからのもので、中にはこう書いてありました。

「赤鬼くん、願った通りに村の人たちと仲良しになれて良かったね。この先、僕なんかが君のそばにいると都合が悪いから、僕はまたひとりで旅に出ることにするよ。」

それを読んだ赤鬼さんは、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしたのでした。


このお話は、どなたが書いたものかも、どこかの言い伝えなのかもまったくわかりません。もしかすると、わたしの記憶すら正しいものではないのかもしれません。

けれども、友を思う青鬼さんの優しさと、友をなくした赤鬼さんの悲しみは記憶のひだに深く焼き付いているのです。そして、お話がハッピーエンドでないことに、ひどく不満を抱いたこともよく覚えています。

今になってこのお話を思い返してみると、ふと不思議なことに気がつくのです。赤鬼さんと青鬼さんは、「外から来た者」つまり「外見の異なる者」の象徴だと思うのですが、どうして単一民族の日本で鬼さんの話はポピュラーなのだろうかと。
 桃太郎の鬼退治を始めとして、日本には鬼が出てくる民間伝承はいくらでもあるではありませんか。

たとえば、民族が入り混じるヨーロッパやアメリカに鬼さんが登場しても不思議ではないと思うのです。アフリカ大陸でもそうでしょう。けれども、身体的特徴の同じ民族が住む日本で、どうして鬼なのかと。


もしかすると、鬼というのは、他民族のような外見や身なりの異なる者の象徴ではなくて、「まわりの村人に同化できない浮いた者」を表しているのかもしれませんね。

昔から、農業を営む村人たちは、何かと協力し合わなくてはなりませんでした。田植えや稲刈りもそうですし、家を建てたり、屋根をふき替えたりするのもそうです。
 ですから、一般的に農村は結束が強く、しきたりの厳しいところがあります。そして、この結束にもれると、「あいつは浮いている」というレッテルを貼られることにもなるのでしょう。

そして、この「浮いたヤツ」が、いつしか鬼に変化したのかもしれません。

けれども、「他民族」にしても「浮いたヤツ」にしても、鬼は退治するばかりではなくて、村人の方でも受け入れようとする動きがあったのでしょう。それが、上でご紹介したようなお話となったのかもしれませんね。

外見がまったく違う鬼でも、知ってみると自分と何も変わらなかった。その新たな認識が、鬼さんを身近なものとして感じるきっかけとなったのでしょう。
 実は、一番恐いのは鬼さんではなくて、鬼を怖がる自分たちの無知だったのです。

英語にもこんな表現があります。「fear of unknown(自分が知らないものを怖がること)」。
 身近でないものに接して一番恐いのが、心にムクムクと芽生える、この大きな幻影なのでしょう。


子供の頃、お話がハッピーエンドでないことに不満を抱いたわたしは、こう願っていたものでした。赤鬼さんがいつまでも村人と仲良くできて、青鬼さんもどこかの村で受け入れられたらいいなと。

そして、いつかふたりが再会して、楽しく笑い合えればいいなと。

いえ、わたしの中では、すっかりそういう筋書きになっているんですけれどね。

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