サンノゼって、どんなとこ? ~観光編その2

前回は『サンノゼって、どんなとこ? ~観光編』と題して、サンノゼから足を伸ばせる観光地のお話をいたしました。

成田空港からは、サンノゼ(ノーマンYミネタ・サンノゼ国際空港)に向けてANAの直行便(NH 1076便、10月以降は 172便に改名)が出ていますので、有名なサンフランシスコからだけではなく、サンノゼからも、気軽に観光地に行けると思ったものですから。

中でもモントレーカーメルは、一押しの観光地ですので、前回は二つの街の周辺をご紹介いたしました。

そして、今回は、もっと南に足を伸ばしましょう。

前回のモントレーとカーメルは、サンノゼから南に一時間ほどの太平洋沿いの街でしたが、もっと南に行くと、これまた有名な観光名所があるのです。

その名も、ハーストキャッスル(Hearst Castle)。

キャッスルというと「お城」ですが、まさにヨーロッパのお城みたいな豪邸が建っていて、州に寄贈された現在は、ツアー見学ができるようになっているのです。

でも、お城に行く前に、寄ってみたいところがいくつかありますので、まずは、そちらのお話からどうぞ。


サンノゼから南下してモントレーとカーメルの街を過ぎると、州道1号線(CA-1)は、ひたすら南に海沿いを走ります。

カーメルを過ぎた辺りでは、まだ平地を走りますので、たとえば、ポイントロボス州立自然保護区(Point Lobos State Natural Reserve)に立ち寄って、海を間近に感じるのもいいのではないでしょうか。

以前『モントレーのおみやげ話』でもご紹介したように、この辺りは海の幸が豊富だったので、19世紀後半、北カリフォルニアに移住してきた中国系の方々が、アワビ漁をしようと早くから居住区とした場所でした。

今では、人が住んでいた気配はほとんどなく、晴れた日には、真っ青な海の色を満喫できます。

この海の色とオブジェのような岩礁は、好んでアーティストが取り組む題材ですので、もしかするとスケッチブックを広げている方を見かけるかもしれません。

時間がなければ、海まで散歩して引き返すだけでも十分にリラックスできるし、時間に余裕があれば、公園管理官がガイドする散歩コースに参加すると、辺りの自然や歴史について物知りになれるでしょう。


ポイントロボスを越えると、1号線はだんだんと海から離れた高い場所を走るようになります。

カーメルの街から30分ほど下ったところには、ビックスビークリーク(Bixby Creek Bridge)という橋があって、こちらも1号線沿いの名所です。

高さが85メートルもあるコンクリート橋で、高いゆえに、見晴らしも抜群! 南下するときに助手席(右側)に座っていた人はラッキーでしょうか。

1930年代にこの橋ができる前は、冬の雨季になると、内陸の道路が土砂崩れで通れなくなって、ここから南のビッグサーの辺りは「陸の孤島」になっていたそうです。この橋は、美しいばかりではなく、立派な生活道路なんですね。

(間近に写真を撮ってみたいところですが、この橋は狭くて駐車できませんので、遠くから撮るか、離れた場所に駐車して歩いてカメラアングルを探すかしかないでしょうか)


ビックスビー橋から南は、ビッグサー(Big Sur)と呼ばれる地域で、切り立った崖がいくつも重なる海岸線となります。

霧に包まれた墨絵のようなビッグサーの崖の連なりは、絵はがきにもなるほどのカリフォルニア屈指の海岸線です。

ここは景色がきれいなばかりではなく、海洋生物がたくさん生息する地域でもあります。

モントレーにもいるカリフォルニアアシカ(California sea lion)が住んでいますし、年に2回ザトウクジラ(humpback whale)が訪れ、小高い丘からは潮吹きが見られます。

この辺りのラッコ(sea otter)は、モントレーのラッコの「祖先」でもあるそうです。なんでも、19世紀末にラッコが乱獲され、モントレーからは姿を消してしまいましたが、ビッグサーのラッコが北に生息地を伸ばしていったおかげで、今はモントレーでも繁殖しているとか。

ラッコには、1平方インチ(約2.5センチ四方)に人間の髪の毛以上の毛が生えているそうで、世の中で一番密度が濃い毛皮だそうです。ですから、皮を採るために、人間に乱獲されたのでした。

ビッグサーは、海洋生物だけではありません。

南に行くにしたがって山の緑が濃くなっていくのですが、この辺りのセコイア(redwood)の森には、一時は絶滅に瀕していたカリフォルニアコンドル(California Condor)が生息するそうです。

コンドルは、他の動物を捕らえるワシやタカとは違って、海岸に打ち上げられたアシカや陸上動物の死骸を食べるそうですが、くちばしは鋭く、アシカのような大きな動物でもうまく食いつきます。
 顔にはシワがあって、なんとなく絵本に出てくる西洋のおばあちゃん(!)みたいですが、大空を優雅に飛び、獲物をめざとく見つけるのです。(Photo of California Condor at San Diego Zoo from Wikipedia)

カリフォルニアコンドルの他にも、タカ(Red-tailed Hawk、アカオ・ノスリ)やヒメコンドル(Turkey Vulture)のような大型の鳥たちも生息していて、1号線からは「濃い緑の山」にしか見えない地域にも、さまざまな野生のドラマが繰り広げられているようです。

この辺りは、ロスパドレス国立森林の中でも「ヴェンタナ原生地域(the Ventana Wilderness)」と呼ばれるところで、コンドルやアメリカの国鳥ハクトウワシ(Bald Eagle)の再生・野生復帰(restoration/reintroduction)に努める保護区です。

自然を楽しめるようにハイキングコースがいくつもありますが、コヨーテやクーガー、ガラガラヘビもたくさんいるそうですので、山に分け入るときには、自然の生き物と出くわす心構えをしておいた方がいいかもしれませんね。


自然がとくにお得意じゃなくても、もちろんビッグサーを満喫できます。

1号線沿いには、有名なリゾートが2つあって、こちらに泊まれば、のんびりと海を眺めながら息抜きができるのです。

ひとつは、1号線の山側にあるヴェンタナ・イン(Ventana Inn & Spa)。

ログキャビンみたいな部屋でキャンプ気分を味わえますし、高台にある施設なので、見晴らしのよい屋外スパにつかると、目の前に広がるのは太平洋の大海原のみ。

わたしも何年も前に宿泊したことがありますが、ピクニックランチを準備してもらって、1号線沿いで海を見ながらお弁当を楽しんだ記憶があります。この辺りの海は、紺碧だったり、ターコイズだったりと、豊かな表情で迎えてくれるのです。

こちらのリゾートはウェディングでも知られていて、ショートカットにした女優のアン・ハサウェイさんが、電撃的にご結婚なさった場所でもあります。

そして、もうひとつのリゾートは、海側にあるポストランチ・イン(Post Ranch Inn)。

こちらは、さらに海に近いので、潮風を肌で感じられる立地です。

崖の上に建つ部屋(Cliff House)や、丘に溶け込むような部屋(Ocean House:写真)、そして冒険心をくすぐる木の上の部屋(Tree House)と、それぞれに特徴があって、どれにしようかな? と迷うようです。

まだ泊まったことがないので、「ぜひ泊まりたいところ」として心に留めています。


というわけで、いよいよ目的のハーストキャッスルに近づいてきました。

ハーストキャッスルのある地域は、サンシメオン(San Simeon)と呼ばれますが、キャンブリア(Cambria)という小さな街の手前にあって、「大自然の中」という表現がぴったりでしょうか。

サンシメオンの海岸線には、大きな海洋生物がゴロゴロしていますが、こちらはアシカではなく、キタゾウアザラシ(Northern elephant seal)。

この辺のゾウアザラシは、一度は乱獲で絶滅しましたが、メキシコから北上してきたゾウアザラシが繁殖して、ここまで増えたと聞いたことがあります。なんでも、脂を採って灯油にするために乱獲されたそうですが、先述のラッコのお話と似ているでしょうか。

動物って、本来は何にでも興味を持つ(curious)生き物で、人間も友達だと思って近づいてくるのでしょうが、人の目には、モノとしてしか映っていなかったのでしょう。

一方、こちらは、サンシメオンの春の野原。ちょうど10年前に撮ったものですが、今でもお気に入りの風景写真になっています。
 オレンジ色の花は、カリフォルニアの州花「カリフォルニアポピー」。そして、教会の後ろの山頂に建つ建物群がハーストキャッスルです。

ハーストキャッスルには車では登れませんので、車は平地の駐車場に置いて、ビジターセンターでツアーチケットを購入し、そこからバスで坂道を上ることになります。

ツアーの種類は3つあって、時間帯によっては「これしかない」という場合もありますが、どれを選んでも十分に楽しめると思います。春と秋には、夕日を楽しむ夜のツアーもあるそうですよ。


さて、ハーストキャッスルに近づくと、教会みたいな荘厳な建物が見えてきますが、こちらが「母屋」のカサグランデ(the Casa Grande)。

スペイン語で「大きな家」という意味ですが、文字通り巨大な建物で、面積からすると、アメリカの平均的な一軒家の30戸分といったところでしょうか。

スペイン風の外観ですが、内部はヨーロッパ各地の建築様式を取り入れています。ヨーロッパの古城から運ばれた柱や装飾が、うまくインテリアに組み込まれていて、中には部屋全体をそっくりそのまま復元したものもあります。

この巨大な母屋だけではなく、敷地にはゲストハウスが3つあって、いずれも贅を尽くした建築様式と下界を見下ろす眺望を誇ります。

ところで、名前がついている「ハースト」というのは、新聞王で政治家のウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)のことです。

19世紀末から20世紀前半にかけて、アメリカ社会(西海岸と東海岸)で大きな影響力を持っていた方で、「お城をつくってやろう!」などと考えることだって大きいのです。

お城は、1919年、サンフランシスコ生まれのハーストが56歳のときに建築が始まったものですが、それまでサンシメオンに来ると山頂にテントを張って過ごしていたのが辛くなって「平屋建て」を建てようと思い立ったとか。

それが、いつの間にか「お城」の構想にふくらんだようですが、趣味で集めたアートや骨董品(約2万5千点)を展示する空間も欲しかったのでしょう。

一般的には、この年にスペイン風邪で亡くなったお母さんに捧げられたものと言われますが、この頃おおっぴらに「おめかけさん」である映画女優マリオン・デイヴィースと暮らすようになったそうで、彼女との新しい住処という意味もあったのでしょう(別居中の奥さんとは亡くなるまで離婚しなかったとか、できなかったとか・・・)。

お城には、美しいプールがふたつあって、太陽が照りつける夏の日には、ハリウッドから招待したきらびやかな友人たちとプールサイドで水遊びを楽しんだようです。

招待客の中には、チャーリー・チャップリン、ケーリー・グラント、クラーク・ゲイブルといった有名な俳優や、フランクリン・ルーズベルト(第二次世界大戦・戦前/戦中のアメリカ大統領)、ウィンストン・チャーチル(戦中/戦後のイギリス首相)と名だたる政治家もいます。

上の写真のネプチューンプール(the Neptune Pool)は、お城の建築が進み招待客が増えるにつれ、ハーストが2回増築を命じたそうで、ローマ風の建物(写真右端)は、実際にイタリアから運んで来た古代ローマの柱と正面装飾を使っているそうです。

もうひとつのプールはテニスコートの下にある屋内プールで、ローマプール(the Roman Pool)と名づけられています。柱の形やガラスタイルのモザイク装飾がビザンティン風でもあります。

ガラスタイルはヴェニス製で、薄暗い屋内プールには金地の装飾が映え、誰もがため息をつく「作品」となっています。


ハーストキャッスルの建築は、ハーストがハリウッドの病院に移るまで30年ほど続けられ、彼が1951年に88歳で亡くなったときは、未完だったそうです。が、現存する建物群は壮大なばかりではなく、細部まで美しい装飾が施され、見る者を圧倒するのです。

設計したのは、アメリカ初の女性建築家とも言える、サンフランシスコ生まれのジュリア・モーガン(Julia Morgan)。

依頼主のハーストは、ヨーロッパからいろんなものを運んで来ては「これを使いなさい」と命じていたそうで、若い頃からの知り合いだったとはいえ、付き合いにくいところもあったようです。(Photo of William Hearst and Julia Morgan from Wikipedia)

ネプチューンプールの古代ローマの柱だって、最初は庭に置く予定だったのが「池の脇に置こう」「いや、プールサイドに置こう!」と何回も心変わりがあり、結局はネプチューンプールをつくることになったとか(それだって2回も増築となり、設計図は何百枚も書き直し)。

ちなみに、お城の水は、10キロ離れた山頂の井戸から敷地内の水源地に運ぶという、大がかりなシステムで供給されています。

ハーストはまた無類の動物好きだったので、キリンや象、バッファローや虎と野生動物を集めては「動物園をつくってくれ」という依頼もありました。
(写真は、象のメアリーアンにエサを与えるジュリア・モーガン:Photo adopted from Julia Morgan: Architect of Dream by Ginger Wadsworth, Lerner Publications, Minneapolis, 1990, page 98)

以前『カリフォルニアの熊さん』でもご紹介したように、ハーストは、カリフォルニアで絶滅に瀕する野生のグリズリーを捕獲し、サンフランシスコ動物園に寄付した方でもありますが、ハーストキャッスルにも当時世界で一番大きな個人動物園をつくって、招待客に披露していたそうです。

敷地内では「動物が先を行く権限を持つ(Animals Have Right of Way)」というルールがあって、現役の英国首相であるウィンストン・チャーチルも、道路で休むキリンが立つまで身動きできなかったとか!

まあ、そんな大変なお仕事を引き受けた建築家ジュリアさんについては、また別の機会にお話しすることにいたしましょう。

でも、ひとつだけ。このハーストキャッスルに従事していたときには、サンフランシスコで病気の母と弟の面倒を看ていたにもかかわらず、月に3回サンシメオンまで通っていたそうですよ(片道400キロ近い道のりは、その頃どれくらいかかっていたのでしょうか?)。

というわけで、サンノゼからビッグサーを経由して、サンシメオンへ。

サンシメオンまで来れば、カリフォルニアの中間地点で、ロスアンジェルスにももう一息。

けれども、カリフォルニアの海沿いは、先を急がずのんびりと行きましょう。

写真出典: 冒頭と最後のハーストキャッスルの写真は、ハーストキャッスルのウェブサイトより。Ventana Inn と Post Ranch Inn の写真は、リゾートのウェブサイトより。

サンタクルーズへドライブ

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シリコンバレーは、山に囲まれた谷間(バレー)ですので、サンノゼを始めとして、多くの街は海に面しているわけではありません。

ですから、シリコンバレーに住む方々は、海が見たくなると、だいたいサンタクルーズにドライブします。

サンタクルーズ(Santa Cruz)は、サンノゼの真南にある太平洋沿いの街で、サンノゼからは州道17号線(CA-17)で山越えとなります。

まあ、この山越えの道がクネクネしていて、片側2車線の道路は狭く、いやでも隣の車が迫ってくるようです。おまけに、街灯がないので夜は真っ暗ですし、冬の雨季はスリップ事故も多いので、慣れないと運転しにくい道ではあるのです。

けれども、ようやく山を抜けてサンタクルーズまでたどり着くと、「あ~、来て良かった!」と思える場所なので、皆さんもドライブしたい気分になるのでしょう。

サンノゼから南下してくると、17号線が1号線(北方向)に合流するところでサンタクルーズ市内に入りますが、混んでいないと45分ほどの道のりでしょうか。

この辺りで、すぐにリバー通り(River Street)が出てきます。

このリバー通りを左折すると、レンガ造りの時計台が見えてきますが、これが街のシンボルの時計台。この先が、サンタクルーズのダウンタウン地区となります。

ひとたびサンタクルーズの街に入ったら、スローダウンいたしましょう。

この街には、なんとなくリラックスした、ヒッピーの雰囲気を備えた方も多く、セカセカとしたペースは似合いません。

近くにはカリフォルニア大学サンタクルーズ校(University of California, Santa Cruz)のキャンパスもあって、自由をモットーとした「リベラルの総本山」のイメージも全米に広まっています。

1960年代のヒッピーの時代に、学生たちが気ままに過ごすイメージが培われたようですが、実際は、天文学を始めとして優秀な研究者をたくさん輩出する名門校なのです。

街の中心地ダウンタウンは、近頃こぎれいになって、オシャレなレストランやショップが建ち並びます。歩行者や自転車も多いし、片側通行(one way)も多いので、間違って逆車線に入らないように要注意(!)箇所でもあります。

この辺は、のんびりと歩いてみるとおもしろい場所だと思うのですが、白状いたしますと、わたし自身は一度も歩いたことがないのです。たぶん昔は、寄ってみたいようなお店もなかったのだと思いますし、第一、ダウンタウンはすっ飛ばして、ビーチに行きたいではありませんか!

そう、サンタクルーズの街は、ビーチを楽しみたい人が集まって来るところ。

寒流の北カリフォルニアでは、泳ぐのは厳しいですが、それでもビーチ遊びはできます。

天気のいい日は、海が真っ青ですし、海の中にグイッと突き出た埠頭(Santa Cruz Wharf)を歩くのも、とっても気持ちがいいのです。

この埠頭は、1914年に建て替えられたもので、今年はちょうど100周年記念!

言われてみれば、ものすご~く長い木の柱を海に突き立てて、その上に板を打ち付けたような、簡素な感じ。横から見ていると、柱がポキッと折れそうで恐いのですが、埠頭の上には大きな市営駐車場もあるし、レストランやおみやげ屋が何軒もあるし、そんな重みを木の柱がしっかりと支えているのです。

この埠頭は、西海岸では一番長く、埠頭の長さは、なんと800メートル以上もあるそうです!

よく映画やドラマに出てくる、サンタモニカ(Santa Monica)の埠頭よりも長いんですねぇ。

週末になると、ドライブや観光で訪れる人も多いですが、釣りを楽しむ家族もたくさんやってきて、埠頭からは長い釣り糸が無数にたれています。

折りたたみ椅子に座って、音楽を聴きながらのんびりと待っている人。車のハッチバックに腰掛け、子供たちとサンドイッチを食べながらピクニック気分の人。そして、釣り竿の前で真剣に待っている人と、いろんなタイプの釣り人たち。

そんな釣り人のエサを狙っているのが、カモメたち。小さなまな板でエサ用の魚やイカを切っていたら、それをめざとく見つけて、にじり寄ってくるのです。実際に魚を釣り上げる人は少ないようですので、カモメにとってはエサを狙う方が、効率が良いのかもしれません。

そして、埠頭の下からは、何やら声が聞こえてくるのです。

アウッ、アウッ、と誰かとお話をしているようですが、これはカリフォルニア・アシカ(California sea lion)の鳴き声。

埠頭の橋脚でひなたぼっこをしているアシカや、グループをつくって波間に浮かんでいるアシカと、埠頭のまわりはアシカの住処になっています。

以前は、こんなにたくさんはいませんでしたが、きっと人間の努力の甲斐あって、だんだんと数が増えてきたのでしょう。

昔は漁業の船も多かったので、間違って網にかかったり、海に捨てられた網で首を締められたりと、アシカ人口にとっては、かなりの打撃があったようです。

戦後アメリカで頻繁に使われていた化学物質(DDTやPCB)も、長い間、海洋生物の環境に悪影響を与えてきました。

近頃は、さまざまな取り組みによって生活環境が改善され、サメ(shark)やシャチ(killer whale)の天敵の少ない埠頭の辺りは、アシカたちにとって絶好の住処となったのでしょう。

一見、暢気にお気楽に映るアシカたちですが、埠頭から身を乗り出して観察していると、アシカひとりひとりに個性があることに気がつくのです!

そう、他と徒党を組んで、その中で「俺が一番さ!」と威張ってみたいアシカがいます。この手のアシカは、声も大きいし、気性も荒い。だから、自分よりも弱そうなアシカに対しては、噛み付かんばかりに威張りちらすのです。

そんな「いじめっこ」からは逃れたいから、みんなで仲良く輪になって、のんびりと波に浮かんでいるグループもいます。

プカリプカリと浮かんでは、みんなで風に向かってヒレを突き立てたりしていますが、こんなグループがいくつも付近の波間に浮かんでいて、ちょっと不思議な光景です。

それから、まわりの喧噪なんて、何のその。グループから離れて、ひとりで優雅に海を泳ぐアシカもいます。

いろんなタイプがいて、まるで人間社会みたいだなぁと感心していると、連れ合いが声を上げます。

「あ、あのアシカがウンチした!」

例の優雅に泳ぐアシカが水の中でウンチをしたらしいのですが、ウンチと言っても、すぐに水の中で散らされるようなウンチ。

もしかすると、ああいうウンチって、魚たちのエサになるんでしょうか?

と、ついついアシカに目を奪われるサンタクルーズの埠頭ではありますが、近くの浜辺には、人間がわんさと集まる遊園地もあります。

ボードウォーク(Santa Cruz Beach Boardwalk)という入場無料の遊園地で、今から100年以上前にできた、由緒正しい遊園地なのです。

わたしもサンフランシスコに住んでいる頃は、よくここまで遊びに来ていましたが、なんとなく「古き良き時代」という言葉を思い出すような、近頃では珍しいタイプの遊園地です。

「ジャイアント・ディッパー(Giant Dipper)」という木造のジェットコースターなんかは、今から100年ほど前にできたジェットコースターなんですよ!

ゴトゴトと車輪をきしませて坂を登って行くと、もう、それだけで(壊れそうで)スリル満点。でも、このアンティークな乗り物以外にも、新しいアトラクションだってたくさんあります(乗り物は有料です)。

というわけで、サンタクルーズの埠頭と遊園地。

日帰りのドライブには最適ですので、もしも何日かシリコンバレーに滞在されることがあったら、足を伸ばしてみるのも楽しいかもしれませんね。

追記: 蛇足ではありますが、アンティークな「ジャイアント・ディッパー」は、1924年に始動したサンクルーズ名物のジェットコースターです。90年の歴史を誇り、2012年夏には6千万人目のお客さんを達成しました。

1987年には国から「国定歴史建造物(National Historic Landmark)」の指定を受けていますが、まだまだバリバリの現役。毎日ちゃんと人がコースを歩いて点検していますし、わたしが知るかぎり、事故が起きたことはありません。どうぞご安心を!

おじいちゃんのお話かご

その「おじいちゃん」は、中米ニカラグアからアメリカにやって来ました。

まだまだお若い方で、仕事もバリバリ現役ですが、お孫さんがひとりいらっしゃって、またひとり生まれるそうなので、「おじいちゃん」ということにいたしましょう。

この方は、わたしと会うと、なぜか懐かしそうに子供の頃の話をなさるんです。きっと、誰かに伝えたいお話をたくさんお持ちなのでしょう。

おじいちゃんが小さい頃、家の庭には立派なマンゴーの木が立っていました。

マンゴーの木は、とても大きく成長するので、木登りには最適なんだそうです。

そんなわけで、よくマンゴーの木によじ登って遊んでいたのですが、楽しみは登るだけではありません。

もうひとつの楽しみは、花が終わって、実を結ぶ季節。

ほうとうは、実が黄色くなるまで待って食べないといけないのですが、まだ熟する前の緑色の実を食べるのが大好きだったんです。

たとえばパパイヤなどは、未成熟の緑の実を食材に使ったりしますけれど、マンゴーも成熟する前は、カリカリッとした歯ざわりで、ほんのり青くさい感じなのかもしれませんね。

この緑色のマンゴーに、塩をちょっとかけて食べるのが、一番の食べ方でした。ほんとに、ほっぺたが落っこちるくらいにおいしいそうです。

ですから、実がなる季節になると、喜び勇んで木に登っては、緑色の果実をパクついていたのでした。

でも、まだ熟していない実を食べると、必ずと言っていいほどにお腹をこわすので、お母さんは、気が気ではありません。

子供の姿が見えなくなると、「あら、あの子はどこに行ってしまったの? またマンゴーの木に登って、実を食べてるんじゃないでしょうね!」と、庭に探しに出て来ます。

さすがに、お母さんに見つかって「お腹をこわすから、早く降りてらっしゃい!」と大目玉をもらうと、しぶしぶ木を降りてみるのですが、時すでに遅し! 少したつと、お腹がゴロゴロしてくるのでした。

けれども、お母さんは慣れたもので、ちっとも驚きません。「もう、しょうがないわねぇ」と言いながら、自家製の処方薬をつくり始めます。

そう、お母さん秘蔵の特効薬。

これを飲むと、あら不思議、すぐにお腹は治るのでした。

おじいちゃんの家は、ニカラグアでも裕福な家庭だったので、街のお医者さんにかかることはできたはずです。でも、お医者さんの薬よりも、お母さんの「処方薬」は効果てきめん! だったのでしょう。

ですから、子供の頃は、いつもお母さんの特効薬のお世話になっていたそうです。


ある日、この話を母にしたことがあったのですが、母は、懐かしそうにこう言うのです。

そういえば、小学校の頃、木にたわわに実る赤い実を食べたことがあると。

あるとき同級生の家に「桑(くわ)の実」をもらいに行ったら、何かしら赤い実をたくさんつける木があって、それをみんなで拾って食べた子供の頃のひとコマ。

木の下に広げた蚊帳に、お父さんが棒を使ってうまく実を落っことしてくれたので、みんなで拾い集めて食べました。

でも、それが「赤い実」というだけで、名前はわからないとか。

庭の赤い実と聞くと、「グミの実」を思い浮かべますが、グミではないそうです。だって、グミの実は、違う同級生の家で食べたのをよく覚えているから。

そして、スモモのように大きな果実でもなかったとか。

この同級生は Oさんという商店街からは離れた家の子で、丘の上の庭には木がいっぱいあって、この「謎の赤い実」以外にも、実がなりそうな木はたくさんあったそうです。きっと、夏は枇杷、秋は柿と、季節ごとの楽しみがあったのでしょう。


母の話を聞いていたら、またおじいちゃんの話を思い出したのですが、ニカラグアのおじいちゃんの家でも、やっぱりお父さんが実を落っことしてくれたそうです。

こちらは、小さな赤い実ではなく、立派なアヴォカドの実。

アヴォカドもマンゴーと同じく、大きく成長する生命力旺盛な木ですよね。濃い緑の葉っぱが、どことなく南国的でもあります。

でも、その実の落とし方が変わっていて、日本では絶対にあり得ない方法なんですよ。

何かって、ショットガンで実の近くを狙って、うまい具合に打ち落とすんです!!

それで、実が地べたに落っこちる前に、うまくキャッチするのが、子供の役目。

だって、アヴォカドの実はやわらかいので、地べたに落っこちるとグシャッとつぶれてしまいますからね。

まあ、なんともスゴい「収穫の方法」ですが、木になっている、おいしそうな実を食べたい! という願望は、どこの国も同じでしょうか。

というわけで、今日は、おじいちゃんと母の思い出話。

太平洋の海原の両側に、たわわに実る果実のお話でした。

写真出典:Wikipedia

サンノゼって、どんなとこ? ~観光編

サンノゼ(San Jose)のお話を続けましょうか。大きな街なのに、「誰も知らない」と言ってもいいくらい、無名の場所ですから。

そして、今回は、サンノゼから足を伸ばせる観光地のお話などもいたしましょう。

前回の『歴史編』でもお話ししたように、サンノゼという街は、その誕生の瞬間から人々を養う「肥沃な農地」として重宝されてきました。

そんなわけで、この農村のイメージは、ここに「シリコンバレー(Silicon Valley)」というテクノロジー産業の発信地が誕生するまで、変わることがありませんでした。

そう、サンノゼや周辺の街々のあるサンタクララバレー(the Santa Clara Valley、サンタクララの谷間)がシリコンバレーとして華麗な変身を遂げる前は、ここは「喜びの谷間(the Valley of Heart’s Delight)」と呼ばれていました。

春になると花々が咲き乱れ、たわわに実を結び、自然と心がウキウキしてくるほど、作物に恵まれた肥沃の地、という意味です。

ですから、わたしがアメリカに住み始めたときにも、「サンノゼは田舎」というイメージを持っていました。

わたしが初めてサンフランシスコにやって来たのは34年前(1980年)ですが、サンフランシスコの街から海沿いに南にドライブして、帰りにサンノゼの内陸部を通ったりすると、「まあ、この辺りの山は茶色で殺伐としているし、こんな田舎に住む人の気が知れない!」と思ったものでした。

今となっては、サンノゼは、北カリフォルニアで一番大きい街ですし、全米では10番目に大きな都市となっています。

面積が広いので(横浜市よりちょっと大きい)人口も自然と増えるわけですが、海に突き出した格好のこぢんまりとしたサンフランシスコよりは、面積も人口も大きな街であるのは事実なんですよ(カリフォルニアでは、南のロスアンジェルスとサンディエゴに次いで、3番目に大きい街)。

そして、わたし自身も、サンノゼ市内に住み続けること19年。「住めば都」とはよく言ったもので、べつにサンノゼから出て行く理由もないしなぁと、暢気に考えています。

いつまでも田舎のイメージは抜けませんが、やっぱり、窓から眺める春の景色には、特別なものがあると感じているのです。


それで、もしも日本からサンノゼ空港行きの飛行機(ANAの 1076便、10月以降は 172便と改名)を利用されることがあったら、こんな観光ルートはどうかな? と、自分なりに考えてみました。

たぶん、サンノゼ空港行きを利用される方は、ほとんどがシリコンバレーに用事のある方だと思いますが、観光旅行の方だって、サンフランシスコ空港(SFO)ではなく、サンノゼ空港(SJC)に到着する利点はあると思うんですよ。

まあ、ワインの名産地ナパバレー(Napa Valley)やソノマバレー(Sonoma Valley)に行かれるなら、サンフランシスコに到着して北上する方が自然ですが、サンノゼよりの観光地に行かれるなら、サンフランシスコから車で一時間南にあるサンノゼに着いた方が、フットワークは軽いかもしれません。

まずは、モントレー(Monterey)とカーメル(Carmel)に足を伸ばすのはいかがでしょうか。

海沿いのモントレー/カーメルは、サンフランシスコ・ベイエリア(the San Francisco Bay Area)にいらっしゃる大部分の方が訪れる観光地ですが、こちらに直行なさるなら、サンノゼ空港からは車で1時間ちょっとでしょうか。

一番早いのは、空港(地図のA地点)からフリーウェイ101号線を南下して、モントレー近くで、州道1号線にそれるルートです。内陸を通りますが、それなりに自然の中を行きますので、そんなに退屈ではありません。

ANA 1076便は、現在の夏時間だと午前11時、冬の標準時間だと午前10時にサンノゼに到着しますので、市内でひと休みしないで、そのまま南に向かうのも可能だと思います。

ま、間には、ギルロイ(Gilroy)というニンニクで有名な街に巨大なアウトレットモールがあって、ここでお買い物という手もありますが、まずは、南に直行。

サンノゼからは、先にモントレーに着きます。
 ここでブラッと埠頭(Old Fisherman’s Wharf)を散策して、のんびりとシーフードランチを楽しんだり、マリンライフの研究で有名なモントレー水族館(Monterey Bay Aquarium)を見学したりというのはいかがでしょうか。

以前、「モントレーのおみやげ話」でも触れたように、昔はここで水揚げした魚を加工していた缶詰工場の並び(Cannery Row、キャナリーロウ)があって、今は楽しげなショップとなっていますので、この辺りで時間を過ごすのもいいかもしれません。昔のドレスを着て、セピア色の写真を撮ってくれるお店もあって、タイムスリップした気分にもなれるでしょう。

ずっと前、近くのレストランに入ってハンバーガーを頼んだら、「オニオンは抜きがいいわね! だってニオイが強いからボーイフレンドに嫌われるものね」と、肝っ玉母さんみたいなスタッフに「オニオン抜きバーガー」を勧められたことがありました。メイン通りの古びた木造の店でしたが、今はもうスタッフもすっかり代替わりしているでしょうか。


ここまで観光したら、ちょっと疲れるかもしれませんので、モントレーの海沿いのホテルに一泊というのもステキだと思います。

近くのパシフィックグローヴ(Pacific Grove)という小さな半島には、有名なB&B(ベッド&ブレックファスト)が点在していて、アメリカ人にとっても、ここに泊まるのが憧れになっています。

この辺りは、冬の間に「モナーク・バタフライ(monarch butterfly、オオカバマダラ)」という蝶が舞い戻ってくることでも有名な場所で、近くには蝶の自然保護区(Monarch Grove Sanctuary)もあります。

周辺は観光地と住宅地で安全ですので、夕方に散策していても問題はないと思います。が、寒流の海沿いなので「夏でも寒い!」のは覚悟した方がいいでしょう。たぶん、霧のかかりやすい真夏の7~8月よりも、初春や春、それから9月の方がお天気に恵まれるかもしれません。


さて、モントレーの街の散策が終わったら、次は「17マイルドライブ(17-Mile Drive)」という有料道路を通って、カーメルに抜けるのがいいでしょう。

わたし自身も数えきれないくらい通っていますが、いつ来ても、「ここはきれいだなぁ」と思うんです。

この辺りは西洋ヒノキ(cypress)が生い茂る緑豊かな地域ですが、クネクネと林を抜ける道路を走ると、立派な別荘地があったり、木々の間にプレー中のゴルファーが見えたり、急にパッと視界が開けて海沿いになったりと、飽きることはありません。

海に突き出した小さな半島に立つ「一本ヒノキ(Lone Cypress)」は、絵はがきやポスターにもなっている有名な観光スポットです(前掲、地図の上に掲載された写真)。が、そのまわりで土にしがみつくような、風で曲がりくねった木々も、ちょっと物珍しい光景でしょうか。

曇った日に眺めていると、「お化け」が立っているようにも見えるのです。

17マイルドライブの入口では、地図をくれるので、それを見ながら順番に「見学ポイント」に立ち寄ってみると、見どころは逃しません。

10番の「鳥の岩(Bird Rock)」では、海に浮かぶ小さな島にたくさんの鳥たちが群がっていたり、14番の「サイプレスポイント見晴らし台(Cypress Point Lookout)」では、波打ち際の岩場にアシカ(sea lion)が寝転がっていたりと、いろんな生き物にも出会えます。

この辺りの海域には、ラッコ(sea otter)も生息していて、以前はケルプにくるまって貝を食べているところが見えたりしましたが、近頃は数が減っていて、出会うことはまれかもしれません。ラッコのピンチヒッターとして、砂浜の岩場に住むリスたちが、せっせと観光客のお相手をしています。


カーメルの街に近づくと、有名なゴルフ場ペブルビーチ(Pebble Beach Golf Links)が出てきます。以前は、宿泊していないとプレーできない時期もありましたが、今は、宿泊者でなくてもプレーできるようです。

こちらはゴルファー憧れのコースではありますが、ゴルフはやらなくても、ショップが充実しているので、おみやげスポットとしても最適かもしれません。
 宿泊施設(The Lodge)には、コース沿いの見晴らしの良いレストランもありますので、ゆっくりと過ごしてみたいと思える場所なのです。

せっかくですから、ここでちょっとゴルフ場のお話をしておきましょうか。

(ゴルフをなさならない方は、どうぞこの部分は飛ばしてください)

こちらのペブルビーチは、毎年2月のAT&T全米プロアマ(AT&T Pebble Beach National Pro-Am)を始めとして、プロのトーナメントも開かれる名高い(難しい)コースですが、事前に予約しておけば、気軽にプレーできます。

ただ、海沿いのリンクスコースですので、風の強い日はショットが思い通りに行きませんし、グリーンがとっても難しいので、フラストレーションがたまるコースかもしれません(写真は、海に向かう17番ホール、パー3)。

ペブルビーチ以外にも、周辺にはスパニッシュベイ、スパイグラスヒル、ポピーヒルズといくつもゴルフ場があります。
 いずれもパブリック(公共)コースなので、事前に予約をしておけば、プレーは可能です。

海沿いのスパニッシュベイ(The Links at Spanish Bay、上の写真)は、雲が低くたれこめる春にプレーしたことがありますが、「リンクスコースでは二度とやりたくない!」と思ったほど、強い風に打ちのめされた思い出があります。

スパイグラスヒル(Spyglass Hill Golf Course)は、前半が海沿いのリンクス、後半が林間コースと、変化を楽しめるところです。林間ホールでは、日本みたいにフェアウェイが狭いところもあります。
ここをまわった連れ合いによると、4番パー4は、イヤなホールだそうです。二打目にグリーンを狙うと、縦長のグリーンが横長に見えて、左(写真では右奥)が安全に思えたそうですが、キャディーは「絶対に右(写真手前)を狙え!」と忠告するのです。
 でも、体が自然と左を向いていて、ボールも左へ飛んで行ったのですが、グリーンをこぼれたボールは、ここに生い茂るアイスプラントという長い、ねばっこい草むらへ。打った時の感触は完璧だったのに、ここから出すのに5打も費やしたと、悔しそうに解説してくれました(悔しいから、グリーンの写真を撮っておいたらしいです)。

ま、いずれにしても、せっかくキャディーがいるのだから、彼らの言うことには従った方がいいんですよね。

一方、ポピーヒルズ(Poppy Hills Golf Course)は、内陸のコースで、わりと広々としています。ですから、ペブルビーチやスパイグラスに比べると、比較的やさしいコースのようです。
 現在は、改修工事中で閉鎖していますが、4月上旬からまたプレーできるそうです。晴れた日だと、気持ちの良いコースではないでしょうか。

そして、現在は、カリフォルニアの海岸線を私有してはいけない法律がありますが、それ以前には、海沿いにプライベートコースがつくられた時期があって、この辺りにもサイプレスポイント(Cypress Point Club)とモントレーペニンスラ(Monterey Peninsula Country Club)という2つのプライベートコースがあります。
 とくにサイプレスポイントは、数少ない(おじいちゃんの)メンバーに招かれなければプレーできない場所なので、シリコンバレーのゴルファーの間では、「よだれを流すくらいに」あこがれのコースになっています。

ここの名物ホールは、16番パー3の海超え。お化けみたいな木のトンネルをくぐると、急に視界が開けて、ティーグラウンドの向こうには、海に突き出したグリーンが見えます。ブルーティーからは、キャリーで230ヤード、ホワイトティーからは200ヤード飛ばないと海にポチャッと落っこちるので、自信の無い人は、左側のフェアウェイを狙わないといけないんだとか(それでも、150~160ヤードのキャリーは必要とか)。

「シリコンバレーの創始者のひとり」とも言えるベンチャーキャピタリストに招かれた連れ合いは、ここで「風が強いから、うんと左のフェアウェイを狙え」とキャディーに忠告されたそうです。それでも、「ホントかなぁ?」と信じられなかったので、もうちょっと右に打ったら、球はどんどん風に流されて海の中へ・・・あえなく、ティーグラウンドから打ち直しとなりました。

このサイプレスポイントは、1928年、ゴルフ場設計者として世界的に著名なイギリス人アリスター・マッケンジー博士が設計したコースで、ここの美しさと難しさに惚れ込んだゴルファー、ボビー・ジョーンズ氏が同博士に頼んで、ジョージア州オーガスタに「マスターズの舞台」オーガスタ・ナショナルゴルフクラブを設計してもらったのでした。

こちらのコースは、いつ行っても、せいぜい一日に2組くらいしかプレーしていないそうですが、それでもレストランはいつもオープンして、プレーを終えたお客さまを暖かくお待ちしているそうです。

そうそう、蛇足ではありますが、アメリカでゴルフをなさるときには、ちょっと気を付けるべき点があるでしょうか。

それは、18ホールを終えるまでは、通常のペースでプレーするということ。たとえば、9ホールを終えたところで、ベンチに座ってスナックを食べたりしていると、後続の人に迷惑をかけてしまうので、プレーをしながら食べる技を身につけるべきでしょうか(「9ホール終わったら、ゆったりと昼食」というのは、日本独自の習慣ですよね)。

それから、リンクスコースは、難しい上にコースレイアウトが複雑です。「次のホールはどこだっけ?」とウロチョロしないように、グループに一人くらいはキャディーを雇うべきかもしれませんね(アメリカのキャディーは、プロを目指すゴルファーが多いので、彼ら自身もかなりの腕前を持っています)。


というわけで、モントレーから入った17マイルドライブも、ペブルビーチを越える頃に終点を迎えます。ここからカーメルのゲートを抜けると、かわいらしいカーメルの街が出てきます。

カーメルの街(Carmel-by-the-Sea)は、アーティストもたくさん住む閑静な住宅地ですが、街の真ん中は、オーシャン通り(Ocean Avenue)を中心にショッピングエリアになっています。そう、カラフルでおしゃれなショップのオンパレードです。

昔からアートギャラリーも多い街で、わたしもお気に入りの版画家の作品を買うときには、懇意にしている画廊を訪ねますが、近頃は画廊も減ってきて、代わりに新しいお店が次々と姿を現しているようではあります。

なんとなく、時の流れを感じることもありますが、ここはお買い物にも、お食事にも、宿泊にも最適な、かわいらしい街であることに変わりはありません。

北カリフォルニアにいらっしゃったら、一度は足を運んでいただきたい街でしょうか。

次はアメリカ!: ソフトバンクの孫さん

Vol. 176

次は、アメリカ!: ソフトバンクの孫さん

 


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カリフォルニアは雨期のはずなのですが、今シーズンは、お湿り程度しか雨が降りません。中庭の八重桜も、例年よりも早く開花しました。

夏の干ばつが心配される今日この頃ですが、今月は、著名人のインタビューのお話をいたしましょう。

<I’m looking at the future(僕は将来を見据えている)>
今、日本から乗り込み、アメリカのビジネスを変えてやろう! と尽力する中に、孫正義氏がいらっしゃいます。ご説明するまでもなく、ソフトバンクグループの創業者でいらっしゃいますが、先日、この方のインタビューを観て「おもしろい!」と感服したのでした。

インタビューは、アメリカの公共放送(PBS)で毎日(月〜金)放映中の『チャーリー・ローズ(Charlie Rose)』で行われたもの。3月10日に放映された30分のインタビューですが、孫氏のビジネスに臨む素顔が、存分に引き出されていたと思うのです。
 


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本題に入る前に、この『チャーリー・ローズ』という番組ですが、こちらはアメリカで最も信頼のおけるインタビュー番組と言えるもので、政財界の著名人に限らず、科学者/教育者、ジャーナリスト、芸術家、文人、映画人、軍人と、ありとあらゆる分野の第一線で活躍される方々を招待し、聞き手のローズ氏が忌憚の無い質問を浴びせかけ、ホンネの部分を聞き出す、という番組構成になっています。
こちらの『シリコンバレーナウ』シリーズでも、オンラインショップ・アマゾン(Amazon.com)の創設者ジェフ・ベィゾズ氏や、ツイッター(Twitter)の共同設立者エヴァン・ウィリアムズ氏など、過去何回も参照させていただいています。

そんな有名な番組ですので、これに登場するのは「誉れ」とも言えることで、わたしは常日頃、「どうして日本人が出ないのかなぁ?」と不満を抱いていたのでした。もちろん、英語でやり取りするわけですから、ある程度の英語力は必要ですが、それにしたって、アジア系の出演者は極端に少ないのが実情でした。
孫氏の2週間後、建築界のノーベル賞と呼ばれる『プリツカー賞』を受賞された板茂(ばん・しげる)氏が番組に登場されたところを見ると、今後は、アジアにも重点を置く方針かもしれません。

というわけで、孫さん。彼のすぐ間近で働いてこられた方を存じ上げているので、この方が親しみを込めて呼ばれる「孫さん」を使わせていただきましょう。
 


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それで、孫さんは、開口一番「アメリカのインフラは世界で15位だ」「しかも、16カ国中の15位だよ」と、アメリカ人にとってはショッキングな事実を提示します。
何かというと、21世紀で一番大切なインフラとなる「モバイルインターネット」が遅過ぎるのだと。

どうしてこうなるのかって、携帯キャリアのデュオポリー(duopoly、二社独占)とも言えるAT&TモビリティとVerizon(ヴェライゾン)ワイヤレスが、現状に満足しきっているから。市場の8割近くを独占しているし、業界の利益のほぼ全額が懐に入ってきて、株主への還元も大きい。みんなが自分の立場にただただハッピーなんだよ。

だから、昨年(2013年)モバイルキャリア三番手のSprint(スプリント)を買収した。そして今、四番手のT-Mobile US(ドイツT-Mobileの米子会社)を傘下に置こうとしている。
だって、アメリカで戦おうとすると、ある程度の規模が必要だろう。やせ衰えた蚊では戦えない。だから、SprintとT-Mobileという二つの小物をたばねて力を付け、AT&TとVerizonを相手に三者間のヘビーウェイトの戦いを繰り広げようと思っている。

「僕は、ニセモノの戦いじゃなくって、ホンモノの戦いをやりたい(I’d like to have a real fight, not a pseudo-fight)。激しい価格競争と技術競争をもって、業界ナンバーワンになりたいんだ(With massive price competition and technology competition, I want to be number one)」

何もここで、アメリカのモバイルインフラが日本や韓国、そして世界に劣っていることを強調したいわけじゃない。僕だって今は、(Sprint会長として)その責任の一端を担っていることをここに宣言したいんだと。

このインタビュー放映の翌日、孫さんは首都ワシントンD.C.の米商工会議所で、SprintとT-Mobileの合併の意義を訴えましたが、やはりここでも、AT&TとVerizonの事実上のデュオポリーによって、アメリカの消費者は値段の高い、スピードの遅い、信頼性の低い携帯ネットワークに甘んじているという主張をなさったそうです。
 


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ここまでインタビューを聞いていると、わたし自身も含めて、孫さんが何者であるかを知らない人だって、彼とローズ氏の会話にグイッと引き込まれているのでした。
そうなんです。前述の親しみを込めて「孫さん」と呼ばれる方も、わたしが孫さんについて何も読んだことがないと白状すると、えっ? と絶句されていましたが、アメリカの一般人は、ほとんど同罪だと思うんです。

ですから、ローズ氏が「あなたは、(本田技研工業の創業者)本田宗一郎氏や(ソニー創業者のひとり)盛田昭夫氏、そして(マイクロソフトの共同設立者)ビル・ゲイツ氏や(アップルの共同設立者)スティーヴ・ジョブス氏を尊敬していらっしゃる」と水を向けると、孫さんの応答に、皆が熱心に耳を傾けるのです。

なるほど、本田宗一郎や盛田昭夫なら知っているし、スティーヴ・ジョブスとの絆も深いのか!

なんでも、新しい商売の武器(携帯電話)をつくるのはジョブス氏のアップルしかないと信じていた孫さんは、スマートフォンiPhone(アイフォーン)が世に現れる2年前に、「僕が日本で出してやるよ」と約束されていたとか。


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ある日、クーパティーノにいるジョブス氏を訪ね、自分で描いた電話機能付きiPod(アイポッド)の絵を見せたら、「マサ、うちでちゃんとやってるから、きみの絵なんか見せてくれなくていいよ」と絵をつっ返されたそうです。
そこで、日本で任せる旨の契約書をつくってくれと頼んだら、「まだ誰にも(iPhoneを)発表していないのに、マサ、きみはクレージーだね。でも、そこまで言うんだったら、契約書は書かないけど、日本での展開はきみに任せるよ」と口約束していただいたそうです。

けれども、このときはまだソフトバンクがボーダフォン(Vodafone Japan)を買収する前で、孫さんは携帯ネットワークを持っていない時期だったとか!
「あなたが僕に新しい電話をくれるんだったら、僕が日本でネットワークを提供してあげますよ」という意気込みでした。

ジョブス氏のことを『現代のレオナルド・ダヴィンチ』と称する孫さんは、「彼はまさにダヴィンチのように、アートとテクノロジー両方に秀でた人だった」とおっしゃいます。
ジョブス氏がアートとテクノロジーだったら、あなたはいったい何なのだろう? というローズ氏の問いには「僕は、ファイナンス(財務)とテクノロジー」と答えます。
早くから日本のヤフー(Yahoo! Japan)、中国のアリババ(Alibaba)と投資も重要な柱とし、それが大きく成長した先見の明をお持ちですから、的確な自己分析と言えるでしょう。

けれども、自分にとっては、お金よりも大切なことがあるとおっしゃいます。それは、情報革命(information revolution)。世界の人々のために、新しいライフスタイルをつくること。
情報革命で世界の人々が瞬時につながり、コミュニケートできれば、世界はもっと幸せな場所になれる。

自分の使命は、美しい車(新しいデバイス)をつくることじゃなくて、車が走るハイウェイ(デバイスがつながるインフラ)をつくること。今は、このハイウェイが多くの国で問題になっている。だから、日本でもNTTにチャレンジして、情報ハイウェイをつくった。
デバイスにとっては、光ファイバーにつながっていようが、ワイヤレスだろうが、そんなことは関係ない。だから、自分が世界中に優れたワイヤレス情報ハイウェイをつくりあげようと思っている。

ずばり、「あなたの投資に対するモットーは何ですか?」という質問には、孫さんのビジョンが如実に表れているように感じました。
それは、この技術は行ける! と思ったら、迷わずに資金を投入すること。

「僕は、いつも将来を見据えている(I’m looking at the future)。現状にとらわれることなく、10年、20年、30年先のことを考えている」と。


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僕にとって唯一の関心事は、デジタル情報革命。人類は農業革命、工業革命と歩んできて、今は情報革命のさなかにいる。これは、300年先まで続く大きな課題だ。
だから、僕は300年先のビジョンを持っているんだが、誰がどのテクノロジーをつくるかなんて、そんなことは関係ない。なぜなら、革命はみんなで起こしていくものだから。僕は、ひとつのビジネスモデル、ひとつのブランドに賭けるなんて信じない。ひとつが世界を駆逐してしまうなんてことはないから。

革命を起こすには、みんなの発明や新発想が欲しい。みんなが協力してパートナーとなり、一緒に何かをつくりあげるシリコンバレーみたいなところがいいと思っている。だから、ソフトバンクグループも仮想シリコンバレー(virtual Silicon Valley)にしたいと考えている。

と、熱く夢を語っていらっしゃいました。

テクノロジー業界を超え、原子力に代わる太陽光/風力発電を推進するのも、それが日本の人々のため、ひいては世界の人々のためになると信じていらっしゃるからだそうですが、この「孫さん」というご仁は、スゴいパワーをお持ちだとお見受けいたします。
だって、いつもは茶々を入れたがるローズ氏も、お行儀よく聞いていたではありませんか。

いえ、正直に申しあげて、アメリカのテレコム業界は、決して一筋縄では行かないと思います。


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たとえば Sprintひとつ取っても、彼らは内陸のカンザス州で商売を展開してきた人たちでしょう。
1899年の創業以来、Sprintは、アメリカで最初に光ファイバーを敷設した「Pin drop(ピン・ドロップ)」を誇る電話屋さん。「ピン(針)を落とした音が聞こえるくらい鮮明な音質」をキャッチフーレズとしてきた、大陸横断の長距離電話会社です。

要するに、西海岸のカリフォルニアとは文化が違いますし、シリコンバレーのスタートアップの心意気は通じない部分もあるでしょう。

シリコンバレーとサンフランシスコの間にあるサンカルロスという街に、ソフトバンクのオフィスがあって、そこがSprintのグループ吸収に尽力なさっているそうです。が、なんとなく、前途多難の気配が・・・

でも、そんなハードルは乗り越えて、孫さん、ドカーンと一発、アメリカで大きな花火を打ち上げてください!


電話業界のお話:
蛇足ではありますが、興味のある方のために、アメリカの携帯キャリアの変遷を簡単に整理しておきましょう。
 


AT&T logo.png

まずは、孫さんがデュオポリーの一社とされるAT&Tモビリティは、1984年の規制緩和で誕生した「地域ベル電話会社」SBC(サウスウェスタン・ベル)と後にSBCに買収されるベルサウスの携帯部門を合併した、Cingular(シンギュラー)ワイヤレスがベースとなっています。
2004年、CingularがAT&Tワイヤレスを買収し、全米トップクラスのキャリアに成長したもので、翌年、地域電話会社SBCが親会社AT&Tを吸収したときに、CingularワイヤレスもAT&Tモビリティと名称変更しています。
 


Verizon Wireless logo.png

デュオポリーのもう一社、業界最大手のVerizonワイヤレスは、東海岸の地域ベル電話会社ベルアトランティックが母体となっています。2000年、独立系の電話会社GTEとベルアトランティックが合併してVerizonコミュニケーションズとなりましたが、Verizonと英ボーダフォンが共同出資したのがVerizonワイヤレス。
今年2月、Verizonがボーダフォンの持ち株を買い取り、Verizonの100パーセント子会社となっています。
 


Sprint logo.png

そして、孫さんが買収したSprintは、上記のように長距離電話会社が母体ですが、Sprintの携帯部門は、2005年、独自路線のiDENテクノロジーを採用するネクステルと合併しています。
ネクステルは、ウォーキートーキーみたいな「プッシュ・トゥー・トーク」などユニークな機能を売りにしていましたが、ユーザ獲得では「主流」にはなれず、Sprintに吸収されました(合併に際し、Sprintが誇る「ピン・ドロップ」をロゴとしましたが、黄色はネクステルのコーポレートカラーを踏襲しています)。

2004年AT&TワイヤレスがCingularに買収され、翌年ネクステルがSprintに買収されたことで、現在アメリカの携帯キャリアは、Verizonワイヤレス、AT&Tモビリティ、Sprint、T-Mobileと、それまでの6社から4社に集約されています。

夏来 潤(なつき じゅん)



サンノゼって、どんなとこ? ~歴史編

先日、「Alligator cracking(アリゲーターがポコポコ)」という英語のお話で、冬のお天気を取り上げてみました。

そのとき冒頭で、サンノゼ空港発の日本直行便(ANA 1075便)のお話が出てきましたので、せっかくですから、サンノゼという街について、お話ししてみましょうか。

今までちょこちょこと書いてきましたが、だいたい、サンノゼ(San Jose)って、カリフォルニアで一番古い街なんですよ!

それなのに、知名度は、かなり低い。外国の人々に知られていないどころか、アメリカ人すら、よく知らない。

ディオン・ウォーウィックさんの1960年代の大ヒットソング『Do You Know the Way to San Jose?(サンノゼへの道)』は、誰もが一度は聞いたことのある歌でしょうが、歌に出てくるサンノゼの街となると、まったく知らない人が多いんです・・・。


そもそも、歴史をひも解きますと、サンノゼに集落ができたのは、1777年。アメリカ西部としては、かなり古いのです。

最初の名前は、スペイン人が名付けた El Pueblo de San Jose de Guadalupe

日本語では「グアダルーペの聖ヨセフの村」という名で、サンノゼ(またはサンホセ)というのは「聖ヨセフ」のこと。つまり、聖マリアの夫であり、イエス・キリストの養父となった方です。
 この名が付けられたのは、聖ヨセフが、スペイン人開拓団の守り主だったから。現在も街の守護聖人とされていて、中心部には聖ヨセフ・バシリカ聖堂(the Cathedral Basilica of St. Joseph)が堂々と建っています。

この頃、ヨーロッパから新世界に進出したスペイン人は、領土としたメキシコ(New Spain)を足がかりとして、現在のカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスと、アメリカの南西部にも進出しようとしていました。

この辺りには先住民族の集落が広がり、1万年ほど変わらぬ生活を守っていましたが、ヨーロッパやアメリカ東部の「白人」にとっては、喉から手が出るほどに欲しい広大な土地だったのです。

そんな中、スペイン人がカリフォルニア最初の集落をサンノゼにつくったのは、ここが当時認識していた「北カリフォルニア」の真ん中だったから。
 サンノゼの位置する谷間には、肥沃な土壌が広がり、開拓の前線基地(プレシディオ、要塞)を築いたサンフランシスコ(地図の北端)とモントレー(地図の南端)に駐屯するスペイン兵を養うには、最適の場所だと考えたからです。

1821年、メキシコはスペインから独立し、新世界の一国となりますが、カリフォルニアを始めとするアメリカ南西部は、メキシコ領のまま。

ですから、アメリカは自分の領土を西に広げようと、1846年、メキシコと戦争(the Mexican-American War)を始めるのです。

そうなんです。アメリカは「1783年のパリ条約」で正式にイギリスから独立を果たしたとはいえ、当時の領土は、大陸の右半分だけ。
 こちらの図は、現在の50州が州となった年代を表していますが、アメリカとメキシコの戦争が始まった頃は、赤とピンクの州だけが領土でした。(アメリカの国の成り立ちについては、「アメリカ合衆国? 合州国?」というお話で触れたことがあります)

メキシコとの戦争は、2年後の1848年に終結し、そのまた2年後に、カリフォルニアはアメリカの一州となるのですが、このとき、サンノゼが最初の州都(the California’s first State Capital)に選ばれました。だって、カリフォルニアで一番古い、由緒ある街ですもの!

けれども、街の真ん中を流れる「グアダルーペの聖母の川」が氾濫するので、州都はすぐにベニーシャ、ヴァレホ、そして現在のサクラメントと移されるのです。

が、川が氾濫するところは、肥沃な土地。

温暖な地中海性気候も手伝って、豊かな実りに恵まれた土地なのでした。


ちょうどカリフォルニアが州となる頃、1849年のゴールドラッシュを皮切りに、カリフォルニアにどっと人が集まるようになるのです。

まさに世界中が「金」に魅了され、北欧ノルウェーの文豪ヘンリク・イプセンも、戯曲『ペール・ギュント』の中でペールがカリフォルニアで金鉱を掘り当てたくだりを入れています。

やって来たのは「金鉱掘り」ばかりではなく、肥沃なサンノゼや周辺の谷間にも世界各地から人が入植し、19世紀後半は、ドイツやアイルランド、日本を始めとする移民の方々が、どんどん土地を開拓して農地としていきました。

日本は明治維新を迎えた頃で、それまで農業に携わっていた人々ばかりではなく、都市部の士族たちも新天地を求めて海を渡ったそうです。

もともと勤勉で、手先も器用な日系移民は、19世紀末から激しくなった有色人差別の中にありながらも、農場経営で成功を収めるようになりました。大きな果樹園や生花農園を経営する日系家族もたくさんいらっしゃいました。

が、第二次世界大戦で日本とアメリカが戦いの火ぶたを切ると、日系の方々は「敵国のスパイ」として、遠い砂漠の収容所に隔離されました。カリフォルニアだけではなく、アメリカ全土から連行されたのは、全部で12万人。そのうち3分の2はアメリカ国籍だったと言われています。(写真は、サンノゼ日本街にあるサンノゼ日系博物館に再現された収容所監視塔の模型。収容所を取り囲む有刺鉄線を乗り越えると、監視兵から狙撃される)

けれども、移住先のアメリカで幾多の難関を乗り切ってきた日系家族は、収容所をも「快適な住処」にしようとがんばるのです。

ユタ州トーパズの収容所を経験した日系おばあちゃんが、こんな風に語ってくれたことがありました。
 「わたしたちはサソリやコヨーテしか住まない砂漠に見捨てられたけれども、みんなでがんばって灌漑施設をつくり、草も育たない砂漠で作物を収穫するようになったの。それを遠くから見ていた先住民族の男性が、戦後に収容所跡を訪れたわたしたちに『砂漠に長く住む自分たちだって、まさか作物が育つとは思わなかった』と賛辞を贈ってくれたわ。わたしたちは、あの中でベストを尽くしたのよ(We made the best out of it」と。

作物を育て家畜を飼育するだけではなく、先生を募集して学校をつくり、医師や看護師、大工や料理人と各々のスキルを生かしてコミュニティーづくりにも力を注ぎました。
 働くばかりでは息が詰まりますので、週末には映画を鑑賞したり、ダンスパーティーを開いたりと、余暇にも工夫を凝らしました。(写真は、サンノゼ日系博物館に再現された収容所の部屋。ダンボールにタールを塗った壁からは、容赦なく砂が舞い込んだそうです)

ようやく収容所の生活にも慣れた頃、戦争が終わり、それぞれが自分たちの街に戻ることになりましたが、人手に渡ってしまった(ときには奪われた)我が家、我が農地を目の当たりにして、「これだったら、住み慣れた収容所に戻りたい!」と嘆いた方もいらっしゃったそうです。またゼロからの再スタートに、絶望感しか抱けなかったから。

そんなわけで、戦前はアメリカ全土に散らばっていた日本街(Japantown)も、現在は、アメリカ本土には3つしか残っていません(いずれもカリフォルニア州のサンノゼ、サンフランシスコ、ロスアンジェルス)。

ユタ州トーパズ収容所から北東240キロの街ソルトレイクシティーには、日系家族のお墓がいくつも残っていたのを鮮明に覚えていますが、街中には、日本的な要素は何も見当たりませんでした。収容所からユタの我が家に戻った方たちも、その多くはカリフォルニアに引っ越したようです。


と、そんな過去がありますので、サンノゼ空港が、正式には「ノーマンYミネタ・サンノゼ国際空港(Norman Y. Mineta San Jose International Airport)」と名付けられているのは、スゴいことだと思うのですよ。

えらく長い名前ですが、言うまでもなく、最初のノーマンYミネタというのは人名です。

日系2世のノーマン・ミネタさんは、今では有名な政治家ですが、生まれ故郷のサンノゼで政界キャリアがスタートし、1971年にサンノゼ市長になった、という輝かしい経歴があるのです。

それがなぜ「輝かしい」のかって、その頃は、大きな都市で白人じゃない市長が誕生することは、ほとんどあり得なかったし、アジア系市長としてはアメリカ初の快挙だったからです(ちなみに、今のサンフランシスコ市長は中国系のエド・リー市長ですが、彼がサンフランシスコ初のアジア系市長となったのは、40年後の2011年のことでした)。

地元サンノゼから国政に羽ばたいたミネタさんは、その後、アジア系としては「初入閣」を果たし、国の商務省長官、運輸省長官を歴任するのですが、それに誇りを感じたサンノゼ市は、自分たちが持つ空港を「ミネタ・サンノゼ国際空港」と名付けたのでした。

だって、サンノゼという街は、日系の方々とともに歩んできたと言っても過言ではありませんから。

でも、ご本人のミネタさんいわく「光栄なことではあるけれど、僕はまだ生きているよ!」(だって、有名な方が亡くなってから名前を使われるケースが多いでしょ?)

というわけで、ごく限られた視点からサンノゼの歴史を書いてみましたが、次回は、サンノゼから足を伸ばせる観光地のお話をいたしましょうか。

付記: サンノゼ(San Jose)の名前の表記は、好みの分かれるところだと思いますが、いちおう「サンノゼ」というのは英語風で、「サンホセ」というのはスペイン語風だと理解してもいいのではないでしょうか。
 アメリカ人は「サノゼー」と発音する人も多いですが、「サンホセー」とか「サンホゼー」と言う人もいますし、サンノゼ市自身も「City of San José」とスペイン語風に表記しています。

それから、蛇足ではありますが、カリフォルニアで2番目にできた集落は、南カリフォルニアのロスアンジェルス(Los Angeles)です。1781年、スペイン領メキシコから入植者11家族44人が移り住んだのが、街の成り立ちでした。

最初は、El Pueblo Sobre el Rio de Nuestra Señora la Reina de Los Angeles de Porciúncula(天使たちの女王である、われらが聖母のポルシウンクラ川の上にある村)と名付けられましたが、あまりにも長いので、いつの頃からかロスアンジェルスとなりました。ポルシウンクラ川は、今はロスアンジェルス川と呼ばれています。

Alligator cracking(アリゲーターがポコポコ)

今日の話題は、冬のお天気です。

先日、シリコンバレーのサンノゼ空港から成田行きの飛行機に乗りましたが、ANAのキャビンアテンダントの方が、こんなことをおっしゃるのです。

今日は、サンノゼで雨が降っているので、びっくりしましたと。

シリコンバレーから日本への直行便というのは、かの有名なボーイング787型機「ドリームライナー」。

昨年1月11日、地元サンノゼ市の熱い期待を背負って華々しく就航しましたが、バッテリーの諸問題で、すぐに陸上待機。代替え機もないまま、路線は一時中断となりました。(写真は、就航直後の地元紙の全面広告)

日本からの初就航便(NH1076)の翌日、サンノゼ発の便(NH1075)にいそいそと乗り込んだわたしも、成田からの戻りは、いつものサンフランシスコ便(NH008)となってしまいました。

それからサンノゼ便が再開されたのは、数ヶ月たった6月のこと。

そんなわけで、サンノゼ市を始めとするシリコンバレーの雨期を、ANAのアテンダントの方々は、経験できなかったようです。

そう、シリコンバレーの雨期(rainy season)は、だいたい10月末から5月初頭くらいですから、サービス再開の6月には、もう真夏のような日照りでした。

そして、今年は、カリフォルニア全体が干ばつ(drought)状態。ですから、アテンダントの方は、それまでサンノゼに雨が降る様子を見たことがなかったのでしょう。


というわけで、今シーズンは極端に雨が少ないカリフォルニア州ですが、逆に東海岸や中西部は、ものすごい雪の量だそうです。

英語で言うと、こんな感じでしょうか。

The eastern part of the United States is being hit by one snowstorm after the other well into March
 アメリカの東側は、3月に入っても吹雪の連続に見舞われている

雨が少ないのも水不足(water shortage, water scarcity)で困りますが、雪が多いのも生活がマヒして困りものですよね。

お向かいさんは、出張先のシカゴで足止めになったそうですし、友人は、ボストンで借りているアパートの温水器(water heater)が壊れたと嘆いていました。(Photo taken in Massachusetts by Michael S. Gordon/Springfield Republican/AP)

なんでも、あまりの寒さ(unusually frigid temperature)に温水器の温度センサーが壊れて、水を温めるガスヒーターがずっと炊かれていたそうで、熱湯のせいでタンクが壊れて、辺りが水浸しになったとか。

「修理に何百ドル(数万円)もかかって、大家さんにも文句を言われた」と、半ばあきらめムードで話してくれました。


そして、雪が多いと、車社会のアメリカには、いろんな現象が起きるのです。

たとえば、先月2月は、雪のせいで車の売れ行きが伸びませんでしたが、スバルだけは、例外。

月間販売台数は、昨年に比べて25パーセントも増えたそうで、「やっぱり雪道はスバル!」というドライバーが、アメリカには多いようです。

一方、イヤな現象の代表例は、舗装道路の穴ぼこ。

英語で、pothole(ポットホール)と言いますが、アスファルトの舗装が陥没して、あちらこちらに大小さまざまな穴が出現するのです。

こちらの写真は、ペンシルヴェニア州ポッツヴィルにできた大きな pothole
 道行くドライバーに注意を促すために、誰かが「Hole」と書いた自家製看板を立てたようです。
(Photo by David McKeown/Associated Press)

もちろん、一回の雪で、いきなり穴になるわけではありません。

最初はアスファルトの表面にできる小さなひび割れ(cracks)から始まって、何年か放っておくと、ひびが深くなって水が浸食するようになり、冬の間、凍りついて氷となります。

春になると氷は溶けて水となりますが、この凍結と氷解のプロセスを繰り返しているうちに、ぽっかりと穴になるのです。なぜなら、水は氷になると体積が増える。この膨張の力が、アスファルトの亀裂をどんどん押し広げ、地盤もゆるいし、ついには穴にしてしまうのです。

それで、この自然現象を、こんな風に説明した方がいらっしゃいました。

If you’ve got a pavement in poor condition, that’s got a lot of alligator cracking…
 もしも道路の舗装を悪い状態に放っておけば、それはアリゲーターがポコポコといっぱい生まれているようなもんだよ

Where water is getting into the pavement and freezing and thawing, it’s going to break up the structure
 水が舗装に浸食して、凍結や氷解を繰り返したら、それは構造(舗装された道路)を破壊することになるんだ

(Excerpted from the AP article, “Potholes are symptom of a looming, larger problem” by Allen G. Breed; quoted statement by Kevin Haas, a traffic investigations engineer, the Oregon Department of Transportation in Salem, Oregon)

なるほど、気性の荒いアリゲーターを使って、わかりやすく説明していただいていますが、上の文章の a lot of alligator cracking という部分は、いろんな風に取れる表現かもしれません。

Crack という言葉は、「ひび割れ」という名詞でもあり、「ビシッと音をたてて割れる」という自動詞や「(何かを)打ち砕く」という他動詞でもあります。
 ですから、a lot of alligator cracking というのは、ハ虫類のアリゲーターの卵がビシッと割れる、つまり「ポコポコとたくさん生まれている(この場合は自動詞)」にも理解できるし、アリゲーター自体が「舗装をボコボコ壊している(この場合は他動詞)」という風にも理解できます。

アリゲーターが表しているのは、「ひび割れ」であり「道路を壊す自然の力」ですが、なんとなく、アリゲーターの赤ちゃんがポコポコといっぱい生まれていると取る方が、かわいらしいでしょうか?

それから、alligator という名詞は、数えられる名詞(countable noun)ですので、a lot of alligators と複数形になってもおかしくはないですが、アリゲーターはあくまでも比喩(metaphor)として使われているので、複数形にはしていないのでしょう。


というわけで、冬期の頭痛の種、道路の穴 potholes

春先になると、「あ~、あの穴をなんとかしなくっちゃ」と自治体はお金の工面に頭をかかえることになりますが、あまりに雪が多いと、修理したくても「もう予算がない!」と悲鳴が聞こえてきそうですよね。

そして、pothole より深刻なのが、sinkhole(シンクホール)。

ボコッと土壌が陥没してできる大きな穴ですが、ケンタッキーでは、コルヴェット博物館の床が抜けて、展示中のコルヴェット8台が穴の中へ!
(Photo from CBS News)

「救助」されたブルーのコルヴェット『ブルーデヴィル』ちゃんは、奇跡的にエンジンスタートできたそうですが、もう一台の赤い『ルビーレッド』ちゃんは、あちこちに「ケガ」をして、修理が必要。そして、残り6台を全部引き上げるには、4月までかかるとか・・・。

こんなに大きな sinkhole だったら、もはや「アリゲーター」じゃ済まないですよね。

Oh, you’ve got Godzilla cracking!
なんと、ゴジラが生まれてる!

と、そんな感じでしょうか。

心のお手入れ

一年ほど前でしょうか。

母と一緒に外で晩ご飯を食べることになりました。

母は、週に一回書道教室で教えていて、教室が終わる夜の8時に待ち合わせをしました。

時間に遅れるのがイヤなので、早めに行ったのはいいものの、寒空の下どこかで時間をつぶさなければなりません。

そこで、暖かそうな本屋さんに入り、一冊の文庫本を手に取ってみました。

有名な海外の童話に材を取った、道徳の本でした。が、ちょっとびっくりしたことがあったのです。

「鏡」を題材にした章だったと思いますが、とくに女性は鏡を覗き込んで、自分の顔ばかり観察するけれど、鏡に映る自分の心の中をじっと見つめるべきだと、そんなことが書かれてあったのです。

端的に言うと、女性は自分の容姿ばかり気にする傾向にあるけれど、大事なのは心の中身であって、そちらの方にも気を配るべきだと、そんな作者の主張でした。

で、わたしがびっくりしたのは、あからさまに女性をターゲットに批評していること。

作者は、お寺の生まれですが、「家業」は継がずに英文学を教えている方とのこと。英文学を教えるということは、少しは欧米文化圏の習慣にも通じていると思うのですが、ですから、余計にびっくりしたのでした。

なぜなら、もしも欧米で「女性のこういう部分はおかしい」という内容を書いたら、それは女性みんなを「女性とはこんなもの」という型にはめて、偏見の目で見ていると理解され、一瞬のうちに読者の非難の的になるだろうから。

ですから、何かしら批判めいたことを書くときには、かなり神経をつかってモノを書くんですよね。とくに、男女間とか、人種間の比較をする上では。

だって、もしも自分が書いたことで不用意に誰かを傷つけてしまったとしたら、それは、作者としても人間としても褒められたことではないですから。


というわけで、立ち読みしていた本を置き、まったく別の本を買って本屋さんを出るときには、少々気分を害していたのでした。「どうして今どき、こんな偉そうなおじさんがいるのかなぁ?」と。

けれども、冷静になって考えてみると、この方の選んだ言葉には配慮が足りない部分もあるようですが、主張している内容には、誤りはないんじゃないかとも思ったのでした。

ま、「心」とか「中身」についてはよくわかりませんが、ときに「残念だなぁ」と思うことがあるんですよ。

それは、若い女性がべったりとお化粧をしているとき。もちろん、ご本人は「これがいいのよ!」と思ってやっていらっしゃるわけですが、わたしからすると「もったいないなぁ」と残念に思うんです。

なぜなら、せっかくの「若さ」を、お化粧で塗りつぶしていることになるから。

それは、わたしにとって、「美しさ」を封じ込めているようにも見えるのです。

まあ、お肌のツヤが気になる年頃にならないと、なかなか理解してもらえないとは思いますが、若い方には、内側からみなぎる若さのエネルギーがあって、それをお化粧で隠してしまうなんてもったいないと、人ごとながら残念に思ってしまうのです。

それで、突き詰めて考えてみると、「やっぱり何かしら内側にあるものが、ご本人には見えていない」と、上でご紹介した作者の主張と同じであることに気が付くのです。

たぶん、「美」という言葉が、表面的なことしか指してしないんだろうなぁと。

残念ながら、内側からみなぎる若さだとか、そこはかとなくにじみ出る優しさとか、賢さとか、そんなものが自分には見えていないんだろうなぁと、そんな風に感じるのです。

ほんとの美しさって、顔のパーツの良し悪しではないと思うんです。

たとえ鼻が少々低かったり、目が小さかったりしても、他人はその人を総合的に捉えて、「なんだか生き生きしてて、いいなぁ」とか「なんか優しそうでホッとするなぁ」と、内側と外側をひっくるめて判断するんじゃないでしょうか。


先日、テレビを観ていて、「あのコきれいね!」とハッとしたことがありました。

タンクトップにジーンズ姿。こんがりと日焼けした顔はノーメイク。とくに「美人」というわけではありませんが、そんなカジュアルな雰囲気の彼女を「きれい!」と思ったのです。

それは、たぶん、自分の信じるところを懸命に貫いていらっしゃったからでしょう。韓国系アメリカ人の方でしたが、「アフリカの掘っ建て小屋の小学校で英語を教える」ボランティアに専念すること。

もちろん、人によって「信じるところ」は違いますが、懸命に何かをやることで、外側ににじみ出てくる「きれい」があるのかもしれません。

だとすると、「鏡を覗き込んで、自分の内面を見つめてみる」というおじさんの助言は、そんなに悪くはないのかも・・・。

そう、鏡を見つめて、お肌のお手入れをするだけではなくて、心のお手入れができれば、もっといいのかも・・・。

付記: 先日、日本で新聞を読んでいたら、「女性は40歳から一番きれいになる」という美容家のお言葉がありました。
 なんでも、「内面が充実するお年頃はきれいになる」そうですが、それが、お肌のツヤがちょっと気になる年代の「言い訳」じゃないことを願っているところです。

オンラインスーパー: ネットで食材を(21世紀版)

 Vol. 175

オンラインスーパー: ネットで食材を(21世紀版)

 


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2月8日。東京が45年ぶりの大雪を迎えた頃に、サンノゼから成田空港に到着しました。運良く、成田に足止めされることもなく、都内にたどり着きましたが、まるで雪国のような吹雪にびっくり。

2週続きの大雪に、「食べるものすら買いに行けない」閉ざされた地域もありましたが、今月は、食べ物にまつわる「オンラインスーパー」のお話をいたしましょう。

1990年代後半のインターネットバブル期の試みと、過去の失敗から生まれた、新しいサービスのお話です。

<Webvan バージョン2.0>
20世紀の終焉を飾る「インターネットバブル」。バブルははじけて、「ドットコムバブル崩壊(Dot-com bubble burst)」を迎えましたが、この時期に華々しい内部破壊を遂げたのが、オンラインスーパーマーケットの分野でしょうか。

「スーパーで食料品を買う」という日常の行為をネット(Web)で簡単に済ませ、お届けは我が社の車(van)におまかせください、という新しい発想のサービスでした。
 


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一番有名だったのが、Webvan(ウェブヴァン)という試み。サンフランシスコのちょっと南フォスターシティーに設立された会社で、創設者は書籍・CD販売チェーンBorders(ボーダーズ)を学生時代に築き上げた、ルイス・ボーダーズ氏。
1996年12月の設立から2年半で資金調達や配送センター建設を押し進め、1999年6月には、サンフランシスコ・ベイエリアで営業を開始しました(Photo of Webvan trucks from Wikipedia)

当時の「ドットコム企業」としては、その新発想と事業規模で注目を集め、営業開始からわずか5ヶ月でナスダック株式市場に新規公開。翌2000年には、競合サービスを買収し、営業範囲も全米主要10都市に拡大と、まさに前途洋々。

が、バブル崩壊直後の2000年後半には業績に翳りが見え始め、年末になると株式公開時34ドルだった株価が1ドルを切ることに。そして、2001年7月には、新たな資金集めも困難な状態に陥り、ついに倒産となりました。

Webvanには、1500億円(1ドル125円換算)ほど投資されたはずですので、それこそ「華々しい倒壊(spectacular fall)」という表現がぴったりの出来事でしたが、この失敗例については様々な分析がなされ、「過度の投資により赤字から抜け出せなかった」というビジネス要因に加えて、「時期尚早だった」という技術環境や文化的要因も挙げられました。
そう、あと数年待ったらブロードバンドのネット環境や消費者のネットショッピングに対するマインドが整い、オンラインスーパーはうまく行ったんじゃないか? と。
 


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そして、現在。「あと数年」よりも長い時間が経ちましたが、オンラインスーパーに再挑戦する動きが活発化しています。

だって、誰もが毎日食べないといけないのだから、日々の食材をネットで買うニーズは必ずあるはず!
 


Instacart logo.png

今回の「再挑戦」は、以前とはちょっと違います。たとえば、2012年9月サンフランシスコに設立された Instacart(インスタカート)。
こちらは、Webvanのような「配送センター」は一切持たず、「買い物代理人(personal shopper)」を採用。代理人が指定のスーパーで食材を購入し、家まで届けてくれるというシステムです。

ま、便利屋さんの延長ではありますが、これまでと違うのは、スマートフォンを使って気軽にサービスを頼めるところ。
そう、ダイアルアップ方式のネット接続でデスクトップにつながれていた時代とは違って、今は、みんなの手元にスゴいコンピュータパワーがある。だから、ユーザも思い立ったときに気軽にサービスを利用できるし、提供する側だって、ユーザの位置情報などを把握しやすい。
だって今は、瞬時に手応えを得たい(instant gratification)時代です。何かを待つなんて、あり得ない。
 


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近頃、そんなスマートフォンを使ったサービスが流行っているでしょう。たとえば、サンフランシスコで知名度を上げているのが、タクシーに代わるUber(ウーバー)やSidecar(サイドカー)の「乗車シェア(ridesharing)」サービス。
サンフランシスコは、ニューヨークと違ってタクシーがつかまらないことで有名な街。だから、「乗りたい人」と「乗せてもいい人」をマッチングして、タクシーよりもタイムリーなサービスを提供しよう! というのが「乗車シェア」のコンセプトです。

さらには、その延長で「宿泊シェア」のサービスも人気上昇中。たとえば、サンフランシスコのAirbnb(エアービーエンドビー)は、「誰かを自宅に泊めてもいい登録者」と「ホテルの代わりに誰かの家に泊まりたい希望者」をマッチングするサービスです。
すでに全世界3万都市で(お城やヨットも含めて)50万件の登録があるので、宿泊場所の評価基準もしっかり整い、サービスの質には、かなりの定評があるようです。

こういった「シェア」サービスは、「みんなで限られた資源(モノや労力)をシェアしましょう」という地球規模の動きが原動力となっていますが、スマートフォンで利用できる気軽さから広まった部分もあるでしょう。
今では、こういったシェアの概念を指して「シェアリング経済(sharing economy)」という言葉も登場しています。
 


Instacart app top.png

そして、これをスーパーマーケット業界に適用したのが、Instacard。時間とか労力をシェアし、「食材を買いたい人」と「買って運んであげる人」をマッチングしたサービスです。
創設者/CEOのアプーヴァ・メータ氏(27歳)は、地域広告サイトCraigslist(クレイグズリスト)を見ていて、「買い物代理」のニーズがたくさんあることから発想を得たとか。

今では、地元サンフランシスコ・ベイエリアの17都市に加えて、シカゴ、ボストン、首都ワシントンD.C.、フィラデルフィアでもサービス展開しています(首都とフィラデルフィアは今月開始)
指定のスーパーも、大手スーパーのSafeway(セイフウェイ)、オーガニック(有機食材)専門のWhole Foods(ホールフーズ)、量販チェーンのCostco(コストコ)と、バラエティーに富んでいます。

<Instacartの商売って?>
そんなわけで、Instacartが提供するのは、サービスの迅速さ、気軽さ、比較的安価な配達料といったところでしょうか。
たとえば、35ドル以上のお買い物の場合、通常配達(2時間以内または時間指定)は3ドル99セント(約400円)、依頼から1時間の配達で7ドル99セント(約800円)と、配達料は安めに設定されています。
 


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地元ベイエリア・ニューズグループの取材に対し、CEOメータ氏は「まだ黒字じゃないけれど、年間数千万ドル(数十億円)単位で売上が立っている」と強気の発言をしています。

(引用文献:”Deliver the Goods: Instacart uses couriers to shop for food items that customers order, pay online” by Heather Somerville, the San Jose Mercury News, January 26, 2014; photo by Laura A. Oda)

が、一見「数でこなして商売にする」方式も、よく考えてみると、黒字にするのは難しい気もしてくるのです。


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まず、「配達料 vs. 人件費」。サンフランシスコのような密集した街なら、一件当たり30分で買い物と配達を済ませられるとしましょう。サンフランシスコ市の最低賃金は時給10ドルですから、人件費は5ドル(Instacartの求人欄では、最高時給25ドル稼げるとありますが)
だったら、配達料3ドル99セントでは赤字? それに、ガソリン代だってかかるでしょ? その上「あら卵が割れているわ」とクレームが付いたら、もう一度やり直し?

Instacartの場合、現時点では指定スーパー各社との交渉が難航していて、一般消費者と同じように「定価」でお買い物をしなければなりません。
通常、少しでも安く仕入れて、顧客に渡すときにマージンを取りたいところ(食品小売業だと1〜2%の薄いマージン)ですが、現状では、それすらできません。

だとすると、「数をこなすべき商売」が「スケールしない(拡大できない)商売」にも思えてくるのです。なぜなら、人をかけて商売を広げようとすると、それだけ人件費がかかり、実入りがなくなってしまう構造に見受けられるから。

さらに、細かい点を指摘すると、万が一事故が起こった場合の責任問題も微妙でしょうか。
Instacartの「買い物代理人」は、自分の車を使って配達業をこなしているようですが、営業中に事故を起こした場合、個人で加入している自動車保険は剥奪されることでしょう(求人欄には「自動車保険加入は必須」とありますが、個人で加入する保険には「営業行為は禁止」との条項があり、違反すると保険停止)

実際、乗車シェアサービスのUberでもクローズアップされていますが、個人が「営業行為」を行ったときに誰が責任を取るのか? という問題は決して軽視できません。
ですから、どんなビジネスも保険に入るわけですが、Instacartががっちりと配達業の保険に入ろうとすると、それだけコストがかかるでしょう・・・。

べつに意地悪を言おうと思って、これを書いているわけではありません。「何かがちょっと違う」気がするから、考える材料にさせていただいているんです。


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CEOメータ氏は、「我々は食品小売業でビジネスをやっているように見えるけれど、実はソフトウェアを構築しているだけなんだ」とおっしゃいます。が、ソフトウェアを実社会に適用しようとすると、予期せぬ人間社会の問題にぶつかることもあるでしょう。
とくに、「日々の食材を買う」という最も人間らしい行為をソフトウェアで解決しようとすると、システムづくりは一番たやすいことであって、その先は容易には進まないようにも感じられるのです。

現在、オンラインスーパー第2世代としては、アマゾン(Amazon.com)、グーグル、小売チェーン最大手のウォールマートといった巨人たちも挑戦しています。
それぞれ、アマゾンフレッシュ(AmazonFresh)、グーグル・ショッピングエクスプレス(Google Shopping Express)、ウォールマート・トゥゴー(Walmart To Go)という名称で、少しずつサービスを拡大しています。
 


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たとえばアマゾンフレッシュは、自社で食材を仕入れ、配送センターからトラックで配達するWebvan型のシステムを採用していますが、地元のワシントン州シアトルで7年間かけて試験運用した結果、昨年6月にロスアンジェルス、年末にサンフランシスコと、ようやく他地域にも進出しています。
上記InstacartのCEOメータ氏は、もともとアマゾンで物流担当のエンジニアだった方ですが、彼は「アマゾンのやり方は間違っている」と反論を唱えます。
配送センターのシステムを採ることで、配達は注文の数時間後になるし、扱う商品が限られる。それじゃあ、消費者の希望はかなえてあげられないよと。

そして、Webvanと同期の数少ないオリジナルメンバーとしては、2001年8月号でご紹介したPeapod(ピーポッド)があります。
今は、本拠地シカゴ近郊で地道に営業を続けていますが、業績はあまりパッとしないとも言われています。

<オンラインスーパーの未来>
そんなわけで、「ネットショッピングのプロ」アマゾンが、それだけ神経を遣ってオンラインスーパーに乗り出しているのを見ると、よっぽど一筋縄では行かない業界なのか? と痛感するのですが、アマゾンのような「ネットの巨人」が他社よりも優位な点はあると思われます。

ひとつに、ネットの巨人は利用者の好みを知り尽くしているはずですので、「ご用聞き」のように、「そろそろいかがですか?」と提案できる点。そう、需要を創造するとでも言いましょうか。

たとえば、利用者がパンや牛乳を定期的に購入しているパターンを分析すれば、「そろそろ次のモノを送ってあげましょうか?」という提案は喜ばれるはずです。


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だって、プライバシーにうるさいわたしだって、愛用のビタミンCに関しては「何回か購入した履歴があるんだから、適当に見つくろって送って来てよ」と思っているくらいですから(頃合いを見計らった「定期購入」ボタンをつくって欲しいくらいです)。

それから、利用者がまだ知らないモノをお勧めできるという、「ネットならでは」の強みもあるでしょう。過去にAとBを購入しているから、類似品Cだって、利用者が知らないだけで、買ってみると好まれるかもしれないでしょう。

昨年の夏、楽天の創設者/会長兼社長・三木谷浩史氏のお宅で開かれたバーベキューパーティーで紹介された研究題材の中に、「手持ちの本2冊の写真を撮ったら、間にお勧めの本の写真が出てくる」という発想がありましたが、こういうのは、店先では実現しにくいネットサービスの魅力的な機能だと思うのです。

アマゾンだって、昨年末に取得した特許の中に「先行発送(anticipatory shipping)」という新しい概念がありました。ユーザの過去の購買履歴やウィッシュリスト、それから「どれくらいコンピュータのカーサが商品写真の上で停滞していたか」といった情報から、ユーザが欲しいものを注文前に(!)配達してあげるという発想です。


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本だって、音楽だって、服だって、食べ物だって、新しいモノを知ることで、自分の世界が広がる喜びがありますから、「箱を開けてみて、びっくり」というのは、結構楽しめるかもしれません。
「この怪獣みたいな野菜は、こうやって食べたらおいしいですよ」と追加情報を提供してもらえれば、さらに嬉しいことでしょう。

そんなわけで、日々必要とする食材をネットで注文/配達する行為が、どうしてここまで複雑なミッションになるのか? と、狐につままれた気分にもなるのですが、もしかすると我が家は、最後の最後までオンラインスーパーは利用しないクチかもしれません。


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だって、野菜や果物の新鮮度・成熟度は自分の目で確認したいし、第一、お店に足を運んで旬の食材に出会うのは、とっても楽しいことですから(そして、一部の人にとっては、大事な「井戸端会議の場」にもなっていますからね)。

夏来 潤(なつき じゅん)

 


OK(オーケー)

今日のお話は、OK

Okay とも書きます。

英語の発音は、どちらかというと「オゥケイ」といった感じですが、日本語でも使われる「オーケー」のことですね。

ときどき、okeydoke(オゥキードゥク)とか、okey-dokey(オゥキードゥキー)と言う人もいますが、大部分の人は OK を愛用します。

日本語の「オーケー」と同じように、英語の OK も「大丈夫だよ」「わかったよ」といった肯定的な意味に使われます。

I want you to be there at 7 a.m. tomorrow morning
 明日の朝7時に、そこにいてちょうだいね

OK, I’ll be there
 オーケー、ちゃんと行くよ

このような単純なシチュエーションでは、「わかったよ」と肯定的な意味なのは明らかですよね。

が、油断してはいけません。言葉が簡単で、便利で、気軽に相づちにも使われるがゆえに、ときに「あいまいな意味」に取られることもあるのです。


それは、連れ合いが宿泊の予約をしようと電話をしたとき。

こちらは「一泊無料宿泊券」を持っていたので、毎年やっていたように、差額は払うから、部屋をアップグレードして欲しいとリクエストしたのでした。

すると、最近あちらのルールが変わったようで、「宿泊当日に部屋が空いていたら、アップグレードしてあげる」と言われたのでした。

そこで、連れ合いは「OK」とあいまいな返事をしていたのですが、後日、現地に行ってみたら、アップグレードの広い部屋は準備されていなかったんです。

いえ、広い部屋が空いていなかったわけではなくて、電話を受けた人が、連れ合いの「OK」を誤解して「(ルールがあることは納得したから)アップグレードしなくていいよ」と受け取ったようでした。

連れ合いは「わかったよ。だったら当日空きがあったらアレンジしておいてね」と言ったつもりだったのに、相手は「わかったよ。だったらあきらめるよ」と理解したようなのでした。

どうやら、「顧客はOKと言った」という電話のやり取りが記録されていたようで、この「誤解」が明らかになったのですが、だったら、向こうだって再確認してくれればよかったのになぁと思ったのでした。

たとえば、こんな風に。

Do you still want to upgrade your room? Or are you fine with the regular room?
(条件付きであっても)それでもアップグレードなさりたいですか? それとも、通常の部屋で大丈夫ですか?

ま、ここまでアップグレードにこだわるのには、ワケがあるんです。ここのスイートルーム(suite)は一軒家みたいに広々としているし、バスルームの外には専用ジャクージ(Jacuzzi)が付いていて、夜空の星を見ながら、そして早起きの鳥のさえずりを聞きながらブクブクとお風呂に入れるから。

ちなみに、この日は1時間待ったら広い部屋を準備してくれると言うので、晩ご飯を食べながら、暢気に待たせてもらいました。

それにしても、まさか OK という単純な言葉で「誤解」が生まれるとは、夢にも思わない出来事だったのでした。


そんなわけで、ときに誤解されることはあったにしても、OK という言葉は、今ではアメリカから全世界に広まり便利な言葉になっていますよね。

OK と言えば、何語であっても、だいたい意思は通じることでしょう。

そして、この OK は、今の略語やアクロニム(acronym:単語の頭文字をつなげた言葉)の走りではないかと思うのですが、まあ、近年は、メールやソーシャルネットワークでさまざまな略語が使われていますよね。

中でも一番有名なのは、OMG でしょうか。

Oh, my god! の略で、「まあ、びっくり!」

「まあ、どうしましょう!」と困惑の場面にも使います。

それから、同じように有名なのが、LOL でしょうか。

Laughing out loud の略で、「大笑い」

日本語で、文章の最後に(笑)と付けるのと同じですね。

文章では表しにくいリアクションを文字で表現しています。

YOLO というのも、頻繁に使われるみたいですね。

こちらは、You only live once の頭文字を取ったもの。

「あなたは一度しか生きない(人生は一度しかない)」という意味ですが、好意的な取り方をすると、チャレンジ精神がみなぎる表現。

You only live once. Why don’t you go for it?
 人生は一度なのよ。思い切ってトライしてみたら?

そして、あまり好意的でない取り方をすると、何か無茶をしたあとに、「どうせ人生は一度っきりしかないのよ!」という言い訳にも聞こえるでしょうか。

Sorry, I made a mistake. But you only live once, you know!
 ごめんなさい、悪いことして。でも、人生って一度きりでしょ!


いずれにしても、こういう略語は便利ですよね。だって、短い文字の羅列で感情をうまく表現できるのですから。

でも、近頃は、ちゃんとした文章を書くべきときにも略語が顔を出し、「この人って、ほんとにしっかりした人なのかしら?」と疑問を抱くこともあるみたいですよ。

たとえば、履歴書(résumé「レザメー」と発音)に添えるお手紙にも、略語が使われていて、「まったく良識を疑うってしまうわ」とおっしゃった人材採用担当者がいらっしゃいました。

この方は出版社に勤める方で、当然のことながら、応募した方たちも出版社に勤めたいと思ったのでしょうけれど・・・。

今の世の中、採用担当者は、応募者のソーシャルネットワークは必ずチェックすることになっていますが、履歴書を提出するときくらいは、ちゃんとした文章を書くべきですよね!

というわけで、OKOMG みたいな略語も、気軽に使えるがゆえに、使い方にはちょっと気をつけた方がいいのかもしれません。

付記: 最後の写真は、わたしがシリコンバレーで転職したときに参考にした「履歴書の書き方」の本です。アメリカには「履歴書」という書式が定まっていないので、書き方は自由なんですが、いちおう、こういった参考書に従った方がいいのではないでしょうか。

ちなみに、アメリカの履歴書の書き方について、ちょっとだけ書いてみたことがあります。こちらの第2話『「履歴書」から学ぶこと』というお話です。

1月のスタートライン

いつもは、冬が雨季のカリフォルニア。

今シーズンは雨がほとんど降らないので、ブラウン州知事は「緊急事態宣言(State of Emergency)」を発し、みんなに節水を呼びかけています。

例年、この時期には緑になるカリフォルニアの山々も、真夏のように茶色のまま。草原を走り回るリスちゃんたちも、勝手が違ってちょっと困惑気味(?)


そんな初夏のような日差しの昼下がり、ある女のコと話していて、びっくりすることがありました。

その数日前、彼女が「妹らしき女のコ」と一緒にいたことがあったので、「あのときの女のコは妹なの?」と聞いてみたのでした。

だって、その「妹らしき女のコ」って、彼女をコピーしてちょいと小さくしたみたいな感じだったので。

すると、「そうなのよ。妹は、あれで17歳になるところだから、わたしよりも8歳も若いのよ」と答えます。

妹さんはオトナっぽい雰囲気だったので、17歳というのもびっくりなんですが、もうひとつびっくりしたのは、彼女たちの兄弟・姉妹構成。

彼女には、4歳年上のお兄さんもいて、妹さんの下には、さらに3歳年下の弟もいるとか。

だから、男のコ、女のコ、女のコ、男のコと、4人兄弟姉妹。

そして、一番上の兄と一番下の弟は、実に15歳(!)も離れているんです(29歳、25歳、17歳、14歳という構成)。

まあ、お母さんは、なんと長い間「妊娠・出産」を経験したものか! と驚いたのですが、お母さんが最初の子を産んだのは、16歳のとき。

だとすると、最後の子を産んだのは31歳になるので、一見「現代社会では珍しいケース」も「そんなに珍しくないケース」とも思えるのです。

なんでも、上ふたりは順調に授かったものの、どうしても欲しかった三人目がなかなかできなくて、やっとできた赤ちゃんが女のコだったので、もうひとり男のコが欲しかった、というのが4人構成の理由だそうです。


彼女はスペイン語が母国語なので、たぶん小さいときにメキシコから移り住んだのだと思いますが、親戚の間では、16歳で子供を産むのは当たり前だと説明してくれました。

だから、自分はもう25歳になるので、「早く子供を産みなさいよ」と親戚の「おばさまたち」にプレッシャーをかけられるとか。

でも、わたしには子供なんてまだ早い、と彼女は言うのです。

だって、1月から学校に通うことにしたから、と。

彼女が働いているお店の近くに、2年制のコミュニティーカレッジがあって、そこに通うことになったとか。

ほんとは、スペイン語と英語の「翻訳・通訳(translator, interpreter)」の資格を取りたいと思っているのだけれど、クラスがいっぱいで、9月まで待たなければならないの。だから、その間、何もしないのもイヤだから、1月からは「メイクアップ」のクラスを取ろうと思って。

もともとは、「メディカルアシスタント(medical assistant:看護師を補助する役割)」の資格を取りたかったんだけれど、今はとっても人気があって、クラスが取れないの。2年も待たないといけないんだって。そしたら、お店のお客さんが「二カ国語できるんだったら、翻訳の仕事なんていいんじゃない?」って、コミュニティーカレッジのクラスを紹介してくれたのよ、と語ってくれました。

たしかに、近年、アメリカのヒスパニック(Hispanic、ラテン系)人口はどんどん増えていて、全米人口の17パーセントがヒスパニックとなっているそうです(2013年国勢調査)。

そして、カリフォルニアやテキサス、フロリダ、ニューヨークといった大きな州にヒスパニック人口が集中する傾向にあります。

一番多いカリフォルニアでは、ヒスパニック系住民は1440万人、二番目のテキサスでは980万人となっています。

カリフォルニアの1440万人って、州人口の38パーセントにあたります。

38パーセントって、「3人にひとり」よりも多いんですよね!

(2011年のデータを分析した Pew Research Hispanic Trends Project, August 29, 2013 より。上のグラフは、ヒスパニック人口の多い州を並べたもの。下のグラフは、州人口に対するヒスパニック系の割合が多い州を並べたもの。割合にすると、ニューメキシコは47パーセントと、ダントツに多いですね)

ですから、カリフォルニアを始めとして、ヒスパニック人口の多い州ではスペイン語を話す人も増えていて、とくに法律や医療の分野では、英語/スペイン語のバイリンガルは、引く手あまたのようではあります。

だって、こういった分野って、言葉がややこしいですものね。

だとしたら、翻訳・通訳のお仕事だって、すぐに見つかるのかもしれません。


そんなわけで、働きながらお勉強をして、資格を取って、新しい仕事にチャレンジしたい! と新年の抱負を語る彼女が、キラリと輝いて見えたのでした。

そう、新年は、何かしら新しいことにチャレンジしたいって思える時期。

「新しい年、新しいキャリア(New Year, New Career)」と題して、広告を見かける季節でもあります。

「この年を、やりたいことをやる年にしてみましょう(Make this the year you do what you love)」と、魅力的なお誘いの言葉も添えてあります。

(こちらは、短期間に料理やワイン、お菓子づくり、菜園経営を学びましょう! という料理学校の「オープンハウス」の広告。働いている人のために夜間授業もあるそうです; Ad of International Culinary Center from the San Jose Mercury News, January 21, 2014)

そこで、キラリと輝く彼女には、こう申し上げたのでした。

「メイクアップ」と「翻訳・通訳」。まったく違う分野だけれど、実際にやってみたら、どっちが好きとか、どっちが自分に合っているとか、そんなことがわかってくるんじゃないかな。だから、そのときに、どっちを続けるか真剣に考えてみたら? と。

いずれにしても、「人のために役に立ちたい!」と言っていた彼女ですので、どっちの道に進んだって「人のためになる」お仕事だと思うのです。

そんな彼女に会うたびに、こちらも激励してあげないといけませんね。

あなたって、ラッキーね!

2014年の幕開けから、もう3週間がたっています!

月日が過ぎるのはほんとに早いものですが、今年の元旦は、病院からの電話で目がさめました。

べつに具合が悪かったわけではなくて、お約束の超音波検査の予約をしなさいという催促でしたが、なにもお正月の朝からするような話じゃないですよね!

おかげで、なんとなく気持ちが暗くなった新年のスタートでしたが、そんな心の雲も、連れ合いの「おせち料理」ですぐに晴れました。

そう、以前も書いたことがありますが、我が家のおせち料理は、連れ合いがつくることになっているんです。いえ、わたしがつくりたくないんじゃなくって、連れ合いがつくりたくってしょうがないんです。

今年は、重箱に詰めずに「簡易バージョン」となりましたが、シャカシャカと品数豊富につくってくれました。

いろいろと定番はある中で、一番大事に思っているのは「黒豆」でしょうか。

「いかにおいしい黒豆を煮るか?」と、毎年いろんな工夫をしています。

例年、大晦日の前日には、黒豆づくりに着手します。今回は用事があって、黒豆をつくり始めたのは、大晦日になってから。

時間が足りずに、お豆がシワシワになった・・・と、できばえに少々落胆していました。

やっぱり、黒豆は、調味料を全部入れた水に一晩浸け込んで、それから長時間コトコトと煮る方がおいしいと、今回の失敗から学んだようでした。

なんでも、黒豆づくりは、子供の頃からおとうさんの役割だったそうです。

でも、これには苦い思い出があって、それは、おとうさんが煮る黒豆の鍋が吹きこぼれること。毎年、鍋から煮汁が吹きこぼれては、キレイ好きのおかあさんとケンカになっていたそうで、子供ながらに「黒豆」と「口げんか」というイメージが対(つい)になっていたらしいです。

ですから、わたしは、黒豆には口を出さないことにしています。

毎年の修練で、あんまり吹きこぼすこともありませんし、どうせ吹きこぼれても自分で掃除しているみたいですので。


そんなわけで、大晦日と元旦は連れ合いが台所を占領することになっているのですが、穏やかな大晦日の夕刻、わたしはお隣さんに用事があって玄関を出てみると、道に出ていた彼女は、こう言うのです。

「これって、お宅なのかしらね?」

何かと思えば、誰かが料理をしている「いい匂い」がする、と言うのです。

あなたの家の台所って、わたしの方に向いているわよね? と。

日本にはお正月の特別料理があって、うちは毎年、連れ合いがつくってくれると説明すると、「まあ、あなたってラッキーね!(Lucky you !)」と、目を輝かせて賛辞を述べてくれました。

お隣さんは、一年前にご主人を亡くしたばかり。金婚式もとっくに過ぎて、次は60周年を目指していたときでした。

お隣さんの家にも伝統があって、大晦日(New Year’s Eve)はステーキとロブスターと決まっていたそうです。

彼女は、料理がお得意な方。そして、東海岸マサチューセッツ州ご出身の方。ですから、「祝い事にロブスターはつきもの」で、ステーキ肉とロブスターを市場から調達して来ては、料理の腕をふるうのが新年を迎える恒例となっていたとか。

今はひとり暮らしとなったので、「つくり甲斐」に欠けるのでしょう。ごく簡単なものしかつくらなくなったようですが、「今年は、彼との思い出を大切にしたいので、お友達に誘われた大晦日のパーティーも行かないことにしたわ」とおっしゃっていました。

ステーキとロブスターのコンビネーションは、アメリカのレストランではよく見かけますし、お隣さんの家でも「ご馳走」のシンボルだったのでしょう。以前も、こんなことを聞いたことがありました。

子供が小さい頃は、お祝い事があってもレストランに行くことはなかったけれど、子供たちを寝かしつけたあとに、二人きりでワインを傾けながらステーキとロブスターで祝ったものだったわ。

暖炉に火を焚いて、その前で食べると、格別な味がするのよね、と。

なるほど、家によって、何かしら「特別な味」があるようですね。

とすると、我が家の場合は、お正月の黒豆でしょうか?

追記: 冒頭に出てきた超音波検査ですが、先日、検査の担当者が開口一番こう言うのです。
 「まあ、あなたって若く見えるわねぇ。いったい何を食べているの?」と。

この方はインド系のレディーで、わたしよりも年上に見える方でしたが、彼女いわく「あなたたちって(アジア系の女性)、ほんとに年齢よりも若く見えるのよねぇ」。だから、何か食べ物に秘密があるのかしら? と、常々考えていたようです。

こちらとしては、「連れ合いの料理です」とは答えなかったですが、食べ物だけじゃなくって、心の持ちようもあるんじゃないかな? と秘かに思ったのでした。そう、「もう若くないわぁ」と思ったら、それが外観にもにじみ出てしまうとか・・・(と、自分にも言い聞かせているのでした)。

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