2007年を振り返って

Vol.101

2007年を振り返って


いつの間にか、2007年も終わりに近づいてきました。とにかく、一年が行き過ぎるのは速いものではありますが、振り返ってみると、今年もいろんな事がありました。
日本では、年金問題に防衛省の不祥事。そして、食の安全や医療の安全を問う不祥事の数々。「いったいどうなってんの?」と、頭を抱えた方もたくさんいらっしゃることでしょう。
一方、アメリカでは、なんといっても、住宅価格の落ち込みを引き金にした、サブプライムローン(信用度の低い層への住宅融資)問題。どんどん雪だるま式に大きくなって、アメリカの金融業界だけではなく、世界の金融市場を揺るがす大問題となりました。

そんな一年を記念して、今月は、まとめの号といたしましょう。書きたいトピックは10や20と頭に浮かびますが、残念ながら、スペースの都合で全部をご紹介することはできません。
そこで、印象の強い順番に、4つだけ並べてみることにいたしましょう。あんまり暗い話は抜きですね!


<テクノロジー製品談義>
お~い、任天堂さ~ん、いったい何考えてんのぉ~?

いえ、他でもない、家庭用ゲーム機「Wii」のことですよ。アメリカでは、クリスマスの直前に、Wiiが足りなくって、大騒ぎ。
中には、在庫のまったくないお店もたくさんあったようで、「1月までは待てない!」って人は、マイクロソフトのXboxやら、ソニーのPlay Stationに流れてしまったのでしょうね。だって、年が明ければ、みんなのお財布の中身はカラッカラ。と言うよりも、クレジットカードの借金がドカッとやって来る。それなら、今のうちに、どさくさにまぎれて別の物を買っちゃいましょうと、他社製品に流れてしまったことでしょう。今年は、昨年に比べて、ゲーム機の売上が6割増と見込まれていたのに、任天堂さん、もったいなかったですね(我が家でも、ソニーのPS3をゲットしましたよ)。

だいたい、アメリカの消費者って、「Season of Giving(人に与える季節)」と呼ばれるクリスマスの時期のことを勘違いしているんですよね。人に分け与えるのは、金で買った物品だと、ほとんどの人が思い込んでいる節があります。
だから、アメリカのクリスマス商戦をあなどってはいけません。売る側としては、在庫が余るのも考え物だけれど、どれだけ需要があるのかを計り間違ってはいけないのです。とくに、Wiiのような人気商品に、謙遜は不要なのです!

そうそう、この年末の大事な時期、アップルさんも、人気携帯電話「iPhone(アイフォン)」の限定販売台数を2台から5台に増やしましたよ。秋にヨーロッパでiPhoneが発売となったとき、業者が買い占めないようにと、それまでの「ひとり5台」の制限を「2台まで」に強化していたのです。が、さすがに今度は売り残りが心配になったようで、制限を緩和したのです。
それでも、これまでアメリカで販売されたiPhoneの18パーセントは、独占携帯キャリアであるAT&Tのサービスに加入していないそうなので、どこかで業者の手に流れているのでしょうね。


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さて、このiPhone、何といっても、今年一番の注目商品でした。Time誌では、栄えある「今年のベスト発明品」に選ばれています。わたし自身も、6月号でiPhoneの登場を待ち望む巷のざわめきをご紹介していますし、7月号のおまけ話で、発売当日のアップルショップでの大騒ぎをご報告しております。
マックやらiPodとともに、年末のiPhoneの売れ行きもしごく好調なようで、クリスマス明けのナスダック株式市場では、いきなりアップル株が200ドルに達しました。今年アップルは、80ドル中盤という株価で始まっているので、2007年の躍進は素晴らしいものです。これも、やはりiPhone効果でしょうか。

これほど騒がれるテクノロジー製品も珍しいものですが、それは、アップルというハイテク企業が作ったわりに、iPhoneがうまく家電製品になりきっているからでしょう。

昔のヒューレット・パッカードのPDA、HP 200LXのように、一部のテクノロジー愛好家に好かれる製品は、これまで世の中にいっぱいありました。でも、iPhoneが一般ユーザにまでも深く愛される理由は、テクノロジーをまったく感じないで利用できることでしょう。
たとえば、ちょっと前までは、アメリカでケータイを使ってメールを受け取ったり、ウェブアクセスしたりというのは、一般消費者にはまったく縁のないことでした。ケータイなんて、テキストメッセージ(SMS)を打つのが関の山。それに、ウェブでお天気やスポーツ情報を得られるよと言われても、所詮は小さな見難い画面で我慢しなければならず、ほとんど誰も利用しなかったのが現状です。
ところが、iPhoneが現れて以来、状況は一転。ケータイでメールを受け取るのは当たり前になったし、ウェブアクセスも手馴れたものとなりました。画面は大きくて見易いし、主な機能はメニューボタンになっているので、チョンと押せばいいだけ。Yahooファイナンスで日々の株価をチェックするのも楽だし、Googleマップで行き先を探して、フリーウェイの混雑状況を把握するのもお手の物。


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画面の文字が小さいなら、親指と人差し指をスクリーン上でビュッと広げれば、画面は自由に拡大するし、iPhoneを縦から横に向きを変えると、画面も横向きになって、もっと見易くなる。実用的だから、みんなもウェブを利用してみようかという気になるのです。

まあ、もともとメールもウェブアクセスも、パソコン上では誰でもやっていることですから、そこに格別な敷居はありません。ところが、それがケータイに移っただけで、アメリカのユーザにとっては、途端に敷居が高くなってしまう。アップルの偉さは、いろいろと工夫して、その敷居をまったく取り払ってしまったところにありますね。
しかも、iPhoneでは、iPodのように音楽も聴けるし、YouTubeなんかのビデオも観られる。音楽、画像、メール、ウェブと、みんなが慣れ親しんだ機能が、見事なまでに調和している。それが、ひとつのおしゃれなデバイスに凝縮されている。

というわけで、iPhoneにはテクノロジーがいっぱい詰まっているのに、そんなことはおくびにも出さないで、みんなに好まれるおしゃれな道具になっているのです。
新しい製品を世に出すとき、たった一段の敷居であったにしても、一般ユーザには越えられないことがたくさんある。それを、アップルさんはよくご存じなのですね。「技術的にできる」ということと、「みんなが使ってみたいと思う」ことはまったく別物であり、大きく飛躍してしまっては、誰も付いて来ない。そんなことを、よくわきまえていらっしゃる。だから、発売からたった74日で、100万台も売れたのでしょうね。

そして、これから先、このiPhoneで確立されたプラットフォームを利用すれば、今まで誰も考え付かなかったような、真新しいサービスを導入することもできるのです。そうなると、iPhoneがポップカルチャーを大きく変えてしまうかもしれない(だいたい、購入したiPhoneをパソコンに繋いで、iTunes経由で、オンラインで携帯サービスに加入するなんて、まったく意表を突く発想ですよね)。


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  携帯キャリアAT&Tの向こうを張って、競合のVerizonワイヤレスからは、iPhoneもどきの製品が出ています。LGの「Voyager(ヴォエジャー)」という製品ですが、タッチスクリーンのiPhoneみたいな形と機能で、パカッと開けると、ちゃんとしたキーボードが付いている。だから、キーボードがある分、iPhoneよりも便利なんだよと、宣伝しています。

でも、残念ながら、ひとつ足りないです。何がって、「アップル」というブランド名が。


 

 

<もうすぐ1月3日>
みなさま、これを何と読むかご存じでしょうか?
「Des Moines」

ひとつヒントです。
「Des Moines, Iowa」

そうですね、アイオワ州の首都、ドゥ・モインのことです。今、アメリカ中の目が、この中西部の街に向けられています。ご存じの通り、2008年11月4日の大統領選挙に向かって、全米で初めての党員集会(caucus)が開かれるのです。ここでの結果如何によっては、民主党も共和党も、大統領候補者の力関係がグラッと変わってしまうのですね。
なんでも、アイオワ州で全米に先駆け党員集会が開かれるようになったのは1972年のことだそうで、それ以来、このドゥ・モインが、その後の全米での選挙戦の形勢を占うと言われてきました。
ちょっとおもしろいのは、映画やテレビなんかでは、ドゥ・モインは「田舎」の代名詞みたいに使われているのに、このときばかりは、みんな真剣に眼(まなこ)を開いて、この地での動きに注目していることでしょうか。でも、田舎とはいえ、この10年で見違えるようにおしゃれになって、今ではすし屋さんだってあるそうですよ。それから、小さな街だけあって、候補者たちを間近で見るには最適だそうです。

年が明けるとすぐに、1月3日にドゥ・モインで両党の党員集会が開かれ、1月8日には、いよいよニューハンプシャー州で予備選挙(primary)が開かれます。こちらも全米初の予備選挙ですので、注目度は非常に高いです。
でも、ニューハンプシャーの有権者は独立心旺盛で、無党派層が多いので、他の州の試金石にはならないかもしれません。なにせ、州のモットーは、「自由に生きられないなら、死んじまえ(Live Free or Die)」というくらいですから!

その後、各地で党員集会や予備選挙が開かれたあと、注目の2月5日には、雪崩のように23州で党員集会または予備選挙が開かれます。別名「スーパー・チュースデー(Super Tuesday)」とも呼ばれています。
この日は、カリフォルニアでも予備選挙が開かれるのですが、これは以前6月だったものが前倒しとなりました。いつも6月頃には、誰が各党の大統領候補となるのかほぼ決まっているので、カリフォルニアのような大きな州の意向が反映されないのはおかしいと、今回から予備選挙を2月にすることにしたのです。

このように、各州で開かれる党員集会やら予備選挙やらと、正副大統領候補を各党から選ぶ方法は、とても複雑なものです。それと同時に、大統領選挙自体も複雑なことで知られていますね。
忘れもしない2000年の大統領選挙では、民主党のアル・ゴア候補が、共和党のブッシュ候補よりも一般投票の得票数では勝っていたのに、大統領の座は奪われてしまいました。このときは、揉め事が連邦最高裁判所まで達しましたが、これは、大統領を選ぶプロセスが純粋な直接選挙ではないために起こった大騒ぎですね。

その悪夢を思い起こさせるような動きが、今年カリフォルニア州で、ずっとくすぶり続けていました。それは、大統領選挙のやり方を変えてやろうという、共和党支持者の策略でした。

そもそも大統領選挙では、投票日に住民が投票したあと、その得票数に応じて、州の大統領選挙人団(Electoral College)が最終的に票を投じる形式になっています。全米の選挙人は合計538名ですので、270を得票すると、大統領に選ばれることになります。
ここでおもしろいことに、大部分の州の選挙人団は、一般投票の得票に応じて、民主党か共和党か(無所属か)いずれかの候補者にまとまって投票します。カリフォルニアの場合は、選挙人団の票を55持っているのですが、この55票は、すべていずれかの候補者にまとまって投じられます。
それがカリフォルニアを含む大部分の州の規則となっているわけですが、これを「winner-take-all(勝者総取り)」のシステムといいます。例外となっているのは、4票を持つメイン州と、5票を持つネブラスカ州のふたつだけです。

ところが、カリフォルニアでは、選挙区ごとに選挙人の票を分けようではないかという案が持ち上がったのです。
全体で見ると、カリフォルニアは民主党支持者の多い州ではありますが、中には、郡部の選挙区のように、まるっきり共和党支持という場所もあります。だから、選挙区ごとに民主党と共和党を塗り分けると、53の選挙区のうち、20くらいは共和党支持となるのです(カリフォルニア州の55票というのは、53の選挙区票におまけの2票が付いたものです)。
すると、これが、全米の大統領選挙を大きく左右することになる! なぜなら、ガバッと20もの票が動くと、形勢は一気に逆転することになるやもしれないからです。
今回はとくに、ヒラリーさんやらバラックさんと、民主党候補の躍進が目立ちます。ほぼ確実にカリフォルニアの55票は民主党候補に投じられるところが、このうち20票が共和党候補に投じられることになると、ひょっとすると共和党候補が勝つかもしれない! それはもう、共和党としては万々歳なのです。

そんなことを考え出した共和党支持者たちは、カリフォルニアに組織された団体に献金をして、せっせと署名集めを進めました。州の法律を変えるために、住民投票に持っていこうというのです。
もともとの発案者は、共和党の大統領候補者であるジュリアーニ元ニューヨーク市長の陣営とも言われていますが、献金者のリストには、ヒルトン・ホテルの会長、ウィリアム・バロン・ヒルトン氏(パリス・ヒルトンの祖父)なども名を連ねています。

ところがどっこい、悪い事はそううまく行くはずはなく、12月初旬、このたくらみは失敗に終わりました。来年11月の大統領選挙に間に合うようにと、6月に法律修正の住民投票を行おうとしていたのですが、如何せん、有権者の署名が足りなかったのです。
「ふん、来年の11月には絶対に住民投票をしてやる!」と、あきらめる気配はないようですが、とりあえず、2008年の大統領選挙には、今まで通りの「総取り方式」が採用されることとなりました。

この成り行きに、ホッと胸をなでおろしたのは、全米を司る民主党本部。当のカリフォルニアの民主党員は、「ふん、絶対に住民投票にはならないさ」と、高をくくっています。

それにしても、党員集会やら予備選挙やら大統領選挙人団と、どうしてこんなに複雑怪奇な方式が生まれたのでしょうね? システムが複雑であればあるほど、悪者が介在する余地が増えるでしょうに。

さて、ヒラリーさん、バラックさん、ミットさん、マイクさんと、注目の候補者はたくさんおりますが、そのお話は、また来月のお楽しみにいたしましょう。


<偽物>
日本では、今年の漢字に「偽」が選ばれたそうですが、それほど偽物が横行した一年であったわけですね。

わたしも、先月、生まれて初めて歌舞伎を観に行ったとき、吉兆さんのお弁当を予約したことがありました。中休みに桟敷席まで配達してくれるというので、便利だと思ったのです。すると、よりによって、予約した日の新聞に吉兆さんの食の問題が載っていて、それを読んだあと、よほど予約を取り消そうかと思いましたよ。
まあ、当日は、そのままおいしく頂いて、何の問題もありませんでしたが、さすがにお刺身には手を出す気になれませんでしたね。

この一連の大騒動、最初は、ペコちゃんだったのでしょうか。それにしても、吉兆さんに、赤福さん。白い恋人にミートホープと、いろいろありましたね。きっと、日本のみなさまは、「口惜しやぁ、老舗よ、お前もか・・・」という感じで一年を過ごされたことでしょう。

けれども、これはある意味、歓迎すべき風潮ではないかと思うのです。

いえ、何も、偽物を作るのがいいと言っているわけではありません。そうではなくて、偽物を暴く(あばく)風潮が素晴らしいと言っているのです。
だって、赤福さんにしたって、30年の昔からやっているわけですよね。何も今に始まったというわけではありません。
だから、今年が「偽物の年」だったわけではなくて、「偽物を暴く年」だったに過ぎないのです。記念すべき「偽物撲滅作戦元年」とでもいいましょうか。

こう申し上げては何ですが、わたしは以前から、赤福さんのお味に疑問を感じていました。お彼岸の度に、おはぎを作ってくれる母の味からは、ほど遠いものだったからです。出来たての餡子の味やもち米の香りは、子供の頃から、脳裏に深く刻み込まれているものなのです。
実は、そう感じていた消費者はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。でも、「銘菓だよ」と言われると、何となく、そうかなと思ってしまう。それは、「老舗」という看板があるからなのでしょうし、老舗という先入観があると、途端に味もおいしく感じてしまうのです。

だから、相手がどんなに老舗であっても、盲目的に信じてはいけない。そして、もし偽物を作ったならば、すぐに暴かれてしまう。そんな風潮が生まれた今年は、考えようによっては、素晴らしい一年だったのではないでしょうか。

そう考えると、2007年の「偽」の一字は、いい選択ではありませんか。だって、偽物(偽者)がはびこっているのは、なにも食の世界に限ったことではありませんから。


<響け、歌声>
今年も、たくさんの大切な方々を亡くしました。尊い命であることは、どなたもかわりはありませんが、「今年の訃報」として、ひとつだけ書かせていただきたいと思います。

それは、9月に71歳で亡くなった、オペラ歌手のルチアーノ・パヴァロッティ氏。ほんの数年前に、同じくテノール歌手だったお父さんを亡くされたそうですが、ご本人はお父さんほど長生きではなかったのが、大変残念なことではあります。
世界の三大テノール歌手として、クラシック音楽に縁のない人にまでもオペラを広めた功績は大きく、あの迫力のある澄んだ歌声と、愛嬌のある笑みを知らない人は、世の中にあまりいないのかもしれませんね。

けれども、意外なことに、パヴァロッティさんはいつまでも「素人っぽい」ところを捨てていなかったようで、あんなに偉大なオペラ歌手であったにもかかわらず、舞台に立つときには、いつも恐くて、子供のように泣きべそをかきそうだったらしいです。
これは、生前にご本人がおっしゃっていたことですが、舞台が始まる前には必ず、「お前は舞台に立つ資格などない!」と、自問自答にさいなまれていたそうです。声の調子が万全じゃないとか、練習がちょっと不足しているとか、完璧を目指す者にとっては、本番前に何かと不安が頭をもたげるものなのでしょう。
ところが、ひとたび舞台に立ち、観客に向かって一声を発した瞬間、大きな暗雲もすっかり消え去ってしまう。なぜなら、自分が満足できるほどの練習を懸命に積んできたから。

この話を聞いて思い出したのが、アメリカの名女優ジュディー・ガーランド。映画「オズの魔法使い」で、主人公ドロシーを演じた方ですね。子供の頃から、抜群の歌唱力と演技力を誇り、またたく間に超人気エンターテイナーとなったわけですが、大人になって「大女優」と呼ばれるようになった彼女も、パヴァロッティさんと似たようなところがあったのです。「舞台に出るのが恐い」と、足を踏み出すまでに、勇気をふるわなければならなかった。

偉大な人にも意外な一面があるものですが、それほどの恐怖心があるから、練習にも力が入り、観客の前に立つことを、決して軽んじたりはしなかったのでしょう。
パヴァロッティさんは、一度ドイツ語のオペラをやってみたかったと、数年前のインタビューで答えていますが、それは、歌詞の持っている意味を大切にするために、自国語であるイタリア語のオペラにしか挑戦しなかったことからきています。

パヴァロッティさんが好んで歌い、彼の十八番ともなっていたアリア「Nessun Dorma」は、まさに、後の世に現れる彼のために書かれたようなものかもしれませんね。

注:「ネスン・ドルマ(誰も寝てはならぬ)」は、プッチーニ作曲の歌劇「トゥーランドット」の有名な独唱部分です。パヴァロッティさんは、2006年のトリノ冬季オリンピックの開会式でも歌っているのですが、これが彼の最後の公演となったそうです。


さてさて、今年もいろいろありましたが、わたくしのおしゃべりにお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

2008年も、みなさまにとって平和な一年でありますように!

夏来 潤(なつき じゅん)

連載100回記念!

Vol.100

連載100回記念!


そうなんです、この「シリコンバレー・ナウ」のコーナーも、今月で連載100回を迎えます!

2000年12月から始まった連載も、はや7年。毎月、毎月、よくもまぁ続いたものですことと、自分でも感心しております。「継続は力なり」と言いますけれど、まさに続けることに意義がある、といった感じでしょうか。
その一方で、これだけ続けると、一回でもお休みすることが恐くもありますね。中身はどうであれ、一回穴をあけると自分が負け、みたいな責任感が湧いてくるのです。

途中、ちょっと辛いなぁということもありました。何といっても、2001年9月の同時多発テロは、遠く離れた出来事であったにしても精神的に辛いものでした。その翌月は、自分自身が全身麻酔の手術を受けなくてはならず、ちょっとした不安を抱えてもいました。幸い、手術の方は腹腔鏡で終わったので、術後2時間で病院を追い出されましたが。

そう、アメリカの手術は、8割が外来手術なのです!盲腸の手術でも、入院することはごく稀です。わたしは、その前年に開腹手術を受けたのですが、そのときは術後熱を出したので、さすがに3泊させていただきました。が、こういうのは例外かもしれません。しかも、器官を摘出しているのに、術後24時間キッカリに歩けと言うのです。「きみたちは悪魔か!」と思いながら、泣く泣くベッドを降りて歩いておりました。
まあ、アメリカの病院はスパルタ方式ではありますが、わたしのような人間でも問題なく快復するということは、少しくらいスパルタでもいいのかもしれませんね。

おっと、いきなり話が大きく逸れてしまいましたが、そうそう、100回記念。べつに100回だからといって特別な内容ではありません。最近感じていることを、あれこれと並べてみようかと思います。

ところで、すでにご承知のことではありますが、11月初め、この「シリコンバレー・ナウ」の連載をしていただいている、インテリシンク株式会社のウェブサイトが一新いたしました。それに伴い、このコーナーのURLが「blog(ブログ)」となってしまっているのですが、あえて言わせていただくならば、これは「ブログ」のコーナーではありません。
申し上げるまでもなく、「ブログ」というのは「ウェブ・ログ(Web log)」の略でして、まあ、ネット上の日記のようなものですね。日々起こった事を、覚書程度に記しておくというようなもの。それに対し、このコーナーは、どちらかというと「コラム」と呼ぶべきものでしょうか。世の中で起こった事を、事実に即しておもしろおかしく解説する場所。

ま、名前はどうであれ、読んでくださる方が楽しんでいただけるのであれば、それは筆者冥利に尽きるというものです。

次の100回に向けて、これから再スタートです!


<ワインカントリーのすすめ>
日本では、大きな話題でしたね。あの「ミシュランガイド東京2008」! なんでも、全体の星の数では、パリを大きく凌いでいるとか。さすがは、天下の東京。シェフの方々もすごいし、それを育てる消費者の方々の力(舌)もすごいです。

その東京と同時に初出版となったのが、ロスアンジェルスとラスヴェガス。ロスアンジェルスなんて、三ツ星はゼロだったそうで、ちょっと物足りない気もいたします。ハリウッドのセレブたちが足繁く通うレストランなんて、しょせん名前だけなのでしょうか?

 


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ご存じでしょうか。そのロスアンジェルスに比べ、北カリフォルニアは、まったく状況が異なります。ミシュランガイドは何年か前から発行されていて、2008年版は10月下旬に発売となりました。もちろん、東京ほど大都会ではないので、三ツ星がたくさんあるわけではありません。それどころか、三ツ星はひとつしかありません。それでも、全体の星の数は42に上っています。ニューヨークにもそんなに引けを取らないでしょ。

この「ミシュラン・サンフランシスコ版」を支えているのが、ワインカントリー。つまり、ナパ(Napa)やソノマ(Sonoma)といったワインの名所です。やはり、おいしいワインと手と手を携えるのは、おいしい食事。そんなわけで、腕利きのシェフたちが、ワインの産地にどんどん集まるようになりました。北カリフォルニアのミシュランガイドも、正式には「ミシュラン・サンフランシスコ・ベイエリア&ワインカントリー」といいます。

サンフランシスコ版唯一の三ツ星レストラン「フレンチ・ランドリー(French Laundry)」も、このワインカントリーの一画、ナパのヨーントヴィル(Yountville)にあります。アメリカ屈指のフレンチの巨匠、トーマス・ケラー氏のレストランで、そのこぢんまりとしたお店は、100年ほど前に建てられた洗濯屋さん(ランドリー)の建物を改造しています。
メニューはおまかせコースだそうですが、その天才シェフの作品を味わってみたいと思っても、なかなか予約は取れません。2ヶ月前に予約受付開始となりますが、電話はまず繋がらない。そして、ようやく通じたと思った正午には、リストはもう満杯。そんなわけで、わたし自身も試したことがなければ、友達も誰一人として試した人はありません。
当のミシュランガイドによると、「シェフのおまかせ9品コースは、まるで俳句であるかのごとく、心をこめて構成されている」と評されているのです。
ケラー氏は、このフレンチ・ランドリーだけではなく、「ブーション(Bouchon)」という一ツ星のビストロも、同じくヨーントヴィルの地に持っています。それから、数年前ニューヨークに開いた「パー・セー(Per Se)」は、堂々たる三ツ星レストランだそうです。ちなみに、ラスヴェガスにあるブーションの姉妹店(ヴェネチアン・ホテル内)は、2008年の初年度版では星を逃したとか。

実は、ケラー氏のレストランだけではなく、サンフランシスコ版で星の付いたレストランの3分の1(11店舗)は、ワインカントリーにあるのです。ヨーントヴィルにルーサーフォード(Rutherford)、セント・ヘリーナ(St. Helena)にヘルズバーグ(Healdsburg)。ミシュランガイドに載っているレストランを探しながら、ナパからソノマへと、ワインカントリーを南から北へドライブするのもなかなか楽しいかもしれません。
世界でもトップクラスと誉れの高い料理学校、Culinary Institute of Americaも、ナパのセント・ヘリーナに校舎を持ちます。ここに併設されるレストランは、生徒さんの作る料理とはいえ、かなりおいしいと聞きます(このCIAは、料理専門学校ではありますが、学士号と準学士号が取得できます。ニューヨーク州ハイドパークに本校があり、テキサス州サンアントニオに姉妹校もあるそうです)。

ランチはCIA併設のレストランか、ちょっと軽めにワイナリーのピクニックエリアで。そして、ディナーは本格的に星の付いたレストランで。ワインテイスティングの合間に、そんな行程も乙なものかもしれませんね。

一方、シリコンバレーにも、星の付いたレストランはあるのです。ロスガトスの「マンリーサ(Manresa)」と、マウンテンヴューの「Chez TJ」。ふたつともニツ星です。残念ながら、わたし自身はどちらも試したことがありませんが、Chez TJのシェフ、クリストファー・コストウ氏は、昨年よりも星がひとつ増えたと大喜び。前々から評判の高かったレストランではありますが、その努力が報われたようです。
でも、星がひとつ増えた分、それを保持するのは並大抵のことではありません。きっとコストウ氏も、肩にずしりと「責任」という重荷を感じていることでしょう。

次回、カリフォルニアにお出での際は、シリコンバレーやワインカントリーの有名店にも、ぜひお越しください。日本のレストランと比べてみるのもおもしろいかもしれません。
ちなみに、わたし自身が経験した星付きのレストランは、サンフランシスコのフレンチ「アクア(Aqua)」と、サウサリートの「すし蘭」です。両方ともおすすめであることは確かです。

それにしても、この「ミシュラン・サンフランシスコ版」を見つけるのに、ちょっと苦労いたしました。もちろん、ネットで買えばすぐなのですが、ちょっと観察してみようと、わざわざ本屋さんに出かけたのでした。きっと入り口近くのテーブルに山のように積んであるのだろうと思えば、期待に反し、「トラベル(旅行)」のセクションに、カリフォルニアやベイエリア関連の本と一緒に積まれておりました。

ふ~ん、棚の目立つところに置かれている「ザガット・サンフランシスコ版」と比べて、やはりフランスのミシュランガイドは冷遇されているのでしょうか。

ひとりごと:先月、友達の板前さんから、銀座の懐石料理のお店に移ったよとお知らせを頂いたのでした。じゃあ、今度食べに行くからねぇと軽く返事をしていたのですが、あとでびっくり。なんと、三ツ星ではありませんか! きっともう予約なんて取れないのでしょうね。


<歌舞伎のすすめ>
10月下旬から11月上旬にかけて日本に戻っていたのですが、そのとき、生まれて初めて経験したことがふたつあるのです。ひとつは歌舞伎見物。そして、もうひとつは芸者遊び。

いやはや、双方とも、外国人が日本と聞いてまず頭に描くような、日本文化を代表する「お遊び」ではありますが、意外と日本に住んでいると経験しないものですよね。そこで、古来の日本人の楽しみとはどんなものかと、体験するに至ったわけです。

 


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歌舞伎見物は、銀座一丁目の歌舞伎座にて。宿泊するホテルのお陰で、普段は手に入り難い東の桟敷席での観劇となりました。桟敷席とは、劇場の両脇に一段高く設けてある特等席で、なんでも、西は花道にあまりに近いので、東の方が観やすいとされているんだとか。
とくに、舞台からふたつ目という囲いだったので、それはそれは、良く観えるし、良く聞こえる。すぐ脇に拍子木を打つ人が控えていて、慣れないと耳が痛いくらい。いえ、あの「始まり、始まり?」というやつではなくて、舞台の進行に合わせて、効果音を出すのです。頃合を見計らって、ここぞとばかりに体いっぱい拍子木を床で打ち鳴らす。
拍子木ばかりではありません。三味線と唄も、汗を散らさんばかりの激しい動きを伴い、なんとも表情豊かです。三味線の音や、笛や太鼓の鳴物入りの長唄が、あんなに感情の起伏に富んだものとは、こればっかりは本物を観てみるまではわかりません。

もちろん、「顔見世大歌舞伎」と銘打たれた演目の数々は、あらあの人も、この人も知っているというきらびやかな配役で、これはちょっと贅沢過ぎかと思うほど、満足のいくものでした。
「宮島のだんまり」、「仮名手本忠臣蔵・九段目山科閑居」、「土蜘(つちぐも)」、「三人吉三巴白浪(さんにんきちさ・ともえのしろなみ)」と、いずれも歌舞伎の演目としては、素人にも楽しめるものでした。
「三人吉三」は、「こいつぁ春から縁起がいいわ」と、女装の盗人・お嬢吉三の名せりふでお馴染みになっていますね。
土蛛の精が、まるでスパイダーマンみたいにバンバン蜘蛛の糸を出す「土蜘」では、端役で舞台に登場した片岡仁左衛門(片岡孝夫)と、バチッと目が合ってしまいました。と感じたほど、舞台に近かったのです。

「仮名手本忠臣蔵」は、ご存じ大石内蔵助(劇中では、大星由良之助)のあだ討ちのお話ですが、この九段目は、内蔵助の息子に嫁ぐ娘と養母の愛情物語に仕上がっています。
訳あって、内蔵助の妻にどうしても嫁入りを認められない娘。それを不憫に思った母は、策の限りを尽くすのですが、いっそのこと娘を手にかけ自分も死のうと刀を抜きます。「鳥類でさえ子を思うのに、科(とが)もない子を手にかけるとは・・・」と泣き崩れる母の姿は、クライマックスシーンでもあります(その後、娘はめでたく嫁入りを認められ、あだ討ちの前夜、一夜限りの契りを交わすことができました)。

母役の中村芝翫(なかむら・しかん)の老成した演技もさることながら、娘役の尾上菊之助の美しいこと! 歌舞伎の女形とは、あんなに妖艶なものなのですね。この菊之助さん、見目麗(みめうるわ)しいし、声はよく通る。きっとこれからいい役者さんになりますよ。
あまりに夢中になって観ていたので、この演目が終わる頃には、目と鼻は真っ赤。オペラでもそうなんですが、観ている側の感情移入が激しいと、劇場の照明が明るくなったときに、とっても恥ずかしいですよね。

とにもかくにも、日本人たるもの、一度は歌舞伎見物を経験しなくてはなりませんよ。


<芸者遊びのすすめ>
おっと、そうきたか!という感じですが、芸者遊びのおもしろいこと、おもしろいこと。

みなさま、「芸者遊び」と聞いて、芸妓をはべらせ酒を酌み交わしたり、お遊びで着物を脱がせたりと、いろいろと想像を膨らませていることでしょう。ところが、そんな期待に反し、「芸者遊びとはインテリジェントな遊び」と、わたしには意外な印象が残ったのです。

場所は、東京は神楽坂(かぐらざか)。表通りからトントンと坂を下った料理屋さん。こぢんまりとした座敷に通され、乾杯が終わって一の膳に舌鼓を打った頃に、「失礼します」とお姉さま方が襖を開けます。


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ひとりは落ち着いた身なりの黒の訪問着。そして、もうひとりの若い女性は、これぞ芸妓さんという白塗りのお顔に島田髷(しまだまげ)。この若い芸妓さんが、ちょこんと隣に座って、甲斐甲斐しくお酌をしてくれるのです。

そのうち、ベテランのお姉さんが、お遊びを始めます。ほんとは、隣の座敷を使って踊りを披露したいところだけどと言いながら、取り出したのは小ぶりの灰皿。いえ、タバコは誰も吸いません。これをテーブルの上に伏せて、ふたりでゲームをするのです。「金比羅船々、追風に帆かけてシュラシュシュシュ」という歌がありますよね。これに合わせて、ふたりで勝負をするのです。
まず、歌のリズムに合わせて、ひとりずつ交互に灰皿の上に手を置いていきます。最初は「パー」の形で。そして、相手が灰皿を取り去ると、「グー」の形で。取り去った灰皿は、またすぐに戻されるのですが、そのときは「パー」を出さなくてはなりません。たまに、連続して灰皿がなくなるので、そういうときは、続けて「グー」。出し間違えると、その場で負けです。
聞いているだけじゃ「なあんだ」という感じですが、やってみると意外とこれが難しい。相手の意地悪に気を取られるだけじゃなくて、こちらも意地悪を仕返さなくてはなりません。わたしはこれが苦手でした。

これはほんの一例で、お姉さま方のお遊びは、歌に合わせた手と指の遊びが多いのです。たとえば、「ちゃ茶壷、茶壷。茶壷にゃ蓋がない。底をとって蓋にしろ」のような昔から伝わる童謡に合わせて、指をこう掛け合わせ、最後に手の平をこう動かすみたいな、頭の体操もどきの複雑怪奇な技が生きているのです。

 


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 さて、神楽坂のお姉さん、お次は、マッチ箱を取り出したかと思えば、外箱を打楽器のように指ではじき、サンバのリズムに合わせて「寛一お宮」の物語を替え歌で披露する。マッチ箱も太鼓のようなら、お姉さんの美声もマイクを通したようによく響くこと。
歌が終わると、今度は手ぬぐいを取り出し、器用に「奴さん」を折り始める。この手ぬぐいは噺家さんの手ぬぐいで梅の花が付いているから、こうやって折ると、きれいに花柄が出るでしょと、ちょっとした工夫も忘れません。

マッチや手ぬぐい、盃なんかの小道具も、大事な脇役と早変わりです。こちらの写真は、金沢の花街で使われていたお遊び用の盃を模した、吉祥絵の盃セットです。サイコロを振って図柄が出ると、その絵の盃を持つ人が、お酒をクイッ。「宇多」という目が出てくると、歌や踊りを披露しなければなりません。今どきの一気飲みとは違って、お酒はクイッとやるものですね。 


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そりゃまあ、お酒の席ですから、男女の話にもなるでしょう。お姉さんが披露した歌の中にも、こんなものがありました。「あら痛いわ、血が出たわ。抜いてちょうだいバラのとげ」。初めの句で何やら想像するところを、次の句で見事に打ち破っているわけですね。
そんなきわどいところを歌に込めながら、お姉さん方は代々芸を受け継いできたわけですが、芸妓さんに惚れ込んだ老舗の若旦那が店を放り出すなんて話は、実際にもあったようですね。お姉さんも聞いたことがあると、そんな話をしていました。けれども、この手のお話は普通の職場でもあり得るわけで、現世に男と女がいる限り、どこにでも転がっているような話でしょう。
ましてや、今や芸妓さんも全国から集まる職業婦人。お稽古事に精進し、歌や踊りやエチケットを身に付けた、酒の席のプロフェッショナル。「どうも花柳界を誤解している人が多いみたい」と、お姉さんも嘆いていらっしゃいましたよ。とくに映画の影響なんかもあって、遊郭と間違っている人も多いのだと。

 


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このベテランのお姉さんは、お母さんも芸妓という、生粋の神楽坂の人。神楽坂からは出たことがないというほどの、純粋培養。そして、料理屋さんの女将さんはといえば、この方も神楽坂育ちの元芸妓さん。その縁あって、普通は料亭でしか呼べない芸妓さんを、ここにも呼ぶことができるのだとか。
女将さんも二代続けて花柳に生きる人で、お父さんは「太鼓持」でした。今では、太鼓持の男衆は、東京では浅草に数人いる程度だそうです。そして、昔は三味線や鳴物は生演奏だったのに、今は神楽坂ですら録音テープなんだとか。
今の世の中、一見さんでも芸者遊びができるのは嬉しいけれど、なんとなく時代の流れを感じますね。

とにもかくにも、日本人たるもの、一度は粋な芸者遊びを経験しなくてはなりません。


夏来 潤(なつき じゅん)

神無月:奇妙なお話

Vol. 99

神無月:奇妙なお話

 


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  今日は、ハロウィーン。パンプキンに顔が彫りこまれたジャック・オー・ランターンや、お化けやこうもりや蜘蛛の巣と、あちらこちらでハロウィーンの賑々しい飾り付けが目立ちます。
ハロウィーンに関しては、この「シリコンバレー・ナウ」シリーズの初回で、その成り立ちや風習の解説をしております。キリスト教徒には無関係の「邪教」を起源とするお遊びとして、このお祭り騒ぎを嫌うアメリカ人もいるようです。でも、そんなことは、お菓子の欲しい子供たちには、それこそ無縁のお話。10月31日には、幼児からティーンエージャーまで、コスチューム姿で住宅街を練り歩き、大人たちからお菓子をわんさと獲得します。

さて、ハロウィーンのある10月には、アメリカでは、ホラー映画やらお化けのお話やらが急に増えてきます。日本のお盆と同じで、ハロウィーンには、死者の霊が現世に戻ってくるものと信じられていたからです。日本でも、お盆の頃には、怪談物が目に付きますよね。それと同じようなものです。
そんなハロウィーンの季節を記念して、ちょっと奇妙なお話などをいたしましょうか。いえ、決して怖いお話ではありません。お化けなんかは出てきませんから。お化けなんかよりも、この人の世ほど奇妙なものはないかもしれませんね。そういったお話です。


<白と黒>

10月中旬、こんなニュースが世間を騒がせました。アメリカの副大統領ディック・チェイニー氏と、民主党の大統領有力候補であるバラック・オバマ氏が、遠いいとこだったと。
なぜ世間を騒がせたのかと言いますと、まず、チェイニー副大統領は共和党のドン。財界や法曹界との深い繋がりから、ブッシュ政権の陰の実力者とも目されています。対するバラック・オバマ氏は、上院議員一期目の民主党期待の若手ホープ。その新鮮さとカリスマ性から、大統領候補指名戦の先頭を行くヒラリー・クリントン上院議員(元ファーストレディー)に真っ向から対決します。
そして、チェイニー氏が白人であるのに対し、オバマ氏は黒人と白人のハーフ。お父さんがケニアから来た人で、お母さんは白人のアメリカ人。
片やどす黒いイメージの伴うチェイニー氏と、どこまでも澄み切った印象のオバマ氏。そんな、どこから見ても繋がりのなさそうなふたりが、親戚だった!なんでも、オバマ氏の祖先となるフランス人新教徒マリーン・デュヴァルの息子が、1650年代後半イギリスからメリーランド州にやって来たリチャード・チェイニーの孫娘と結婚したことで、ふたりは血縁関係になったんだとか。この皮肉な事実に、アメリカ中が度肝を抜かれてしまったわけです。

このニュースを明らかにしたのは、チェイニー副大統領の奥方だったそうですが、その日、人気深夜番組の「ジェイ・レノーのトゥナイトショー」に出演したオバマ氏は、支持者がいろいろと家系を調べるので、薄々は知っていたと述べています。
「まあ、キスをし合うような仲の良いいとこじゃないけどね」と前置きしながら、オバマ氏はこうまぜ返します。「僕の家系には、悪漢(rogue)が多いんだよね。普通、みんな王様や偉大な指導者なんかと親戚になりたいわけだけど、僕の場合は、牛と闘うレスラー(cattle wrestler)なんかと血の繋がりがあったんだよね。彼の親戚連中が集まる狩のパーティーなんかに招かれるのは、まっぴらごめんだよ」と。
昨年、狩の大好きなチェイニー氏が、狩友達の弁護士を誤射する事故が起きているので、そのことを皮肉っているようです。
チェイニー氏は、また、連邦最高裁判所のアントニン・スカリーア判事とも大の狩仲間で、チェイニー氏の出身企業に対する判決が最高裁判所で審議されている最中、ふたりは一緒に狩をしに行ったと、その癒着度が問題になったこともあります。このときのスカリーア判事のコメントがまた、世間の怒りを買うものでした。曰く、「狩の小旅行ごときで、俺が丸め込まれるとでも思っているのか。俺はそんなにチープな人間じゃないぞ」。まあ、「類は友を呼ぶ」とは、こういうことでしょうか。

さて、チェイニー氏とオバマ氏との血縁関係は、それだけで世の皮肉とでもいうべきものですが、これに似たような話はまったくないわけではありません。
それは、南部サウスキャロライナ州選出の上院議員だった故ストローム・サーモンド氏と、前回の大統領選挙戦で民主党候補として出馬したアル・シャープトン牧師に、ある繋がりがあったというもの。こちらのケースは、血縁というわけではなくて、サーモンド氏の祖先である白人が、シャープトン牧師の祖先である黒人を奴隷として使っていたというもの。
こちらもまったく皮肉なもので、シャープトン牧師がアメリカ社会に根付く人種の不平等を問題視する活動家であるのに対し、故サーモンド上院議員は、若い頃バリバリの人種差別支持者(segregationist)だったという曰く付きです。
今年の初め、ふたりの関係が明らかにされると、シャープトン牧師は、さすがに不快感を隠しきれませんでした。「僕の人生の中で、一番ショッキングなニュースだった」と述べています。
1947年、人種差別政策を掲げ大統領選に出馬し、1957年には、黒人の公民権と平等を認める法案審議に際し、上院議会で24時間に渡る議事妨害を行ったことで名を売ったサーモンド氏。よりによって、その人種差別のイコンともされたサーモンド上院議員と、彼の象徴するすべてを否定したいと願う自分との繋がり。それは、牧師にとって、なかなか合点が行くものではなかったでしょう。

シャープトン牧師がショックを受けた背景には、こんなサーモンド氏の暗い過去があったのかもしれません。それは、サーモンド氏には、黒人のメイドとの間に娘がいたこと。そして、そのことをひたすら隠し続けていたこと。
1925年、20代前半のサーモンド氏と16歳の黒人メイドとの間に、娘が生まれました。そのことは、サーモンド氏が100歳で他界するまで、ひた隠しにされていました。彼が亡くなった2003年末、78歳になった娘のエジー・メイ・ワシントン=ウィリアムスさんが自叙伝を出すに至るまで、彼の親族さえも知らされていない事実でした。
養父母に育てられたエジー・メイさんは、13歳のときに真実を知らされ、その後、何回か父親に密会したことがあるそうです。父親としての親しさ、優しさもなく、まるで見ず知らずの要人か就職試験の面接官にでも会っているようだったと、自叙伝に綴っています。

サーモンド氏は、100歳を超えるまで50年近くも上院議員を務めた南部一の名士。そのサーモンド氏に、こんな暗い過去があったなんて・・・

やれ肌が白いとか、黒いとか、そんなことを気にする人間界の奇妙なお話なのです。


<大きな樫の木>

シリコンバレー・サンノゼ市の外れに、古い木が一本立っています。まっすぐに空に向かって伸びるでもなく、幹の根元でふた手に分かれ、片方は右に、そしてもう片方は左へと、妙な具合に曲がっています。そんな風に奇妙に育ちながらも、立派に枝を伸ばした樫の木は、アルマデンの丘の上にひっそりとたたずみ、じっと辺りを見回しています。

そう、この樫の木は、樹齢100年を軽く超えています。どうしてわかるのかって、100年以上前に、この木がある目的に使われていたと言い伝えられているからです。それは、首吊り。この樫の木は、首吊りの木(hanging tree)なのです。


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サンノゼ市の南端にあるアルマデンの丘には、ごく最近まで水銀(quicksilver)の採掘場がありました。その名も、ニュー・アルマデン鉱山。1846年、スペイン人の兵士がここで水銀の赤い鉱石(cinnabar)を見つけて以来、百年以上に渡って、水銀の生成現場となっていました。
水銀は、カリフォルニアの歴史にとって、とても大事なもの。なぜなら、19世紀半ばのゴールドラッシュの頃には、水銀は金の精錬に使われ、無くてはならないものとなっていたからです。水銀が無ければ、金をうまく取り出せないし、大好きな金塊もできない。だから、アルマデンの丘で採られた水銀は、金と同じくらい貴重な金属だったのです。
水銀は地元の産業にとっても、とても大事な資源だったので、サンノゼの地に誕生した新聞も、サンノゼ・マーキュリーと命名されました。マーキュリーはクイックシルヴァーの別名、水銀を表します。

その水銀鉱山では、犯罪が頻繁に起こったようです。まあ、その頃は、カリフォルニアの地は、どこも「ワイルド・ウェスト(無法地帯・西部」の状態。水銀鉱山に限らず、サンフランシスコやサンノゼの街中でも、荒くれどもが闊歩していたのでしょう。
1873年1月、ふたりの鉱山労働者が口論になった後、ひとりが相手に惨殺されるという事件が記録されていますし、1877年2月、鉱山の給料日を狙った大掛かりな強盗計画も記録に残っています。この強盗事件は未遂に終わったとか。
当時、そんな重罪犯の処罰の方法は、公衆の面前での首吊りが一般的だったようです。皆の前で施行された極刑は、「見せしめ」の意味を持ち、1850年代には頻繁に起きた殺人も、1860年代になって激減したという地元の史実もあるそうです。

そして、19世紀後半、ある男が女の子に乱暴した罪で、アルマデンの丘の樫の木で刑に処せられました。地上4メートルの高さに、堂々と枝を張り出した樫の木は、まさに恰好の場所。その男の足元には、誰ともなく投げ始めた石が、塚のように集まっていました。そのときから、処刑された男たちの足元には、石が積まれるのが習慣となったそうです。犯罪に対する不快感を表すかのように、通りがかりの人たちが投げていったものです。

その処刑から少なくとも100年は経っていると、ある歴史愛好家は証言します。彼の家系は、父親の代まで三代に渡って水銀鉱山で働いていたという消息通。60年前、まだ子供だった彼が連れて行ってもらったアルマデンの丘で、「あの木は、首吊りの木なんだよ」と、父親に教えられたといいます。
それから60年経った今、息子とともにアルマデンのくねくね道を登り、その木を探しました。息子が「あれじゃないかな」と指差す先を眺めると、まぎれもなく、子供の頃に教えられた木がポツンと立っています。

古ぼけた水銀の溶鉱炉のほど近く、大きな樫の木が一本、風変わりな姿で立っているのです。溶鉱炉の燃料に使うため、まわりの木はすべて切り倒されたのに、一本だけ不自然に残された巨大な木。そして、何かの目的のためにわざと曲げられたような、左右に張り出した立派な枝。
その木の根元には、100年以上経った今も、石が積まれたままだとか。ひとつ、またひとつと、究極の代価を支払った男たちを思い出すかのように・・・


追記:この樫の木は、アルマデン・クイックシルヴァー郡立公園の中、Mine Hill – Guadalupe Roadという道を登った所にあるそうです。スパニッシュタウンと呼ばれる労働者居住区の遺構のそばだということです。
残念ながら、どうしても現地で樫の木を捜す気にはなれないので、地元紙サンノゼ・マーキュリー新聞を参考に書かせていただきました。木の写真は、イメージ写真です。あしからず。


<エカテリンブルグの謎>

8月の終わり、ロシアの検察がこう発表しました。90年前の事件の再調査を始めるぞと。

90年前、それは、1917年に起こったロシア革命の頃。18代300年続いたロマノフ王朝の最後の皇帝が、革命家たちによって処刑されたことに端を発します。
社会主義を掲げるロシアの革命家にとって、ロマノフ王朝のニコライ二世はこの世から抹消すべきもの。革命直後に捕らえた皇帝一家を一年間幽閉したあと、ロシア中央部にあるエカテリンブルグという街に連行していきます。
ほどなく、1918年7月17日、この街にある貴族の館の地下で、ニコライ二世とアレクサンドラ皇后、そして、オルガ、タティアナ、マリア、アナスタージャ、アレクセイの5人の子供たちは、銃殺部隊によって処刑されてしまいます。

それから70年余り。ロシア革命で成立したソビエト連邦が崩壊した1991年、エカテリンブルグ近郊でニコライ二世一家のものと思われる遺骨が掘り起こされ、数年後、サンクトペテルブルグの寺院に丁重に埋葬されました。しかし、その際、7人家族のうち、ふたりの遺骨が見つからなかったのです。それは、末子のアレクセイと姉のマリアでした。
アレクセイは、唯一の男の子だったので、ニコライ二世を継いで皇帝となるはずでした。そこで、跡継ぎのアレクセイの遺骨が、ロマノフ王朝に同情する者たちによって、反社会主義の旗印とならないようにと、アレクセイとマリアは、他の5人とは別の場所に埋められたのです。
一家の処刑後20年ほど経って、銃殺部隊の指揮官だったユロヴスキーの供述書に基づき、埋葬に関わる調査が行われました。それによると、皇帝と皇后と、3人の娘たちの遺体は、硫酸で処理されたあと道の脇に埋められ、そして、アレクセイとマリアの遺体は、火葬の後、近くの穴に埋められたということがわかっています。しかし、ふたりの埋葬場所が不明のままだったのです。

処刑から89年の今年8月、エカテリンブルグの考古学者が、ふたりの遺骨を見つけたぞと発表しました。ひとりは10歳から13歳の男の子、もうひとりは18歳から23歳の若い女性と見られ、これは、ふたりの年齢にもマッチしているし、遺骨の発見場所もユロヴスキーの供述書に一致していると。これを受けて、ロシアの検察が、事件の再調査を開始すると発表したのでした。

10年ほど前、サンクトペテルブルグの寺院で5人の遺骨が埋葬されたとき、ロシア正教会からは疑問の声が上がりました。5人の遺骨は果たして本物なのかと。そして、今回の発表にも、疑念を抱く人もいます。でっちあげではないのかと。しかし、最初の発表からひと月経った9月下旬、科学的な検証の結果、新たに発見されたふたりの遺骨は、アレクセイとマリアにほぼ間違いないことが報道されています。

1998年、ロシア帝国の首都だったサンクトペテルブルグの寺院では、ニコライ二世一家のために、盛大な埋葬の儀式が開かれました。祭壇には皇帝一家の立派な棺が置かれ、司祭が香のお清めとお祈りをし、鎮魂の儀とします。
その2年後には、ロシア正教会によって、皇帝一家全員が殉教者として列聖されています。寺院の壁には、「聖人」ニコライ二世と皇后、そして子供たちのモザイク画も施されました。

時代が変われば、皇帝は犯罪人となり、そして、罪人から聖人ともなる。何とも奇妙な現世のお話ではあります。


<漫画で学ぶアメリカ生活>

最後にちょっと軽めのお話をどうぞ。アメリカでは、4コマ漫画ならぬ、3コマ漫画もポピュラーなのですが、その中からおひとつ、最近の作品をご紹介いたしましょう。


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  わんこちゃんとある男性コンビの会話です。
わんこ「ウェブサーフィンをやってるんだね?」
男性「そうだよ。グーグル・マップを見てるんだ。信じられない解像度だよ!」
わんこ「君の家は見えるの?」
男性「おい、どうして今まで僕の脳天が薄いって教えてくれなかったんだ?」

(10月19日付け、グレン・マッコイさんの「The Duplex」より)

さすがグーグルさん、解像度はばっちりなのです。まあ、スパイ衛星からは、車のナンバープレートも丸見えだそうですが、そのうちグーグルさんも、同じくらいの解像度になるんでしょうね。

夏来 潤(なつき じゅん)

夏にさようなら

お久しぶりでございます。

最近、ずいぶんとご無沙汰しておりまして、わたくしといたしましても、たいそう気になっておりました。

いつもは、「エッセイ」も「ライフinカリフォルニア」も「英語ひとくちメモ」のセクションも、少なくとも月に一度は、最新情報をお届けしてきたのですが・・・

とっても気になっているのですが、まだ7月に行ったトルコ旅行の後半部分、カッパドキアについても書いていないし、お約束しているトルコの食べ物編の「フォトギャラリー」も掲載できておりません。カッパドキアの奇石群なんかもご披露したいのに・・・


先週の金曜日、久しぶりに外へ出てみたのですが、考えてみると、そうやって外の空気を吸うのは、ほぼ一週間ぶりだったのですね。

気が付くと、冷蔵庫の中には、ほとんど何も残っていなくって、さすがに材料を買ってこなくちゃと、スーパーマーケットに出向いたところでした。

いえ、べつに病気をしていたわけではないのです。ずっと家にこもって、お仕事をしておりました。連れ合いは出張中だし、それこそ自由に自分のペースでお仕事できるので、ついつい家にこもってしまうのです。

わたしみたいに、ほとんど家でできる商売だと、かえって、時間配分に偏りができてしまって、あんまり健康的ではないですよね。取材とかは別としても、ほっとくと、ずうっと何やら読んだり書いたりしてる・・・それに「締め切り」という恐い相手がいると、土日もないですしね。

とくに、今は、ちょっと大きな仕事を抱えておりまして、とっても忙しくしているという事情もあるのです。というわけで、11月くらいまでは、「おこもり状態」となってしまうと思いますので、ご無沙汰が続いてしまうかもしれません。

頭の中には、書きたいことが何十もグルグルと巡っているのに・・・

早く自由になりたいです!


そんなこんなで、いつの間にか、シリコンバレーの夏も過ぎ去ってしまいました。

知らない間に、秋分の日(autumnal equinox)も過ぎ、「なんだか月がきれいだなぁ」と思っていたら、中秋節(Moon Festival、または Mid-Autumn Festival)も過ぎてしまいましたね。

あ、そうそう、今年は、中秋の名月に月餅(moon cake)を食べるのを忘れました。

そうなんです、中国系やヴェトナム系の人々は、名月の頃に、お団子じゃなくって、月餅を食べるんですね。名月を愛でながら、月餅や果物を食べたり、盃(さかずき)をかわしたりするそうです。

この月餅は、長寿や家内安全を祈願するものだそうですが、もともとは、中国の元の時代に、モンゴルの支配から逃れようと、革命家たちが秘密のお手紙を隠した「道具」だったのですね。悪い病気が流行っているから、これを治すには月餅を食べなくちゃいけないと噂を流し、津々浦々まで、革命の密書を行き届かせたとか。

その結果が、漢族の反乱となり、その後の明の時代に結びついたんだそうです。あのずっしりと重い月餅は、その昔、ずっしりと重い密書を隠していたんですね。


ところで、アメリカでは、9月初旬のレイバーデー(Labor Day、勤労感謝の日)を過ぎると、「もう白いものを着てはいけませんよ」ということになって、「あ~、夏ももうすぐ終わりだねぇ」と、みんなが思い始めます。

けれども、そこは、夏の長~いシリコンバレー。そう簡単には、涼しくなりませんね。だいたい、秋分の日を過ぎるまで、いつまでも盛夏が続きます。

ところが、今年は、変なお天気でした。秋分の日の前日、シリコンバレーで雨が降ったのです。

普通は、そんなことはまずありません。雨は、せめて10月の終わりにならないと、一滴も降らないのです。

でも、今年はちょっと違っていて、9月中旬に、カナダから張り出した低気圧のおかげで急に寒くなり、カリフォルニアの名峰シエラ・ネヴァダ山脈では雪が降って、シリコンバレーでも雨となりました。(写真は、ポロッと涙を流すお花です)

(こちらの写真は、秋分の日のローカル版の一面です。「わんこちゃんにも、雨合羽(あまがっぱ)のお天気です」と見出しに書いてあります。)

さすがに、雨のあとはちょっと暑さが戻りましたが、そうやって寒暖を繰り返しているうちに、もう秋風も立つようになりました。


こんなさわやかな秋風(crisp autumn air)を顔に受けると、あ~、ボサノヴァの似合う夏も、とうとう行ってしまったんだなあと、感慨にふけるのです。

そして、こう思うのです。やっぱり夏が好きだなあと。

いえ、こんなに日焼けのない顔で言うと、ちょっとウソくさく聞こえるのですが、やっぱり、自分は冬よりも夏の方が好きだし、カリフォルニアには、夏が似つかわしいのだと思ってしまうのですね。

いつも、夏が行く頃になると、ユーミン(松任谷由実)の「晩夏(ひとりの季節)」という歌が、自然と頭の中で流れ始めるのです。

「ゆく夏に・名残る暑さは・夕焼けを吸って燃え立つ葉鶏頭、秋風の心細さは・コスモス・・・」

といった、ユーミンの歌の中でも、かなりポエム風の叙情的な歌です。

このあとに、「やがて来る淋しい季節が恋人なの」っていう部分があって、それはちょっと悲しいなと思うのですけれど、それでも、なんとなく晩夏の心細さがよく出ていますよね。

秋になってしまったら、それはそれで元気になるんでしょうけれど、季節の変わり目は難しいですよね。不安定になりやすい。

そう、晩夏の寂しさって、夕暮れ時のわびしさみたいなところがありますね。だから、「夏が好き!」って自己主張したくなるのでしょうか。

日本はまだまだ残暑厳しい頃かもしれませんが、どうぞみなさま、さわやかな10月をお過ごしくださいませ。

こぼれ話: 月餅のお話で、おもしろいことを発見しました。月餅の中には、革命を扇動する密書を入れていたという説明をいたしましたが、こちらはよく知られているお話ですね。けれども、これには、もうひとつ説があって、月餅の上に刻まれている文字を暗号に使ったという説もあるそうです。
 箱の中に月餅を4個入れて送り、受け取った側は、各々に刻まれている4つの漢字をバラバラにして、合計16の漢字を工夫してつなぎ合わせ、文章にしたという説です。

それでひとつ思い出したのですが、わたしのお友達にこういう方がいらっしゃいました。会社のある方が定年退職したので、送別会の趣向として、出席者ひとりひとりにその方を表す漢字を一文字ずつ書かせ、合計16の漢字を漢詩にして、退職なさる方に手渡したというのです。
 集まった16の漢字はオフィスの席順に並べてみたのですが、それだけじゃ芸がないからと、お友達がつながりのある文章として解釈してあげたそうです。それがなかなか良い漢詩となり、送られる方にも非常に喜ばれたようです。というよりも、感極まって、涙を流されたとか。

なんでも、最初は、「愛」「優」「夢」といった通り一遍の漢字が集まったそうですが、考え直してもらううちに、みなさんから正直なおもしろい答えが返ってきたそうです。
 「酔」「放」「万」「悠」といった漢字も飛び出しましたが、「酔」は、「万の夢に優しく酔い」という風に、粋に使われています。

そういうお話を聞くと、漢字を操れるということは、ほんとにすごい事なんだと思います。その漢字に、平仮名という柔らかさが加わった日本語は、芸術のように美しい言葉なのだと思いますね。

インテリシンクの軌跡:社長さんの話が本になります

Vol. 98

インテリシンクの軌跡:社長さんの話が本になります



<只今、執筆中!>
そうなんです。長年、この「シリコンバレー・ナウ」シリーズを掲載してくださっているインテリシンク株式会社の社長さん、荒井真成氏がもうすぐ本を出されます!

ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、荒井氏は、1998年のインテリシンク日本支社の創立以来、ずっと社長さんを務めてきたばかりではなく、インテリシンク社がプーマテクノロジー(愛称プーマ)と呼ばれていた頃から、本国アメリカで会社を支えてきた経営陣の一員でもあります。5年前にプーマの創設者ふたりが会社を離れてからは、最古参のメンバーとなり、その12年という勤続年数は、同社でも一番長いのではないでしょうか。
プーマテクノロジーというと、「トランジット(TranXit)」というIrDA規格の赤外線データ通信ソフトで一躍世界のパソコン市場の寵児となった会社ですが、社長さんはそのトランジットの成り立ちにも当初から深く携わり、その後、「インテリシンク(IntelliSync)」というデータシンクロ(同期)製品や、携帯電話分野のシンクロ規格SyncMLをベースとした「電話帳お預かりサービス」(日本市場)など、会社がアモルファスな進化を遂げた中でも、常に同社のビジネスの中核をなしてきた方です。
その間、ご多聞に洩れず、同社もインターネット戦略への方向修正、そして再度の軌道修正という大きな荒波を乗り越えてきたわけですが、社長さんは、プーマテクノロジー(後にプーマテック、インテリシンク、そして昨年の買収後はノキア)の経営陣という役割を通し、シリコンバレーの急成長・つまずき・再スタートの過程をつぶさに第一線で体験してきた、数少ない日本人のひとりでもあります。

かく言うわたくしも、微力ながら執筆に協力させていただいているのですが、社長さんご自身にも、「自分のことながら、おもしろい本になりそうだ」と、期待していただいております。
わたくし自身、多国籍IT企業の日本支社で勤務した後、シリコンバレーのスタートアップ会社で辛酸をなめた経験もありますので、その体験をもとに、多少なりとも貢献できればと願っております。

社長さんの体験談を伺っていると、いろんなIT企業の栄枯盛衰は、まさに戦国時代の群雄割拠のようだと感じることもあります。プーマテクノロジー(インテリシンク)自身、1993年の設立以降、さまざまな分野の会社を15も吸収合併しています。その大部分は、結果的に方針にそぐわず「捨てた」ことになるわけですが、そうやってインターネットバブルと内部破壊という大変な時期を生き抜いてきたことは、それだけで素晴らしいことなのだと思います。その淘汰のプロセスで、多くのスタートアップ会社が露と消えたことを考えると、プーマの生き残り作戦から学ぶことも多いのではないでしょうか。

  近頃、NHKの大河ドラマ「風林火山」をよく観ているのですが、社長さんのお話と大河ドラマが頭の中で重なることがあるのです。そして、歴史小説や大河ドラマの類は、まさに現代の鏡かとも実感するのです。たとえば、「風林火山」では、武田晴信が「わしは生涯、城は築かぬ。人が城だからじゃ」と述べるくだりがありましたが、これはまさに、会社という組織そのものを描いているような気がします。適材適所、人こそが組織を形作るものであり、洋の東西を問わず、このことに反論する経営者はまずいないのではないでしょうか。
それから、「風林火山」では、主人公・山本勘助が紀州の僧になりすまし、越後の長尾景虎を鉄砲持参で訪ねるエピソードがありますが、これなどは、現代のベンチャーキャピタルを表しているような気がするのです。まあ、ベンチャーキャピタルの場合は、投資先を探しているわけですから、勘助とは若干目的が異なりますが、相手を「品定め」するところでは、勘助も、素知らぬ顔で企業訪問するベンチャーキャピタリストも、あまり変わらないのではないでしょうか。
時を経て技術が変わり、社会構造が変わろうとも、今も昔も、きっと人の営みに変わりはないのでしょう。

というわけで、社長さんの本は、プーマテクノロジー(インテリシンク)というシリコンバレーの一企業の軌跡をたどる、現代の歴史小説ともなるのかもしれません。

  記念すべき出版の暁には、真っ先にこの場でお知らせすることにいたしますので、そのときは、どうぞ書店へお出かけくださいませ。


<ブッシュ大統領、貝になる>
さて、本の宣伝のあとは本題に入り、ちょっと真面目なお話でもいたしましょうか。

先日、日本の首相交代という大きな出来事がありましたね。あまりにも突然の安倍首相の辞任に、ちょっとびっくりしてしまいましたが、その後の自民党総裁ならびに内閣総理大臣選びの過程を、海の向こうからおもしろく拝見しておりました。
安倍首相の辞任表明直後、自民党はそれこそ蜂の巣をつついた状態だったのでしょうが、大方が後任として福田さんを推すことになり、「全身全霊を賭(と)して務めろ」だの、「政治生命を賭けて臨め」だのと、まるで「人身御供(ひとみごくう)」を選んでいるのかのような発言が相次いでいました。これから「いざ火山の噴火口へ!」というわけでもないでしょうが、なんとなくそれが冗談にならないのが恐いところではあります。

一国の長たる者、少しは落ち着いて政権を担って欲しいと願うところではありますが、その一方で、あまり政治慣れしてほしくはない気もいたします。こう言っては何ですが、長年政治を務めると、みなさんだんだんと人相が悪くなりますよね。ああいうのを見ると、「やっぱり陰で何か悪いことしてるんでしょ」と勘ぐりたくなるのです。
まあ、人の顔というものは、心の噴火口みたいなものですから、どんなに笑顔を振りまいても、ドーランの厚塗りをしても、そうそう中身を隠すことはできないですね。二十歳過ぎれば、自分の顔に責任を持てといいますけれど、それは生涯肝に銘じておくべきことなんですよね。

政治家の人相が悪くなるというのは、洋の東西を問わないところがありまして、アメリカでも、たった数年の内に、「え~、あなたどうしちゃったの?」と問いかけたくなるほど、大変身を遂げる方々もいらっしゃいます。ああいうのは、痛ましい限りではありますね。
ところがどっこい、たまに例外がいるのです。意外にも、ブッシュ大統領がその筆頭に挙げられるでしょうか。
いやはや、彼は政権に就いて7年にもなり、いろんな(悪い)ことをなさっているわりには、人相が変わりません。ちょっと疲れた顔にはなっていますが、決して人相が悪くなっているわけではないように見受けられます。
ひとつに、そこまで頭がカラッポなのか? それとも、貝のように意固地なのか?と勘ぐってみるわけですが、最近、「彼は実は複雑な人間である」という評を耳にし、人間の奥の深さに大いに興味を持ったところです。

その「ブッシュ複雑説」を唱えたのは、ごく最近、ブッシュ大統領についての本を出したロバート・ドレイパー氏です。「Dead Certain」(和訳すると、「もちろん確かさ」といった感じ)という題名の本で、ブッシュ大統領への数回に渡るインタビューや、取り巻きへの聞き取り調査をもとに書かれています。
もちろん、そんな本など購入して読む気にもなれませんが、先日、著者ドレイパー氏へのインタビュー番組(WNET制作「Charlie Rose」9月6日放送分)を観て、彼の言うことに少々感心してしまったのです。

このドレイパー氏、男性ファッション雑誌GQの国内政治担当の記者だそうですが、その前は、Texas Monthlyという政治・経済雑誌の編集長を務めていた関係で、ブッシュ大統領をテキサス州知事時代から知る人だそうです。GQ誌でも、再選を目指すブッシュ大統領を特集したことがあり、ブッシュ大統領とはある程度馴染みなのかもしれません。さすがGQ誌の記者だけあって、金髪をアシンメントリーのおかっぱ頭に切り揃えた、年齢不詳のおしゃれなお兄さん(?)です。

そのドレイパー氏、「ブッシュ大統領をインタビューして、何に一番驚きましたか?」との質問に返して曰く、「彼は、風刺漫画なんかで描かれているよりも、もっと複雑な人間でしたよ。」
ブッシュ大統領は、相手の心をつかむために、自分の言うことをうまく編集できるし、会議で人をまとめるのもうまい。チェイニー(副大統領)の操り人形だという大方の批判だけれど、そんなことはまったくないと、ドレイパー氏は評します。
なぜなら、ブッシュ大統領は、自ら「僕は結果を大事にする男だ(I’m a result-oriented guy)」と言うくらい、自分の政策を押し通したい人で、そのためには、共和党・民主党両党一致の判断であろうと、共和党一党による強行採決であろうと、手段はまったく選ばないタイプの人間だからと。
そういう大統領にとっては、世間でまことしやかにささやかれている「能無し政権(lame duck)」という言葉は存在しないのだとも言います。なぜなら、彼自身が、自分の成し遂げた「結果」を心から信じ切っているから。
また、ドレイパー氏は、「彼は常に人気者でなくちゃいけないのだ」とも評します。大統領は、自分は常に人気があるのだという信念を持っていて、世論調査でどんなに支持率が低くとも、それは調査の質問の仕方が悪いのであって、自分は人気がないわけではないと、固く信じているふしがあると。

どうもこの「複雑な性格」ができあがった裏側には、父親との関係が影響しているようで、結果的には著名な政治家である先代のブッシュ大統領の跡を継ぐことにはなったけれど、たとえばハーヴァード大学のMBAへ進むなど、父とは違う道を歩もうと模索していた時期もある。ある種、父親への反発が働いた結果ではないかと、ドレイパー氏は指摘します。
それが証拠に、2003年3月、イラク戦争を始めた時期に関しては、「いや、僕は父には一切相談していない」と、先代ブッシュに助言を請うたことをきっぱりと否定したそうです。

ブッシュ大統領の心の複雑さは、この本の成り立ち自体にも表れているような気がします。著者ドレイパー氏のことは、ブッシュ大統領も知っているにも関わらず、実は、本のためのインタビューを承諾してもらうには、2年に渡る説得が必要だったそうです。当初、大統領は、「もし僕の本を出すんだったら、僕のスピーチライターにインタビューしてくれ」と、自身のインタビューを突っぱね続けたそうです。
そして、2年ねばった結果、ある日、本の主旨を説明する機会が与えられ、「じゃあ、1時間だけあげよう」ということになり、その1時間が、結局6回6時間のインタビューへと増えていったそうです。まあ、たった6時間の本人インタビューでは、なかなか詳細をつかむのは難しいわけではありますが、このブッシュ大統領の「秘密主義」にしても、言いたいことを言い、したいことをする政治姿勢とは裏腹に、慎重で複雑な人柄が表れているような気がします。
本人は、歴史上自分がどのように描かれるのか非常に気にしているようだと、ドレイパー氏も述べているところを見ると、豪快で無頓着なところと小心で神経質なところが微妙に入り乱れる、ある意味わかり難いお人のようでもあります。

だいたい、歴代の大統領なんてものは、大統領職を退いて何年か経つと、「あ~、あの人は素晴らしい人だった」と、いつの間にか変化してしまうのです。とくに、元大統領が他界したともなると、もう「あれほど素晴らしい大統領は、他には存在しなかった」くらいに、徹底的に美化されるわけですね。
たとえば、数年前に亡くなったロナルド・レーガン大統領がいい例となるでしょうか。ほじくり返してみると、彼には、汚点がたくさんあるのは確かなのですが、亡くなったときは、かなり美化されていたようではあります。

べつに死者を冒涜するわけではありませんが、彼の汚点とも言えるひとつに、大統領となった1981年に初症例が認められたAIDSへの対応があります。最初のうち、AIDSの本性がまったくわからず、国民は恐怖のどん底に陥れられていたわけですが、サンフランシスコを中心に死者がどんどん増えていっても、頼みのレーガン大統領は、沈黙のまま。何の対応もなし。数年後、ようやく口を開いたとき、彼のメッセージは、短くこうでした。
「AIDSを撲滅するためには、禁欲(abstinence)に努めるように。」
AIDS伝染初期の頃、感染者の多くが同性愛者や麻薬常習者だったこともあり、犠牲者に対し見て見ぬ振りをしたと、今でも批判的な人は北カリフォルニアにはたくさんいます。

一方、国際的な政策にしても、汚点とも言える失策があります。たとえば、1981年、中米ニカラグアにCIAの援助を差し向け、反民主化運動のゲリラを支援し、市民革命を泥沼化させたことが挙げられるでしょう。
1970年代、ニカラグアやグアテマラを始めとして、中米諸国では「社会の底辺である小作農に、もっと力を与えろ!」と民主化運動の嵐が吹き荒れていたのですが、1980年代に入り、CIAが軍事クーデターや反民主化組織を扇動したことで、結果的に、たくさんの農民たちが虐殺されてしまったのですね。アメリカは、CIAを通して、せっせと殺戮の手助けをしていたわけです。
こうやって見てみると、人気の高かったレーガン大統領といえども、決して歴史上最高の大統領ではなかったのです。けれども、彼が亡くなったときは、「レーガン大統領ほど、人とのコミュニケーションがうまい、素晴らしい大統領はいなかった」と、多くの人が涙を流したことでした。

まあ、そういった「歴史の美化」というものは世の常ではあるものの、ブッシュ大統領の場合は、いったいどうなるのでしょう。彼が亡くなったあと、「あ~、最高の大統領だった」と美化されることはあるのでしょうか?


<凄いバンパーステッカー>
先日、行きつけのコーヒー屋さんで物珍しいタンザニア産のコーヒー豆を買い、喜び勇んで車に戻る途中、駐車場でこんなものを目にしました。
銀色のホンダ・シビック・ハイブリッドモデルの後ろに、真新しいバンパーステッカーが貼ってあって、こんなことが書かれているのです。「(2001年の)同時多発テロは、内部の仕業(inside job)だった」と。

いやはや、同時テロから丸6年、今までこんな率直なメッセージを見たのは初めてだったので、「さすがに、学生を中心に若い世代が集まるコーヒー屋さんの界隈は、止まっている車が違うなあ」と、ちょっと驚いてしまったのでした。そして、それと同時に、事の真偽はともかくとしても、ようやく言いたいことが言える、自由なアメリカに戻りつつあるのかもしれないと、多少の喜びを感じたところです。

ブッシュ政権に変わって、早7年。もともと、なりふり構わず、やりたいことをやる大統領ではありましたが、国民の支持率は下がり、政権下の親しい人間は次々と去り、お仲間の共和党の国会議員や次期大統領候補者からも冷たい視線を向けられるうちに、貝のようになったブッシュ大統領は、以前にも増して、自分のやりたいことを意固地に繰り広げています。連邦議会が文句を言えば、イヤイヤと拒否権を発動すればいいし、自分のやりたいことが通らなければ、「頭が高い!」と大統領の行政命令を振りかざせばいいと、勝手気ままにやっています。

その結果、際限なく吊り上げられるイラク、アフガニスタンでの戦闘費用は、明らかに孫子の代への巨大な負の遺産となっています。国内でも、「テロ対策」を名目に、一般市民に向かってもスパイ活動の魔の手が伸びています。人々の人格すべてがデジタル化され、民間企業に管理されている今、どこの誰にどんなメールを出したとか、どこに旅行して何をしたとか、そんな市民の素行調査はわけもないことなのです。
「能無し政権」と現政権が嘲笑されるわりに、その実、日に日に状況は悪化しているような気がします。来年あたりには、国民の権利を守る憲法修正第4条(理不尽な捜索や押収の禁止)なんかは有名無実化している頃でしょうか。「溺れる者は藁をも掴む」ともいいますが、藁をも掴もうとする者ほど恐いものはないのかもしれません。

そんな中でも、言いたいことを言う人たちが出てきたということは、喜ばしい限りではあります。少し前まで、「イラク戦争に反対する者は、アメリカ人にあらず」みたいなプロパガンダが流れていて、それこそ、第二次世界大戦中のヨーロッパにおける反ユダヤ主義の洗脳の感がありました。けれども、大方の国民はその愚かさから目が覚め、ようやく軌道修正に努めているところなのかもしれません。

今から考えると、あのクリントン政権下の大騒ぎが心から懐かしいです。モニカがどうしたのと、皆がクリントン大統領の答弁のひと言ひと言に釘付けになっていた、あの頃が。あんなに「楽しい」問題だったら、歓迎すべきことなのかもしれませんね。なぜなら、問題が愉快であればあるほど、それは、国が平和である証拠だから。

あんな愉快な問題が起きる世の中に戻ってほしいなあと、切に願っているところです。

というわけで、お次は、ガラリと話が変わります。


<おまけのお話:それはないでしょ、スティーヴさん!>
ちょっとちょっと、アップルのスティーヴさん、それはないんじゃない?「iPhone(アイフォン)」発売のわずか2ヶ月で200ドル(約2万円)も下げるなんて。それじゃあ、 まるで、600ドルも払ったアップルファンがバカみたいじゃないですかぁ。

と思ったのは、世の中のほぼ全員の人でして、あまりの反響に、当のスティーヴ(ジョブス)さんは、「わかった、わかった、僕が悪うございました。だから、今までアイフォンを買った全員に、アップルショップのクーポンを100ドル分あげるよ」ということになりました。ま、現金でなく、お店のクーポンというところが心憎いですよね。

あの突然のアイフォンの値下げ(8GBモデルを599ドルから399ドルに、さらに4GBモデルを中止)に、大方の評は、目標である3ヶ月100万台に大きく届かないのではないかというものでした。しかし、そこは、スティーヴさん率いる大御所アップル。そんなことあるわけがありません。その数日後、涼しい顔で「アイフォン100万台をわずか74日でクリアした!」と発表したのです。

いやはや、これにはさすがに驚きました。だって、あの超人気「iPod(アイポッド)」だって、100万台突破には2年かかっていますからね。まさに、アップル熱、留まるところを知らずといった感じでしょうか。 アップルに触発された「スマートフォン」の分野は、BlackBerryのリサーチ・イン・モーションしかり、携帯端末世界シェア一位のノキアしかり、日に日に株価はどんどん上がっていきます。

なんでも、今、アラブ首長国連邦のデュバイに、iPodの形をしたビルが建っているそうですね。クレードルにささったiPodみたいに、タワーが6度傾いているんだとか!
ビルの名前は「iPad(アイパッド)」というそうですが、なんだか、それ、昔シリコンバレーの造語コンテストに出てましたよ。以前もご紹介したことがありますが(2005年12月号)、padには家という意味があって、造語コンテストの「iPad」は、アップル製品にすっかり占拠されてしまった居住空間という意味でした。デュバイのiPadは、きっと内から外からアップル製品に占拠されてしまうのでしょうね。

  2009年のiPad完成の暁には、iPhoneやiPodを持って、アップルファンがデュバイに集合!といったニュースが流れるのでしょうか。

アップルさん、やっぱりスティーヴさんが戻って来て良かったですね!


夏来 潤(なつき じゅん)

まったく迷惑な山火事です

先日、山火事のお話をいたしました。

我が家から直線距離20キロの場所で、大きな、大きな山火事が起きていると。

さっそく、その弊害が出てきましたよ。何って、お外に出られないんです。

詳しくはわかりませんが、山火事って、結構、体に悪い副産物を出すんですよね。
 まあ、「毒ガス」とは言わないまでも、有害な細かい塵(ちり)を、どんどん空に向かって吹き出す。すると、その汚れた空気を吸い込んで、呼吸器系が弱い人なんかだと、具合が悪くなる。


火事が起きて3日目の晩、涼しい夜風を入れようと窓を開けていたら、わたしも途端に喉がチカチカと痛くなってきて、頭痛がしてきました。急いで窓を閉めると、良くなるのです。
 だから、それ以来、窓も開けられないし、外にも出られない・・・車内の通気孔も閉めたまんま。

こういう空の細かい塵って、とっても小さくって、だから、喉や肺の奥深くに入り込んでしまうんだそうです。そして、喉が痛くなったり、喘息の人は息苦しくなったりする。

べつに、わたしは喘息持ちではありませんが、喉の弱いことにかけては、ちょっと自信(?)があるのです。
 3年ほど前、中国を旅行したとき、北京、西安、上海と足を伸ばしたのですが、最後の上海まで来るとさすがに喉をやられてしまって、その後、しっかりと風邪をひいたことがありました(中国の都市部は、どこも空気が汚いのですね)。

今回の火事も、そんな感じ。お喉にとっても悪い!そして、声はガラガラになってしまいました。

だって、こんなに空気がどんよりしているのですもの。

すぐ上の写真は、山火事3日目の写真です。

そして、こちらは、5日目。

だんだんと、悪い空気がシリコンバレーの谷間を充満しているのが、はっきりとわかりますよね。


昨日の4日目は、もっとひどかったですよ。太陽がまるっきり見えないくらいでしたから。

よりによって、この日は、山火事から一番近い街へ、主治医に会いに行かないといけませんでした。

南へ向かって、幹線道路フリーウェイ101号線を運転すると、空はこんなに鈍色(にびいろ)。

テレビ局の中継車も、その日の状況を報道しようと、南に向かっているのを見かけました。

主治医のオフィスがだんだんと近づいて来ると、フリーウェイの脇に電光掲示板が出てきました。
 「Fire Camp、Exit Next」などと書いてあります。「Fire Camp に行く人は、次の出口でフリーウェイを下りろ」という意味です。

この Fire Camp (火事の野営地)というのは、消防士さんたちの寝泊りする対策本部みたいなものですね。ここを根城として、それこそカリフォルニア中から集まった2千人ほどの消防士さんたちが、24時間体制で消火活動をしているんです。

おもしろいことに、火を消すには、火で対抗するらしいですよ。迎え撃つような形で、火が進んで来る所に、わざと火をつけるのだそうです。

それでも、燃えている火は、延々と30キロの長さまで連なっています。その火の前線を迎え撃つとなると、相当の労力が必要ですよね。

しかも、空は視界がとても悪いので、大量の消化剤を積んだジェット機は使えません。細々と水を運ぶ消火ヘリコプターだけが、消防士さんの助けとなります。

連日連夜の消火活動で、消防士さんたちも、そろそろ疲労がピークに達しているみたいです。防火服で蒸し暑いし、重い機材を身に付けているし、有毒ガスで目や喉は痛むだろうし・・・大変なお仕事なんですよね。(しかも、アメリカの場合、ボランティアの消防士さんがたくさんいるんですよ。)

出火して、今日で5日目。今までサンフランシスコ市くらいの面積が焼き尽くされたそうですが、完全に火を消し止めるまでには、少なくともあと10日はかかるそうです。


「泣きっ面に蜂」とは、まさにこういう事なのでしょうか。ご丁寧なことに、我が家の近くの山火事だけではなくて、300キロほど北東に離れた国有林でも、ほぼ同時刻に大きな山火事が起きているんですね。

そして、この山火事の煙が、サンフランシスコ・ベイエリア方面に風でどんどん流されて来ている!

だから、サンフランシスコ湾のまわりは、どこもかしこも、どんより(hazy)としている。

ま、我が家の場合は、きっと山火事のダブルパンチなんでしょうが、昨日はこんな感じでしたね。

ここに太陽がいるはずなのに、すっかり隠れている!


そんな昨日に続いて、今日も、えっちらおっちら主治医のオフィスに向かいました。(べつにどこも悪くありませんが、血の定期検査をするために。)

すると、ここだけ、頭の上には、ぽっかりと青空。

まだまだ真っ青とまではいかないけれど、ほっと一息ついてみたのでした。

なんだか久しぶりに、青い空を見たような気がします。

やっぱり、カリフォルニアは、青い空でなくっちゃね!

どうか、早く山火事が消し止められますように。

山火事だいっ!

「いやはや、今年は山火事の当たり年だね!」

と言いたくなるほど、今年は、ほんとに自然発火が多いです。

こちらは、昨日の午後、出火したばかりの山火事です。

我が家から、直線距離でわずか20キロ。サンノゼ市の南にある、ヘンリー・コウ州立公園で起きた山火事です。

昨日は、「レーバー・デー(Labor Day、勤労感謝の日)」という祝日。行く夏を惜しんで、みなで思う存分楽しむ一日。

そんな日の昼下がり、山歩きで賑わう州立公園の端っこから出火し、火はどんどん燃え広がって、木々や枯れ草を燃え尽くす。幸い、住宅地からは遠く離れていますが、山小屋も50軒くらい焼けたとか。


以前お話しましたが、カリフォルニアの草地は、とっても始末が悪いのです。草が地中で導火線のように繋がっていて、ひとたび発火しようものなら、すぐに辺りに引火する。

おまけに、今は、カラカラの乾季。草は枯れているし、空気も異常に乾いている。これに強風が加わろうものなら、暖炉に薪(まき)をくべるように、どんどん火は勢いを増すのです。そのスピードたるや、車でも追い越されるほどの速さだとか。

出火直後、辺りの街からは何十台も消防車が出て、消火ヘリコプターや飛行機もたくさん出たのに、昨日の夜の時点で、人間が消し止められたのは、ゼロ・パーセント。
(こういうのを、zero percent contained と言います。動詞の contain というのは、「抑える」という意味ですね。)

おまけに、今日は強風の日。モクモクと上がる煙は、こんなに風にたなびいています。これじゃ、火は燃え広がるばかりですよね。

「完全に消し止められるのに一週間はかかる」ってニュースでは言ってましたが、それもなんとなくうなずけます。


今年は、世界中で猛暑を記録し、干ばつの被害もたくさん出ていますよね。干ばつでない場所は、洪水や台風やハリケーン。

カリフォルニアは、去年ほど暑くはなかったけれど、冬にとにかく雨が少なかったので、とっても乾燥した夏となりました。

我が家の近くでも、自然発火による火事が二回もありました。

こちらは、二回目の火事。

結構、我が家にも近いし、住宅地にも迫る勢いだったので、ちょっと恐かったです。


以前、シリコンバレーの辺りは、自然にできた地中の貯水場があるから、水不足にはなり難いよと書きましたが、まるでそれをあざ笑うかのように、直後に、こんなお達しが出たのでした。水の使用量を、去年よりも10パーセント減らしてくださいと。

まあ、すぐに困るわけではないけれど、先のことを考えて、大切に使いましょうというメッセージだったのですね。

でも、アメリカって、芝生の庭の家が多いんですよね。これをきれいに緑に保つためには、毎日、毎日、かなりの量の水が必要なんですよ。だって、水が足りないと、すぐに茶色になって、みっともなくなる。すると、ご近所さんやら、自治会みたいな監督団体から文句を言われる。「街の景観が損なわれるから、ちゃんと手入れしろ」って。

だから、この辺は、夏はツートーン・カラーなんですね。そう、茶色の枯れ草と、青々とした芝生。

なんか変!どこか間違ってる・・・とくに、これだけ大きなお屋敷になると、相当量の水が必要でしょ!

でも、まわりが恐いから、我が家だって、小さな前庭の芝生にちゃんとスプリンクラーで水撒きしてますけどね。ま、猫の額40匹分くらいですけど。

それにしても、地球がこれからどんどん暑くなって、雨が降らなくなって、水がなくなったら、人間は生きていけなくなるでしょ。

う~ん、困ったこったぃ!

トルコ:この不思議の国へのこだわり

Vol. 97

トルコ:この不思議の国へのこだわり

そうなんです。7月の後半、トルコに行ってきました。そこで、今回は、久しぶりに旅行記にいたしましょうか。
まあ、ご存じの通り、旅行記といっても、観光地とはまったく関係のないお話ではありますが、わたしなりに抱いている、トルコに対するこだわりをご紹介いたしましょう。

<トルコの人々>
このトルコ旅行は、実は、一年以上前から計画していたものでした。どうしてトルコなのかというと、それは、昨年5月、エーゲ海のギリシャを旅したことに端を発しているのです。ギリシャから戻ったあと、「次は絶対にトルコに行きたい!」と、そう思ったのでした。

そのときにご紹介したギリシャ旅行記でも触れていますが、あのときは、首都アテネのあと、エーゲ海の島々をめぐりました。ミコノス島、サントリーニ島、そして、クレタ島。


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各々2泊ずつだったのですが、最後のクレタ島では番狂わせ。もともとサントリーニ島からの高速船が午後6時過ぎに到着するのですが、宿泊先のホテルは、港から1時間ちょっとの場所。その晩の夕食は、もう9時半でした。
おまけに、クレタ島から一気にパリに旅立つ日は、朝がとても早い。そんなこんなで、クレタ島にはわずか36時間の滞在となり、結局、アーサー・エヴァンス卿が発掘したクノッソス宮殿やら、イラクリオンにある考古学博物館やら、有名な観光スポットは、全部パスするはめになってしまいました。

しかし、島をよく知らないとなると、余計に印象が強く残るのです。とくに、ギリシャ正教徒がほとんどのギリシャにあって、カトリック教徒の多いミコノス島、サントリーニ島と旅して来ると、このクレタ島の一種独特な感じが、脳裏に焼き付くのです。
まず、人が違う。ミコノスやサントリーニは、いかにもギリシャの昔の陶器に出てきそうな、色白のヨーロッパ人といったイメージなのですが、クレタは、どちらかというと、中近東に近い。それに、英語がよく通じるふたつの島に比べ、クレタでは、英語をしゃべれる人がとても少ない。
そこで、自分で勝手に結論付けてみたのでした。クレタ島には、お隣のトルコ系の人が多いに違いないと。クレタは、エーゲ海の島々の中では、ずば抜けて大きい。スクーターで端から端まで20分のミコノスとは訳が違う。だから、この島が他国の領土のターゲットとなり、民族が入り乱れたのではないかと。
事実、歴史的に見ても、クレタ島にはトルコ支配の時代があるのですね。紀元前のミノア文明から始まり、アテネをも支配下に置いた強大なクレタは、その後、ミケナイ、ギリシャ、ローマに続き、アラブ王朝、ビザンティン帝国、ヴェネツィア、オスマン・トルコと、さまざまな異文化に治められていたのでした。

なるほど、だったら、トルコに行けば、クレタ島で見かけたような人々が住んでいるに違いない。単純な話ですが、それがトルコに行く動機となったのでした。
けれども、トルコは大きい。日本の2倍の国土です。だから、目的地はたったふたつ、イスタンブールとカッパドキアに絞りました。ご存じ、イスタンブールは、トルコ最大の都市。そして、カッパドキアは、「穴ぐら生活」で知られる遺跡群のあるところですね。(注:トルコ共和国の首都は、イスタンブールではなく、内陸部のアンカラです。)

サンフランシスコからドイツ経由でイスタンブールに着くと、暑いし、湿気がある。ここがちょっとカリフォルニアとは違います。北カリフォルニアは、摂氏40度を越えるほど暑くなることはありますが、夏はとくに湿気がなく、空気もカラカラと乾燥しています。朝に夕に、イスタンブールの港がぼうっと湿気で霞んでいるのが、ひどく印象に残ります。


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けれども、イスタンブールは、基本的に地中海性気候。それはカリフォルニアと同じことで、きれいに手入れされた街路樹が、見るもの見るものカリフォルニアで見かける植物だったことが、この遠い異文化の国にも親近感を抱かせます。
サルスベリ、夾竹桃、シカモア(プラタナス)、そして、名前はわかりませんが、風に吹かれるとチラチラと葉っぱが銀色に輝く木。太陽光線の強い地中海性気候には、サルスベリや夾竹桃の鮮やかな花の色は、とても似つかわしく感じます。

イスタンブールで最初に人を見かけたのは、空港から市内へ向かう車からでした。車は海沿いの眺めの良い道路を走ったのですが、海に向かっていたるところに芝生の公園が広がり、木曜という平日なのに、カップルや家族連れが涼しい夕刻の海風を楽しんでいます。
驚いたことに、多くのカップルが、公園で熱く抱き合っているのです! トルコは、イスラム教の国なのに、そんなことが許されているのでしょうか? なるほど、ここは、政教分離が厳しく法で定められている国です。日々のイスラムの戒律と、社会的に許される行為とは、かけ離れているのでしょうか。
よく見ると、こういった若いカップルは、その大部分が欧米のファッションです。ロングスカートに長いヴェールを身に付けた家族連れの夫人たちとは、いでたちが違います。どこに行っても、若い世代は自由に自己表現をしたい。そういうことなのでしょうか。

そんな自由奔放な、ヨーロッパ的なイメージを抱えて到着したイスタンブールですが、外資系の大型ホテルが集まる新市街と、宮殿やモスクなどの観光地の集中する旧市街とは、まるっきり違った印象を受けました。


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新市街では、モダンなオフィスビルやスーツを着込んだキャリアウーマンも見かけますが、旧市街は、いかにもイスラムの歴史に根ざした、伝統的な庶民の街といった印象なのです。建て込んだ土色の街並みに、ヴェールを身にまとう女性たち。そう、ここは、何百年も営みが変わらない、商いの街。
新旧ふたつの区域は橋でしっかりと繋がっているのに、そこには、タイムトンネルをくぐったような、年代のズレを感じます。

けれども、そんな「タイムトンネル」には関係なく、いたる所で、路上には水を売る少年たちの姿を見つけました。炎天下、忙しく行き交う車の間をすり抜け、ドライバーを相手に商売をする子供たち。危なっかしいけれど、彼らはもうベテランなのです。
もちろん、この時は、子供たちは夏休み。けれども、8年間のトルコの義務教育の中で、いつの間にかドロップアウトしてしまう子供も少なくないようです。とくに郡部にこの傾向が強いそうですが、やはり、学校に行かせるよりも、いち早く金を稼ぐ即戦力にしたいということなのでしょうか。

ところで、街歩きをしてわかりましたが、やはりトルコには、クレタ島で見かけたような感じの人々が住んでいました。この点では、大いに満足です。クレタとトルコは民族的に繋がりがあるという、自分の仮説は正しかったのかなと。
しかし、ここで、ひとつおもしろい発見をしたのでした。トルコとギリシャの間には、並々ならぬ確執がありそうだなと。現に、トルコ人の嫌いな国の筆頭は、ギリシャですから。

「トルコ人(Turks)」という名前が世界の桧舞台に登場したのは、西暦900年頃、中央アジアの放牧民の部族からセルジュクという名の族長が生まれ、アラブ人やペルシャ人の王朝を相手に力を付け始めたのが最初なのでしょうか。これが、後に、セルジュク・トルコ帝国、そして、オスマン・トルコ帝国へと発展し、1453年、エーゲ海を治めていたビザンティン帝国を滅ぼすことになります。


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オスマン・トルコが滅ぼしたビザンティン帝国(東ローマ帝国)というのは、首都はコンスタンティノープル(今のイスタンブール)に置かれ、公用語はギリシャ語、国の宗教はギリシャ正教という、古代ギリシャ文化のバリバリの継承者でした。
だから、イスタンブールは、セルジュクが現れる前は、まさにギリシャ系のビザンティン文化の中心地だったのですね。イスタンブールにあるアヤソフィア(聖ソフィア寺院)などは、ビザンティン様式の建築物として最も有名な寺院なのです(その後、アヤソフィアは、オスマン・トルコ支配下でイスラム教のモスクとなり、現在は祈りの場ではなく、美術館的な機能を果たす観光名所となっています)。

つまり、ごく単純な言い方をすると、トルコ人が奪うまで、トルコの西側は、ギリシャだった!

しかし、ギリシャ人にとっても、その後、トルコ人は嫌な相手となります。なぜなら、オスマン・トルコが、アジア・ヨーロッパ・アフリカ三大陸の地中海・黒海沿岸に広がる強大な国となってしまったから。
1830年、ギリシャが苦労して独立を勝ち取った相手は、このオスマン・トルコだったのですね。

トルコとギリシャは、もともとそんな歴史的な確執があるところに持ってきて、近代にも、ある出来事が起きたのですね。それは、人口交換(population exchange)。そう、トルコとギリシャが、互いの国民の一部を交換したのです。
時は、第一次世界大戦が終わった直後のトルコの大変革期。それまでのトルコは、オスマン・トルコの帝政を布いていましたが、第一次世界大戦後、イギリスを始めとする連合軍の占領下となります。そして、1923年、アタテュルク率いるトルコ革命で、連合軍やトルコの西半分を占拠していたギリシャ軍(!)を駆逐し、現在のトルコである「トルコ共和国」となります。
この建国の父であるアタテュルクが、列国と結んだローザンヌ条約をもとに、1924年、トルコとギリシャの間で人口交換が行われました。ギリシャで生まれ育ったトルコ人50万人と、トルコで生まれ育ったギリシャ人100万人が、泣く泣く「祖国」を捨てることになったのです。

 


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ギリシャから移り住んだトルコ人の多くは、クレタ島からやって来た人々でした。当時を知る人によると、船はエーゲ海の北から南へと小さな島々をまわり、最後にクレタ島で多くの人を拾うと、トルコの西海岸から南海岸へとさまざまな港町に寄港し、人々を降ろして行ったということです。エーゲ海を臨むトルコ西端のイズミールや、地中海に沿う南のアンタルヤ辺りにクレタ島からの移住者が多いのは、そういった理由だそうです。最後の寄港地であるメルシンでは、「船から降りないぞ!」と、抗議行動が起こったとも伝えられています。
ひとつの家族であっても、同じ船には乗れず、はぐれてしまった家族もいました。幸運にも再会を果たしたときには、互いにもうだいぶ年老いていた・・・
そして、船には乗らず、ギリシャに残った家族もいます。父は自分の兄の移り住んだ街を望み、母は自分の姉の行った街を望み、大喧嘩の末、お金が足りずに船には乗れなかった、そんな事を覚えている人もいます。

トルコ人であるにもかかわらず、ギリシャから来た人々は「移民」と呼ばれ、ギリシャに戻ったギリシャ人の家々に暮らし始めました。多くは、ギリシャに持つ土地や家を換金できなかったので、着の身着のままの状態でトルコにやって来たのです。
しかも、血はトルコ人なのに、トルコ語がわからない。1878年、クレタ島はギリシャの領土となりました。だから、それまで何世紀も使い続けたトルコ語を話すことは、許されなくなってしまった。引っ越した先のトルコの村々では、「ギリシャ人!」などと、軽蔑的な呼び名も付けられました。
そんな彼らは、「ギリシャ人」と呼ばれないために、涙ぐましい努力をしたようです。たとえば、ギリシャではエスカルゴを食べていましたが、そんな「奇妙な」食習慣を悟られないように、殻は即、土の中に埋め隠しました。そして、休日ともなると、真っ先にトルコの国旗を掲げ、愛国心のあることを皆に知らしめます。

歴史的に見ると、このような「人口交換」の現象は、トルコとギリシャ間に限ったことではありません。たとえば、ちょうど60年前にイギリスから独立した、インドとパキスタンがあります。
イギリスからの独立に際し、インドからは、イスラムの名の下にパキスタンが切り取られたのですが、この二国間には政治不安が生まれ、イスラム教徒はパキスタンへ、そうでない人はインドへと、1千万もの人が国境を越え移動しました。このとき、互いの移住先では暴動が起き、少なくとも百万人が命を落としたともいわれています。

トルコとギリシャの人口交換では、これほどの悲劇は起こらなかったようですが、どんな背景であるにせよ、異文化の地で新しい生活を築くのは、並大抵の事ではなかったでしょう。
長い年月を経て、「祖国」に残した家族に会いたいと思う反面、その祖国はすでに「異国」となり、身内は遠い「異邦人」となってしまった・・・

人の世とは、なんとも複雑なものではあります。

いやはや、それにしても、昨年クレタ島で抱いた単なる「仮説」が、思わぬ歴史の授業に発展したものでした。

追記:「人口交換」につきましては、7月22日付のSunday’s Zaman紙に掲載された、ユクセル・ハンチェルリ氏の著作紹介記事を参考にさせていただきました。「移民」家族の写真も、この記事に掲載されたものです。

それから、この「人口交換」では、トルコ人の帰還先として、西のイズミールや、南のアンタルヤ辺りが多いと書きましたが、これに関して、おもしろい事がありました。
イスタンブール滞在中の7月22日、国を挙げての総選挙にぶつかったのですが、結果は、ご存じの通り、与党の穏健イスラム政党「公正発展党(AKP)」の圧勝となりました。しかし、この晩の選挙速報を観ていると、イズミールやアンタルヤの辺りは、圧倒的に世俗派(反AKP)である「共和人民党(CHP)」が強いのです。トルコのほとんどの地域が、2対1(ときには3対1)の割合でAKPを支持しているのですが、これらの海岸地域では、2対1でCHPが支持されているのです。
想像するに、同じイスラム教の信者であっても、いろんな過去の経緯から、政治に対する考え方に大きな違いが出てきているのでしょう。

ちなみに、ここでは触れませんでしたが、トルコの南東部にはクルド人が多く住んでいて、イラク国境辺りでは、政治的に不安定な状態となっているようです。トルコ国民の2割はクルド人で、イラン、イラク、シリアとの国境付近に集中して住んでいます。
トルコという国は、現在の国割りで実に8カ国と国境を接しているので、「国境問題」もいろいろと複雑なようです。


<トルコの定年>
先のお話で、水売りの少年たちが出てきたところですが、トルコの人たちは、若いうちから働くのでしょうか?
もちろん、それは、各々の社会・経済的な条件によって大きく異なるわけではありますが、聞くところによると、トルコの定年は、52歳なんだそうです。国営のアクセサリー屋さんで出会った日本人女性が、「わたしもあと10年で立派に定年よ!」とおっしゃっていました。52歳とは、ずいぶん若いですよね。
けれども、昔はもっとすごくて、「20年勤続すれば定年」という定義だったそうです。16歳で働き始めた人は、36歳で定年だった!!

この国は、人口構成がピラミッド型に近い、若い人の多い国なのですね。だから、若い労働力がたくさんあって、みんな早くに「隠居」する。
昨今、トルコの出生率はどんどん下がって来ているそうですが、国民の半分は26歳以下。まだまだ若い国なのですね(ちなみに、日本は、国民の半分が43歳以下といったところでしょうか)。

追記:定年が早いとなると、老後は長いのかどうか気になりますよね。単に統計だけの話をすると、今のトルコの「出生時の平均余命」(俗に言う「平均寿命」)は、72歳です。ざっくり言って、日本よりも10年短いですね。
多分、トルコは、近年になって平均余命がずいぶんと伸びたのだと思いますが、数字を見る限り、とくに長寿の国ではないようです。


<偽絨毯(にせじゅうたん)の見分け方>


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イスタンブールのお次は、カッパドキアへ向かいました。トルコのど真ん中、中央アナトリア地方にあります。イスタンブールからカイセリ空港に向かって1時間ほど飛び、ここから車で1時間の後、ギョレメという街に到着です。
空港のあるカイセリは、何十万人も住む大きな工業都市ですが、ギョレメは、3千人くらいの小さな街なのです。観光で成り立つ、のんびりとした田舎町。

 


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イスタンブールが暑かった上に、こちらはもっと暑い。内陸部なので乾燥はしていますが、日中は40度を軽く越えています。ホテルの部屋は、千年も前に掘られた岩穴を快適な空間に仕上げたもので、バブルバス(泡風呂)はあるけれど、クーラーがない!
昔は、「穴ぐら生活」はひんやりとしていたようですが、地球温暖化の影響でしょうか、涼しい夜風を持ってしても、扇風機だけでは辛いです。

カッパドキア地方は、果実やヒマワリの種、ワインにするぶどう栽培といった農業や、羊などの牧畜が盛んなようですが、昔から陶器や織物も重要な産業だったようです。陶器はヒッタイトの頃からの4千年の歴史があるそうで、なんでも、ひと昔前までは、一人前の陶器職人にならなければ、お嫁さんをもらえなかったんだとか。そして、女性は、織物ができて初めて成人と認められた。なかなか結婚できないと、「棚の上に置かれた」人などと言われていたそうです。

 


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そんなカッパドキアでは、奇妙な岩々に掘られた遺跡群をめぐる観光ツアーの合間に、陶器屋さんや絨毯屋さんにも半強制的に連れて行かれました。まあ、観光客相手のツアーは、地元の産業を助ける上では、なくてはならないものなのでしょう。
陶器屋さんでは、生まれて初めて「ろくろ」を体験させてもらったあと、ワインのセットを購入しました。手の込んだ模様の陶器セットで、ここでしかお目にかかれないようなものなのですが、これから希望のサイズを製作するから、ふた月待ってねと言われました。お金はもう全額払ったのですが、ちゃんとアメリカに届くでしょうか?

 


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一方、国営の絨毯屋さんでは、さすがに何も買わなかったのですが、ここでは良い勉強をさせてもらいました。今まで絨毯といえば、ペルシャ絨毯と、中国で見た西安の絨毯くらいしか知らなかったのですが、どうしてどうして、トルコにも立派な絨毯が存在するのです。

まず、ひとくちに絨毯といっても、絹、綿、ウールと、材質に違いがあります。どれがいいかは、個々人の好みの問題ですね。そして、織り方もいろいろで、綿の縦糸に綿の織り、綿の縦糸にウールの織り、ウールの縦糸にウールの織り、そして、絹の縦糸に絹の織りと、いくつかのパターンがあるのです。綿の縦糸に絹の織り方はありません。なぜって、綿の縦糸が切れてしまうから。


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そう、絹糸は、蜘蛛の糸に次いで、世の中で一番強くて弾力のある材質といわれているのです。
その絹糸を蚕の繭(まゆ)から頂戴するには、こんなローテクな道具を使います。こちらは、中国伝来の絹取りの道具。いろいろ試したけれど、糸の端を見つけるには、これが一番いいんだそうです。
繭からきれいな絹糸をとるためには、カイコガを成虫にさせてはいけません。なぜって、繭の中から脱出するときに、糸が切れてしまうから。だから、かわいそうですが、熱湯でサナギのうちに殺してしまうことになります。

さて、糸を取ったら、次は染めです。染料には、自然のものと人工のものがありますが、天然の染料はウール


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にしか使いません。ウールの中にある脂質が天然染料と入れ替わることで、適度に色ムラのある、自然の風合いが出てくるわけですが、綿や絹は、染めにムラのない人工染料を使います。その方が、織ったときに、模様がはっきりしてくるのです。
天然染料としては、胡桃の殻(茶色)、玉ねぎの皮(黄色)、インディゴ(藍色)などがありますが、ウールによっては、染めずに使うものもあります。灰色、茶色、ベージュと、自然色のウールも、それなりにカラフルです(なんとなく、素朴なアンデス地方の毛織物のイメージですね)。

さあ、ここで織りとなるわけですが、トルコの織り方は、


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有名なペルシャ絨毯に比べて、結び目が多く、目が詰まっているのだそうです(と、自慢していました)。なんでも、ギネスブックに認定されている記録が、1センチメートル四方、28x28(784)という結び目の数なのですが、その実物を見せてもらうと、表からも裏からも、結び目が見えないのです。さしずめ、画素の多いデジタル写真といったところ。もうこうなると、織り手は虫眼鏡を使うのですが、小さな額のサイズなのに、製作には何年もかかり、お値段も数百万円となるそうな・・・
まあ、そこまで凝らなくても、一般的に、いい絨毯の定義は、きつくしまった目なのだそうです。目を多くするには、トントンと目をしめるときに、力強く叩く。だから、数は少ないですが、男性の織り手は、重宝される。刑務所で作った絨毯などは、近頃、いい値で売れるのだとか。
そして、上を歩けば歩くほど、目がきつくしまって上等になる。だから、できたての絨毯よりも、100年経った方が値打ちのあることもあるそうな!

 


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この国営の絨毯屋さんでは、それこそ伝統的なものから、この店オリジナルのものまで、さまざまな模様や色合いの作品を見せていただきました。(作品をひとつずつ広げてくれる、専門の国家公務員がいるんですよ!)
が、ここではひとつ、大事なアドヴァイスを授かりました。それは、偽物の見分け方。

一般的に、絨毯は、絹のものがお高くなるわけですが、だからこそ、ここで偽物が横行するわけです。綿でできているのに、絹のお値段で売られている偽物が。
いや、自分は、絹と綿の違いくらいはわかるとおっしゃるでしょう。第一、光沢が違う。実は、わたしもそう思っていました。けれども、それは違うのです。光沢もあって、180度ひっくり返すと色の濃淡が変わる、そんな絹の特色を持った綿の絨毯を見せてもらったのです!

それに対抗する自衛手段はこちら。まず、絨毯の厚さ。絹は薄く、綿は厚めになってきます。他の絹の絨毯よりも不自然に厚いようなら、ちょっと疑ったほうがいいでしょう。そして、お次は、爪で軽くこすってみる。表面にうっすらと繊維質が浮き出てきたら、これは綿です。絹だと、爪でこすっても、何も出ないそうです。

ま、絨毯といえば、普段あまり縁のない商品ではありますが、お買い求めになるときは、この国営絨毯屋さんのアドヴァイスをちょっと思い出してくださいませ。


<後記>
はっきり申し上げて、トルコが好きなのかそうでないのか、まるっきりわかりません。イスラムという異教徒の国でもありますし、都市部と郡部は人が違うような気もしますし、わたしにとって、トルコという国は、やはり「不思議の国」なのです。
最初にイスタンブールに足を踏み入れたとき、胸がキュンと締め付けられるような懐かしさを感じたのですが、あれが果たして何だったのか・・・それを知るためには、ぜひもう一度行ってみないといけないと思うのです。
やっぱり、この国は、いくつもの表情を持つ万華鏡。次回は、イスタンブールから西へ、東へ、南へと、いろいろと足を延ばしてみようと思います。

それから、このトルコ旅行につきましては、他にもエッセイを少々書いております。興味のある方は、こちらも合わせてご覧ください。


夏来 潤(なつき じゅん)

トルコの結婚式

前回、前々回と、このエッセイのコーナーでは、トルコのお話をいたしました。「不思議の国トルコ」のお話は、まだまだ続きます。

前々回、サンフランシスコからドイツ経由でイスタンブールに入ったあと、暑さと闘いながら、観光初日をなんとか切り抜けたお話をいたしました。

その日は、悪徳タクシーに出会い、大いに憤慨しながら、アメリカ資本のホテルへと逃げ帰ったわけですが、翌日は、ちょっとイスタンブール市街から逃げましょうということで、クルーズに出かけてみました。

すでにお話したように、イスタンブールは、エーゲ海からマルマラ海を通って、黒海へと抜ける「海の道」にありまして、貿易の観点からも、政治の観点からも、昔からとっても重要な港町だったわけですね。

今でも、貨物を積んだタンカーだとか、市民の足であるフェリーだとか、観光船だとか、それこそ、数えきれないくらいの船が忙しく海峡を行き来します。「よくぶつからないなぁ」と、見ていて感心するくらいの混雑度なのです。


わたしたちが乗った観光船は、イスタンブール旧市街の中心地あたりから出発し、ボスフォラス海峡という、黒海へ抜ける海の道をグルッとめぐります。

日中の暑さから逃れ、心地よい風を受けながら、海の上を走る。これは、なかなかの妙案なのです。

出航してすぐ、目の前には、新市街が広がります。そう、イスタンブールは、トプカプ宮殿やブルーモスクの集まる旧市街地と、比較的新しい新市街に分かれます。
 ほとんどの大型ホテルは、こちら側の新市街にあります。

見えている塔は、ガラタ塔。最初に建ったのは5、6世紀というから、昔からすごいものを建てていたものです。
 今は、展望台になっているので、高所恐怖症でない方は、360度の展望を思う存分楽しめるのです。

ちょっと行くと、新市街の急勾配の丘が、すぐそばに見えてきます。

「あ、うちのホテルの辺りだ!」と、まるで数年来ここに住んでいるかのように、親しみを感じてしまいました。


のんびりと行くクルーズ船からは、イスタンブール市内の喧騒(けんそう)とは、まったく違った風景を楽しめます。

なんといっても、建物が美しい。

まずは、ドルマバフチェ宮殿。後日この宮殿を訪ね、その豪華な内装を観賞させてもらいましたが、船から見る外観もまた、絢爛豪華のひとこと。

「これぞトルコ!」といった印象の、超技巧を施した建築様式なのです。

この宮殿は、もともと代々のスルタンが使っていたトプカプ宮殿が手狭だということで、新たに19世紀に建てられた宮殿です。

現在は、トルコ共和国政府の施設となり、重要なレセプションなんかに使われているそうです。それでも、もともとは宮殿なので、女性の館「ハレム」があるのが、何とも印象的ではあります。

(政府の建物ですので、ガイド付きツアーでないと中に入れませんが、トプカプ宮殿とは違った、ヨーロッパ文化の香りを楽しむことができるのです。)


さらに北へ進むと、じきに宮殿風の建物が見えてきます。

こちらは、チュラーン宮殿。19世紀後半にできた宮殿で、火災で焼失したあと修復され、今はホテルになっています。

そう、ここに泊まれるんです。チュラーンパラスホテルといって、トルコでは最高級のホテルと言っても過言ではないようです。なんでも、王族や国賓も泊まるスイートは、世界で5本の指に入るほどお高いとか!

海峡に面した絶好のロケーションを生かし、パラスホテルという名に恥じない美しさを誇ります。(スイートだけではなく、普通の部屋もあるようなので、ご安心を!)


さて、このボスフォラス海峡には、大きな橋がふたつかかっていて、ヨーロッパ大陸に属するイスタンブール(ヨーロッパサイド)と、アジア大陸に属するイスタンブール(アジアサイド)を便利に結んでいます。

橋は、市民の大事な足となっていて、船から見上げた限りでは、いつも交通渋滞のようでした。

橋のたもとには、イスラム教のモスク(ジャミィ)。街中いたるところに、ツンツンと立つモスクの尖塔を見つけます。

ここには、フェリーの発着所もあり、ボスフォラス海峡を右へ左へと、ヨーロッパ大陸とアジア大陸をしっかりと結んでいるようです。


どんどん行くと、ふたつめの橋のたもとに、要塞が見えてきます。なんとなく、ドイツ・ライン川から望む、丘の上の古城のイメージです。

ルメリ・ヒサールという名の要塞で、難攻不落と言われたコンスタンティノープル(今のイスタンブール)を攻略するために、オスマン・トルコ帝国のメフメット2世が、1452年に築いた要塞だそうです。

この海峡部分が要塞で封鎖されたため、武器や物資や兵士を輸送しようとした敵方ビザンティン(東ローマ帝国)軍は、ことごとく撃退されたといいます。そして、イスタンブールは、オスマン・トルコの手中に落ちる。

なるほど、ここに要塞を築いたメフメット2世は、かなりの戦略家だったわけですね。(それとも、誰か優秀な策士がいたのでしょうか?)


そんなトルコの歴史を垣間見ながら、お次は、トルコの人たちの生活へと目が移っていきます。なぜって、このボスフォラス海峡沿いには、高級住宅がたくさんあるから。

何もかもゆったりと造られ、イスタンブール旧市街の斜面に、しがみつくように建てられた住宅群とは、まったく違った印象です。

きっと道路には水売りの少年もいないだろうし、建物の前で内職をする女性のグループもいないのでしょう。

海が見える丘には、大きな邸宅が多い。これは、どの国にも当てはまることのようですね。

どことなく、ノルウェーの首都オスローを思い起こすようでもあるし、サンフランシスコからゴールデンゲート橋を渡った先のサウサリートのようでもあります。

そう、ここは、平均以上の人たちの住むところ。


さて、クルーズの旅を束の間楽しんだ夜は、先ほど船から眺めたチュラーンパラスホテルに出かけました。

トゥーラという名の、宮廷料理を食べさせるレストランがあるのです。

7時の予約でしたが、6時過ぎにはホテルに到着し、庭とホテルを散策してみます。いやはや、実際に歩いてみると、その美しさにまた感動してしまうのです。

ここは、海峡を望み、ゆったりと時間の流れる別世界。う~ん、一度、泊まってみたい!


7時からの営業に一番乗りしたわたしたちは、テラスにある一番いい席に通してもらいました。
 そして、それから2時間、宮廷料理とも創作料理とも言える、繊細なお味を堪能させていただいたのでした。(料理については、後日フォトギャラリーでご紹介いたしましょう。)

ここで、シェフの力作に特別な味覚を添えてくれたのが、真下で繰り広げられる結婚式。

暗くなってから厳かに始まった式典は、まるでわたしたちもお呼ばれしたみたいに、はっきりと見て取れるのです。

「99.8パーセントはイスラム教徒」と言われるこのトルコで、きっと彼らは、少数派のキリスト教徒だったのでしょう。カップルの装束も、壇上で繰り広げられる女性司祭の儀式も、まるっきり西洋風でした。

ちょっと普通と違うのは、壇上に着席するふたりが、その場で書類にサインし、そのあと、ふたりとも列席者に向かってスピーチしたところでしょうか。
(女性の方が主役みたいで、たくさんスピーチしていましたよ。)

けれども、なんといっても驚いたのが、その派手さ。

ふたりが座るひな壇の背後には、大きなカメラクレーンがニョキッ。何百人という列席者を、くまなくアップで撮影しています。まるで、映画の撮影みたい。

そして、式典が始まる前、大きな大理石の階段に花嫁が姿を見せると、フラワーアレンジメントに仕掛けられた花火が、ゴーッと一斉に燃え上がる。
 これがまた、日本の「ゴンドラにドライアイス」に負けないほど、目を引くのです。

それから、きわめつけは、海上にパンパンと打ち上げられる花火!

ちょうど隣の席に座っていたアメリカ人レディーが、「きのうここで見かけたファッションショーのモデルが、あそこにいるわぁ」と言っていたので、誰かしらセレブの結婚式かと思っていたんですよ。

でも、ちょっとおしゃべりしたホテルの担当者が、「いや、お金さえあれば、誰だってこんな結婚式挙げられるよ」と言っていたので、きっと一般の家庭の結婚式だったのでしょう。

それにしても、派手さにかけては、日本にも負けていませんね。

こちらのレストランは、お食事も雰囲気も(お値段も)最高のものではありましたが、本物の結婚式という凄いおまけが付いて、思い出に残る、格別な行事となったのでした。

今日は猫の日

あれ、うちって猫いたっけ?

今朝、そう思ってしまったのでした。

お隣の家を通り抜け、我が家の裏庭へと静かに歩いて来た猫。まだまだ若い猫ちゃんのようで、結構スリム。薄い茶色に白のまだらが、とても上品です。

我が家には、いろんな猫が訪ねて来るのですが、この猫ちゃんは新顔。きっと、最近この辺りに引っ越して来た家族のメンバーなんでしょう。


普段、猫ちゃんを見かけると、キッチンの窓を開け、追い払うんです。いえ、猫が嫌いというわけではなくって、せっかく庭に集まった野生の小鳥が逃げてしまうからなんです。

数えてみたことはありませんが、我が家のまわりには、それこそ何十種という鳥がいて、我が裏庭は、そういった鳥たちの休み場所になったりするのです。

こちらは、以前「春の動物たち」でご紹介した、カリフォルニア州の鳥「カリフォルニア・クウェール(うずら)」。
 春になって巣作りを始め、6月初旬、あちらこちらで雛(ひな)がかえったときのものです。

餌を探して、お母さんと一緒に、数羽の雛が一列に行進中。

そんな鳥たちを狙って、ときどき猫ちゃんが訪れるのですね。

あちらも、野生の本能を忘れてはいません。じ~っと小鳥を狙っているのが、遠くからでも見て取れます。


でも、今日の猫ちゃんは、いつもの訪問者とは違います。窓を開けても、まったく動じません。
 「あら、そこにいたの」とばかりに、ちらっとこちらに視線を向け、涼しい顔でゆっくりと庭を横切ります。

そして、庭の隅に座り込む。

小鳥がパッと近くの木に逃げ込んだので、きっとこれが猫ちゃんの目当てだったのでしょう。

小鳥がいなくなって、今度は、地べたを覗き込みます。何か虫でも這っているのでしょうか。

そのうち、腹ばいになって、何かを一生懸命に見つめてる。
 「これ、食べられるかなぁ?」とでも、思案しているのでしょうか。

我が家の虫といえば、たいていアリかカタツムリ。忙しく動き回る、アリさんの行進でも観察しているのでしょうか。


そんな観察に夢中の猫ちゃん、時折、空を見上げます。
 「今日は、なんだか曇っているなぁ」とでも言いたそうな顔。

そう、今日は、立秋。二十四節気のひとつで、夏が過ぎ、秋の気配を感じ始める頃とされていますね。

そういう「立秋」にふさわしく、近頃サンフランシスコ・ベイエリアは涼しいです。

朝のうちは海岸線に厚い霧がかかり、サンノゼのような内陸部でも、その切れ端が完全に晴れるまでに、かなり時間がかかります。午後近くになって、ようやく太陽が顔を覗かせるような感じ。

午前中、窓を開けていると、ひんやりとしたそよ風に、くしゃみをするくらい。

今週だけではありません。去年と打って変わって、今年この辺りは涼しいみたいです。7月中、例年の平均気温を上回ったのは、独立記念日の7月4日と、その翌日の2日間だけだったとか。

そんな不規則な気候に、植物はとっても敏感。庭の百日紅(さるすべり)も、今年はずいぶんと開花が遅れています。

一方、所変わって、中西部(Midwest)や南部(South)、東海岸(East Coast)は、今週、猛暑で大変だそうです。プールの営業時間を延ばしたり、高校のフットボールの練習は、急遽、屋内に移ったり。

四六時中活躍するエアコンや扇風機のおかげで、電力会社もさあ大変。もしかしたら、助っ人として、カリフォルニア辺りからも、電力を送っているのかもしれませんね。


そうそう、庭の猫ちゃんは、どうしたのでしょう。まるで、我が家の一員みたいな顔をしていた猫ちゃんは。

じっと不動の構えを見せていたのに、そのうち、座るのに飽きて、モゾモゾ動き始めます。

そして、気が付くと、いつの間にか、そっと退散していたのでした。

ちょっと残念だなと思いつつ、ふとキッチンの床に置かれた箱に目を移すと、なんと、ここにも猫ちゃんが!

あまり見かけない模様と思いきや、ワイン屋さんがリサイクルしてくれた、フランスの食前酒の箱。

うん、今日はきっと、猫ちゃんの日なんだ!

追記:猫ちゃんの好きな方は、たくさんいらっしゃると思うので、「猫を飼う」という表現は極力避けてみました。猫好きの方にとっては、猫ちゃんも立派な家族の一員ですからね。

他の州よりも何でも「先進的」とされるカリフォルニアでは、「ペットの飼い主(pet owner)」という表現を嫌う人もたくさんいるようです。
 サンフランシスコでは、公の場では「飼い主(owner)」という表現を禁止し、「仲間(companion)」といった表現を使う条例ができたとも耳にします。たしかに、友達と思っている相手に対し、「飼っている」という表現は使いたくないですものね。

日本では、ペットに向かって「ママのところにおいで~」と話しかけたりしますが、それは、アメリカでもまったく一緒です。“Come to Mommy!”とは、4本足の家族に向かって、当たり前の表現となっているのです。

トルコの踊り

前回のエッセイに引き続き、トルコのお話をいたしましょう。

イスタンブールのグランド・バザールに行ったとき、あることを思い出していました。

昔は、こう願っていたものでした。トルコに行ったら、24金のアクセサリーを買いたいなと。

そう、トルコといえば、純金の緻密な彫金。女性が喜ぶゴージャスな装身具で、名を馳せていたのですね。

でも、実際に行ってみると、今は24金ではなく、22金や18金が主流になっているし、第一、デザインが懲り過ぎている。わたし好みのシンプルなデザインなんて、ほとんどありません。

陳列ケースを一生懸命に覗き込んでみるけれど、なんとも、買う衝動が沸いて来ないのです。


というわけで、せっかくのグランド・バザールも、何も買わず仕舞いかなと思っていると、ふと、あるお店の前で足が止まってしまいました。

ここは、絵を売るお店。壁には、色とりどりの絵が飾られ、そのカラフルさが、ちょっと絵が好きな人なら誰でもどうぞと、誘っているように感じます。

大きな絵は高そうだし、手が出ないので、入り口のガラス棚のあたりを覗いていると、一枚の絵が、僕を買ってちょうだいよと目に飛び込んできました。

ごくシンプルに、サッと描き上げた一筆書きみたいな絵。トルコの民族衣装を着込んだ男性が、クルクルとまわりながら踊っている場面。

こんな踊りは見たこともないけれど、きっと、クルクル、クルクルってまわり続ける踊りなんだろうな。そんな風に簡単に想像できるくらい、とっても躍動感のある絵。

まあ、手描きとはいえ、観光客用に図柄はお決まりになっていて、ある意味、絵葉書みたいなものなのです。けれども、そんなことにはお構いなく、作家の筆の勢いに魅了されて、さっそく買ってしまったのでした。

(値切るのが上手な連れ合いが、20リラのところを18リラにしてしまいました。日本円で、1800円くらいでしょうか。おとなしそうな店員さんは、2枚買ってくれたら割り引くよと小さな声で言っていましたが、無理矢理、1枚で割り引かせてしまいました。ごめんなさい。)


数日後、イスタンブールをあとにして、トルコ内陸部のカッパドキアを訪れたとき、偶然にも、この踊りの正体を知ることとなりました。

ホテルに紹介された「トルコ芸能ショー」の最初を飾るのが、この踊りだったのです。

「踊り」と言っているけれど、実は、これは単なる踊りではなく、「祈り」なんですね。

名前は、Whirling Dervish 、つまり、グルグルまわるスーフィ教徒。

なんでも、スーフィ教(Sufi)というのは、13世紀のオスマン・トルコ時代に端を発する、イスラム教の一宗派なんだそうです。

「禁欲苦行派」とも言われるくらい、物質的な満足ではなく、精神性・霊性を高めるために、好んで苦行に甘んじた宗派だそうです。


そのスーフィ教徒の儀式(Sema)が、クルクルまわる踊り。あくまでも、敬虔な祈りであるため、芸能ショーであっても、写真撮影はご法度です(以下の写真は、観光客用にポーズしてくれたときのものです)。

ライトが落とされるやいなや、真っ黒な衣に身を包み、一堂、厳かに一列になって舞台へと進みます。体をすっぽり包む黒い衣は、この世への執着を表すのだそうです。彼らの墓を表してもいるとか。

皆、両腕を胸の前で組み合わせ、ゆっくりとした歩みで輪になり、三度円上を歩きます。ある場所に来ると、ひとりずつ何かに向かって深々とお辞儀をするのですが、何やら、神を表すものでも置いてあったのでしょうか。

ごあいさつが終わると、一堂、黒い衣を脱ぎ、白装束となります。黒い衣を脱ぐことは、この世への執着を捨てたことを意味し、白い長いスカートは、死者を包む白布であるとも言われます。

そして、楽器と歌の伴奏が聞こえてくると、クルクルと皆でまわり始めるのです。最初はゆっくりと、それから、だんだん速く。

胸の前で固く組まれた両腕は、そのうち頭の上に上げられていくのですが、よく見ると、右の掌は天に、左の掌は地に向けられています。
 もともとは、毛糸を紡ぐしぐさから来ているそうですが、右手で天からのエネルギーを受け、体を通して左手で地へ流しているのだとも言われます。軸となる左足は、決して地面から離れません。

ひとりだけ、黒い衣のまま、静かにたたずむ人(教主)がいるのですが、彼は太陽であり、まわりでクルクルまわる白装束は、太陽の周りをまわる惑星を表すのだそうです。

もしかすると、この儀式は、一見シンプルな形を取りながら、「森羅万象(しんらばんしょう、宇宙の一切のものごと)」をうまく表現しているのでしょうか。


違った歌を伴奏にして、3セット踊りを披露してくれたのですが、見ていて、決して飽きることはありません。

光源を落とした中、クルクルとまわる白いスカート。だんだんと、天に突き出されていく両腕。この世のものとは思えない、神秘的な光景。

いつまでも、いつまでも、踊りが続いてくれればいいなと、見る者を魅了してやまない、不思議な踊りなのです。

トルコに来たら、これだけは逃したくない。きっと、多くの人が、そう感じることでしょう。

思えば、グランド・バザールで見つけた一枚の絵が、出会いのきっかけでした。

一筆書きみたいな絵が、単なる絵画としての魅力を越え、文化伝承の担い手ともなった瞬間なのでした。

イスタンブールに悪徳タクシー出現!

ホテルのバスタブにお湯をためると、真っ茶色!

ふ~ん、この国はそんなものかと、そのまま黄色いバスソルトを入れ、お湯につかってみる。終わって見ると、タオルは見事なまでにオレンジ色に変色してる・・・

イスタンブールの朝は、そんな風に始まりました。

いえ、イスタンブールの水道水が茶色いわけではありません。単に、水道管がサビていただけの話です。
 ちょっと使わないと、すぐにサビる。そんなことは、ヨーロッパあたりでもよくあることだそうで、いくらか水を流せば、すぐに解決するのですね。


そうなんです。突然ですが、トルコに行ってきました。

イスタンブールは、トルコ最大の街。ここは、首都アンカラよりも大きな街で、大層な活気があります。

東西に広がるトルコの西の端に位置し、海の要所として栄えた街です。エーゲ海から黒海に抜ける途中にあって、ヨーロッパとアジアを結ぶ接点とも言われています。

コンスタンティノープルという、昔の名前を覚えていらっしゃる方も多いでしょう。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の都として、千年の歴史を刻んだ所なのですね。

イスタンブールという名になったのは、15世紀のオスマン・トルコ帝国の時代。イスタンブールとは、「永遠の都」という意味なんだそうです。


ドイツ経由でイスタンブールに到着し、まず驚いたのは、この街の大きさ。行ってみるまで、ここまで大きな街だとは思ってもみませんでした。

街には、見渡す限り、ビルの群れ。もともと栄えた旧市街を越え、湾を隔てた新市街にまで広がっています。
 そして、あちらこちらにイスラム教の壮大なモスクが建ち並び、ニョキニョキと尖塔が空に突き出しています。

おまけに、この暑さ。

摂氏35度は軽く越え、おまけに、湿気がムンムン。湿度は90パーセントを越えているそうな。乾季のカリフォルニアから来た人間には、この湿気はこたえます。

ホテルの部屋にも、こんなお手紙が置いてありました。なにせ今は記録的な暑さなので、日中、部屋のカーテンは閉めさせてもらいますよと。


そんな暑さの中でも、さっそく精力的に観光を決行します。

イスタンブールには名所が多く、見る場所は尽きないのです。まず、筆頭に挙げられるのが、トプカプ宮殿。

オスマン・トルコ帝国の宮殿で、代々スルタン(王)が住んだ場所です。
 今でも、当時の財宝が保管され、その一部は、観光客のためにずらっと陳列されています。

色とりどりの絹織物に、宝石をちりばめた玉座。世界各地から献上された財宝に、オスマン・トルコの勢力を感じます。

息を呑むような財宝もさることながら、宮殿の内外を飾る、複雑な文様の「イズニック・タイル」が美しいです。

植物がからまったようなデザインのイズニック・タイルを見ていると、あ~、遠くイスラムの国に来たものだと、実感するのです。


トプカプ宮殿のあとは、近くにあるブルー・モスクへ出向きます。

イスタンブールを代表する、美しいモスクです。

「ブルー」という愛称は、モスクの内壁を彩る青いイズニック・タイルから来ているそうです。

ブルーの装飾のあるドームはとても高く、内部の空間は巨大です。

お祈りのないときは、観光客も中に入ることを許されていますが、この巨大な空間が信者で埋め尽くされるなんて、きっと圧巻でしょうね。


ブルー・モスクの近くには、アヤソフィアというモスクもあります。ビザンティンの頃、キリスト教の「教会」として建てられた後、オスマン・トルコの時代に「モスク」となった大聖堂だそうです。

その、とてつもなく高いドームを持つ聖堂の造りと、内壁を埋め尽くすイスラムの文様に、教会とモスクのブレンドのおもしろさを楽しめます。

ここには、ビザンティン時代のモザイク画など、建築・美術史上貴重なものがたくさんあるそうですが、わたしにとっては、磨り減った大理石の床や、傷ついた手すりに、歴史の重みを感じさせられたのでした。

それほど大きな時空を越え、人々がここに通い続けたのか・・・と。


さて、イスタンブールといえば、やっぱり金銀財宝。緻密に細工が施された、金のアクセサリーや銀の食器は、グランド・バザールでお目にかかれるのです。

ここは、5千もの小さな店がひしめきあう巨大マーケット。15世紀に完成した天井付きのバザールには、ムンムンと熱気が漂っています。
 買う方も必死なら、売る方も必死。買うと決めたら、いくらか値切るのが礼儀のようなので、気後れしてはいけません。

迷路のようなグランド・バザール。日本人観光客と見ると、すぐに話しかけてくるのですが、立ち止まって話を聞いてみると、一生懸命に日本語を学ぼうとしている真面目な青年もいるようです。

でも、中には、女の子を誘う文句だけお勉強している輩(やから)もいるようで、女の子同士で歩く場合には、要注意ですね。


さて、そんな盛りだくさんの観光第一日目を終え、橋を渡って新市街にあるホテルへと戻る時間となりました。

そこで、イスタンブール大学の近くで、流しのタクシーを拾います。

ところが、これが間違いのもとでした。このタクシー運転手、とにかく、待つことが大嫌い。渋滞と見ると、たちどころに迂回路に挑戦するのです。

けれども、イスタンブールは、高低差のある迷路のような街。ひとつの丘から、もうひとつの丘へと、それこそジェットコースターに乗っている様な気分です。

しかも、この御仁、車が通れそうにない小路でも平気で突進していく。子供が歩いていようが、お構いなし。そして、露天商が並べる棚にドアミラーをひっかけては、大きな声で毒づく。


橋を渡って、少し離れた新市街に着いた頃には、こちらはちょいと疲れ気味。おまけに、この運転手、ここでいいかと離れた場所に車を止め、ホテルに横付けしてくれません。

メーターはと見ると、21リラ(2千円ほど)。え、行きの料金(12、3リラ)からすると、ちょっと高いんじゃないと思いながらも、連れ合いが20リラ札と1リラコインを差し出します。

すると、このおじさん、こういうしぐさをするのです。「違うよ、あんた1リラ札をくれたけど、20リラ札が必要なんだよ」と。ご丁寧なことに、手には1リラ札を掲げています。

そんなこと言われても、こちらは1リラ札など見たこともありません。「いや、ちゃんと20リラ払ったよ」と、連れ合いがピシャリと言い放ち、タクシーを降りました。横目で見ると、おじさん、バツが悪そうにニヤニヤ笑っています。

ホテルに横付けすると、不正ができないので、ちょっと離れた所に止める。メーターは、止める直前に細工し、値段を吊り上げる。そして、払った金額が違うと文句をつけ、倍の料金を払わせる。どうやら、これが、悪徳タクシーの常套手段のようですね。


世界のあちこちでタクシーに乗ったことはあるけれど、悪徳タクシーに出くわしたのは、生まれて初めて。でも、考えてみると、あちらもお金を稼ぐことに必死なのかもしれませんね。

観光第一日目にして、ちょっと嫌気が差したのは確かですが、そうやって自分を説得しながら、イスタンブールの残りの日々を過ごすことにしたのでした。

幸いなことに、それ以降、悪徳タクシーには一台もお目にかかりませんでした。

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